渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』12巻 感想「本物」への歩み
渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている12巻』
待望の新刊!
前巻からおよそ2年の歳月を経て刊行された。とても話題になった。
同時に作者から公の場で「次で完結」という旨も発表。13巻&14巻の同時発売という形であることは驚いたが、そういう意味で最終章において本書は「上巻」という位置付けということらしい。
とても面白かった。
満足度が大変高かった。ストライク過ぎた。
個人的に『俺ガイル』に抱いていた〝作劇場の都合〟についての疑問を作者が見事にキャッチアップして、物語として回転させた点が最も評価されるべき事だと思うが、それを最終章らしさ溢れるシリーズ全体の根っこの一つとしてある「雪ノ下家族問題」の落としどころ探りながら、作中の縮図として輪郭を浮かび上がらせるなど、キャラの感情を揺さぶる描写込みでの用意周到さが巧みすぎた。恐らく軌道修正だと思うが、着地点の見出し方として文句なしだろう。
ハッキリ言って「2年」でこれなら大満足です。
着手していなかった点について上手いこと氷解していくカタルシス、シリーズ全体で寝かせていた部分の起こし方が感動的だった。
他ジャンルの作家とは異なり、ラノベ作家はシリーズ作品の執筆に追われ易い性質なので「なに2年も待たせてんだ」ってなりやすいが、作者が真摯に作品と向き合った結果、作品の方向性や作風との乖離について悩んで筆を折ることもしばしば。それだけに難しい作業なので2年で続編が出て良かったと思う(私は氷川透を諦めていない!)。
ご存知の通り『俺ガイル』は7巻以降から物語としての空気が変わる。
6巻まで、つまりアニメでいえば1期までは、ニヒルな八幡の起こしたアンチヒーロー的行動(逆説的にハリボテなヒロイズムが浮き上がる構図)によって、誰かしらが傷付き、八幡自身さえも痛みを伴うものであったが、それに掛けたリスク以上の見返り、つまり大半が救われる=解決するという話。見方によっては6巻まではハードボイルドである。
しかし、八幡の優しさに誰かしらが気付き、歩み寄っていくことで、八幡は一人ぼっちを自負しながらも厳密には『孤独』ではなかった。シャレに孤高を気取りながらも、独りではなかった。
作中のキャラ、読者、視聴者は八幡のアクションに対して理解し、八幡の存在・人格を共有していくような流れであったから。
八幡は影のような存在なので、その存在感が大々的になることはない。そのため秘密めいた情報のシェアは人々に連帯感を芽生えさせる。
「私たちだけが八幡を分かっている」ように。
「……嘘ではないわ。だって、あなたのことなんて知らなかったもの」
(中略)
「……でも、今はあなたを知っている」
それでも決して友情のような綺麗なものまでに至らなくても、スクールカーストで最下層だった八幡の存在が認知されて、理解者が増えていくように、八幡を軸に人間模様が回転していく。
そこから前述の通り7巻を契機に、アニメで2期から物語の模様が変化したわけであるが。
この辺から文学チックな主題に嫌悪感を示す読者層も増えた記憶(物語としての重厚感も増しました)。字義通りのライトノベルとして疑問を投げかけるように。
ニヒルな八幡が詭弁を振りかざした際に、ストーリーの前半(6巻)まではユーモアに受け取れた構図が、シャレにならなくなるといいますか、後半以降には八幡の葛藤に理解が追い付かない穴にハマってしまった。
「なんで、こんなにこいつら面倒なの?」って思うほどに悩むキャラ達。その心情を以前はシェアしていた読者・視聴者たちは、愛くるしいキャラが遠くに行ってしまったような寂寥感もあったりしただろう。それは作中のキャラも同様に。
「俺は、本物が欲しい」
(中略)
こんな言葉で何がわかるのだろう。言ってもきっとわからない。なのに、言ってしまったのはそれこそ自己満足。あるいは、これこそ俺たちが忌み嫌った欺瞞なのかもしれない。どうしようもない贋作なのかもしれない。 『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている 9巻』比企谷八幡
八幡の感情が爆発したことで引き出された正真正銘の本音。特に話題になったセリフ。まさにキラーワードである。
『俺ガイル』後半の主題にあるボッチだった八幡を彩る人間関係における「本物」への欲求を、八幡という作中で最も捻くれた主人公が、不器用にどうしようもないほどにストレートに吐露したからこそ、このシーンは『俺ガイル』シリーズ全体のハイライトの一つとなり得たわけである。
「あなたの言う本物っていったい何?」
「それは……」
俺にもよくわかってはいない。そんなもの、今まで見たことがないし、手にしたことがない。だから、これがそうだと言えるものを俺は未だに知らないでいる。当然、他の人間がわかろうはずもない。なのに、そんなものを願っているのだ。 『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている 9巻』
「本物とは?」
「本物ってあるの?」
八幡が投げかけ求めた「本物」について、作中のキャラたちと同じように私たちも巻き込まれていった。
各々が人間関係に悩む。
家庭、職場、学校など。リアルでもネットでも。十人十色で線引きというのは勝手が違うものである。自身が想定したラインが、他人には許容できないことなんて多々ある。それぞれ違うのですから当然。
自分は自分。所詮、他人は他人。キッパリ諦めて壁を作るのも一つの道だが、漫画『銀の匙』において主人公のセリフの一つにこのようにある。
その過程において欠かせないのが対話である。だからこそ、コミュニケーション能力の有無が人間関係の形成に必要であり、持たざる者は排除されていく。その課題は、進学、就活、出世、結婚などライフステージの変化に付き纏うものだろう。
八幡は現在高校2年生。大学受験を控える身。さらに言えば、コミュニティとの離別の契機になりやすい卒業が近い未来に訪れることを示す。
別に高校を卒業しても、縁というのは続く。なかには卒業式以降会わずに今生の別れになる人もいるかもしれないが、自分が望めばある程度は維持されるものだと思う。今はSNSが活発ですから、コンタクトを取るのは容易だろう。
しかし、八幡は今までの人生においてそのような「執着・整理」をする以前の人間関係しか作れていなかった。だからこそ八幡はボッチを自称するわけであるが。
そして、奉仕部に入部したことで少なからず八幡の人生に入り組んでくる人たちが増えていった。関わってくる度合いの濃度が増していった。
八幡はある種の岐路に立っている。「本物」という問いを投げかけた意味とリスクと言っていいだろうか。
それが果たして残るものなのか?
続くものなのか?
決して嘘で塗り固められて消えてなくならないもの。その願いから「本物」を求めたとするならば…。
作中で八幡が欲した「本物」という言葉。
人間関係の具体化・リアリティ化を指した好例だと思う。
抽象的な線引き(友人と親友の違いなど)において、目的が明確とある効果的な言葉として「本物」をライン上に置くことで具体化を図ろうとしたものの、言葉の効果が反転するところが興味深い。
真偽や真贋の見極めの目安となるはずの「本物」という言葉の価値の基準のそもそもの不透明さ。その効果の持つ抽象性によって具体化を狙ったはずの目的が、曖昧模糊として抽象化されてしまったことこそが『俺ガイル』後半の難解さに繋がったのだと思える。
しかし、八幡の(引用部分)独白にあるように嘘や欺瞞が蔓延する関係性を「偽物」と表現するなら、「本物」という言葉の基準が明確となるだろう。
対照的に「偽物」ではないものだ。必ずしも「本物」だけを求めているからこその発言ではないと思う。「偽物」を拒絶することで、相対的に「本物」の基準が浮かび上がったのではないだろうか。
「偽物」から遠ざかるために逆説的に「本物」という言葉を使用することで、「本物」という抽象性が先行してしまった表現だと考えられる。それだけに強い欲求から発せられた言葉だと捉えることが出来ると思うわけで。
それこそ「偽物は要らない」と八幡が口にしたとする。
「偽物」と「本物」について禅問答のようになることは避けられず、曖昧な意味を掴むための技術や経験も八幡には持ち合わせていない。
俺にもよくわかってはいない。そんなもの、今まで見たことがないし、手にしたことがない。
だからこそ、よりダイレクトな表現を使うことで、コミュニケーションの〝重複となり得そうな部分〟を切り離したと考えるのはどうだろうか。
「偽物」から語るのではなく、直接的に相対的な「本物」を用いることで、自分が把握しきれずにいる特定の表現のシェアを図ることで、議論を通じて相互理解の歩み寄りを求めたと思う。
シンプルなワードを用いる効果の前提として共通理解の有無がある。相互に細部まで突き詰めているからこそ、共通認識として会話の〝ショートカット〟を図れるものである。そこに双方の認識のズレがあれば錯誤は避けられない。言語情報の限界の一端でもあるが、なおのこと双方向性のある歩み寄りが必要不可欠となる。それこそ「裸の付き合い」とも呼べるくらいの身を曝け出すことが求められ、多少の痛みが伴う。そういった前提から信頼は生じていくと考えると、調整のようなコミュニケーションは一時でも欠かせないものになっていく。
ただ、前述の通り、八幡はコミュ力に難を抱えている。彼の鬱屈とした人生への引き金とも言える。
決して鈍感というわけではありません。「気付いてしまう」から歩み寄れないタイプ。
勘違いをして負け続けてきた人間だからこそ、コミュニケーションに線を早く引いてしまう。ある程度、打席に立ったからこその連敗記録。打席にすらも立たずに、スタンドから不戦敗しか経験していない人間には出せない味わいともいえるだろうか。
既にそのパターンは一度味わっている。訓練されたぼっちは二度も同じ手に引っかかったりしない。(中略)百戦錬磨の強者なのだ。負けることに関しては俺が最強。 『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている 2巻』
その八幡が踏み出した一歩。これほどまでに無様で大きく、偉大なる一歩はないのではないでしょうか。だからこそ不格好な八幡に揺れ動かれてしまう。
補足として、アニメ2期のOPテーマは、やなぎなぎの『春擬き』において、歌詞の一部にこのようにある。
道を変えるのなら
今なんだ
こんなレプリカは いらない
本物と呼べるものだけでいい
探しに行くんだ そこへ
「でもそれは 良く出来たフェアリー・テイルみたい」
物語の転機をそのまま歌詞に落とし込んだ素晴らしい主題歌だと思う。
しかし、「それは良く出来たお伽話みたい」と綴られているように、そこまで願っても「果たして存在するものなのでしょうか?」と疑問を投げかけて、物語の御都合に釘を刺している。
歌手のやなぎなぎは原作のエッセンスを丁寧に掬い上げ、それを歌詞として表現した。原作への愛を感じるのと同時に歌うことで作品への「批評性」という面でも成功していると私は思う。なので、非常にアーティスティックなタイアップの好例ではないだろうか。
その八幡が曝け出した意味が多少なりとも落ち着き、理解が進む先にはあるものは…?
厄介なことに「男女の恋愛・友情問題」も孕んでいるので、妥協点を探った結果、彼らの関係性を彩る予定調和=嘘=「偽物」という図式は免れない。八幡の願うものと彼女らが願うものには多少の乖離が生じていくことだろう。
それらを丸々表現化するのって、とても難儀だと思う。
そして、物語の展開的には避けられないところまで来ている。
内面と外面のむすびつきのたががはずれているのが人間である。
野村雅一『身ぶりとしぐさの人類学』
哲学者の鷲田清一は、上の文について「(中略)人の感情とふるまいは直結していない。他人と同じ空間にいるとすぐさま同調や反駁が生じ、顔をつくろったり声色を整えたりしている。(以下略)」と文章を添えた。
そのような他人との空間における関係性の危うさに気付き、必要以上に配慮しながら、線を引き、自分の気持ちに嘘を重ねることは、八幡の忌み嫌った「偽物」でしかないだろう。
到底、「本物」になり得ない関係性である。
その傷を隠しながら、舐め合いながら続けていくことを選びかけている八幡たちの予定調和を雪ノ下陽乃が切り捨てた。
今までの流れを汲み、作中であのシーン、あのセリフを吐かせるために設けられたキャラだったのではないかと受け取れるほどに、雪ノ下陽乃というギミックが容赦ないまでに効いている。彼女以上の適任者が居ないという意味で。
気付きながらも気付こうとしなかった人。
そして、気付いてしまったのが12巻。もう止まらない。
八幡たちは意思の共有を図り、感情を通わせ、お互いを尊重するような関係性を築きました。顔色を窺いながらも同調した互恵関係を。
感情を吐露した結果、生まれた歩み寄りに安心していたのは紛れもなく八幡自身だろう。だからこそ、安堵してブレーキを掛けて停滞状態を招いた。ある程度を察しながらも。
12巻は「前進」を表現している。八幡の大きな一歩が描かれている。
そして、作者である渡航の苦心惨憺しながらも作品を推し進める想いが結晶化されている。まさに生みの苦しみと向き合った2年を具象化したような内容なので、それを作中の縮図として浮かび上がらせたのは拍手もの。
感動するしかないだろう。
排他的な空気が帯びる中、常に斜め上?下?な判断で傷付きながらも事態を収束させることに奔走してきた八幡に、自身が有耶無耶にしていた適当な都合と義務的要素の真意を突き付けられ、それらが無くなった際に選択を委ねられた八幡は如何に…展開は熱かった。
シェイクスピア『終わりよければ全てよし』
プロセスがかったるくてもフィニッシュが決まっていれば、大概は好印象のまま記憶に残る。そんなもんだ。
物語がドライブしていって怒涛のクライマックス!みたいなのを勿論望んでいるが、ラストが尻すぼみ・肩透かしであったとしても、12巻の〝意義〟を考慮すると『俺ガイル』を読んできて良かったと思ってしまうくらいに、私は満足してしまった。
※以下の記事は補論として12巻をより一つ分析したものである。
これは総論(2020年1月16日公開)
初めまして!フトボル男が引っ越ししました
突然のスポナビブログのサービス終了宣言。スポーツブログ界隈に激震が走りました。1999年のノストラダムスの大予言級に世間が揺れました。
慌ただしくブログをはてな様に移行しましたが、「このご時世にブログを続けるのはどうなのか?」という疑問も芽生えるのと同時に「ツイッターで良いじゃん」という裡なる声も聞こえたり聞こえなかったり。
でも、ツイッターでは足りないのですよね。書きたいことが。そうなんです。書きたいから書く!それでいいじゃないか。
【挨拶】
本ブログは管理人の政夫(@glasses505)が、スポナビブログ時代の「フトボル男」に引き続き、サッカーの戦術分析、フットサルについての記事をメインに書いていきます。スポナビはスポーツ特化型ブログの仕様なので、スポーツ以外の記事が書けないという制約がありました。
そういうことなので、新たなスタートを切ることになった「フトボル男」は、サッカー、フットサル以外にも、大好きなミステリを主食とする本や音楽についても触れていこうと思っています。
私のブログ遍歴の原点は高校生時代まで遡ります。高校生の頃にアメブロ様で映画ブログを始めたのが出発点となっています。今思えば高校時代が映画館に行く回数を含めて映画鑑賞数のピークだったので、それを吐き出す場所が欲しかったためです。高校時代の友人の中にも映画好きは居まして、『羊たちの沈黙』や『ファイト・クラブ』、『エアフォースワン』、『アンタッチャブル』などについて語り明かした素晴らしき思い出がありましたが、外(ネット)の世界に興味があったから、手を伸ばしてみました。
続いて大学生時代にはFC2様にて書評ブログを。ミステリを始めとする本を色々と紹介していました。この時代が一番ブロガーさんたちとの付き合いが濃かった気がします。それだけに色々とネット上の付き合いを学んだような気がします。この時に交流した人の影響が、今の作品観に繋がっています。
そして、FC2様でリーガ・エスパニョーラの現地情報ブログ「Nos gusta la liga」を開設していましたが、現地メディアの情報を翻訳するよりも、自身で発信したい欲が湧き出てから試合分析中心ブログ「フトボル男」と改めてスポナビ様に引っ越して、現在に至ります。
以上の経験をごちゃ混ぜ!目的にしたのが、本ブログです。なので、自由度は高いですが、その分散らかっているかもしれません。生暖かい目で見守っていただけると幸いです。
簡単にこれから触れていく題材と私について書きます。どんなごちゃ混ぜブログになるか分かりませんが、新しい「フトボル男」をよろしくお願いします。
【簡単にサッカー・フットサル、読書、音楽について】
サッカー・フットサル
好きなチームはビジャレアルです。ペジェグリーニ政権時代から愛着があります。今もリーガ・エスパニョーラを中心に観戦しています。色んなリーグに浮気をしても、結局戻ってきてしまいます。飽き易い私にとっては魔性のリーグです。
海外サッカーの見始めは、フェイエノールトとチェルシーでしたが、現在も継続している点でリーガは特別です。恋人の1人です。
好きなポジションはSHとSBですが、これは選手時代に自分がプレーしていた経験から目が行きがちなので。けれど、現在気になっている選手はマンチェスター・シティのガブリエル・ジェズス。
ボーンマス対マンチェスター・シティ どうする?ペップ、532に433をぶつけて - フトボル男
個人的なサッカー観戦についての想いを吐露した記事がありますので、よろしければどうぞ。この時は沼に沈んでいましたが、予想以上の沢山の反響・感想から自分の本音は別に変じゃないってことに気付かされました。今まで記事を書いてきて「面白い」や共感の声を頂くことはありましたが、「泣いた」とか感情にダイレクトに響く文章を自分が書けるとは露も知らず。そういう意味では可能性が開かれた記事の一つ。
ただ、私を知っている人からすると違和感のある記事らしいです。感情を初めて持ったロボットと揶揄されたりしました。これほど自分らしさ溢れる記事は無いと思うのだけど。
また、今年からフットサル観戦にハマりました。毎週のように行われるAbemaTVでのFリーグ中継を楽しみに生きています。気になっているチームは、府中アスレティックとフウガドールすみだ。気になっている選手ならば、諸江剣語と清水和也です。
スペインのフットサルだと、エルポソのミゲリンとバルサのディエゴ、フェラオが好みです。
フットサルは、Youtubeでプレー集が殆ど無いのが残念。フットサル観戦はめちゃくちゃ面白いので是非。
読書
小学生時代は活字アレルギーだった私。夏休みの読書感想文は大嫌いでした。そんな私に転機が訪れました。中学の仕来りでもある朝読書(その時の愛読書は赤川次郎の三毛猫ホームズ・シリーズと吉川英治『三国志』)によって徐々にアレルギー体質が改善されていき、高校時代からは年間100冊以上を目標に乱読するのが習慣となっていました。それが20代からは年間200冊、300冊以上が当たり前になってきて、本の置き場所に困っている日々を送っています。本棚はもはや機能不全。机に難攻不落の山が築かれています。どれだけ読んでも積読の山は減らず、1冊読めば5冊増えるブックオ〇マジック。醒めない夢を見ているように積み本が増えていきます。一生読み終わりません。ブログを書いている時間あるなら本を読め!ということなんでしょうけどね。寺山修司の著作に『書を捨てよ、町へ出よう』がありますが、書を持ちながら町に出るので勘弁という気持ちです。
好きな作家は 殊能将之、アントニイ・バークリー、マイケル・イネス、ヘレン・マクロイ。千鳥のノブが言わなくても「癖が強い」のは承知していますので。主食はミステリですが、新書やエッセイも読んだり。
漫画も読みます。頻度は小説に比べると圧倒的に少ないですが、漫画オタクの友人から勧められた本はチェックする程度。その流れでいえば、沙村広明の『波よ聞いてくれ』がスマッシュヒットしました。
一番好きな漫画は『ヒカルの碁』。囲碁ブームには乗っかっていません(笑)今思えばあの時に囲碁をやっていれば今頃は碁聖だったかも…と夢を見ることはまだあります。
音楽
90年代~2000年代の洋楽ロックを愛しています。グランジ、ブリットポップ、ガレージロック・リバイバルをメインに。また70年代も。
初めて買ったCDはRIP SLYMEの『黄昏サラウンド』、初の中古CDは林原めぐみ『Over Soul』
小学生時代はBUMP OF CHICKENの『jupiter』直撃世代でした。サッカーの試合に行く際の車中は大体『天体観測』と『ダイヤモンド』が流れていました。プロがロッカールームで音楽を掛けてモチベーションを上げる策を当時の私たちは既にやっていたのです。試合はウソのようにボロ負けしましたが――
そこから中学生時代はORANGE RANGEや宇多田ヒカルの波動をモロに受けつつ、RIP SLYMEを聴きながら、それ以降は洋楽へと移行。そして、Nirvanaの『IN UTERO』にぶっ飛ばされたわけです。『Nevermind』のジャケにも衝撃を受けましたけども。どっちも名盤ですが、前者ですかね。
The Libertines 、Oasis、KASABIAN、Arctic Monkeys、Radiohead、MUSE、Razorlight、The Music、The Verveなどを中心に色々と漁りました。そうやってUKロックで固まって高校~大学時代を過ごしたので、2010年代にはとても弱いのが本音。永遠に70年代とかを漁るのも悪くないな…と思う反面、最先端から遠ざかる不安もあったり。昨年末くらいから危機感が肥大化したので、注目のバンドを探しています。最近でいうとThe Lemon Twigsは衝撃でした。才能のあるべき姿といいますか。
そして、現在気になっているのはArcade Fireと欅坂46。マジで。
可能性でもある、平手不在のグループを提示するタイミング。そこでアイドル的な楽曲をチョイスなんて!間違いなく踊らされている。欅坂=センター平手の図式を一般的には保ちつつ、グループが小さく纏まらないように派生的に企画化。固有の欅坂らしさとは何なのか?改めて突き付けられる命題になりそう
— 政夫 (@glasses505) 2017年10月22日
フットサルの魅力と難しさって繋がっている説
フットサルの魅力とは?
個人的には「ディティールの細かさ」に尽きます。全体を俯瞰で捉えながらも、細部にもフォーカスを絞るような複雑さ。口で言うのは簡単ですが、この両立って複雑すぎて難しいものです。まるで矛盾を孕んだかのような両面性が、コインの裏表のように対になりながらも、全てが繋がっている地脈の広大さ。マクロ的にもミクロ的にも掘れる素材として、フットサルは魅力が詰まっています。
バスケの田臥勇太が、バスケの楽しさについて訊かれた際に「ボールがバスケットに入る瞬間ですね。あの瞬間に至るまでにオフェンス、ディフェンスともに一連のプレーがあって、それこそディティールから積み重なった部分や準備(田臥はバッシュを履くのに10分ほど費やすルーティンがある。これは足とシューズの完璧なポジションを確認するためで、準備から万全にすることで怪我予防に繋がっていると)があって、それらがあのシーンに集約されている」と答えたのが印象的でしたが、フットサルも似通った面があると思います。どのスポーツもルーティンワークから始まるディティールの追求はあります。プロと呼ばれる方々の細かさは、それこそ想像以上でしょう。フットサルは、コートが狭く常に人に付かれているような状況が続きます。キッチリしたマンツーマン状態ではなくても、ほぼそれに近いシチュエーションが絶え間なく続きます。その中で如何にボールを前に運び、シュートに繋げるか。しっかりと日々のトレーニングから仕込まれていないと、たちまちプレスの餌食になってしまいますし、ボールの前進の基準点も設けられません。それを細部まで構築して実践に移す。その細かさはフットサルの魅力の一つだと思います。
まさにオタク・マニアには堪らないスポーツではないでしょうか。誤解しないで欲しいのが、そういったマイノリティ性で排他的に誘導しようという意図はありません。
例えばコーディネーション面だったり、アラがサイドでの対面DFのステップ、リズムを見極めながら抉り込むシーンも「単純に縦に抜けた」と評される部分ですが、ボールの置き方、ステップワーク、他のFPの動き(オフェンス・ディフェンス含めて)が細部に宿っているもので、一つずつの要素を抽出すればするほど潜れるだけの膨大な情報量があり、加えて俯瞰的な観察も必要です。
「前プレ」シーンでも、ラインの位置設定、マンツーマンDFとしての要素だけを抽出するのは簡単ですが、果たしてそれだけなのでしょうか?という疑問もあります。フットサル中継の解説を聞いていても、被前プレの攻撃側の視点が薄れているような気もします。「前プレ」だけに焦点を絞るのみで「プレス破壊」の要素が欲しくなります。ボール前進の仕込みというか仕組みの話。それには両局面での視点を持ち続ける必要があるので、それはとても大変なことです。
一つ一つのプレーに意味を持たせると、ある種のカオスが生まれます。デザインなのか偶発的プレーなのかの見極めが困難になるからです。
細かくて難しいから、プレー分析も大変です。オープニングにおけるシステム表記からシステム論といったものが流動的で解釈する意味を突きつけられたりします。それらが乱立するというかカオスの状態に陥る原因だと思います。俯瞰で捉える中で、システム表記は共通言語になりやすいからです。しかし、フットサルは物凄く流動的です。その解釈が適切なのかも視点によって変わります。前述のように細部を覗けば覗くほど、全てに意味を持たせることもできます。その成否はともかくとして、後付けの論理になりやすいのは避けられません。
これだけ複雑だと難しくなります。それを簡単に伝えるのはもっと難しいものです。文章だけでの伝達能力としての限界も感じます。そこから、選手や監督のインタビューから各々が紐解くみたいな感じになります。書き手としては、それだけでは淡白な記事になってしまうのでドラマを乗せて物語としても読めるようにアレンジして発信するのがベターとなっています。でも、シーズン中なので正直に語れない部分もありますので、読み手は仮説を立てるしかありません。そこのスクラップ&ビルドの繰り返しになりますが、でも答えは?となります。分からないまま暗中模索を続けることになります。長いシーズンで、チームは問題点を突き付けられて改善を求められます。その改善へのプロセス、具体的な事象へのアンサーは、私のような新規層に明快になるものかな?と思ったりします。それを漁っていくものとして動画解説があります。フットサルは動画解説と相性が良いです。誰かしらが一つの指針を示すことが必要で、在原正明さんや村松裕樹さんなどがツイッターで発信しています。興味ある人は是非。
日本代表戦を経てサッカーの戦術論の需要が話題になりました。
VICTORYといった素晴らしいメディアからの供給があってこその議論だと思いますが、潜在的に興味を持っている人はいることが多少なりとも可視化されたようです。需要と供給の話ですが、戦術を知ることは「何でこうなったのか?」という疑問を解消してくれる助けになるものですから。
個人的には、フットサルもそういう記事が読みたいです。どうしてもFリーグの集客ばかりに目が行きます。試合だけのコンテンツ力の限界というか、それ以外の重要性への提言といった具合に。そんな風なことを以前書いた私が言うのもアレですが、私のような新規層だけではなく、マニアにはマニア用のものがあって良いと思います。勿論、新規からマニアへの入り口も兼ねたようなものです。ビジネスだから新規の取り込みは大事です。でも、今のファンがより満足できるような環境も大事だと思います。そういう意味では、フットサル関連の公的な雑誌ってフットサルナビしかありません。それ以外はネットから拾うしか無いです。それでも情報が不足しているような気がします。
これってフットサルがマイナースポーツという側面が働いている一方で、複雑なスポーツ性が関わっていると思います。
個人的にはシュライカー大阪の不振について濃密に書かれている記事が読みたいなと。昨季との違いとか。「相手が対応してきた」と書かれても「どんな風に対応されているのか」が抜け陥り易いものです。
でも、それを表現するのは難しいものです。文脈を掴む話になります。けれどデザイン性の文脈なの?偶発的エラーじゃないの?って。それらを含めたマッチアップの質的優位とポジション的優位が一瞬発生するシーンだけではなく、枠としての話も必要になります。
シュライカー大阪の木暮監督が、チョンブリ戦を自ら解説した時に「チョンブリのゾーンDFからのカウンターは鋭い。相手のゾーンDFの崩し方は慣れているが、マンツーマンDFにはあまり慣れていないと思って、前プレからショートカウンターを仕掛けて先制することでカウンターを封じたい」
この明快な受け答えは痺れました。
相手チームスタイルを観察して、自軍の戦略にフィードバックした作業をシンプルに言語化。これを単純に「シュライカー大阪は前プレから入った」だけで良いのかという話です。とても勿体無い気がします。でも、これって私のような新規層だけで掘れるものではないと思います。そのためには解説としての情報が必要不可欠です。
しかし、大きな満足感があるとは言い難いのが現状です。
Fリーグの中継に度々発信される選手に関する薀蓄。選手に興味を持って貰うことは大事ですが、試合観戦中は試合にフォーカスして欲しいのが個人的な意見です。試合以外の場でその情報にアクセスする層が果たしてどれだけいるのかという話になるので、最も人が集まる試合中に挿むしかないのも分かりますが。
結局、試合が面白ければ良いと思います。選手から入る人もいるでしょうし、試合から選手に入る人もいるでしょう。それって単純化できないものですが、試合の見方への提示が甘い部分をトリビアで埋めるようなものではないでしょうか。試合以外のことについて語ることで緩さを演出するものの、試合の解説が曖昧になるのは本末転倒だと思ってしまいます。ただ、それだけ試合の見方を提供するのが難しいということでしょう。そういうのを期待して観ている層にとっては肩透かしの部分もあります。特に私のような新規層には「フットサル沼」に骨の髄まで浸かりたい環境作りのための情報が欲しいのです。だから、試合解説以外での情報のアクセスが必要になりますが、それを養うような記事の供給が少ないのです。そして、上記のように文章だけの限界、フットサルの複雑性が繋がってきます。
そこで動画解説ですが、個人レベルだけではなく、動画解説の公的なメディアという場が求められますが、果たしてどれだけの人間がアクセスするのかという問題を孕んでいます。文章よりも動画は明快です。しかし、文章では読み手のスピードに委ねられますが、動画の場合は固定の時間を取ります。
これだけ消費が高速化している社会です。音楽にしても、MUSEのベーシストのクリス・ウォルステンホルムが
「>業界は、僕らが始めたころ、間違いなく、僕らが1stをリリースしたときとは劇的に変わった。さらにこの5、6年でストリーミングが主流となり、音楽の聴き方に影響を与えている。僕らが若いときとは違い、人々はアルバム全体を聴くことに情熱を持たなくなった。業界や音楽を聴くプラットフォームは、個々の曲を聴き、独自のプレイリストを作るっていう人々の欲求に応じているように見える」
とコメントしていました。アーティストが制作したアルバムよりも、聴き手のオリジナルティ満載なベストアルバム的なキラーチューンだらけに囲まれる状態を作るのが理想となっています。アルバム全体を味わうよりも「ハマらない曲」を端折るように、音楽の聴き方でさえ高速化しているくらいです。
動画解説の多少の時間でさえも焦れる人はいるでしょう。試合外の(試合観戦に直結していきますが)戦術的コンテンツをリサーチする人はどれだけいるのでしょうか。それならば、共通の固定の時間というのが試合中継だったりするのですが、そこだけでは不足している現状です。フットサルというスポーツの細かさが、試合の見方を提示する難しさに繋がって、ジレンマとなっています。
フットサルは面白いです。
最初はサッカーの勉強を兼ねて、言ってしまえば延長として入りました。
そして魅了されました。今ではフットサルのファンです。
こんなに面白いフットサルを伝える難しさが、そのままフットサルの魅力になっているというのは奇妙な話です。色々と不満を書きましたが、この良い意味での面倒臭さ。それ込みで愛せてしまうのが魅力だと思ってしまうのはおかしいでしょうか。