『機動戦士ガンダム0083 STARDUST MEMORY』感想 狭い戦争
地球連邦もデラーズ・フリート(ジオン残党)もよく見えない。
消耗していくだけの戦争であり、『ファーストガンダム』と『ガンダムZ』の間を補完するミッシングリンクが本分なだけにその目的化から、落とし所としての整合性による話の制約とスケールという枠自体の制約があるので狭くなってしまった。
しかし、作画とアクション、戦闘の演出は歴代でもトップレベルのクオリティではないだろうか。
圧巻の戦闘パートに比較するまでもなく、ドラマパートの薄さが際立ってしまうのは虚しいが。
作劇上の機能性
主人公のコウ・ウラキは全く魅力が無い。
オタク設定はアムロからの継承であるが、職業軍人という役柄が与えられているので、戦争に「巻き込まれる」話を展開するものではなく、能動的に参加しざるを得なくなる。
『ガンダム』に限らず、私がロボットアニメ全般に最も求める要素は「何故ロボットに乗るのか?」という動機がある。
その点でコウ・ウラキは職業軍人であるから動機自体はショートカットされる。
そして、ガンダムに乗る動機から横滑りするのは軍人としての自覚ということになるのだが、コウ・ウラキの自覚のなさは致命的だった。無自覚な青年軍人の成長物語(ビルドゥングスロマン)として捉えることが可能だが――去勢コンプレックスや1人称の変化や恋愛模様や父性のサウス・バニングの死を乗り越える――戦う理由がアナベル・ガトーに集中して軍人としてのバックボーンが無いに等しい。
また、その意中の相手であるアナベル・ガトーはクール(不思議で理解できないもの。だからもっと深く知りたい。全然分からないけど興味深いもの)である。中学生時代に鑑賞していたら滅茶苦茶惚れていたと思う。男として格好良いとなっただろう。
アナベル・ガトーたちは相当オカシイ。ぶくぶくと肥大化した信念やら大義を掲げている盲目的な原理主義者でしかない。
歪んだ理想主義者そのものとして描かれており、歪み自体は本作の構図の破綻を象徴していると言えるだろう。
『ファーストガンダム』と『ガンダムZ』の間だから歪んでいるのは当然だが、連邦もデラーズ・フリートもカオス。
正義なき戦争、腐った権力、帰属できる場所の不確かさが描かれており、単純な善悪の二項対立ではなくて内部の腐敗を細分化しているのが特徴的である。
刻々と変化する状況に対応するということは、ケース・バイ・ケースと考えるとその場凌ぎでしかないのも仕方ないかもしれない。それがデラーズ・フリートとして狂騒的に表現されているにしか過ぎず、最終的にはスペースノイドへの不信感を募らせ、ティターンズへの大義名分を与えたという虚しさに繋がる。
その整合性、ミッシングリンクとしてメタ的にみると、アナベル・ガトーたちの選択は原理主義者として大義を掲げているが、その実態はスケールに見合っていないのは明らかで、内面のロマンの暴走としか取れない。
夢想的原理主義者へのアンチ、カウンターとして機能するはずの「ブレーキ役」が不在だったのはドラマの破綻として痛恨だったと思う。各陣営に「アクセル役」はいたが、「ブレーキ役」となり得たのはサウス・バニングしかいなかった。
アナベル・ガトーにラブなコウ・ウラキが戦う理由はそれ以外しか描かれていないのだから、本来ならばガトーたちの「ブレーキ役」としてコウ・ウラキが糾弾する必要性があった。「お前たちは頭がオカシイ」と言わないといけなかった。
ただ、前述の通りコウ・ウラキは職業軍人としてのバックボーンが全くなく私怨だけなので「ブレーキ役」になり得なかった。
原理主義者として武人の意地を通すアナベル・ガトーの狂信の様は人間の葛藤が殆どない。「アクセル役」はいても「ブレーキ役」の不在だからか、内面のドラマが先走り押し潰された結果となった。
だからこそ、アナベル・ガトーはシャア・アズナブルには成れない。
人間としての葛藤や脆さ、延いては不完全性が弱いから。
『ガンダム0083』のジレンマ
富野由悠季は、人間は駄目だから選ばれた人間に選択して貰わないといけないと描いた。それが血筋とかカリスマとかニュー・タイプとして表れており、それを提案しながらもアムロのように成長していくことも推奨している。
本作のように宇宙世紀においてニュー・タイプを描かないということは、ある種のアンチ宇宙世紀的というか富野由悠季への挑戦とも取れる。
ミッシングリンクとしての補完を目的化しつつも、消化していくだけの布石の為の戦争として「みんながみんな、そういうわけにもいかない」といった虚しい空回りそのものに帰結。
本作の象徴的なキャラはシーマ・ガラハウではないだろうか。あまりキャラに愛着を感じない私ですら気になった。
勝利者がいない戦争の中で、ジオンの負の要素を押し付けられたシーマ・ガラハウはデラーズ・フリートへのカウンターとして機能し、「状況」に生きる本作の特徴からすると一番人間らしかったと思う。
『ガンダム』シリーズのキャラたちは基本的に会話ができない。
「対話」を大々的に描いたのは『ガンダム00』であったが、コミュ障の集まりがデフォルトである。自分を表現できない人たちの集まりだからこそ、不完全性だからこそ、ファンは『ガンダム』に惹かれると思う。
アムロにしてもシャアにしてもブライトにしても。
アンビバレントで分裂気味なのは富野由悠季自体の投影だと思う。
勿論、対案として「完璧超人」を出す手もある。
だが、完璧な人は大概つまらない。
偏見かもしれないが、優等生の発言って利他的で「みんな」を意識した公約数的であるが、なんとなく空っぽに響く。「虚構の中のウソ」として捉えてしまうからかもしれないが。
だから『ドラえもん』はのび太が主役である。出木杉君は一生脇役でしかない。
主役になり得るのは人間としての脆さがあるものだけだ。
本作ではコウ・ウラキ、ニナ・パープルトン、アナベル・ガトーの恋の三角形として表現された。
恋愛模様だけではなく、矢印の方向の微妙な噛み合わなさ。
まさに「恋は盲目」。
ウラキはガトー、ガトーはジオン、ニナはガンダムからウラキへ。
勝利者がいない戦争を描いたからこそ、コウ・ウラキがアナベル・ガトーに勝利することを描けなかった。
ミッシングリンク、ニュータイプの不在、破綻した構図といった制約から、枠の中で遊べる自由度が狭くなっていくジレンマがあったと思う。
大澤真幸は戦後日本の1970年~95年までを「虚構の時代」と定義し、「大きな物語」が共有化できた社会とした。
「大きな物語」の時代が終わった今、宇宙世紀そのものを描くことの不可能性は作品構造のパラドックスに通じる。
現実への原理的であるか、虚構へのデータベース的であるか。
その点で、本作が1991年に登場したのは宇宙世紀の呪縛が許容される「虚構の時代」であるから必然性を感じる。データベース化が深淵化する以前で、ジレンマの中でミッシングリンクを担った本作を厳しく批判はできないと思う私もいる。
妄想だが、本作が2007年以降だったならば。
コウ・ウラキの造形も単なるメカオタクだけではなく、さやわかが言った「残念」なオタクとして、自虐的でありながらも自己完結できるタフさで誇大化した主人公像になっていたのではないだろうか。
そうなると、ニナ・パープルトンの「仕事と恋の両立」のブレブレも抑えられていたと思うが。
あくまでも妄想である。
参考文献
バルセロナ(Barça Lassa)対Santiago 試合メモ
- 前半19:31 バルサのDF、ジャンプ、サイドの2列目のマークの受け渡し、相手はカーテンと中ドリ、それに対するリアクションでの数的優位の絞り方。
- 前半19:10 レオ・サンタナの中抜け~パラレラでのセンターレーンの解放、右サイドでのジョアオの左足のアングル、フェラオと相手DFのポジショニングと全体のバランス。
- 前半18:56 左サイドでの順足、ストロングサイドでのフェラオのキープと時間、右サイドでのディエゴのポジショニング修正とつるべの動き、ジョアオのピヴォット、ディエゴのカバーリングポジション=スペースの残し。
- 18:34 キックイン→3-1→レオ・サンタナの中抜け、瞬間的なエイトの動き、センターレーン空く=フェラオのパスコース、ジョアオの左足からピヴォ当て、レイオフ、潰れ役から大外空ける。
- 17:55 ピヴォ当て、フェラオーディエゴ、ディエゴのためのスペース残し。17:47でのアイソレーション作り、レオ・サンタナのつるべの動き。
- 17:03 ディエゴの間合い、バルサの2列目のポジショニングの交換。16:58 レオ・サンタナの対応とトランジション。
- 15:54 パス後のリヴィーリョスのカットとフェイクからエントレリネアス。ボール保持者には2つのパスライン。1列目の相手DFは数的不利で2列目のDFの数合わせ、左サイドでの降りる動き、縦のスペース→15:46 相手DFのバランス、1対1、DFとの距離感、ファー詰めデザインとDFの視野と大外と出し手のタイミング。
- 15:22 ゴレイロへのバックパス、相手DFの門を閉じる動き、お皿の形、クワトロ→14:49 相手プレスをどのように回避するか。ピサーダ、17番の非言語コミニュ、リヴィーリョスの足裏と門を割るドリブル、相手DFの誘導から。
- 14:18 クワトロ、外の選択肢と2人目の中抜け、3人目の残り方があるから中ドリでロングパラレラに繋がる→正対、8番のDFを釣る=縦のスペースを空ける。
- 12:35 4番のポジショニング移動とボールの位置、パラレラ後からエントレリネアスで相手DFを動かすことで、フェラオ対DFの質的優位を作る。
- 11:41 キックイン、プレス回避、サイの理論と中抜け、アラーアラの展開、トランジションからディエゴのカバーリングポジション、4番のセカンドポストを消すポジショニング。
- 10:02 ホセリート、パラレラ、リヴィーリョス、左利きを右サイドに2枚配置する意味→レオ・サンタナの中へのカット、サイドーサイドが空いてからセンターレーンも空く。
- 7:47 右サイドに左利きを2枚配置する意味。入れ替えとターン、8番のポジショニング、エントレリネアスと一枚奥の重要性と左足。
- 5:51 ディエゴーフェラオ、オーバーラップ、フェラオのキープからサイドを変える→ストロングサイドの移動、3人目の動き、後方の余裕、カーテンと中ドリから 5:36のDFのポジショニング、ピヴォ当て、ピサーダの展開。
- 4:00 ディエゴの追い込まれ方→3:52 コントロールミス、相手DFの数的優位→3:51の1列目のDFがゴレイロへのバックパスを消す、ゴレイロが持つことでのプレス回避の形。
- 3:00 4番の中へのカット、レオ・サンタナ後のリアクション、センターレーンの使い方、レオ・サンタナのバックドア、門を割くことでDFーゴレイロ間、ゴレイロのカバー。
- 5秒 残り時間とDFの緩み。レオ・サンタナの長い距離のパラレラ、スペースへのパス。
後半
3-1セット 人員の入れ替え
- 19:17 ディエゴがスペースに残る意味、ストロングサイドの構築、フェラオのライン押し下げ、スペース作り。
- 18:44 ディエゴと相手DFの門、レオ・サンタナのバ、フェラオのキープ、オーバーラップからレオ・サンタナへのマークのズレ。
- 17:01 ゴレイロのスローからカウンター→数的不利とDFの対応。滑っては駄目の典型、ゴレイロは選択肢を消せない。
- 15:20 サイドーサイドの展開についてのサイドの準備、カーテンと中ドリと中抜けでDF2枚目を消す、DFの段差から生じるウィークサイドへの時間、サイドーサイド、偽ピヴォによる前進、オーバーラップ、ウィークサイドでのホセリートのバまで。
- 14:26 ホセリートと相手DF1列目の距離感、14:25で相手DFが1-3化でウィークサイドでの数的不利の形。噛み合わせのミス。ホセリートのカットイン後の2枚目のDFとジャンプ。
3-1セットでのリヴィーリョスの起用の難しさ?球離れとコンビネーションの問題。味方を考えていない苦し紛れなパスによるロストが目立つ。
- 9:52 キックイン、プレス回避、サイドからエントレリネアスのポジションへ。サイドと中を交換することでエントレリネアスへのマークも移動するからサイドの縦が空く。サイドーサイドからの準備込みでのサイドの受け方、ピヴォ当て失敗、デザインとして全然アリ。
相手キックインのゴレイロでのプレス回避には1列目のジャンプ。サイドの誘導と残りはマンツーマンからマークを離すタイミングで数的優位で挟み込む。
グロ描写アレルギーの私がオススメできる凄い本
グロ耐性が無い。
医療ドラマのオペシーンですら無理。出血シーンも相当厳しい。
宇多丸師匠のATB映画の『アポカリプト』を観た時のショッキングさは忘れない。グロ抜きでも映画自体の内容も衝撃的だったけど。
「暴力の上書き保存」が描かれたことから考える根源的な暴力について思考が巡る。
例えば、父権主義的なテレビの構造、パワハラ問題、その空気の醸成を担うネットワークの在り方なども。
『日本の文脈』において中沢新一は「人間の根源には、近親相姦とカンニバルがある」と発言していた。だから、ハンニバル・レクターは気味が悪いのだけど。
- 作者: コーマック・マッカーシー,Cormac McCarthy,黒原敏行
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2013/07/10
- メディア: ハードカバー
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コーマック・マッカーシー『チャイルド・オブ・ゴッド』は昨年に読んだ本であるが、近年で最も気持ち悪い読書体験をしたから鮮烈的に残滓となっている。
精神的に気持ち悪く、凄くて、気味が悪いのが『チャイルド・オブ・ゴッド』だった。
直接的に肌が粟立つよりも、心が掻き回されて嵐の中で立っていると錯覚してしまうくらい地に足が着いていない読後感。
精神的な不快さといえば『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』のラストのアスカの「気持ち悪い」が浮かぶが、実感したのはビジュアル的なグロテスクよりも精神性の両義的なグロテスクな自在感の方がエグいということ。
ビジュアル的な画の凄さというと、白井智之のミステリや歌野晶午の『密室殺人ゲーム2.0』とかは印象的であるが。
例えるなら、大澤真幸『虚構の時代の果て オウムと世界最終戦争』で言及されている「アイロニカルな没入」やオウムへの受け手の両義的な心情に近いのが『チャイルド・オブ・ゴッド』であった。
本来、遠い他者性(『チャイルド・オブ・ゴッド』のレスター・バラード、オウム信者)が、近い隣人的な存在として許容される自分の内面性の気持ち悪さ。
罪深き凄い本である。