おおたまラジオ

しまいには世の中が真っ赤になった。

バンクシー問題と美術教育どうなっているんだ問題

政夫:芸術の秋ですよね。秋といえば。僕らの語り口からして芸術とは程遠いような、そんな知性やセンスの欠片もないと思われると思うんですけど、僕はともかくとして、ろこさんは本当に芸術肌というか天才肌というかハイセンスの塊というか。芸術の問題をバシバシ斬って貰おうとチョイスしたんですけど。


ろこ:(笑)


政夫:バンクシー問題です。

バンクシーが描いた風船と少女が一億何千万で落札されまして、その直後に額から絵が飛び出してシュレッダーに掛けられ、裁断されてしまったという。これは作者のバンクシーによる意図的なものだったのですが、バンクシー曰く「破壊による創造」とのことですが、単にこの破壊と創造の二元論的な話ではなくて、芸術というのがそもそも権威主義的で商業主義的の権化であると。

例えばバンクシーが描いた絵がいくらいくらで落札されましたって。これがいくらいくらで落札された絵なのかと僕らは観るじゃないですか。その時に、なるほど確かにこれはいくらいくらの絵だわって、意味のないハイセンスのためのアイテムになってしまっている。この絵の価値が分かる俺という自意識のためのツールになってしまっているんですよ、芸術が。それが権威主義的で商業主義的なんですよ。

例えば5億円の絵があるとすると、この5億円のついた絵の価値が分からない俺は惨めじゃないですか。でも分かる人には価値の分かる人になる。そうやって区分けされるんですよね。でも、それは凄いどうでもいいことなんですよね。
バンクシーがやろうとしたことって、ザックリいえば資本主義に対するアンチ資本主義みたいな話なんですよね。オークションなんて権威主義で商業主義の権化ですよ。
そのオークション会場で高値のついた絵がバンクシー自らによって破壊されるというのは超皮肉なんですよ。


ろこ:おー。


政夫:一億何千万ついた絵が作者によって破壊されることで、お前たちが競合してきたこの絵の価値とは何なのかを突き返す・問い直す意味がバンクシーの破壊による創造として展開されたわけですけど。
これの悲しいところって、資本主義の枠組みでしか資本主義を批判できないというジレンマなんですよね。


ろこ:そうだね。


政夫:同じことをミシェル・フーコーが指摘していて。資本主義に対する共産主義があって、資本主義なんてクソだ!とか言いながら、共産主義に耽っていてもその情報は資本主義によってその人の手に渡っていくじゃないですか。結局、資本主義のマーケットを通さないと手に入らないじゃないですか、知識は。
結局、資本主義の中でしか共産主義を語れないみたいなフーコーのジレンマというか皮肉なんですけど、バンクシーも結果的にそうなってしまっている。
芸術の権威主義や商業主義に対して、揶揄するようにシュレッダーに掛けて破壊して、お前たちが価値を付けたこの絵を破壊してやったぜ!みたいな。これも破壊による創造なんだよと言っても、このようにニュースになった時に、改めて価値を問われた時に、より価値が向上してしまっている。資本主義への警句として行われたのに、結局資本主義の中で消費されてしまう虚しさですよね。


ろこ:意図してやるのと、本当に破壊を目的にしたのでは全く意味合いが違うよね。アートって究極的にいえば個人のものだと思うけど、バンクシーがやったのはアートなんだけど破壊による創造というパフォーマンスに思えるんだけど。


政夫:それはありますね。パフォーマンスなんですけど、オークションだとかで高値で取引されているのって馬鹿らしいじゃないですか。絵の価値に縋る権威が見え隠れし過ぎているし、それで成り立つ商業感覚とその商業性で自意識を満たす消費者側。このセンスの私!この絵にこれくらいの値段をつける私凄いでしょ!みたいな。
それって本質からズレていると思うんですよ。
芸術ってそんな卑しいものなのって。

勿論、どんなジャンルでも高尚であれ高潔であれビジネスを切り離せない関係だというのは重々承知の上なんですが。
バンクシーもそれを百も承知なんでしょうけど、パフォーマンスに走ることで本当の価値を問い直していると思います。既存のシステムに対するカウンターとしてシュレッダーを仕掛けたんでしょうけど、そのパフォーマンスが思いの外ニュースになってまたバンクシーというアーティストの価値を高めてしまった。

その価値の上昇は、バンクシーが計算していたのと違う種類のベクトルではないかと思うんですよね。パフォーマンスによって上がる名前の価値として、権威主義への反抗だ反逆だ!みたいな名前の上がり方を考えていたと思うんですが、それを一歩超えちゃって、パフォーマンスをしたことでバンクシーの行為がニュース的に消費されるだけになってしまった。

その結果、より商業的価値が高まってしまったのではないかと。本来は商業的価値を抹殺する為に行ったのに…虚しいですよね。


ろこ:うんうん。


政夫:果たして芸術の消費のされ方ってそれでいいのか?という問いがありませんか。


ろこ:いいね。そういう感じ。


政夫:結構危ういなと思っていて。自分のハイセンスを確かめるだけの場所になっちゃっている。


ろこ:うん。それは自分の立ち位置が分かるからいいことだと思うけどね。ハイセンスという言葉に誤魔化されつつあるけど、感性というか、それをビジネスにしにくい社会だと思う。教育的には人と違うことが評価されにくい分野だろうし。


政夫:一応、補足として日本アート村や世界のアート村の乖離やら逆輸入とかありますが。


ろこ:結局どっち側の問題なのかみたいな。需要と供給的に。


政夫:供給側では。アートの世界のみならず、供給過多は陥り易い罠ですが、需要を見越した上で潜在的需要含めてやらないと既にワン・アクション遅いよねみたいな。結局、先にやったもん勝ちなんですよね。パイオニアとして。細分化しすぎの影響で。

例えば、ゆるキャラとかそうですよ。各自治体がゆるキャラを生産して死亡しているじゃないですか。何番煎じみたいなことやってもウケないんですよ。劣化の劣化の劣化のコピーをやっても。

子どもたちを甘く見過ぎている気がしますね。子どもは大人よりも純粋無垢で世界を捉える観方というのはシンプルで力強いと思うんですよね。大人は僕みたいに理屈を捏ね繰り回して観ているものが見え難くなっていることって多々あると思うんですよ。


ろこ:うん。


政夫:子どもウケと子ども騙しは違うという話は以前したと思うんですけど、子どもを舐めすぎていると痛い目に遭うというのはどの業界もあると思っていて。

子ども向けアニメを観て大人も一緒に観たら大人もハマったみたいなのあるじゃないですか。体験談として。それは当然なんですよ。子ども向けだろうが大人でも楽しめる造りになっているのは当たり前なんですよ。それなのに子ども向け=レベル低いと思っている時点でお前の方がレベル低いという話なんですけど。


ろこ(笑)


政夫:その辺を単純化し過ぎてる方が、大人の方が馬鹿なんだろうなって。そういうの込みで市場を睨んでいる人の方が上手く展開していると思いますし。

…子どもの話になっちゃいましたが(笑)


ろこ:教育の話にしようか。落合陽一が。


政夫:またか!


ろこ:(笑)鑑賞教育が日本を再興するには重要なファクターだと言っていて。鑑賞ってアーティスティックに思わない?


政夫:音楽鑑賞が趣味って言っている人はなんかクラシックとか聴いているのかなって思っちゃいます(笑)


ろこ:鑑賞できる人って自分の好きなことをきちんと言えると思うんだよね。出来る人と出来ない人の差が結構あると思う。出来る・出来ないの行動原理や習慣を見直していくと鑑賞教育にぶち当たるんだよね。


政夫:鑑賞教育だったら、今、美術の話をしているから繋げると、日本の美術教育って論外だと思うんですよ。ハッキリ言って全く機能していないし、美術の可能性を潰してしまっている。


ろこ:教科書問題じゃないのかな。


政夫:教科書というか、絵上手く書けない=ダメ、デッサン上手くないとダメみたいな技術至上主義によるところじゃないですか。上手くないと褒められない辺り。


ろこ:それはコミュニケーションの問題じゃないの。


政夫:デッサン上手いけどアート力は落ちていくみたいなこともありませんか。


ろこ:分かるけど、まず書いているから。実行しているから。先ずは書いてみるところから始めないといけないんだよね。下手でも書いて、何が下手なのか言ってくれないと伸びないと思うよ。


政夫:僕はそれが技術に因り過ぎていると思います。それこそ鑑賞的な目を養うならば、技術的な部分によらない方法もあると思います。例えば絵を見に行く時って、極論、技術論とかどうでもいいじゃないですか。そんなところじゃないでしょみたいな。


ろこ:そこじゃないの。(鑑賞的に)出来る人と出来ない人の文化とか。


政夫:僕は大人になってからですもの。絵を書かなくなってからですよ。

高校生の時の選択科目が美術だったんですよ。恥ずかしい話ですが、絵を全く描かなかったんですよね。風景画がテーマで、学校の風景とかをスケッチしてこいみたいなので、友達と外に出て遊んでいたんですよ、その時間ずっと。

で、提出間際になったら友達が描いた絵をコピーして、丸写しして提出する…友達と同じところでロケハンしているので同じ構図の絵にはなるんですけど、まるっきりほぼ一緒で。

オリジナルの絵を描いた友達の絵は10段階評価中5だったんですよ。僕も5だったんですよ。そのオリジナルをコピーしたので。もう一人の友達は6だったんですよ(笑)


ろこ:(笑)


政夫:オリジナルよりも評価が高いという。


ろこ:そこだよね。


政夫:何も言われませんでしたよ。


ろこ:そこから、なんでその子が良かったのか考えないと、鑑賞は伸びないよね。


政夫:当時の記憶を手繰り寄せれば色彩の鮮やかさはオリジナルを越えた彼だったと思います。ただ、人間を描く時に橙色を素直に塗るの普通じゃないですか。それだったら写真でよくね?みたいになりませんか。目に見える捉え方というか写実的に描いても面白いと思う人と面白くないと思う人がいる中で、色ってのはもっと自由だと思うんですよ。


ろこ:おー。


政夫:考えたりしませんでしたか。なんで昔の人はこれを青色と定義付けて断定できたのかって。みんなと一緒だと。なんで人間の僕たちが見ている青ってこんな色なのに、犬から見た青って何色なんだろうと考えたりしませんでしたか。


ろこ:いつ考えたか、だよね。


政夫:不確かじゃないですか。それなのに、その色じゃないよこの色だよって言われるのはどうなのよって。その強制。正しい色を塗ることが果たして正しいのか。


ろこ:だから、元々そういうもんよ美術は。でも主観やら常識みたいな洗脳が入るのよ。これならこの色だと。そこで、違うことを描けた人がその分野では才能があると。


政夫:それを殺していますよね。


ろこ:完全に殺しているな。


政夫:全然機能していないじゃないですか。教育として。デッサン力がある人だけが美大に行けるみたいな。山口つばさの『ブルーピリオド』なんてまさにそれですよね。


ろこ:読んで欲しいよね。


政夫:渋谷の街を青に塗ったシーンなんて、それじゃないですか。


ろこ:ホンマや。そうや。


政夫:彼の目には渋谷が青に映っていたんですよ。それでいいんですよ。彼以外の人間が渋谷を観たら青に映っていないのかもしれないけど、彼の目には青として映っていたのだからそれでいいじゃないですかって。なのにそれを殺していますよね。もっと自由なのに。色や線は。


ろこ:彼はそこから美術にハマっていくよね。


政夫:勿体無いですよね教育的に。絵を書くことは本当は自由なことなのに…絵を描くことが嫌いになったり、遠ざかったりしてしまった人って多いんだろうなって思います。


ろこ:『ブルーピリオド』の話なんだけど、主人公が塾に行き始めるのよ。


政夫:第1巻ラストで行きますね。


ろこ:それで気付くのよ。この塾は芸大に入るための絵を描いているのか、絵が上手くなるために描いているのかって。


政夫:クリティカルですね。まさにそれが欲しかった(笑)


ろこ:彼はある答えに辿り着くんだけど、理論を学んだとて上手くなるとは限らない世界じゃないですか。


政夫:それはなんでもそうですよ。実践と理論はまた別なんで。


ろこ:彼は理論は感性の後ろにできる道という答えに辿り着いて、こっからキュッと上手くなるシーンが凄い俺の中では(絶句)


政夫:理論は補強するものですよね。MLBヤンキース田中将大が、データをあまり観ないと言っていて。野球って滅茶苦茶データ化されていて。物凄く分析されているんですけど、感覚的なもの、投手ならではの勘みたいなのを最後に支えるのがデータだと言っていましたね。データが先じゃないんです。投手としての本能が先にあって、データが後にあるんですよ。

ただ、これが田中将大がネイティブなデータ人間じゃないからなのか、もっと若い世代がデータに触れているのが当たり前になったら、ネイティブデータ人間が出てきた時に果たしてデータが先か後かってのは面白い話になると思うんですけど、どのアスリートも選手としてのキャリアとか勘とかをバックボーン的に支えてくれるのがデータという捉え方をしていると思うんですよね。

『ブルーピリオド』にあったように。ただ、まさに学校に受かるためのトレーニングなのか、絵が上手くなるためのトレーニングなのかってのはクリティカルなポイントですね。
ミクロかマクロかでいえば、上手く絵を描くことがマクロで、学校に受かることはミクロですよ。


ろこ:うん。


政夫:だって学校に受からなくても絵は描いていけるから。


ろこ:好きこそ物の上手なれ。彼は大学に受からなくても描き続けるでしょ。


政夫:そうですね。止める理由がないですし。


ろこ:アーティストってのは発見していく人なんだろうね。

バンクシーの件も含めて、物凄く闘ったんでしょうね。それを聞くと違うバンクシーさんが見えるんじゃないですかね。


政夫:おっ!纏めてきましたね(笑)


ろこ:(笑)

 

※この記事は10月に配信したものを一部文字起こししたものです。

podcast-is.seesaa.net

 

toyokeizai.net

 

www.bbc.com

 

d.hatena.ne.jp

 

 

ブルーピリオド(1) (アフタヌーンKC)

ブルーピリオド(1) (アフタヌーンKC)

 
ブルーピリオド(2) (アフタヌーンKC)

ブルーピリオド(2) (アフタヌーンKC)

 

 

寿命論にノスタルジーを添えて/フットサルというコンテンツの現状

政夫:ろこさんがこれから話すのは好きであるからこそ、苦しくなってしまった男の末路というか断末魔ですよね。


ろこ:先に結末言わないで(笑)でも付け加えると、知的生産というかビジネスの世界でいうと。最近、落合陽一の動画をよく観ているんですよ。


政夫:準備していますね。


ろこ:やめろやめろ(笑)ただ、今それが俺の問題なんだよね。面白いというか。


政夫:『デジタルネイチャー』を読むんだったら、まず『魔法の世紀』と関連動画を漁らないと『デジタルネイチャー』は読み解けないと思います。


ろこ:うん。俺、大学の頃に安宅和人『イシューからはじめよ』という本の序章だけ読んだのよ。2011年とかに。そこでISSUE DRIVENというのよく分からないものをうっすら読んでいたんですよ。そのISSUE DRIVENというのは質の良いアウトプット検定なんだよね。今、俺がやるべき問題=イシューを見立てて、仮説、言語化して相談する相手が必須だと。
ビジネス本なんだけど、簡単にフランクに捉えてみれば、人が理解するというのは今まである情報と未知の情報、一次情報と二次情報みたいな話になんだよね。基本的な話としては、ツイッターやネットニュースで触れると。そこから二次情報以降は自分の意見というか生み出したもの、質のいいアウトプットから始めましょうという本なんよ。


政夫:一次情報、二次情報、SNSだとリテラシー能力の有無やアカウント毎の言語化処理能力が140文字サイズのテキストに込められるから、同じような意見なんだけど、この人が言うとロジカルに響く、この人がいうと薄っぺらく見えるってあるじゃないですか。ほぼ同じ意見なのに。

それをRTって危険だなって思うんですよ。人の思考を簡略化しがちだから。ちょっと考えれば考えられたであろうものでさえもかなりインスタントな作業に委託してしまっている。


ろこ:でも、その分野のことは人に訊けばいいというのをよしとしているのよ。ISSUE DRIVENは。だから、意味のあることを生み出せるか、価値のあるものを、能力というか問題意識の話になっていくんだけど…。


政夫:アンテナも大事ですよね。RTすることで知らないアカウントを認知するわけですよね。それで過去のツイート群をみて、その人を知っていく。「この人面白いな」とか。ログとして残っているから。それを突き詰めて行くと、ノイズカットされた自分の観たいものしか見なくなっちゃう。インターネットの使い方で、ノイズカットは欲望のためで、視野をクリアにしたい・身辺整理したいというのは自然なことだとは思うんですよ。ミュートやブロック、フォローやリムーブ。

でも、それで築きあげていく人間関係というか、異物を排除するというと強い言葉になってしまいますが、非常に危ういですよね。


ろこ:そうだね。そこからどう仮説や問題を組み立てていくか。そう提起しているのが落合陽一なんだよね。簡単にいうと。さっきの「好きと熱中、共感と体験」を認識する年代というのもあるじゃん。

例えば、学生時代から都会に出て大学に行くとか。そこから社会人になるとか。年代別になんとなく変化していくじゃん。認識しなくてもね。
俺らがこうやって喋っているのって元々サッカーから繋がりじゃないですか。

でも、政夫くんとかと出会う前は、ツイッターで一人で自分の世界にいたんですよ。それまでネット=仮想世界として、サッカーを観ていて物足りなさを感じていたのよ。それから一回リーガキャスに呼んで貰ったじゃない。


政夫:一年間やっていたリーガキャスですね。エイバルの回。乾繋がりで。僕らが知っている範囲でエイバルをちゃんと観ていたのがろこさんくらいだったという認識で。そこからブログ記事のエイバル対談に繋がりましたね。

あれ、未だにグーグルから迷える子羊たちが閲覧している感じですよ。でも、もう今季は乾がベティスなんで、あの記事の消費期限は過ぎましたね。

futbolman.hatenablog.com


ろこ:サッカーの話なんだけど、一つのクラブをずっと見ていたのよ。それがオタク的な観方なのか全然認識していなかったんだよね。リーガを観る前は、なんとなくサッカーを高校までプレーしていたからその延長で観ているだけで、サッカー雑誌を買ったり、スタメンを確認したり…そこから戦術的な観方になるというかね。大きく捉えようみたいな。


政夫:あれは間違いなく、とあるサッカーブログの影響だと思いますよ。


ろこ:影響なのかな…まあ、確かにサッカーブログは普及したよね。俺が見始めた頃ってペップ・バルサの全盛期で凄かったのよ。長い歴史でいえばペップ以前も当然あるわけで。


政夫:バルサだけでもたくさんありますよ。その前はライカールトだったわけですし。


ろこ:その前だと、日本だったらセリエA全盛のイメージない?


政夫:往年のセリエAファンはテレビのダイヤモンドサッカーとセットのイメージですね。


ろこ:その年代の人たちが強いサッカーを知っているわけで、その人たちから観たペップ・バルサってどう映っているのって。羨ましいというかジェラシーなんだよね。その時代を知っている人たちが。サッカーの見方じゃなくて、楽しめる楽しめないみたいな、エンタメとして。

政夫君たち出逢ってから考え始めて、そこから2~3年経ち、ペップがバイエルンに行き、なんか昔の方が良かったっていう感想がね。


政夫:完全に老害発言(笑)もう立派な老害ですね。もうオシマイですね。


ろこ:オシマイなのか(笑)羨ましいんだよね。もうセリエA全盛のその時代を俺ら観れないじゃん。その空気感というか。


政夫:僕もサッカー観始めた時って、98年フランスW杯や2002年日韓W杯の印象が強くて、ファンタジスタって単語もあまり聞かなかったイメージで。中村俊輔の代名詞じゃないですか。


ろこ:あったね。


政夫:THEトップ下という感じでもなく、その辺の日本代表のバランスというのは当時よく分からなくて。メディアはフラット3の話ばかり。


ろこ:トルシエね。


政夫:そういうイメージだから、昔観ていたサッカーを今のような視点で観ていなかったので…。
それを言ってしまうと、ろこさんが言っているのは、今それなりの視点を持ってしまったが故の楽しめないジレンマにしか聞こえないんですけど。


ろこ:ジレンマを抱えているのは日々言っているじゃない(笑)それを抱えながらも、問題として提起したいという話ですよ。


政夫:この話は断末魔からの解決策を練り出す話ではなく、あの頃は良かったなというノスタルジックに回帰していく流れですか。


ろこ:違うよ。ノスタルジーというのは音楽でもあるじゃないですか。昔、聴いていた曲が共感度が高くて、今聴いたら解消してくれることとか。


政夫:常に自分の好きなアーティストやバンドが、常に新作がベストを更新して欲しいという期待はありますけど、現実難しいですよね。常に自己ベストを上回れる人っていないですし。


ろこ:でも共感って話にすると、その熱量があるわけで。ノスタルジー的な熱中と…2005年くらいかな。俺が銀杏BOYSに熱中したのは。『なんとなく僕たちは大人になるんだ』という曲があるんですよ。


政夫:完全にアダルト・チルドレンですね。大人になりきれない子どもたち。


ろこ:銀杏はそれをカッコイイとは言っていないんですよ。現実世界になにか起きるんじゃないという中二病的な、決してそれを肯定していない。大人になりきれないけど、それがいけないの?みたいなバンドじゃないですか。その爆発的な衝撃度を今の銀杏は無理じゃないですか。


政夫:仮に銀杏がそれをテーマに掲げていてやっていたとしても、ろこさんは前ほど響かないんじゃないですか。


ろこ:なんで?


政夫:もう大人だからですよ。当時、2005年だから学生じゃないですか。進学して就職して大人になっていくんだろうなと期待と不安をぼんやり抱えていたからこそ、それが刺さったわけじゃないですか。今、現在それで刺さりますか?


ろこ:刺さらない。でも、ノスタルジーは感じる。


政夫:あー。良い部分も悪い部分も含めてノスタルジーですからね。苦しかったものも忘れ去られて美化されて。


ろこ:過去の情緒というか感情の共有は音楽強いじゃない。


政夫:そうですね。この曲、ハマっている時、あれよく食べたなとか、あの人とよくいたなとか、あの匂い懐かしいなとかありますものね。


ろこ:銀杏は、俺にとってそういうバンドなんだよね。


政夫:つまりサッカー観戦もW杯なんだかんだ観たけど、いまいちノリキレナイ自分がいて…自分の目線を変えていくしかない。体感としてあるだろうし、ネットを覗けば嫌でも入ってくる情報にどこかアレルギーを感じながらも、でもこれに乗っていかないと置いて行かれるわけじゃないですか。


ろこ:乗って行けるけど、選択もできるのよ。大人だから。今、考えているのは、よく二人でそういうこと話すじゃないですか。政夫君の切り口で。知らない人は政夫君のブログを全部読んで欲しいのだけど。


政夫:読まなくていい(笑)


ろこ:フットサルの魅力と難しさって繋がっている説の記事あるじゃない。あれを観た衝撃は銀杏レベルだったのよ。

futbolman.hatenablog.com


政夫:俺、銀杏だったんですか(笑)


ろこ:この年齢で、大人になった俺の速度で衝撃があったのよ。よく二人でフットサル観戦について喋っていたじゃん。


政夫:そうですね。ろこさんがモビスター対カイラトのURLをツイッターに貼っていたからたまたま観る機会があって、「フットサル超面白いじゃん」ってなりましたね。

最初はサッカーの勉強を兼ねてフットサルを観ていたのですが、半年後とかにはサッカーとは切り離して単純にフットサルに魅了されていましたね。そこでフットサルの魅力を考えた時に、ディティールの細かさが魅力なのではという着眼点から、ディティールが細かいということは実は伝わり辛いのでは、難しいのではみたいなことを書いたわけなんですけど、それがろこさんにとっては銀杏レベルだったと。


ろこ:まだ熱量は保っているよ(笑)ラジオに出ているくらいなんだから。それで、よく伝え方の話はしたよね。


政夫:それは試行錯誤していますね。


ろこ:サッカーはメジャーじゃないですか。フットサルはそれに立ち向かわないといけないわけで。エンタメとして。


政夫:対サッカーだけだと視野が狭いと思いますが、エンタメ全般というのは確かですね。


ろこ:となると、サブカルチャーです。俺はサブカルチャーというのは未見の知なんです。なぜならサッカーばかり観ていたから。サブカルチャーもあれこれ話してきたけど、日本社会の構造を見渡さないと浮き上がって来ない入口とか、日本人文化をマクロ的に切り口にする感じだよね。


政夫:アニメだとかマンガだとかじゃなくて、単純にサブカルチャーも文化なんだから社会と結びついているでしょと思うんですけど、こういう状況だからこそそういう作品が生まれたというのはあるでしょうし。

さきほほど話した山口つばさの『ブルーピリオド』も、今のリアルな高校2年生の屈折した感情や夢を持っていない人間への強迫観念的な進路選択、夢追い人最高宗教とかね。
夢をそもそも持っていないとダメ人間認定される空気感があるし、なんのためにやっているの?という目的、つまり夢に結びついていないとなんだか…夢なくてもやっちゃいけないなんてことはないじゃないですか。


ろこ:そうだね。


政夫:夢を持っていないと人間としてダメなんだと。勿論、夢を持っている人がそんなにいないから相対的に輝いて見えてしまうわけですが、夢持たざる者へのプレッシャーはなんなんでしょうね。


ろこ:夢…人間として正しいことをしましょうみたいな道筋でもないよね。


政夫:正しいことをやりましょうだらけだったら、『万引き家族』みたいな映画は撮られないですよ。善悪とか便利不便とかそういう尺度で図りきれないからこそ、現実というのは不条理だけど面白さもある。お前が観ていないだけで面白さの引き出しはめちゃめちゃあるんだよと転がっているわけで。

ツイッターから飛んだモビスター対カイラトを観てフットサルの見方が変わったのは事実ですが、リンク一つ飛ぶか飛ばないかで大きく変わりましたもの。


ろこ:最初はサッカーだったけど、寿命は繋がっているんじゃないのという話ですよ。


政夫:ライフステージの変化で観戦不可能とかね。


ろこ:そうだね。寿命論として、俺の問題意識はサッカーからフットサルに行きましたよって。繋がっているけど、ここからどうなっていくのか。


政夫:サッカーの寿命は尽きたという話なんですか?『ブルーピリオド』でもありましたが、好きで居続けるのは大変なんですよと。それは誰にでも訪れますし、早い話、「飽き」じゃないですか。飽きたからだし、執着する必要が無くなっただけだし。それだけですよ。

で、僕らがよく話しているのはサッカーの90分長いよねじゃないですか。長いよねというよりも長く感じるようになってしまっただけなんですが。


ろこ:それはフットサルのフィルターを通してサッカーを観ているからじゃないですか。


政夫:でもフットサルも試合時間同じくらいなんですよね。じゃあ、なぜサッカーとフットサルの時間感覚は違うのか?を訊きたいんです。


ろこ:それ言語化をするの…


政夫:それを言語化する為にラジオ配信をやっている…


ろこ:20代になって、サッカーは遠い存在なのよ。プレイヤーとして。身近なのはフットサルなのよ。個サルとかね。言い方が難しいけど、競技フットサルとエンジョイフットサルって別物じゃないですか。
それはなんとなく知っていたけど、本場のスペインのフットサルを観て「これ、違うスポーツだ」って衝撃度があって。

俺は多分サッカー的な観方から離れていないから、部分的なものを言語化していっているけど、動画の時代だからフットサルの魅力を言語として伝えていく形というのは難しいじゃないですか。


政夫:映像権利の問題もありますからね。


ろこ:サッカーを観ている人だけに伝えてもというところもあるから、フットサルというスポーツの見方を提示している人があんまりいないんじゃないかって話。


政夫:気を付けないといけないのはサッカーからも勿論流れてきますが、FリーグJリーグは日程がモロ被りだから、どれだけFリーグに持っていけるのかは疑問ですし、なんで人々がFリーグを観に行かないのかと自戒しながら話していますが、なぜフットサルを観に行くのかというストーリー性がないんですよね。凄い近場だったら行くんでしょうね。

例えば近くのコンビニ。行く理由は近いからしかないんですよ。近くにコンビニあるのに遠いところにあるコンビニに行く理由ってないじゃないですか。そのコンビニに行かないといけないストーリーの有無なんですよね。フットサルにストーリーがあるのかは疑問で、体験も含めて。


ろこ:エンターテイメントの分野だから、エンタメも細分化していってるし、その中でフットサル入り口の問題なんだよね。俺みたいに競技やっていた人間でも隔たりがあるんだよね、入り口として。


政夫:フットサルってこんな感じなんだろみたいなイメージですよね。


ろこ:その意識の正体はなんなのか。


政夫:それは経験則だから、自分の主観でちゃんとしたフットサルを観ていないから、外に接続していないから、どう本物と出会って世界が変わるのか。それで変わった人たちは興味を持つ段階に入ると思うんです。それが持続するかどうかは別問題なんですが。

今、Fリーグって2500円とか超えますよね。サッカーとかとあんまり変わらないですよね。


ろこ:映画とそんな変わらないよね。


政夫:インターネットに接続している環境だったら、アマゾンプライムとかの定額サービスで見放題なんですよ。アニメに至っては円盤コンテンツが商売的に機能していない現状で、どうやって価値を出していくかってなると定額サービスがメインになっていて、続編を作るなら劇場版にするというビジネスモデルが提示され始めているんですけど…エンタメとして無料で体験することが当たり前になっている中で、どうやって現場にお金を落としていくのかというと、体験にお金を払っていく。

評論家の宇野常寛曰く、今までアイドルオタクは在宅でテレビを観て応援しているしか出来なかったけど、AKB48以降、握手権でアイドルに会いに行ける体験ができてしまうと。テレビの前だけじゃないんですよ、現場は。現場に落ちるようにその資金の回収モデルがあり、メディア戦略もあり、だからこそのAKB48というか、48グループというか秋元康そのものみたいな平成を彩る巨大コンテンツなわけですが。

基本的にコンテンツは無料になってしまっている。漫画村の件とかね。一応、ブロッキングという処置になりましたが、それは問題の解決にはなっていなくて。そもそも情報として価値のあるものをモノとして売ることに限界があるのだと。じゃあ、どうやって情報を売っていくのかというと、サービスや体験ですよ。


ろこ:プラットフォームとかね。


政夫:そこで、フットサルを観に行くストーリーですよね。アリーナで観る利点や地域との密着度合い、グルメや観光地との親和性とか。ブランディングの上手さは無いですよね。


ろこ:エンタメとしての動かし方を全く機能させていないということかな。


政夫:現行の試合運営、チケットを買って試合を観て終了は危ういと思います。他のコンテンツが外部と接続させて充実させているのに、試合の内容だけがチケットの価値だ!は結構危ない。
映画館は3D『アバター』や応援上映や爆音上映とかもそうですが、映画館でしか体験できないことを上手く繋げていますよね。それが当たり前になっている。早い話、コンテンツに付加価値をどれだけ作れるかって。今の所難しいですよね。


ろこ:そうだね。


政夫:話は戻りますが、寿命論はどうなったんですか。


ろこ:脱線しちゃったけど、フットサル観戦に関してストーリーがないと言っていたよね。俺も自分でコンテクストを作っていこうという感じだよね。ある情報を集めて、フットサルを説明します!じゃなくて、競技性とか概念とかを解釈して自分の言葉で喋っていこうというコミュニティの方に目を向けていくのが幸せじゃないかな。そういう寿命かな。

とりあえず自分の行動を明確化する。そこにいくまで段階があって。五百蔵さんとレジーさんの対談であったように、クラスタの分断が起きているみたいな。フットサルも追い掛ければ、詳しい人はもっと詳しくなっていく。で、飽きてくる人もいるけど、詳しい人達が集まってマジョリティになっていくみたいな。


政夫:希望論すぎるかなと思いますが。


ろこ:俺はそんな感じになると思う。その時、俺はどっちになるかだよね。

 

※この記事は7月に行われた配信の一部文字起こしです。

podcast-is.seesaa.net

 

 

イシューからはじめよ―知的生産の「シンプルな本質」

イシューからはじめよ―知的生産の「シンプルな本質」

 

 

山口つばさ『ブルーピリオド』が描く共感と体験

政夫:山口つばさの『ブルーピリオド』っていう漫画がありまして。これ、去年くらいから友人にオススメされていて。この『ブルーピリオド』が『桐島、部活やめるってよ』のアンチテーゼなんですよね。


ろこ:おー、大きく出たな。


政夫:どういう話なのかというと「好きなものを好きというのは滅茶苦茶怖い」という、「才能」や「努力」の壁みたいなのってあるあるじゃないですか。そこに退屈な日常性があって、なんで退屈なのかというと目標が無いから。目標がある人間=夢がある人間は輝いているように見えるじゃないですか。


ろこ:間違いないね。


政夫:夢ある人間輝いている説から夢追い人最高宗教みたいな、もう夢あることが宗教になっている感じもありませんか。


ろこ:あるあるだね。


政夫:夢追い人がキラキラしていて、それに対してコンプレックスを抱いて打ちひしがれてしまったのが、僕の中では『セッション』や『ラ・ラ・ランド』のデイミアン・チャゼルという認識で。

この『ブルーピリオド』は目標が無い・夢が無い高校二年生のスクールカースト上位のDQNが主人公なんです。喫煙したり酒飲んだりしているけど、勉強はできる。なぜ勉強ができるかというと、みんなが遊んでいる間にこいつ影で滅茶苦茶勉強しているから。で、この話が、さっきも言ったように「好きなものを好きというのは恐い」んだよと。なぜかというと、好きというのは情熱の塊で、それに費やしたコストや時間によってプライドが形成されていくから。そこに損得勘定が入って来ると、「こんなの意味があるのかよ」や「何のためにやったんだよ」や「誰のために」というメリットやデメリットを考えると、好きであることを続けるのは実は滅茶苦茶難しくなっていく。
それに加えて、自分より凄い人なんて外に出ればめちゃめちゃいるよと。そういう人たちに会うと萎えちゃう。キツイし、好きだからこそシンドイ。つまり不安です。

『ブルーピリオド』が描いているのは「好きなものがあるのは幸せなんだけど不安でもある」という感覚。それをどれだけ「共感」として物語に組み込めるのか。

可能性や未来というものが閉じていく、進路選択の高校2年生、そこには大人の意見と子どもの意見の対比があって、大人の意見は「絵を描くのは趣味程度でいいんじゃない。働きながらでも出来るんだし」だとするなら、子どもの意見は「心身ともに骨を埋める覚悟で熱中して欲しい。損得とか抜きにして」となる。

でも実際、損得抜きにするのって難しいじゃないですか。


ろこ:うん。


政夫:実際、主人公は打算的で、周りのDQNたちとオールしていても「こいつらといるのは心地いいんだけど、心底ノレナイ自分もいる」と客観視している描写があって、基本的にこの主人公は熱くなれない系なんですよね。その主人公が、美術部の先輩が描いた絵に心を持っていかれてしまうところから、絵を描き始めて大学受験を美大とかにするんですよ。という漫画なんです。
で、『桐島、部活やめるってよ』は「何も持っていない、あるいは何か持っていたかもしれないけど、何もない自分を自覚していく」という閉じていく話だったじゃないですか。


ろこ:うん、そうだね。


政夫:それに対して『ブルーピリオド』は今まで熱くなれるものがなかったスクールカースト上位のDQNがようやく心の底の奥から熱くなれるものを見付けたという、今まで彼に絵を描くというオプションが無かったんですよね。無かった可能性が生まれる瞬間、それによって自分の世界が広がっていく。

美術部というちょっと根暗なコミュニティにDQNの彼が所属することで、科学反応が起きるといいますか、そこでの承認と成長が描かれていくんです。

「なんか好きなものを見付けたかも=熱くなれるもの」で、この共感を描きながらどのように具体化させていく流れになっていくかというと、主人公含むDQNたちがオールしている時にサッカー日本代表の試合を観ている描写があるんです。日本がゴールを決めて「ウォォォォ!!」と盛り上がるじゃないですか。


ろこ:うん。


政夫:ゴールを決めたからみんな酒を飲もうぜワイワイやるみたいなシーンがあるんですけど、ある日、主人公が、彼は客観視しているので「この感動は俺のものなのか?」という疑問を抱くんですよ。

日本代表がゴールを決めたから、ウォォォ!!嬉しい!という感情。

でもこの感情って俺のものなのか?と。


ろこ:はいはいはいはい。


政夫:「俺なにもしてないんじゃん。テレビの前でゴールシーンを見て酒飲んで俺なにもしてないんじゃん」って。


ろこ:アイデンティティだなー。


政夫:そこから主人公は「体験」に入っていくんですよね。
だから、この漫画が描いているのは「共感」と「体験」です。

「体験」というのは絵を描くこと、本気で美術を学んでいく主人公。そこには努力と才能がしっかり書かれていて、大学受験や就職などの進路選択で、持っていたであろう何かが閉じていく年齢=高校2年生なのに、それに対して全く新しいとろこから道が拓けてきた主人公がどう歩んでいくのか…というのが2巻以降になっていくと思うんですよね。


ろこ:まだ続いているんだろ?


政夫:続いていますよ。

僕がなんでこの話をしたのかというと、この後、ろこさんに話してもらう大長編スペクタクルな話の前振りとして「共感と体験」を話したかったから。

「好きなものというのは恐いんだよ」と。僕らがこういうラジオ配信をやっているのって、お互いに共感してアンテナとかがマッチしたから、その共感する何かを外に発信する体験をしていますよね。


ろこ:アウトプットしているよね。


政夫:ツイッターなどのネットでも「この人凄いな」っていう人いるじゃないですか。そんな人らと気軽に遣り取り出来ても、そこから具体的にコミュニティやオンラインサロンなどに入っていくと、より体験(刺激)が具体化していくと思うけど、そこで体験しているだけじゃダメで。

この共感と体験を具体化していく、肌感覚としてやるためには行動しないといけないよねって。「中」に居るだけじゃなくて、「外」にもという意味で。

それが僕たちが考えた末が、このラジオ配信だったりするんですけど。

 

※この記事は7月に行われた配信の一部文字起こしです。

 

podcast-is.seesaa.net

ブルーピリオド(1) (アフタヌーンKC)

ブルーピリオド(1) (アフタヌーンKC)

 

 

桐島、部活やめるってよ (本編BD+特典DVD 2枚組) [Blu-ray]

桐島、部活やめるってよ (本編BD+特典DVD 2枚組) [Blu-ray]