古市憲寿『希望難民ご一行様 ピースボートと「承認の共同体」幻想』感想 あきらめによるモラトリアムの延長と成熟という名の幼稚化の拡大を図る
政夫:今日は古市憲寿さんの『希望難民ご一行様』という本、2010年に刊行された本について僕らが頑張って読み解いていこうと。
希望難民ご一行様 ピースボートと「承認の共同体」幻想 (光文社新書)
- 作者: 古市憲寿,本田由紀
- 出版社/メーカー: 光文社
- 発売日: 2010/08/17
- メディア: 新書
- 購入: 11人 クリック: 259回
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何故この本をチョイスしたのかというと、現代にも通じるんですけど、この本自体が持つ効果というか、後はろこさんのような自分探しという内面性を一度クリアにしておきたいなと。
要するにおおたまラジオで自己の内面みたいな話はこれでオシマイですよって話ですかね。
ろこ:(笑)
政夫:だって、毎回ろこさんのお悩みなんかやっていたら、聴かないじゃん、誰も。
ろこ:でもね。
政夫:そんな話していていいのかという気がしません?
ろこ:そうですけど。これも俺の自己表現というか。
政夫:それはろこさんの話なんですよ。
ろこ:消費活動ですよね。
政夫:ろこさんの消費を、内面を消費したことによる自己実現なんですよ。それはおおたまラジオ的には全然大きくないですよ。全然小さいというか。
ろこ:自分語りをやめろと。
政夫:自分語りは良いんですけど、お悩み的な(笑)何かに託けた自分語りでしかないから。
ろこ:でも、俺の日々の活動範囲は半径5Mですよ。
政夫:もうちょっと広めてくださいよ。
ろこ:(笑)
政夫:バズるインフルエンサーが言いそうな半径5Mじゃないですか。じゃあ、バズってくださいよ(笑)
ろこ:俺の日常はそんなもんだぞと。
政夫:僕は5M以上の話がしたいということですよ。
ろこ:やる前に一個だけ確認というか。聴き直した時に、こいつヤバいこと言ってなというリスクヘッジとして、格差の問題が来そうなんだよね。ポジショントーク的な感じが、来るかなと予想していて、政夫君が宮台さんと落合陽一の動画を送ってきたじゃないですか。コメント欄はエグイ程バッシングがあって、宮台さんは敢えてやっているのか知らないけど、なんか怖いじゃないですか。要は主観と客観がごちゃ混ぜになるというか。それは危ないこともあるじゃないですか。それを整理というか。俺は何を喋るか分からないから。
政夫:なに始まる前から(笑)どういうポジションなんですか、それ。
ろこ:半径5M以内で生きている超ゆとり市民という感じで。
政夫:小市民ですよね。
ろこ:そうそう。
政夫:小市民的な話は『希望難民ご一行様』がそういう本じゃないですか。
で、コミュニティが処方箋になっている世の中ですよね。本書で出てくる社会的排除という単語は、貧しさや寂しさが合わさった概念なんですけど、その処方箋としてコミュニティがあると。
古市は、本書でそれを「承認の共同体」とし、マジック的に捉えていない。つまり承認の共同体があれば何でもOKや処方箋になるよと全面的に肯定して捉えていないし、処方箋としての機能以外に着目しているのが本書ですよね。
コミュニティへの疑問と諦めの目線を提供しているのが本書ですよ。
ろこ:「冷却」って書いてあったね。
政夫:そうです。
冷却論の話はまたしますけど、なぜコミュニティが処方箋として機能しているかというと、この本では村上龍の『希望の国のエクソダス』が引用されていて、「この国には何でもある。本当にいろいろなものがあります。だが、希望だけない」という台詞が引用されているじゃないですか。
これは、『希望の国のエクソダス』が描かれた状況的にバブル崩壊後の閉塞感を意味していて、希望や未来がなく、ただ不安がある状態。ただ、今よりも自分が輝くステージがあるんじゃないかと希望を抱いてしまうことによって、現実と理想のギャップが生じて苦しんじゃう人を希望難民と呼ぶのが本書の位置付けで、希望難民というのはギャップと日常の閉塞感による生きづらさによって難民している人たち。
ろこ:うん。
政夫:三浦展の『下流社会』という本で、下流意識が強い若者ほど自分らしさや自己実現志向が強いと。下流意識が強い若者が自分らしさを求めてしまうのは、地盤がないんですよね。成り上がりたいんですよ。中流、上流を目指す上昇志向。ろこさんが下流意識があるのかは置いといて。
ろこ:ありますよ。
政夫:その処方箋というのがコミュニティなんじゃないの?ってのが、この本の大前提にあるもので。でも、それって怪しくない?って。
なんで希望難民って生まれちゃうのっては、本田由紀の「ハイパー・メリトクラシー化する社会」という単語が出てきましたが、メリトクラシーってのは能力主義みたいな。良い大学から良い会社みたいな物語があった時はそれで良かったけど、大学は沢山作られ、バブルは崩壊し、良い会社に、そのままレールに乗れなくなっちゃった。物語として。そういう時に何を見るのかというと、人間力やコミュ力ですよね。ポスト工業社会では、それ以前は工業化された人間だったけど、それよりも人間力やコミュ力というアバウトな基準による人間的なものが求められてしまった。
本田由紀はこの後ちょいちょい出てきますが、本書の解説と反論を書いていますよね。この人はゼロ年代のニートやフリーター、ロスジェネ問題に関わっていて、古市さんのあとがきにもあるように師匠の一人であることは間違いないと思うんですけど(上野千鶴子もそう)、ハイパー・メリトクラシー化した社会で、良い大学に受かっても良い会社に入れるとは限らない。その保証が無い。
じゃあ、どうするのってなった時に、受験というレールの外ではベンチャーやアイドルや漫画家といったある種学歴から離れたところでキラキラしたロマンがあると。これは、もう朝井リョウですよ。
ろこ:(笑)
政夫:『何者』とか。
あれは就活生と劇団の対比を。現実に生きる就活生と理想に溺れたい劇団員の対比があって、それをナナメからみて馬鹿にしている主人公が最後とんでもないことになってしまうというお話で、『武道館』はアイドルを素材にした物語で、アイドルも簡単じゃねーよというもので。
ろこ:朝井リョウなら『死にがいを求めて生きているの』を俺は読んだけど、凄い出てくる人は息苦しい人生の内面性を書いていて、誰かに必要とされているのも実は苦しんだよという逆の立場をいきながら、小中高大学時代と生きながら芽生えていくというか。
政夫:生きづらさですよね。『希望難民』とも重なるじゃないですか。
ろこ:そうやな。
政夫:本書の主張が「若者よ、あきらめてくれ」じゃなくて、「若者をあきらめさせてくれ」じゃないですか。古市自身はあきらめきれない若者ではなく、あきらめさせてくれない社会を問題設定にしていて。その朝井リョウの本は未読ですが、あきらめさせてくれない側の話をしていますよね。
ろこ:そうやな。生きづらさの葛藤を。
政夫:あきらめさせてくれないが故の生きづらさを描いているというか。
ろこ:もっと小さい目的のために生きるという立場や、そんな大きくなくて良いし。夢みたいな響きじゃなくてもいい。言い訳みたいに聞こえるかもしれないけど。
政夫:その路線というのが、ピースボート効果による冷却された彼らの小市民的意識に近いんじゃないですか。
ろこ:あー。
政夫:本書の古市の結論に近いと思うんですよ。
ろこ:近い。近い。
政夫:それはあきらめきれない若者が問題ではなくて、あきらめさせてくれない社会が問題だというのが本書の立ち位置なんで。そこまで朝井リョウが踏み込んでいるかは分からないですけど。
ろこ:もうちょっと時代性というか、ちょっとズレている気もするけど、そこは一緒かもしれんな。
政夫:ここからザックリ入っていきます。
第1章って結構凄くて。2、30ページでここ最近の社会学的トピックを網羅しているんですよ。ザックリなんですけどね。あれは本当は要点を細かく掘り下げないといけないんですけど、一応流れとして書かれていて。
近代の曲がり角として1973年頃と1991年頃という風に古市は書いているんですけど、1970年頃からポストモダン、大きな物語の終焉とかいわれ、つまり近代化がある程度成就し、一定の成長の限界があり、その後日本は高度経済成長が終わった頃ですね。
環境汚染があり、水俣病やイタイイタイ病とか。あとはエネルギーや資源問題、また人口爆発があり、経済成長した後どうするの?みたいな、つまり高度経済成長期では経済の成長というロマン=物語があったのだけど、それがある程度落ち着いた時に、そのロマンが語れなくなってしまった時代だと。
そうなった時に、アンソニー・ギデンズが存在論的不安だと記していて、これはアイデンティティの危機だと。なぜ脅かされているのかというと、ローカルな共同体に個々人が正確に組み込まれていた近代に比べると、ポストモダン以降は流動的で自分が何者なのか分からない。存在的に不安であり、悩んでしまう。これは近代的不幸みたいな話に近くて、これは文豪ですよ。森鴎外や夏目漱石などが描いてた近代的自我、近代化による歪みや軋みを描く、揺れてしまう自我を捉えていたからこそ文学というのは処方箋になっていた。
以前、おおたまラジオで喋りましたが、『文豪ストレイドッグス』というアニメがありまして。
これはとても文学的なんですよ。そういう意味では。現代的な自己肯定感が低い若者が、どのように立ち直っていくのかという物語で、成長物語でもあると同時に自分が何者なのか?や自分というコンプレックスや傷を抱えながらも、それでも生きていかないといけない祈りのような物語でもあるんですけど、これは文学なんですよ。
つまり、近代化以降は自分探しが終わらないんですよ。文学がその一端を担っていた。
ろこ:サブカルチャーもそうだったって書いてあったよね。
政夫:そうです。これまでが1975年頃までで、91年頃はバブル崩壊なんですけど、バブルが実際に崩壊したなと実感があったのは95年とかも言われているんですけど、それは東京と地方だと別なんでしょうね。バブルの実感は。
ろこ:それは話せないでしょ。
政夫:ここで言いたいのは、この段階で家族・教育・仕事の三角形のレールが機能しなくなってしまったという。近代で作られていたレールが歪んでしまった。バブル崩壊からロスジェネ、就職氷河期世代の問題になっていくんで。
ろこ:もう、導入が社会学ぽいよな。
政夫:社会学なんだって(笑)
ろこ:(笑)
政夫:そのロスジェネの、若者の労働問題というのは、さっき本田由紀さんの名前を出しましたが、ゼロ年代以降の社会学や論壇の一つのムーヴメントになったわけですよ。もちろん、90年代から噴出していたわけですけど、具体的に語られ始めたのはゼロ年代以降で、それはつまり経済格差と承認を巡る問題なわけですよね。コミットできないから承認も獲得できない。寂しい、貧乏だという問題が付き纏っていた時に、赤木智弘さんが「希望は戦争だ」みたいなことを書いたわけですよ。
要するに、赤木さんは戦争望んでいるわけじゃないんですが、戦争のような大きな状況によって引っくり返ってくれないかと希望を込めて戦争を言っているんですよね。これは、萱野捻人さんに承認が欲しいだけの格差に対する異議申し立てに過ぎないと一蹴されてしまいまして。その承認の問題は90年代後半から続くナショナリズムブームとも関係していて。ナショナリズムが癒しになると。
ろこ:デモですか。
政夫:デモは当事者性の話で、後で出てきます。
要するに国民国家という歴史の問題が、自分に安定感を与える。ナショナリズムが自分の承認になる。
ろこ:愛国心かな。
政夫:簡単にいえば、ネトウヨですね。承認の欠如というのは居場所の問題なんですよ。居場所の話はおおたまラジオで何回か取り上げていますが、その処方箋になっているのがコミュニティなんじゃないのって。つながりの話なのではと。今でいうオンラインサロンやSNSです。あとは家族論や疑似家族論。これは『スロウハイツ』でもやりましたけど。
あとは、おおたまラジオのプレ配信で石川善樹さんの本で「5つのコミュニティに所属していると幸せになれる」んじゃないかという話もしましたよね。
で、さっきろこさんが言ったように、中西新太郎さんがサブカルも一つの拠り所になっていると。好きなアニメがプロフィールとして機能したりとか。アニメアイコンやbioに作品名をただ羅列しているだけで、作品を語ることがイコール自分語りになっている。自分のアイデンティティになっている。
だから、ろこさんがセレッソ好きです、銀杏好きですとか言っているのも、銀杏とろこさんには厳密的には関係ないけど、それが(恰も)イコールとして結びついてしまう、仮のアイデンティティとして。
そのような効果があって、宮台真司さんが言っていた島宇宙化、クラスタ化にどんどんなっていく。文化による共同性が、存在論的にクラスタ化していく。細分化していく。
ろこ:安定しているのかな(笑)
政夫:自分の拠り所にはなる。立ち位置が分かる。これは鈴木謙介さんが、それを確保することで承認の共同体って重要なんじゃないのって。承認の共同体を通して自己肯定感を癒すと言っているんだけど、ぶっちゃけ共同体ってどうなのよ?って。
共同体に組み込まれちゃうと、目的性が冷却されちゃうんじゃねーのが本書ですよね。
ろこ:そうだね。その反論が本田由紀さんの。もうちょっと補足という側面もあるのだろうけど、巻末の方が説得力があったなと思ったりしたよ。
政夫:共同体にイデオロギーや理念みたいなものが、ネタやお祭り的に消費されて、ただただ人間関係をぬくぬくと温存するだけ。
で、最初に組み込まれていたイデオロギーは冷却、忘却されちゃうのではというのが古市の仮説だったわけですよ。それをピースボートを通して眺めたのが本書の構成になっていて、一部重複するんですけど、なんで若者は旅をするのだろうところの話になるじゃないですか。一応、カニ族というバックパッカーの起源とも言われている彼らは60年代後半に北海道を目指したと。北海道って重要なんですよ。村上春樹の『羊をめぐる冒険』は北海道を目指す小説ですからね。
ろこ:え、そうなんや。
政夫:是非、読んで下さい。この本はハトトカの中村慎太郎さんが一番好きな本です。
ろこ:マジで(笑)
政夫:マジです。中村さんが書いた『サポーターをめぐる冒険』のタイトル元です。
サポーターをめぐる冒険 Jリーグを初観戦した結果、思わぬことになった
- 作者: 中村慎太郎
- 出版社/メーカー: ころから
- 発売日: 2014/06/12
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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ろこ:そうなんや。俺からしたら北海道はね…
政夫:これ、60年代後半の話だから。
ろこ:そうだね。全然生まれていないや。
政夫:生まれているでしょ。
ろこ:やめい(笑)
政夫:おじいちゃん、もうご飯食べたでしょ、さっき。
ろこ:(笑)
政夫:近代的不幸の話を文学と混ぜて喋りましたが、小熊英二さんが戦争や貧困というのが近代的不幸だったのに対して、現代的不幸というのは高度経済成長や大量消費文化の中で若者たちの閉塞感や虚無感がそれだと。つまり、自分とは何者なのか?と。
さっきも言いましたが、これは朝井リョウが描いてきたものです。アイデンティティ・クライシスで。60年代末なら学生運動があって、宇野常寛が揶揄しているワードに「自分探し系左翼」というのがあるんですけど、まさに言論と政治と運動が結びついてた時代だけど、あくまでも左翼にとっては自分探しでしかなかったという意見もあったり。それに絶対否定は入るんですけど。
1980年代にはHISが業務開始し、『地球の歩き方』が出版され、沢木耕太郎の『深夜特急』も刊行され、『電波少年』の猿岩石がバックパッカーになると。有吉ですよ。
この辺りから冒険がコンテンツ化する流れがあって、これは今でも続いています。『イッテQ』がそうですね。あとは、街ブラロケというのも日常の中で小さな冒険を行うという、こんなところにこんなお店があったんだという冒険ですよね。その冒険をシェアしているのがSNSや仲間・友だち。
これは『よりもい』ですよね。南極を背景に、自分や仲間を探す物語は『よりもい』がやっていたじゃないですか。
要するに冒険がコンテンツ化していたんですよ。でも、若者は旅離れが起きると。最近、旅をしていますか?
ろこ:なんや(笑)最近、行けていない。
政夫:なんでしていないかというと、貧困によるもの。
ろこ:間違っていないよ。
政夫:この流れから、三浦展さんの新・団体旅行がありまして、大人数で旅をすれば自分探しの孤独も癒えるんじゃねーのみたいな。語学留学やNGO訪問やボランティアがそうですね。ピースボートもこの流れですよね。
ろこ:ボランティアブームもあったな。でも、俺が自分探し=旅は中田英寿を思い出す。
政夫:そうですね(笑)速水さんの著作で中田英寿は出てきます。
ろこ:海外放浪しますって。サッカー選手辞めるんだから、それなりのインパクトはあったよね。
政夫:宇多田ヒカルも自分探しで休業しましたね。
ろこ:確かに。
政夫:人間活動という名目でしたけど。
ろこ:捉え方が今とは違うよね。今、中田をみるとアレとか。彼の年頃なら普通なのかもしれんけど。
政夫:引退した時って28歳とかでしたよね。
ろこ:28、9だったと思う。
政夫:30前でしたよね。
ろこ:うん。
政夫:ヒデが自分探ししちゃう年齢なんだから、ろこさんも自分探ししても良いという結論になるかもしれないな、この放送も(笑)
ろこ:やめろ(笑)話を戻せ。
政夫:ピースボートの歴史を紐解くと、政治的理念の実現が、目的性が漂白されていった歴史がありまして。最初は戦争を想起させるものだったのが、90年代頃から環境や国際交流組織、NGOとか世界平和とかアバウトなものにすり替わっていく。
98年以降は完全に今のイメージにある地球一周の旅。メッセージとしては地球市民、平和。イデオロギーから政治的に中立化していくという。
これはつまり漂白された目的性という、これはピースボートの理念なんですが、古市の仮説にある共同体に組み込まれてしまえば目的性は漂白、冷却されてしまうのではないかというのは、ここ繋がりなんですよね。
ろこ:掴み辛いから、もうちょっと手前の話をね。ピースボートに乗る若者の目的は色々あるけど、将来何かやりたいという目的があって。
政夫:観光と自分探し、自己実現も含めてですけど。
ろこ:その中で、同じ目的が共同体を作り、最初に持っていた目的が冷却されてしまって、戻った時に目的って何だったっけ状態。
政夫:昔のピースボートはガチガチに政治的だったんだけど、過去の戦争という後ろ向きなものよりも、地球や平和みたいな感じで、前向きなんだけど何も言っていないじゃんみたいな。なんか言った風になっているだけで、でもこれからみんなで考えていかないといけないんだからね、みたいなそんな当たり前のことを、アバウトなものを使うことによって場を演出しているのがピースボート。一番引っかかるのは古市が分類したセカイ型の若者たち。この後出てきますが、セカイ型と文化祭型と自分探し型と観光客型と4つに類型されていまして。これも結局、ナショナリズムで埋めるのと大体一緒なんですよ。
ろこ:うん。
政夫:世界平和とかを通して若者たちの承認のリソースにしている。個人の内面を大きな物語に結びつけて承認を獲得しているというのは、宇野常寛さんがいうような自分探し系左翼もそうですが、個人の内面の流れは変わらないんじゃないかと疑問があるんですけど。
さっき、ろこさんが言っていましたが、乗船動機は観光メインなんですよね。本の中のアンケートによると。退屈な日常を抜け出したいらしいです。あとは交流したいとか。今までの生活から抜け出して、自分を変えたいという自分探し。
ろこ:俺の時代は、周りに海外志向が強い奴が多かったな。海外で仕事をしてみたいというグローバルな(笑)この言葉も薄っぺらいけど。要は大きなものに、日本から出たいじゃないけど、夢を持っている奴が多かった。
政夫:僕は承認と自己肯定感ってバケツってイメージがあって。バケツに水を注ぐじゃないですか。たっぷり入ったら満足するんですけど、溢れちゃうじゃないですか。となると、もう一回り大きなバケツが必要になるんですよ。それでバケツを積み重ねていくと、結局自己肯定と承認は埋まり切らないんですよ。大きなバケツを用意することは、つまり一個上のステージに行くということなんで、またそのバケツを注がないといけないから、際限がない。
ろこ:分かり易い。確かに。
政夫:自分探し系の話は『よりもい』もそうでしたが、終わりなき日常の連続性に対してどう向き合うかみたいなところで、このピースボートの本が出たのが震災前というのが一つのポイントで。2011年には宇野常寛の『リトルピープル』と古市の『絶望の国の幸福な若者たち』が出ているんですよ。是非とも後者は読んで欲しい。これはピースボートの発展形です。セットです。
ろこ:だから、サヴァイヴできんの?みたいな。
政夫:サヴァイヴというか、震災後に古市憲寿という学者、書き手がある種若者の処方箋になってしまった。こんなんでもいいんじゃないのって。そういう風に後押ししてくれたというか。
内田樹が言っていた自分探しの旅というのは、要するに自分についての外部評価のリセットが目的なんじゃないの?って言っていて、これは居場所論なんです。自分の今の居場所に不満があるから。これは今でいうなろう系小説、異世界転生に近い。
ここではない何処かへ行けば、自分最強みたいな。異世界に転生すれば最強みたいな精神性にかなり近いんですよ。
ろこ:居場所探しか。
政夫:自分とは何者なのか?みたいな疑問は現状の環境や外部評価に不満があるからではないかというのが内田さんの指摘であるんですけど、それ含めて小熊英二の現代的不幸という生きづらさがあって、その処方箋がコミュニティなのではないかと。
現代ではアイデンティティや自分の内面というのは政治の外側の領域にあって、政治とは結びつていないんですよ。さっき左翼の話をした時に、言論と政治が繋がっていたと話しましたが、内面性というのは違くて、内面は内面、政治は政治という風に切り離されている。要するに個々人の問題であると、生きづらさは。だから現代病なんじゃないかと。これは本屋に行けば分かりますよ。
ろこ:そうやな。
政夫:自己啓発本やコミュ力上げるための本とか。ダイエット本や超訳ニーチェとか。
ろこ:どうやって幸せになるのかというのを探し出した。
政夫:なんとなく心の問題なのではないかなと、それに対する処方箋として、メリトクラシー化する社会において、人間力とかが求められているから、じゃあどうやって上げればいいのかなって、自己啓発本がある。だから本屋では自己啓発本が多いんですよ。売れるから。
ろこ:危ないよね。
政夫:ろこさんは危ないですよ。
ろこ:(笑)自覚していますよ。
政夫:是非とも良いオンラインサロンに入って下さい。
ろこ:(笑)
政夫:さっき4つの類型を出しましたが、セカイ型はピースボートの理念とかに素朴に共鳴している。世界平和を謳うことで、それを通じて承認のリソースにしている。大きな物語に接続していることから、セカイ系ですよね、ゼロ年代のオタクカルチャーの。セカイ系の話をすると、エヴァの話をしないといけないのでゴメンナサイ。
ろこ:(笑)
ろこ:ネトフリで配信開始したから、俺は観れる環境でもある。
政夫:それが炎上しているのも知っています。
ろこ:それは番外編でね。
政夫:やりません。文化祭型は場所があればOKという、政治的関心はないけどお祭りは好きと。
ろこ:パリピですか。
政夫:まあ、何も考えていない人たちですね。
ろこ:(笑)
政夫:自分探し型というのはセカイ型ほどコミットしなくても政治的問題に興味あると。で、自分探ししている。
観光型はピースボートの共同性にコミットせず、理念にも共感しない。一番冷めている。一番客観的。
ろこ:俺は、これかも。
政夫:あー、そうなんですか。セカイ型や文化祭型にとって世界は背景に過ぎず、仲間たちとのコミュニケーションやコミュニティがあれば、場所がどこであろうともお祭りになっちゃう。仲間!絆!地元みたいな流れ。代表的なのは憲法9条の9条ダンス。
ろこ:ありましたね。
政夫:憲法9条守ろうという護憲活動の理念の一つなんですけど、9条ダンスを通して9条が自分の問題になっていく、自分事になっていくという。これはロマン主義と個人主義がブリッジする。9条が自分の問題かのようになる。9条に対する政治的な話ではなく、9条と自分という自分探しのリソースになる。
要するに9条を語るなら政治的な目的の話をしないといけないんだけど、彼らにとっては承認のリソースの手段でしかないんですよ。目的ではない。
ろこ:ただ踊りたい。
政夫:ナショナリズムを自分の実存と結びつけるのはありがちな感じだし、大きなものと個人の実存が繋がっているのは精神性でいえばセカイ系の話でもあるし、セカイ系というのは自己の変革によってセカイも変わるという話なので、ピースボートでセカイを体験することで自分事のようになっていき、現代的不幸である生きづらさを癒していく最中。
セカイ系でよく挙がるのは新海誠の『ほしのこえ』というアニメ映画がありまして、これは、僕は新海誠ベスト3に入る作品ですね。
一番好きなのは『言の葉の庭』です。『君の名は。』は入りません。
ろこ:『君の名は』は入らないの?
政夫:全然大したことない。
ろこ:『秒速』は?
政夫:『秒速』もいいですね。
大きな問題を自分事のようにしていく。短絡的に結びつけてしまう。
ろこ:俺が思い描いていた学生の後のルートってそうだったかも。会社に入って、会社の目的を達成していく。会社に溶け込んでいく、生きていくみたいな。入る前は頑張って薄っぺらいことを面接とか、だから就活なのかな、自己分析とか(笑)
政夫:何の話(笑)
ろこ:ピースボートは理念があるじゃないですか。そう思って入るけど、理念は無くなって目的性が失われてしまうという構造だったと。
政夫:そうですね。
北田暁大さんが、若者たちがナショナリズムにコミットする理由の一つに、それが置き換え不可能というロマン的定義が刻み込まれた置き換え可能な記号だからと言っていましたけど、ロマンが自己の実存と置き換えることができる記号性ということですね。国民国家レベルのナショナリズムもあるし、世界や平和がそうでもあるし。これは90年代にナショナリズムブームの際に愛国ロマンがあった時に通じるというか、もちろん若者だけじゃないんですよ、この話は。
ただ、より若者は社会への基盤が無いから、不確かなアイデンティティを補うために共同性に寄り添ってしまう。自分らしさが不安定だから共同的に祭りに参加することでフォローする。宮台さんが言っていた島宇宙的に共振的なコミュニケーションがそれを指すんですけど、箱庭に閉じこもるということですよ。凄い自己中心的ですよね。セカイ系ってそういうもんだし、とても閉じた箱庭の話だから。
ピースボートの精神性というのはゼロ年代のオタクカルチャーぽい。90年代の憂鬱さからの引きこもり精神というか、モラトリアム、終わらない日常を生きていくための手段でもあり、目的でもある。
ただ、ピースボートに乗って分かったのは不確かなアイデンティティをカバーすることは出来なかったという結論ですよね。この本だと。ピースボートに乗って世界各国を巡っても人生を変えるような劇的な体験は無かったし、彼らにとって世界は背景に過ぎず、異国での交流や仲間との連帯は自分たちの祭りや感動する演出するものでしかなかったと。
ろこ:うん。
政夫:もちろん初めて9条の話を聞いたり、意識したりして、ナショナリズムや意識の変化はあるにしても、アイデンティティ自体が変わるかというとそうでもない。そのくらいの変化でしかない。ピースボートを降りた彼らがその後どうなったのかというと、古市が追跡したところ、セカイ型と文化祭型はピースボートの外でも共同性を維持し、でも政治性は漂白されているのが特徴。セカイ型はピースボートの理念に共鳴していたんだけど、コミットしていたはずなのに、9条ダンスとかで。
でも、それが冷却されてしまう。じゃあ、彼らは集まって何をしているかというと、ピースボートの思い出話。ピースボートの理念の世界平和という目的性じゃなくて、それを置き換えた上で箱庭の生活をただ振り返る。要するに目的性は存在しなくなっちゃった。
観光型は何事もなく日常に帰り、共同性にコミットしていたわけでもないから価値観や思想信条の大きな変化はないと。何も変わらなかった。モラトリアムですよ。でも、モラトリアムにピリオドを打てたという意味では自分探しの終わりに近い。
自分探し型というのは、ピースボートを終えて自分探しの欲求が高まるのがポイントだと。海外志向やクリエイティブ志向が上昇し、ピースボートで獲得した人脈が、更なるつながりへと。要するにピースボートは現代的不幸を癒す装置として機能せず、しかし自信とつながりを獲得させ、ピースボートの外の架け橋となると。
ここでようやく冷却の話になりますけど、承認の共同体は政治性や目的性を担保しないのではないかと。若者たちの希望や熱気は共同性によって冷却しちゃうんじゃないのって。だから、共同体ってそんなにいいの?が主張の一つでもあるんですけど。
この冷却論は、アヴィーング・ゴフマンが元ネタで、失敗をうまく受容し、平穏に戻れるようにする所作というところから来ているようですが、古市は冷却論を上手く使って、現代的不幸が解消されるのではないかと。生きづらさや自分探しの価値観に縛られているじゃないですか。
でも、ピースボートに乗って大きな話、世界平和など一旦接続して、それを経由してから冷却することで別の物語へシフトさせることができると。良いように言っていますけど、自分探しとかウダウダ言ってんなら、大きな物語に結びつけて、どうせバカだから忘れちゃうから(笑)という。そうすれば別の物語が開けているんじゃないのって。身も蓋もない言い方をすると。
ろこ:宮台さんの例もあったよね。
政夫:共振的コミュニケーションですね。共同性の話ですね。共同性によって、何かしらの理念が積み上がっていくんだけど、その目的性は冷めちゃうんじゃないのって。でも、冷めることで現代の若者が抱える屈託は癒えるのではないかと。それはダメじゃんという観方もある。
本田由紀が解説と反論で書いているんですけど、古市は、良いんじゃない正直(笑)みたいな意見なんです。つまり、現代的不幸は社会的承認ではなく、共同体の相互承認によって癒すことができるんじゃないのって。その共同性に目的は要らない。どうせ冷却するから。何が残るかというと、友だちの存在、つながり。
そして古市は、最終章にあたる第7章で「だからあなたはあきらめて」と書いてあるんですけど、ピースボートの遺産というのはムラ的な共同体だと。その共同体は目的性が冷却されていて、相互承認の共同体という「やさしい」場所しか残っていない。
でも、古市はこれを否定しているわけではないんですよ。
ろこ:そうだね。
政夫:古市は「ムラムラする人々」と記述しているんですけど、これは『絶望の国の幸福な若者たち』でより深掘りされているんですけど、これは何かしたいモヤモヤ・ムラムラした気持ちを同じように繰り返す。その反復構造に取り込まれるムラの中で反復的に居る彼ら。
ろこ:めっちゃ分かるよ。
政夫:日常の閉塞感から、どのように出ようかなといったようにずっとアレコレ彷徨っていると。これは村社会から来ているんですよね。
ろこ:俺がフェスに行くのはそういうことだと思う。
政夫:どういうことですか。
ろこ:基本的にはフェスのつながりは、そこだけにしかないところがあるから、それに会いに行っている。そこで熱狂を感じることで、癒しになっていると思うから。だから、ムラムラしていますよ。
政夫:(笑)
コミュニティの話になっちゃうんですけど、農耕の村社会があって、近代化が起きるじゃないですか。近代の曲がり角は本書では70年代と91年頃とし、そこから現代的不幸という戦争や貧困というところからくる近代的不幸ではなく、現代の生きづらさ、承認がない状態を今どうするかという話で、テクノロジーを使用して、コミュニティ、SNSやオンラインサロンやシェアリングという思想だったり。
ろこ:デジタルコミュニケーションね。
政夫:テクノロジーを一回経由して、コミュニティを作ると、結局クラスタ化しているからそこも小さなムラになるわけですよ。ムラ社会から離れて近代化したのに、現代的不幸を癒すにはもう一回ムラ化しないといけないという、結局中間共同体が無いんですよ。
ムラ社会をみんなバカにしているけど、ムラ社会的に取り込まれている。オンラインでも。じゃあ、どうすればいいのか?という話になりますが、開放性ですよ。共同体における目的性が冷却してしまっても、少しずつ変化していく、ほどよいオープンさ。
ろこ:ムズっ。
政夫:難しいです。それはコミュニティの温存でもあり、人々のゆるいつながりなんですよ。強いつながりだとムラ社会的だから。ゆるさが大事なんです。
ろこ:『ゆるキャン△』ですか。
政夫:かもしんない。確かに。友だちの友だち感覚ありますものね。『よりもい』だとガッツリ「友だち」にコミットしちゃっているけど。『ゆるキャン△』はゆるい連帯感はありますね。やっているキャンプはガチだけど。
ろこ:そう思うのは現実が努力したら報われるよという道筋があんまり見えないから、選択肢として取りに行っている感覚よね。
頑張るしかないけど、埋めに行っている感覚はある。ゆるさを埋めているというか。
政夫:一応この本では、セカイ型のように目的性にコミットしていても共同性に組み込まれちゃうと冷却しちゃうと。コミットしすぎると冷却しちゃうから。
だから、ゆるさが大事だと。要するに共同性に回収されちゃうんだけど、ロマン主義や大きな物語、自分探しというのは、自分の物語や仲間!に吸収されてしまう冷却効果=あきらめがある。それによって社会的承認を手に入れるステージなのに、友だち同士の相互承認にすり替わってしまう。これは目的性が無いから。内輪になってしまう。
だからピースボートから出てきた彼らは、セカイ型や文化祭型はピースボートの思い出話をすると。ただ共同性は温存される。そういうものに対して、コミュニティへの疑問が生まれるじゃないですか。
ろこ:絶対生まれる。
政夫:友だち的なもので憂いを癒す一方で、社会的承認はあきらめを促されてしまうのではないかと。冷却しちゃうと。結局、地元!仲間!でOKだったらダメじゃんって。でも、社会的にはそういう風に要請されているのではというのが古市の立場で、だって人生はクソゲーでしょって。
ろこ:(笑)
政夫:クソゲーなのに自己啓発を勧めてくるから、なんでこんなに社会はあきらめさせてくれないんだろうと。
ろこ:めちゃめちゃ分かる。
政夫:希望を見させ過ぎなんじゃないのって。だから俺たちは希望難民になってしまう。自分探しというのは、冷却や漂白されてしまう前の彼らの物語なんですよ。冷却されたら自分探しはしないんですよ。もう、地元ウェーイみたいな(笑)
ろこ:(笑)
政夫:これは凄いバカにして喋っていますけど。
ろこ:大阪バカにするなよ、お前。
政夫:大阪バカにしていない(笑)
ただ、古市は、承認の共同体と冷却の側面を示しつつ、今の社会構造に問題がないとは言っていない。若者へのセーフティネットだったり、キャリアラダー問題だったり。
人生はクソゲーなのに夢を追い続けることが美徳とされている一方で、あきらめさせることも重要なんじゃないのって。そのシニカルさが、文体が特徴というか、文体から作られている。価値観としては凄くクールなんですよね。友達と楽しければ良くない?友達と休日にBBQとかモンハンとかしていれば楽しくない?みたいにモラトリアムも否定していないんですよ、古市は。
あきらめさせてくれる装置として共同体を評価しているんですよ。でも、現代的不幸への処方箋として共同体が求めらていて、ある種共同体にしか希望が無い状況、それが希望難民への処方箋としてあるんだけど、ではどうやってあきらめさせようかという論の流れがありまして。
ろこ:なるほど。今、俺、やっとちょっと分かったというか。自分の中でのあきらめと違ったかも。
政夫:古市は全然否定はしていないです。肯定も殆どしていない。
ろこ:あきらめはシャットアウトのイメージだった。手放す感じ。執着を決めている感じがする。選択肢として、そこの共同体に居ることを決めているのが強いというか、だからいつまでツイッターでダラダラしている感じ。
政夫:あきらめさせて欲しいんですか。
ろこ:(笑)いやいや、そういうことなんだよなって。
政夫:この本の大事なことは、あきらめない人を否定はしていないことです。若者よ、あきらめてくれ、じゃなくて、あきらめさせてくれない社会って何なのってプロセスを踏んできたわけですけど、かといって人生はクソゲーって何だよそれ俺はあきらめないぞって人を別に否定はしていない。やる人はやるでしょって。冷却されない人もいるでしょ。
そういう人が目的性が冷却されないで運動ができるんじゃないのって。でも、全員に全員にそれを求めるのは無理じゃない?って目線があるから、じゃああきらめない人にやって貰おうと凄い他力本願ですよね。
ろこ:めちゃめちゃ分かりますよ。
政夫:他力本願でありつつ適材適所なのではないかと。これも居場所の話ですよね。なんとなく若者の政治とかへの興味って、政治とかよく分からないから分かる人だけで頑張ってくださいみたいな流れがあるじゃないですか。
ろこ:はい、ありますよ。
政夫:それに近いですよ。勝手にやってくれよ、頭いい人たちで。
ろこ:話変わるかもしれんけど、香港のデモがあるじゃないですか。凄くないですか。
政夫:凄い。
ろこ:変わっちゃったじゃないですか。デモで。
政夫:声を上げるべきことで声を上げる大事さ。
ろこ:アレ、日本には絶対ないというか。
政夫:SNSですよね。
ろこ:SNSを活用して、マスクを着けて、あれは中国の管理社会への抵抗みたいなもので、活用の仕方が凄いと記事に載っているんだけど。
政夫:おおたまラジオも時事問題を斬っていく流れかな、これは。
ろこ:(笑)
政夫:アニメとかよくない?みたいな。そんなこと言ってられなくないって話ですよね。『よりもい』とか話してスミマセン。
ろこ:いやいや(笑)今の政治とかへの興味って、俺は言ったってしょうがないかなという発想だから切り替えていくしかないと。逆に「死にがい」を求めているみたいな側面もあると思うけど。
政夫:やってくれる人はやってくれるでしょという他力です。
ろこ:俺は民主主義の勝ちかなと。中国は独裁じゃないですか。
政夫:北京政府が。
ろこ:デモにあれだけ参加する人がおったということは、要は数の暴力も価値に担保されるんだろうなと。物凄く浅いけど、思っちゃった。
香港に友達がいるんだけど、デモについて遣り取りしたのよ。そしたら、香港をめっちゃ出たいと言っていて。あれが可決したら住み辛いことが確定しちゃうから、もう、あきらめているスタンスで速攻で引っ越しの準備をしていると。グローバルな考え方だと思うんだけど、そういう人もおる。中国側もみんながみんなそう思っていないと思うけど、彼らは、記事で読んだのはめっちゃ『進撃の巨人』だと。
中国本土の「壁」を破りに行く危機感で、若者が立ち上がっているよと。そういうシステムで守られていない若者たちにとっては、もっと考えて、SNSの運用とか、ちゃんとしてんだなって。これ、日本じゃ無理だなって。
政夫:日本もあったんですけどね、そういう流れは。
ろこ:でも、若者の感覚はそういうの無さそうだなって。
政夫:安保法案の時ですよ。集団的自衛権の。誰も話題にしなくなった。憲法改正の時に再燃すると思うんですけど、憲法の解釈の話になっていくんで。
ろこ:政夫君は政治への参加とか無いやろ。
政夫:いや、めちゃめちゃですよ。立候補もするし(笑)
ろこ:(笑)
政夫:おおたまラジオは、次は雨傘運動以降のデモの流れをやることになるんですかね。ジャスミン革命と雨傘運動を参照しつつ。
ろこ:中国と香港の戦いの歴史を紐解くとかね…やめましょやめましょ。
政夫:話を戻しますけど、人生はクソゲーだからあきらめた方がいいんじゃないのって処方箋として実は機能しているのが、この本でもあり、コミュニティが処方箋となるといっても冷却しちゃうじゃん、でも目的性が無いけどつながりだけで仲間と祭りしていても結局よくない?それで。運動とか無理じゃん。やれる人だけでやってくれよ。
という若者像のアップデートも図ろうとしている。そういう意味であきらめを促している。
だから、成熟モデルの変化を促しているんですよ。従来の成熟モデルはもう無理だよと。みんな、それに乗っかれないよと。そういう意味で若者像をアップデートしようという企みがあるのがこの本で、それに対して巻末に本田由紀の解説と反論があるんですけど。
まあ、若者が何をあきらめたのかが分からないと本田由紀は書いてありますが、僕が読んだ感じだと、ロマンをあきらめたんじゃないかなと。自己の実存の肯定と承認の共同体を通して生活するだけで良くない?ロマン主義はもう無理じゃんって。大きなものを、大きなままで語れないから。
だから結局、憲法9条みたいなのを政治性の話ではなく、9条ダンスのように自分の身体性に取り込んで、自分の内面の問題にしていく。9条と私が繋がっているんだと。そういう話じゃないんですよ、9条って。
ろこ:うん。
政夫:ただ、ピースボートの理念は世界平和だったから、9条との親和性は高い。交戦権の否認と戦力の不保持で、平和的理念だと思いますけど、でも結局ロマンは冷却しちゃうじゃんって。自己と結びついちゃうだけだから…という話だと思うんですけど。
ろこ:そういう提示している人は貴重かもね。
政夫:だから、古市は若い書き手として一気に名が売れた。若者のことをある意味突き放しているし、そんなのダメでしょって言ってくれる大人が必要、本田由紀さんみたいな。それ、ダメじゃない?って。あきらめちゃダメでしょ、が本田由紀さんの見解なので、でも無理なものは無理なんだよとしてアップデートを図ろうとしているのが古市なんですよね。
本田由紀さんによると、ピースボートは日常からの隔絶のレベルが、時間的にも、空間的にも、社会的にも、一つの儀式として機能しているのではないだろうかと。通過儀礼として見える。一応、古市は本の中で通過儀礼のように見えなくもないと書いてあるんですけど、本田由紀としては通過儀礼的であると。
で、なにかを共有することであきらめるということは、区切ることが顕在化しているのではないだろうかと。だからといって、お金が無くても仲間いればOKって本当なの?って疑問が本田由紀さんからありまして。
古市は、いやいやそれでいいんだって。あきらめきれない人だけにやって貰おうと。当事者性の否定をしているわけですが、本田さんは、いやいや当事者性は必要でしょって。
というのがこの本の巻末の流れなんですが、当事者性というのは、さっきのデモやSNSのつながり。デモはその体現ですよ。自分たちの権利が侵害されている。脅かされているということで、当事者性が然るべきタイミングで声を上げた結果ですよね。
ろこ:そうやね。
政夫:というのが、この本の概略だったわけなんですが、ちょっとこれで整理したと思うんですけど、当事者性とかどう思いますか。
ろこさん的には。古市の意見と、それは従来の成熟したモデルは無理だからやれる人はやってくれよと。こっちはあきらめても良くないか?と。一方で、本田由紀さんは、あきらめちゃ駄目でしょって。
ろこ:俺は多分、朝井リョウ的というか、引っ張られるところがあって。当事者じゃなければ無責任なことを一杯言えると思うんだよね。
政夫:非常にインターネットですね。
ろこ:そうでしょ。要は自分から、行動できないという部分もあるけど、行動できないとか自分ができないとか認めちゃったら、そのまま無感情に生きていくだけかなという気もして。朝井リョウは、平成は絶対的な物差しがなくて、誰にでもチャンスがある時代だと捉えていて。
政夫:希望難民の原因ですよね。
ろこ:仮に俺が自分らしさを探していても、別に不幸ではない。何か生きる上での表現というか、大袈裟かもしれないけど、受け取っている感覚はあるんだよね。無いものを探している感覚か。これは当事者の回避かもしれんけど。
政夫:距離感の問題はどうなんですか。受け取っている距離というか、限りなく当事者性に近いんですか。
ろこ:ラジオで近付いているよ(笑)でも、SMAPの『世界に一つだけの花』でオンリーワンがあるじゃないですか。
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朝井リョウが言っていたのは、競っている中でオンリーワンを探せというのは、めちゃめちゃ良いと。SMAPがナンバーワンだから言えていることもあると思うけど。
政夫:毒を吐きますね。
ろこ:いやいや(笑)
全員がナンバーワンになれないんですよ。でも、オンリーワンになれという押し付けも嫌じゃないですか。そこの塩梅を、寧ろ俺はそういう場所に行ったら覚悟がいると思うんだよね。ナンバーワンかオンリーワンかは置いといて。
政夫:当事者性の話ですからね。
ろこ:それが無いと、やっぱり自分が許せない部分もあると思う。
政夫:本の流れ的には古市の意見と本田由紀さんの意見の流れとしては、どちらに傾くんですか。
ろこ:本田さんの意見って教育チックな部分がありませんか。
政夫:そうですね。教育というかあるべき姿を促している。今の状況よりも一つ押し出そうとしていますよね。
ろこ:そこへの雁字搦めは、やっぱり、今の子たちというか俺は逃げ道を用意してくれよと思っちゃう。だから、古市さん的かもしれない。
政夫:僕はズルい言い方をしますが、どっちも必要だなと思います。
ろこ:ズルっ(笑)
政夫:本田由紀的な考え方がなければ、古市憲寿的な考えもないんですよ。従来の価値観が無いと、古市の本書の主張は機能しないんですよ。だから両論あって然るべきというのが、僕が読んだ時のスタンス。
ろこ:本田さんはある種絶対的な物差しがある人だったと思うんですよね。古市さんは、そういう時代じゃないところで生まれてきた世代というか。
政夫:現代的不幸をまざまざと突き付けられてきた世代。
ろこ:そうそう。俺は、古市さんは違うところでロマンを売って欲しい。
政夫:だから、この古市の主張がロマンなんですよ。あきらめさせてくれよ、社会というロマンなんですよ。それに乗っかると、あきらめさせてくれないなって、でも人生クソゲーだし、どうしようかなって悩んでいる若者がこの本を読めば、そうかあきらめさせてくれない社会が悪いんだ、となって、社会の問題と自分の実存がイコールで結びつく。それは、声を上げるかどうかは別ですけど、一つの当事者性を獲得するわけですよ。古市さんは、当事者性を確保してもやる人はやってねって。みんなにそれを強要はできないよねっていう立ち位置で。
でも、本田さんは当事者性を確保したなら声を上げなくてはいけなくない?って。
ろこ:獲得したら、そうやな。
政夫:今の例に出したのは若干ズレていますが、古市さんは共同性に組み込まれたら目的性は冷却されちゃうから、それも無理じゃない?ってところから出発しているから。
ろこ:なるほど。さっき、政夫君の言っていた成熟のアップデート。
政夫:成熟というか幼稚化をデカくした方がいいじゃないかと。
ろこ:そこを規定するものは物凄く複雑だと思う。だから、自分の話をしているわけで。
政夫:この本を読むにあたって参考にした本があって、『現代日本の批評』という本があって、そこで2006年頃から若者の労働問題が前景化したと書いてあるんですよ。
ニートやロスジェネ問題ですね。そこで本田由紀さんも出てきて。
批評というものが実存的で個別的になっていくと語られているんですけど、つまり社会学がエビデンス主義になり、現場主義化していくのがゼロ年代以降の流れがあるんですけど、この『希望難民』も外れていないですよ。ニッチなトピックを若者像として捉える試みが、この本なので。だって、ピースボートに実際に入って、アンケートを採って、エビデンスがあって、現場主義があるわけじゃないですか。
ロマンが処方箋になっているのがゼロ年代だと記されており、不況や若者の労働問題がロマン主義的に癒されていくというか、問題を抱えている社会の構造よりも個人の実存における自意識や不安というものが語られていく。
確か『希望難民』の方でも、実存や承認を喋っていないで、社会の構造を話せという意見も書いてあって。
ろこ:あったね。
政夫:でも、そうじゃなくて、流れとしては実存による自意識や不安というものが語られていく。さっき、赤木智弘さんの「希望は戦争」もモチーフとしては同じであって、つまり個人を語ることがイコール社会を語ることになっていたわけですよね。
それはセカイ系と同じ精神性というのは喋りましたが、若者の承認欲求のような実存の話が、社会のトピックとして労働問題とパラレルに、そして混ざり合っていた結果、複雑になっていくんですよね、レイヤーが。
ろこ:うん。
政夫:今更古市の話ですが、ゼロ年代が終わって、2010年になって『希望難民』でデビューしたわけですけど、セカイ系という単語が出てきたりとか、それを意識したセカイ型が出てきたように、あるいは実存やロマン主義という実存を語ることが社会を語ることであり、エビデンス主義でもあるというムーヴメントをちゃんと継承されている。この本でも。
ただ、ロマン主義を冷却させる共同体の話なんですけど。その後、震災後には『絶望の国の幸福な若者たち』という本で、将来への不安を苦笑い交じりで癒す効果として書かれたわけですけど、『希望難民』もそうじゃないですか。苦笑い(マジ)みたいな。だから肯定も否定も基本的にはしていないけど、本としては政治的に活動することはあきらめないで。当事者性ある人はあきらめない人はあきらめないでやってくれよ、という話なんだけど、あきらめてもいいんだよというのが「ピースボート」だから。
ここで、つながりの問題の捉え方が変わっていくというか。友だちとぬくぬく遊んでいるだけでも良くない?と。それは否定していない。
ろこ:それは若者ではない人ら?
政夫:これは2010年の本だから、安保法案や2011年以後の当事者性は全く想定されていないんですよ。だから、当事者性の問題が深刻になっていくわけです。
何度も言っていますけど、共同体ってどう思う?って話ですよね。冷めちゃうけど、別の物語に移行できる。ロマン主義を捨てられる。それはつまり、当事者性の棄却というか放棄になるんですよね。ロマンがあるから動ける。
でも、それが無くなっちゃうから。でも、それでよくない?いや、ダメでしょが本田由紀さんの語り。
どうですか、コミュニティとしては。
ろこ:めちゃめちゃ分かりますよ。
政夫:おおたまラジオという世界各国に流布している巨大コミュニティですけど。
ろこ:流布(笑)
政夫:グーグル、アマゾン、おおたまですよ。
ろこ:(笑)
政夫:GAO(笑)僕は、ろこさんが僕よりもコミュニティを考えているんじゃないかと踏んで、この本をチョイスした部分もあるんですけど。
ろこ:そう?
政夫:いや、現代的な処方箋になっているのがコミュニティなんだから、ろこさんは窺っているわけじゃないですか。
ろこ:(笑)
政夫:どう思っているのかなって。
ろこ:すべては承認されたい欲から来ていると思うんだよね。
政夫:社会的承認が排されちゃうんですよね。ロマンの成就によって達成するんですけど、ロマンが放棄されちゃうから、冷却されちゃうから、社会的承認ではなく相互承認にすり替わってしまう。これはセカイ型や文化祭型が陥った構造なんですよ。ただ、以前僕はコミュニティを運営していたこともあるんで、経験則からいうと目的性がないと厳しいです。
ろこ:説得力あるね(笑)
政夫:目的性はある程度達成されるし、漂白されちゃうんだけど、その都度ゆるやかに展開しないと、目的性を維持しないと、コミュニティというのは段々古市が示したように身の上話に花を咲かしてワイワイやっているだけになっちゃう。
それは、別に悪いことでもないよね?が古市の主張ですけど。
ろこ:どうなんやろね。でも、今はシンドクナイですよ。今の感じの、こうこうこう思いますという感じではなく、保留していますという感じはシンドクナイんです。
政夫:自分探しもそういうことですよ。この時間内に決めないといけないものでもないです。自分のことは自分が一番分かっているのだから。自分らしさというのは、なぜそういう言葉が生まれるかというと、他人から通した自分を見ているからなんですよね。自分を見ていないんです。他人を見ているんです。そのギャップに悩んでいるだけなんですよ。
ろこ:はいはい。
政夫:自分というのは自分であるのだから、他人を鏡として見ずに、自分として自分のままに見ていくと、自分らしさって言葉は本来使われないわけで、そういう風に振る舞えるし、自己完結できるし、自分探しは『希望難民』でも自分探し型が出てきましたが、ピースボート期間を終えてもより自分探しの欲求が高まると。自分探しの日常に帰っていくとオチのように書かれているんですけど古市が否定していないように、僕も否定していない。自分探しはいつまでもやってもいいと思う。別に今すぐ答えろと要求されているものではないから。それをやらないと試験受からないものでもないから。
ろこ:でも、政夫君はこのラジオで区切りを着けろよと(笑)
政夫:言いましたよ。おおたまラジオ的な文脈では区切りを着けて欲しいということで、ろこさんは自分事として引き摺っていていいよと。
ろこ:(笑)
政夫:ラジオ的にはシンドイよねって意味で(笑)ただ、自分探しはいつまで経ってもやってもいいと思っているし、僕もモラトリアムは拡大化していると思っている人間なので、在学中だけがモラトリアムじゃないし、ある種の幼稚化が進んでいる、退行が進んでいるのはそういう形の一つなのかなと思うんですよ。
本田由紀的な成熟モデルとは別に、古市憲寿が提示している成熟モデルに僕は惹かれながらも、本田由紀の意見も強く分かると、分裂しているんですよね。
ただ、それは矛盾はしないなって。両論ともに、片方が抜け落ちていたら論理が成立しない組み方だから、どっちも選べないじゃんって悩む必要性もない話でもある。そういう問題じゃない。じゃあ、さっきなんで選ばさせたのかという話になるけど(笑)
ろこ:こういう話はな…
政夫:目的性が冷却されないためにはどうするかというと、程よいゆるいつながりが必要になるのではないかと。さっき言ったように中間共同体が求められていると。あるいは石川善樹さんの言っていた5つのコミュニティに所属していると幸せになれるもそういうことを意味しているというか。5つあれば、横断できれば気持ちのいい乗り方ができるのではないかと。
そのヒントになるのが、東浩紀の『弱いつながり』に書いてあるんですけど、人間というのは環境に規定されると。
だから環境を変えるしかない、人間は。環境を変えるには移動するしかない。つまり観光客化を推奨している。東は。
東自身は、かけがえのない個人などは存在せず、思考すること、欲望することは環境に依存し、誘発されていると。アマゾンで買いたいものやYoutubeで観たいものは自分好みに組み込まれている。これは自分が観たいものなんだけど、プラットフォーム的に操作されていると同じなんですけど、インターネットというのは偶然性よりも強い絆を強くさせる機能があって、それはさっき言ったようにオンラインのコミュニティもどんどんムラ化していく。
でも、偶然性の強い弱いつながりの方が可能性は増えるんじゃないのって。環境的に依存し、規定されてしまう人間だからこそ、村人タイプではなく、村人タイプというのは一つの場所に留まって今の人間関係を大事にし、コミュニティを深めるのではなく、また旅人タイプでもなく、旅人タイプはどんどん環境を変えちゃう、じゃなくて、東浩紀が言っているのは観光客タイプであると。
村人であることを忘れずに、旅に過剰な期待をせずに、クールに旅を利用することで横断していく。ゆるさですよね。この東浩紀が言っているのは、平野啓一郎の「分人化」への批判なんですよ。
ろこ:そうか。
政夫:分人化はムラへの処方箋になると言われていますが、それは結局キャラでしかなくて、面倒臭いじゃんって。ムラ毎に顔を変えないといけないから。
でも、観光客タイプならば程よい距離感だから、顔を変える必要が無い。そのままスッと行って、スッと離れられる。観光客だから。村人ほど強くなく、旅人より弱くない距離感ですよね。だから、観光客というのはお客さんのような立場で、距離感で、渡り歩くことでのバランスが大事だよね、が東浩紀の主張でもあるんですけど、観光客タイプを活かせば目的性は冷却されないんじゃないかって。なおかつ5つのコミュニティを横断すれば、もしかしたら目的性は漂白されずに、コミュニティが現代の処方箋ならばそれなりに充実するのではないかと。承認としても。
ろこ:完璧じゃないですか。
政夫:完璧なんですか(笑)
ろこ:アンサーですか?
政夫:ここで問題があるんですよ。弱いつながりへの不安です。ここでようやく出てきましたよ。『さらざんまい』というアニメがありましてね。
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これ、「欲望を手放すな」がキーワードなんですけど、要するにつながりに溢れた今の話なんですよ。どういうアニメかは見ないと説明できない(笑)
ただ、つながりの物語です。「欲望を手放すな」があるように、欲望が無いと繋がれないよねって謳っているんですよ。過剰に繋がっている今、つながれない人やつながり過ぎている人というのがいて、時にはつながれないこともあるじゃないですか。
ろこ:ありますよ。
政夫:例えばラインの既読にならなくて恐いとか。
ろこ:(笑)
政夫:小さなレベルでいえば。
ただ、つながろうとすればつながれるんですよ。電話を掛ければいいじゃんって。
つながっていないことを恐れるんじゃないよ、というのが『さらざんまい』の最終的な物語なんですよ。これはネタバレにはなっていないですよ。こんなんでは伝わらないんで。
ただ、つながりすぎている世の中だからこそ、つながれないことを恐れるなと。つながりは欲望なんだぞと。だから「欲望は手放すな」が最初からずっと言われているんですけど、つまり何が言いたいかというと、コミュニティにコミットし過ぎると冷却されちゃうんだったら、弱いつながりでいいじゃんと。でも、観光客タイプだとつながっていない時もあるから、恐くない?って。でも、つながっていない時もあるだろうけど、そういう時を恐れちゃダメだよ、が『さらざんまい』なんですよ。だから『さらざんまい』を観れば、みんな幸せになるんじゃないかな(笑)結論はね。
ろこ:なるほど(笑)
政夫:もう、レジュメ10枚分終わったんで…
ろこ:今の話を聞いて、それなりの自分の中でアップデートは行っています。
政夫:どういう感じですか。
ろこ:逃がさんな(笑)えっと…
政夫:アップデート中ですか。
ろこ:救済してくださいよ。
政夫:いや、つながっているようで、つながっていない時もあるから。『さらざんまい』!
ろこ:(笑)救済という話じゃないかもしれないけど、自分のラジオで話そうという問題があるじゃんか。設定というか。それは、いざラジオをやるとリーチ出来ていないと。
結局、俺が話そうとしているのは、時代的な話と普遍的な話と、レイヤーが合わさっていると政夫君は言っていたけど、結局抽象的な話ができないから俺は。
政夫:だから実存的な話になってしまう。
ろこ:そうそう。
政夫:ゼロ年代のモードがそれっぽいというか。個人の実存を語ることが社会を語ることだった。でも、実存ではなく社会を語らないといけなかったのが、ゼロ年代の反省でもあるんですけど、なんで社会が語れなくなったかというと、1975年頃の、本書で書いてありますが、ポストモダン、大きな物語の終焉ということで、要するに社会がという枠組み、あるいはロマンが見えなくなってしまった。流動的になり、その流動化に伴い、個人の実存、存在論的不安によって脅かされてしまう。それが生きづらさになっているというのは、冒頭に話した通りに喋っていますが、そっちに、実存にいきがちなんですよ。ただ、僕らは震災とか経済成長的にそうも言ってられない、当事者性として、現代を生きる一人の人間として。個人の実存を語ることは、社会のモードを語ることとイコールであったから、それは間違っていないんだけど、それは個人の実存でしかないんです。
社会というのはもっと複合的なものだから。個別のトピックがニッチ化していて、その集合体が一つの社会として見えなくもないけど、社会ってのはもっと色んなものがあるんじゃないのって。
ろこ:そこを認識できていないですよ。
政夫:メタ認知の話だと思うんですけど。そういう本は自己啓発本に紛れているんですよ。本当に(笑)そういうのを含めると、メタ認知化も、社会のフレームワークを認識するには必要な手段であるんだけど、実存に帰ってきちゃう問題というか、そういう消費されちゃうんだなって。
だから、ろこさんが実存を語るのは、半径5Mの世界で生きていますと言っていたじゃないですか。それは象徴していると思う。一方で、半径5Mだからこそ探れるものもあると思うんですよね。否定も肯定もしているわけでもないんですけど。そういうので、おおたまラジオがバズってくれればいいなという気持ち。ろこさんの半径5M以内のトピックに引っかかって。
ろこ:俺は、ラジオがあるから。目標を掲げていないと不安になるというのはある。
政夫:目的性がないと不安になる(笑)
ろこ:これは承認の話じゃないですか。そこは現実と非現実というかね。
政夫:社会実験的には、今回の配信を踏まえた上で、おおたまラジオに人を呼び、ろこさんの目的性が冷却するのかしないのかという実験をした方がいいのかな。
ろこ:(笑)そうやな。
政夫:(笑)
ろこ:それが生きがいなのかもしれん。
政夫:生きがい?
ろこ:分からないんだけど、何かを持っていないと、そういう自分でいないと、手段になっているのかなって。いや、ゆるく生きていたいんですよ。
政夫:ゆるく観光客を意識して。どんどんコミュニティに入っていく。ゆるく。つながっていくのは欲望だから。「欲望を手放すな」よって。『さらざんまい』!
ろこ:ちょっと、ついていけないんですよ。観ていないから(笑)観ますけど。
政夫:観なくていいですよ。
ろこ:なんだろうね。自分を受け容れているんですよ。
政夫:うん。
ろこ:だから、令和は頑張るよ。
政夫:よし。本の感想を教えて下さいよ。
ろこ:結構、話したと思うけど(笑)本田さん的な意見かもしれんけど、成熟って言ったらアレかもしれんけど、自分が努力できる範囲も見えてくるじゃないですか。
でも、少しでもより良い自分というか。現状とかと照らし合わせて頑張って生きていくことも大事だと思う。だから冷却…
政夫:冷却も当事者性もそうだけど、ゆるく生きたいよねって話ですか。バランスですよね。
ろこ:バランスか。
政夫:バランスってマジックワードを言っちゃうと、なんか語っていたのに、これからも考えていこうぜみたいになっちゃう。それでいいのかという気もしますけど、ゆるさというのは大事だなって。冷却せず、ある程度目的性が担保されながらも。
ろこ:一回なにかをあきらめているのは、ゆるさが倍増されるかもしれない。
政夫:ピースボートの理念が漂白された後、ピースボート内の内輪話に花を咲かせるというので、お祭りがゆるく移動している。どっちにしろ、彼らにとっては、政治的理念だろうが内輪話であろうが、ネタに過ぎないんだろうけど、ネタにできるのも一つの当事者性なんですよね。
ろこ:その流れも自然なんじゃないかなってのが感想。
政夫:でも、政治的なものならば、社会的承認という社会的達成があるんだけど、身内同士の相互承認にすり替わっちゃっている話で、なんのロマンも達成されず、承認が満たされるだけ。でも、それがコミュニティの機能の一つなんじゃないのって。皮肉な目線ですよね。
ろこ:そうですか。
政夫:そこに興味があるから入ったのに、あきらめちゃうから、寂しくない?って。
ろこ:刹那的な感じもするけど。
政夫:だからロマンは温存するには大きなものではないといけなくて、大きすぎるとただのロマンと個人がブリッジするだけだから。現実感が無いんですよ。世界平和とか。ピースボートでいうと。だから承認のリソースにしかならない。9条の話をしても、政治性とか分からなくて、9条を通して実存を穴埋めする。自分事の問題にする。それは9条の政治性とは別なんですよ。9条に託けた自分語りなんですよ。とてもセカイ系ぽい。短絡的に結びつくというインスタントさによる認識は、とても、自意識の肥大化ですよね。それゆえの箱庭なんですよ。
ろこ:語れないというところがな。
政夫:社会というものを語れないんですよ。そこが、多分希薄なんですよね。実存を語る方が現実的なんですよ。そこの敗北なんでしょうね。
ろこ:死ぬしかない。
政夫:(笑)
ろこ:死にがいを求めて、死ぬしかない。
※この記事は6月に配信した音源を一部文字起こししたものです
おおたまラジオ第11回 古市憲寿『希望難民ご一行様 ピースボートと「承認の共同体」幻想』 現代的な生きづらさに起因する若者像と成熟モデルのアップデートを図る
聴いて下さった方々、ありがとうございました。
『さらざんまい』を観て下さい。それだけを望みます。
欲望を手放すな。
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おおたまラジオ第10回 突発的超雑談/谷川ニコ『私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い』喪157感想
政夫:一応第10回と銘打ちましたけど、今回は本来ならば古市さんの『希望難民ご一行様』をもとに読み解いていこうかなという流れだったんですけど、今日はちょっと違うということですよね。
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ろこ:それ、説明しちゃうの(笑)そうですね。
政夫:まだ読み終わっていないんですよね。
ろこ:なかなかページが進まないよね。
政夫:僕は読み込んで、レジュメ10枚超えましたね(笑)
ろこ:マジで欠席…
政夫:誤解しないで欲しいのは『希望難民』だけでレジュメ10枚はいっていないです。他の本も読んでいます。
ろこ:聞いていない。
政夫:言っていないし(笑)
『希望難民』を読んでて、連想していくんですよ。出口治明さんかなんか言っていたんですけど、「読書は筋トレ」みたいな話があって。読書というのは一冊の本では成立していないんですよ。しているようで、していないんですよ。何かしらの思想や主義が体系付けられているんですよね。特に『希望難民』は社会学の本なので、色んな人の名前や著作名がパッチワーク的に出てくるじゃないですか。引用されているというか。参照元が多いんですよね。巻末に参考文献の一覧があるんですけど。
本ってのは、学術的なもの以外でも、小説でも、何かしらの影響を受け、文化史的な流れがあり、文脈があり、一冊の本で完結しているのだけど、とある本を読み解くには量が必要だと。その量が繋がれば、自分の中で体系的に、データベース的にヒモ付けされた場合、繋がるんですよ。ネットワークとして。
ろこ:それは、政夫君にある程度の土台があるからではないんですか。
政夫:それは読んでいないとダメです。『希望難民』を読んでいると、僕は「この本もいけるな」って風にどんどん連想が続くという感じで。今は削る段階ですけど。
ろこ:なんか、進んでいるよね。俺が知らないうちに(笑)課題というか義務…。
政夫:僕もろこさんも筋トレの最中ですよ。僕が多めにプロテインを飲んでいるという話で(笑)
そのアウトプットを、来月に時間を取って、これもまた高カロリーというか、ある種のピースボート、希望難民から自分探しが止まらない若者像への救済措置としての話なんですよね。詳しくは話しませんよ。来月やるんで。しかも、ろこさん読んでいないし(笑)
ろこ:古市さんの話はするの?
政夫:経歴的な話は…ちょっと触れるかな。あの本がデビューなんで。あとがきに書いてあるように修士論文を書籍化したものなんですよ。もちろん、かなり手を加えられているわけなんですけど。文体がユニークじゃないですか。
ただ、ちょっとした薀蓄として「古市憲寿とは」をチラっとしますけど、ただ最近の『平成くん、さようなら』は芥川賞候補になっていましたけど、あの辺の本は読んでいないし。
古市・落合の対談がめっちゃ炎上しましたよね。確か、尊厳死(安楽死も)の話だったと思うんですよね。テーマとして倫理的な態度が求められる話題で、アナーキーに映ってしまったというか。ちゃんと対談も読んでいなければ、炎上もどれだけ正確的なものだったのか分からないし、況してや落合陽一が取った態度として、自分でnoteに書いて公開するという。記事で足りなかった部分を、ファクトを重ねていくというかね。雑誌というか本は、一回書き上げて世に出たらオシマイなんですよ。本来。
ただ、日々情報というのは更新していくものですよね。
ろこ:うん。
政夫:小説にしても、朝井リョウがインタビューで言っていたのは書き上げるのに半年くらい掛かる場合、書く段階で抱いていた構想というのは半年前のものなんですよ。半年前のセンスなんですよ。それが、半年後にも、世の中に響くかどうかは相当不安であると言っていて、ある種の時代性を汲み取りながらも、古びない感性というのを書に認めないといけない。
ろこ:本ってそこよね。
政夫:パッケージ化されている。世に出た時点で、もう終わってしまう。本という媒体が孤独的であるのは、インターネットのようにインタラクションがあるわけではないでじゃないですか。
ろこ:関係性としてね。
政夫:その時点で解決しまっているから。そうなると、紙の媒体という話になりますが、書物というのは自己完結しているから、読者というのは向き合いやすい。ピリオドが打たれているから。商品として、情報として。
だからこそ、孤独に地道に、作者やキャラクターや思想や主張なりに向き合うことが出来る。それが、常に無限に、膨大的に更新が続くとなると話は別じゃないですか。お互いに対話が成り立つ場合は、際限がないというか。常に情報としてアップデートが出来るというメリットの反面、どこでピリオドを打てばいいのか、ラインを引くタイミングの問題を抱えているわけですよね。
ろこ:キングコングの西野さんが無料で絵本を公開したよね。その辺の諸問題をスマートにやっている気がするけど。良いもんはお金を払いますよと。
政夫:届かなければダメだということですよね。無料で配って、読んでオシマイの人もいるけど、これ良いなと買う人もいるんですよ、一定数。そこにリーチさせるための。
ろこ:そこは分かってやっていると思うんだよね。
政夫:マーケティングとしてね。
ろこ:音楽もそんな感じするやん。
政夫:そりゃあ、情報というのが、情報の価値としてお金を落とすに足りることなのかは疑問になっていて、特に無形のものですよね。インターネット上で消費できる娯楽、音楽にしてもウェブマンガにしても。手に残らないものの、実在性ですよね。
一時期、マンガ村のブロッキング騒動が話題になって。あの時に突き付けられたのは、出版社の態度だと思うんですよね。このまま出版社が古めかしいままだと、ネット的なものに食い破られてしまう危惧が現実化した瞬間ですよね。ただ、読者の態度も問題になる話なんですけど、インターネット上に転がっている情報は恰もフリーに思えるから。大半は。
ろこ:その皺寄せが音楽的にも来ている気がする。
政夫:音楽の場合はフェスですよね。インタラクションのあるイベントを押し出すべきだし、マンガはマンガで、ウェブマンガはウェブで読めるからそれでいいやだけじゃなくて、紙の本も買う人もいるし、電子書籍もマンガ村ブロッキング以降、実は売り上げが良くなっているという数字も出ているんですよ。
ろこ:本腰を入れたということ?
政夫:読者的な…
ろこ:そこのリテラシーは上がっていないと思うで。俺が、高校生だったらマンガ村ラッキーって思うよ(笑)
政夫:文化というものを保存していくか。お金は切っても切れない関係なので。おおたまラジオ的にも、語らないといけない。語り続けないといけない。
ろこ:そうだな。答えは欲しいな。何か(笑)
政夫:僕が嫌だなと思うのは、一応今まで色んな作品に触れているわけじゃないですか。ありがちな落としどころとして、「これオススメですよ」で終わるわけなんですけど、キュレーション的なメディアとして働きたくないという気持ちが。
ろこ:働きたくない(笑)
政夫:これオススメですよと思っているんだけど、確かにあるんだけど、それ以上の気持ちが別の方向で働いているというか。これは語らないとダメでしょという部分があるんですよ。
ろこ:俺はどうだろうな…
政夫:「良いものだから語りたい」と「これ良いものだから読んでねや観てね」は一緒のようで一緒じゃない。
ろこ:え、難しい。
政夫:そういう意味で、語りの技術として。
ろこ:海外のドラマでメガネを付けたら、その人の信頼度が数値化される社会を描いたドラマがあって。
政夫:まさに評価経済的ですね。フォロワー何人とか。
ろこ:めっちゃ管理されている社会だから、恐いなと思ったんだよね。無料で色んなものが楽しめている日本社会は、それはそれで幸せな国なのかなとちょっと思うんだけど、でも、古市さんは主張は逆なのかな?って。
政夫:若者的な話ですか。
ろこ:そうかな。勝手にね。
政夫:古市の主張としては、「俺たち金ないけど、休日に仲間とスマブラして楽しければいいよね」みたいな感じですよ。
ろこ:そんな感じなの?
政夫:あの本の最大の主張は、若者をあきらめさせることなんで。これ、来月やるじゃん(笑)今、やらなくていいじゃん。
ろこ:こっちは勝手に想像しているだけだから(笑)
『希望難民』と『平成くん、さよなら』は読みたいよね。ラジオをやってから読みたい。
政夫:それはダメじゃないですか。僕らの中でもインタラクティブじゃない。僕がレジュメ10枚ぶつけてオシマイになっちゃうじゃないですか。それだと(笑)
ろこ:読んで、立ち向かうみたいな話になっちゃっているけど、政夫君のレジュメ10枚って、俺はそこまで出来ないから。政夫君の思考法とか勉強になるやん。
政夫:いやいやいや、一貫しているというか凄い単純なんですよ。
この前、第9.5回であだち充の作品について少し喋っているんですけど。メタフィクショナルの暴力性について話しまして。メタレベルによって、虚構を楽しんでいる僕たちが現実に揺り戻されてしまう暴力性というか(あだち充の懐古趣味と並べて語りました)。
おおたまラジオも10回もやっていて、自分の考えってあんまり変わっていないんだなって分かる。ずっと同じことを喋っている。実は。
表現というのは一つの暴力なんですよね。ある種、何かしらを規定してしまうんですよ。作品世界に、環境に、キャラクターに依存してしまうように何かしらを区切るんですよね。規定したりすることが一つの自由でもあるんだけど、暴力的でもあると。メタレベルに突き詰めて行けば(目線が昇華しつつ)拡散していくんですよ。虚構と現実みたいな話から、目の前で展開されているストーリーや文章が、以前にフットサルのポエム化の話をしましたけど、目の前に起きている現象に対して言語化することは何かしらが零れ落ちているのではないかという話をしたわけですよ。
言語化しきれない部分、抽出できない何か、用語として纏められているけど、そこからはみ出ているもの、零れ落ちているものがあるから、身体的な連続性に対して、言葉が追い付いていない感覚。僕らは言葉でしか量れないから言葉に集約するんだけど、それはつまり身体としての連続性をある種の省略が行われるわけですよね。
だから「パラレラ」としても、その準備動作や状況もあるし、ある部分だけを抽出すれば「パラレラ」になる。規定するためのメソッドでもあるんだけど、それが僕のずっとの関心事なんですよね。
ろこ:規定したいんだけど、イシュードリブン的な話かもしれんけど、俺が喋ることは全体的にフワっとしているじゃないですか。だから恐いんですよ。
今回、前提として古市さんの本があるじゃないですか。前提が間違っていたら、そもそも話にならない。認知の部分だよね。
政夫:そうなんです。僕はずっと認知世界の話をしているんです。おおたまラジオで。認知できる部分とできない部分の話を『我らコンタクティ』にしても、バンクシーの話にしても、作品論にみせかけているわけでもないけど、作品、虚構を通して見る作品の認知世界と現実の僕たちの認知世界のラインというか、どんどん高度化していく感覚に対して、どのように言語で処理すればいいのだろうかと。
だから20世紀的なんですよね。言語的な解決というのが、強い時代だったのが20世紀だったわけで。言語学が顕著ですけど(ソシュール以降の思想)。そこから、21世紀になって、やっぱり人間ってのは自分の目や耳や皮膚で知覚しないとダメなのでは(実在性)というモノですよね。あるいはコト。
その重要性が強くて、モノが溢れすぎている現代で、コト消費が大事になってきているのが2010年代の頭からずっと言われていて。フェス文化や本を売ってオシマイだけじゃなくて、サイン会やイベントのチケットにする役割を充てる。読書会や講演会ですよね。一つ、手元にあるモノを消費して、その先にあるコトに向かう手段になっているのが今風なんですけど。やっぱり、モノの大事さってのが分かる一方で。
ろこ:その辺の感覚というのは、抽象的でありながらも本質的なものではないかと勝手にイメージしているんだけど、政夫君の話を聞くうちに普遍的なものに結びついているし、実は大きなものなのではというのは凄くあるから。
政夫:多分、ろこさんがリーチしようとしている話はめちゃめちゃ大きな話で、それはやっぱり人間、考え事をしていてある程度行くと大体他の人も考えているとなるんですよ。昔の哲学や思想などで、自分の問題設定が図られているみたいな。それを現代の状況に照らし合わせて再帰的させるという話になるんですけど。
だから、自分の抽象的な概念へのリーチの困難さは、なぜ抽象的なのかを考えるべきで、何が分からないんだ何が足りないんだって話になるわけですよ。そこで、筋トレの話ですよね。
ろこ:俺はね…
政夫:やっぱり『日本代表とMr.Children』を一度やるべきなんですよ。
ろこ:それは批評の話になるからさ…
政夫:僕が今喋っている話は全部批評の話ですよ。ずっと。どうやって語りを得るのかとして、そういう技術として批評なるものが必要だという話をしているんですよ。
ろこ:え、令和の時代に、これ。
政夫:語り続けるんだったら、語り続ける技術が必要なんですよってことです。
ろこ:それはそうやな。政夫君は筋トレじゃないですか。ちょっとポジティブに聞こえるんだけど。
政夫:(笑)
ろこ:俺はポジティブに捉えられないというか地獄みたいな感覚(笑)自分が空っぽだから、自分で取りにいかないといけないから。
政夫:それが、とてもポッドキャスト的ですよね。僕は、ハトトカ最終回を聴いて愕然としましたよ。あの中村慎太郎さんが、ポッドキャストは数字が出ないと。
ろこ:そんなことを言っていたんですか。
政夫:それと反応がないと。前に、ろこさんとポッドキャストの話をした時に、ろこさん自身の態度が受動的だったわけですよね。それに対して、僕が「クール気取っているんですか」と煽ったわけですよ(笑)
ろこ:(笑)
政夫:今の時代で、クールなんですか?と。でも、ハトトカでもそういう状況(数字として)ということなんですよね。それは幸せになれないですよね。バズれば僕たちは幸せになれるのかというと、それも幸せになれないと思うんですけど。例えば、100万DLされましたとか。嬉しいですか?って(笑)
ろこ:そうだよね。今のYoutuberはそこを表明するじゃん。俺は自覚的でありたいから。
政夫:数の話は付いて回るわけなんですけど、やっている間はずっと。
ろこ:そこの競争の中に、突き抜けると楽なんだよね、多分。落合陽一もそうだと思うけど…この話、何回かやったな。
政夫:僕は、ハトトカはそこを突き抜けていると思っていたんですよ。
ろこ:俺も思っていた。
政夫:ただ突き抜けていないんですよ。
ろこ:コラボとかしてビジネスに乗っけている気がしたけど。
政夫:それでも反応が無くてという話をしていて。ポッドキャストは前向きなメディアではないと。中村さん自身はYoutubeで配信している状況なんですけど。
ろこ:Youtuberになっちゃったわけね。
政夫:我々と一緒で。
ろこ:俺は違うけどな(笑)俺はポッドキャスターよ。
政夫:何か変えたいですよね。態度的なものを。
ろこ:そこ、何かあるの?
政夫:中村さんが言っていたのは、ポッドキャストなんて人生で1、2回くらいしか自分からリーチしにいかないでしょみたいな話をされていて。どうですか、これは。
ろこ:俺は…違うかな。俺は寿命的な話として、続けていくこと、寿命を延ばすことで得るものがあると。ちょっと逆行しているかもしれないけど、好きなことを…
政夫:「好きなことで生きていく」ということですか。
ろこ:違う(笑)現実は違うのだけど、やっていて価値が生まれるものって何かあると思うんですよね。別に面白くなくても。なんか、ポッドキャスト論みたいになりそうだけど。
政夫:ポッドキャストというメディアの性質上、そういうのが見込めないよ、がハトトカの結論だったと思うんですけど。
ろこ:それは、ハトトカが突き抜けていて環境的になんでポッドキャストをやっているの?って突き付けられたと思うんですよね。ハトトカは明確なアンサーが無かった。俺はそれでいいと思うんだけどな。ポッドキャストは。
政夫:そういう撤退戦をすればいいという話ですか。
ろこ:生存戦略的な。
政夫:諦めたいけど諦めたくないという消耗戦をするってことですか。その果てに、地平が拓けるという期待ですか。希望難民ですよ。
ろこ:(笑)
政夫:戦略性のない希望難民ですよ。
ろこ:繋がっている。
政夫:この話は来月にやるので。
ろこ:俺はレジュメ10枚に向き合いたくない。別にやる理由も明確化しなくてもいいのではって。
政夫:あー。内在性も何回かしていますけど、「好きだから」だけじゃキツイ感じもあると思いますけどね。
ろこ:だから、政夫君が言っていた話せる技術は選択肢としてあった方がいい。
政夫:最近読んだマンガの話をしてもいいですか。
ろこ:今日は何でもいいよ。
政夫:ガンガンオンラインで連載している『私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い』という、とても濃いタイトルのマンガの話なんですけど。
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ろこ:凄い。
政夫:知っていますか?
ろこ:知らない。
政夫:これ、アニメにもなっていて、とある一部の界隈でとても熱狂的な支持を受けているマンガなんですよ。通称『わたモテ』というマンガで、タイトル通りなんですが、主人公のもこっち(黒木智子)というキャラクターがいまして。喪女なんですよ。モテない女性を指すネットスラングですね。由来は2ちゃんねる的な話なんですけど、掻い摘んで話すと、もこっちというのは高校デビューに失敗してずっとボッチだったわけですよね。
ただ、2年生の修学旅行辺りからもこっちと絡む人間が増えていき、それまではずっとボッチだったんですよ。ボッチ特有の自意識の空回りがコミカルに描かれているのが『わたモテ』の特徴だったんですけど、修学旅行編を経てもこっちは3年生になっているんですが、ハーレム状態なんですよね。
ろこ:なにがあったんだ。
政夫:周りは女の子だけなんですよ。同性の友達がたくさんいる状態なんです。
ろこ:女の子にモテる女子になったということか。
政夫:それもスポーツが得意でボーイッシュで同性人気がある感じとかそうでもなくて、なんか、アイツちょっと気になるよな状態なんですよね。
クラスで関わらないけど、気になるアイツみたいのっているじゃないですか。
ろこ:基本的に明るい子がモテるのってあるじゃん。
政夫:もこっちは明るくないです。
ろこ:その子がモテているという話なんでしょ。
政夫:同性にモテると。面白いのは、もこっち自身は基本的には何も変わっていないんですよ。
ろこ:関係性が変わったということか。
政夫:もこっち自身は相当クズなんですけど、関係性が変わったんですよ。なぜ変わったかというと、クラスというのは基本的には動かない(1年間固定)。ただ、修学旅行というイベントの中で、よりミクロ的にグループが決まった時に、嫌でも誰かと関わらないといけない状態になってしまう。無理矢理な関係性が生じて、ゆるやかな繋がりが発生して、そこから連鎖的にみたいな。それが3年生になって、もこっちの周りに女の子がたくさんいるんですよ。
ろこ:なんやねん(笑)
政夫:これが大事な点があって、ボッチを描いているマンガだったのに、今はハーレム状態であると。つまり、他者性というのがどうしても必要になるんですよ。
『わたモテ』自体はボッチを否定的にも肯定的にも描いているというマンガではないんですが、ボッチの痛い自意識をあからさまに描いているマンガで。ある意味、反面教師的に取れるんだけど、それがブラックジョーク的に面白く、もこっちは基本的に変わっていないんだけど、環境があれば人間関係も変わっていくという当たり前のルールに、あの、もこっちでさえも取り込まれてしまうという話なんですよ。
当たり前なんだけど、人間って他者性が必要なんですよ。もこっちは友だちイラネーとか思っているわけではないんですけど、別に。結局、ボッチというのは友だち的なもので解消されてしまう。これで、もこっちの立ち位置が分かって貰えたと思うんですけど。
ろこ:分かった。
政夫:最新話ですね。これが衝撃的だったんですけど、前回のラストで不良の吉田さんとバイクのニケツをして通報を食らって謹慎処分を受けるというオチだったんですよ。あの、もこっちがバイクに乗って誰かと帰る。凄い青春してんじゃん(笑)みたいな。1年生の時のもこっちでは到底考えられない状況なんですよ。
ろこ:うん。
政夫:それで謹慎処分を受けて、最新話は初めてもこっちが本編に出てこない話だったんですよ。つまり『わたモテ』という作品世界で、もこっちという中心がいないまま描かれた世界の話になっているわけですね。
ろこ:うん。
政夫:これ、完全に『桐島、部活やめるってよ』の話ですよ。
中心の不在ですよ。
正確にいえば桐島はスクールカースト最上位の子ですよね。いきなりそいつが部活をやめたらしいぜという話になり、その周辺のカーストの崩壊と変動するのが『桐島』の群像劇ですよ。
ただ『わたモテ』の中心の不在というのは、もこっちというスクールカースト最底辺の子がいつのまにか中心になっている。クラスの中で外部的だったもこっちが、中心にシフトしていっているんですよ。それが謹慎を受けて不在になった瞬間に、もこっちを中心に描かれていた人間関係を同時並行的に群像劇として描いているのが最新話なんですよね。この、もこっちが居ないのに、不在の中、彼女たちを描くことがどういう意味を持つのかというと。
ろこ:それは宏樹的なポジションの子がいるということなのか。
政夫:そういう話ではないんです。スクールカースト的な話です。
ろこ:もっとカースト寄りの話か。
政夫:カースト最下位のもこっちがいつのまにか中心になっていた。その中心の不在の波紋を描いているわけですね。中心がいなくても各自で独立して成り立つわけなんですけど、全ページにもこっちは描かれていないんだけど、読者は(キャラも)もこっちの影を探してしまう構成になっているんですよ(笑)
居ないんだけど、今までの作品の中で、もこっちの存在感が際立つようになっている。
ろこ:なるほど。『桐島』みたい。
政夫:『桐島』だったり『藪の中』でも、中心の不在を描いた群像劇の中での化学反応というか。
『わたモテ』というマンガは長期連載で、単行本でいえば15巻くらい出ているんですけど、ハーレム状態になったのは8巻以降の展開で、つまり1~7巻はもこっちの痛い自意識に付き合わないといけないわけですよ。
ろこ:(笑)
政夫:そこまで付き合っていたら、もこっちというキャラクターが好きだと思うでしょ。僕はそんなに好きではなくて。今の『わたモテ』人気は8巻以降のハーレム状態における女性キャラクターの参入が、関係性消費として盛り上がっているわけですよ。キャラ的な文脈で。それは別にもこっちを中心にしなくても盛り上がっているわけですよ(しかし、多くの二次創作ではもこっちというキャラクターとの関係性の文脈と切り離したものではないので、やはり厳密に直接的に描かれていなくても、間接的にキャラクターのベースとして存在することを意味するのが特徴的である)。
なんだけど、最新話で初めてもこっちが出ない『わたモテ』を読むと、俺たちは黒木智子が好きだったんだなと自覚せざるを得ないんですよ(笑)
ろこ:(笑)
政夫:という感じですかね。
ろこ:ヤラレタと思ったわけね。
政夫:はい。謹慎処分として、そういう可能性はあったわけですけど。確かサブタイが「モテないし謹慎するってよ」なんで完全に『桐島』オマージュなんですよ。
ろこ:なるほどね。
政夫:『桐島』といっても、ろこさんの好きな『桐島』の文脈ではないですね。『桐島』の作品の前提としてあるスクールカーストと桐島という中心がスッポリ抜けた後の余波みたいな最初の部分を描いてる感じです。
ろこ:面白そう。
政夫:面白いですけど、別にこれを読んでくれと言っているわけじゃないですよ。キュレーションになりたくないから。
ろこ:(笑)
政夫:面白いし、『桐島』的でもあり…『桐島』で面白いのはトップカーストだった桐島というのは何者だったのかという話として。
ろこ:そっち?
政夫:いや、作品で描かれていないからこそ、語るという意味で。
ろこ:あーなるほどね。
政夫:『わたモテ』はもこっちというキャラクターが存分に描かれているわけですよね。そのキャラが、スクールカースト最下位だったもこっちが居ないことで、物語が展開してしまったという今の状況が面白いんですよ(成立してしまうことのプロセスとして)。
ただ、カーストという概念を超えて色んな人たちと関わりを持ってしまったもこっちとその周辺の関係性が物語として構築されているので、これは語らないといけないなと思って喋りましたけど。
ろこ:(笑)
※この記事は5月に配信した音源を一部文字起こししたものです