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しまいには世の中が真っ赤になった。

『俺ガイル』を通した内省的なあとがき

futbolman.hatenablog.com

この一か月間は、日夜文学について考えてきました。

その中で、文学とは「時間軸を作る」ことだと一時的な結論を出しました。 

むしろ、文学のみならず批評などの二次創作含めた表現全般に言えると思いますが「語り直す」ための時間軸を作る「場所」を用意するのが役割であり、そのためには相応の「時間と場所」が必要になります。

これは時間軸を単一的に考えるのとは異なり、時間軸を複数持つイメージです。現実に容赦なく流れる共有的な時間軸を横軸とするならば、縦軸を構えながら横軸に随時斜線を刻んでいく「場所」の意味が文化ではないでしょうか。 

まさに圧倒的な情報量が加速している常時接続の現代において、如何に時間を遅らせるか、または違う場所を用意するのかといった速度調整が大事になっています。

例えば宇野常寛が掲げる「遅いインターネット」の計画は、端的にいえばそのように一時的にそして場所として固定的に遅らせることを目的にしているでしょう。

私の場合は『俺ガイル』を通して、文学や時間軸に考えざるを得ない「場所」を用意したことに尽きます。

この『俺ガイル』論はテクスト論ではありません。

しかしながら、テクストから離れないように書いたつもりでもあります。

作中では夏目漱石太宰治サン=テグジュペリなどが素材的に挙げられています。それらを中心に文学を考えてきました。ただし、その思索を纏めたわけではありません。『俺ガイル』には一切出てこない志賀直哉芥川龍之介などの作品や評論も漁り、冒頭に取り上げている吉本隆明が持ち出した「昼の文学」を図った三島由紀夫も例外ではありませんでしたが、これらを扱うとテクストから離れてしまうために書かないという制限を加えました。その思考の中で「時間軸を作るための場所」としての文学と向き合い、私自身も時間軸を作っていきました。

そして出来上がった『俺ガイル』論は本一冊分に相当するものでした。

このテクストが、非常に迂遠な書き方であるのは否定のしようがありません。

なぜなら『俺ガイル』に素朴に呼応した形を立ち上げたかったために、書いた形式自体が『俺ガイル』的だと考えたからです。

このスタイルが『俺ガイル』的であったという態度こそが、私なりの答えでもありました。

論考で指摘した『俺ガイル』が文学として素朴に応答した声は、いわば文学の入り口に過ぎません。あくまでもそのための「時間と場所」を作ることであるならば、私も論考ではそれを追認するテクストで倣おうとした結果でした。

であるから、ライトノベルというサブカルチャーの文法によって導入してみせた文学的経緯を記しました。

同時にこれは「文学(笑)」や「ブンガク」だと揶揄された後期『俺ガイル』の展開について、つまり素朴な文学的態度を受け付けなかった読み手の問題であると告発したかったのは言うまでもありません。

しかし告発したとて、否定したとて、そこに意味を見出せなければ駄目でしょう。そのためにテクストから離れない範囲内で『俺ガイル』の誠意ある文学への入り口としての文脈を掬い取っていきました。

そのような形態を持つ作品に対して、素朴に追認した迂遠なテクスト(非常に『俺ガイル』的)で応答するのが、自分なりの誠実さだと感じたのです。

『俺ガイル』を通じた、その反復性でしか「サブカルチャー化した文学」という現場を論じきれないと判断しました。

結果的に一か月という期間を徹底的な自意識の捻じれと「夕の文学」としての淡いと向き合い続けてきたので、私自身にも根付いているモラトリアム的な病を射程に捉えながら同時に乗り越える感覚がありました。

「書く」ということは内なる自分と対話し、乗り越えるという体験をもたらします。

それは、ある種の青臭さを許容できた時間軸を作ったとも言えるでしょう。

つまり自然と『俺ガイル』に接近していったことを意味します。完全な同一化とは言わなくとも、その微妙なニュアンスに込められた「時間と場所」に浸っていた「揺らぎと淡い」の事実が、私としては文学的な応答だったと考えるのです。

そういう体験をしました。

非常に内面化した「時間と場所」でした。

渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』 サブカルチャーの現場から文学への素朴な応答

「体験に対する胎盤」たりうる物語の「かたち」とは何か、が本書における最大の問いである。それはまた、様々な物語を通過儀礼という「凡庸」で「紋切り型」の「物語」に徹底的に還元することで、その可能性を探ろうとする試みでもある。現代文学がそのアイデンティティをこのような「凡庸」な読みを拒絶することに見出しているらしいことは、そのような「世界観」に帰属しないぼくにも薄々わかるが、ぼくはありふれた、しかし、その「かたち」においては正しく構造化された「物語」が流通していくことが、「物語」のあり得べき姿だと考える。

大塚英志『人身御供論 通過儀礼としての殺人』

 

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 (14) (ガガガ文庫)

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 (14) (ガガガ文庫)

  • 作者:渡 航
  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 2019/11/19
  • メディア: 文庫
 

 

本稿では『俺ガイル』全14巻を余すところなく詳細に重ねて記すことは不可能であるために、便宜上、前期と後期と分けることで論じていく。暫定的な処置であるため、適宜追記していくことをご了承いただきたい。

前期というのは1巻から6巻までを指し、後期は7巻から14巻までとする。

端的にいえば、前期は比企谷八幡というボッチゆえに悲観論から出発した自意識が周回した結果としてのマッチョさの表れであり、後期ではそれがひっくり返したように彷徨い、求め続けた際の自意識の空転になるだろう。

比企谷八幡の自己防衛とも取れるような自虐的なネタは、彼独自の経験則がパロディ化した自分語りであり、それは「ボッチあるある」や不憫さ、あるいは「生きづらさ」を半ばネタ的に代弁するかのようでもあるが、独特な一人称が剥き身出たアイロニカルな親和性を象徴している。

前期から後期の橋渡しとして、5巻で平塚静から「潔癖」だと評されるシーンがある。比企谷八幡が抱える「潔癖の論理」は、前期でいう彼の思考のマチズモの柱=リアリズムであり、そこから後期では「本物」=ロマンを求めるための跳躍の根底となる。前期では前景化した潔癖的な自意識が、後期では前景化し過ぎた「自意識の化け物」としてある種の転倒が生じた文脈を指すのは興味深い。

自己だけの自己肯定を示し、常に通り過ぎてしまう今と過去の自分を否定しないままでいるのは、ボッチであるがゆえに、一人でいるのが当たり前だったからこそ否定せずとも肯定してあげられるのは自分一人しかいないゆえの処世術であった。ボッチであることをマイナスだと捉えない貧者の強さが徹底的に描かれている。安易に「成長」といって目を逸らさずに、未来の自分に期待して現状から逃避することを嫌う。貧者ながらもマッチョな悲観論が周回した結果、強固になる循環的自己意識と自己愛だろう。

それが後期では理論武装と自意識の変換からの空転が起こる。空回りしながらも自意識に絡め捕られ、弱い隙間を隠したくなってしまう。この結果、これまでの自分というマッチョな潔癖さが適わなくなってしまう。隙間から覗く痛みを引き受けるための理論を実装すること自体の欺瞞が暴かれ、身動きが取れなくなってしまう。

「本物」を追い求める過程において、リアリストであった比企谷八幡が転倒したロマン主義者となった結果、これまで通りの経験則では動けなくなる。選択肢がなくなる。ボッチの潔癖的マッチョさに剥き身出る弱さを他者の侵入と接触によって、真綿で締められるような自己防衛の撤退戦的な脆弱さを突き付けられていくからだ。それは自立した自意識という確固たる基盤=アイデンティティの自己破壊を意味する。自意識の内部で理性的であろうとするロジカルな面と整合性が取れなくなる破綻性とそれを取り繕うとするために詭弁的なロジックを積み重ねることによって、自意識が振り回されてしまう形で、自己破壊と自己構築が循環していることへの揺らぎに矛盾を感じるからだ。

これらの前期、後期は自意識の変容は突発的に切り替わったものではない。

もちろん、恣意的に前期と後期と分けるのは私の都合でしかない。きっちりと分断されているわけでもない。根底にあるのは比企谷八幡の自意識と理性を巡る状況が変化したことを意味し、それは関係性を通して比企谷八幡が己自身を知っていくこと物語のレイヤーである。この段階的な「自意識の手続き」が『俺ガイル』の魅力の一つではないだろうか。

比企谷八幡の関わり方は仕事や動機がないと行動決定することができなかった。時に依頼という形式を振りかざし、また比企谷小町の言い分を素直に飲み込むことでしか動けなかった。これは比企谷八幡の意思の問題であり、限りなく「好き」に近くとも、その言葉が、感情が、共有可能であるかどうか、伝達可能であるかどうか、といった言葉に託すしかないことへの抵抗と祈りに似た信念が混じった曖昧な抽象性へのアプローチが後期では輪郭を成していく。

 

彼らの物語は学園青春という形式に、謎部活動としての奉仕部、そしてライトノベルでは定着した長文タイトルはゼロ年代からテン年代までお馴染みの型であり、今では異世界転生モノに見られる光景になるだろう。

自閉した箱庭としての世界を意図的に短絡的に描くことで、世界設定を底抜けにした世界観と、物語の中心を生きる彼らの運命を直結的に描いたのが「セカイ系」だったとするならば、その箱庭における実在感の眩しさや瞬間性を閉じ込めたのが「日常系」だったと考える。

また、「日常系」は「成長」への奴隷の結果でもあった。精神性としての「成長できない・しない」は、その瞬間的実在感の反復を経て、意味の病から距離を置くことができた。箱庭で安寧秩序のまま「成長の呪い」から解放されることは目的性の冷却を意味し、共同性が増長していく。そういう意味では比企谷八幡たちも同様に「日常系」の枠に取り込まれていく。

「日常」を生きていくのは、「非日常」に塗り潰される圧倒性ではなく、何も起こらないことが起こるというドラマのミクロな蓄積のような、この瞬間の「イマ・ココ」の僅かばかりの変化としてのミクロな「移動」を突き詰めた結果のドラマである。そういう意味では、実直なまでの千葉ネタは聖地巡礼の意味合いもありながらも、比企谷八幡たちが地理的に根付いている実在感のリアリズムを演出する。千葉の片隅で藻掻き苦しむ彼らの「青春の多様性」が物語の豊饒さになっていると考えられるからだ。その延長にある共同性の増長という、後期で問われる「本物」を求めていた彼らが温存した環境について、その欺瞞を告発するのが雪ノ下陽乃の役割でもあり、温室的な箱庭からの脱出は「成長への奴隷」を退けた後に再度新たな関係性として「日常」において要請されることを示した。

ライトノベルに定着した謎部活の一つでもある奉仕部は、魚を獲ってあげるのではなく、魚の獲り方を教えてやる自立支援サービスである。つまりは来訪者ありきで、扉が開くことは依頼を意味する。この姿勢は受動的だ。仕事だから、部活だからといった動機は個人の意思よりも、環境や状態に規定されている。自然と誰かと関わらないといけなくなる。ディスコミュニケーションな彼らが、普段は探す必要のない動機や目的の言語化に迫られるのが特徴の一つだろう。それは本音を偽り、「空気」を読んだ上での建前ではないのか、という自己言及もありながら、本当の自分の気持ちについて考えていかなくなっていく。これは後期問題であり、代表的なのは9巻になるだろう。その際には依頼を遂行するための手段と目的の設定があり、また依頼を通して変化していく奉仕部内の関係性が同時的に重なっていく構造でもある。

その結果が、比企谷八幡雪ノ下雪乃が相互に関わっていく動機として決断するために必要な前提・条件を歪めてしまう権利を言語化し、選択していく「受動から能動」への物語として形になった。

つまり「選ばなかった・選べなかった」彼らが「選ぶ」までの物語だ。

温存の関係性を「共依存」と名前を付けられ、決して記号的ではない、伝達不可能性の中の可能性としてのコミュニケーションとディスコミュニケーションの狭間で揺れ動く青春模様。ヤマアラシのジレンマのように傷つきたくなかったらダメージコントロールをして、ディスコミュニケーションでも仕方ない、と痛みを引き受けることなく、成熟への拒否でいいのではないかとする態度はない。存在するのは「空気」の支配と「成熟を巡るあきらめ」と抵抗だろう。

 

一億総ガキ社会 「成熟拒否」という病 (光文社新書)

一億総ガキ社会 「成熟拒否」という病 (光文社新書)

  • 作者:片田 珠美
  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 2010/07/16
  • メディア: 新書
 

 

コードギアス』や『スカイ・クロラ』などが描いたモラトリアムからの脱出は、「昨日」や「今日」ではなく「明日」を選ぶことであった。「今」も「明日」も、「本物」を疑い続ける人生の課題として突き付けたのが14巻であったが、その過程には記号表現では不足するために「文学」があるという機能性と複雑性を託した作者の渡航の顔が見えるようだった。後期では「本物」を巡る応答に対して、一部では「文学(笑)」といった「ブンガク」という揶揄が散見された。ライトノベル読者の「文学」への距離の一つの表れでもあるだろう。なので、『俺ガイル』が示した「文学」への素朴な態度が本稿の主張となっていく。

同時にあれほどまでに比企谷八幡に同調していた読者たちが、後期の「まちがい」がもたらした理論武装化による自意識の空転から目を背けたのか?という問いも立てることができる。前期の比企谷八幡アンチヒーロー像は、ハードボイルドとも評されるような一人称によって誘発された感情移入と、結果としてまるで報われていない比企谷八幡に対して、数少ないキャラたちと読者が理解者を引き受けたという公然の秘密化のような気分が共有されていた。6巻が一つの到達点であったが、そこから明確に反復する形で「まちがえた」後期の比企谷八幡と彼女たちのやり取りは、抽象的かつ互いに踏み込めないバランスの輪郭を描こうとする格闘の軌跡であり、その曖昧模糊とした読書体験は、読者へのストレスによって感情移入の不調を招いたと推測する。

後期では、もはやボッチとして比企谷八幡を描くことは難しい。なぜなら、彼の周りにはあらゆる人間が存在し、関わっているからだ。明白な作中人物たちの相互作用の感情ベースと相互承認状態の底が抜けた要素は整然として描かれており、彼らが物語的な循環に囚われてしまったことは醍醐味だったといえる。それを誘発したみせた比企谷八幡の思考をトレースする魅力が維持されているからこそ、その反復性から抜け出せない自意識の葛藤の重量感が、進んでいるのか進んでいないのか、安易な「成長」を許さない意味の宙吊り的描写が後期の特徴となっているために、キャラと読者のキャラ理解との齟齬が負荷として生じたのではないだろうか。感情移入の不調を来した要因には、比企谷八幡を取り巻く状況の前期と後期の差異となり、それを「本物」への希求性でもって物語を牽引していくこと自体は、比企谷八幡の「持たざる者が抱く理想」への接近として整然と記されている。前期での自意識レベルとしての「面倒くさいがクール」であると両立していた理論武装化=アイロニカルな自己防衛自体が、後期では空振りしていることへの種蒔きは、この「自意識の化け物」を通して突発的にではなく、ある種の反復性でもって丹念に描写されているからだ。

 

自意識でいえば、スクールカーストを飛び越えるように、比企谷八幡葉山隼人と海老名姫菜や雪ノ下雪乃など共通項ではなくても「近似した他者」としての描写は反復的であった。まるで属している地点から「遠いのに近い、近いけど遠い」といったように遠近感は、リア充と非リアの一面的な対決構造に持っていかず、リア充の両義性を描いた。

例えば、一面的ではない表現が抱える複雑性こそが「文学」の特徴になるだろう。

近代文学は孤立した個人の内面を描いてきた。

 

何者 (新潮文庫)

何者 (新潮文庫)

  • 作者:朝井 リョウ
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2015/06/26
  • メディア: 文庫
 

 

現代でいえば、朝井リョウなどに代表される「文学の健全化」があるだろう。就活や学校内の問題はその時の最大瞬間的な問題に過ぎず、一過性の病のように喉元を過ぎれば問題は解消されてしまうものだ。恰も「イマ・ココ」が、局所的な問題が、世界のすべてであるといった問題意識の肥大化ともいえる。リア充にもリア充の葛藤がある。ボッチだけが「文学」的であるわけではない。リア充も「文学」になりえるという価値の転換を朝井リョウなどが行っているとするならば、次のように言い換えることもできるだろう。

かつて、吉本隆明太宰治を「夜の文学」とし、三島由紀夫を「昼の文学」と評したことがあった。大局的には朝井リョウもまた「文学」を「昼」にしようと努めている。しかし、その「昼」は日照りの中で瞬間的に陰ることで生まれる暗さを持ち、不透明ながらも通気性があるようなものだ。通過できる局所的問題が全体化したかのような刹那的な陰影を浮かべるに過ぎない。差し当たって本論では「昼と夜の淡い」から「夕の文学」とする。

『俺ガイル』では、ボッチな主人公から眺めることで抱えた問題設定や意味は、従来の孤立した人間の内面に照射しながらも、同時発生的に一過性の中では両義的に近しい問題や意識に触れざるを得ないことを遠近法的に、パースペクティブな結果として「文学」的表現に込められていると考える。それが多面的、多角的な普遍・根底にあるものとし、「文学の健全化」そのままに属しながらも、その陰影を捉えて離さないような粘り気が存在するように思える。まさしく「昼」と「夜」の狭間で揺れることを目的にしたかのような「夕」的な自意識のナルシズムと意味が持つ病との対決になっている。

一面的ではない両義的があり、一面的な完璧超人は嘘臭い。二律背反するような複雑性を仮託するような表現が「文学」であるならば、自覚的に作者の渡航は「文学」の分裂しつつも孕んでしまう両義性=構築と破壊の自意識という生態を描いた結果でもあり、この14巻にも及ぶ過程こそが、健全な文学的格闘だったのではないだろうか。 

この後期が抱える深層的な問題への処方箋として「文学」的に立ち向かった『俺ガイル』の決着点は、記号的では済ませられない複雑的かつ宙に浮いてしまう「言葉」への信頼性と可能性と隔絶性を「郵便的」に「文学」という免罪符に仮託することでしか辿り着けなかったと言ってもいいだろう。

一言でいいのに一言では表すことができないメッセージ性。

「ブンガク」と笑われても「文学」的に立ち向かう姿勢のみが、この複雑さを表現することができた。比企谷八幡の自意識の裸の格闘の軌跡であり、渡航の作家としての矜持ではないだろうか。

やや前置きが長くなってしまった。ここからは1巻から順に追ってみてみよう。

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 (ガガガ文庫)

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 (ガガガ文庫)

  • 作者:渡 航
  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 2011/03/18
  • メディア: 文庫
 

 

1巻の冒頭にある、比企谷八幡の自覚的かつ自虐的なアイロニーは「ネタ」と「マジ」が同居している感覚が腑に落ちる。昔でいえば「真面目系クズ」と評され、ボッチゆえに人畜無害キャラでありながらも、その卑屈な精神性は他者との接触を介さないために決して外に漏れ出ることはないような存在だった。

冒頭の作文は最終巻との対比となっている。その「否定」から「否定を重ねる」までの迂遠な旅路が『俺ガイル』が記したものである。

比企谷八幡のボッチゆえのネタ化はプライドの高さと照れ隠しを孕んでいる。真意を悟られない様に、距離感を測り、パロディ化した自分語りは専守防衛的な心理構造がある。ボッチゆえのディスコミュニケーションは、『エヴァ』の碇シンジ問題に通じるだろうか。

 

新世紀エヴァンゲリオン Blu-ray BOX STANDARD EDITION

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傷つきたくないから引きこもりたい。成熟を拒否する自閉的な精神性は、物語上では必ずコミュニケーションを要請される。なぜなら、ディスコミュニケーションは転倒してコミュニケーションを要する構造になるからだ。それは、比企谷八幡がボッチであるからといったものではなく、彼がこの物語の主人公であること他ならない。主人公である以上は、何かしらに関わらざるを得ない。そうでなければ、何も物語として起きないからだ。物語でなければ、引きこもりっ放しは可能だろう。そのまま成熟を拒否し続けることも。何も事件が起きなくても現実は動いて回る。

 

僕の人生には事件が起きない

僕の人生には事件が起きない

  • 作者:岩井 勇気
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2019/09/26
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

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碇シンジエヴァに乗らないことが物語となったが、現実では引きこもることが何かしらの物語になるとは限らない。現実との徹底したディスコミュニケーションが成立してしまうからだ。

「日常系」の「何も起こらない」ことこそが物語になるような構造で輝く実在感もあるが、奉仕部という形式的には能動的デタッチメントであり、受動的コミットメントな謎部活動に関わることになる。ここで繰り広げられる雪ノ下雪乃との安易な「部活とラブコメ」への期待を裏返すような自己言及性は、タイトルにあるように「まちがっている」ために成立していく。

変わることを促される比企谷八幡の拒絶は、潔癖的にいえば、変わることは逃避であり自己否定であるとする。現状の自己肯定で踏ん張るこることで「成長」への意義を唱える。

5巻P134

なぜ人はノスタルジーに惹かれるのだろうか。「昔は良かった」とか「古き良き時代」とか「昭和のかほり」とか、とかく過ぎた日ほど肯定的に捉える。

過去を、昔を懐かしみ愛おしく想う。あるいは変わってしまったこと、変えられてしまったことを嘆き悔やむ。

なら、本来的に変化というのは、悲しむべきことなんじゃないだろうか。

成長も進化も変遷も、本当に喜ばしくて正しくて素晴らしいものなのだろうか。

自分が変わらずにいても、世界は、周囲は変わっていく。それに取り残されたくないから必死であとをついていっているだけなんじゃないだろうか。

変わらなければ悲しみは生まれない。たとえ何も生まれなかったとしてもマイナス要素がでないというのは大きなメリットだと思うのだ。収支表を照らし合わせて赤字になってないならそれは経営方針としてはけして間違いではない。

だから俺は変わらないでいることを否定しない。過去の俺も、今の俺も否定する気はさらさらない。

変わるなんてのは結局、現状から逃げるためなんだ。逃げることを逃げないなら変わらないでそこで踏ん張るべきだ。

明確に「成長」への奴隷を退けようと変化をすることへの嫌悪感による自己肯定だろう。 これは今までがボッチであり、それが当たり前だったゆえに軽んじる風潮に異議を差し込む形となっている。ボッチへの理解として孤高であることを突き詰めた結果ともえる。いや、寧ろ突き詰めるしかなかったことが「潔癖」を形成していったと推察できるが、ボッチであることのポジティブな心理とネガティブな思考の記述が魅力的に映る。

そして、その転倒が後期の「本物」問題につながっていくのは言うまでもない。

比企谷八幡雪ノ下雪乃は、同じようなベクトルなのに合わない。そんな二人が「選ぶ」までの、この遠回りが作品そのものに通じるだろう。

のちのバトルロワイアル形式を導入する契機となったのが由比ヶ浜結衣の存在になる。彼女はスクールカーストの上位に属し、「空気」を読むことでキャラとして成立している。当たり前のように「空気」の中に紛れている本音と建前をケース・バイ・ケースに使い分け、的確に身を据えることで柔軟的にキャラを立てる。それがカーストにおける「空気」を読んでいくことでグループ内の緩衝材と機能する。

『俺ガイル』ではカースト上位のリア充と下位のオタクたちは意識的に描かれている。前者は葉山隼人たちを捉え、後者は有象無象の一部として時折登場する程度だ(遊戯部が代表的だろう)。

その中でも、それぞれのコミュニティがあり、ボッチではないことが窺える。それぞれのコミュニケーションがあり、ボッチである比企谷八幡の視点を通して上位と下位のコミュニティが顕在化する。そこに直接的な衝突は存在しない。それぞれのコミュニティの中で充足している姿が描かれている。そのため中間層、キョロ充は可視化されることが殆ど無い。5巻から6巻にかけて登場する相模南くらいだろう。上位と下位を描くことで中間層を空洞化している構造は、スクールカーストの可視化が目的ではないと読める。

この作品の持つ「スクールカースト性」は、上位には上位の「空気」があることに尽きるだろう。「空気」に従属するしかない下位に対する上からの無自覚な振る舞いではなく、上位も「空気」に組み込まれている当然の光景が広がっている。

比企谷八幡が属する奉仕部と、葉山隼人らの共同体が抱える問題の「空気」を対称的に輪郭を与えていくのが、いわゆる「健全な文学化」への橋渡しに買っているのだから。これは後述していくことになるが、今ではリア充や非リア充という言葉ではなく、「陽キャ」と「陰キャ」に置き換わっている。言わんとすることは「ネアカ」と「ネクラ」とさして差はない。この大局的な二極化では、「陽キャ」と「陰キャ」のボーダーラインの判定が白か黒かに過ぎず、灰色が見え難い。キョロ充は揶揄的な意味を持っていたが、これは今では陰キャに回収されてしまう。中間層の可視化を許容しない白か黒で塗り潰す判定性は、むしろキョロ充を意図的に描かなかった『俺ガイル』が示した予見性のように読めなくもない。

ただ、スクールカーストを描くことが目的ではなく、比喩的にいえば、比企谷八幡側の下から上への目線と葉山隼人側からの上から下への目線といった、結果的に二極的に描くことで、相互の関係性や対称性を炙り出すことに重点を置かれていた。

三者三様の出会い方をした奉仕部の彼らは、前期が抱える「交通事故の被害者と犬の飼い主とリムジンに乗用していた加害者」の関係性だったことはこの時点では知らない。2巻では由比ヶ浜結衣に構われる理由を探し出して、勝手に歪んでしまう比企谷八幡が描かれる。負け続けてきた経験とプライドの高さも相まって、一時的に彼女の優しさを取り違える「まちがい」をする。

優しさだけではなく、自立を促すのが奉仕部。それは魚を獲ってあげるのではなく、魚の獲り方を教えてあげることを指す。

互いにディスコミュニケーションだった彼らが、部活動をしていく内に内輪が形成されていく。その結果として自立できなくってしまう彼らへの皮肉が後期の問題として浮上していくが、それは後述するとしよう。

P223

誰かの顔色を窺って、ご機嫌をとって、連絡を欠かさず、話を合わせて、それでようやく繋ぎとめられる友情など、そんなものは友情じゃない。その煩わしい過程を青春と呼ぶのなら俺はそんなものはいらない。

ゆるいコミュニティで楽しそうに振る舞うなど自己満足となんら変わらない。そんなものは欺瞞だ。唾棄すべき悪だ。

 

1巻の第8章からは、青春フィルターへの嫌悪が述べられている。自分たちの輝かしい瞬間としての記録と記憶は「青春」と名前を付けられることで、実在性への承認が行われる。そんな青春と称したかのような「欺瞞的なぬるいコミュニティ」から自分たちの居場所へ帰ることこそが、そんな「自分たちの居場所」になっていくとしたら、それは「ぬるいコミュニティ」へと変貌していくことを意味する。比企谷八幡が忌み嫌う青春と呼ぶものはあきらめている一方で、求めていたものだ。

そのあきらめることをあきらめたくない跳躍が、後期では「本物」と呼ぶものとなっていく。

比企谷八幡のボッチゆえの自己意識は、否定されたくないという反復性でもって自己肯定へと繋がる。誰も認めないが己自身は認める。ある種のルサンチマンの開き直りとも取れるが、それが果たして悪いことなのだろうかという問いが生じる。

奉仕部に加入し、楽しい今だけを抽出し、新たな居場所を甘受することはこれまでの自分を否定することになるのではないだろうか。ボッチであるからこそ、ボッチでいた自分を肯定すべきではないか、という自己充足するかのような自意識の回復が特徴になるだろう。この彼なりの現実的に強固かつ独りよがりな自意識のロジックが前期の意識であり、再三述べているように後期では関係性の変化によって、ある種のマッチョさが空回りしていく過程で、自意識の装飾が取り払われてしまう。

 

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。2 (ガガガ文庫)

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。2 (ガガガ文庫)

 

 

2巻では川崎沙希などの登場もあり、ヒロイン候補の拡張が行われていく。マルチヒロインのルート開発としては、1巻から登場している戸塚彩加が本編中でもネタ的にヒロイン化の描写があり、平塚静も同様にアイロニカルなネタとして描かれていく。

比企谷八幡の周りのキャラが続々と増えていくが、それはイコール奉仕部が拡大するわけではない。あくまでも奉仕部のメインは比企谷八幡たちの3人であって、依頼という受動的形式を持ち込むために関わるキャラが増えていくことを示している。つまり、部活を一緒にやるという奉仕部のプレイヤーを作る目的ではない。「みんな」で依頼を遂行していくことはあるにしても、「常にみんな一緒」でといった同調圧力的に固定的な部活への加入を図る物語とは違い、奉仕部のミクロな関係性を周りのキャラとの流動的な関係を描きながらも、部室内を固定的にしようとする=最終的なマルチヒロインへの決着としての区別がある。

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書類の不備で平塚静に怒られる1巻との反復もあるが、やはり『俺ガイル』の魅力は一定の反復性に宿っていると考える。比企谷八幡の思考への没入感もその一つでもあるが、中々一定の反復性から抜け出せない「成長」への藻掻きだろうか。

もちろん、作品も前期と後期では相対的な作り方をされているので、マクロな反復性がある。

2011年の作品であるから、携帯電話はメールでやり取りするのがメインとなっている。だからこそ、チェーンメールという匿名的悪意の拡散が題材に置かれている。

「みんな」という匿名的な描写は、6巻の「まちがい」以降の7巻における比企谷八幡への風当たりのシーン、生徒会選挙の際に比企谷八幡がでっちあげるSNSのアカウント(8巻)、スクールカーストの中間層を描かないことで「みんな」という有象無象を匿名的かつ無邪気な好奇心の悍ましさとして10巻などに使われているが、2巻で用いられている匿名的な悪意は、スクールカースト内のグループ争いは学校内ではなく、携帯電話を駆使して学校外の空間でもコミュニケーションを図りながら「空気」を読んでは牽制しようとすることで生じた弊害だろう。

犯人を具体体に名指しする解決ではなかったが、結果的に犯人像は絞り込められた。ここで明らかなのは、スクールカースト上位にポジショニングしているリア充たちも苦悩しているという事実だ。最底辺の比企谷八幡の生きづらさだけを取り扱うのではなく――むしろ題材としては平凡になるだろう――羨むような彼らさえも「青春」に囚われていることが重要である。

「空気=世間」を読むのは、その中で適応するために求められるサヴァイヴ能力である。宇野常寛の『ゼロ年代の想像力』にあるサヴァイブに対する「決断主義」は、結果的にイデオロギーめいた消費のされ方をされてしまったが、その中でも生存戦略としての「決断主義」と「キャラ化」の実存性は記されているし、平野啓一郎が提唱する「分人化」は「キャラ」を意図的に使い分けることで、つまりそれぞれのムラ毎に適応していくメタ認知的なメソッドであった。

 

ゼロ年代の想像力 (ハヤカワ文庫 JA ウ 3-1)

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私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

 

 

自覚的に「キャラ化」することで「空気」に適格することも自然なこととして受け入られている。その反動として「本当の自分らしさ」を内省的に求めたり、「キャラ」である自分と他者評価とのズレに悩むことも不自然なことではない。現に由比ヶ浜結衣のキャラ性は「本音と建て前」と「空気」に順応した結果の産物であるような描かれ方をされており、7巻で明らかになる海老名姫菜が、どのようにスクールカースト内で選出され、その「空気」を推し量っているかのように、「キャラ化」したリア充側の苦悩も相対的に存在する。

前述の朝井リョウの「リア充文学」たる所以も、リア充側の葛藤から普遍的な苦しみを抽出することだろう。その足掻きは「持つ者」として理解されているリア充が、結果的には「持たざる者」であったことを自覚する行為に尽きる。

これらは、やはり相対的な産物に過ぎない。リア充が存在するのは同時に非リアがいるからだろう。誰もが同時的にリア充であったとしても、それでも段階的な、相対的な差異は存在する。

この2巻ではリア充側の読み合いを推測的に描きながら、その中に入れないカースト最底辺の比企谷八幡の視点だけが、ある種の客観性が担保されるために作中の解になり易い結果を生んだ。

「中と外」さらにはその中でも「内々と外」といったように中心である葉山隼人とその他とカーストのグループも細分化している。葉山隼人の友達の戸部らはそれぞれが「友達の友達」でしかなく、外部としての比企谷八幡を経由することで「中心の不在」による結果をもたらした。炙り出されたのは「中心」の功罪だろう。雪ノ下雪乃が疎まれ、葉山隼人が、彼自身がそうであると自覚したために「選べない」のはそのツケでもあるのだから。

奉仕部への依頼は私的なものであり、その成果は結果に表れるが、比企谷八幡の功績は公的に残らない。読者と僅かなキャラは知っているという公然の秘密化が行われ、そのカタルシスは6巻になるだろうか。

その公然の秘密化した物語を駆動するための選択が結果的に「先送りの病」による歪みを誘発することになり、そのツケを払わざるを得ないのが『俺ガイル』の見事な構成であるゆえんだろう。

ここで本論の重要な概念として「先送りの病」を説明したい。

具体的には後期の問題に触れる際に頻出するものであるが、その場しのぎ的解決は物語上の一過性であり、消極性、能動的なデタッチメント=依頼という形式であるからこそ、その場の瞬間的な立ち振る舞いにコミットするだけでよかった。しかし、問題は依然として残滓として存在し続ける。その場凌ぎでしかないために、その後の清算は物語の都合上そのまま「先送り」にされることを指す。

依頼を受けて「イマ・ココ」にコミットすることだけがいいという受動的な理屈が、「先送り」された結果、後期では反復するように、つまり「まちがった」ままの解では無理が生じるような構成となっている。つまり問題は一過性ではなく、その先も連綿と存在していたことを知る比企谷八幡たちは「先送りにした都合」を自覚していくことになる。

これは奉仕部という形式上、受動的なコミットメントであり、能動的なデタッチメントが引き起こした歪みの一つだろう。関わらざるを得ない物語上の性質、主人公であるから比企谷八幡は関わってしまう。現実では、比企谷八幡は主人公でなければデタッチメントのままでいられることもあり得たはずだ。平穏なボッチのままでいることも可能だろう。ある種の引きこもりの精神性は保全されたまま、物語として機能しないという選択肢もあるかもしれない。「日常系」の「成長への奴隷」を退けるような物語がないことが、物語になるという逆説すらも通じないデタッチメントも存在するはずだからだ。

しかし主人公である場合は勝手が違う。関わるしかなくなってしまう。

そして関わっていくことを選択した比企谷八幡は「先送り」にした今後も見据えないといけない。物語の都合上では隠蔽されていたツケを払うのが前期から後期への橋渡しであると考えられるし、それは選択肢が無いという現状から選択するしかなかった比企谷八幡たちのその場しのぎではない選択への問い(理想)が立つことになる。

これは最終巻に通じるように、疑い続けていかなくてはならない。切断的にすることはできない。連続的に問いを立てることが「先送りの病」への処方箋になるのだから。この「先送りの病」は比企谷八幡の解決にみる物語上の欺瞞であり、他のキャラの立ち回り方や押し付けが結果的に表れたようなものだったと考えられる。「先送りの病」であったことで物語的に隠蔽されていたものが露見するのが後期だ。

その破綻性に対して「潔癖」である比企谷八幡が見届けなければならなくなる。嘘や弱さを嫌い、自覚しているのに、自戒しているのにその隠蔽されていた隙間に身を隠したくなることへの自己嫌悪も当然ある。そんな自己評価と他者評価のズレと違和感を後期における自意識の空転とし、嘘ではない「本物」を求める潔癖の論理が成立する。これはリアリストがロマン主義者に転倒しているのと同義で、巻き込まれてしまうがゆえに選択肢を持たぬ者が、カードを切る状況への比企谷八幡なりの処世術であった「先送りの病」と向き合うこととなる。

常に関わっていくことは「イマ」を連続的に捉えないといけないことであり、その視線がもたらず実感は、まさしく「日常系」が描いてきた実在性へと直結すると考えるが、これも後期の際に触れていく。

話を戻そう。

2巻にある何でもない日常の他愛もない比企谷小町との会話や部室の風景が、まさに日常の代え難い青春模様としてある。そんな平穏な記録への記述性が青春たる所以になるだろう。 

P37

そんな素敵な青春BGMを背負いながら、俺たち奉仕部が何をしているかといえば、何もしていない。

俺は妹から借りた少女マンガを読み、雪ノ下は革のカバーがかけられた文庫本に目を落とし、由比ヶ浜は気だるげに携帯をポチポチしていた。

相変わらず0点の青春である。

0点と述べているが、この時間、この日常性がかけがえのないものだったと振り返ることになるのは比企谷八幡といえども避けられず、彼でさえも思い出や懐かしさといった「日常の記録性」に回収される強いはたらきを実感させる。

川崎家の問題に対して「可能性と現実」の対比は「学力と金銭」と表れている。

互いのディスコミュニケーションはコミュニケーションを要請され、依頼という形で何かしらの接触を要する。決して比企谷八幡はコミュニケーションができないわけではないが、「学校と家」といったように世界はその2つに現れる学生時代において、学校領域の問題で済むものだけではなくなる。後期につれて依頼は学校外から「家」に波及していく。

他人の家の事情にどれだけ踏み込むことができるのか。川崎家パターンと雪ノ下家パターンが『俺ガイル』の代表的な「家問題」だろう。もちろん後者がメインであるが、他人にどれだけコミットできるかのレベルとして、結果論的にいえば前者が相対的に位置していると考えられることもない。ここでは「家」に介入することの意味や責任や覚悟を問われる前哨戦のようでもあった。

 

安直なラブコメに落とさないのは「まちがって」しまうからだろう。

由比ヶ浜結衣の優しさを欺瞞や偽善として解釈の受け取り方をすることで生じる齟齬。これは比企谷八幡の主観によるズレであり、この物語の魅力である語り手の捻じれがそのまま素直に変換した結果だろう。彼のコンプレックスと経験則が、その優しさを確信してしまうバイアスとなるのが「まちがう」根拠であり、しかし決定的に「まちがう」からこその遠大なコミュニケーションにおけるディスコミュニケーションとしての『俺ガイル』が成立する。

過剰な反応は期待に裏切られた過去による防衛心理であり、自分や他人の気持ちに対して勝手に自覚的であると振る舞うことでアイロニカルに守る。

齟齬に気付かないのは、由比ヶ浜結衣の優しさの本質が主観の範囲外であり、比企谷八幡の経験にないから。つまり解釈と経験が一致しないからこそ縺れが生じる。これは、常に自分に囚われている比企谷八幡が、過剰に防衛したところでその齟齬は彼なりの主観的なロジックでしかないといった他者を決めつけてしまう圧倒的な孤独ゆえの人間理解でしかないことも指している。

 

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。3 (ガガガ文庫)

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。3 (ガガガ文庫)

  • 作者:渡 航
  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 2011/11/18
  • メディア: 文庫
 

 

3巻でも相変わらず自虐ネタは経験則から導かれている。

負けを知り、勝つことはないが、同時に負けることもないカードを切る経験が蓄積されてきたための捻じれだ。過去の自分を引き合いに「ネタ」にすることで防御する比企谷八幡由比ヶ浜結衣とのすれ違いはラブコメとしては「まちがい」つつも一周して王道のような展開を見せているのが特徴だろう。

由比ヶ浜結衣による新しい好意への受け入れ方ができないのは、比企谷八幡の徹底した主観的かつ経験的な敗北へのアイロニカルな信頼によるものである。その敗北の経験は、全く違う他者を受容できず、ある種のテンプレめいた経験に照らし合わせることで固定観念を生み出し、リスクマネジメントを図る。その都度、人間関係にコミットしないからダメージを与えないが、比企谷八幡自身は傷つく。その痛みさえもアイロニカルに処理さえしていれば致命傷にならないだろうといった防衛心理が読める。

しかし果たして、自分が傷つくのは許容できるだろうか。傷つかないことは可能であろうか。この問いを立てたのは6巻の件や9巻の「本物」への起点でもあり、後期の「持たざる者の自己犠牲」として表れていくが、まずはアイロニーでもってその前段階で防衛しようとする心理が見えてくるのは重要な種子だ。

P97

誤解は誤解。真実ではない。ならそれを俺自身が知っていればいい。誰に何を思われても構わない。……いつも誤解を解こうとすればするほど悪い方向に進むしな。もう諦めた。

最小限に留めるためのダメージコントロールは「空気」を読むに通じるだろう。「空気」に結果的にコミットするような働きがある。他者との関係性において、傷つかないためにアイロニカルに経験則を持ち出し、負けないためのカードを切る。それらは他者を傷つけないために自分のリスクを緩和する自意識過剰ゆえの産物であり、主観を通した他者との関係性にみえる自意識(間主観的)そのものがアイロニカルに「空気」に照合されるような理知的な諦念になるだろう。 

誤解を招いたり、誤解を解いたり、各自のリスクマネジメントで主観的な真実はそれぞれの胸中にある。それを正すかどうかは別の話であり、他者に伝えるかどうかもまた別の話だろう。

3巻の比企谷八幡由比ヶ浜結衣の一周したディスコミュニケーションによるその距離と齟齬の表れは「まちがい」であるが、同時に「正しさ」も孕んでいる。なぜなら、主観的な応答を経ることでしか共同的な視点やコミュニケーションの「移動」を形作ることは適わないからだ。ディスコミュニケーションによってコミュニケーションが要請されるというのはその意味であり、「まちがい」が「正しさ」を作り、また「まちがう」ことで次の段階を踏めるといった循環的ながらも意味は「移動」していくものだ。その「進まなさ」=成長への奴隷を退けたドラマ性が「日常系」の文脈に正しく回収されている。 

ボッチであるがゆえに関係性への問いを立てることは逆説的に誠実な態度だと言える。この巻で述べられている「友達の定義」は機能性による決定が意味を持ちやすいとされているが、「友達の定義」自体の絶対性の問題ではなく、むしろ「友達の存在」は固有的、具体的でありながらも「移動」や「交換」可能でもある。「友達だった人」の存在は別に不自然なことではないように。それが「偽物の友達」であるとか「本物の友達」だと言いたいわけではない。その「移動」や「交換」に纏う揺らぎといった抽象的な文脈をどのように定義付けて区切るか。このような単独的であり、特殊的であり、また一般的であるような概念。つまり「本物」への問いに通じていく。 

P150 「理想は理想だ。現実じゃない。だからどこか嘘臭い」

「本物」への潔癖的思考は、さきに触れたようにリアリストが転倒してロマン主義者になっていることを示す。引用したようにもちろん理想と現実は違う。現実を知れば知るほどに理想の輪郭は嘘臭さを増す。そして嘘臭さを脱臭することも難しくなってしまう。

その権化といえるような雪ノ下陽乃が登場するのはこの3巻から。理想形でしかなく現実感が希薄ともいえる存在として当初は描かれている。これも理想というイメージに過ぎず、自覚的に記号的に回収されながらも、裏側に潜んでいる雪ノ下陽乃の現実性もまた魅力を買っている。その単なる理想形で終わらない両義性は今後紡がれていくが、具体的に「本物」が問いに立つのは後期からであるのは言うまでもなく、この段階から理想的なイメージの体現者を登場させ、逆説的にその嘘の一端を晒してみせたことは、「本物らしさ」への話の種蒔きだったのだろう。「本物」という抽象的な概念に込められた現実=成熟の手触りとして。

それは遊戯部とのトランプ勝負において、材木座義輝が抱える「好きなことを仕事にしたい」夢を持つ度に現実感がないと指摘される問題として露わになる。

誰しも好きなことを仕事にしたいだろう。手に職を付けるならば、自分の決めた道で、好きなことで食べていければどれほどまでに自分の人生に意味を見出すことができるだろうか。好きなことを究め続ける人生の快楽と苦しみが、自分の「生の味わい」になっていくだろう。

しかし実際問題として、それはごく一握りに与えられたポジションであったりする。才能や努力、そして運といった一般的な価値基準に回収された結果だ。もちろん、夢を追いかけながらも現実的な職と両立をしている人もいるだろう。また、好きなことは完全に趣味として成立させ、仕事は仕事と分離することも珍しくない。

ただ、材木座義輝はラノベ作家を志向しながらも、ゲームクリエイターに揺れたりと、目的性ではない「肩書き」としての自分に陶酔したい内面が見える。「本物」としても「偽物」としても中途半端な立ち位置であり、それは「好きなものしか知らない」ことに尽きていく。アニメしか知らない人が革新的なアニメを作れるかどうかといったら難しいだろう。意図した二次創作的であることは可能であっても、ジャンルの開拓や更新は、内輪ではない外部からの輸入で価値観や意識が刷新されていく。好きなものを仕事にしたいということは、好きなもの以外にも意識的に触れないといけない。自分の好きなものの範囲内で収まると、それは小さいものしか生まれないことを示している。

しかし人間は自分の見たいものしか見ない傾向が色濃い。インターネットのレコメンデーションも、SNSのフォローも。「エンドレス・ミー」が延々と続く状態は、理想と現実を逆算すると一定の快楽だけなのだろう。当然、享楽的であることが悪いわけではない。趣味の範囲内であれば自分が引き受けられる領域で行えばいいと思っている。ただし、これが仕事となると、内省的だけではないので話は違ってくるだろうが。況してやクリエイティブな仕事にある幻想に対して、『SHIROBAKO』が丁寧に描いたように、クリエイティブだからこそ地道以外に近道がないものだ。

遊戯部の彼らがいうように内輪で革新的になれるかどうかは困難が付き纏うだろう。

しかし、遊戯部が指摘した材木座義輝の「薄っぺらさ」は現時点では一定の信憑性があったとしても、彼が抱く「好き」という感情は間違っていない。それは否定されるものでない。その瞬間に「本物」は宿る。

P217 

素直に羨ましいと思った。

疑いもせず、悲観論から入らず、好きだからの一言だけで自らの行く末を決めてしまえる愚直さが。愚かしいにもほどがあり、眩しいほどにまっすぐすぎる。

好きだって、そう素直に言える強さがあまりにも眩しい。冗談交じりでも強がりでもなく心の底から言える無垢さは俺がしまいこんでしまったものだから。

その感触は現実であり、理想を目指すためのエネルギーになる。真っすぐであるがゆえに歩むべき道は示される。

比企谷八幡は悲観論が周回した状態がデフォルトだと述べたが、理想と現実の生き方の問題として、理想や期待は嘘であるというのが比企谷八幡の人生であった。なぜなら「嘘=偽物」ばかりで「本物」を知らないのだから。経験的に言えば「偽物で」終わるはずだったが、由比ヶ浜結衣との関係性は、彼の言い分を飲み込めば前提が違えばリセットすることができる。主観的な前提から生じていた相互の齟齬をゼロにできる。

そして、リセットして終わるのは比企谷八幡のこれまでの経験に基づく現実だった。由比ヶ浜結衣との「これから」が始まっていく。これは経験を超越した現実であり、嘘偽りないものだ。負け続けて擬態してきた現実へのアイロニカルな処方箋ではない。経験では片づけることのできない他者との関係性の第一歩が由比ヶ浜結衣になっていく。

一方で、雪ノ下雪乃との距離の顕在化が起きる。嘘を言わない雪ノ下雪乃ですらも言ってないことはある。この潔癖的なイメージ、理想の押し付けは5巻、6巻で明らかになるが、捻じれた関係性の始め方として、前提の情報が食い違っていてもやり直しは利くことは由比ヶ浜結衣とのやり取りで描かれた。これはリセットを指すのではない。新しく始めることができる、リスタートの意味であるが。

彼の主観を通せば、前期から後期にかけての文脈は「まちがった」まま始まったものを「正しくリスタート」することで新しく「まちがう」物語であるからだ。

 

作中時間の経過と描写として高校2年生の1年間を丸々と描かれているのが『俺ガイル』だが、高校2年生以降といったこの先があるのに停滞や温存を良しとしないのは「先送りの病」というモラトリアムへの対抗だと考えることができる。

現実の立体感としての時間や風景描写のみならず、千葉ネタは彼らの生活への息遣いそのものだ。後期ではより温度や風景を内面と一致させるような記述が目立つ。これらは比企谷八幡の独白との相性であり、彼が一定以上の「文学少年」であることから夏目漱石太宰治などを引用することで「現実と文学」の関係性を規定する機能を果たしていると言えるだろう。

また、従来の「文学」が描いてこなかった「文学」が抱える懐疑的な目線(10巻が代表的)は、前述の「昼と夜」の狭間で揺れる相対化と意味の絶対化=「健全」でありながらも「夕の文学」として『俺ガイル』が目指す地点となっている。

比企谷八幡の視点から世界へのフレームが形成され、その主観的な語りは他者との情報レベルの差異を容易にもたらす。その前提による事実の縺れが伝達不可能性にみるディスコミュニケーションとコミュニケーションの裂け目として表れる。

ある一定の引きこもりの精神性は、人との関わりをミクロにするから傷付かないで済むが、語り手の都合上、関わるしかない。受動的なコミットメントが成立する主人公の特権のようなものだ。これは材木座義輝との比較が分かりやすいだろう。同じスクールカーストに属する比企谷八幡材木座義輝の大きな違いは「主人公」であるかどうかに尽きる。ボッチならば徹底して関わらないことも可能だろう。何も起こらない可能性も想像できる。よりミクロに引きこもり、依頼を受けるという選択肢すらも無いだろう。形式上、受動的であるので両者ともに「使われる」立場であることに差異はない。

しかし「主人公」に使われるかどうかの差異はある。

P30 

今日も世界は俺が関わらずとも正常に回っている。

そんな、比企谷八幡がいなくても、ちゃんと回っている世界、というのを実感する。そのことに密やかに安心を覚えるのだ。

かけがえのない存在なんて怖いじゃないか。それを失ってしまったら取り返しがつかないだなんて。失敗することも許されないだなんて。二度と手に入らないだなんて。

だから、俺は今、自分が築いている関係性とも呼べないような関係性がわりと好きだ。何かあればたやすく切れて、誰も傷つかない。

上記はボッチのリスクヘッジの内面化とも取れるが、この踏み出さない関係性への居心地の良さ、つまり現状維持と満足がそのまま表れている。

もちろん、ここから転倒して後期の「本物」へとつながっていくのだが。

しかし、ボッチであることのリスクマネジメントを取れなくなっていく。

例えば4巻では意図的に鶴見留美を孤立させ、集団の「空気」と孤独を描いた。その際から生じた「まちがい」や関係性の前進は比企谷八幡をミクロに没入させていく。その際に比企谷八幡のボッチゆえの語りはなされても、そもそもその機会を得られないのは材木座義輝ともいえる。ボッチへの共感や理解があっても、それは「主人公」の語りで十分だからだ。

であるから、4巻では材木座義輝の出番はない。

 

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。4 (ガガガ文庫)

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。4 (ガガガ文庫)

  • 作者:渡 航
  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 2012/03/16
  • メディア: 文庫
 

 

さて、4巻の内容に入っていこう。

孤独であることが浮くといったネガティブとしてのボッチの可視化が鶴見留美を通して描かれる。

1巻の比企谷八幡のボッチ語りは、あくまでもアイロニカルなポジティブさであった。それは経験則による処方箋になるだろう。同じボッチでも、彼と彼女は違う。ボッチを自己肯定につなげるのが、特に前期の比企谷八幡であるならば、鶴見留美は冷めたフリをして惨めな自分を守ろうとしているに過ぎない。

ボッチであると認識されることへの居心地の悪さ。鶴見留美が持つカメラは象徴的だろう。カメラは記録媒体であり、被写体を写すものだ。それは風景や思い出を鮮明に残す。つまり何を撮るかどうかは選択肢として表れる。

しかし彼女には何も撮るものがない。残したい風景も思い出も「ココ」にはない。カメラは目線であり、フレームである。彼女に向けられたネガティブな現状への目線は、クラスのカーストと外部としての高校生によるものだ。その孤独は見られることで成立する。

本来カメラは写すもの。つまり見るものであるのに、見られる対象として彼女が描かれている。「空気」に見られることで、集団から孤立した「見られる」存在を強調するように。カメラはそんな手持無沙汰な転倒の比喩にも受け取れる。

この4巻で問われていることは、外部の存在が内部の集団にコミットできるかどうか。鶴見留美を集団に溶け込ませるためのサポートが更に状況を悪化させていく。素直な好意が余計なお世話に転換する。これは時と場合に左右され、状況と状態を理解せずに差し伸べる手は空回ってしまうことを示す。

ボッチだからこそボッチを理解する比企谷八幡も同様の視点から、彼女の現状を把握していくことになる。また彼も、葉山グループという集団に溶け込むための社会性を訓練されているのは共通的なレイヤーであるが、それは彼も雪ノ下雪乃も、ボッチであることは果たして悪いことか、を指していることだろう。あくまでもそれは状態と環境の話に過ぎず、ボッチであることイコール可哀想は、リア充側の無理解でしかないと比企谷八幡は周回したマッチョさによる自己肯定から引き出す。

結果的には、葉山隼人らが選択したものは性善説に託けた優しさの空回りであったし、「空気」を読むことの苦難やトラブルは往々にしてある。これは孤立した人間のみが抱えるものではない。むしろリア充も「空気」を読んではサヴァイブしているのは2巻で既に描いている。

この時、由比ヶ浜結衣が鶴見留美に寄り添って「空気」に敏感であることが描かれているのも特徴的だろう。「みんな」で「空気」を読むことは仲良しの呪いとも取れる。「みんな」と仲良くすることは素晴らしいことであると。その「みんな」から外れると惨めで仕方ないと。スクールカーストという閉じた集団性と一定の社会性を持ち合わせた場所からの容易な転落は、友達がいないはみ出した者の状態として鶴見留美がいる。そこから零れ落ちそうになっている者に居場所はないのか。「空気」に入れない人間がサヴァイヴすることは不可能なのか。

P79 

畢竟、人とうまくやるという行為は、自分を騙し、相手を騙し、相手も騙されることを承諾し、自分も相手に騙されることを承認する、その循環連鎖でしかないのだ。

なんなことはない。結局それは彼ら彼女らが学校で学び、実践しているものと同じ。

組織や集団に属するうえで必要な技能であり、大人と学生を分けるのはスケールの違いでしかない。

なら、結局それは虚偽と猜疑と欺瞞でしかない。

 

もちろんそんなことはない。「空気」に対抗するためには別の居場所を作ればいい。「みんな」とは違う「みんな」を求めればいい。

つまり居場所をどう作るか。「学校と家」だけが全てかのような学生時代において、学校内だけが世界では決してない。ここでは趣味の世界という選択肢は物語上頓挫するが、趣味の世界に没入することも可能だろう。そのためには趣味のつながりを持つ手段を考えなければならないが、インターネットを駆使すれば容易に「つながる」こと自体はできるだろう。それが「世界」となるかどうかはまた別の話になるだろうが、ここで重要なのは7巻で明らかなように海老名姫菜の防御策と居場所を維持することに苦心しているのも、スクールカーストや「空気」と関係がある。

 

P168

確かに海老名さんは上位カーストにいるだけあって、顔は確かに可愛い。ただ、その特殊な趣味ゆえに男子からは敬遠されがちだ。けれども、そうした趣味をわざわざ喧伝し、オープンにするのは彼女なりの防衛策なんじゃないかと感じなくもない。本物はそういうのを隠すと思うし。

2巻でも触れたが、むしろカースト上位の「マジとネタ」の空気の読み合いの熾烈さが印象的になっていくのも後期である。これは学校内であるから可視化される一般的かつ特殊的な「空気」であり、一過性でしかない。しかしその一過性も、恰も今の瞬間こそが全てであるかのような問題意識の肥大化が引き起こされることが「健全化」を促す側面となる。

 

P217 

リア充リア充としての行動を求められ、ぼっちはぼっちであることを義務づけられ、オタクはオタクらしく振る舞うことを強要される。カーストが高い者が下に理解を示すことは寛大さや教養の深さとして認められるが、その逆は許されない。

それが子供の王国の、腐りきったルールだ。実にくだらない。

世界は変わらないが、自分は変えられる。なんてのは、結局そのくそったれのゴミみたいな冷淡で残酷な世界に順応して適応して負けを認めて隷属する行為だ。

 

スクールカーストに充満する「空気」を突きつけ、そこからの逆転は可能かどうか。学外の人間が、学校内の集団の問題を解消できるのか。それらの結果は「先送り」にすることが物語の決断であった。事実上の撤退戦でしかない。サブキャラへの救済も、比企谷八幡アンチヒーロー的選択によって確立していく過程でおざなりになっていたものを掬い取るのは後期のひっくり返しの構造に組み込まれている。それは「先送りの病」の比企谷八幡の主観ではない、そこから「先送り」にされることで派生した物語における間主観性である。消極的解決でしかなかった問題は過去として残り、清算が追いかけるように比企谷八幡を捕らえて離さない。

自分が変わるか、世界が変わるか。

これは、自分を変えるか、社会を変えるか、ではなく、目の前の人間を変えることが重要だ。それは関係性を変えることにつながる。目の前のミクロな関係性にコミットすることは、対話を通して自分も成長していくことを意味し、結果的に自分も変わり、周囲も変わる。

 

マンガ家になる!  ゲンロン ひらめき☆マンガ教室 第1期講義録

マンガ家になる! ゲンロン ひらめき☆マンガ教室 第1期講義録

  • 作者: 
  • 出版社/メーカー: ゲンロン
  • 発売日: 2018/12/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

もちろん、目の前の関係性にコミットできない場合もある。

「空気」から漏れ出る恐怖は、つながれないことへの不安だからだ。では「空気」を醸成するつながり自体を共同的に瓦解させるか、団結させるかの二択しかない。

比企谷八幡が採用したのは、つながりを断つことでボッチ同士ならばダメージコントロール可能という理屈であった。これは現状を捉えて、この先のことは考えていない。争いを鎮めるために共同性を得るか、分散化するかの二択。「みんな」という「空気」にメスを切り込むことで、平然とした排除の論理が罷り通る。犠牲の上で成り立つ「みんな」を弱者視点から読むことで「みんな」という共同幻想が浮かび上がっていく。

「みんな」などないのに「みんな」であることを強要されてしまう同調圧力の可視化。これはマジョリティの理屈であり、村田紗耶香が『コンビニ人間』や『消滅世界』で描いた「普通の暴力性」に他ならない。

futbolman.hatenablog.com

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何らかのの犠牲の上で構築される「みんな」という空気は、自分は「マトモ=マジョリティ」であるからと「空気」を読み、「空気」に加担していく。「空気」はナマのものであり、いつだって反転・交換可能である。その時の「空気」を読めばいいだけで、同一性は問われていない。

マジョリティの理屈を形成するのは「空気」に安心したい精神性の空虚な概念だと比企谷八幡は告発する。その「空気」を壊す手段と結果が「先送りの病」として不確定な末路を描いた。

「先送りの病」がもたらす事実と行為はアンチ・クライマックスのような味わいがありながらも、カタルシスが得られることだろう。ここでは、親から与えられたカメラをみんなのために使った鶴見留美。犠牲を強いられても、共通の敵に対して一定の目的性の一致があった。

6巻で雪ノ下陽乃が言った「共通の敵理論」は「空気」を再結集させるのと同様で、「敵の敵は味方」に転じることもある。外交上では当然のマナーだろう。

しかし「共通の敵」であるからといっても、「空気」からはみ出ていたとしても、鶴見留美の気遣う想いは「本物」の可能性が秘められていると願う「希望と現実」の宙吊りはアンチ・クライマックスでありながら、クライマックス的である。

功績として報われない比企谷八幡を読者と数少ないキャラたちだけが公然の秘密として知り、記憶に刻まれていく。これは主人公の性質によるものでもあるが、彼の手法が「まちがって」いたのかは「先送りの病」として9巻で明るみになる。

しかし「まちがえた」ことで、本来ならば交わらない葉山隼人比企谷八幡を正しく認識し、同時に比企谷八幡葉山隼人を認識したのは前期でみせたキャラを後期では両面的にひっくり返す構成が取られているので重要な「まちがい」であったと言える。

一面的ではないキャラの顔は、一面的な結果で終わることができない『俺ガイル』の両義性を問うものであり、つまり「昼と夜の文学の淡い」の調和を図るものではないだろうか。

「まちがえた」からこそのカースト上位と最底辺の相克めいた構図は、朝井リョウの『桐島、部活やめるってよ』を彷彿とさせるが、対決図式をなぞらない比企谷八幡葉山隼人の二律背反的でありながらも、同属的に回収されてしまうような「磁場の複雑性」も前期から後期の大きな主題であったが、これは7巻や10巻で触れる。

 

桐島、部活やめるってよ (集英社文庫)

桐島、部活やめるってよ (集英社文庫)

 

 

再三述べているようにキャラたちを知っていくのが前期の特徴であるならば、その失敗や両義性を突きつけられるのが後期である。

知るという行為は具体的にどの領域を指すのか。互いを認識することは、それを知ることを指す。

例えば比企谷八幡由比ヶ浜結衣は、3巻にあるようにはじまり方や解釈の齟齬があった場合、つまりディスコミュニケーションの彼らは「始めること=知ること」ができるのかどうかが問われた。そして前提の違いをリセットではなく、リスタートすることで始めた。

また葉山隼人とは4巻で互いを正しく認識し始めた。スクールカーストの最上位と最底辺の単なる邂逅に留まらない。その単なる記号的なイメージといった前提から知るまでに至る道筋とは別に、理解することの距離として具体的になるのは6巻から後期にかけての文芸性になるだろうか。ある意味、葉山隼人らと比企谷八幡の両輪を用いることで両義的な「夕の文学」へアプローチをしているとも言える。

結局、イメージというのは自分の都合に過ぎず、バイアスが差し込まれるものだ。どうしても安易にイメージを押し付けてしまう。固定的に、記号的な理解をしたつもりで複雑なあらゆる情報を落とし込むことは型に当て嵌める行為そのものだ。その目線はいくらか共同的、間主観的であったとしても、真に他者への接近と理解は可能になるのだろうか。記号的かつ不確定な可能性の中でどれだけ他者を探れるか。

まさしくコミュニケーションの応答の一定以上の反復性が『俺ガイル』の問題意識として、またそんな比企谷八幡を主人公に据えたことで「下からの断続的なディスコミュニケーション」の観点から眺めることに成功している。

 

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。5 (ガガガ文庫)

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。5 (ガガガ文庫)

  • 作者:渡 航
  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 2012/07/18
  • メディア: 文庫
 

 

5巻では平塚静に「潔癖」と言われる比企谷八幡が印象的だろう。

物の道理や価値基準が潔癖的であることは、欺瞞を唾棄すべきと許容できない己への理解として表れる。この潔癖的であるがゆえに周回した結果のマッチョさはある種の独我論的でもあり、それは比企谷八幡の一人称との相性と前述した人間理解そのままだろう。彼の思考がストレートに流れてくるから、読者側の認知さえもブレてしまう。それは感情移入の容易さと感情のミスリードの誘発を招き、コンプレックスと自己肯定の一貫した思考と理屈が循環している。

ただし、その潔癖であるがゆえに「本物」を求め、他者との剥き出しな応答が後期では自意識の葛藤とともに記されていく。

自分は特別ではないからといって期待はしない。彼の主観を形成した「負け続けてきた経験」があるから。その経験則は2巻では由比ヶ浜結衣を拒んだ。全く経験にない新しい他者である彼女の接触を経験則で対応することはとても主観的な行為だろう。それらを眺める立場にいる読者との目線は必ず齟齬が生じる。

由比ヶ浜結衣比企谷八幡への好意を読者は語り手の彼を通して知ることができるが、彼自身はそれを認知する前で防衛しているからだ。相互の主観的な応答に客観性のような幻想は鳴りを潜める。「ネタ化」をすることでメタ認知するような客観性ではない。「ネタ化」をする自分自身を捉えながらも状況の客観性が常に担保されるわけではない。

ある意味、自虐は「空気」へのコミットの一つであるが、それが適格かどうは状況に左右されるものである。では「ネタ」ではない「マジ」に自分と他者を見つめていく行為は、結局目線の立ち位置はそれぞれ違えど、必ず一定の暴力性が孕んでいることを示す。目線によってイメージで決めつけてしまうこと、型に当て嵌めることで「理解した」気になることが持つ情報のズレは暴力的な理解になることもしばしばだ。すれ違いによって生じるアイロニーは、暴力性を「ネタ」ではない「マジ」と変換してしまう。つまり向けられた目線や注ぐ眼差しが持ってしまう意味は、他者の理解とはまた違う認識レベルの主観的な前提を生み出し、抱いた気持ちとは裏腹に目線が素直に意味を持つ=コミュニケーションの可能性と不可能性が表れているような心地がある。

 

6巻の重要なキャラの相模南との邂逅があるのが5巻。

彼女が比企谷八幡に向けた目線は、カーストレベルの値踏みであった。「価値の病」とも言えるような評価経済的かつ記号的判断の代表例ともいえる描写になるだろう。知らないものを知らないまま保留するのではなく、一定的に型や枠に嵌めることで「理解したフリ」をして置いとく。

相模南の価値基準は、スクールカーストが持つ「価値の病」に囚われていることも意味する。学生時代の無防備に晒され、剥き出しにしたくない価値や「空気」において何が自分と他者との優位性を確保できるものなのかを問うた時に、一定のラベリングが効果を生む。

安易なコミュニケーションにおける他者理解の主観的な認識の齟齬が、結果的にディスコミュニケーションに転化することはいうまでもない。それは眼差しが持つ一定の暴力性と同義になるだろう。

『俺ガイル』は14巻まで読んでみると、選ばれない雪ノ下雪乃が選び、選ばれるまでとも言えるし、同じように比企谷八幡も選べなかった者が選ぶ様相と重なっていく。

彼女を絶対視する比企谷八幡の潔癖ゆえの歪みは、彼女の憧れであることが零れる。彼が持ちえないものを持っている強者としての雪ノ下雪乃。勝手に理解したふりをして、期待をして、自戒をしていたのに超越的な存在として雪ノ下雪乃を据えた己の無知さが容赦なく自己嫌悪的に描写されている。

4巻以降、明らかに比企谷八幡の独白の「質量」が目につくが、構成上、前期から後期への橋渡しの準備になるだろう。

許容できない自分への嫌悪感は、素直な潔癖な思考性であり、比企谷八幡が「本物」を掲げながら自分自身と他者を許せるかどうかの話にもなっていく。

P224 俺は自分が好きだ。

今まで自分のことを嫌いだと思ったことなんてない。

高い基本スペックも中途半端にいい顔をもペシミスティックで現実的な思考も、まったくもって嫌いじゃない。

だが、初めて自分を嫌いになりそうだ。

勝手に期待して勝手に理想を押しつけて勝手に理解した気になって、そして勝手に失望する。何度も何度も戒めたのに、それでも結局直っていない。

――雪ノ下雪乃ですら嘘をつく。

そんなことは当たり前なのに、そのことを許容できない自分が、俺は嫌いだ。

 

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 (6) (ガガガ文庫)

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 (6) (ガガガ文庫)

  • 作者:渡 航
  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 2012/11/20
  • メディア: 文庫
 

 

このように6巻までに比企谷八幡の周回した潔癖的思考は、自己肯定から自己嫌悪への反転を促した。この転化は前期の集大成ともいえ、そして後期の「まちがう」ことの反復性の起点になるのが6巻となる。

前述のようにイメージを押しつける身勝手さは、そのまま自己評価と他者評価として表れる。願望は「理想と現実」を一緒くたにし、イメージで型に当て嵌める。その眼差しの暴力性は言うまでもない。それゆえの潔癖性も同様だ。

 

P25

イメージを押しつけてはいけない。

完璧さを求めていいのは神様に対してだけだ。

理想を誰かに求めてはいけない。

それは弱さだ。憎むべき悪だ。罰せられるべき怠慢だ。自分に対する、周囲に対する甘えだ。

失望していいのは自分に対してだけであるべきだ。傷つけていいのは自分だけだ。理想に追いつけない自分だけを嫌えばいい。

 

4巻のボランティア帰りから線が引かれた雪ノ下雪乃比企谷八幡の距離感は、彼女と彼が互いに線を越境できるのかという、たとえ捻じれたディスコミュニケーションであってもということが問われている。

比企谷八幡が空を見上げると曇天模様であるのは風景と心理の一致になる。嵐の中で停滞する彼の葛藤が風景に照射されている。内面と風景の描写の一致は近代文学による「発見」の一つであったが、『俺ガイル』では比企谷八幡の目線を用いて風景や温度といった五感に基づく微細な変化と内面性を同調させている。

定本 日本近代文学の起源 (岩波現代文庫)

定本 日本近代文学の起源 (岩波現代文庫)

 

 

これまでスクールカーストの空洞化であった中間層、キョロ充が可視化されるのも6巻の特徴だろう。5巻から登場した相模南の存在感は、同時にカースト上位と下位を「空気」の彼女らがどのように認識しているかといった中間層からの評価が差し込むことに成功している。上位への感情は、決して羨望だけではない。カーストの逆転は相模南の自己実現の一つであり、立候補することで肩書きによる評価点を稼ぐ目論見があった。

そんな相模南が奉仕部に依頼をすることから、6巻の素直な捻じれが起きる。

クラスとも異なる空間の外部としての奉仕部への委託は、魚の捕り方を教える自己変革の理念とは異なるはずだが(相模南が望む自己実現は肩書きでしかなく、本質的な自己変革ではなかったから)、雪ノ下雪乃は承諾。実行委員の範囲内で効率的にサポートするという判断は、部活動としてではなく個人の裁量であった。この自己決定は、後々明るみになるが、雪ノ下雪乃ルサンチマンとしての雪ノ下陽乃比企谷八幡たちの存在も絡んでいる。具体的には8巻以降がそのテーマを意識的に取り込んでおり、依存体質として引き受けられると同時に雪ノ下雪乃のある種の自己変革の宣言は6巻からだったとも言えるだろうか。

いつも通りの日常性や効率性を重要視すればするほどに露出する違和感は「日常に入り込むノイズ」だった。取り繕って何かを加えるのは「本物」から離れてしまう。そんなイメージを持つ比企谷八幡の求める「本物」は、彼自身が抱える「潔癖」から導かれている。それも「本物」の押しつけに過ぎないといったジレンマも当然生じるわけだが、この両義的な「現実と理想」のイメージも自意識の中で循環的に取り込まれる。この構造から脱け出せるかどうか、がまさに前期から後期への「まちがう」ことで生じた意識設定だと考える。

実行委員会内で雪ノ下雪乃の絶対性が輝くほど彼女ありきのマンパワーは増長する。彼女と比較されてしまう対象は困窮してしまうし、相模南の肩書きによる自己実現が空転する結果に陥ってしまう。

同時に雪ノ下雪乃に依存する体制では、システマティックではない分の疲弊がそのまま表れ、破綻は免れない。

6巻では明確に破綻し、9巻では比企谷八幡も経験する。人に頼れない彼らが同じように「まちがえる」ことで「認識の向こう側」に進むのは共通的であったといえよう。

P100

人の成長の仕方とはそういうものだ。傷つき、貶められ、軽蔑されて初めて成長する。愛や友情や勇気で人は変わらない。

これは比企谷八幡の経験則で語られた「成長」への眼差しである。温室的ではなく、痛みを引き受けることでしか前進ができないといった意識設定は、成熟を迎える態度そのものだ。しかし「成長」はそう容易いものではない。肩書きに責任が追い付いて初めて成立するように、名ばかりの相模南の件でも明白だ。

6巻以降の「まちがい」が引き受けた形とも言えるし、その結果がもたらした「温室」への立体化も6巻時点では明確化されていないが、今後を見据える上で重要な変化の示唆だと言える。

P187

葉山はいい奴だが、その優しさゆえに誰かを、何かを選べない。彼にとってはすべてが大事なのだ。ふと、それはひどく残酷なことなのではないかと思った。

 

葉山隼人は、4巻でも明らかなように「性善説によるデタッチメント」が性分である。「持つ者」としての自分が何者かを自覚している一方で、「持たざる者」としての何者かも認識している。「リア充文学」と同じくして、比企谷八幡といった最下層からルサンチマン的に見上げるのみならず、最上位から零れ落ちる心情の複雑性の運動性の一致と調和は、「リア充対非リア」の構造を完全に塗り潰している。このテーマは10巻で記されているので後述する。

つまり、完全なるものは存在しない。常に両義性があり、それは「本物らしさ」と「嘘らしさ」を引き受けるものだ。作中で最も「理想と現実」を表している雪ノ下陽乃の暇つぶしは理解不能であるが、それすらもイメージとしての固定でしかないような記述がある。イメージといった固有性を乗り越えることが、比企谷八幡視点で認知できるかどうか。具体的には、12巻以降の雪ノ下陽乃の内面性が筆頭になるだろう。

後期では比企谷八幡が存在しない場での語りが増えるのはパースペクティヴな結果になる。その場に語り手がいないことは、比企谷八幡を通じてしか描かれなかったことが、語り手の一時的な変更をすることで、彼の主観には入りきらないことが描けることを意味する。葉山隼人とは直接的な対話を繰り返すことで、多面的なリア充の構造が描かれるが、「理想と現実」的な雪ノ下陽乃へのフラットな目線は持ち難い。

しかし、彼女にさえも表層的な多面性に隠されている深層性はあり、オープンでありながらもクローズドな内面性は、比企谷八幡の語りだけではリーチできないからだ。

 

相模南の提案と文化祭の「空気」を読むことで実行委員会は機能不全に陥った。優先順位が転倒して欠席者ばかりが増え、末端に皺寄せが行く。役割分担という分業制であるから作業の全体像が結べないのは比企谷八幡視点の特徴になるだろう。ミクロな情報レベルの差異が、マクロな像を、共同幻想を形作ることができるのかどうかは「本物」問題に転じる際に重要な視点になる。

P197 

「でも理想論だ。それで世界は回ってない。必ず誰かが貧乏くじを引くし、押し付けられる奴は出てくる。誰かが泥をかぶんなきゃいけない。それが現実だろ。だから、人に頼れとか協力しろとか言う気はない」

 

それらを統合しようと努める雪ノ下雪乃の能力と限界を否応なく見ることになっていく。人に頼る、頼ることができないのは、今まで全てに対してボッチであるなら自己責任やあきらめを引き受けることでリスク管理できるのが当たり前であったから。

しかし、他者に頼るのであれば裁量権は必然と委ねられる。残酷的なまでのスペックの違いは、人に頼ることをある種の妥協点のような探りを与える。全てを個人レベルの範囲内で引き受けることがマストであったボッチであることを否定される謂れはない。寧ろ一人で為し得た、あきらめたもの含めて、統合されたプライドを持っている一方でコンプレックスもある状態だ。

この素直なまま捻じれて回っている構造は、比企谷八幡の内面性によるものだろう。 

青春は誰かの犠牲の上で成り立っている。

1巻や4巻の「みんな」がそうであったが、青春フィルターを通して、全てが輝かしい空気の中に微睡む。不遇を強いられる比企谷八幡らと空虚な肩書きを振りかざし、「イマ・ココ」という青春を楽しんでいる相模南らとのコントラストは残酷的である。

その結果、クラスに参加する者として「いない者」のクラスへの距離は可視化される。クラスの外部に押し出された形でなお奮闘する様は、比企谷八幡の語りと状況を組み合わせて、不遇なアンチヒーローカタルシスへの準備となる。

しかし、比企谷八幡の消極的解決によって「先送り」にされた不遇なキャラたちもいる。それは後期の問題であり、「先送りの病」に表れる犠牲や痛みを伴いながら逃げ切り不可能な追い返しをする一時的なちゃぶ台返しの様子は「空虚な自己犠牲」と結びついてしまう。

不遇な状況といった「イマ・ココ」を浪費することについて異議を唱える展開は、普段「空気」によって覆い隠されているものを暴くこととなる。「空気」を壊すのは、4巻の鶴見留美の時と同様だ。

 

P218

「比企谷くん?ここでクイズです!集団をもっとも団結させる存在はなんでしょ~?」

「冷酷な指導者ですか」(略)「正解はね、……明確な敵の存在だよ」

 

カール・シュミットを引くまでもなく、政治を運営するうえで重要なのは「敵の存在」であった。「友と敵」に分けることで、対立構造を積極的に促す。

ここでは、比企谷八幡の立ち振る舞い方が「空気」における「不穏な存在」として認知され、「空気」への亀裂を入れる結果となった。だが、物語としては、なぜ雪ノ下陽乃がここまで雪ノ下雪乃を構うのかへの問いも孕んでいるほうが重要である。雪ノ下雪乃へのカウンターとしての存在性は一見「過保護」のようにも思える。彼女に自立を促し、依存体質からの脱却の通過儀礼として「あきらめた先の大人モデル」が雪ノ下陽乃の指す成熟であることが、12巻で明らかになる。

その際には比企谷八幡の「過保護」も問題意識として登場する。彼女が自立をする機会に、頼ってもらうことの承認と依存を引き受ける歪みが12巻以降のテーマの一つであったと言えるが、後述する。そこまでには6巻から「まちがえた」反復の結果、辿り着いた「温室」への批評(共依存)でもある。

「お兄ちゃん気質」と「お姉ちゃん気質」が重なり、明確に違和感として言語化される12巻は自立と前進の予感を抱かせる内容であったとも言える。その種子が6巻を起点とする理由である。

「空気」が一度崩れ、現実問題として「空気」が回収されたのち、実行委員会での立場も空回り、名ばかりの自己実現によって宙吊りとなった相模南。クラスも委員会も立ち位置が中途半端になっている彼女を、より外部から眺める比企谷八幡の視点は、のちの相模南の思考をトレースするうえで重要な立ち位置が設けられている。

空虚な内実がもたらした肩書きのみでしか承認されなかった事実は、自分への「価値の病」を引きずる相模南には痛々しい現実となった。自己実現のリターンばかりを重視し、リスクを見ていなかった。引き受けることの責任と内容を「価値の病」による「空気」に委ねたのは、カースト中間層ならではの逆転への眼差しゆえだろう。

どちらの共同性から外れてしまった相模南の位置と、最初から入っていないに等しい比企谷八幡の位置は近くなっていくのが後の伏線ともいえる。自己犠牲と自己実現(リスクとリターン)の表裏的関係は、読者と少ないキャラたちとの公然の秘密化を促すのは前述の通りだが、6巻のある種の到達が、後期が抱えていく「まちがいの反復」の起点となる見事な橋渡しだったと考える。

比企谷八幡の仕事は交換可能であり、相模南の肩書きも交換可能だった。

つまり肩書きによる固有性や特殊性は仕事の面では無く、自分だけの、自分にしかないというオンリーワン幻想のようなロジックは通じない。それは現実による抑圧ともいえるし、理想からの疎外感の噴出だったともいえる。

ボッチであるから近しい立場であり、疎外された相模南をトレースできる。

スポットライトの当たらない日陰者の表舞台は、承認されたがって姿を消した相模南の捜索。インスタントな肩書きではなく、「価値の病」として承認して欲しい、誰かに見つけて貰いたい一心で仕事を放棄する酷く自己中心的な振る舞いは、上記のようにリスクとリターンの想定をせずに「弛緩した空気」と目の前の状況よりもカーストにおける自己実現と「価値の病」を優先させた心情によるもの。

それを何でも「成長」と結びつける短絡的な思考への嫌悪感、そして変わらないでいることこそが自己肯定による唯一の抵抗であるような宣言を引用したい。

 

P316

安易な変化を、成長だなんて言って誤魔化すなよ。

俺は、安易な変化を、妥協の末の割り切りを、成長だなんて呼びたくない。諦観の末路を「大人になる」だなんて言って誤魔化したくない。

一朝一夕たかだか数か月で人間が劇的に変わってたまるか。トランスフォーマーじゃねぇんだよ。

なりたい自分になれるなら、そもそもこんな俺になってない。

変われ、変わる、変わらなきゃ、変わった。

嘘ばかりだ。

今の自分が間違っていると、どうしてそんなに簡単に受け入れられるんだ。なんで過去の自分を否定するんだ。どうして今の自分を認めてやれないんだ。なんで未来の自分なら信じることができるんだ。

昔、最低だった自分を、今どん底の自分を認められないで、いったいいつだれを認めることができるんだ。今の自分を、今までの自分を否定してきて、これからの自分を肯定することなんかできるのか。

否定して、上書きするくらいで変われるなんて思うなよ。

肩書きに終始して、認めてもらえていると自惚れて、自らの境遇に酔って、自分は重要な人物だと叫んで、自分の規則に縛られて、誰かに教えてもらわないと自分の世界を見出せないでいる、そんな状態を成長だと叫ぶんじゃねぇ。

どうして、変わらなくていいと、そのままの自分でいていいと、そう言ってやれないんだ。

 

『俺ガイル』はスクールカーストの多様性を厳密に捉えた作品ではないし、これ以降、具体的に中間層が登場することもないが、中間層全体が相模南的であるわけでもない。敢えて空洞化にすることで「空気」を担っていることを逆説的に捉えているに過ぎない。

相模南を捜索する状況に対して、外部的にはたらいていた比企谷八幡であるから辿り着けるが、彼が相模南に求められているわけではない。そもそも役割が違う。相模南が見つけて欲しいのは比企谷八幡ではない。

決して「近くない」のに彼と彼女の共通点が炙り出され、「近しくなってしまった」がゆえに「価値の病」から意思疎通が取れない。承認されたい相手が違うから。

では、どのように対話をするべきか。

相手に存在を認識させればいい。比企谷八幡が存在を認識させた行為は、最低であると自覚的であった。

同時に「いい奴」の葉山隼人を信用し、相互に認識されることで、良い意味でも悪い意味でも「止まっていた時間」を動かしてみせた。

 

P328 たぶん葉山の言う通り、こんなやり方はまちがっているんだろう。

それでも今の俺にはこれしかできない。

けれど、俺だって、いつかは変わるのだと思う。

必ずいつか変わる。変えられてしまう。

俺自身の心はどうあれ、その見られ方、捉えられ方、評価のされ方はきっと変わる。

万物が流転し世界が変わり続けるなら、周囲が、環境が、評価軸そのものが歪み、変わり、俺の在り方は変えられてしまう。

だから。

――だから俺は変わらない。

 

 

変わらないで居続けることは「持たざる者」の唯一の対抗措置であり、無いカードを切ることに等しい。手札を増やせないが、無いカードを切ることができるという倒錯した手段の確保となる。安易な「成長」を退けることで、変わらない自分を保存することで、「イマ・ココ」の自己肯定を促す慰撫だろう。

 

P343

「比企谷。誰かを助けることは、君自身が傷ついていい理由にはならないよ」(略)

「……たとえ、君が痛みに慣れているのだとしてもだ。君が傷つくのを見て、痛ましく思う人間もいることにそろそろ気づくべきだ、君は」

 

しかしながら、自己犠牲もやはり自己中心的な振る舞いには違いない。誰も傷付かない優しい世界とはいっても、自分自身は傷付いてしまうのだから。

なぜ、その世界に自分を入れることができないのか。それは世界から疎外されたボッチゆえのプライドであり、コンプレックスであるからだろう。自分が痛みを引き受ける分にはいい。ボッチであるからこそ全てを引き受けてきた経験があるから。頼ることもなく、積み重ねてきた代償と結果があるための自己責任的帰着である。

これは、ひいては比企谷八幡が自分自身を許せるかどうかの話にもなっていく。変わらないでいることは、今が通り過ぎて行った過去も、そして今の積み重ねの先にある未来も、「持たざる」がゆえに潔癖的な比企谷八幡の自己肯定と、傷ついてしまう彼を見る他者評価の現状を示すものであるが、行為や関係性を通して人はミクロに「移動」していく。そのように自然と物語としても働きかけられる。

 

P212

「誤解は解いたほうがいいと思うけれど」

「誤解は解けないだろ、もう解は出てるんだからそこで問題は終わっている。それ以上解きようがない」

正解でも誤解でも、ファイナルアンサーだ。

失敗は取り返せない、押された烙印は消せない。

(略)

「言い訳なんて意味ねぇよ。人間、大事なことほど勝手に判断するんだから」

「……そうね、そうかもしれない。言い訳なんて、無意味だもの」

(略)

出た答えはひっくり返らない。覆水盆に返らず。割れた卵は戻らない。王さまの馬と兵士ぜんぶでも、二度ともとには戻せない。

どんな言説をもってしても、悪印象はぬぐえない。

逆はあんなにも簡単なのに。誰かの言葉一つで人を悪く思えて、何かの行動一つでそいつを悪く思えるのに。

だから、言い訳は無意味だ。その言い訳すら悪しく思えてしまう。

「……なら、もう一度問い直すしかないわね」

 

P352

「……でも、今はあなたを知っている」

(略)

誤解は解けない。人生はいつだって取り返しがつかない、間違えた答えはきっとそのまま。

だから、飽きもせずに問い直すんだ。

新しい、正しい答えを知るために。

俺も、雪ノ下も、お互いのことを知らなかった。

何を持って、知ると呼ぶべきか。理解していなかった。

ただお互いの在り方だけを見ていればそれでわかったのにな。大切なものは目に見えないんだ。目を逸らしてしまうから。

俺は。

俺たちは。

この半年近い期間をかけて、ようやく互いの存在を知ったのだ。

名前と断片的な印象だけが占めていた人物像を、まるでモザイク画のように一つ一つ欠片を埋めて、虚像を作り上げることができた。

きっと実像ではないだろうけど。

まぁ、今はそれでもいい。

 

「知る」こと「認知」されることの果てに「承認」がある。この時点では互いに認識し始めた段階である。

祭りの喧噪、非日常的な空間において、ディスコミュニケーションならではの相互認識は、「まちがった」果てに互いを知ることから始まったと言える。そのやり方はもちろん上手くなかったが、その不器用さ故にある種の成功に至った。

マクロな実像ではない、ミクロな断片的な虚像であるにしても、互いの像がなんとなしに掴めるようになった心地は、関係性の前進を漸く予感させるものとなっている。

雪ノ下雪乃への絶対性のイメージの裏にある弱さや、比企谷八幡の勝手な他者理解、また彼の不完全性であるために宿る信念は、互いに曝け出したようなプロセスを踏まえたからこそ、「許容できる=はじまる」ことが出来たのだろう。

理想的なイメージの押しつけから、現実として相手と向き合う。この行為は、取り返しが利かない交換不可能な「まちがった」からこその分岐点であり、その先としての近しい他者との関係性を構築していく。 

比企谷八幡の関わり方は受動的なコミットメントだ。

また、雪ノ下雪乃は一人で奉仕部の活動外の活動を引き受けた。それは、彼が動く理由や目的とは外れることを意味する。

しかし由比ヶ浜結衣は、彼女へのサポートを願った。ただし絶対的なイメージを押し付けている八比企谷幡はサポートが不要だと思っていた。これは絶対的評価であるがゆえに動けない、動く必要性を持てないジレンマとなして表れた。

一方で「まちがえ」たくない心持は、「間違える=終わる」という比企谷八幡の経験から導かれたロジックである。新しい他者としての由比ヶ浜結衣のアピールに対して、好意への応答を知らないから言葉を持てない比企谷八幡の様子は、経験に有無を露呈していた。

「まちがい」だろうが成功だろうが、ミクロに関わり、積み重ねていくことは理解者がいる状況を作る。

6巻の比企谷八幡は、本来報われないであろうポジションを受けている。報われないからこそ、ある種の到達に至ったというのが正しい読み方であったとしても、相模南の件で疎外されたままになる可能性もある。理解されないまま追いやられることも現実としてあるだろう。

それでも比企谷八幡には居場所がある。クラスの外、奉仕部というコミュニティがあることの重要性を示している。自分自身を許容する居場所は、居場所がなくてもいいといったボッチ理論が、最終的には居場所の生態系に取り込まれていく。アウトサイダー的であっても、アーキテクチャやルールに変更を加えても、システムという生態系に自然と組み込まれていくのが常だ。個人であるならばなおのこと。

逆説的にいえばボッチのまま「ボッチの物語」を描くことは難しいのだろう。ディスコミュニケーションがコミュニケーションを要請してしまうからだ。個人の鬱屈とした内面を近代文学的に、内省的に表現すること自体は可能であるが、何かしらの応答と反響が込められてしまう。

そんな内省的な比企谷八幡の語りは、後期のロマン主義的に転化した「本物」問題と関係性の温存から導かれた「共依存」への「まちがった」文脈へとつながっていく。これも実に反響性のある結果とも読める。

日々に忙殺されていれば目的性は見失い、共同性が育まれる。共通の目的=相模南と文化祭を経て、雪ノ下雪乃比企谷八幡は選択肢がない状況を通過することで、つまり「まちがった」からこそ、その先の関係性として描かれるようになった。

その橋渡しが6巻であり、『俺ガイル』の本分が後期に込められたとするならば「反復性の起点」として効果的であったといえよう。

「知る」と「分かる」は別物であることは、この先の7巻以降で描かれる。そのための前提に過ぎないミクロな現実の変化としての起点が、ここにある。

私は、ここまでが前期であり、後期への条件だったと考える。

 

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 (7) (ガガガ文庫)

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 (7) (ガガガ文庫)

  • 作者:渡 航
  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 2013/03/19
  • メディア: 文庫
 

 

P15

受け入れがたい何かを受け入れる際、どのように折り合いをつけるかといえば笑い話にするしかない。集団内での異物が存在を許されるために必要な工程だ。(略)

こうした形骸化した儀式はまんま宗教的な儀式に置き換えるとわかりやすい。かつては由緒なり謂われなりのあるはずだった行いが、もともとの意味が忘れ去られている。例えば盆踊りとかクリスマスとかの由来をよく知らずとも皆が楽しみ、受け入れているのと同じだ。

それらはやがて、集団のアイデンティティや、一つの文化となり、その集団の結束の再確認、再認識のために行われる。

 

 

7巻では、6巻の相模南の件から、じっとりとした衆目に晒される比企谷八幡の居心地の悪さが描かれる。認知されることと同時に意識的に排除されることも示し、公然とした加害者像を引き受けた顛末になるだろう。

ただし、人の噂も七十五日といったように幾分か熱は冷め、存在を認識されたゆえの比企谷八幡の公然的なネタ化に落ち着いていく日常が記されている。処方としての「マジ」を「ネタ」に変換することで全てを「空気=ネタ」に帰する同調性は、イジメではなく「ネタ」であるとする加害的なロジックがはたらく。

本件で比企谷八幡にイジメられた自覚がないためにイジメ認定するものではないが、「ネタ=空気」がはたらくマジョリティの理屈を眺める弱者視点は痛烈だろう。

「空気」を読む。ここで重要なのはスクールカーストの可視化ではない。6巻で用いた中間層から誰それを具体的に引っ張り上げるのではなく、有象無象として「空気」を描くことにある。

『俺ガイル』は、今後カースト上位のみ対象(10巻は相対的に有象無象の「空気」を扱うが)にし、スクールカーストにおける「空気」の空気化が行われている。つまり、ネタにする「空気」や「みんな」は絶対的に捉えることができないとするように、具体的固有名として描くのではなく、むしろ固有性を持たないことで担保される匿名的なコミットメントの集合としての表現が記されている。

本来は排除された比企谷八幡の不遇を描くことで、スクールカーストが具象化する機会でもあったといえよう。例えば、相模南らのキョロ充といった中間層をそのまま扱うことも可能だったろう。6巻で手痛いしっぺ返しを食らった形であるから、周知の被害者である。

しかしながら、彼女が掲げていた肩書きによる自己実現は空転したために、単に被害者というレッテルのみが一人歩きしたのは、上位をひっくり返すためのカースト下克上には弱い。同情の目線はあれど、自己実現の結果の羨望の眼差しはそこには介在しないのだから。被害者という同情に称えられている分だけ、まだ幾らかマシであるのが6巻の内容でもあるが、逆説的にいえば相模南を取り巻く状況はその点でしか変化がなかったといえる。

寧ろ、人々の「空気」は「マジ」ではなく「ネタ」によって形成されるという、大半にとってはどうでもいい問題として消化していく日常性の忘却とアイロニーが表現されているのではないだろうか。事実、これ以降、相模南は台頭してこない。物語として、そのままフェードアウトするような形となる。

上記のようにスクールカースト文芸ではない『俺ガイル』であるから、中間層の可視化をする必要性もない。敢えて「空洞化=空気化」をするように「最底辺=比企谷八幡」と「上位=葉山隼人」らを描くことで、空気化したマジョリティを没個性的に扱っている。

しかし上位であるからといって、個性的であるかというとそうでもない。物語に準じた段階がある。上位でもモブキャラを固有名として描くのは、大和と大岡と戸部との差異につながっていく。2巻にあったように葉山隼人がいることで成り立つグループ関係は、次第に「戸部とその他」に細分化していった。戸部は変化を加えやすい立ち位置でもあり、4巻にも登場したので、モブキャラを脱色したのは必要な手続きだったともいえるし、7巻の内容も踏まえれば当然の差異でもある。

しかしながら上位であるからといって安楽的であるわけでもない。常に葉山隼人との比較を強いられ、「持つ者と持たざる者」として上位内でも細分化していくことは避けられない。その段階的な差異を形成しているのが葉山隼人の男子グループになるだろう。実質的に大和と大岡はモブキャラとしてさほど違いはない。

トップカーストに属している点と、前述のようにそもそも中間層や「空気」は可視化されない『俺ガイル』の記述ルールに従えば、固有名を与えられているだけでも大きな違いがあることが分かるだろう。

しかし、それだけに過ぎない。その中でも更に段階的に形成されていった結果が、戸部との差異になる。

ここまでは男子グループの話であるが、女子グループも三浦優美子がいることで成り立つ構図が引かれている。

 

P68

本来なら戸部と海老名さんは違う階層にいたはずだ。戸部が属するグループは基本的に派手で目立つ。海老名さんはどうかといえば、確かに顔だちは整っているし、ちょこまかと可愛らしくはあるが、三浦と比較した際には、その『可愛い』の定義が少しずれているように思う。

一般的概念に照らし合わせれば海老名さんは『俺だけが知っている超可愛い子』みちあなポジショニングであり、序列一位グループの下位集団から密やかに好かれ、また中間層、果ては最下層あたりの男子までもが『ひょっとして俺でも付き合えるんじゃね?』くらいの願望を抱くようなタイプの女の子だと思うのだ。

 

4巻P168 

確かに海老名さんは上位カーストにいるだけあって、顔は確かに可愛い。ただ、その特殊な趣味ゆえに男子からは敬遠されがちだ。けれども、そうした趣味をわざわざ喧伝し、オープンにするのは彼女なりの防衛策なんじゃないかと感じなくもない。本物はそういうのを隠すと思うし。

 

オープンなオタクの海老名姫菜と「空気」を読んできた由比ヶ浜結衣

カーストはトップに依存する構図で、トップが変わればカースト構造も変わる。この転落は相模南の現状を示すものとして既に提出されており、恐らく海老名姫菜はカーストにおける空洞化のモブだった可能性もあっただろう。それは段階的な差異を身に着けなかった大和と大岡も可能性としてあっただろう。なぜなら物語的には「大和と大岡」の立ち位置は交換可能であるからだ。

そして海老名姫菜の公然としたオタクを前景化させた造形は「キャラ化」による防衛であることが明らかになる。

「可愛い」を基準とした三浦優美子の選別によって、彼女らはカースト上位に属しているが、三浦優美子でなければ上位に入り込んでいたかどうかは定かではない観方がなされている。

この7巻では、物語の重要な情報を共有していたのは海老名姫菜と葉山隼人の2人となる構成が取られている。

ある意味、2人は予定調和のエンディングを目指す。それは関係性の維持、箱庭の温存を図ることを示し、戸部が海老名姫菜に告白をするといった舞台裏では、カースト内の情報の差異と双方から依頼を受けた奉仕部、特に比企谷八幡の情報レベルはそれぞれ違うが、トレースしていくような試みは「探偵的」であり、6巻の相模南の件を彷彿とさせる。この「探偵的」はアンチ・ヒーロー像を引き受けた形としての反復性として表れることになる。

言葉や態度の裏側を読み取る比企谷八幡に勝手な期待をする海老名姫菜の共犯関係(また葉山隼人も入り組んだ図式)は、同類だからこそ分かる「空気」の読み合いがあり、一般的な中間層の有象無象が形成する「空気」とはまた別の「空気」が醸成されている。これはリア充と「空気」の二義性を記しており、2巻同様にリア充も人間関係に苦悩している描写の蓄積は、前進を図りたい気持ちと維持しておきたい気持ちのせめぎ合いだろう。

6巻以降の特徴としては、奉仕部内で注がれる紅茶にあるように「温度」も重要な要素となっていく。「体温」や「空気感」として、紅茶を入れる雪ノ下雪乃とそれを囲む部室のまったりとした雰囲気や感触は関係性の良好を示す要素となっていき、これがのちの「温存と依存」に繋がっていく。

 

P243

変わりたくないという、その気持ち。

それだけは理解できた。

理解してしまった。

想いを伝えることが、すべてを打ち明けることが本当に正しいとは限らない。

踏み出せない関係。踏み越えることが許されない関係。踏みにじることを許さない関係。

ドラマもマンガもいつもそれを踏み越えてハッピーエンドを描く。けれど、現実はそうじゃない。もっと残酷で、冷淡だ。

大事なものは、替えが効かない。かけがえのないものは失ったら二度と手に入らない。

 この時点ではまだ描かれていないが、葉山隼人たちの問題は、いつしか比企谷八幡たちの問題にもなっていくことが重要である。全てを選ぶために結果的に「選べない」葉山隼人と選択肢がないから選ばざるを得ないという「選べなさ」比企谷八幡は結論が一緒の点も含めて皮肉だろう。 

 

P244

葉山隼人は選べない。あまりに多くのものを持っていて、どれもこれも大切だから。

比企谷八幡は選べない。そもそもの選択肢がなくて、一つの行動しかとれないから。

皮肉なことに、俺と葉山は「選べない」という結論だけが一致していて、他のすべてが違っていた。

 

修学旅行におけるリア充の努力も描写も見逃せない。

カースト上位における「空気」の作り方や写真撮影の際にしても、自分がどのように他人に見られているか、あるいは見られたいのかという像を作っている。それは限りなく自然体という努力と呼べよう。葉山隼人や三浦優美子は別格だととしても、海老名姫菜のように「キャラ」を作ることで「空気」に合わせるか、合わせないかを選択するような器用さを持ち合わせている。

告白を巡る依頼と共犯関係を感じ取った三浦優美子は、今の関係性を守るために比企谷八幡を認識したシーン。人にどのように見られているかを比企谷八幡以外のキャラを用いて、彼やそのグループの関係を炙り出す。これは、グループに直接的にコミットしていない比企谷八幡では見えてこない。

つまり、語り手は同じであれ、情報や認識を与える角度を変えることで今まで見ていなかった景色が開けることを意味する。角度を変えることで見え方を変える。龍安寺の石庭が比喩になるだろう。 

P205

例えばこの石庭。配置された十五の石はどの角度からも一度にすべてを見ることができないのだそうだ。見る角度によってその在り方を変える。

 

情報レベルの差異を「探偵的」に認識していく比企谷八幡。依頼と共犯関係に気付いている者と気付いていない者の狭間で「変わらない」という選択は、予定調和=帳尻を合わせるという温室的なものだろう。

葉山隼人は誰も傷付けたくないから動けない。そうであるなら、比企谷八幡が痛みを引き受けることでしか、成立しない。その報酬としての変わらず、壊れない関係性は葉山隼人らにとっては都合がいい。

しかし、その引き受けた傷を見たくない者がいるのは、6巻の平塚静の言葉にあるように延長線となり、その反復性は「まちがっている」。

 

P259

「解決を望まない奴もいる。現状維持がいいって奴もいて、みんなに都合よくはできないだろ。なら、妥協できるポイントを探すしかない」

言っているうちに自覚してしまう。ああ、これは詭弁だ。自分の行為の責任を、実態のない誰かに、何かに仮託するための言い訳でしかない。俺がこの世で最も嫌った、欺瞞だ。

 

相反する依頼と共犯への折衷案は「選べない二択」を無理やり選ぶための都合を作るのに等しい。それを自己犠牲的に引き受けることでしか出来ない比企谷八幡の選択は、6巻以前とは異なり、既に「知って」しまっている=傷ついて欲しくないフェーズに前進しているからこそ成立しない。

7巻は明確に6巻の反復であるが故に、依頼への形式上の「成功」に対して、人間関係の前進した比企谷八幡たちにとっては「知って」いるからこそ、明確に「まちがって」いるという地続きを描いてみせた。 

本件も「先送りの病」だろう。意味の宙吊り的選択によって、葉山隼人たちの関係性はそのまま温存される。モラトリアム的な「先送り」であり、彼らが依頼を通して望んだ公約数的な結末に至ることはできた。

もちろん、戸部の好意も半ば強制的に「先送り」にされる点も含めてである。彼らが、個人の気持ちよりも集団の「イマ・ココ」の関係性を優先させた事実は「先送り」によって立ち上がる。

ただし「先送りの病」に対して「イマ・ココ」で判断することなのかどうか、は問題になるだろう。

葉山隼人らの選択はその問いを盾にしながらも「イマ」の関係性を優先させたといっていい。意思決定をアウトサイダー的に宙吊りすることで依頼は形式上達成した。その過程では、依頼を通して変化していった比企谷八幡たちの関係性、つまりどのように彼が他者に見られているかを省みていないといった自己中心的な選択は「まちがって」いたことが露わとなる。

これは、イレギュラーな比企谷八幡がイレギュラーではなくなっていることに自覚していないことを指す。

明らかな6巻からの変化になるだろう。

一見して6巻のような痛みを引き受けた形式の7巻では、彼を取り巻く状況自体が変化しているのだから、以前のようなある種の「到達」を見ながらも「まちがえる」反復ー循環構造に陥る。これが前期と後期の違いになる。

 

P265

大事だから、失いたくないから。

隠して、装って。

だからこそ、きっと失ってしまう。

そして、失ってから嘆くのだ。失うことがわかっているなら手にしない方がマシだったと。手放して死ぬほど悔やむくらいなら諦めたほうが良かったと。

変わる世界の中で、変わらずにはいられない関係はたぶんあるのだろう。取り返しがつかないほどに壊れてしまうものも、きっとある。

だから、誰もが嘘をつく。

――けれど、一番の嘘つきは俺だった。

 

突き付けられる人からの目線に対して、自分への自己嫌悪は、建て前のようなロジックを言い訳にすることで一層襲い掛かってくる。「偽物」を嫌いながらも、欺瞞的行為に委ねるしか無かった自分への自覚的な嫌悪感ゆえに「本物」や潔癖のマチズモは強化されていく。このシニカルな自己肯定からの反転は、ある種のそれでも自分を肯定してあげたい部分の裂け目に隠れることができない明白な自己否定に覆われてしまう。

 

 

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 (8) (ガガガ文庫)

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 (8) (ガガガ文庫)

  • 作者:渡 航
  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 2013/11/19
  • メディア: 文庫
 

 

そこから8巻では修学旅行後の日常が形式的に描かれる。

いつも通りの日常だとしても、7巻で明るみになった6巻との差異、そしてリソースと効率を考慮した結果の選択肢がないという選択がもたらしたものは、いつも通りとはいかない日常への進行があった。物語として6巻のようなある種の成功という反復を許さないまま「まちがった」ルートに入ったことを示す転換点だったことを突き付けるのが7巻だったとするならば、8巻ではそれゆえに「まちがった」断続的な日常への違和感を記すことに尽きる。

P10 

例えば。

例えばの話である。

例えばもし、ゲームのように一つだけ前のセーブデータに戻って選択肢を選び直せたとしたら。人生は変わるだろうか。

答えは否である。

それは選択肢を持っている人間だけが取りうるルートだ。最初から選択肢を持たない人間にとって、その仮定はまったくの無意味である。

(略)

こんな世界のどこに正しさがあるというのか。まちがっている世界における正しさなど、正しさとは呼べまい。

ならば、まちがっている姿こそ正しかろう。

失われることがわかりきっているものを延命させることになんの意味があるのか。

いずれすべては失われる。これは真理だ。

ただ、それでも。

失われるからこそ美しいものもある。

いつか終わるからこそ、意味がある。停滞も閉塞も、つまりは安息も、きっと看過して甘受していいものではない。

必ず喪失することを意識すべきだ。

いつか失ってしまったものを時折そっと振り返り、まるで宝物みたいに懐かしみ慈しみ、ひとりそっと盃を傾けるような幸福も、きっとある。

 

変わらないこと、現状維持、停滞することを選んだ葉山隼人たち。いずれは腐敗していく運命だとしても、世界そのものが腐っているのだから「まちがって」いないだろうと比企谷八幡は推測する。潔癖的に変わらないことを信条とする彼にも通じるものであり、結果として温存した彼の選択もやはり「まちがって」いなかったとするような錯覚が「まちがって」いることを引き起こし、つまり「正しさ」からの逸脱が「正しくあるべき世界」の葉山隼人たちをみて、自身の選択の結果の「まちがい」を二重にすることで裏返して自己正当化しようとしている。

「まちがい」が正しく、「まちがった」がゆえに周回する自己否定と自己肯定の裂け目が縫合したような強烈な自意識が見て取れるだろう。

P24

他人は自分を映す鏡であるという。つまるところ、他者も所詮は自分というフィルターを通して見た虚像にすぎないということであり、故にあるのは自分という存在だけ。

隣の人が何をしているか問う行為はその他人と自信を比較検証し、では自分はどうであるかと考える行為に外ならない。

他人を利用して自己を立証しようとするのは誠実さに欠ける。そんな求め方は間違っている。

故に、孤独こそは正義で孤高こそは正解だ。

 

もちろん、その瑕疵にも半ば自覚的でありながらも、意地を通して抵抗している状態である。そもそも、これが普通であり、正常であると。しかしながら、物語はその「正しさの違和感」への侵入を試みていくことになる。

生徒会選挙が題材となる8巻。

一色いろはが初登場する。まるで「女子高生」という記号を意図したような露悪的な振る舞いが武装化されたキャラであり、アイロニカルに作り込むことで嘘くささを逆説的に脱臭し、マトモそうに見せるという嘘を作っている。計算された隙はもはや自然体=キャラの作りこみとなり、アイデンティティの基盤にもなる。

例えば、キャラ化による再生を描いた『若おかみは小学生!』は、いわば「分人」的であった。

 

劇場版 若おかみは小学生!Blu-rayスタンダード・エディション

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  • 出版社/メーカー: ギャガ
  • 発売日: 2019/03/29
  • メディア: Blu-ray
 

 

素顔の自分では立ち向かえない過酷な現実に対して、「キャラ」を装うことでアイデンティティの回復に努めることは、新たに現実と相対するための準備である。そこに逃避の欠片もない。現実を乗り越えるための武器として、特に『若おかみ』は「死と再生」を扱っているだけに「逃げ切れない」問いを孕んでいる。そのアンサーが、居場所の喪失から、回復するための土着性とアイデンティティの回路を作ることであった。

話を戻そう。

8巻から、3人によるバトルロワイアルが意識化されていく。それぞれのやり方があり、想いがあり、すれ違っては交差していくような「絶対的な分かり合えなさ」は、12巻以降に重なっていくものである。

結果論でいえば、その前段階が8巻という見方もできるか。

 

P38

「お互いを知っていたとしても、理解できるかはまた別の問題だもの」

 ここでは6巻からの前進と7巻を挟んだ上での陥った状況が端的に示されている。

「普通」という尺度を持ち箱庭に安住する比企谷八幡は、変わらないことを信条としている。ある意味では確立した自己規範が「普通」を言い訳にすることで、変わることを要請されている「空気」を拒否する。これが周回したマッチョさであるが、変わってしまった現実と自意識の空転が見られる。

P147

『君はまるで理性の化け物だね』(略)『そっか。じゃあ、自意識の化け物だ』

確かに度し難いほどの自意識が己の中に渦巻いている。おそらくは自身の自意識すらも否定したくなるほどの自意識が。

 

「知る」と「理解」の違いは、8巻から9巻にかけた大きな要素であり、一緒くたにできない他者への幻想だ。

馴れ合いから距離を置くことで生じるすれ違い。誰かを助けるためにはリソースが必要となる。貧しき善意だけではもちろん限界がある。「何者」かにならないといけないといった壁が屹立し、「持たざる者」の自覚を突き付けていく。

現に比企谷八幡は「持たざる者」ならではの解消を行ってきた。「持たない者」が試行錯誤を繰り返した先の「持たないカード」を切る行為であり、文脈としては「先送りの病」として直結していくが、目の前に対する受動的コミットメントは一定の結果と「まちがい」を生んできた。

依頼を通した行為と結果が「まちがっていた」としても、現にある関係性はその産物だといえる。そこで対話をすることで生まれる可能性は「知る」と「理解」の距離を埋める行為であるが、「空気」に寄り添った一時的な取り繕いを拒否してはコミュニケーションを断念することで、物語構造的にはディスコミュニケーションを経由してコミュニケーションを整えていく大きな流れがある。

そんな彼らが一時的に離散し、合流しても噛み合わず、前進していると錯覚した停滞を味わうのが9巻以降となる。

まさにコミットメントがデタッチメントに転換する分岐点でもあった。

「まちがった」ベクトルのまま進み、ベクトルが転換してもすぐに進まない。寧ろ関係性の保全することで(葉山隼人らが選んだ7巻のように)物語は安易な前進を許さない。ハッピーエンドまでのアンチハッピーエンドのような分岐点を「正否」的に位置させたような空間的な作用が働いている。その空間性は循環的であり、前進という錯覚をもたらす物語構造が顕著だろう。

 

雪ノ下陽乃の両面性は、初登場時から暗示されていた。完璧だけではない。理想は嘘臭いと。

彼女は物語の主役にもなれず、平塚静のような徹底的な外部にもなれない。雪ノ下雪乃の「家族」という事情と比企谷八幡らが通う「学校」を繋ぐ存在であり、物語後半になればなるほどに登場回数は増えていく。完璧さ故に懐疑的でもあるから関わることができる。それは「家」の問題に対しても、比企谷八幡たちの問題についても。

物語としては、彼女の存在は「イベント=非日常的」であり、つまり日常的な会話から生じない情報を与えるトリックスターといえる。しかし、機械仕掛けの神ではない。作中では12巻にあるように完璧ではないことも示される。まだ見ぬ「本物」への期待と、そして自分では獲得出来なかった諦念の両義性を持つ存在は、表面的な完璧さからは距離を生む現実的な感触だろう。 

また、折本かおりが登場するのも8巻だ。

比企谷八幡の過去を知るキャラであり、作中唯一の過去からのつながりがある。それは過去のつながりがあるだけで、「知っている」かどうかは別問題であった。彼女から比企谷八幡が過去に抱いていた好意をネタに消化される居たたまれない気持ちも、ネタとして自虐的になれない比企谷八幡の確かな過去の好意も、現状に至るアイロニカルな経験から防衛心理を作り出した彼の過去が見えてくる。

認識されていない相手に対して、一方的に意識したコミットメントが「空気」であったと解釈されることのやるせなさは、今やネタにできても、その当時つまり過去からの経験を軸に理論武装してきた比企谷八幡の確かな実在性すらも否定する働きを持ってしまうので安直にはできないといった自意識に取り込まれる様子も記されている。

6巻の件以降、彼がネタ化した様子が7巻であったが、「空気」によって思い出はネタに帰する。それはあくまでも集団的な「空気」に回収される場合だ。個人レベルでは話が別になる。集団に個人の意思は左右されないことも同じように。

比企谷八幡個人は、敗北の歴史によって学んだ経験がある。その自意識の強化こそが、敗北をすることはないデタッチメントという勝利することもないロジックを作った。リスクヘッジした理論武装的相対化が、唯一性を獲得するリソースのない彼の「先送りの病」という物語上の絶対的側面として表れるツケを後期にわたって描いたといえよう。

折本かおりの件では、彼女はむしろ脇に追いやられ、主題は葉山隼人比企谷八幡の7巻で明らかになった近似性となる。決して客観的な共通項ではないが、比企谷八幡の主観を通した主観的な同属性があり、リア充と非リアでは括れない複雑でありながら、建前的には機能してしまう枠が読める。

ここに、スクールカーストは存在しない。2巻、4巻、6巻、7巻を踏まえた上での個人と個人の剥き出しな評価であり、比企谷八幡と同様に葉山隼人も「先送りの病」というモラトリアムに閉じ込められている。

P200

「君は自分の価値を正しく知るべきだ。……君だけじゃない、周りも」

 

「犠牲?ふざけんな。当たり前のことなんだよ。俺にとっては」

「いつも、ひとりだからな。そこに何か解決しなきゃいけないことがあって、それができるのは俺しかいない。なら、普通に考えてやるだろ」

俺の世界には俺しかいない。俺が直面する出来事にはいつも俺しかいなかった。

 

世界は俺の主観だ。

 

自己犠牲だなんて呼ばせない。

数少ない手札を切り、効率化を極め、最善を尽くした人間を犠牲だなんて呼ばせない。それは何物にも勝るほどの屈辱だ。必死で生きた人間への冒涜だ。

 

カーストを飛び越えた視点で、葉山隼人清算しようとする。

自己犠牲を比企谷八幡に突き付けることで、自分の価値を見直すべきだと諭すシーン。その視線は身勝手な比企谷八幡への理解であり、憐れみや同情と呼ぶに等しい。この眼差しの暴力性と齟齬は、再三述べているが、だからこそ「まちがい」を齎す。

選べない彼ら・彼女らが選ぶ物語において、リソースの違いはあれど、効率化を建て前に持たないカードを切る意地と抵抗を自己犠牲などと呼ばれたくない比企谷八幡の孤独ゆえのプライドは、一方で自分を守るための方便にも読めてしまう。ボッチゆえの独我論的理屈で、もはや新しい他者との関係性は組み込まれているのにも関わらず、自分の価値をアップデートできない現実との認識の差異がある。

これが6巻から7巻を決定的に分ける要素である。

このようなコミュニケーションにおけるディスコミュニケーションへの転倒は、至るところに散見されている。そのたびに「まちがう」ベクトルに沿うし、物語はループ構造と近似していき、「近しいが遠く、遠いが近しい」といった他者との相似形も一定の反復性に閉じ込められているがゆえに重なるように見える。

客観的には自己犠牲と映り、主観では最善の努力だとしても、前提にあるリソースの違いから生じる食い違い。「選べない」結果は同じであれ、持つ手段は違う。ただ行為の結果として表れるものだけに囚われると、その行為はひどく自己犠牲のように映ってしまう。

なぜなら形式では相似形であるからだ。

両者ともに自意識の空転したことで痛みを引き受けた傷がぶり返す。

「先送りの病」は、過去からの問いかけが追いかけてくるもの。「まちがえた」意識と認めたくない意地が顕在化し、認識を歪めていく。 

例えば、生徒会案件は学校運営のシステムであるために「先送りの病」が通用しない。一過性ではなく、システムを回すための根本的な人材登用が必要となるからだ。これまでの宙吊り的な「先送り」は解消にすらならない。最終的には一色いろはを乗せる形となるが、この意思決定も半ば「先送り」の顔が覗かせていく。

「理解」してもらえると期待していた雪ノ下雪乃は、生徒会をやりたかった。

これが8巻の「まちがい」になり、9巻のツケにもなっていくわけだが、効率化を建前に自身の基盤を作るためであるという考えは、彼女が将来的に抱いているビジョンへの布石の一つだったことがのちに分かる(12巻)。

しかし比企谷八幡には、効率化という方便は自己犠牲にも見えている。それは自身が選択した道筋の一つであるからだ。彼には、彼女が進んでいく想いとは違う景色が見えているためにボタンの掛け違いとなってしまう。

 

P237

奉仕部という名前や部室だけが残ったまま違う何かになるのだ。

それは、前から気づいていたことだ。

俺だけでなく、彼女たちも。

(略)

誰かに押し付けてしまうのは、苦しい。

大切に思っているものを守ろうとして、その結果手放してしまう。そんな彼女の姿を見ることは、それはとても苦しいことだ。

何かを犠牲にすることなくして、青春劇は成り立たない。そう知っていながら。

自分は犠牲なんかではないからと憐れみも同情も必要ない。そう偉そうにのたまっていながら。

なんてひどい矛盾だろう。

 

なぜ、比企谷八幡にはそう見えてしまったのか。

彼が経験的に導いた結論であることも大きいが、なぜ奉仕部の変化を拒否したのかを考えるべきだった。自己犠牲ではないと自分では思っていても、他人にはどのように映っているかは別の話であるからだ。ボッチゆえにその視点(間主観性)が著しく欠落しており、だからこそある種の振る舞いが許容されていたともいえる。自己肯定と自己否定の繰り返しながらも。それは雪ノ下雪乃も同様にである。

肝心の動機の言語化は9巻に至るわけだが、彼を取り巻く関係性の捉え方の変化が奉仕部であるならば、対称的に「移動」がないのが「家族」の不変性だと言える。そこに甘えた構図が以下となる。 

 

P241

ぼっちは人に迷惑をかけないように生きるのが信条だ。誰かの重荷にならないことが矜持だ。故に、自分自身でたいていことはなんとかできるのが俺の誇りだ。

だから、誰も頼りにしないし、誰にも頼られない。

ただ一つ例外があるとすれば、家族くらいのものか。

家族にだけはどれだけ迷惑をかけてもいい。俺はどれだけ迷惑をかけられても構わない。

家族相手であれば、優しさや信頼、可能不可能をさしおいて、何はなくとも手を差し伸べるし、遠慮なく寄りかかる。

(略)

その関係は理由を必要としない。

むしろ「家族だから」をすべての理由にすらできる。

 

 

P250 

「だからさ、小町のために、小町の友達のために、なんとかなんないかな」

「……妹のためじゃしょうがねぇな」

たぶんそう言われなければ動き出せない。

どこかでずっと理由を探していた。

俺があの場所を、あおの時間を守ってもいい理由を。

 

受動的なコミットメントの性質上、動くためには動機が必要不可欠である。

ここでは、自分自身で目的を探さずに、なぜ奉仕部がなくなるのが嫌なのか、を突き詰めずに「小町という家族のため」を目的にしたのが「まちがい」であり、この奉仕部と比企谷八幡の状況も「先送りの病」に組み込まれていくのが特徴だ。依頼という形を通してしか関わることができない結果が引き起こしたと言える。

「小町のため」という方便を使用しながら、周りに動いて貰うために個人的な意見ではなく、取り繕った詭弁で動いて貰うことに罪悪感を覚える比企谷八幡。彼の視点では知れずとも、その他のキャラたちには都合のいい扱いを物語上要請している。作劇上の「先送りの病」の一つで、周りのキャラの反応と応答が物語として不可欠でありながらも、前提の情報を省略する誠実さから離れた取り繕い方は、これまでのコミュニケーションと根底からは変わっていない。

このあと、そんな彼らが語り手の都合のいい配置された駒ではないことは出てくる。まさに過去からの問いかけに対して、求められる比企谷八幡の態度は従来の詭弁という理論武装ではないものであるが、8巻の段階では方便が優先される。

なぜなら根底にある動機の言語化を避け、妹に求めてしまったから。 

自己犠牲とはスケープゴートと同義である。何かしらの犠牲なくして青春が成り立たないと宣った比企谷八幡のように、奉仕部の現状維持を図るには何かしらの犠牲を強いる必要性があった。

結果的には、一色いろはを祭り上げた形に、そして追いやられた雪ノ下雪乃の本心という二義性がある。

目の前でスケープゴートを作らないためには、詭弁を振りかざしてでっち上げる。しかしそれが犠牲と呼ぶべきものだったのかどうかは、主観と客観の差異があることに気付いていないのが特徴だった。

 

8巻は2013年に出版されたので、Twitterは私たちの現実にも定着していた。

架空のアカウントを作る目的は、拡散とエビデンス収集のため。架空であれば現実的な痛みを偽ってでっち上げることができ、目の前からスケープゴートを追いやれる。

また、SNSにおける目の前で観ているものが本物かどうかは即座に判別できない。

悪意に基づくフェイクである可能性もあれば、善意によるミスリードもある。どのように判断するかは、情報を精査していくしかない。フェイクニュースが叫ばれる現代で、誤情報が拡散していくスピードに対して、修正された情報が拡散するスピードは脆弱だと研究結果もある。

悪意の拡散が容易なのは2巻のチェーンメールを彷彿とさせるだろうか。込められた悪意よりも、それが本物かどうかの判断が付かない匿名性=「空気」に意味があり、一定の効果を生んだ。

判断をするには「顔」があるかどうかになるだろうか。その情報に「顔」があれば、善悪問わずとも一定のバイアスを掛ける判断材料となる。固有名としての「誰が」が醸し出す特徴性が大きな意味を一定の「歪み」として与えていく。

リアルかどうかを問わず、その「歪み」こそに対話可能性がある。情報の食い違いについて対話を重ねていくことで分かり合えるかもしれないという幻想を「常時の絶対的な分かり合えなさ」が転倒して希求する。

 

P253

かつての俺のやり方は犠牲なんかではない。まちがってなどいない。

数少ない手札を切り、効率化を極み、最善を尽くした。その結果、得たものが確かにある。

だから、俺の主観においては、これは完璧だといえる。

しかし、客観が存在した場合、その完璧性は崩れる。

憐れみや同情の視線によって、それは陳腐なナルシズムにさえ映ってしまう。憐れみと同情は他者を貶める感情だ。自己憐憫は己を卑下する行動だ。どちらも唾棄すべきものであり、まったくもって醜悪だ。

だが、憐れみと同情以外の客観性もおそらくは存在し得る。

 

自己犠牲とは、主観と客観で異なる。

自分ではそうではないと思っていても、客観的事実は形成されていく。葉山隼人がそう抱いたように。本心とは違っていても、そのように受け取られる可能性は幾分かある。犠牲的な心証を持っていなくとも、当人の自由意志と結果の関係性は他人を鏡として映らざるを得ない。

ここで、比企谷八幡はどのように人に認識されているか、具体的には誤情報であろうとも世界の作られ方、観られ方を知ることになる。それは同様に自分が観たいように観ている認識の結果を与え、8巻のラストが「理解」とのすれ違いの根拠であり、ただ「まちがえた」感触を残していく。

 

P334 

もしも、そこに本音があったのだとしたら。

たくさんの言葉の中に紛れ込んでしまった本音から俺が目を逸らしていたのだとしたら。

彼女の行動原理を俺が都合よく解釈して、希望的観測で動いていたのだとしたら。

問題を与えられなければ、理由を見つけることができなければ、動き出せない人間がいる。

未だに不確かではあるけれど、それでも確かに想いがあって、だがその不確かさゆえに動き出せない人間がいる。

そのことを俺はよく知っている。なら、他にもそういう奴がいたっておかしくない。

それなのに、俺はその可能性を除外していた。

実際のところはわからない。

言葉を交わしたわけじゃない。言葉を交わしたってわからない。

ただ。

自分が何かをまちがえたのではないかという、その疑念だけが残った。

 

架空のアカウントで実績を作り、交渉カードにする手段を持ち合わせながら、「妹のため」という目的も設定されているが、なぜ自分が動くのかを考えることを棚上げにしたように、また彼女たちの意思確認をしないままのディスコミュニケーションによる前提の食い違いを無視したちゃぶ台返しも「先送りの病」に表れる宙吊り的であった。

これも正しくあろうとした結果の「まちがい」であり、ディスコミュニケーションと「歪み」による自分の観たいように観ることへの覆い隠しは、本質の「先送り」と変わらない。

「先送りの病」のような消極的コミットメントは、根本をひっくり返したことによって清算を繰り上げる行為である。

しかし物語として逃げられない。棚上げしたまま終わる物語もあるだろう。敵を倒して平和になって完結とはならない。

例えば、九井諒子が描くRPGへの批評的な目線を持つような敵を倒した後もどのように再生していくかも物語になるように。何かしらが解決すれば万事大丈夫といったことはない。

 

竜の学校は山の上 九井諒子作品集

竜の学校は山の上 九井諒子作品集

 

 

『俺ガイル』では罪悪感も残り、持たぬ者の選択による「まちがえ」た結果の連鎖は循環構造に相似であるために逃げ切りを不可能としている。

 

P131 

いつも意味なんかない、先送りにして引き延ばしにして結局全部台無しにする。俺のやり方はそういう類いのものだ。

 

「本物」という言葉が具体的に用いられたのは8巻が最初になるだろう。

このような比企谷八幡の主観から「本物」への希求は、懐疑的に「先送り」にしてしまう(病)根本的なシステム、自意識への潔癖的な応答でもあるだろう。

リスクヘッジではなく、比企谷八幡の主観からはじまった「まちがえる」ことなく交わすことができる「本物」という唯一無二な可能性は、潔癖であるがゆえに求めてしまう純粋性だ。

循環的な自己肯定と自己否定の「自意識の化け物」だからこそ、幻想としての「本物」は比企谷八幡が囚われている自己破壊と自己構築を繰り返す地平にあるオアシスのようなものとなる。

 

P341 

理解されているという幻想はどこまでも生ぬるく心地よい。(略)

理解しあうという、その錯覚は手ひどいまやかしだ。

その幻覚から目を覚ました時、どれほど失望するかわからない。

些細な違和感や疑念は棘となり、しこりとなり、いずれすべて台無しにする。

俺は気づくべきだったのだ。

俺が欲したのは、馴れ合いなんかじゃない。

きっと本物が欲しくて、それ以外はいらなかった。

何も言わなくても通じて、何もしなくても理解できて、何があっても壊れない。

そんな現実とかけ離れた、愚かしくも綺麗な幻想を。

そんな本物を、俺も彼女も求めていた。

 

彼の主観ありきから展開された「本物」の概念は、ディスコミュニケーションからコミュニケーションへの転倒における価値判断の差異(リアリストからロマンチスト:デタッチメントからコミットメントへの転換)として9巻以降の大きな柱となる。

6巻を起点にする循環構造から跳躍するための助走としての「まちがい」が8巻だったといえよう。

9巻からは、能動的デタッチメントから責任的コミットメントという「関わっていく」しかないことが命題となる。

行動や気持ちにある、嘘か真かは受け取った相手の解釈に委ねられてしまう。だからこそ「本物」は、その差異が対話可能性にみる決定性が幻想だとしても、「歪み」によってラベリングされることを自覚した上での絶対的な純粋性となる。

比企谷八幡は自身の揺らぎを自覚している。「理性の化け物」ゆえ懐疑も含めた自意識の展開があり、それでも求めていく、関わっていくしかない態度が重要となっていく。そんな比企谷八幡の行動や精神の反復性という循環構造からどのように前進していくのか、自意識に絡め捕られた経緯を没入的にトレースしていく主観的な語りは、アイロニーと相性がいいのは明白だと言えるだろう。 

 

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 (9) (ガガガ文庫)

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 (9) (ガガガ文庫)

  • 作者:渡 航
  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 2014/04/18
  • メディア: 文庫
 

 

8巻では「まちがい」ながら辿り着いた先の「守りたかった日常」は、9巻では擬態的に記されている。8巻が、7巻の「まちがい」による断続的なディスコミュニケーション空間であったとするならば、9巻では8巻の関係性を一応は形式的に取り繕った結果、別の「まちがい」を積み重ねて「先送り」にしたことで「まちがい」の二重性がある幻想的なコミュニケーション空間となるだろう。

まやかしのような馴れ合いが成立してしまった日常・空間は、以前とは隔絶のある「戻れないルート」に突入したことを意味している。いつも通りに努めようとすること自体が自然体から離れた虚飾的な日常であり、この光景は8巻と重なる。

「まちがい」に「まちがい」を重ねた結果の取り返しがつかなくなった戻れない日常をどのように取り戻すのではなく(なぜならゲームのように後戻りはできないのだから)、どのように新たに掴み直していくのかが問われる。これは、コミュニケーションを前提とした問題設定をディスコミュニケーションな彼らが、葉山隼人たちのように温存されながらも自己改革していく「空気」への従属とそのオルタナティブなカウンターとなっていく。

 

P36

たぶん、俺が葉山たち視線を向けていたのは、虚飾だと、欺瞞だと思っていた人間関係がそこにあることを知っていて、それを今の自分に重ねていたのだ。

戸部はグループ内の不穏な空気を感じて無自覚に行動していたのかもしれないが、海老名さんは自覚的に溝を埋めようとしていたのだろう。

些細な行き違いや小さな違和感を少しずつ擦り合わせて、三浦や葉山も戸部も海老名さんも納得できる互いの妥協点を探って、彼らなりの在り方をちょうせいしているように俺には思えた。

そんなやり方も、あったのだ。

彼らでさえも、本当は自分たちのコミュニケーションに疑問を抱き、悩みながら手探り状態でいる。

――なら、いったい、どちらが偽物だったのだろうか。

 

コミュニケーションの化け物とされるリア充な彼らでさえも、模索している描写である。葉山隼人らの問題は、比企谷八幡たちの問題と重なり、双方ともに近似しながらも取るべき手段は共通的ではないことも描かれていくのは11巻以降である。

 

P42

失ってしまったことを、言い訳にしないために。理不尽さに屈して認めないために。だから、いつもより気を張って、いつもよりいつも通りであろうと振る舞う。

それはきっと欺瞞だろう。

けれど、選択したのは俺だ。

選び直すことは許されていない。時は常に不可逆で、取り返しがつかないことも多々ある。嘆くことは過去の自分に対する裏切りだ。

公開するのはそれだけ大きなものを自分が持っていた証拠だ。だから、嘆いたりしない。本来、持ちえなかったものを手にできていた。その事実だけで満たされるべきだ。

「持たぬ者」の矜持としての過去の肯定は、持たぬ自分自身に捧げる祝福であるかのように否定をせずに、自己肯定しようとする意識はより増長していく。変わらないこと、また本来ならば持ちえなかった財産があった事実に対して満足するべきだと、現状の「持たぬ者」として過去に目を向けることで「自分は恵まれていた」記憶で自己充足すべきだと比企谷八幡は言う。

しかし、昔の思い出に満足するだけではなく、今の状況を変える努力はすべきだろう。それはそれで、これはこれなのだから。過去に縋るのも自由だが、それを盾にやらない理由にはならない。

つまり、変わらないままでいることの不可能性がある。コミュニケーションの不可能性と「まちがい」の反復の中で藻掻き、変化を受容していくことによって、何かしらのコミットはミクロに「移動」していく。

 

P47

閉じてしまった世界にあるのは平穏ではなく、閉塞であり、停滞だ。残されている道は腐って、朽ちていくことだけ。

 

日常のループ性とラベリングされた「普通」の強化は「正しさ」を装飾しながら作りこまれた日常を演出する。

その結果、求めていた日常と加工された反復的日常への欺瞞は、日々移ろう価値とそこに集約される刹那的輝きと実在性といったゼロ年代の「日常系」とループ構造との相関性を彷彿とさせる。この箱庭に閉じ込められた、モラトリアム的な意味に「先送り」にした結果の「まちがい」を循環的に組み込んだのが『俺ガイル』だと考える。 

 

依頼は4巻以降からスケールと社会性が増大となっていく。

4巻ではリア充グループとの共同作業。6巻では文化祭実行委員会。7巻では再度リア充グループの関係性により関わっていく社会性が求められ、8巻では生徒会選挙だった。

9巻からは、より外部への展開と接触として(個人からシステムと向き合い、運営する個人と直面する)、学外へ出る。

生徒会のサポートとして会議に参加した比企谷八幡。彼が目にしたのは玉縄を中心とした空虚な意識高い系の存在であり、ジャーゴンを使用するだけの上っ面に滑る会議であった。

会議を回しているという自意識を埋めるための時間と論理的空転は、自分たちが「何者」かになったかのようなパフォーマンスの確認であり、社会的使命を果たしているように自覚するための時間に過ぎない。

ブレインストーミングによる民主制を採用しながらも、具体的な取捨選択の決断ではなく、包摂案を採ろうとする「みんな」のための会議は停滞を生むしかなかった。空回ったツケは知らぬ顔では「先送りの病」と重なる。

つまり、この動かない会議と比企谷八幡たちの7巻からはじまった「まちがい」の二重性による停滞は「先送りの病」の具体化だといえよう。誰しもが決断を先延ばしにすることで責任の所在を分散化させる。空虚な会議運営の「中心の不在」が示す「みんな」という幻想のように雲散霧消となる。

また、ジャーゴンを駆使して「何者」かになったかのような幻想もある。意識高い系が、なぜ「意識高い系(笑)」と揶揄される所以の一つに「自意識高い系」と「自分探し系」がセットになっているからだろう。パフォーマンスの追認だけで「何者」になれるわけではない。「何者」かは「何者」になるために戦略的である必要性はあるにしても、その目的性が先にあるわけでもない。必然的に、自然とミクロにコミットメントしたことの結果が「何者か」の実績になっていくのは確かであり、ジャーゴンを組み込むだけの思想性を脱臭されたゼロ年代サブカル批評(東浩紀フォロワー化した「何者」たち)への批判をした宇野常寛ジャーゴンを脱臼させながら意識的に取り込んだ結果が批評家として名を獲得したように、手段と目的性の転倒はよく見られる。

話を戻そう。

事態の進まなさを養分に自分たちの議論という成長の記録、何もないログを記述することによって、まるで何かをしていることを錯覚するような共同幻想も「みんな」の特徴になるだろう。

しかし時間的余裕がない。リミットとコストは現実的に設けられ、決められないあるいは決まらない選択を引き延ばしにする無意味へのコミットメントは、物語的停滞と会議の停滞が通じると既に記したが、そこからの脱出と前進してみても、安寧とした箱庭に閉じ込められる確認と「共依存」の話が待ち構えているのが10巻以降となる。

この安易に進まない循環的物語と自意識の呪縛は「自意識の化け物」たる青春の葛藤を描いた証拠だろう。 

 

P154

「……俺は君が思っているほど、いい奴じゃない」

 

P156

俺の葉山隼人への認識は何かが違うのだろうか。

いい奴なのだと思う。一方でただ者でないことも理解している。皆が仲良くあれるよう、その目的のためにときに非情な表情をして見せる。それが葉山隼人なのだと思っていた。

 

葉山隼人の複雑性は、前期からの単なるリア充の印象をひっくり返すように7巻から取り扱われている。

端的に、リア充側とそうではない側の分断を破壊しようとしている構造が作品にあることを示す。その括りでは当て嵌めることが適わない共通的な自意識の発露が根底にあるからだろう。

 

「先送りの病」の一つでもある鶴見留美が登場したのは4巻。

彼女が再登場したのは今後を予感させるものだ。それは保留にしたままの結果が事実として追いかけてくるものであり、比企谷八幡の認識と、つまり主観的な語りと各自が抱く主観的な事実は距離があることを結果として指すことだった。

「先送り」にしたこれまでのように前提という認識をひっくり返すだけでは限界がある。その前提の認識にも齟齬がある可能性もあるから(8巻)。

また、曖昧なまま更地にしてもフロンティアは開拓されるからこそ価値があるように、先送りにした「その先」を問う必要がある。

いうならば後期は「先送りの病」の反復性からの結果「まちがった」事実が後から追いかけてくる構図に対して、どのように決断していくのかという姿勢が描かれている。

 

P166

人を協力すること、誰かを頼ること、それはえてして時間をかけてやらなければならないことのだろう。俺はそういう経験があまりないから、玉縄のやり方をよく理解できていないのだと思う。

さんざん間違えてきた俺だ。今度も間違えているのは俺のほうかもしれない。

 

P171

彼らが求めているのは別にボランティア活動そのものではなく、そういう活動をしている自分たちに対する自己承認欲求にほかならない。

彼らは仕事をしたいのではない。仕事をしている気分に浸りたいだけなのだ。やっている気になっているだけなのだ。

そして、最後はできているつもりになって結局全部台無しにする。

――ああ、それはまるでどこかの誰かみたいで、過去の失敗を見せつけられているようで本当にイライラする。

できているつもりで、その実本当は何もできていないのに。

何も見えてはいないのに。

 

玉縄を通して比企谷八幡は、自身が選択できない者が「先送りの病」として選択した結果の「まちがい」を自覚していく。「選べない者」と「選ぶしかない者」は「みんな」に頼る。

玉縄は「みんな」に頼るが、ボッチであった比企谷八幡は頼ることを知らない。その差異はあるが、等しく「選べない」事実は共有されている。そうした状況から、選択肢を持ち、決断していくまでが『俺ガイル』の特徴の反復的構造から「外部」に出られるのか、という自意識と重なっていく。

 

P184

かっこいい、か……。

そんなもんじゃない。たぶん、ただ意地になっているだけなのだ。単純に、かっこつけているだけなのだと思う。

己の中に定めた、自身のあるべき姿を裏切るまいと、そうやって依怙地になっているにすぎない。

今もまだ、おぞましい理性の化け物が、忌々しい自意識の化け物がこの身に巣食っている。

 

安易な成長や肩書きによる上書きを許さないのは6巻でもあったが、『俺ガイル』自体がそうしたインスタントな歩みを排しているからだろう。

単に比企谷八幡の拒絶ではなく、成長するための成長過程を丸裸にするような「生の自意識」を一人称として垂れ流すことでの主観性を共有する一方で、世界の在り方の複雑性や認識できる情報レベルの差異、そして経験から導かれることで誤解を招く痛みといった成熟への向き合い方という客観性をどのように向き合えるかとするならば、徹底的な主観性は反動として「外部性」を求め、そして自覚的な檻を描くことになる。

 

P211

雪ノ下雪乃は嘘をつかない。俺はそのことを頑なに信じていて、だからこそ、雪ノ下が真実を言わなかったことで幻滅した。

雪ノ下に対してではない。そんな理想を押し付けていた自分自身に、昔の俺は幻滅したのだ。

引き換え、今の俺はどうだろう。あのときよりもなおひどい。真実を言わないことは嘘ではないと、そんな欺瞞を飲み込んで、あまつさえそれを利用している。あんなにも拒んでいたはずの虚偽を平気で使い分けている自分が醜悪なものに思えた。

 

このシーンは、5巻から6巻にかけた「知る」ことを代表するものだ。

8巻では「理解」と「知る」の距離が顕在化し、「知る」のフェーズでは充足できない関係性への深みに進もうとしていたゆえの「まちがい」が見て取れた。

強烈な自己肯定から自己否定への転換が行われ、潔癖的な理想が自身の現実に跳ね返ってきた状態を意味している。

さらに内省的に「先送り病」に触れるのが9巻となる。それは目の前にいる鶴見留美の現状が物語るように、また奉仕部を取り巻く擬態的な日常への違和感を突き詰めた結果だろう。問題解決だと思われていたものは、一時的な解消に過ぎなかった現実であり、過去から追いかけてくるように。「先送りの病」による清算と反復性の中で「まちがい」を周回しては塗り固めた結果が、かけがえのない日常が「偽物化」したのは、のちの「本物」に至る論理と感情の種だ。

 

P212 

これまでも俺は解決などしてきていない。一色にしても留美にしても、結局有耶無耶にして台無しにしてきただけだった。彼女たちが救われているかといえば、決してそんなことはない。(略)

自分のことは自分でやる。ごく当たり前のことでしかない。それが巻き込まれたにせよ、降りかかってきたにせよ、関わってしまえば結局は自分の問題に行きついてしまう。だから、自分でやっているだけなのだ。

それが染みついて、他のやり方なんてよく知りもしないくせに、安易に人に頼るから、ろくでもないことになる。そもそも間違えている人間がまっとうな手段を取ったって、正しい結果なんて出ないに決まっているのに。

だから自分でやる。それだけのこと。

 

 

P215 

あのとき、俺は一つの嘘をついた。変えたくない、変わりたくないというその願いを、嘘で歪めた。

海老名さんと三浦、そして葉山。

彼女たちは変化のない幸福な日常を求めた。だから、少しずつ嘘をつき、騙して、そうまでして守りたい関係なのだろう。それを理解してしまった以上、簡単に否定することはできなかった。

彼らの出した結論、守ろうとするがための選択をまちがっているとは思えない。

俺は彼らを自分と重ね、その在りようを容認してしまった。俺は俺であの日々をそれなりに気に入っていたし、失くすのは惜しいと感じ始めていた。

いつか必ず失うことを理解していたのに。

だから、信条を歪めて自分に嘘をついた。大事なものを替えが利かない。かけがえのないものは失ったら二度と手に入らない。故に守らなければならないと、そう偽って。

俺は守ったのではなく、守った気になって、縋っていたのだ。

 

P216 

あの箱の中身は空っぽなのだろう。

まるであの部室のようだ。なのに、あんな虚ろな箱を手に入れようとしていた。

そんなものを願ったはずではないのに。

 

平塚静とのドライブシーンは、時間的余裕の無い現状を整理するのみならず、物語のイマを映し出す時間となった。それは作中で外部、完全な大人として関わる平塚静の立ち位置を意味し、ヒントを与えることができるし、依頼を促すことはできるが、魚を穫ってあげることはできない奉仕部の理念に通じる存在である。

奉仕部に課せられたのは自己変革であったように、魚の獲り方を教えてあげる、そのサポートをするのが奉仕部であるならば、奉仕部自体に奉仕的に関われるのは平塚静しかいない。同時に外部的に関わることの限界性は平塚静であり、その中間が雪ノ下陽乃といったところか。外部的である平塚静と内部に取り込まれる雪ノ下陽乃の違いは、「成熟した大人」であるかどうか。イニシエーションとしてある「イマ・ココ」の絶望や諦念を述べる後者も含めて、それらの事情は通過すれば問題なくなってしまう。

朝井リョウなどに現れる「健全な文学」としての一時的な就活や学校の人間関係の葛藤は、元を過ぎれば問題解消してしまえる問題でもある。その状況は、当事者ゆえに視野狭窄に陥らせ、認識を歪ませる。まるで今の問題が全てであるかのように。その際に外部的に指導ができる存在がいるかどうかで、作品のカラーも変わっていく。平塚静はそのために作中の終盤にはフェードアウトしていくのだろう。彼女が関わりやすい状況は「イマ・ココ」の問題を肥大化させた一時的なモラトリアムとも重なるからだ。

一時的な問題の肥大化は「先送りの病」=保留=モラトリアムを許容するものでもあるが、この作品は「先送りの病」に対して処方的にピリオドを打つことが14巻までのプロセスとしてある。選べなかった彼らが選ぶまでの作品であるために、一時的な問題の文学化=「健全な文学」の膨張を自己意識的に記す必要があるのだ。その実存性が比企谷八幡を通して物語となっている。

以下は、平塚静との重要なやり取りを長いがそのまま引用しよう。

P226 

「心理と感情は常にイコールなわけじゃない。ときにまったく不合理に見える結論を出してしまうのはそのせいだ。……だから、雪ノ下も、由比ヶ浜も、君も、まちがえた答えを出す」

 

メリット・デメリット、リスク・リターンで考えるものならわかる。それは理解できる。

欲望や保身、嫉妬に憎悪。そんなありふれた醜い感情に基づいた行動心理なら類推できるものだ。醜悪な感情のサンプルなど自分の中にいくらでもあるから。だから、想像することは容易い。それに近しい類いのものであればまだ理解の余地はある。理論をもって説明ができる。

けれど、そうでないものは難しい。

損得勘定を抜きにして、論理も理論も飛び越えた人の想いは想像しづらい。手がかりが少なすぎるし、何より、今までまちがえすぎた。

好意とか友情とかあるいは愛情だとか、そうしたものはいつも勘違いしか生んでこなかった。きっとこれがそうだと思うたびに、またまちがえる。

 

P228 

「わからないか。ならもっと考えろ。計算しかできないなら計算しつくせ。全部の答えを出して消去法で一つずつ潰せ。残ったものが君の答えだ」

 

 

P232

大切なものだから傷つけたくない。遠ざけたい。回避したい。まちがえたくない。

「でもね、比企谷。傷つけないなんてことはできないんだ。人間、存在するだけで無自覚に誰かを傷つけるものさ。生きていても、死んでしても、ずっと傷つける。関われば傷つけるし、関わらないようにしてもそのことが傷つけるかもしれない……」

 

「けれど、どうでもいい相手なら傷つけたことにすら気づかない。必要なのは自覚だ。大切に思うからこそ、傷つけてしまったと感じるんだ」

 

「誰かを大切に思うということは、その人を傷つける覚悟をすることだよ」

 

関わること、表現することで立ち上がる暴力性は必ず付き纏う。何かを立ち上げることは、何かを同時に捨てているからだ。一定的に孕んでいる暴力性への自覚は、コミットメントの代償である。その結果「まちがえる」かもしれない。

抽象的な言葉に託すしかない暴力性は「郵便的」であり、相手に届くかどうかも曖昧である。なぜならそのメッセージ自体が抽象的であるために、届いて欲しい相手に届かないかもしれないし、偶然的に想定外の方向に届くかもしれない。そんな抽象的で郵便的ゆえに暴力性が同居しているからこそ、「本物」という幻想は、自覚的でありながらも超越してしまえるのではないかと期待してしまう。

反復的な現実の「まちがい」の功罪から、飛躍となる幻想的な着地点が「本物」ではないだろうか。

比企谷八幡自身が最終的に選び出した言葉は「本物」であり、とても内省的なプロセスを踏まえたものであるが、作中では平塚静が「本物」についてさきに言明している点は見逃せない。

自意識に囚われ、学生時代の「学校と家」の往復こそが世界のすべてのような錯覚、そんなモラトリアムな「先送りの病」に対する清算機会を助言している。

 

P234

「君たちにとっては、今この時間がすべてのように感じるだろう。だが、けしてそんなことはない。どこかで帳尻は合わせられる。世界はそういうふうに出来ている」

 

「この時間がすべてじゃない。……でも、今しかできないこと、ここにしかないものもある。今だよ、比企谷。……今なんだ」

 

「考えてもがき苦しみ、あがいて悩め。――そうでなくては、本物じゃない」

 

P241

欲しいものがあったから。

たぶん、昔からそれだけが欲しくてそれ以外はいらなくて、それ以外のものを憎んですらいた。だけど一向に手に入らないから、そんなものは存在しないとそう思っていた。

なのに、見えた気がしてしまったから。触れた気がしてしまったから。

だから、俺はまちがえた。

問いはできた。なら、考えよう。俺の答えを。

 

 

比企谷八幡が「先送りの病」に対する清算を昇華しようと努める態度は「まちがって」きたからこその罪悪感以外の手触りを希求したからともいえる。「まちがえて」きたことによる自意識のループと物語上のルートにおける循環構造は、その雁字搦めから問いを設定し直すこととなる。

 

P252

俺は言葉が欲しいんじゃない。俺が欲しかったのは、確かにあった。

それはきっと、分かり合いたいとか、仲良くしたいとか、話したいとか、一緒にいたいとかそういうことじゃない。俺はわかってもらいたいんじゃない。自分が理解されないことは知っているし、理解してほしいとも思わない。俺が求めているのはもっと過酷で残酷なものだ。俺はわかりたいのだ。わかりたい。知っていたい。知って安心したい。安らぎを得ていたい。わからないことはひどく怖いことだから。完全に理解したいだなんて、ひどく独善的で、独裁的で、傲慢な願いだ。本当に浅ましくておぞましい。そんな願望を抱いている自分が気持ち悪くて仕方がない。

けれど、もしも、もしもお互いががそう思えるのなら。

その醜い自己満足を押しつけ合うことができて、その傲慢さを許容できる関係性が存在するのなら。

そんなこと絶対にできないのは知っている。そんなものに手が届かないのもわかっている。

手が届かない葡萄はきっと酸っぱいに違いない。

でも、嘘みたいに甘い果実なんかいらない。偽物の理解や欺瞞のある関係ならそんなものはいらない。

俺が欲しいのはその酸っぱい葡萄だ。

酸っぱくても、苦くても、不味くても、毒でしかなくても、そんなものは存在しなくても、手にすることができなくても、望むことすら許されなくても。

 

「本物」という抽象性の高い曖昧な言葉の受け取り方は、他者にとって真意が掴みかねる抽象性への恐れと、それでも『そう=「本物」』としか言えない発話者の距離感と生じるであろう齟齬による暴力的なジレンマがある。

経験上で判断してきた比企谷八幡が、経験外から導いた答えは平塚静の言ったように全てを消去法的に塗り潰し、残ったものだったのだろう。心理と感情は常にイコールではないのだから。

ここにあるのは、言葉のロジックではない感情のインパクトとなる。

「理性の化け物」が感情的に、そして経験的から導けない問題へ向かう姿勢は、空転しきった自意識の丸裸と現実的な「理想の吐露」に他ならない。

この9巻以降、曖昧な語りや言葉の遣り取りが増えていくのは言葉によって規定されてしまう「枠」そのものを抽象化することで安易な決定可能性を乱立しない意図が込められている。それは同時に決定不可能性を生み出していく作業でもあり、その応答は「本物」の抽象性を迂遠的になぞる行為となる。

後期ひいては『俺ガイル』が、物語的にそして文学的に辿り着くために安易に進まない歩みとして表れているともいえるだろうか。 

 

P260

「あなたの言う本物っていったい何?」

「それは……」

俺にもよくわかってはいない。そんなもの、今まで見たことがないし、手にしたことがない。だから、これがそうだと言えるものを俺は未だに知らないでいる。当然、他の人間がわかろうはずもない。なのに、そんなものを願っているのだ。

 

P262 

誰かは遠回りで捻くれた虚実混ざった理論しか振りかざせなくて。

誰かは抱いた想いをうまく言葉にすることができずに黙り込んで。

言葉なしには伝えられず、言葉があるから間違えて、だったら俺たちはいったい何がわかるんだろうか。

雪ノ下雪乃が持っていた信念。由比ヶ浜結衣が求めた関係。比企谷八幡が欲した本物。

そこにどれほどの違いがあるのか、俺にはまだわからないでいる。

けれど、素直な涙だけが伝えてくれるのだ。ただ、今この時は間違えてなんかいないと。

 

 

この上記のシーンは空中廊下が舞台となっている。部室を飛び出した雪ノ下雪乃を追いかけた先が空中廊下だった。目線の上昇が印象的に導かれている。うつむいて涙を流す、目の前が滲む行動は現実自体を描写する一方で、確かな前進をするためには涙を拭いて上や前を向かないといけない。

学校の作りによって設けられている空中廊下は、何も遮るものがなく、海風が吹き付ける。丸裸で宙づり的な地理は「先送り」にできない自意識そのものであり、抽象的態度がぶら下がった比喩だろう。

言葉の複雑性が物語の抽象化を促している。

比企谷八幡の思考をなぞる語りであるから必然的に導かれる「前進できない曖昧な循環的」な言葉への信頼性と猜疑心は、勘違いや理解を生んできた「嘘と本当」の決定不可能性となる。

 基本的には比企谷八幡の視点からの語りであるので、彼の思索や彼を通した対話によって他者の複雑性への理解や輪郭が浮かび上がっていくものだが、彼の不在となる場所や介入不可能な場面での対話は、比企谷八幡から独立した語りとして描かれることで、パースペクティヴなキャラの関係性や構造を曝け出すのが後期の特徴になるだろう。

比企谷八幡の視点では語れない。そのキャラが独自に語る場を持たなければ語れない認識の臨界点と、比企谷八幡以外の世界の多様性という読み方、そしてキャラへの複雑な手触りを残していく。

 

P388 

そして、失敗したときに言うのだ。皆が決めたことだからと。その責任を分散し、自身の心を軽くし、名前のない誰かのせいにする。最後は「みんな」で決めたことだからと脅迫し、共犯者に仕立て上げる。ああ、まるでどこかの虚ろな箱だ。

だから、それを否定しなければ、俺が正しい存在だなんてとても言えないけれど。でも、否定してもらえたから、俺はまちがいに気づいたのだから。なら、この結論を受け入れるわけにはいかない。俺がまちがっているのは知っている。でも、世界はもっとまちがっている。

(略)

否定のない優しい空間は甘美だろう。上滑りした議論は議事録に残され、会議の体を残し続ける。そうすれば自分を騙していることができる。

だが、それは偽物だ。

 

P390 

「曖昧な言葉で話をした気になって、わかった気になって、なに一つ行動を起こさない。そんなの前に進むわけがないわ……。何も生み出さない。何も得られない。何も与えない。……ただの偽物」

 

 

さきの「本物」を受けて「偽物」という言葉が明確に引用されている。

比企谷八幡に倣って、雪ノ下雪乃も「偽物」を使うことによって、「本物」という抽象性に対する取捨選択としての「偽物」の尺度を共有していることが見て取れる。

しかし「偽物」が分かっているからといってイコール「本物」が分かるかというとそうではない。現に雪ノ下雪乃比企谷八幡の願いについて「分からない」と当初は拒絶をしたのだから。ただ「偽物」を引いていって、消去法的に残ったものが「本物」であると、平塚静が述べたロジックがここにも重なるのが分かるだろう。

 

「みんな」のため。

動けない会議の善意に対して意思決定の判断、決断するためには「みんな」を統率するか壊すかの意思が必要になる。そこには孕んでいる暴力性とリスクがある。

一色いろはの告白や比企谷八幡の願いもそうであったように、何かが零れ落としてしまう危険性にみる伝達不可能性は意思決定を迂遠にさせ、取り繕っては防衛する構えを用意させてしまう。必ず真意が伝わるとは限らない。言葉のやり取りに、すべてが込められるとも限らない。そんな言葉の応答にみる「出口の無さ」は、逆説的には決定的だといえよう。

玉縄たちの会議も意思決定を遠ざける回避というモラトリアムである。そこにアンチテーゼ的に意思決定へのサポートがあり、弁証法的に会議は展開されていくコミットメントは、比企谷八幡だけが自己犠牲的に引き受ける構図ではない。共同的な弁証法的解決として、同様に「空気」を壊す傷を引き受ける。共通の痛みを得ることでの共同性は「偽物」の箱庭批判=玉縄たちを指摘したことで芽生える。

そこから10巻以降が抱える「箱庭的関係性=共依存」への伏線がここにあるのは見逃せない。

「まちがい」を自覚する、自覚させることで物語的には前進するが、共同性を得たことでまたしても枠に嵌められてしまう「温室的関係性」=共依存を準備し、循環しながらも入れ子構造的に嵌められてしまう要素があるのが『俺ガイル』である。

外部への前進が内部に回収されてしまうように、外部が内部に転換する。

そうすることで「本物」を問い続けていく物語上の複雑性の図式が成り立つ。

「まちがい」をしてきたからこそ「まちがわないよう」なルートを選び、結果的に「まちがう」という循環と反復は、起点(6巻)から移ろう流動性が固定化を生み、徐々に「移動」する繰り返しとして表現されている。

 

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。10 (ガガガ文庫)

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。10 (ガガガ文庫)

  • 作者:渡 航
  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 2014/11/18
  • メディア: 文庫
 

10巻では雪ノ下家の輪郭が浮かび上がってくる。

12巻以降のテーマの一つだ。良家の慣習と姉妹の役割が具体的に描写されている(5巻もそうであった)。表に出てこない雪ノ下雪乃とその都度こなしてきた雪ノ下陽乃

 

P73

以前の俺は本当に知ろうとしてこなかったのだろう。

たぶん、雪ノ下のことだけでなく、由比ヶ浜のことも。

けれど、今はほんの少しだけれど、理解には程遠くて、理想的とはとてもじゃないが言えなくて、それでもちゃんと三人で時間を積み重ねてきた。半年ちょっとなんて全然大した時間ではない。それでも、あのころよりは確かに彼女のことを多少は知っている。

 

6巻を起点に「知り合う」フェーズに移行したことが7巻の無自覚的な「まちがい」を誘発させる結果となったが、6巻から9巻までの反復性を多少脱け出した後の「認識する」自覚が記されている。互いを半年間にわたって知ってきたが、それでも知らないことは多々ある。学校や部活だけが世界ではないのだから。家族の話や具体的な領域に触れる際に距離感はその都度揺れ、手探りを続けていく他ない微妙なニュアンスが記されている。

家の事情については、比企谷家や川崎家、葉山家、雪ノ下家といったようにそれぞれの「家」が登場する。

「学校と家」が恰も世界すべてであるような学生時代において対象への認識が「家」にまで及んだのは、具体的には2巻の川崎家が最初になるだろう。学生身分で他人の「家」に関わることはできるのか、が今後のテーマであり、それはどこまで人は他者と関わることができるのかという覚悟を問うものとなる(14巻)。

 

P82 

カップを持つ葉山の手首で秒針がゆっくりと動く。

俺はそれをただ目で追っていた。

ずっと同じ律動を刻み、それが狂うことはなく、ただただ決められた通りに針は動く。一周して二周して同じ所へ戻ってきて、いつもと似たような顔を見せる。それでも、けして同じものではない。秒針は変わらずにいても、周囲が指し示す刻は移ろい続けている。

 

このシーンにあるが、時計の針が示すように同じく周回するだけではない。確実に時(関係性)は進んでいる秒針を比喩として用いている。同じように回り続ける(循環)ことからの歩みとしての「温存を前進と捉える欺瞞=共依存」への伏線になるだろう。「共依存」の賛否あれど、その過程は9巻を起点とする。6巻から9巻までの反復性から脱け出したと思いきや、別の温存性というレイヤーにに取り込まれる様子が見て取れるからだ。

P99のエレベーターに乗って帰るシーンにあるが「エレベーター=箱」の運動性に沿うように自意識と関係性への「深層的=依存的構造」に入り込んでいく暗示があるのは象徴的だろう。

また、家族問題への踏み込めなさは、最終的には14巻が答えを出しているために後述するが、部外者が如何に関わりを持つことができるのか、という問いを抱える必要がある。コミットメントの代償として。

 

P112

その噂話とやらの厄介のところは必ずしも悪意が介在しているとは限らない点だ。

ただ面白いから、みんな興味があるから、耳目を集める二人のことだから。だから何でも言っていいのだと、そう解釈されて誰もが疑問に思うこともなく、話題にする。真偽を明らかにすることもなく、間違った情報を無責任に拡散させるのだ。そして、それによって誰かが不利益を被ったとしても、「噂だから」の一言で自身の責任を免罪する。普段は自分の存在を誇示しようとするくせに、都合の悪いときだけ、自分は有象無象の一般市民だと言ってはばからない。

それが、ひどく気持ち悪い。

 

葉山隼人雪ノ下雪乃の噂話が学校中で拡散している様子が描かれる。さきの雪ノ下家とのシーンに同席していたことが発端となっている。

スクールカースト上位にポジションする美男美女の2人の噂は、目立つがゆえに「みんな」=有象無象の好奇心を無作為に掻き立てる。そこに明確な悪意は介在しない。ひと時の熱中できる「ネタ」に過ぎないからだ。

「みんな」やそれを形成する中間層を可視化しないのが『俺ガイル』の特徴だと既に記したが、「みんな」に入れないゆえの生きづらさがあり(比企谷八幡はその輪に入れない主人公として決別している)、また「空気」の交換可能性にみえるアイロニカルなネタ化は責任を負うこともない。なので「みんな」に代表者はおらず、匿名的に責任自体が分散しているがゆえに集合体として成している。「空気」や「みんな」に実体はないのだから。

その無責任な言説が飛び交う悍ましさを「空気」に入っていない比企谷八幡視点で語ることは、「みんな」なるものがどのように群体として形成されるのか、あるいは熱狂を外側から眺めることで逆説的に「空気」が醸し出す純粋な好奇心の気持ち悪さを炙り出すことができる。

10巻は目立つ者の苦悩としてリア充側を描くことに重点を置いている。

進路選択によるグループの分裂、つまり引き裂かれた関係性はそのまま共同性を維持できるのかという問いがある。もちろん一般論として、無くなるものは無くなり、無くならないものは無くならないだろう。卒業したりしてもそのまま会う人もいれば、もう二度と会わない人もいる。

ただし比企谷八幡には、そんな経験がないためかリセットが固定化してしまっているのが、葉山隼人とのズレを並行的に記している。この並行的な描写は、いつしか葉山隼人比企谷八幡を交らわせる。それはスクールカーストの超越的描写ともいえ、また「リア充文学」と「孤独な人間の心理」を並行的に描いてきた事実は、従来の「近代文学」との交点だといえる。

 

P138 

前を歩く三人の姿を見ながら、俺は段ボール箱を持ち直した。

中にはクリスマスイベントの時に使ったオーナメントがしっちゃかめっちゃか賑やかに突っ込まれている。

箱の中身は雑然としているけれど、この腕に確かな重みを感じることができた。

 

比企谷八幡が持つ箱の重みは、9巻では虚ろな箱だったものが、今や重量感があり確かな手応えとなる比喩が込められている。

9巻までの反復から飛び出し、現状の手触りを箱で語るシーン。雑然としている箱の中身は幾分かの抽象性=「未知なる本物」を醸し出す一方で、リアルな重みは空虚だった部室の雰囲気=箱を「本物」を願うことを投影することで一定の共同性を得たことが示されている。

 

9巻P216 

あの箱の中身は空っぽなのだろう。

まるであの部室のようだ。なのに、あんな虚ろな箱を手に入れようとしていた。

そんなものを願ったはずではないのに。

 

奉仕部という言い訳で他人の事情にツッコむことの煩わしさを葉山隼人から突き付けられる。他人の領域内に踏み込むことと、依頼という形で他人に侵入する横暴さと拒絶は初めて描かれたと言っていいだろう。なぜなら当事者が困窮しているパターンならば、当事者そのものへのサポートはもちろん喜ばれるが、第三者に対して働きかけることのリスクはその対象が「求めているか」どうかは依頼の「外部的な事実」となる。

得てして依頼はその領域を踏み荒らす。

例えば4巻では鶴見留美の領域をひっくり返した。それは比企谷八幡らの選択であり、彼女自身の依頼ではなかったように。

 

そんな選べない葉山が選んだものの葛藤が描かれている。

「回避」を選んでも誰かしらが傷付く。一色いろはの告白を断ったように、何かを選ぶことと何も選ばないことによって等しく暴力性は立ち上がる。

葉山隼人という実像は何なのかを探るのが10巻である。

比企谷八幡葉山隼人を問うた時に見た景色としてのグラウンドを照らす人工的な灯りに映る鏡像は、不確定な人間理解やモザイク性を示唆しているのだろう。

同時に印象論的に押し込むことの一定の暴力的な理解も存在する。葉山隼人が「いい奴」であることがその鍵となる。

P175 

たぶん本当に知りたいのは過去の出来事なんかではなく、ましてや未来の進路でさえない。

何を考えているか、どう思っているかが。

ただ、気持ちが知りたい。

理解、したいのだ。

 

 

P178 

ただ、踏み込まれることを望まない相手に踏み込んでいくことが正しいのか否か、俺にはまだ自信がない。わざわざ触れなくとも、関係性の構築と保全はできるように思ってしまう。

だからこそ、尋ねる。

「それでも、知りたいか?」

嫌がられても疎まれても厚かましく思われても、たとえ傷つけることになったとしても、その一線を踏み越えていいのかと、そう問うたつもりだ。

三浦は答えるのに迷わなかった。

涙目で俺を睨み、ぎゅっと拳を握る。

「知りたい。……それでも知りたい。……それしかないから」 

 

それでも他者を理解したいという気持ちは、対象とは別に持ち続けるものだろう。

たとえそれが侵害や暴力に値したとしても「知りたい」気持ちに裏側は存在しない。かといって純粋であるから許容されるわけでもないが。

今を知っていても、過去も知っているわけではない。

これは奉仕部内のみならず、三浦優美子と葉山隼人らもそうである。引き金となったのは葉山隼人雪ノ下雪乃の噂話である。自分の知らない相手の過去を共有する他者の存在に対して、敵愾心を燃やすわけでもない。況してや未来を知りたいわけでもない。「知る」ことで今の密度を上げたい。そんな純粋さが、相手にとっての「近しい」人間でありたい気持ちを増長させていく。それはフラットな関係性を突き詰めていくことである。

過去に何があったかを知る術もなく、それを知ったところで何か大局的に動くものではない。ひたすらに今にコミットメントすることは、ミクロに「移動」していくことを示す。その積み重ねが、踏み込む領域を拡張し、共有していくことになる。この問題は7巻の葉山隼人と海老名姫菜でもあったように、奉仕部に訪れて重なるものとなり、『俺ガイル』が描いてきた「移動」のニュアンスに当て嵌まる。

葉山隼人らの中心に位置する者としての苦労は2巻から描かれてきた。それに振り回される周りと中心として君臨する存在の功罪は、必ず関わってしまうことによる抵抗と安心のジレンマである。「信頼と苦労」に対する理解と共感までの距離は別であるが、リア充側も大変であるのは『俺ガイル』独特の葛藤でもない。

例えば『桐島、部活やめるってよ』は、中心の不在によるスクールカーストを素材とした群像劇であった。

別にあの作品を通して「ポストモダン状況的」であると言いたいわけではない。葉山隼人が意図的に中心の機能性を脱色しようと、関わらないようにしようと「回避」することですらも、消極的には関わってしまう「中心のジレンマ」があるのは、『桐島』でも桐島が作中で一度も登場しないにも関わらず、ドミノ倒しのような波及性という関わり合いを持つ作用と重なる。

葉山隼人のみならず、認識の固定化は「先送りの病」同様の弊害だろう。イメージを形成することで、ラベリングすることで一定性を獲得する。

後期では、前期で持て余したサブキャラの具体的な応答がある。それは比企谷八幡のミクロさと認識し得ない範囲に手が新たに届き始めたことを証明するものであり、イメージの刷新が求められる。

 

P232 

「隼人くんはきっとうまく避けるし、優美子もそれはわかってると思う。このクラス替えが理由で決定的に瓦解するってこともないんじゃないかなぁ」

(略)

「なるほど。えらく信用してるんだな」

「そういうことでもないけど……。隼人くんは誰も傷つけない方法を選んでくれるんじゃないかなって思ってるだけ。信用っていうより、勝手な願望だよ」

(略)

おそらく、以前までの俺であれば、海老名さんの言葉に疑問なんて抱かなかったに違いない。葉山隼人とはそういう人間であると、どこかで決めつけていたと思う。

ただ、今は違う。明確な、形のあるものではないけれど、それでも何かもやもやとした違和感が奥底で蟠っていた。

だから、聞いてみたくなる。

「なぁ。なんでそう思うんだ?」

「……みんなの期待に応えてくれるのが、隼人くんだから」

 

海老名姫菜による葉山隼人という人間評になるだろう。

期待に応えるように「回避」してくれる願望は、中心でありつづけることで衝突する問題だ。「みんな」の葉山隼人であることは、同時に「選べない葉山隼人」のイメージを維持することになる。

本当に見つけて貰いたい。分かって貰いたい。

葉山隼人は、期待に応えることと期待に応え続けないといけない。「みんな」の葉山隼人であることが、彼のアイデンティティであり、経験から導かれた最適解なのだから。しかし、それを「みんな」に見つけて貰えるものなのだろうかという問題が生じる。「みんな」は交換可能であり、責任を負うものでもないのは前述の通りだ。

現状、葉山隼人の選択肢が多いことが結果的に「選べない」ことにつながっているならば、選択肢を削ってあげることで選ばざるを得ない状況を作ろうとする比企谷八幡。これは平塚静比企谷八幡の会話にある「選択肢を増やしてあげることと削ってあげる」ことから引き継がれている。

ラソンという内省的空間が演出する、2人だけの対等な会話のシーンを引用する。

 

P283 

――君が思っているほど、いい奴じゃない。

その言葉を信じるなら、葉山隼人は、彼自身だけは間違いなく、自分のあり方に疑問を抱いている。自分ひとりだけは、そんな奴のことをいい奴だと思えずにいる。

誰も彼もが褒めそやすのは気色悪い。だが、それに応えてしまう人間がいるということがなお気味が悪い。悪辣なる虚偽で傲慢なる自己満足であると知りながら、それでも人の期待に応え続けるなんて、本当に気持ち悪い。

誰かが言った。自分を犠牲にするのはもうやめろと。馬鹿言え、他人の期待に応えるために、他人を傷つけないためになんて、それこそが自己犠牲じゃないか。

 

そんな状況の葉山隼人を認識できたのが、比企谷八幡である。

彼らは「選べない」という結論の一致において、選ぶものが多すぎて選べない人間と選ぶものを持てない人間の差異として一見決着(7巻)するが、しかし本当に葉山隼人は「持つ者」であるのかという懐疑が差し込む。 

選択肢を増やすことと削ることは、視界をクリアにする。

『桐島』は「ポジティブなあきらめ」が可能性を閉じていきながら大人になっていくことを示唆した。それは『俺ガイル』が醸し出す「大人観」から共通的といえる。

両作品において、最初から「持たぬ者」もいれば、ある程度「持つ者」もいる段階的な前提は共通的であり、その葛藤は両者の垣根を容易に飛び越えるものだと描かれた。

また、その差異は果たして本当に機能しているのかという問いも共通的であり、葉山隼人をパースペクティヴに見ていくことは、結果的に比企谷八幡も同時に認識していくことになる。そこに「持つ者」と「持たざる者」の分類はない。ある種の錯覚がもたらした結果の「持たぬ者」=何者でもない瞬間の実在性が、ただあるだけだ。

葉山隼人に接近することで彼を理解した気でいる、そんなフリをすることは容易い。「近いが遠い」事実は、葉山隼人比企谷八幡の遠近感となる。その中でも対等な関係性を演出することは、相対的に持ち上げて自分を慰撫する「ポジティブなあきらめ」による自己肯定と自己嫌悪の矛盾だろう。

この両者の遠近的葛藤は6巻と7巻の延長にあり、「みんなの葉山隼人」と「一人の比企谷八幡」が相似形として交差するゆえの認識となる。

比企谷八幡たちの捻れや面倒臭い状況も、葉山隼人たちも重なり通過している。共通的な道筋として「選べない結論が一致している」彼らが重なる時がある。この観点はリア充と非リアの融解を意味するだろう。

「文学的な意味」としては作中にある「第二の手記」が重要な鍵となるが、これはまとめで記述するとしよう。

 

P333 

「やっぱり、彼女は少し変わったな……。もう陽乃さんの影は追っていないように見える」(略)

「……けど、それだけのことでしかない」

「いいんじゃねぇの、それで」

俺は考えるまでもなくそう答えた。きっとそれは雪ノ下にとってひとつの成長だ。常に比較されてきたであろう、自分より優れた存在。その影を追い続けて、陽乃さんとは違うものを手にしようとして、あがいてきた証しだ。なら、誇るべきことだと俺は思う。

だが、葉山は俺を呆然と見ると、グラスの中身を苦そうに呷って、重々しく問うてきた。

「……気づいてないのか?」

 

葉山隼人の指摘は、雪ノ下雪乃雪ノ下陽乃に依存するのを止め、依存先を比企谷八幡にすげ替えたことを意味する。これは「共依存」への伏線となるが、この段階では当事者たちには不可視となっている。意識下されていないので、比企谷八幡にはしっくり来ていないシーンだ。

周りからみれば明白な事実のような語りが多いのは、主観と客観の差異を描いているためだろう。

外部からの視点は平塚静や読者であるが、それゆえにコミットできない。

主観的に沼にハマっていく彼らの「温存と停滞」の関係性の強化について揶揄するのは具体的には12巻の雪ノ下陽乃であるが、彼女とて完全な外部に、つまり成熟していないことを示す。それもやはり彼女の主観であり、一つの見方に過ぎないとされている。主観を持ち合わせる当事者と客観的な振る舞いが可能な周辺との差異が、当事者性と共事者性を並行的に形成し、物語における主観的な共感を生み出していく。

しかし、これもメタ認知へのバイアスをかける自意識の檻に閉じ込められてしまう物語の痛みであり、コミュニケーションを交わしながらも内省的に閉じていく所以である。

 

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。11 (ガガガ文庫)

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。11 (ガガガ文庫)

  • 作者:渡 航
  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 2015/06/24
  • メディア: 文庫
 

 

11巻はバレンタイン企画に纏わりつく甘い空間と違和感が主題である。

由比ヶ浜結衣の手作りの行方を比企谷八幡は知らない。それは1巻の最初の依頼から12巻につながる。

既製品か手作りか。重要なのは真心を込めたという気持ちであり、完成度ではないと述べたのは1巻の結論であったが、同じようなことを反復する想いは、つまり目的として真実であり、どちらが手段として「正しい」かどうかという話ではない。 

 

P17 

あの教室の、あの場所が暖かそうだったのは、暖房が近くにあったからではない。内側に入って、隙間をちゃんと埋めたからだ。

きっと、葉山が、そして皆が望んだように、劇的に終わることなどなく、穏やかに暖かに最後の時を迎えるのだろう。それこそ、世界や人生が終わる時のように。幸福や平和は誰かの努力によって保たれているのだと実感する。

あるいは彼らも彼女たちも、いくつかの冬を越えたことで経験則として春が来ることを理解しているのだろう。

暖かいだけではなく、その先にあえかな別離の待つ春。花に嵐の例えもあるぞ、さよならだけが人生だ。

 

葉山隼人たちを眺める比企谷八幡

彼らのグループの保全と暖かさは自分たちのグループにも重なっている。これまで相互に関わり、共通的な意識設定が見えていた2つのグループは、スクールカーストを超越して並行的に描かれてきた。そして、その2つのグループは違うルートに(「選ぶ」か「選ばない」かへ)入っていくのが、12巻からの流れとなる。

 

P60 

部室の様子はあのころからずいぶんと変わった。

薄くかけられた暖房やティーセットやブランケット、積み上げられた文庫本の数。椅子の数や物の配置。差し込む陽光の加減と壁に掛けられたコート。

春の終わりに冷たい色遣いだったあの部屋は気づけば暖かな色彩に満ちていた。

それが季節の移ろいによるものなのか、あるいは他の要因によるものなのかは判然とはしない。

 

 

P101 

そうして三人残されると、先ほど感じた懐かしさがより実感できた。

けれど、懐かしいと感じるのは、たぶんいろんなものが変わってしまったからだ。いずこかで同一性を失ってしまったから。二度と同じものを手にすることがないとわかっているから。

だから、懐かしい。

 

 ここでもう一度対比として5巻の一部を引用しよう。成長の実感はなくとも紛れもないミクロな積み重ねが見えてくる。

5巻P134

なぜ人はノスタルジーに惹かれるのだろうか。「昔は良かった」とか「古き良き時代」とか「昭和のかほり」とか、とかく過ぎた日ほど肯定的に捉える。

過去を、昔を懐かしみ愛おしく想う。あるいは変わってしまったこと、変えられてしまったことを嘆き悔やむ。

なら、本来的に変化というのは、悲しむべきことなんじゃないだろうか。

成長も進化も変遷も、本当に喜ばしくて正しくて素晴らしいものなのだろうか。

自分が変わらずにいても、世界は、周囲は変わっていく。それに取り残されたくないから必死であとをついていっているだけなんじゃないだろうか。

変わらなければ悲しみは生まれない。たとえ何も生まれなかったとしてもマイナス要素がでないというのは大きなメリットだと思うのだ。収支表を照らし合わせて赤字になってないならそれは経営方針としてはけして間違いではない。

だから俺は変わらないでいることを否定しない。過去の俺も、今の俺も否定する気はさらさらない。

変わるなんてのは結局、現状から逃げるためなんだ。逃げることを逃げないなら変わらないでそこで踏ん張るべきだ。

 

バレンタインチョコを作る企画が持ち込まれ、部室に依頼者が続出する中で一見するとハーレム状態な比企谷八幡の構図がある。決して全員の好意が彼に向いているわけではないが、客観的にみてボッチという状態から程遠いといった「日常系」のお手本のような微笑ましい空間が記されている。

キャラが入り乱れる状態は、それほどまでに依頼者が増えたという事実と、それだけ誰かの背中を押してきたという経験の関わり合いを指す。ノスタルジーを遠めに見つつ、毛嫌いしていた比企谷八幡でさえも、ノスタルジーに浸れるだけの環境があれば甘んじる。

前期のボッチであるがゆえの自意識のマッチョさは、後期では空転しながらも結果的にに相互に関係を築き上げてきた(まちがってきたからこそ)変化に自覚的でなくても、自意識の許容できる領域の緩和が生じている。具体的には9巻から「本物」という目標を設定したことで、その上で双方的に関係を温めていく(共同性の獲得)。「まちがえ」たくないから。この温存性という「今だけ」の「日常系」の欺瞞を告発する流れが後期『俺ガイル』の反転となるが、それは後述する。

 

P68 

「そう、かな……。あはは……。あたしらしい、か……」

一色の言葉に由比ヶ浜は困ったように笑うと、少し沈んだような表情を見せた。

褒められて照れが入った、というわけではないのだろう。あるいは、それこそ葉山隼人と同じような、優しさゆえの、気遣いゆえの息苦しさによるものかもしれない。

 

優しさの履き違えにあるように「依存と信頼」は別のレベルである。

それは、由比ヶ浜結衣雪ノ下雪乃のイメージを食い破り、「日常系」では覆い隠されてもおかしくない純粋性にくっ付く厭らしさを両義的に遠近法的に眺めていくことで達成される。単に優しいのではない。自覚的であろうがなかろうが「甘える」ことで積み重なってきたミクロな関係性は、その都度ほんの少し中心からズレていってしまう。由比ヶ浜結衣の優しいだけではない側面や一色いろはの年下ポジションを「お兄ちゃん対応」でやる比企谷八幡の身勝手さと甘さは、無意識的であるにしても相互の解釈の受け取り方の違いを誘発させてしまうように。そんな齟齬は度々「本物」から離れていき、一方で無意識体な「甘さ」を引き立てる。

11巻にある「日常系ラブコメ」のような関係性は、1巻からの時間の歩みを感じさせることだろう。同一的な反復性とそこからの前進によって変化しながら構築されてきた関係性は、暖かさと懐かしさを生んだ。それは上で引用したようにボッチであった比企谷八幡の経験にはないものであり、その判断は正確にはつかない。だからこその違和感として「本物とは」を問い続けることになる。

まるで「まったりしたラブコメ」は「日常系」の本懐であるにも関わらず、「本物」を目指すからこそ違和感が差し込まれてしまうのは葉山隼人たちならば違和感を飲み下すことが正常だろうが、これは比企谷八幡たちの物語であるから、違和感を抱いてしまう=「まちがっている」ことが正しい態度とも言える逆説が成立しているのは見逃せない。

 

P187 

「違和感がある、か。……その違和感を忘れないでほしいなぁ」

(略)

「それはれっきとした成長の兆しだと私は思うんだ。大人になるとそういうのをうまく流してしまえるようになる。だから、今、その違和感をきちんと見ていてほしい。大事なことだよ」

「大事なものは目に見えない、とも言いますけど」

(略)

「目で見るな、心で見るんだ」

「考えるな感じろ的なことですか。フォースじゃないんだから……」

(略)

「逆だよ。感じるな、考えろ」

 

日常における成長の実感のなさは、自然と受け流してしまう「変わることと変わってしまったこと」の違和感を大人側から述べる平塚静。その疑いを流すのが大人の成熟であるならば、考え続けることこそが「イマ・ココ」のミクロな違和感への最大のコミットメントになると諭す。アイロニカルではなく、無様を晒しながら「マジ」の態度こそが違和感と向かい続けるための道であるなら、前期と後期の変化は「マジ」として自意識に囚われ続けた結果の産物だろう。

この現状を楽しいと呟く比企谷八幡

同時にチョコを食べられるくらいには作れている由比ヶ浜結衣の成長も描かれ、最初の時間からの進歩を感じさせる。

 

P212 

「それが比企谷くんのいう本物?」

言われた瞬間、ぞくりと背筋に寒気が走り、思わず陽乃さんから顔を背ける。だが、陽乃さんは逃げることを許さず、一歩俺と距離を詰めた。

「こういう時間が君のいう、本物?」

 

安易なラブコメに落とさないから『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている』になるわけで、関係性の停滞が突き付けたのは保全的なハーレムエンドの欺瞞になるだろう。経験していないものを目指す中で「本物」への違和感を流してしまうのが成熟であると平塚静は言ったが、「イマ・ココ」の違和感を抱き続けることから目を逸らすのは比企谷八幡の潔癖が許容できない。その違和感から遠ざけるのは「本物」を求める理由に水をかけることになってしまうからだ。この違和感が12巻の主張への助走となっていく。

 

P223 

自分自身でさえ、それが自分らしさだと言えないのなら。なら、本物は。本当の俺たちはどこにいるのだろう。そんな人間にどうして、関係性を規定することなどできるだろう。

違和感と、そう名付けてしまったらそうとしか思えなくなる。

きっと、この感情も関係性も定義してはいけなかったのだ。名前を付けてはいけなかった。意味を見出してはいけなかった。意味づけされたら、他の機能を失ってしまうから。

型に当て嵌めることができたなら、きっと楽だったのにそうしなかったのは、知っていたからだ。一度、形作ってしまえば、後はもう壊す以外に形を変えることなんてできないことを。

壊れないものを求めたがために、それに名前を付けるのを避けていた。

 

名前を付けること、型に嵌めることで固定的になることへの恐れに対して、型に嵌めないまま意味を宙吊りにする抽象化によってリスクを回避しようとする心理がある。それが選ばない関係性の「温存=停滞」だった。

「本物」へのロマンだけであれば「日常系」に擬態できたが、違和感がそれを逃がしてくれない。「まちがって」いるからこそ隠蔽されている裂け目を暴いてしまう。なぜなら「本物」を求めることが目的であるのに、共同性だけが培養されることは「本物」になり得るのかという問いが立てられてしまうだ。このままの関係性であることを許さない「本物」を求める潔癖な自意識の純粋な捻れは、現状維持を選択した葉山隼人たちとの相対化となるだろう。ゆえに「本物」を求める転倒が青春の味わいともいえる。それを受け流せない瑞々しさがある。

もはや「まちがい」続けたからこそ辿っている「まちがい」の王道ルートのような心地は、やはりラブコメとしては「まちがって」いるだろうが(その欺瞞に目を瞑ることも可能だからハーレムエンドは成立する)、潔癖的な青春の葛藤や自意識の檻からすれば王道となる。邪道から王道への転倒といってもいいだろう。その転倒はマクロにみれば『俺ガイル』が描いてきた着地点としてのラブコメへの批評性に通じていく。 

 

P260 

積極的には近づかず、けれど、自分から引くようなこともせず。

意識して、明確に線を引いて、はっきりと蓋をして、いつもより鈍らせて、もの思わぬようにして、賢しらな観察者たらんときわめて自覚的に卑怯な立ち位置を取り続けた。

抱いてしまった違和感を、違和感だと認識しないように、距離を保とうとしてきた。

それは、ただまちがえないようにするためだけの行為で、たったひとつの正解なんかじゃないことはよくわかっている。なのに、それを飲み下そうとしている。

だから、あの人には見透かされてしまったのだろう。

また、身の内から俺を苛む声がする。

そんなものが比企谷八幡か。そんなものが貴様の願ったものか。

 

3人揃って水族館デートをするシーン。

水族館では魚の生態をキャラの比喩として描かれている。目の前の生物とそれに触れる彼らの関係性が静かに浮き彫りになり、抱き続けてきた違和感の正体の具象化のように、千葉に雪が降る非日常的な空間が印象的である。

 

P292 

どうやらその解説を見るに、二羽で寄り添っているペンギンたちは夫婦なのだそうだ。飼育下のフンボルトペンギンは多くの場合、どちらかが死んでしまわない限り、同じパートナーと連れ添い続けるのだという。

 

P296 

「寄る辺がなければ、自分の居場所も見つけられない……。隠れて流されて、何かについていって、……見えない壁にぶつかるの」

 

自分がない雪ノ下雪乃

誰かに依存することで自分を見出すような構造は「持つ者」なのに「持たぬ者」への転倒と空虚さを描く。「選ばない」のではなく「選んでこなかった」のは、比企谷八幡葉山隼人雪ノ下雪乃の相対化となり、結論として「選べていない」ことが一致する。

 

P239 

「……雪乃ちゃんに自分なんてあるの?」(略)「雪乃ちゃんはいつも自由にさせられてきたもんね。でも自分で決めてきたわけじゃない」

 

これは雪ノ下陽乃が指摘したシーン。この「依存性」が起点にあると彼女は、彼らの関係性に名前を付けるのが具体的には12巻(共依存)であり、比企谷八幡が抱く違和感の正体となる。名前を付けることを恐れ、覆い隠していたものを暴くことは「本物」を求める道理としては適っているが、その違和感を抱き続けることをあきらめるのも一つのやり方でもある。それが大人の態度となる。

しかし、彼らは許容しない。

「文学」の「昼と夜」を揺れるように「大人と子ども」を揺れる過渡期であるからこそのモラトリアムにおける違和感のニュアンスを瑞々しく捉えた結果が描かれる。

 

P305 

いつも通りの会話で、日常の空気で、俺たちらしいとそう言えると思う。なのに、足下は不確かでぐらぐらとしている。

観覧車は段々と高度を下げていく。

不安定を偽りながらゆっくりと回り続ける。前へ進むことはなく、ただ同じところをいつまでも、ぐるぐると。

 

水族館の回遊と観覧車は循環の比喩である。どこにも行けない。踏み出すこともない違和感の正体を突き付けるかのように、温存性という虚偽への比喩となっている。『俺ガイル』の反復性から生じる循環的構造がそのまま表現されている。 

そこから移動して次のシーンのオーシャンビューのテラスは、違和感や願いを白日の下にさらすために相応しい剥き出しな場所である。

 

P316 

由比ヶ浜結衣は優しい女の子だ。そう勝手に決めつけていた。

雪ノ下雪乃は強い女の子だ。そうやって理想を押しつけていた。

そう言って、ずっと甘え続けてきたのだ。でも、だからこそ、委ねてしまってはいけない。その優しさに逃げてはいけない。その優しさに嘘で返してしまってはいけない。(略)

「……それに、そんなの、ただの欺瞞だろ」(略)

「曖昧な答えとか、なれ合いの関係と……そういうのはいらない」

欲しいものは別のものだ。(略)

こんなの正しくないってわかってる。楽しいと、そう言えるならそれでよかったのかもしれない。ありえた未来や綺麗な可能性を想って過ごせたなら、誰も苦しくなんかならないだろう。

それでも、俺は理想を押しつけたい。微睡みの中で生きていけるほどに強くはないから。自分を疑った末に、大切に思う誰かに嘘を吐きたくはないから。

だから、ちゃんとした答えを、誤魔化しのない、俺の望む答えを、手にしたいのだ。

 

 

P317 

けれど、たぶんその形はほんの少しずれていて、ぴったり重なり合ういはしないのだろう。

だからといって、それが一つのものにならないとは限らない。

 

P319 

やがて、海へと沈む薄暮れの夕陽が白のキャンバスに影絵を映す。

それはぼんやりとしていて頼りなく、歪な形は輪郭も判然としない。

けれど確かに結ばれて、ちゃんと一つになっている。

もしも、願うものに形があるなら。

それはきっと――。

 

一連の独白を引用したが、それぞれの願いを告白しながらも、具体的な固有名を言語化せずに進む応答は、名前を付けること=現状への抵抗だろう。

具体的には一つの言葉で済ますことも可能でありながらも、それを避けることでコミュニケーションの欲求がディスコミュニケーション的に転倒している。これはコミュニケーションの不一致性と不可能性を意味し、一つの型にハマることとは限らない現実の複雑性を言葉に託すしかない祈りと現状の距離そのままだろう。一言で言えばいいのに言い切れない単純化の拒絶は『俺ガイル』の迂遠な「まちがい」が生んできた物語構造そのままである。

夕陽が落ちる際の影絵のように輪郭がぼやけていながらも、一つの像として結ばれている抽象性は、比企谷八幡が抱くコミュニケーションの捻じれの地平にある「本物」の形であるのは確かであるが、彼女らの想いが一致しているとは限らないのも可能性としてある。

しかし、それでも「本物」であるならば、その不可能性を超越してしまえるのではないかというロマンが抽象的であるがゆえに成り立つ。本当に存在すれば、の話であるが、そのディスコミュニケーションを誘発しやすい純粋ゆえの捻じれは、コミュニケーションを希求してやまないためにメビウスの輪のような表裏一体的な形として成り立つ。

 

P312 

何一つ、具体体なことは言わなかった。口に出してしまえば、確定してしまうから。それを避けてきたのだ。

うっすらと、ぼんやりと、その事実に名前を付けないままに彼女は話す。だから、俺と由比ヶ浜と雪ノ下の思い描く事実がまったく同じものだなんて保証はどこにもない。

けれど、このままではいられないという、その言葉だけは真実に思える。

 

 

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。12 (ガガガ文庫)

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。12 (ガガガ文庫)

  • 作者:渡 航
  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 2017/09/21
  • メディア: 文庫
 

 

P11 

言わなければわからない。言ったとしても伝わらない。

だから、その答えを口にするべきだ。

その選択を、きっと悔やむと知っていても。

――本当は。

冷たくて残酷な、悲しいだけの本物なんて、欲しくはないのだから。

 

「本物」を選択することで生じる純粋ゆえの歪みや一定の暴力性に目を瞑ることは、それも「先送りの病」に回収されてしまう。そのモラトリアムと抽象的ロマンとの対峙が後期が抱える「本物」を巡る自意識の表れであるならば、歪みを歪んだままにすることができない潔癖の論理も罷り通り、だからこそ冷たくて残酷な現実=痛みと向き合い続けなければならない。

9巻から「本物」という目的を辛うじて一致させながらも獲得した共同性の違和感=欺瞞を告発したのが11巻であるが、その壮大な願いは同時に呪いにもなり、許容できないがゆえに自分たちを傷つける現実と理想の齟齬が剥き出しとなる。

 

11巻P314

歪なものを歪なままにしておくことは、正しさたりえるのか。それが、希ったものの正体なのだろうか。

 

 

12巻の冒頭、後期で蓄積されてきた温度と距離感の描写が丹念に描かれている。6巻以降の紅茶が代表的であったが、人との僅かに意識してしまう接触による温もりもあり、まるで雪のように溶けてしまいそうな心地よさは、時が止まったかのようにしんしんと雪が降った千葉の非日常性を映している。

 

P16 

一昔前は百円で買えたという温もりよりも、わずか一瞬、布越しで膝に触れただけの三十六度のほうがよっぽど熱かった。(略)

どこまで近づくのが正しい距離なのか、結局今になっても俺はわからずにいる。

だから、ここまでは大丈夫。もう一歩まで許されると、そんなことを思いながら、ゆっくりと歩み進めた。

それこそ、この一年間のように。

 

1巻から手作りの姿勢=真心を説いてきた『俺ガイル』の総括や反省のような思い出語りが静かに行われるシーン。「先送りの病」への反省をすることは、自覚的に現状という「温室=停滞」から抜け出すことを図ることとなる。

 

P35 

結局、いつだって勝敗らしい勝敗がついたことなどなくて、いつも曖昧な結果ばかりで、すべては藪の中。

それでも、その曖昧さを排して、たとえ、まちがっていたとしても、失ってしまうとしても、俺の答えを俺たちの答えを出すのだと決めたのだ。(略)

本当にいいことは何一つ、言わずに。

恣意的に、意図的に。それを話さないことで、そこを気にしているのだとすぐにわかってしまう。

それは俺たち三人とも、自覚しているのだと思う。

 

しかし、足掻いて藻掻いて苦しんだ一年は無駄ではなかった。

それによって作られた関係性のミクロなドラマと「イマ・ココ」がある。「まちがって」きたからこその今があり、その手続きを物語ってきたといえよう。

ここまでの軌跡を振り返り「先送りの病」への要素を抽出することで自分たちの現実を立ち上げることは、最終的な依頼や願いは自分たち自身のことであると11巻で由比ヶ浜結衣が述べた通りだ。

 

P41 

結局のところ、俺はありとあらゆる解答も解決も結論も求めてはいない。きっと解消されることを望んでいた。目の前の課題問題難題が有耶無耶のうちに雲散霧消する曖昧模糊とした終わりを待っていた。

おそらく俺たち全員がこのまま何もかもがなかったことになるのを無意識に願っていたのだと、手前勝手にそう思っている。(略)

だって、微睡みのような、あるいは真綿で首を絞めるような、そんなまだらに幸せと不幸せが入り混じった時間を俺たちはともに過ごしてきたのだから。

だが、それが叶わないことを知っている。(略)

過去の俺はこんなぬるま湯のような状況を嘲笑うだろう。未来の俺はその答えとも呼ばない結論を許しはしないだろう。現在の俺は正しさの何たるかを知らぬまま、それでもまちがっているという実感を抱えている。

 

「先送りの病」に対して、一方的に思い出語りだけで果たしていいのかという疑問はある。なぜなら「先送り」にされた対象の不満、美しさや満足感に隠蔽して偽ってきた「まちがい」について、再確認することで自覚的になることでなお共同性の温存に集約されてしまう罠は、アヴィーング・ゴフマンの冷却理論や宮台真司の共振的コミュニケーションが代表例だろう。それすらも共同性に回収され、コミュニケーションのためのコミュニケーションを助長させてしまう。

それでも、彼らは「まちがっている」違和感という実感を抱えているからこそ、その欺瞞を受け流すことができない。それが比企谷八幡の潔癖的たる所以だからだ。

降り注ぐ雪のように霧散して、解消する都合のよい優しい時間ではなく、選択する冷たくて残酷な「本物」という未来を見ること。「先送り」にした結論への答えを見ること。

表層的に遣り取りするのは紛い物であり、「本物」ではない。「本物」が美しく欲するがあまりに、傷つけてしまう現実と理想の乖離への恐れも抱えながら「決断」していくまでの長い助走である。

 

P45 

星々の光は何十光年も離れた遠い過去の光だ。今この瞬間、存在しているかどうかもあやふやな光、だからこそ、ことさらに綺麗に見えるのかもしれない。手に入らないものや失ってしまったものは美しい。

それを知っているから、手を伸ばすことができない。きっと触れた瞬間に色褪せて朽ちてしまう。そも自分程度で掴めるものがそんなたいそうなはずがないと、自分で理解しているのだから。

 

しかしそれで自分を騙すのではなく、孤独を肯定してきた自分を起点に捻じれていった自意識の檻に囚われるように「まちがい・先送り」にしてきた現実と向き合うための道筋はひどく循環的であったが、「先送り」にしない、諦めない、偽らない「決断」への迂回路は循環構造から純粋培養されたルートだったと言えよう。

 

P48

「でも、ちゃんと言うべきだったんでしょうね。それが叶わないとしても……。たぶんきちんとした答えを出すのが怖くて、確かめることをしなかったの」(略)

「だから、まずはそこから確かめる……。今度は自分の意志でちゃんと決めるわ。誰かに言われたからとかではなく、ちゃんと自分で考えて納得して、……諦めたい」(略)

雪ノ下の中にあるのはこれまでもずっと諦観だったのだろう。ただ、それが確定されなかったからそのまま抱きしめ続けていたのだ。

 

 雪ノ下雪乃は父の仕事がしたかった。しかし姉がいるから、それは適わない。いつだって決めるためのイニシアティブを持つのは母。そのため役割を固定されてきた姉と自由だった雪ノ下雪乃。そんな姉を真似て振る舞い方を決めることでしか妹として確立できなかったことが要因として依存構造を生んだと解釈される。自由であることは難しいから。自由にやってもいいと言われても、何をどうすればいいのかは分からないものである。何かしらの目安となる尺度がなければ、自由という枠に制限を掛けることができないからだ。

雪ノ下雪乃は対象の振る舞いを模倣することで、つまり主体体を委ねることで「依存」という性質が生み出されていったとなるだろう。

それでも雪ノ下雪乃は、自分の意思で決めて諦めたいと言う。それでもやりたいという願いは、依頼として自立ができるように見届けて欲しいというものだった。

もちろん諦めて終わってもなお色褪せないまま残る意思は限りなく「本物」だろう。また歪んで壊れてしまうのが「偽物」であるという見方ならば、その違和感そのままを受け流すのが成熟だろうか。違和感を飲み下し、決断しないことは「先送りの病」そのものだ。その「先送りの病」への処方箋は決断することでしかない。「イマ・ココ」だけではない未来を問うことようにして。

「家」の問題について触れる姉妹に対して、それを眺めていることしかできない比企谷八幡由比ヶ浜結衣。踏み込めない事情に対して当人の背中を押すことはできるが、その間は観ていることしかできない。行く末を見届けるという雪ノ下雪乃の依頼に出来ることは僅かしかない。見てくれる人がいるから諦めることができる。そんな決断も「本物」なのだろうが。

 

P88 

「そうやってたくさん諦めて大人になっていくもんよ」

「はあ、そうですか……」

世界を狭めていくことはきっと大人に近づくことだ。いくつもある選択肢を削って、可能性を潰えさせ、より確かな未来像を削り出していく。

 

温かな光と冷たい影を落とす風景に照射される雪ノ下陽乃の両義性は、まるで掴めそうで掴めない意図の宙吊りそのもの。これまで完璧超人のように描かれてきた雪ノ下陽乃も、葉山隼人らと同様に「健全」に成熟を迎える段階を踏んできたことが窺える。作中ではトリックスターのような扱いであるが、「機械仕掛けの神」では決してない。

 

P89 

「君とは違うの。君は、いつも『お兄ちゃん』してるけど」

 

お兄ちゃん気質の比企谷八幡の無自覚さの露呈は、ここが最初だろう。結果的に依存を引き受けることと甘やかしの引き金となっている。無自覚に「お兄ちゃん」で防御する処世術は、のちに一色いろはに看破されるが、その「過保護」であることが「共依存」つまり11巻のフンボルトペンギンを彷彿とさせる。

 

P92

「どんなにお酒を飲んでも後ろに冷静な自分がいるの。自分がどんな顔をしてるかまで見える。笑ったり騒いだりしても、どこか他人事って感じがするのよね」

今、この時でさえ、陽乃さんの言葉はどこか他人のことを述べているような距離感のある響きを伴っている。彼女自身のことなのに、ひどく客観的に思えて、主観の在りどころかが曖昧だった。そのせいで、問わず語りに徒然と紡がれる言葉には、嘘と本当がまだらに入り混じっているように思えた。

 

酔えない雪ノ下陽乃メタ認知への自覚。どうしても客観的であってしまう理性によって主観が抑圧されてしまうような間主観性への表れは、つまり客観と主観の齟齬として『俺ガイル』の根幹を支えてきたものだ。

アイロニカルな一人称を受けて、自意識の檻や「先送りの病」、自己犠牲への批判といった主観的には「まちがえていない」ものが「まちがっていた」ことが露呈してきた積み重ねが間主観性や自己像としてのモザイクを構築していくが、それもまた理性や自意識に絡め捕られるように自己像を更新していく循環的な文脈依存である。

メタ認知によって他人事のようになってしまう。違和感を流してしまえる大人として雪ノ下陽乃は比較的に年齢が近いキャラとして描かれてきた。諦めることで捨てていく。酔えないことは、徹底した客観的な現実主義であり、ある種の打ちひしがれたあとの立ち上がり方とも言えるだろう。それは「本物」を欲しながらも、現実主義的に根付いてしまう客観性の産物である。

 

P99 

ほんとはずっと昔から気づていた。

あたしが入り込めないところがどこかにあって、何度もその扉の前に立つけれど、それを邪魔しちゃいけない気がして、ただ隙間から覗いて聞き耳を立てることばかり。

ほんとはずっと昔から気づいていた。

あたしは、そこへ行きたいんだって。

それだけのことでしかなくて。

だから、ほんとは。

――本物なんて、ほしくなかった。

 

12巻に挿まれている断章はそれぞれの「本物」への態度が表れている。上に引用したのは由比ヶ浜結衣であるが、ズルいことを自覚する彼女の優しさを、彼女らしいとパッケージ化するような主観的に「都合のよい優しさ」とだけを解釈するのは違うことが示されている。ここでも言葉や意思とは異なった解釈の捻じれが起き、「本物」を巡る目的性や共同性において前者だけを漂白し、後者を温存する現実における転倒がある。

 

11巻P287

「……あたしらしいって、なんだろね?」(略)

「……あたし、ヒッキーが思っているほど優しくないんだけどな」(略)

俺はいったい、何をもって彼女らしいと、由比ヶ浜結衣らしいとそう言ったのだろう。

 

本人の意思とは離れたところで解釈される自由のオープン性による伝達可能性と不可能性のむず痒さが葛藤としてある。コミュニケーションを交わす一方で孤独を感じる。「絶対的な分かり合えなさ」が起点としてある中で、奇跡的に噛み合う刹那的煌めきは「日常系」の極北として『リズと青い鳥』が描いたが、応答における可能性と不可能性と孤独を飼いならすことで揺れる心理や意味はコミュニケーションが持つ魅力そのものだ。

それこそが「文学」が抱えてきた他者への「祈りと錯覚」であるに違いないと考える。

 

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「先送り」しないことを決断した雪ノ下雪乃の「家」の事情に関わらず、見届けるのは観察者の位置である。当事者ではないのだから。

しかし、共事者であるならば、その反転は14巻に込められているので後述しよう。

由比ヶ浜結衣と教室から一緒に部室へ行くのも恒例となった。目立つ彼女と共に行動することで、目線が気になる比企谷八幡の自意識過剰さは5巻の相模南との邂逅から変わらない。ただ変わったのは、誰も自分を気にしていないという事実が気楽であり、他者はそれほどまでに興味を持たないことが自意識過剰を抑える。

比企谷八幡への目線も、由比ヶ浜結衣への目線も違和感なく日常的に溶け込んでいる。

単にカースト上位とラベリングしていた頃よりも「理解」ではないが個別的に接触し、「知って」いた葉山隼人らの存在。カースト上位が最底辺を見下すわけでもなく、最底辺からの羨望とルサンチマンが認識を歪ませるだけでもない。スクールカーストといった単なるレッテルには収まりきらないかのように、幾度となく本質的な葉山隼人らとも時間を過ごしてきたのは記した通りだ。

 

P211

校舎に蟠る夜闇に廊下はしんしんと冷え込み、扉一枚隔てただけでまるで別の場所に思えた。

けれど、肌で感じるこの冷たさこそは、この部室が心地よい空間であったことの証明。

仕事として請け負わない以上、明日からは俺がここへ来ることもなくなる。そう思うと、いささか名残惜しい。

けれど、きっと、自立とはこういう類いのものなのだ。小町の穏やかな兄離れのように、ちょっと寂しくて、誇らしい。だから、これは祝福すべきことだ。

大事なものをそこへしまうように、かちゃりと鍵がかけられた。

その鍵は彼女だけが持っていて、俺は触れたことがない。

 

部室の鍵は常に雪ノ下雪乃が持って来ていたことを知り、代わりに取りに行く比企谷八幡。その結果も「すれ違い」が起きる。

依頼が来るのを待つ受動的なものとは異なり、能動的な行為=鍵を持つことから開けるまでの前進を感じさせる。明らかに自分の居場所への自覚があり、鍵に触れたことがない事実は居場所として掻き立てる主体性を求める行為に近い。そして、まだ鍵を持ったことがないままデタッチメントに転換する。

 

引っ越しの手伝いをした由比ヶ浜結衣雪ノ下雪乃の遣り取りに表れる照れ笑いと困惑の様子は、断章を受けてみると複雑であることが分かる。その心中を雪ノ下雪乃比企谷八幡は気付くことができない。読者のみが共有できるようメタテクストな読み方として導かれ、言葉と感情が裏腹な「すれ違い」が生じているのが分かる。その真意を伝えていないのだから、伝わるはずはなく、彼らに分かりようがないのは事実であるが、目に映るように表れている行為や仕草が真実とは限らないのも事実である。

由比ヶ浜結衣の複雑な胸中は、比企谷八幡の与り知らぬところで独立したものであり、それゆえに12巻ラストで彼が「まちがった」感覚を持ちながらも走って行った結果と、察しながらも彼女が引き止めないことは両立できてしまう。 

 

P358 

涙が止まってくれてよかった。(略)

あたしが泣いてしまったら、彼はここから動けないから。

だから、涙が止まってくれてよかった。(略)

全部、彼女のせいにしてそうしなかった。

彼女が彼に依存したみたいに、あたしは彼女に依存したの。

全部押し付けてきたのはあたしのほうだ。

だから、これでいいはずなのに、今もずっと涙が止まらない。

涙が止まらなければよかった。

 

12巻から14巻のメインはプロムの発案と実行に至るまでのプロセスにある。

雪ノ下雪乃の自立を促す恰好の舞台であり、まるで9巻の独立的に引き受けた比企谷八幡を彷彿とさせる反復性がありながら、彼女の自由意思と決断が色濃い。

彼女の依頼にあったのは「自立してできるかどうか」を見届けることだったので、奉仕部への用事がなくなる。その鍵を掛けることで閉じ込められる安寧的空間。鍵を持つ雪ノ下雪乃と持ったことがない比企谷八幡の対比は「動機の不在」となる。彼女が一人でやりたいと引き受けたのを観ている側の立ち位置は、彼女の依頼のままであり、望まれた形である。

依頼=目的という受動的な姿勢でしか動けないのだから、自然と部活動がない日常を送ることとなる。宙ぶらりんの日常性における比企谷八幡の変化は、奉仕部から彼を見るのではなく、部活動を排した上での彼の変化をみることとなる。それは当たり前だった部活以前の日常であり、部活動を通して変化してきた日常から部活を差し引いた違和感だろう。

 

P249 

「前から思ってましたけど、先輩って……」(略)

「過保護」

 

比企谷八幡の「過保護」を「お兄ちゃん気質」と評する一色いろは。「お兄ちゃん気質」は相手を正確に見ていないことを指摘される。「お兄ちゃん気質」を受けやすい対象の年下だからこそ言える役割であり、比企谷八幡の「過保護」の正当化と危うさをこの時点で暗示している。

つまり、依存先と依存を引き受ける役割分担である。

 

プロムの動画作りは、輸入的イメージをローカライズすることでハードルを下げる試みがなされる。いわば抽象的なイメージを実践することで、具体的なイメージとして経験に落とし込む作業だろう。型に嵌めれば分かり易い。言葉やイメージに嵌め込むことで現実の複雑性を単純化して認識することができる。

しかし、西田幾多郎の「純粋経験」にあるようにその過程で言葉やイメージから本質的な直観は零れ落ちていってしまう。

また、言葉が思考の限界という言葉にもあるが、言葉の消費でしか掴めないものであるがゆえに言葉への過剰な評価もまたバイアスをかけてしまう。言うならば『俺ガイル』が文学性に込めた祈りと呪いは「言葉と認識」へのアプローチそのままだろう。

 

P315 

実際、手作りというアイデアは悪くない。貰った側の心に強く訴えかけるものがあるし、何よりも手間暇をかけてくれた事実に胸を打たれる。それが憎からず思っている相手であれば、なおのこと。

本当に、心が揺れる。

 

由比ヶ浜結衣とインテリアの雑貨を眺めるシーンでは「本物」なのに作り物みたいな違和感が述べられている。よく出来ているには違いないが、それは交換可能であるためだろう。誰にでも置き換えることができ、匿名的でもある。この雑貨のシーンでいえば、生活感といった馴染んだ性質が「本物」であり、人の手による味わい(真心=オリジナリティ)をもたらす。つまり匿名的ではない固有性である。

一方で「本物」は交換不可能であり、固有的なものだからだ。手作りによる真心は1巻の反復であるが、由比ヶ浜結衣からの提案というのが状況の変化を示す。

 

そしてプロムの企画に問題が浮上する。

保護者の懸念が上がり、昨今のインターネットにみる炎上同様に、健全的であるのかどうかといったポリコレ的目線が突き刺さる。一般的な高校生らしさから乖離した現実的な疑念として。

雪ノ下母が持ち込んだメッセージに対して説得させるべき相手、働きかけるのは外部の大人たちであり、手練手管に「中止」という結論に誘導していく。最初から設定された結論ありきの問題提起に話し合いの余地はない。発案的にもプロムはプロムありきから出発しているために、プロムを行う有用性を問われると脆弱的であるからだ。つまり目的性の弱さを突かれている。

大人たちの表立った意見は好意的であれ、その表に出ない声や最小的意見を見ないフリするのは違うと諭す雪ノ下母。ノイジーマイノリティであろうが「空気」を読まないフリするのは不自然であるという「空気」が醸成されようとしている。その「空気」に対しての話し合いであれば、落とし所を探るのが議論であるが、結論ありきの場において落とし所すら見つからないのがこの現時点であり、先方に説得力を持たせるための論理構築は不可能な「空気の支配」が描かれている。

矛先を変えることだけが現実からの逃避は、これまでの「先送りの病」に通じる。

しかし、きちんと成立させれば実績になるのが、結論から出発している場の違いだろう。

 

P336 

「……まだ『お兄ちゃん』するの?」(略)

「雪乃ちゃんが自分でできるって言っていることに無暗に手を貸しちゃだめだよ。君は雪乃ちゃんのお兄ちゃんでもなんでもないんだから」

 

比企谷八幡の「お兄ちゃん気質」は頼る・頼られることを「依存」という形で歪めてしまう。これも「先送りの病」のように主人公ゆえに捻くれた意思決定が通り、優秀であるはずの雪ノ下雪乃が「先送り」にされた結果の信頼と押しつけ(甘え)を「依存」と評している構図が引かれている。 

 

P339 

「じゃないと、私、どんどんダメになる。……わかってるの、依存してること。あなたにも由比ヶ浜さんにも、誰かに頼らないなんて言いながらいつも押し付けてきたの」(略)

「違わないわ、結果はいつもそうだもの。もっとうまくやれると思ったのに、結局何も変われてない。……だから、お願い」

 

諦めて大人になると『俺ガイル』は描写し続けてきたが、それは違和感を飲み下すことと同義だった。

理想を求め、違和感が差し込まれる度にあきらめて現実主義に転化する相対化と「空気」(匿名性)は「本物」(固有性)とは対称的だろう。それが掴めるかどうかの抵抗自体が理想主義的であり、過渡期にある実存の淡いが生に表現されている。

 

P291 

受験という言葉ほど、俺たちが何かを諦めるのに最適な言い訳はない。おそらく就職という言葉も同様の意味を持つ。夢とか趣味とか部活とか、そこから先へ広がっていたはずの可能性を一度きちんと鋳潰して、世に求められる大人という鋳型に入れ直すのだ。

だからこそ、その前に。世界に、流されて、均されて、何かを無くされてしまう前に、挑み、抗い、あがいて何者かになるための片鱗を掴もうとする。

 

雪ノ下陽乃は「共依存」と名前がなかった関係性に名前を付けた。

優秀な雪ノ下雪乃に頼られることが嬉しいだろうと。過保護に引き受けて、相互承認関係となり、対象が優秀であればあるほどに有意性を感じるだろうと。

10巻で葉山隼人に問われた際に、依存先の挿げ替えを気づかなかった比企谷八幡。彼の「お兄ちゃん気質」が無意識であったためであり、それを指摘されたのが12巻であった。

主観における意識下とは違う領域で独立しているはたらきを認識できるのかどうか。それは否である。例えば今、世界の裏側で木が倒れたとしても、それを認識することはできない。その状況を鑑みて、間主観性やコミュニケーションを構築していくことでしか探ることはできない。

ここに描かれている互いの主観の意味や意識の齟齬が、温室的な関係性を「日常系の欺瞞」として告発したのはいうまでもなく「本物」が引き金である。抽象的であるがゆえに共同性を育むことに支障はなかった。本当にあるかどうかも分からないものを見つけていくこと自体が、有限性を先延ばしにしているからだ。その間にも共同性だけは確実に温存されていく罠は目的性の抽象度が高いほど比例していく。

 

P346 

共依存っていうのよ」(略)

「ちゃんと言ったじゃない、信頼なんかじゃないって」(略)

「あの子に頼られるのって気持ちいいでしょ?」

蕩けた声が耳朶を打ち、頭蓋が痺れる。(略)共依存共依存たる所以は依存する側だけにあるのではなく、依存される側のほうにもあるのだと。曰く、他者に必要とされることで自分の存在価値を見出し、満足感や安心感を得ていると。(略)

何度も教えてもらっていた。甘やかしている自覚がないのかと指摘された。頼られて憂いそうだと言われていた。その都度、お兄ちゃん気質だと仕事だから仕方ないのだと、嘯いて。

羞恥と自己嫌悪で吐き気がする。なんと醜く、浅ましいのだ。孤高を気取りながら、頼りにされれば満更でもなく、あまつさえ愉悦を感じ、それをして自身の存在意義の補強に当てるなどおぞましいにも程がある。無意識に頼られる快感を覚え、卑しくもそれを求め、そして求められなかったことを一抹の寂しさなどに偽る。その品性の下劣さ、醜悪極まる。

なにより自己批判することで、自分に言い訳をしていることが心底気持ち悪い。(略)

「だけど、その共依存も、もうおしまい。雪乃ちゃんは無事独り立ちして、ちょっと大人になるんだよ」

 

潔癖的な自己嫌悪が止まらず、それに対して自己批判という形での自己評価をしている自意識の檻から逃げられない苦しみを言い訳にしていることも、また自己嫌悪の循環を意味していることを比企谷八幡は潔癖ゆえに自覚している。だからこそ自意識から抜け出せない。

これは温室的に閉じ込められてしまう関係性の構造と共通的であり、自覚していても、自覚しているからこそ抜けられない精神性は「共依存」というレッテルとの親和性の高さを示す。

そんな依存先から自立することで、諦めることで、抜け出せるのかが問われている。つまり大人になるための通過儀礼として。

 

P348 

「あいつは……、何を諦めて、大人になるんですかね」

彼女とよく似た微笑が、くしゃりと悲しげに歪んだ。

「……わたしと同じくらい、たくさんの何かだよ」

 

 

これはあくまでも雪ノ下雪乃に対する雪ノ下陽乃のロジックである。

並行的に比企谷八幡の願いもある。あきらめて違和感を飲み下して「本物」を捨てることは、潔癖のロジックと相反する。純粋であるがゆえに「本物」を求める論理の飛躍と現実の壁は一定の調和を成す。

つまり「大人と子ども」と「現実と理想」の間で揺れる二律背反的なテーゼが持ち上がっている構図にどう答えを出していくのか、が13巻と14巻の文脈となる。

 

 

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 (13) (ガガガ文庫)

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 (13) (ガガガ文庫)

  • 作者:渡 航
  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 2018/11/20
  • メディア: 文庫
 

 

P11 

曖昧で灰色な、当たらずとも遠からずの選択をしてきた。

つかず離れず傷つかず、正誤も真偽も定かならず。

言いたいことが言えないわけではなくて、言いたいことさえわからずにいた。

そんな自分に何を口にする権利があったのだろう。

だから、せめて。

今度こそはただ正しくありたいとそう思っていた。

過ちを、まちがいを、赦したくはない。

もう、まちがえるわけにはいかないのだから。

ここからは13巻の内容となる。

由比ヶ浜結衣から離れた比企谷八幡の「まちがえた」自覚は引用した通りだ。一般的な解答と自分たちの解答は違うと分かりながらも、再度「まちがえ」たくないと思っていてもループ構造に取り込まれてしまう様子はこれまで見てきた。これらの循環(自意識と物語)が持つ意味はまとめで記す。

雪ノ下家の登場によりプロム自粛といった中止への動きが、トップダウン型に意見統合される様子が描かれる。下々の意見は勘案されない。表舞台に出てきた行動とその真意は、行動しか観測出来ない場合は推して図るしかない。それはまさに「空気を読む」を代表する行為であり、学校の教室内のみではない「空気」の拡張が行われている。

 

P26 

実際、俺たちは日常的にそうした行動をとっているのだ。『空気読めよ』なんて言葉はその最たるもので、明文化されないものを不確かな情報から勝手に推し量り、あまつさえ、それを美徳のように捉えもする。

空気を読むとか忖度が働くというのは、平和的、そして閉鎖的な調整方法なのだ。

 

「空気」を作り、それに合わせて行動が観測されていく。「空気を読む」ことが求められる場面の多さは「生きづらさ」に直結する。多様性をもった主体性の獲得を求められる一方で「空気を読む」ように均されるダブルバインドがあるからだ。

プロム企画への参加は雪ノ下雪乃に拒否されていても「お兄ちゃん気質」で、「共依存」だとしてもそれでもやらないといけない理由があると比企谷八幡は語る。それは9巻で「助ける」と約束したから。

また、10巻の葉山隼人同様に先方に求められていないのに関わるしかない状況は反復的だろう。10巻と同じく拒否されているにも関わらず、アウトサイダー的に介入する役割の反復はあるが、奉仕部内にベクトルが向いているのはやはり11巻以降の文脈となる。

 

P33

「うん……。まぁ、私としても依存という表現が正しいとは思わないが、こういうのは本人の捉え方だからな。バイアスに偏りがあると、いくら言葉を尽くしても届かないことは多い」(略)

どれだけ自分を宥めすかして、曖昧模糊とした綿飴みたいな日々を送っても、どこかで見過ごせず、千言万遍費やしても誤魔化しきれずに突き詰めてしまう化け物じみた自意識過剰なまでの潔癖さ。結局今に至っても、その自意識の化け物は心に棲み続けて、いつも一歩後ろの暗がりからじっと自分を俯瞰しているような気がする。

 

共依存」というレッテルの認識について平塚静が意見を述べるシーン。

この人は一貫して「共依存」に疑問符をつけている立場であり、名前のない関係性に名前をつけられたことによって正否問わずバイアスがかかる内輪の状況に対して、外部から意見を差し出す役割が充てられている。

共依存」と否定してみてもどこか拭い切れない要素が、べったりと思考に植え付けられてしまう。ヒエラルキー的にいえば雪ノ下陽乃からのトップダウン型であり、その「空気」が出来てしまう状態と言っていいだろう。

 

P35 

「やりたいことやなりたい自分がたくさんあった。やりたくないことも、なりたくない自分も、たくさんね。その度にちゃんと選んで、挑んで、失敗して、諦めて、また選び直して、その繰り返し。……未だにそうだよ」(略)

雪ノ下雪乃の決意に、決断に、人生に、安易に手を貸すことが正しいのか。俺はあの時、雪ノ下陽乃にそう問われたのだ。

選択も挑戦も失敗も諦観も、本来すべては彼女一人に帰属すべきもの。そこに他人が介入することが許されるのか、その答えは出ていない。どんな肩書きでどの程度の関わり合いであれば、そこに触れることが許されるのだろう。

 

P36 

「……少なくとも、関わらないって選択肢はないと思います」(略)

雪ノ下の意思がどうであろうと、俺の行動には関りがない。理由など、あのたった一言あれば充分だ。

これまでだってそうしてきた。俺が知ってるやり方なんて数えるほどしかなく、取れる手立てはいつも一つ。それ以外はうまくできた試しがない。まちがえないようにすればするほど、縒れて拗れて捻くれて結局すべてまちがえる。

だから、せめてこれだけは、俺ができるやり方で。

 

醸成された「空気」に対抗するためには主体体に自立する必要性がある。

共依存」であるならば雪ノ下雪乃は独立することが求められ、関わり合いを遠ざける理由ができる。しかし、それは彼女の主体的な都合でしかないが、比企谷八幡は彼女の選択を「助ける」形において、その主体性を妨げていいのかという問いが立つ。「助けた」結果が依存状態の「先送り」になるならば、彼女自身の選択すらも飲み込んでしまうのではないだろうかという危惧が挙げられている。

この作品でも常に選択が求められ、その度に「まちがえる」ループ構造であったが、平塚静通過儀礼の繰り返しを大人になっていくための過程と捉えて「ポジティブなあきらめ」が成熟の必然であると言う。この「あきらめ」の観念は、朝井リョウも瑞々しく描いてきた成熟への過渡期にいる少年や青年たちの造形を彷彿とさせる。

この「通過儀礼」は雪ノ下雪乃に必要な手続きであると周囲に言われているが、それでも求められていないのに一方的に関わることを模索する比企谷八幡。意見の妥協点を探るのではなく、一方的にぶつける形で結果的に双方向性が生じる。

最初から導き出されている結論のために優先順位を度外視する風景は、雪ノ下母がプロムに働きかけた結論の提示に近い。

 

P57 

結局、いつもそうなのだ。

かける言葉や行動も、常に正解には程遠く、いつだって誤解だらけのまちがい続き。過ちを謝ることさえ誤って、ボタンはずっと掛け違う。

 

話し合って折衷案するのではなく、意見のバッティングを図るのは6巻と8巻の反復性と「まちがえた」=宙吊り的結果をイメージさせるが、既に関わることが「まちがい」だと言われている状況であるので多少異なる。

 

P63 

俺の抱く感情も感傷も、そもそも言葉になどしようがなく、だからこそ、どんな形容もしうる厄介極まりないもので、きっとどう伝えたところで分かち合える類いのものではない。そんな不透明で不定形、不鮮明なものを杓子定規に既存の言葉に当てはめてしまえば、その端から劣化していずれ大きなまちがいを生む。なにより、たった一言で済まされてしまうのが気に入らない。(略)

だから、誠実に真摯に、望まれた答えと違うのを重々承知で、重苦しいため息と一緒に少しずつ吐き出した。

「……責任がある」

 

P81 

共依存という言葉は俺だけでなく、彼女もまた理解しているのだと思う。

そのうえで、彼女はそれを良しとせず、まちがった関係性を正し、自身の足で立とうとしている。

片や俺は是非を問うことさえできずに、ただ模糊とした聞こえのいいお題目をのたまって、膠着した歪な関係性に拘泥していた。(略)

「確かに、ここで俺が何もしなきゃそれでいいのかもしれない。けど、それは根本的な解決になってない。今までのやり方に問題があったなら、違うやり方とか違う考え方、違う関わり方を探して……」

もっとうまい言い方はないのかと言葉を探すが、こういう時に限って理性や自意識が牙を剥く。曖昧な言葉は口にする傍から形を得て、その度に、真からは外れていく。

 

一色いろはには「過保護」だと言われ、これは雪ノ下雪乃の自立の機会であり、それを台無しにするのかと雪ノ下陽乃にも釘を刺されている。

「まちがい」続けてきたこれまでと同じだと比企谷八幡は内省し、反復性の中にいるための発言がある。

しかし果たして同じなのだろうか。関わることが求められていない前提でボタンの掛け違いがある現状は「共依存」のレッテル=温室的関係性への拒絶とそこからの自立とするために導かれた個人レベルの認識である。それはやはり「まちがい」を重ねてきたからこその個人の認識であり、「信頼」ではなく「依存」してしまう雪ノ下雪乃の絶対性への認識を「強さ」だとイメージしていた錯覚によるものであった。

であるから、前提を歪ませた責任を取ると比企谷八幡は言う。そもそも結果論的に招いた「まちがい」のループや反復性におけるルート分岐的(正否)構造の作品の中、作中で選択してきた責任を引き受ける役割があるとメタレベルな意図はないにしても、「まちがえてきた」自覚がもたらした責任を感じているので関わらざるを得ない彼の中の合理性は内省的である。

しかし、それが言葉に集約できるかどうかは別問題とし、伝達可能性としてのコミュニケーションは『俺ガイル』が「コミュニケーション:ディスコミュニケーション・コミットメント:デタッチメント」の転換での揺らぎを描いてきた「まちがい」が抱えるナイーブさの発露になると言えよう。

 

P72 

停滞した現状でとりあえず案を二つ出すことは大事だ。少なくともどちらかを選ぶ、もしくは折衷案を出すかはする。対案もなく、何でも反対を繰り返したところで物事が前に進むことはない。

対立構造を作ればこそ、議論を前に進めることができるようになる。

 

交渉のテーブルでは中止ではない自粛の言質を盾に取り、主体的にカードを切る。無理筋から捻れて強引にもつれ込ませる続行案は、のちに対立構造を作る伏線となり、折衷案までの過程だ。

このプロムの続行と自粛の対立を背景に比企谷八幡雪ノ下雪乃のバッティングは「共依存」における責任の主体的原因の主張のし合いにも映り、曖昧に誤魔化してきたツケを互いが互いに清算しようとしている。比企谷八幡は責任があるから助けたいと言い、雪ノ下雪乃は依存ではないと証明するために自立したいと語る。ボタンのかけ違いの対立構造は、コミュニケーションの衝突と延長にある分かり合えるかもしれない幻想としての「本物」の希求につながる。

 

P83 

結局、うまく伝えることができない。

言葉にしなければ伝わらず、言葉にしたって伝わらない。この一年で、俺たちはそれを嫌というほどよくわかっている。話せばわかる、理解し合えるというのは傲慢で、話さなくてもわかるというのは幻想だ。

だから、いつだって言葉選びに迷い、話し方に悩み、どうでもいいことほどぺらぺらと、大事なことはひとつも言えずじまい。

けれど、伝えたいのは言葉じゃない。言葉で伝えることなんて俺にはうまくできない。

だったら、答えは簡単だ。

俺の、俺たちのやり方は決まっている。

「わかった。もう言わない。お前を手伝ったりしない」

 

8巻の反復的論法で対立に持ち込む比企谷八幡。関わる状況を作るために目的は一致していても互いに独立する勝負上の建前は、1巻の再確認を促すようにも読める。

交渉や対話ではない。パフォーマティブな勝負構造は、主観的であるからこそ言葉が抱える暴力性への不信感と藻掻きの結果の産物だろう。それゆえに対立的コミュニケーションの背景が言葉よりも雄弁に語る。 

 

P100 

俺と雪ノ下と由比ヶ浜。奉仕部三人の関係性はいつからか歪なものになっていた。無論、最初から歪んではいたのだろう。けれど、時間を重ねて少しずつ修正し、居心地のいい空間へと変わっていったはずだ。

崩れた責任の一端は俺にある。不自然さを許すことができないくせに、このままでいいと願いながら、上辺だけを曖昧な言葉で取り繕って、やり過ごそうとしてしまった。

 

「まちがって」歪んだ関係性の自覚を示す比企谷八幡は、プロム含めたあらゆる面倒臭いことも引き受けることで、躓いて足掻いて葛藤した上での諦念や通過儀礼としての区切りを雪ノ下雪乃同様に重ねている。大人になることの取捨選択の設定は、平塚静雪ノ下陽乃もこれまでのように重ねて描かれてきたが、終わらせることが正しいと考える潔癖性が垣間見える。 

対立構造に持ちこむための二択問題は、一色いろはとの「お汁粉とマックスコーヒー」と比企谷小町との「鍋の白菜と豚肉」が鍵となっている。どちらでもいいけど、どちらかを選ばざるを得ない状況を意図的に作り出す。一つを潰したら消去法的に心理的にどちらも選ばないことに抵抗が生まれ、消極的に選んでしまう傾向が伏線となっている。

再三述べているようにこれまでの依頼とは状況が異なる。先方から否定されている前提から始まるのは、雪ノ下雪乃ともそうであり、つまり前提が否定からのスタートとなっているのが特徴的だろう。この形式はある意味では清算の集大成であり、そこから修正して「正しさ」に展開するための「まちがえてきた」迂回路なのだと考える。

用意された選択肢にバイアスをかけることは、二択を用意することでさきの心理的に誘導する。当て馬企画を準備して外堀を埋めていくビジョンは見えていても、肝心のダミー企画をどのように用意するのか。

 

P149 

「……いや、ちゃんと話してみるか。理解してもらえるとは思わないが、なるべく話通じそうな人に声をかけてみよう」(略)

きっと俺は既にまちがえている。

だから、せめてこれ以上、まちがえることのないように。

今までのような安易な手段ではなく、もっと違うやり方を、見つけなければならない。

 

曖昧な言葉で「先送り」にしてきた比企谷八幡が対話可能性について志す契機となっているが、まさにこれまでの「まちがい」の反復から抜け出すように可能性へ投じている姿が象徴的だろう。

選べないなら選べるようにさせるためにカードを用意する。選択肢を持たなかった比企谷八幡が作為的に選択肢を捻り出す行為は、これまでの「先送りの病」に共通しているように見えるが、本件は個人レベルの許容量を超えた集団制作的に突き詰める作業であるために些か趣は異なる。また捨て案を作るための協力体制を敷くことで、真意を伝える難しさは、これまでの曖昧にしてきた過去と違うゆえの葛藤が見えてくる。

遊戯部のサポート参加は、モブキャラの再利用である。

一貫して中間層が「みんな」に集約され、固有名を持たなかった『俺ガイル』であるが、下位と上位の要素は抽出されていた。その中でも遊戯部や材木座義輝といったスクールカースト下位がプロムをサポートする意味はない。本来はプロム企画なぞやりたくない側であり、彼らにやるメリットが無いのだから。

しかし、明確にコミュニケーションを重ねていくことで仕事と役割を与え、それは飴と鞭となる。意思が反映されにくいであろうカースト下位の彼らを主体的に意思決定に回す約束を織り込めば、プロムを忌避する側にもメリットが生じ、関わりやすくする。曖昧な言葉で言質を取って消極的に「先送り」にするよりも、明確な意思で決断した「先送り」の結果とも言える。

ダミープロムは、企画自体に信憑性とリアリティを生むために事実と嘘を混ぜなくてはならない。実現可能のように思わせることが重要であり、外部にはどのように見られるのか、によってさきの二択問題を具象化させるためのリアリティを演出させる必要がある。

いわば「お伺い」や「ポリコレ」や「サイレントマジョリティ」や「ノイジーマイノリティ」は「空気」に通じるものである。「みんな」を代弁して「空気」を管理して作り込む。「みんな」や「空気」から外れた要素は石を投げてもいい対象と変化する錯覚が与えられてしまう。そんな「空気」を動かすためには文脈によって形成される「空気」を誘導するために別の文脈を持ち込めばいいことになる。そのための対立構造を持っていくことが、ダブルバインドを成立させる状況として演出される。

また「空気」の交換可能な側面は4巻(鶴見留美)、6巻(文化祭)、7巻(修学旅行)、10巻(葉山隼人を取り巻く状況)が描いてきた通りだ。

 

P206 

このまま終わりまで見るか。

あるいは、また最初から始めるか。

それとも、これまでと変わらず、見ないふりをして続けるか。

悩む間もなく、エンドロールは流れ始める。

 

エンドロールという終わりの合図について比企谷八幡の選択は述べられていないが、由比ヶ浜結衣が見ないフリをしているのは終わらずに続けたいためだ。

11巻の宣言にあるように彼女の選びたい温存性は、エンドロールが回り続けるループ性と重なる。ここでもループ性への言及があるように、エンドロールが終わった後の始末は由比ヶ浜結衣が取ろうとしている関係性の温存は、7巻や10巻の葉山隼人らでは描かれなかった先の飛び越えた話が展開される予感もあるが、彼らへの否定はない。温存的なモラトリアムの肯定も当然あるだろう。モラトリアムなのだから「先送り」にしてもいい。

しかし比企谷八幡の潔癖的かつ純粋的な願いが許容しないのが発端であるので、葉山隼人らの延長とは対立的に描かれる必要がある。

また、依頼と願いは別物である。

9巻の比企谷八幡の依頼は玉縄らのサポート協力であった。『「本物」が欲しい』は願いにあたる。

由比ヶ浜結衣は11巻で触れたように「全部が欲しい」と願った。

雪ノ下雪乃は父親の仕事がしたいという気持ちを吐露したのは12巻。

彼女たちの話す願いは比企谷八幡視点では見えてこない抽象的な遣り取りに集約されている。それは決定的には言わない不文律があるようで、言わずとも通じ合えるのが「本物」ならば抽象を往来する応答性はアプローチとして似ている。

願いは欲望そのものである。であるから、比企谷八幡の主観では知れない深層がある。パースペクティヴな断章があるのは物語とメタレベルな読者を没入させるためでもあるが、そもそも伝わらない心意があることが明確に描かれるためだろう。伝えるのは高度なやり取りが求められる。

抽象さに仮託して伝える術を排している状況は「まちがえたくない」ゆえの選択だろう。錯覚しないように慎重に抽象的に推し進めるの自体が、コミュニケーションにおけるアポリアとの衝突であり、伝達における齟齬は「絶対的なわかり合えなさ」が起点にあるからだ。

 

P263 

たとえそれが紛い物であったとしても、この世でただ一つの歪な贋作であるならば、誰も偽物と呼べないはずだ。

もしも俺がそれを手にしていたなら、きっとこの歪な形に一つの名前をつけられたのに。

 

このシーンは、比企谷八幡葉山隼人との対称性はリア充と非リアの垣根を越えたものであり、対立的なものではないが、「鏡合わせにすらなれず、互いに間違い探しを続けて、手前勝手に苛立ちをぶつけあっているにすぎない」と触れられているように相同的ではなく、遠近法的他者性の到来だと考える。このシーンにあるように、葉山隼人比企谷八幡相手に自身が「選ばなくなる」まで、回避を取るまでの過去の経験をぶつけているに過ぎない。責任感を持ちつつも空回った中途半端なコミットメントが人を傷付けたゆえの後悔が語られ、「持つ者」という錯覚と「持たざる者」との近似は、この2人のようにリア充と非リアの対立構造の融解となる。

「良い奴の葉山隼人」を認識している比企谷八幡にとっては、6巻の反復からの延長線にある独白と自己批評になるだろう。葉山隼人が回避を選択してきた先の袋小路と後悔のジレンマは「まちがった」結果と経験から導かれている。経験則に照らし合わせて、経験論に囚われる。これもまた「まちがい」ゆえのバイアスであり、確立した個人主義が固定的な領域に根ざすのに対して、状況の流動との軋みによって苛まれている様子は二者共通的であり、主観と客観の差異を含めた自己言及性がある。

「他者」や「世界」にどう触れるかは、常に経験論的では不足してしまう。現に2人の藻掻きは「まちがい」の循環に囚われた経験と結果ゆえの「持たざる」感覚の根付きとその抵抗であり、回避や現状維持を選択する葉山隼人のルートとは異なるルートを選ぶのが、これまでの比企谷八幡の物語の証明となっていく。 

 

P285 

きっと言葉一つあれば事足りて、それで済む話なのだと思う。

けれど、そんな簡単なことが俺は許すことができない。

「簡単なものが一番難しい。俺にはこれが一番簡単だっただけだ」

 

 

P286 

ただ、その微妙な差異が確信を抱かせる。

やはり俺と海老名姫菜は違うのだ。共感こそすれ、最後の結論は同じではない。その距離感はある意味、俺と葉山隼人の距離感に通じるものがある。

似ていても、近くても、同じように見えても、それぞれ違っていて、俺はこの一年かけて、それをずっと確かめてきたのだと思う。

 

 

7巻同様にカメラを持つ比企谷八幡は、被写体と撮影者の関係性で「観る者と観られる者」として主観と客観がここでも触れられている。岡目八目とあるように、主観的と客観的の差異は、葉山隼人や海老名姫菜と比企谷八幡の遠近的距離の可視化によって、スクールカーストリア充と非リアのラベリングではない状況のように言葉一つで足りてしまうであろう現実と決定的に不足してしまう現実の不可分な領域を浮かび上がらせる。 

 

ダミープロムの信憑性を獲得する一環として玉縄らと見せかけ上組むアイデアが、玉縄の成長により頓挫しかけるシーン。

後期終盤で見られるサブキャラからの反撃は、比企谷八幡の甘い見積もりを指し、「先送りの病」的にご都合を許さない。9巻の玉縄は意識高い系の空転から「否定をしない判断」を「みんな」という建前で責任を回避していたが、玉縄個人で「否定をする判断」の責任を負っているのは前回と違う。

「先送りの病」によって「先送り」にされた結果や現実が追いかけてくることは「本物」が見たい雪ノ下陽乃もその一人であろう。

「勝負」という形で関わり続ける比企谷八幡の「先送り」的建前は、結局雪ノ下雪乃の自立を妨げるものであり、言葉遊びの範疇を出ないのではないかと指摘する。自己満足の言い訳でしかないのではないかと。それは「本物」になるのだろうかと。「本物」が見たい彼女にとっては諦めたものであり、「夕」を過ぎ去り「夜」に生きる大人の立場の証明にも読める。 

 

P333

「……でも、共依存なんかじゃないです」(略)

「だって、こんなに痛いから……」

胸だけじゃない。心だけじゃない。全部、全部痛い。

――あたしの全部が、痛いくらい、好きだって悲鳴を上げてる。

 

共依存」は健全ではない「偽物」だと雪ノ下陽乃は言うが、それでも痛みは「本物」だと由比ヶ浜結衣は反論するシーン。

西尾維新偽物語』に「偽物の方が圧倒的に価値がある。そこに本物になろうという意志があるだけ、偽物の方が本物より本物だ」というセリフがあるが、14巻にあるように『俺ガイル』の『「本物」と関係性』を巡る着地点も上と外れていない。

 

偽物語(下) (講談社BOX)

偽物語(下) (講談社BOX)

 

 

「偽物―本物」の認識をどのように解釈するか、は個人レベルであり、現に平塚静雪ノ下陽乃が指摘した「共依存」を一つの観方でしかないと述べている。

雪ノ下母が女王という駒であり、駒としての女王の奪い合いがプロム実現の鍵だったシーンも、駒解釈は一つの観方になるだろう。

比企谷八幡の前期のネタである交通事故に遭った事実は、この場においては大富豪のスペード3の使い方のように持てる唯一のカードに価値が付与される瞬間が意味するのは固有名の強さになるだろう。

「みんな」や「空気」の代弁者に対して、「みんな」を説得させるための「空気」は交換可能であるならば代弁者の立ち位置も交換可能となる。「本音と建前」と「みんな」という共同幻想は、固有名のポジションによっても変化する。6巻の相模南や10巻の葉山隼人がそうであったように、何を言うかよりも誰が言うか。役割や肩書きが付加価値となる。

ここでは比企谷八幡だからこそスペード3のように効果が発生した。過去の経験が空転するだけではなく、使えるカードがあったという再認識を与える。経験則の否定ではない。前期から公然の秘密化として匿名的だった比企谷八幡の固有性が、「空気」の代弁者に通じた結果は固有性が承認されて「空気」を換えることとなった。

 

P358 

たった一つの本物に、焦がれるほどに憧れたから、焦れるくらいに拗れてしまって、泣くことさえもできないまま、ただただこの身が焦げていく。

燃え尽きて、残っていたものはどうしようもなく歪んでしまった紛い物。

それでも、自分にとっては掛け替えのない、替えのきかない偽物だから。

せめて、壊れることがないように、そっと大事に仕舞い込み、これですべてをおしまいに。

――どうかこれが正しい終わりでありますように。

 

紛い物の関係性だと雪ノ下雪乃は言う。

「まちがえ」てしまったと。

「まちがって」いないという見方もできるが、彼らは許容しない。温存という葉山隼人由比ヶ浜結衣の選択はモラトリアム的であり、一つの見方であるからだ(葉山隼人らの保留は7巻と10巻となる)。

しかし彼女と比企谷八幡が相互に正しく知り始めたのが6巻であり、「共依存」を終わらせるためには関係性の解消という結論に至るのが13巻であった。

葉山隼人らとの差異は歪んでしまったと思う彼らの主観に尽きる。なぜなら「本物」は純粋であり、その過程に生じる痛みだけが「本物」である証明は、上記で触れた由比ヶ浜結衣との共通項になるが、痛みが生じる歪んだ形は「本物」に成りえないと解釈している。

「まちがっている」とする終わらないまちがい探しの繰り返しは『偽物語』を引いたように、葉山隼人の後悔が生んだ独白のように、「偽物」がかけがえのないオリジナルになっていく痛みと歪みがある違和感を認識していく彼らの衝突である。 

11巻で違和感を正視しろと平塚静は言った。

果たして違和感、歪み、ノイズがあるから「偽物」なのだろうか。「正しさ」を知らないのに「まちがえた」と思い、「まちがえたくない」から「正しく」終わりたいという思いが「まちがい」を生む循環は『俺ガイル』を端的に示している。 

交換不可能な紛い物は「本物」になるのではないか。

歪であることは正しい姿であり、13巻ラストのように大事にして終わりを迎えることが「まちがい」でもあり、「正しく」潔癖的な思考だといえよう。

共依存」も例に漏れず名前をつけることの認識へのバイアスは、名前や一言で済ませることができない不信感とアポリアにつながる。この着地点からどのように「移動」していくのかを14巻が扱うテーマとなる。

14巻のみならず、『俺ガイル』という作品が「一言を言うだけ」に苦心してきた迂遠さが醸し出す葛藤が青春模様として表れている所以だろう。

渡航が14巻のあとがきで「言葉の難しさとこの一言を書くために書いてきた」とあるように、これまでに噴出した言語的アポリアへの向き合い方が文学的態度であったのだと私は考える。

この14巻の冒頭でも「たった一言。たった、一言伝えるだけなのに、随分と長い時間を掛けてしまった」と雪ノ下雪乃の独白があるように、各個人が「たった一言」に終始執着してきたのが後期の『俺ガイル』になるだろう。ここでは連絡するかどうかの煩悶はイコール言うべきかを問うものであり、他者に届いて欲しいし、届かないで欲しい揺らぎをそのまま表現している。

「お兄ちゃん、なんかあった?」と聞いた比企谷小町との素直なやり取りから変化が見える比企谷八幡。以前に似たようなやり取りがあったのは8巻であった。その際には6巻と7巻を起点に「まちがえる」循環に組み込まれた関係性の決着として、比企谷八幡は関係性の変化を見据えている様子が窺える。

 

P40 

その引き手から指を離した瞬間。

ひやりとした感触にはっとした。

指先には、まるで抜けない棘のように、冷たさがずっと残っている。(略)

なのに、指先は。

あの扉に、最後に触れた指先だけは、今もまだ冷たいままだ。

 

弛緩した空気と暖房が効いた教室の温度に敏感であればある程に、比企谷八幡の指先にある冷えという違和感は、一向に暖まらず、その感覚を抱かせ続ける象徴となっている。

由比ヶ浜結衣と学校近くの公園に行くシーンにはブランコが登場する。ゆらゆらとした不安定な宙吊りの比喩であり、誘われてもそれに乗らない比企谷八幡は、曖昧なままを「先送り」にするのは自身への裏切りとし、歪な缶を歪んだ違和感として表現することで、形や角度を変えてもはたらく暴力性を意味している。のちの伏線となっているのは明白である。

P47 

俺は手にしていた缶コーヒーを一息に呷ると、冷え切ったままの指先に熱を込めるように、ぎゅっと握りしめる。すると、ぺらぺらのアルミ缶はいともたやすくくしゃりと歪んだ。そのへこみを直そうと、手の中でくるくると回してみても、今度は他の場所がへこむだけで、ただ歪さが増すだけだった。

 

願いを叶えると由比ヶ浜結衣に言う比企谷八幡は、雪ノ下雪乃由比ヶ浜結衣の願いを叶えて欲しいと言われたためであった。勝負の結果による受動的コミットメントであり、由比ヶ浜結衣の願いは比企谷八幡の願いを叶えるという能動性への働きかけがあるが、このズレと三者三様の循環に陥るような構造の罠は、バトルロワイアル方式の結果の宙吊りであって「先送りの病」に通じてしまう。

 

P52 

そも、俺は雪ノ下雪乃の願いを叶えるために、こうしている。

雪ノ下の願いは由比ヶ浜の願いを叶えることだ。だが、その由比ヶ浜は俺の願いを叶えようと言う。これではまわりまわって、堂々巡りでいつまで経っても変わらない。

 

由比ヶ浜結衣は関係性の温存をしたい。その判断は葉山隼人らと共通的である。

一方で比企谷八幡はその馴れ合いを許容できない。だからこそ関係性の終わりを緩やかにしたいという彼女の気持ちは13巻のエンドロールを見ないフリをすることに表れているし、彼女にとっては「本物」を求めることは二律背反することを指す。 

 

11巻 

P313 「あたしが勝ったら、全部貰う。ずるいかもしんないけど……。それしか思いつかないんだ……。ずっと、このままでいたいなって思うの」

 

雪ノ下雪乃の「依存」と比企谷八幡の「本物」と由比ヶ浜結衣の温存は相互に重なり、箱庭的な錯覚を生み出す。宙吊りにしたくないのに宙吊りにしてしまうように。「枠」から脱け出そうにも別の「枠」に囚われてしまうように、この箱庭感覚がこびり付いてしまう。環境によって規定される定めの雁字搦めは彼らの自己意識を苛む。

由比ヶ浜結衣とダミープロムの打ち上げの打ち合わせする最中は多幸感に包まれるものの、依然として比企谷八幡の指先は冷えたまま。温もりのある缶コーヒーを握りしめ、甘ったるく飲んでなお冷えは残り続ける。まるで指先の違和感を騙しながら。

由比ヶ浜結衣との二者関係の満ち足りた幸福感は紛れもないものであるにしても、指先に残る冷えの違和感は「本物」を妥協できるかどうかという問いを立てるものである。そして、願いを叶えるとは能動的でありながら相手の意見を受けたものであり、受動的に傾いていることは避けられない。

そして、バトルロワイアル勝負による関係性の解消によって、雪ノ下雪乃とは関わる理由が無くなる展開に突入する。

 

P87 

上手くいくだろうか、もっと上手く振る舞えるようになるだろうか。

歩き出して、彼我の距離は確実に離れていく。互いの目指すべき場所は既に分かたれている。(略)

あの時間に、あの空間に慣れていったように。

この関係にもきっと違和感を抱かなくなる。

慣れて馴れ合ったなれの果て、離れていくことにも、きっと慣れる。

 

比企谷八幡には関わること自体に目的が必要な性分である。かつて比企谷小町を言い訳にした8巻のように、また依頼を通して受動的コミットメントとして関わってきたように。動機を持たなければデタッチメントでしかない。その関係性はディスコミュニケーションに転換し、慣れていく違和感を上手くやり過ごせていくというあきらめて大人になる流れに組み込まれていく。

互いを尊重した結果のすれ違いであり、温存を解消するための手段と結果が別の宙吊り的にはめ込まれてしまう形式的な暴力性と自閉性が起因である。

打ち上げのカラオケルームの「空気」の悪循環のように、黙することや応答の不一致が招くディスコミュニケーションの泥沼を重ねて表現しているのは「空気」を読む、読まないといけない義務感と生きづらさそのものだろう。「空気」に従属して変化を試みても自意識の表層に囚われてしまう。

「空気」と社会性は『俺ガイル』が2巻から描いてきた反復であり、スクールカーストの上位と下位の概念を融解していく文脈は4巻が起点となるだろうが、あくまでも葉山隼人比企谷八幡の二者関係に尽きていた。

一方で三浦優美子とは7巻に正しく認識された描写があるように、その連続性として由比ヶ浜結衣比企谷八幡の現状を正しく看破したシーンになる。彼女に「中途半端」だと指摘された事実は、正しく終わらせ、関係性の解消から前進したという「錯覚=まちがい=宙吊り」の放置を「中途半端」と表現したものである。

やはり比企谷八幡の関わる動機が受動的に願いを引き受けたでしかないものであり、内在性や自由意志とは違う「願い=依頼」の同一化に近い捉え方なのだろう。前述のようにそれは重なりはするが、厳密にイコールにはならない。別種のものである。

 

由比ヶ浜家でお菓子作りするシーンでは、ノスタルジーと匂いに刺激され、季節が巡る度に思い出すことの正しさを知る。

弛緩した雰囲気はまさに「ラブコメ」である。

「まちがって」きた分岐の地平としての由比ヶ浜結衣との煌びやかな日常ラブコメは、選択可能性のある豊かな甘い日常だろう。

 

P151

となれば、求められている答えはわかり切っている。

「やっぱ真心、ですかね」

 

真心や手作りの反復は1巻からのもの。込めた気持ちは「本物」であり、例えばバレンタインチョコ企画の11巻や、それとは対照的に雑貨屋を眺める13巻のように既製品には宿らない馴染み具合や生活感が醸し出す「本物」は端的に人の手による「真心」に尽きていくことが示されている。

度々挿入される断章は、比企谷八幡が知らぬ間に秘密裏に進む並行的なストーリーラインであり、相互に織り成すことで物語を多角的に、彼の主観的選択ではない間主観性を作ることに成功している。後期のパースペクティヴなひっくり返しはキャラの両義性を意味するものであったが、11巻から14巻では物語としてのパラレルなストーリーラインを見せることで、ハーレムエンドといったマルチヒロインとの決別と秘密めいた結託が記されているのは重要だろう。このパラレルな記述が、マルチヒロインの選択可能性や分岐点を彷彿とさせ、14巻のラストにつながっていく。

物語を「一本の線」ではなく、無数の結節点で拡張している選択可能性の世界と想像することで、「まちがってきた今」と「別のやり方があったであろう今」という無数の「存在しなかった今」から「引かれた」イマ・ココの意味や「まちがえたからこそ取り返しがつかない」ことも分かるようになる苦悩や葛藤は『俺ガイル』の自意識の循環が作用した物語の構造だと考える。

だからこそ「引き算」のように集めて捨てないといけない「物語」や「眼差し」や「言葉」の暴力性が『俺ガイル』の根底にあるのだろう。

 

 

P197 

たかがクラス替え、と思わなくもない。これまでは、そこにさしたる感慨を見出すことはなかった。わざわざ連絡を取ろうとはしなかったし、離れた分の距離を縮める。あるいは保つための努力はしてこなかった。(略)

顔を合わせなければ疎遠になるのは世の常。そして、また新たなに付き合いが生まれればその分だけ距離を詰めていく。環境が変わることに、人はすぐに慣れてしまう。

慣れて、馴れ合って、また離れる。左様であるならさようなら。

俺たちは、いつだってさよならをする途中にいる。

 

 

12巻P153 

いつだって、なんだって、どこだって、その時限りのものは存在している。(略)

それは人の関係性においても同様のことが言えるのかもしれない。俺と小町が兄妹であるという関係性、それ自体は不変の事実たりうる。(略)

――けれど、そうでない人は、どれくらいまで付き合ってもらえるものなのだろう。

 

卒業式は別離の代名詞だろう。

携帯電話がなかった時代はこの時の「さよなら」が永遠のものだったかもしれないが、今や携帯電話やSNSで簡単につながりを留めておくことは可能となっている。なので、サカナクションの山口一郎が「別れの曲が書けない」と語っていたが、そういう意味では比企谷八幡にとっての「別れ」は現代的なものではない。彼はつながりを留めておく努力をせず、むしろ断ってきた側の人間だからだ。

だからこそ10巻の葉山隼人の件で、進級やクラス替えによる関係性の消滅を論拠にアプローチしたのは比企谷八幡の経験によるものだった。

そんな彼がこの後の関係性について巡らせるシーンは、学校を離れても継続するだろうか曖昧なものであり、その経験がないから分からないのが実情であることが示されている。その判断は意思によるものなのに、どこか「空気」のまま流れることを受容しているようにも読める。数多の「別れ」を経験し、通り過ぎてきた彼にしても別れは悲しいものであり、それゆえに涙を流す。

そんな中での葉山隼人との会話は、雪ノ下陽乃が学校に来すぎることへの言及がある。決断を見届けるための存在として(比企谷八幡たちとは違うメタレベルの存在)、あるいはあきためてきた大人の一人として描かれてきた彼女の抽象的な輪郭が、徐々に具体化していくと同時に、後期の「あきらめて均される空気」への抵抗が「本物」という妥協や表層を許さない態度と重なる。

 

P218 

そうだ。まだ、不慣れなだけだ。

だから、少しでも早く慣れるようにと、俺はPA卓の再生ボタンへ手を伸ばした。冷えた指先でゆっくりとフェーダーを上げて、題名も知らない曲をかけ始める。(略)

けれど、この手の楽曲も、こうして聞いていればいずれは耳に馴染むだろう。

ミキサー卓の扱いも、聞き慣れないEDMも、耳障りとすら思えるサンプリングのエアホーンも、スピーカー裏から響く重低音も。

全部そのうち、当たり前になって、慣れていく。

 

 

P223  

俺たちはこれが普通であろうと信じている。だからこそ、普通であろうとしている。この関係性が異常なものではないと信じたいがために。

 

関係性の解消から雪ノ下雪乃と関わる理由がなくなり、距離感が掴めなくなる2人。仕事ならば会話ができるが、それも不慣れさが隠せない始末。両者の距離感の不安定さを露わにし、目的性が無いままの宙吊り的になっている。空気のように掴めないものを推し量ろうとして「空気」を読んでいることと同化してしまう。

「本物」は表層的に漂う均すための「空気」への抵抗であり、ロマンを抱えながらも「空気」の中に直面するしかない生きづらさの象徴でもある。

前島賢の『俺ガイル』書評にはこのようにある。

複雑な自意識を抱えた人物として描かれる彼(比企谷八幡)は、誰かを助けるためならば、孤立も誤解も厭わない(アンチ)ヒーローであると同時に、(ライトノベルの対象読者層の)10代の読者たちが実際に直面している生きづらさを代弁する等身大の登場人物でもあった。

この生きづらさは「空気」の読み合いに生じるストレスや「何者かになれない」ゆえの葛藤、そして「空気」によって評価経済的回路に組み込まれてしまう不可抗力が主に挙げられるだろう。

例えば、村田紗耶香などが描く「空気」や「普通」の暴力性に通じるものであり、「健全化した文学」に認められた祈りは同調圧力の呪いがあるからこそ成立するとも言える。

「空気」を読むことで均される「普通さ」への違和感や妥協は「本物」というアンチテーゼを掲げることで可視化され、許容しないことで苦悩する文脈が形成される。

また、それらの一定の暴力性を「言葉の枠」として向き合うからこそ『俺ガイル』が「文学」だと考える根拠であり、まとめで後述する。

 

P229 

きっと今まであれば、何かしら小賢しいことを考えて、口出ししていただろう。

けれど、これからはその必要もない。より正しく言うのであれば、そうしてはいけないのだと、ようやく理解した。

俺にできること、そして俺がしていいことは非常に限られているのだ。

 

雪ノ下雪乃比企谷八幡の普通であり、異常ではないことを図る距離感の空回り自体が、彼女をサポートする形で介入してしまいそうになる。

雪ノ下家の事情と対峙すべきは彼女自身であり、殊更彼女の手柄を強調することや弁護することは余計な意味を持たせてしまう。只でさえ当て馬企画があってこそのクオリティと時間だったのだから、多かれ少なかれ比企谷八幡の功績は意図せずとも考慮されてしまう。その消化不良が1回目のプロムの本質であり、いわば公然の秘密化していた比企谷八幡の関わり方(前期もそうであった)が、他者によってプラスに査定されることが雪ノ下雪乃の評価を相対的に保留にさせてしまう結果を生んでいる。

 

P235 

「ぶっちゃけ一番現実的なラインだと思うんですよね~。可愛い後輩の可愛いワガママに付き合わされて、なし崩しになぁなぁの関係続けるのって悪くなくないですか?」

それはひどく魅力的な提案だった。もしかしたら、一番理想に近い形だったのかもしれない。

一瞬、自分の心が揺れたのを確かに感じた。(略)

「……言い訳、わたしがあげてもいいですよ?」

 

ここでの一色いろはの提案は目的を作り、動く理由を与える温室的なものだ。「先送りの病」であり、比企谷小町を動機にした8巻と同じであり、城廻めぐりが夢見た生徒会での奉仕部活動の「IF」の実現化という現実的な提案自体もループしている。

また、プロムのハニートースト登場は6巻を彷彿とさせ、由比ヶ浜結衣と踊る比企谷八幡。6巻ではスポットライトにも当たらず、踊る輪に入れず、外から眺めているしか無かった彼の反復からの前進となっている。誰も観ていなかった、あるいは知らなかった比企谷八幡を今や由比ヶ浜結衣は観ている。

プロムの幕引きは比企谷八幡雪ノ下雪乃の関係性の比喩であり、距離感の可視化を健全な状態と受け取るのは、あきらめの肯定である。彼女から願いを託され、由比ヶ浜結衣の願いを受けることは勝負の結果であり、比企谷八幡の自由意志に基づく願いはそこには無い。デタッチメントのまま環境や「空気」に規定されているだけで、自分自身で掴み取るコミットメントではない。

依頼と願いを同一視し、依頼や勝負という建前でしかない事実ゆえに主体性が揺らいでいる。

 

P277 

俺に否やがあるはずもないのだ。

そもそもが平塚先生に強制されて始まったものだ。その平塚先生も今年度限りで学校を離れる。ぶっかけられた勝負も先だって、俺の敗北をもって終了している。

だから、俺に否やはない。

「……俺は」

これでいいと思っている。これが正しい。終わることにまちがいはない。全部納得している。二人の言うようにこれが望んだ形、正しい在り方、ひとつの決着だ。

なのに、そこから一言たりとも言葉は出なかった。

 

プロムを成功させて雪ノ下雪乃は実績を作った。

将来の展望も話し、彼女を見届ける依頼は成立したが、納得いかないのは雪ノ下陽乃。自由であった妹に対して、家に縛られていた姉は当然として決着を許容しない。雪ノ下雪乃側から雪ノ下陽乃をみるのではなく、雪ノ下陽乃側から見ると理不尽で曖昧な決着ともいえるだろう。

家への執着ではない。対価として差し出して欲しいのは「本物」であり、あきらめた自分には無いもの。大人になってしまったものの後悔。

「空気」に抗う者だけが掴めるかも知れぬ手触りへの希求は大人が飲み込んでしまう違和感そのものだ。

成熟拒否は痛みを引き受けないものであったが、自意識を丸裸にして「まちがって」痛みを受けたからこその「本物」と成熟を迎えるための段階を迎えたのが『俺ガイル』後期だと考えるが、あきらめるだけが通過儀礼ではないことも示している。

正しく終わることは「まちがい」なのかどうか。

主観的な選択として否はないのに首肯できない比企谷八幡。終わることが「まちがい」なのだから当然であるが、その温存的選択も違和感であり、ある種の袋小路に突入している様は否めない。

三者三様の堂々巡りは真綿で締めるように出口を縮小していく。正しく終わることが正しい在り方なのだろうかという問いが、「出口の無さ」といったデタッチメントの比企谷八幡の意思決定の根底を揺らす。「先送り」にすることはできない。言い訳を作って貰うわけにもいかない。それらは正しくないのだから。

しかし、そのまま関わると「共依存」という温室的で「まちがって」しまうジレンマは「本物」が醸し出す「正しさ」や純粋性に引っ張られていることに起因する。「正しさ」を迎えるためには主体的に選択することが必要であり、「本物」への決断が表層的に取り繕う「偽物」に容易くすり替わることを意味している。 

 

P287 

「……だって、あの子の願いは、ただの代償行為でしかないんだから」

(略)

代償行為。

ある目標がなんらかの障害によって阻止され達成できなくなった時、これに変わる目標を達成することによってもとの欲求を充足するような行動。つまるところ、偽物でもって自身を誤魔化す欺瞞でしかない。(略)

「雪乃ちゃんも、比企谷くんも、ガハマちゃんも、頑張って納得したんだよね。形だけ、言葉だけこねくり回して、目を逸らして……」(略)

「うまく言い訳して、理屈つけて……。そうやって、誤魔化して、騙してみたんだよね?」

 

雪ノ下陽乃の指摘した「代償行為」は、偽り騙しながら自己正当化するロジックの様は欺瞞的な「先送りの病」に通じる。これまでのその場しのぎの「先送りの病」とは異なるが、根本の解消を目的にしたまますり替えた雲散霧消を自己正当化したロジックは「先送りの病」と同種であり、温室から状況を変えるために「空気」を変え、正しさや「本物」を求めて抗い、「空気」を入れ換えて決着してみようとしても相互に欺瞞的に「まちがう」様子は歪さそのままを甘受できない視線、認識の問題である。

歪さに「共依存」と名前を付けられ、逃れようとしてもなお歪さを騙す「二重性=代償行為」は潔癖的なロジックと相反する。自己正当化した違和感は残り続ける「偽物」であり、「本物」を探していたのに「偽物」の鋳型に嵌められてしまう。純粋ゆえに掴めず、遠ざけても相互に鋳型に組み込まれる。

関係性の解消という結論ありきで出発しても、既に前提が歪んでいるから「まちがえ」てしまう。ならば、前提の問い直しをするしかない。6巻の雪ノ下雪乃が述べたように。9巻の平塚静の助言によって思考のポイントを整理したシーンが象徴的である。

P290 

俺はただ雪ノ下の心からの選択を、心からの決断を、心からの言葉こそ望んだはずだ。

けれど、それが諦観の末に下された代償行為にすぎない願いなら、やはりその答えはまちがっている。

きっと彼女の言葉に嘘はなくて、ただそれ以前に、答えを出すための前提が歪んでいたのだ。

否、俺が、比企谷八幡が歪めてしまった。

たった一つの答えしか許されていないことを知っていながら、それを選ぶことを避け続け、言い訳を重ねて保留し、詭弁だらけの詐術でもって歪んだ欺瞞を強要した。

優しさに縋り、誠実さに甘え、ひと時の夢に酔ったふりをして、正しい答えと言い張った。

それはもはや、まちがいと呼ぶことさえも烏滸がましい。

存在するだけ価値を貶め続ける、どうしようもない偽物だ。

 

存在するだけで歪むとは9巻の平塚静の言葉にあるように、関わることで歪み、関わらないことでも歪んでしまう。コミュニケーションであってもディスコミュニケーションであっても、関係性の構築や分解は他者を巻き込み、傷つけてしまう暴力性を孕んでいる。

そこで前提を捉え直すことは歪みの起点と向き合うこととなる。歪んで保留にしてきた「先送りの病」とも対峙するのは、言葉にしなかったのは言語化が出来なかったからであり、回避して保留にしてきたのはその術を持ち合わせていなかったからである。

簡単なのに複雑。

たった一言で言えれば言いのに言えない。過不足であり、過剰かもしれない言葉への違和感があるからこその遠回りは「まちがって」きた迂回路そのものが『俺ガイル』の物語構造を形象化していると言える。

 

P305 

共依存なんて、簡単な言葉で括るなよ」(略)

「君はその理屈で納得するのかもしれない。けど、そんな借りてきた言葉で誰かの気持ちを歪めるな。……その気持ちを、わかりやすい記号で済ませるなよ」(略)

「君の気持は、言葉一つで済むようなものか?」

「……まさか。たった一言で、済まされちゃたまんないですよ。だいたい言葉なんかじゃ、うまく伝わらない」(略)

「自分の中で答えはあるのに、それを出す術を君は知らないだけさ。だから、わかりやすい言葉で納得しようとする。そこにあてはめて済ませてしまおうとしている」

 

言葉が抱える暴力性と前提が歪んでいるという前提を問い直すことが遠回りゆえの近道であり、正しい在り方だろう。

他者との関係性における間主観性のように、雪ノ下陽乃の言った「共依存」を穿った見方だと平塚静が指摘すると同じく一つの見方でしかない。「共依存」ではなく、名前を付けられたことによる認知バイアスであり、他者の借り物の言葉で鋳型に嵌められたままをイメージしてしまう言葉の抽象性とインスタントな感覚は、複雑性を単純化することもできる一方で、それでも言葉を尽くすしかない。

行動も合わせてパフォーマティブに、コミットメント的に言葉を尽くし切った型の余白が、差し引いた残滓が届くかもしれない「本物」といった抽象性の炙り出しへの仮託さえも言葉が持つ「郵便的」な魅力であると言える。

 

P309

きっと、終わらせることそれ自体にまちがいはなくて、ただ、終わらせ方をまちがえていた。

借物の言葉に縋り、見せかけの妥協に阿り、取り返しがつかないほどに歪んでしまったことの関係は俺たちが求めたものではおそらくなくて、どうしようもない偽物だ。

だからせめて、この模造品に、壊れるほどの傷をつけ、たった一つの本物に。

故意にまちがう俺の青春を、終わらせるのだ。

 

前提が歪んだ「偽物」ならば、交換不可能な「本物」にするために傷を付けて歪ませることで「本物」と認識することも「まちがって」いないだろう。

『俺ガイル』が到達した「本物」へのアプローチは以上のようなもので、名前を付ける視線の暴力性という簡易なレッテル貼りを許容せず、複雑性のまま甘受するための「先送り」=保留期間=迂回路だったともいえるのではないだろうか。これはスクールカーストの見方や「空気」への抵抗にもつながる視線だ。

まちがう青春を終わらせるには「まちがう」ことが正しさへの近道であるように、歪み自体がデフォルトであるとする。

奉仕部を無くすと決意した比企谷八幡は、箱庭的関係性が持つ歪みを指摘する。

由比ヶ浜結衣はいつも能動的に動いている。それは6巻のセリフにあるように。先に行って、気付いて、偽りの温存を選んだことは「本物」のロジックとは異なる。だからこそ彼女は「本物」を欲したくなかった。その温存は葉山隼人的選択の延長であり、優しさではなく「全部が欲しい」ゆえの卑怯だと語ったのは11巻だった。「みんなのため」を装ったエゴイズムを恰も優しさとパッケージ化されると認識の齟齬により引き裂かれる複雑性を吐露したのも11巻だったように。

夕暮れの公園は「昼と夜」の狭間のまさに瞬間の甘受を体現したようなシーンであり、雪ノ下雪乃と関わるための理由を探す様子は、このままでは納得できない比企谷八幡の素直な言葉が零れる。

 

P339 

「一言言えばいいだけなのに」

「一言程度で伝わるかよ」

普通はそれだけでいいのだろう。

けれど、俺は鋳型に入れたような言葉一つでは、とても納得できない。それだけでは足りない気がするし、多すぎる気もする。過不足のない表現などできる気がまるでしなかった。なにより、その程度で済まされてはたまったものじゃない。

 

終わらせることは正しいが、雪ノ下雪乃と馴れ合いの関係性を求めているわけではない。

なぜそれを許容できないのかを言語化出来ず、一言で伝えることもできない。理屈が通ってないと思っているのは潔癖的なロジックとの乖離で、歪めた責任や男の意地と述べてきた事実が前景化しているからだ。

比企谷八幡雪ノ下雪乃ディスコミュニケーション同士がどのように関わり合うのか。関係性の解消に納得いかないことを納得した彼は、互いの予防線やロジックや建前を払って剥き出しにすることで「先送りの病」に逃げ込まないために外堀を埋めるとした。

 

P360 

これまでも、これからも、綺麗な解決など一度たりとできたことがなく、後味の悪い思いばかりを周囲に強いてきた。

正直に言えば、他のやり方もあったのではないかと、心の奥底では薄々感づいていた。(略)

ただ、言葉一つ、やり方一つで変えられるものに、俺は価値を見出すことなどできなかったのだ。

そんな吹けば飛ぶようなワンアクションで、気まぐれにすべてが解決するなら、そも、その苦痛も苦悩も懊悩も、ただその程度の存在でしかないと否定されてしまうような気がしてならなかった。(略)

たった一言で、変わるなら。

やはり、たった一言で覆って裏返って、そのくせ取り返せないに決まっている。

だから、俺はこんなやり方ばかりしてしまう。(略)

俺にできることなどたかが知れている。できることを全部やったって、どうしたって届かないことばかりだった。

だから、できる限りにことをすると決めた。

傲慢にも、何があっても壊れない本物の何かを求めた以上、全力をもって、歪めて、砕いて、傷をつけて、そうやって確かめてみなければ、俺はその存在を信じることができないだろう。

そも、俺程度にできることなどそう多くはない。持てるものすべて擲ったところで、さしたる影響を与えられるわけでもない。

手段も手駒も手札もろくなものがなく、だいたいいつも無為無策

 

取り繕って、偽って、騙して、保留して、「空気」に飲み込まれないようにするためへの抵抗は不器用ながらもアプローチをするためのロジックが必要となる。

前提が歪んでいるならばその歪んだままの選択肢を持つほかない。潔癖に苛まれても、傷を付けて歪で交換不可能なオリジナルの「本物」にするためには、雪ノ下雪乃と関わるための目的と手段がいるとした比企谷八幡の選択。

言い訳を用意してきた以前との差異は、根本の解消を「先送り」にし続けてきた目的性を宙吊りにしてきた態度に表れている。

手段としてダミープロムを本格的に始動させ、目的は雪ノ下雪乃との関係性を選択するためという目の前のこと一つへの純粋なコミットメントは、言葉を信じず、一言で足らないことへの迂遠なパフォーマンスだろう。このある種の「コミュニケーション不全」ともいえる迂遠なやり方は「まちがって」きたゆえの決断であり、一般的に正しいやり方を知らないし、そこに意味や価値を見出せない比企谷八幡の歪みが体現されているともいえ、歪んだやり方で押し通す自己正当的ロジックは彼なりの遠回りな誠実さなのだろう。

壊れないのが「本物」であり、純粋性は不定形である。言葉やイメージが形を作るならば、歪んだままを享受する交換不可能性における純粋性は「引き算」的に「本物」の輪郭を生み出すだろう。 

プロムの再起動において前提と目的は比企谷八幡の胸の内で、あくまでも手段でしかない倒錯は議論を宙吊りする。決定的なカードが無いなら作るしかない。その様子は「先送りの病」に似ているかもしれないが、「責任」を取ることを明言しているのが異なる。関わり続けるための手段であり、目的なのだから。

しかし当然ながら、プロムに口添えした事実があるために既に雪ノ下家も関わる話にもなっている。学生身分で他人の家に関われることができるかどうか。

竹宮ゆゆことらドラ!』などにあるように家族問題への踏み込み方は、学生身分の限界は常にある。学生時代にそこまで処理するためのリソースも能力も実績もないのだから当然だろう。

 

とらドラ!1 (電撃文庫)

とらドラ!1 (電撃文庫)

 

 

これまで雪ノ下家は作中で一切父が登場しない母権的集団のように描かれ、母性のヒエラルキーがそのままトップダウン型となっている(『俺ガイル』の特徴としては「父」の不在にあるように男性の立場が比較的弱く、比企谷八幡の進路選択には主夫があったように従来の父権的な振る舞いへのカウンターがあるように思える)。家の事情に踏み込むことは母権的な階層に取り込まれてしまうが、アウトサイダー比企谷八幡の介入はオルタナティブな揺らぎを与える可能性の話を持ち込める。

リソースや選択肢がない状況に未来の投資というオルタナティブを加える論法は、現状のリソースからカードがない状況を逆手に「未来」や「責任」のカードを作ることで仮想的なビジョンを与える。リソースがないのだから他にカードがないのは事実であり、ただ「先送り」にするのではなく、メタ的に責任や未来を「先送りにしたツケ」に回す覚悟を描いている差異がある。

雪ノ下家の問題は学生時代で解決することができない問いであるのに対して、将来的に関わっていくことで乗り出す覚悟と決意=未来というリソースによって資格を得ようとする姿勢は、「先送りの病に」対して問い直し続けていくという「メタな先送りの病」となり、自意識と関係性の更新を促し続ける。

この決断は、箱庭における相対化という決定不可能性の可能性が残るエンディングにある選択した後に選択肢が残る状態をメタ的に「まちがっている」とラブコメ的に批評したかのように描いたラストにも象徴的だろう。

信頼を通して関係性に変化が加えられる「成功」と「まちがい」は、タイトルにあるように後者のルートを進んでいく。その縺れや足掻きが特徴的であるのが『俺ガイル』の循環と迂回路的な構造が、幾度とないデタッチメントからコミットメントへの転換を図り、アイロニカルな「ネタ」ではなく「マジ」という依頼や願い=受動的な態度から、能動的に関係性は変わっていかざるを得ないのは、セーブポイントやリセットが存在しない分岐点そのままの直進を思わせる。

 

P393

「……手放したら二度と掴めねぇんだよ」

自分に言い聞かせるように、否、自分に言い聞かせるためにそう言って、俺は手を伸ばした。(略)

それでも、俺は雪ノ下の袖口を握った。

 

 

P395 

「お前は望んでないかもしれないけど……、俺は関わり続けたいと、思ってる。義務じゃなくて、意志の問題だ。……だから、お前の人生歪める権利を俺にくれ」

 

 

P399

本当に、他にあればよかった。けれど、俺にはこれしかないのだ。

もっと簡単に伝わる言葉があればよかった。

もっと単純な感情ならよかった。(略)

「人生歪める対価には足りないだろうけど、まぁ、全部やる。いらなかったら捨ててくれ。面倒だったら忘れていい。こっちで勝手にやるから返事も別にしなくていい」

 

引用したのは彼が最終的に辿り着いた言葉の選択である。

依頼という形で巻き込まれるしかなかった比企谷八幡が、自ら巻き込む側に立ち、その関係性の構築に伴う歪みという暴力性を自覚した上であることは明白だろう。

歪んだ手段や言葉は他にもやり方があったとすると確かに「まちがって」いるかもしれないが、彼なりの「正しさ」を導いている。歪み自体をストレートに伝えることの歪みというべきだろうか。歪める責任や対価を義務ではない自由意思として。

関わること自体に歪む暴力性があり、残った歪さ=真実は壊れないものが本物ならばこの正しき歪んだ想いがそうだろう。歪みを紛い物と認識することの不足は主観的であり、他者との関係性への眼差しは間主観性による。他者の主観を通じて、他者と自己を共同的に設けていく。この間主観性は周りの行動や意見によって自己が像を結び「私」となり、相互に「周り」という客観と「私」という主観のレイヤーが重なることで関わり合うものとして表れるものだ。

また、ヘーゲルによれば、自己意識は他者からの視線を介在しないアイデンティティはないように「私」は誰かの視線による「私」によって形成されることも間主観的である。そういった像を結ぶ最中に、例えば第6巻で引用されているサン=テグジュペリの『星の王子さま』にある「飼いならす」は一方向的であるが、その延長にある「関係を築き上げること」は双方向的であることは、ここの2人でいうと歪みを享受したまま関係性を取り結ぶこととなる。

 

星の王子さま (新潮文庫)

星の王子さま (新潮文庫)

 

 

歪さゆえの交換不可能性は平塚静が述べた「引き算的」な余白に通じる。それゆえに自己言及的な表現は「眼差し」や関わり合うためのコミットメントが持つ歪みを引き受けることを意味し、不器用な言葉よりも雄弁に語る温度の描写も見逃せない。

ここまで論述してきた長い道のりもあと少しであるが、迂遠で「まちがって」きたのに、きちんとラブコメしていること自体の批評性を感じる。

やはり、マルチヒロインとの決別から「関係性を築き上げて」終了ではなく、その後の展開が描かれている「余白」がポイントだろう。その先の保証や問い続けること自体が「先送りの病」への処方箋であり、作中では現状のリソースはないが、未来を投資することへの期待や意味を持たせた。関わるために目的が必要の時点でデタッチメントに傾いているかもしれないが、関係性の解消した後に選び、関わっていく転換はコミットメントそのものである。消極的コミットメント=「先送りの病」から、積極的コミットメント=メタな「先送りの病」への変換ともいえる(二重性は強調の意味)。

「先送りの病」やモラトリアムへの自覚的な答えは「本物」を巡る現実性と重なるようにして、その先を問い続けなければならない。メタな「先送りの病」も結局は「先送り」でしかないのは事実であり、言語のメタゲーム化を促進するものでしかないのは一面的には正しいだろう。学生身分ならなおさらできることは限られている。

しかし「先送りの病」に対して、何の保証も責任も担保せずに宙吊りにしてきた以前とは異なり、対価や意味を義務ではなく、能動的に積極的コミットメントとする態度は『俺ガイル』の循環構造による迂遠さが辿り着いた最大の転換だったと言える。

そこまでに十分な「まちがえる」反復的な迂回路を描いてきたのは証明してきた。この転換自体が、作品の持つ「保証」や「責任」の証明となる。

 

P495 

およそすべての問題は、解決などには程遠く、されど解消だけならぎりぎりなんとか、あの手この手のはったり嘘吐き適当こいて、その場しのぎに先送る。

いつかそのうち手痛いしっぺ返しを食らって、ツケを全部払わされて、ケツの毛一本残らずに、あますことなく責任を取る羽目になるのだろう。

けれど、たぶん俺はそうしたいのだ。

今みたいに、ぼろぼろになって駆けずり回って、愚痴をこぼして、それでも仕事して。

そうやって、全部使いきって、そのうえで、悔みに悔んで悔みきり、青春時代なんてまちがいだらけで碌なもんじゃねぇと、老後の縁側で小町の孫町相手に繰り言をぼやいていたい。

 

P505 

「共感と馴れ合いと好奇心と哀れみと尊敬と嫉妬と、それ以上の感情を一人の女の子に抱けたら、それはきっと、好きってだけじゃ足りない」(略)

「だから、別れたり、離れたりできなくて、距離が開いても時間が経っても惹かれ合う……。それは本物と呼べるかもしれない」

「どうですかね。わからないですけど」(略)

けれど、他の誰かに、たった一つの正解を突きつけれられても、俺はそれを認めることなんかしないだろう。

「だから、ずっと、疑い続けます。たぶん、俺もあいつも、そう簡単に信じないから」

 

その後の作品展開に充満しているラブコメの空気のように、周りが察して祝う雰囲気ではなく様子見を強いられていること自体、「空気」を読むことを強要させている側の無自覚さかもしれない。いつしか「空気」を作る人になっており、第2のプロム企画に関わる人の多さは比企谷八幡との間接的にも直接的にも関わってきた人間関係の賜物として描写されている。受動的な部活という体裁はなく、能動的なコミュニケーションの産物として表れている。

また、最後に平塚静が叫んだようにリア充という言葉が古びたのが2010年代だったともいえるだろう。端的に『俺ガイル』の時代性の変遷を意味し、リア充という言葉を自覚的に用いることができた最後の世代の作品だったのは間違いない。

再三述べているようにリア充と非リアの対立構造ではないのが『俺ガイル』であるが、その枠に嵌めて語るしかない言葉と視線の持つ暴力性と段階的に細分化していったものが、現在の陰キャ陽キャの二極化に集約されるように(作中ではリア充葉山隼人と非リアの比企谷八幡)二項対立を維持するための弁証法への懐疑性を告発してみせたのは重要である。 

さらにオタクとマイルドヤンキーの文化的親和性が14巻では取り上げられているように、リア充と非リア的な境界ではないオタク文化の越境が示すのはカテゴリに嵌めることの不可能性も大きい。

葉山隼人が『プリキュア』の放送日を知っていることやアニソンで盛り上がる戸部たちの描写も相まって、非リア的なオタクカルチャーの境界線はもはや薄らいでいるのが常識だ。

リア充と非リアの分類も作中で越境したように『俺ガイル』が描いたのは時代精神に表れているような縦のカーストを形成する「空気」や「視線」であり、また境界線が見え難くなってきた実体のようにして横に並ぶ形としての文化的・実存的な「島宇宙化」の現状である。

 

P483 

それがいいだなんて思ってないけど。

こんなの、まちがってるってわかってるけど。

でも、あたしはまだもうちょっとだけ、浸ってていいのかもしれない。

あの、あったかくて眩しい陽だまりに。(略)

そして、あたしは。

あたしが居たいと思う場所へ、駆けだした。

 

ヒロインルートから外れたヒロイン候補の由比ヶ浜結衣のその後を描くことでタイトル回収の「まちがえたラブコメ」に帰着してみせた。

しかし、その態度は「正しく」、譲って終わる必要性はない。なぜなら、彼女は全部欲しかったのだから。

由比ヶ浜結衣は「優しい女の子」という当たり障りのないイメージは単なる印象論でしかないが、彼女の気遣いと選択可能性からするとフェードアウトも選択肢としてあっただろう。「空気」を読むことで、雪ノ下雪乃のヒロイン一本化もあっただろうが、それを許容しない展開だといえるのは、雪ノ下雪乃比企谷八幡のラブコメへの「空気」をアイロニカルに置き換えている。「みんな」や「空気」を読むならば譲歩したままの可能性もあった。「みんな」のためではないエゴイズムとそれでも「まちがっていても」陽だまりに居たいと言える純朴さゆえのアイロニーではないだろうか。

「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている」というタイトル回収は1巻にもある。1巻は安易なラブコメへの期待の空転として「まちがっている」と評し、14巻ラストでは過剰なラブコメ=ハーレムエンド展開への突入が「まちがっている」という差異があり、迂遠な着地点からしてもラブコメへの批評性をまさしくタイトル通りに描いてきたと言えるのが『俺ガイル』だったといえよう。

この迂回路も一本道的な帰着だったとも言えるかもしれない。それは結果論的な見方であり、「まちがい」続けてきたラブコメへの批評性からしても王道的であったから導かれる所以だとも言える。

しかし、それを許容しない複雑性があったのはこれまで見てきた通りである。そうした迂遠な手続きがあったから、つまり「一言で済まされない」から物語としての単純化を拒絶してみせたのは、まさしく「まちがい」への応答に他ならない。

 

ある職業の偉大さというのは、恐らくは、まず人々を結びつけることにあるのだろう。真の贅沢は一つしかない。人間関係の贅沢さだ。

サン=テグジュペリ『人間の大地』

ここまで長いこと追ってきた本稿をまとめようと思う。 

前期から後期への起点となる比企谷八幡の自己犠牲への批判は、自分が何もないから痛みを引き受けるしかないという選択肢の無さを選択するほかない宙吊り的なものであった。それは貧者の詭弁であり、根本的解決になるのかすらも曖昧な「先送りの病」として記してきた。

自己犠牲と名前を付けられることを厭い、自分を省みずに傷つくことも厭わない善意的姿勢への気味悪さへの批判も作中であったように、他者にどのように見られているかどうかを認識するという、認識されていなかった比企谷八幡が迎えた次のフェーズを意味するのが後期の開幕だったと整理する。それを理解せずに選択した「まちがい」は反復的であり、自己肯定と自己否定の循環を描いてきた。

その自意識と物語の葛藤のシンクロニシティは、相対主義的なある種の破壊と再構築という宙吊りが露わになった結果をそのまま放置しないで無いものねだりに終始せず、掴み取るための「本物」への希求=唯一性・絶対性へのアプローチとなっていった。温存したままの葉山隼人たちの選択も相対化し、その表層を形骸化とみるか、保留を目的とした関係性の美点と取るかは解釈次第であるが、それとは対称的に相対性(「先送り病」やモラトリアム)から絶対性(「本物」や違和感)への物語に比企谷八幡の内省的な語りでもって「移動」してみせた。

曖昧な言葉ではぐらかすのではなく、抽象的なものを抽象的なまま輪郭をなぞるように言葉を発するのは距離感を逆説的に具体化しているとも言えるだろう。抽象を抽象のまま、具体化してみせると言葉の機能として解像度が上がり切らず、一定的に零れ落ちるリスクから抽象の周辺をなぞるしかない。

つまり抽象と具体の往復ではなく、抽象の輪郭を周遊するような様は『俺ガイル』の決定的な一言が言えない迂遠さを体現している。

また「先送りの病」の決定不可能性は、文学的なコミュニケーションの応答に通じると考える。

「持たぬ者」だからこそ選択肢を宙吊りした結果を選択肢に加えるという延期が、現状の決定不可能性における唯一の可能性(メタな「先送りの病」)であり、まさしく「文学」や「対話」や「言葉」などといった記号的消費かつ意味が「交通」していくことで「移動」せざるを得ないために決定不可能性へと陥るメタな問題構造も彷彿とさせる。それは同種として「先送り」にすることで、保留にすることで、騙すことで錯覚を生じる。その中でも不確実性に宿る誠実さこそが「本物」の立体感であり、余白である。その余白を問い、描くことも可能性としての「文学」の美意識だろうか。

6巻の「問い直す」から14巻の「疑い続けていく」は明快なアンサーであり、一度「本物」と便宜的に型に当て嵌めれば、それもまたすり替わり「移動」していく。逸脱しては新たな「枠」に組み込まれていくために疑い続けること自体が「本物」を求める構造となる。

例えば「共依存」という見方で自意識が肥大化する(人にどのように見られているかどうかのレッテル貼り)自己嫌悪のループは、名前を付けられることで枠に嵌められてしまうことの暴力性を示した。

果たして本当に「共依存」であるのかどうか、は平塚静が述べたように一つの見方でしかない。その正否を問わず、「本物」や「共依存」というレトリックは同時的に組み合わさり、潔癖的でありながらも歪みや矛盾を抱えたまま存在できるという見方を提示した。

現状の否定や違和感を言語化した際、「言葉」によって適合してしまうような結果の追認が自意識を自縄自縛へと追い込むように、自意識の循環と物語の正否の循環構造の相似形は自意識の肥大化が物語を飲み込むはたらきだったといえる。

そして、脱臼しつつも修復するはたらきとしての他者との応答は、コミュニケーションの可能性であり、「まちがえて」も帳尻は合うと語った9巻の平塚静が象徴的であった。

 

P234

「君たちにとっては、今この時間がすべてのように感じるだろう。だが、けしてそんなことはない。どこかで帳尻は合わせられる。世界はそういうふうに出来ている」

 

既に引用したが、前島賢の書評にある『「残念」なキャラクターたちの部活もの』という紹介から、「残念」をキーワードに2010年代を予見していく試みをしたのがさやわか『一〇年代文化論』でった。

 

一〇年代文化論 (星海社新書)

一〇年代文化論 (星海社新書)

 

 

そこで触れられているように「残念系」なライトノベルが増えたのが2008年以降の特徴であり、「残念」なヒロインを扱うラブコメに「残念」な主人公を据える相乗効果は『俺ガイル』も一枚噛んでいる。そして「残念」=「まちがっている」への自己言及性が『俺ガイル』とも言えるだろう。

さやわかが読み解いた「残念」は「残念」が否定的な要素を含めてポジティブに肯定する転換の機微だった。

決してアイロニカルに受け入れるのではなく、ダメなものはダメで「残念」でありながらも、それを単純に受け入れる様子は、「ネタ」ではなく「ベタ」に「マジ」な態度となる。その様子は「残念」の「キャラ化」を意味し、それほどに「残念」なまま深刻にならない処世術であり、「残念」が持つ長所と短所を清濁併せのむ延長にある微妙なニュアンスを揺れていると記した。

この微妙なニュアンスは、『俺ガイル』の作中のキャラたちの遠近的イメージや表象しようとした「文学」への祈りと揺れに通じると考える。

10巻にある第二の手記では、「文学」から零れ落ちた問題への悲鳴を上げている。そもそも名作と呼ばれるものですらシンジツ=問題にしていなかったという問題認識への疎外感と埋められない孤独との向き合うための「文学」として『俺ガイル』が、古典的な「文学」ではない「健全化した文学」の立場から「文学の昼と夜」を揺れる決意と読めた。

 

13巻

P281 昼が終わり、夜が始まるその前の、ほんの一瞬。俺たちが今いる時間は、存外そういうものなのかもしれない。

 

 

14巻

P468 海の果てへと沈む夕日が、海面をきらきらと輝かせ、それを眩しそうに見つめていたあの部屋、あの場所によく似た陽だまり。

きっと、俺は。

あるいは、俺たちは。

この夕暮れがいつか終わると知っていて、こんな時間は二度と来ないとわかっているから、その陽だまりにずっと留まっていたいと思ったのかもしれない。

けれど、そこを離れる時が来たのだ。

名残惜しくないと言えば嘘になる。(略)

俺はあの時間が、あの場所が、好きなのだと、ことここに至ってようやく認めざるを得なかった。認めなければ、離れることができそうにない。

あまりに明るく眩しくて、焼き付けるから痕になる。傷ついて瑕疵になるから忘れない。その傷跡を見て、確かにそれはあったのだといつか死ぬほど悔めばいい。

 

 

「昼と夜」の狭間の一瞬の「夕」を彷徨うことは、作中においてモラトリアム的な実存を示している。夕暮れのシーンが象徴的に描かれていることも関係しているだろう。その刹那的消費は「日常系」そのものであり、だからこそ自閉的で自律している。

しかし、ここで述べたいのは冒頭で記した吉本隆明の文学の比喩は「昼と夜」であったが、『俺ガイル』が捉えた「夕の文学」の持つ通気性や一過性は「健全化した文学」にも置き換えることが出来るとも考えている。

近代の「政治と文学」から政治性の脱臭を経て、個人の内面しか描けなくなった文学的事実は確かに『俺ガイル』のように学生の個人主義的な内面の葛藤に政治性はなく、社会性もない。全てはこれから身に着けていく過程のモラトリアムであり、瞬間的な価値の宙吊りは「夕」そのものだといっていい。どのようにしてモラトリアムにおける「先送りの病」と向き合っていくのか、は作中で明快な答えが描かれた。「夕」の一過性と向き合う「未来」や「責任」というメタな「先送り」の能動性として。

 

かつて江藤淳は「文学のサブカルチャー化」と評したことがある。

「文学」が全体性に接続されず、部分的なカルチャーでしかない意識を端的に示した。「サブカルチャー」を乗り越えて全体性を意識された「文学」を描かないといけないという江藤淳の警鐘に対して、『俺ガイル』は「サブカルチャー」の角度から「夕の文学」のままを取り上げた。

ミクロをミクロのままに描く「日常系」の精神性そのまま「夕」に適合させた『俺ガイル』は、江藤淳の言う「文学のサブカルチャー化」を物語として、自己意識の表象のまま素朴に応答したと言えるだろう。その表象は全体性、社会性に接続されないまま部分を捉える「文学」として、名作が取り上げてこなかった「夕の文学」としての応答である。

近代文学は内面性を強く要求した。

一方でポスト近代文学では「サブカルチャー化」とジャンルの細分化という文学的普遍性の解体に伴う娯楽としてのタコツボ化がパラレルに進行し、それらは不可分にジャンル化を促したと言える。

『俺ガイル』の文学的な立ち位置もそうだろう。

4巻では夏目漱石の『こころ』が引用されている。『こころ』が描いたように「絶対的なわかり合えないゆえの孤独」は、コミュニケーションに失敗してきた経験や歴史の集積であり、自己肯定から自己否定の文学との位置付けは『俺ガイル』の循環構造と重なる。

江藤淳夏目漱石を内面深くに潜り込んでいくと同時に、他者に向かうベクトルがあると指摘し、二つの運動性による模索の葛藤の文学性を認めた。

また近代における個人主義の開拓精神は、内面の優位性を確保しながらも世俗的なものを拒否しながら対抗しようとしていた、と柄谷行人は「文学の内省化」の経緯を説明したこともあるが、「サブカルチャー化した文学の内省化」は『俺ガイル』が捉えた領域だろう。ボッチであるまま、他人を信頼せずに自分の考えを確かめ続けると、自分が自分に問いを立て続けることになる。その自己言及にハマり、自分の中での循環が止まらなくなってしまうのは見てきた通りだ。

また『俺ガイル』ではスクールカーストの上から下へ、下から上への視線の合流による運動性と暴力性の葛藤や齟齬とその融解を描いてきたように、その都度「まちがってきた」人間が正しく他者を捉えることはできるのか、というコミュニケーションとコンテクストの問題が立てられてきた。その際の孤独は「絶対的な分かり合えなさ」が起点となるだろう。

その孤独が「本物」を求める不可避性と不可能性は主観的でありながら、間主観性を探る試みへと関係性の構築になっていく様子も他者との応答性にほかならない。

そして、実体があるという前提の近代的自我への疑いをフッサールなどの脈々とした実存主義から自我の観念的な空虚さを晒した夏目漱石論もあるが、『俺ガイル』の循環的な自己肯定と自己否定、空虚で歪んだままの自意識をそのまま甘受する自己言及性が、自意識の檻を構築してしまうならば、その痛みを引き受けたままモラトリアム的にどのように実存として救われるかを描いてきたといえる。

共感や共有は「文学」の錯覚性が持つ内在的感覚であるが、比企谷八幡の「夕」的=健全化した文学的葛藤とは距離があったのは10巻の手記にある通りだ。なぜならそこには「夕」が無かった。一過性や健全的な問題として処理されてしまうものは「文学のシンジツ」には無かったためである。

だからこそ文学的普遍性の解体における「サブカルチャー化」がもたらした部分的な場から、近代的自我という文明病を引きずる現代の空気と他者の存在の介入について歪んだデタッチメントをどのように関わるためのコミットメントに転換する意思決定として、迂遠に循環的に歪みへの内省的に表現してきたのだろう。その孤独と循環構造の軋みにより生じる違和感と向き合い続けろというメッセージは、内省的に抜け出せないならば違和感という実体が差し込まれるたびに内省的な空虚さを問い続けるしかないものだ。

ここで問われているのは、若者の自意識のリアリズムである。

大人が興味を持てないのは仕方ないだろう。アニメ2期放映時に見受けられた感想のように「夕」であるために過ぎ去った問題でしかない人もいる。「本物」への興味はなおさらだ。

作中にあるように、大人になる諦念は違和感を見逃すことに通じる。それはポジティブなあきらめであり、アポリアに対して違和感そのままを捉え続けることの自意識の空虚さへの応答とも言えるだろう。

そもそも現実を描くことが「文学」という錯覚であり、現実のままを描写することは不可能であるために虚構性の高い作品そのものに現実臭さを感じる転倒が生じる。ライトノベルのような虚構性に「自意識の捻じれ」という現実めいた手触りをキャラクターの実在感という錯覚を遠近法的に導入することで、現実自体を描写できない「文学の不可能性」への断念を記号的に虚構的に経由しながらも、差し引いた純粋性=「本物」という抽象性を表現しようしたのではないか。

そこには「残念」が引き摺る清濁併せ吞むニュアンスを多角的に用いて。

愚直なまでの「まちがい」の反復と「まちがえたくない」と思いながらも正しさを知らぬゆえに「まちがえてしまう」循環は、ゼロ年代作品に見られるループ構造を彷彿とさせるが、そんなある種のリアリズムを援用しつつ、「まちがい」続けた「自意識とコミュニケーションの捻じれ」という錯覚がもたらす現実性を持ち込むことで、不一致に陥る「健全な不全性」と違和感のままの「味わい」を描写したのだろう。

「まちがえ」のループによって物語の清算機会は繰り返すことで「正しさ」から逸脱しては「先送り」にされていく。その際には、東浩紀ゲーム的リアリズムのようなループによって超越的立場を保有するわけでもなく、それを援用するよりもむしろゲームのようにセーブポイントやリセットがないことの逸脱してしまったがゆえに「取り返しのつかない」リアリズムを肥大化させるように徹底的にループの軋みにあう「イマ・ココ」の存在性とメタな「先送りの病」を自覚することで射程に捉えつつも、「日常系」の刹那的な実存の葛藤を増長させていく試みがなされていたと言える。そして「本物」を求めることで自意識と美意識の迷路に引きずり込まれていく。その準備と舞台装置が『俺ガイル』のナラティブだったのではないだろうか。ゲーム的リアリズムを切断することで、つまりループへの言及性や批評性ではなく、自意識の循環が物語構造を飲み込むようにして循環しながらも「取り返しがつかない」一回性の強調と脆弱さは「夕」的な実在感を導入したと言える。

ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2 (講談社現代新書)

ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2 (講談社現代新書)

  • 作者:東 浩紀
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2007/03/16
  • メディア: 新書
 

 

フィクションにすることで現実の複雑性を単純化してみせることもできるし、複雑的に認識し得ない複雑性を構築できる。フィクションのレイヤーを経由することで現実を眺めることができるし、あるいは現実のままでは困難なレイヤーを現実以上に立ち上げることも可能だろう。

その際に生じる素朴な還元論ではないが、仮象仮象のまま、抽象と具体を往復することで立ち上げる時の揺れる感覚は、「文学」や「言葉」のニュアンスであり、「昼と夜」の淡いとなる「夕」からの純朴な悲鳴なのではないだろうか。それが独白とは異なる手記という形式を纏うことで「夜の文学」への応答として表れているのではないか。既にジャンルは細分化し、健全的で一過性の文学は溢れている。江藤淳が批判した「文学のサブカルチャー化」は浸透しきった状態なのは明白だろう。

読者を苛む生きづらさにおける「空気」の管理と抵抗は描かれてきた。「空気」を読むこと自体は、コミュニケーションのダブルバインドを指す。主体性を持つことを賛美され、「空気」を読むことを強制される生きづらさは、学校という閉鎖的空間に身を置く10代ならば顕著だ。その環境下では二分法や評価経済的回路に組み込まれることは避けられない。誰しもが安易にレッテルを貼り、「持っているかどうか」を分ける。そうした集合体が「空気」という幻想を作り、視線の暴力性を担保する。二極化によって中間は黙殺されてしまう。黒か白を分け、灰色に場所はない。

しかしこれまで見てきたように『俺ガイル』が描いた複雑性と多角性は、やはりそう単純化できるものではないのが一面的な事実だろう。曖昧さや余白を許容するための「言葉」との向き合う時間軸を作るのが「文学」の役割の一つであるならば、名前を付けて思考停止をする楽観的姿勢ではなく、「疑い続ける」ための時間軸を持つことが重要である。

時間軸を持つとはどういうことか。

例えば平田オリザが使用する「コンテクスト」は一般的な文脈という意味ではない。発話者がどのような意図でその言葉を用いたのかという全体像が「コンテクスト」であると記し、「コンテクストの外側にある言葉」は他者に伝わり難く、その差異がコミュニケーションの不全につながると言う。

これは「本物」を巡るシーンに当て嵌まるだろう。不可視な「コンテクスト」は「空気」に安易に回収されない。相手がどのような意図で言葉を発したのかという像を取り結ぶ行為は、差異を恐れながらも慎重に意図を組んだ上での(時間と密接に絡んだ)関係性の構築と重なる。

 

 

単純に「空気」を読んで判別するものではない。

「コンテクスト」の緊張感はコミュニケーションに負荷をかけ、安易な逃げ道を封じる。この過程で「言葉」そのものと向き合う時間軸が形成される。その慎重で大胆な行為は「シンパシーからエンパシーへ」=「同一性から共有性へ」といったように「わかりあえないこと」を前提に「コンテクスト」を擦り合わせていくコミュニケーションの差異における可能性であり、『俺ガイル』の「本物」論は帰着したといえよう。

 

文脈依存とした自分の物語であると相同性の錯覚こそが近代文学だったとするならば、夏目漱石サン=テグジュペリ太宰治の名作と呼ばれるものを引用している事実は、近代文学における文脈依存への接合点をライトノベルの観点から探る試みではあったのではないだろうか。

「健全化した文学」に対して「夕」の立場の追認こそが「文学」への回答であるとした、それすらもやはり文脈に依拠してしまうからこそ、迂遠な表現に仮託したといってもいいのではないか。これは典型的な「文学」への再起であり、そこには純朴な「文学」への信用があったのではないだろうか。

決して『俺ガイル』がライトノベルの場所から「文学」的にアプローチした初めての作品だと言いたいわけではない。正確に言うと「サブカルチャーの文法」に則った「文学」への共鳴がここにあると見ている。

ボッチであるがゆえに内省的にならざるを得ない。他者とのつながりを持てない不全性に対して、「文学」を通して近しい他者を自分事の孤独への処方箋のように。

一方で遠い他者としている存在すらも、輪郭的に近しい他者として手繰り寄せていく。選べなくなっていくことが「大人」になることであるならば、朝井リョウ桐島、部活やめるってよ』にあるのは、そんな刹那的アイロニーを捉えることであるが、一方で「選べなかった」ものが「選ぶ」までの帳尻が合う逆転現象は物語的に込められた祈りでもあるだろう。

ここまでライトノベルと「文学」の立脚点として『俺ガイル』をみてきた。

「文学」とライトノベルのどちらが高尚であるかどうかの話ではない。内省的かつライトノベルの文体、つまり比企谷八幡の語りでも「文学」の反復性による暴力性と内省を促すことに成功したことは大きな意味を持つだろう。「ブンガク」だと揶揄されていても、そのナラティブは一定以上の成功を収めたと言える。

しかし、ここに「文学」の更新はない。

既存の「文学」の健全化に対して、文脈依存の語りそのものが「既知となる文学への態度」でしかないと取れる。

また言葉への懐疑性をオブジェクトレベルに依拠せず、寄り添い続けることの「言葉消費」への回帰に他ならないだろう。記号性を導入し、自意識のリアリズムでもって多角的に解体していく文脈や時間軸を用いる文脈依存でもあった。それは、比企谷八幡を据えながらも葉山隼人雪ノ下陽乃と向き合った影としても色濃い。単独的でありながら、並行的に存在している遠近的な他者として。

「夕の文学」としてライトノベルを用いた結果からすれば、大衆化は更新されたかもしれない。一般文芸でもこの「夕の文学性」は見受けられる。それは部分的であり、全体性に接続されない脱臭された「文学」の形態だと江藤淳ならば嘆くだろうか。既に「サブカルチャー化」は達成しきった。文学的特権は「文学」だけが抱えるものではない。ジャンル化が進み、様々な角度から「文学の多様性」や周辺を捉えることができる。この一面的な事実は「文学」への見方であり、作中の遠近感に通じるだろう。

ライトノベルでの試みは『俺ガイル』に続く作品の行く末を見届けなければならない。『俺ガイル』の前期のみではない後期に立てられたライトノベルを用いた文学性への橋渡しという大衆化が奏功したかは、後継作品の真価が試される格好の機会になるだろう。

しかし、私にそれを論じる能力はない。

本来ならば、さやわか『一〇年代文化論』で触れられている『僕は友達が少ない』、それとは別に『俺ガイル』フォロワーと見られる「残念系」の行く末を記すのが2010年代を駆け抜けた諸作品へのあるべき態度なのだろう。

また、ここまでは徹底的に『俺ガイル』の自意識としてのリアリズムを誘発させた比企谷八幡の視点とキャラクター性を基に記してきた。その際に詳しく触れなかったスクールカーストの「空気化」と固有名とその分割性は、強烈なキャラクター性でもって牽引してきた物語の背景にある要素として向き合うべきだったが、それはこの論考を下敷きに別の機会に譲りたい。

また主観や客観、能動や受動といったように意志なるものを二極的に描いてきたが、これもまた國分功一郎の『中動態の世界』やフッサールに表れるような現象学における主観を括弧に入れる内省化を学んでから厳密に記すべきだった。その機会も別に考えている。

 

『俺ガイル』はどういう作品だったのだろうか。

「健全な文学」としての居直りの抵抗ではない。むしろ素朴な追認と反復になるだろう。それは「サブカルチャー化」が進行して部分的な一過性が「空気」のように醸成された「夕の文学」からの応答であり、そのシンジツだったのではないか。

物語として書き留めることで一過性を固定化する。

いつしか忘れてしまうような淡い黒いシミは「その時」までは反復して肥大化し、固定化しているような錯覚を覚える。「先送りの病」や「夕的な瞬間」を捉えることは、比企谷八幡がこれまでの「文学」に呼応できなかった一端のシンジツを問題化することであった。

「先送り」にできないこの瞬間を生きる「イマ・ココ」の噴出は、文学的普遍性をある種の解体と再構築を促した。「サブカルチャー化」した局所からの叫びとして。

そして素朴で青臭く、一切脱臭していない自意識の産物を一過性にしないで飲み込み続けることは、たとえ成熟の折に飲み下すことになっても、違和感という残留物が青春の痕跡としてあるのは「まちがって」いないだろう。

だからこそ、閉じ込めた純朴すぎる声が聞こえてくる。

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『選ばれた子』

人が嫌いだ。

馴れ合うのは疲れる。人と話したくない。

だから、声なんかいらない。

そう、少年は願った。

ある日、少年は声を失った。会話することに疲れていた少年は口を閉ざし、心までも閉ざした。

そして他人と距離を取り、少年は疲れることすらも止めようと努めた結果、少年は声を無くした。

原因は不明。いつ治るかも分からない。そう何人ものの医者は同じように首を傾げ、母は何度も泣き崩れた。

それから母は諦めたように、少年に手話を習わせた。

しかし少年はやろうとしなかった。

手話なんて。必要とせずに何度も首を横に振る。

少年は対話を望まず、筆談でのやり取りさえも拒んだ。

母はそんな少年の横っ面を叩いた。悲痛な想いで母は何度も。

少年はいつしか願った。手話なんてなくなればいい。

以前よりも少年は閉じていった。

もはや母とすらも距離をとるようになった。

ある日、少年は腕を失った。筆談、手話すらも適わない身体になったのだ。不思議なことに少年は笑った。

自分は選ばれた、と。

少年は神の存在を信じた。

そして少年は自分は他人とは違い、唯一、神と対話できる存在なんだと思うようになる。

そう、人が嫌いだ。

人との対話を望まなかった少年は神との対話を始める。それから何度も。

少年は耳を失った。音が邪魔になった。無音でなければ神の声は聞こえない。

それでも神は一度も少年と対話をしなかった。少年の願いを聞き入れるだけで、他にはなにも。声もない少年はただ神に語り掛けた。

あなたはなんなの?と、それだけを毎日。

もはや母は少年の前からいなくなっていた。その事に少年が気付いたのは、青年になった頃だった。

青年は闇を受け入れ、目を失った。視界に入るものが全て邪魔になっていたのだ。青年を永遠の暗闇が包んだ。

しかし青年は寂しくはなかった。

これで神と対峙できる。そう信じ、孤独になった青年はもう一度対話を試みた。

まだ足りない?

青年に声はない。胸のうちに問い掛けた、自分自身に言い聞かせるように。

神の声は聞こえない。青年は願うことをやめなかった。青年は足を失った。暗闇で佇む決意をして。

それから青年は狂ったように願い続けた。永遠の孤独な世界で青年は神の存在を知ろうとした。

声を聞くまで、青年は何度も願い、失っていった。

そして暗闇のなかに青年は一筋の光が零れるのを感じた。見えたわけではない。ただ何となく青年には分かった。青年は確信した。

神は近くにいると。

青年が捧げられそうなものは、もはや命しかなかった。

躊躇うことなく青年は願った。そして祈った。

神よ、僕を導いてくれ。

暗闇に射し込んだ光がぽつっと消え失せたのを、命朽ち果てる瞬間に青年は感じた。

可笑しい。

神は僕を裏切ったのか。

青年は頭をクシャクシヤに掻きたい気分だったが、そんな腕はない。

風前の灯火で青年は暗闇に叫ぶように、神に問い掛けた。

なぁ、おい、出てきてくれよ。

すると青年が消える寸前にノイズのような擦れた声が聞こえた。

「あんた、しつこいね」

快挙の瞬間は何とも味気ない言葉だった。

人間との接触を拒んだ末に、遂に神との対話がかなったのだ。

最後の最後に。

万感の思いで青年は最後に聞いた。

貴方はなんだ?と。

神の名も知らずに召されたくはないと青年は思っていた。その名こそが青年の人生の墓標に刻まれるのだから。青年は人生の対価を欲した。これまでの人生に意味を付けたかった。

しかし神は勿体ぶる。なかなか口を開かない。

はやくしてくれ。時間がない。

そう青年は願うと、神は口元を緩めただけであった。

「さっさと逝っちまいな」

青年は神の答えを聞くことなく、そのまま息絶えた。

それが幸か不幸かは青年にしか分からない。

神は闇に墜ちていく青年の亡骸を抱え、血が滴り落ちている心臓にしゃぶりついた。

「名前なんかないさ」

血を滴らせ舌舐めずりがよく似合う神は、死神と呼ばれるものに似ていた。

 

 

いきなりこれはなんのかというと、もはや怪文書ですね、これ。

2012年くらいまで私は小説と呼べるかも甚だ疑問だった文章を書いていたわけですよ。

その際にはインターネット上で創作系の人たちと幾らかやり取りをして、SNSも浸透していた中、ブログを中心に書評と創作でお茶を濁していました。

もっともブログに熱中していた時期だったかもしれません。正確にはSNS文化が来ているときに、まだブログで根っこを張っていた人たちの粘り気みたいのがそこらで観測されていた(もちろんその後はSNSに流れていったわけですね)中で、等しく変なプライドを抱えていたってのもあるんですが、私も例に漏れなかったのです。

当時、親交があった人々とは殆ど切れ、稀に訪問をしてみては更新が停止してブログ化石になっているなんてザラ。インターネットの海に還ることもなく、圧倒的な情報量が押し寄せる波打ち際で、ひたすらアクセスカウンターだけが訪問者の有無を音もなく刻んでいるだけの状態。

もちろん中にはまだ頑張っている人もいるみたいですが、当時のような更新とつながりの熱量は感じられませんでした(私が遠くに感じているだけ)。

で、ブログとSNSの話をすると長くなるので止めときますね。ほら、noteの話とか書かないといけないじゃん。

話を戻すと、上にある文章は2012年に私が書いた最後のものです。

それ以降は一回たりとも書いたことはなく、いつしか2020年になっていましたというのが実感です。

一度も書こうと思ったこともなかったのが本音でしょうか。

なぜ、書くのを止めたのかも正確には思い出せません。

当時は物凄く情熱を傾けていたのに、一向になぜ止めたのかを思い出せないのです。

こうやって振り返ると、その程度だったんだなと腑に落ちることは簡単です。

けど、納得ができないのも事実で。

あれほどまでに熱中して執着していたのに、こうも容易に時の忘却に耐えられなかった事実に、私はムカついています。そんな簡単に忘れられるものだったのかと。

これは教訓です。まるで時が止まったかのように動かないアクセスカウンターと化石ブログのように容易くそのままになって、忘れていったこと自体が風景になるみたいに、私の上の文章からはそんな空虚な風景が見えてきます。

当時、書いていた文章は殆どゴミ箱のゲートを潜って終了しています。多元宇宙的な世界観であれば無事に今頃は結婚しているんだろうなと想像することは楽勝なんですが、それを観測できないリアルの不自由さたるや。

だけど、この文章だけは辛うじて残っていたんですよね。唯一サルベージできたのが、最後に書いたものだったのです。

2012年の私は、なにを意図してこれだけを残したのか。

名残惜しいから?

消し忘れ?

まあ、何でもいいでしょう。

全く何も分からないのは確かです。いつかの私は、私に何かを期待していたのでしょうか。

となると、私が取るべき選択は「晒す」に尽きます。

恰好のネタになるんだから、それを供物として差し出すのがブロガーなんじゃないのか。

これがブロガーの矜持なんだよ。

中途半端に残していったいつかの私へ。

後悔も、恥も、大体は拾ってやる。

だからお願いだ。

オチを拾えるだけの技術をください。オチを書けるだけの能力を磨いてください。

これが、恥の上塗りってか。