おおたまラジオ

しまいには世の中が真っ赤になった。

田中辰雄 浜屋敏『ネットは社会を分断しない』感想 それでも分断を引き起こしかねない内面性

 

ネットは社会を分断しない (角川新書)

ネットは社会を分断しない (角川新書)

 

本書の結論はまさしくタイトル通りとなる。

この結果は、事前の私たちが抱くような一般的なイメージや価値観や分断を促してきた言説(トランプの大統領就任以降の機運)とは相反するものだろう。

本書では一定のエビデンスとそこから導かれる事象の結果として、まさに「タイトル通り」のように「分断していない」データと結論が露わになり、一般的なイメージとは異なるこの結果には多少の驚きがある。

タイトルで予告されているように、データの取り方やその推移、そして導き出す手順などを追っていくと確かに言うほど「分断はしてない」し、「分断を加速させているわけでもない」ことが明らかになる。

サイバー・カスケード、エコーチェンバー、フィルターバブルなどを踏まえた上でのインターネットのメディアにおける「他者」との接触の機会や他メディアとの接触の差異を捉えながら、好きなものを好きなだけ選択できるインターネットでありながらも一定の「他者」と接触する程度を炙り出していることから、インターネットが言説としての必要悪を引き受けることでもないことが判明したと言える。

これは明らかに私たちの認識自体が、「タイトル通り」である結果も含めてインターネットを通じてバイアスが掛かっていたと言えよう。

結論的には過激な一部の人が、インターネットを経由してより一層過激化した「大きな声」が通りやすいことによって「分断化」しているように見え、中庸的であったり、サイレントマジョリティの声は通りにくいことが、そのようなバイアスを働かせる所以となっているとして、インターネットの意見の集合は世論の鏡合わせにはならないと警告を促して纏めている。

データとそこから導かれた検証の積み重ねによって、確かにある一定の「分断」はしていないと言えるだろう。

しかし「分断」しているように見える・見えた―ーある意味ではこのような本が出版されるに至った経緯が示すように―ーそのような錯覚を結果的に与えていたことが重要ではないだろうか。

なぜ、私たちはそんな錯覚を抱いてしまったのだろうか。

一部の人が双方向的に大きな声で意見を交わすことで、中庸的な意見は黙殺され、極端な意見がクローズアップされることで一定のバイアスが働く効果は、確かに事実としては一定以上の「分断」ではなかったかもしれないが、そのような錯覚を正すことが本書の意義であったとしても、結果的に「錯覚が働いてしまう」ことへの処方箋が本書では弱い点が指摘することができる。

本書の最後に挙げられている打開策として「サロン型SNS」の提案に留まっていることは、一定における現状の追認で終わっているのが象徴的であるように、局所的な意見が極大化して「分断」の錯覚を与えるならば、一定的にクローズドに「分断」するしか方法がないと言っているに等しい。

これは有料会員サービスやオンラインサロンなどが顕著であるが、既存のSNSなどでは収集が着かなくなってしまった今、どのように「切断」した回路を持ち込むかという居場所を巡るある種の情報戦が繰り広げられていることの追認でしか現状における「分極化した錯覚」を癒すことはできないといったように読める。
このサロン型SNSという留保が、如何にクローズドに「切断」しつつ、インターネットの圧倒的な情報量と時間の速度調整を合わせながらも、「他者」の到来を巡る偶然性の接触機会を増やしていくのか、という既存のアーキテクチャ論入り口への架け橋にはなっている。

どのように「他者」と接触させ、同期しているように見せることでアーキテクチャ内の消費行動や意味を問うことは、これまでの哲学や思想が弁証法的に外部性や公共性としての「場所」をどのように具現させるかの試みであったと思うが、ゼロ年代におけるインターネットのオルタナティブな価値への期待(Web2.0)は梅田望夫ウェブ進化論』などを代表例として語られてきたが、結論としては中川淳一郎ウェブはバカと暇人のもの』にあるような「空白」の結果を生んだ。

そうして具体化したインターネットという場所は、シリコンバレーの文法における梅田的な期待としてのアカデミックな場所ではなく、サブカルチャーを例とした瞬間的な「祭り」の極大化だったと言える。

また落合陽一は『魔法の世紀』にて都市をプラットフォームの一種として捉えているが、これも三浦展ファスト風土化」のような郊外の風景の均質化、文化的生成力・発信力の凡庸化のようにコモディティ化が容易に進み、都市部では文化的・歴史的な意味が欠落した底抜けの状態が依然として進行していることの「空白=無=場所」を引き受けることで「日本的」であると言われてきた歴史と重なる。その空白さが均質化を受け入れ、ある一定の他者を取り込むことができる様は、ある種のアーキテクチャのような生態を持つと言える。

ここで指摘したいのは、そのような「空白な設計としての場所」を「切断」することで一定的に区分けすることは確かに都市の形象と重なる。

このアーキテクチャの自閉的かつ自律的な「一定的な他者」の到来を作るサロン型SNSは、一定の効果を持つと言えよう。

しかし本書で明らかになった「分断はしていない結果」を見るだけでは認識を正すことの必要性=正論として感じる一方で、無邪気にポジティブにはなることができないある種の消極性を引き受けざるをえない「あきらめ」を見出してしまう。
これまで外部性を発見し、再定義する一連の流れにおいて、あらゆる外部は内面化してきた歴史がある。

近年の日本でいえば、浅田彰柄谷行人の仕事が代表的であろうか。

外部は存在せずに内面化してしまうという漂白性=空白さにおける「場所」が一つにあり、また、この2010年代にも見られた「壁の外側」も「壁の中」であったという壁に区切られているレベルという「場所」の二重性は、外部性の空白、ヴィトゲンシュタインであれば「沈黙せざるを得なかった」前期を彷彿とさせるが、サロン型SNSという留保も一時的な「切断」でしかなく、内面化してしまうと考えている。

クローズドな場所であっても、絶対数はオープンな場所よりも限定的であるにしても、サロン型SNSにおいて、どこまでサイレントマジョリティを拾うための中庸的層を取り込む場所を用意することが出来るだろうか。

その限定的な場所でもサイレントマジョリティ=ROM専は存在するだろう。

また結局、オープンな二極化のようなクローズアップがクローズドな場所でも再現され、再び錯覚が働く可能性もある。

結果的に内部での二極化も発生するという内面化へのリスクを孕んでいる。そのような錯覚が、そもそも掛かってしまう働きについて勘案しなければ限定的で絶対数が抑えられた状態においても、一定的な外部の内面化は避けられないと考える。

そして、ある意味でそれと対立をすることは、本当の「分断」を齎すのではないだろうか。それは本書が到達した「分断はなかった」というある種のポジティブと消極性の追認を矛盾として引き受けてひっくり返すことになる。このことに対して「ポジティブなあきらめ」でしか対抗できない私たちの内面が切ないが、それを癒すようなアーキテクチャはあるのだろうか。

そして、同時にそれはリアルな「分断」を生むのではないだろうか。期待と不安が表裏一体として露出してしまったのが本書の「タイトル通り」からの展開のように思えるが、作者はサロン型SNSを一つの目安として提示して次作に繋げようとするポジティブな意思が見えるので、どのように応答されるのか期待したい気分ではある。

例えばコミュニタスという概念がある。

これは一時的かつ非日常的な協調関係性をベースとした他者と偶然性を巡る交流としての一定の効果があるが、常時接続下の「終わりなき日常」における圧倒的な日常性のつながりは、コミュニタスのような断続性ではない過剰さゆえの日常的空間の拡張と自閉性が混在している。そのようなつながりが評価されてしまう回路が可視化されるのが当たり前となった過剰な噴出に対して、コミュニタスのような一時的かつ非日常性を打ち出すだけでは不足してしまう。非日常を飲み込んでしまう「終わりなき日常」の強固な循環ゆえに常時接続のつながりは既に組み込まれてしまっているからだ。

では、どうすればいいのか。

日常性の観点で探るほかないだろう。

結果的には「切断」の仕方やつながりの再定義に迫る「日常からの再発見」していくしかない。

しかし、これはリアルな「分断」を生むというジレンマを抱えることとなる。

本書のように「タイトル」に表れた結果とある種のあきらめの追認に対して、この断念を引き起こしかねない内面性についてどのような回答があるのだろうか。それすらも、あきらめを促す巨大な壁のようにも映ってしまうのだから。

オスカル・P・カノ・モレノ『バルセロナが最強なのは必然である』感想 サッカーを批評するということ

 

バルセロナが最強なのは必然である グアルディオラが受け継いだ戦術フィロソフィー

バルセロナが最強なのは必然である グアルディオラが受け継いだ戦術フィロソフィー

 

本書には明らかに言葉の回復と再起動が立ち上げられている。

オスカルが言うことは古典的パラダイムから複雑的パラダイムへのシフトが、ペップ・バルサを紐解く上で欠かせない視点であると述べている。

これはミクロとマクロの関係性であるように、例えば落合陽一が『魔法の世紀』内で用いた表現に「全体批評性」がある。全体を総括するような批評する言葉が不足している、欠落した底抜けの状態が続いていることを端的に意味する言葉であるが、ここでいえばマクロを掴むことの困難さは全体批評性の不足と通じる。*1

人間は分析をする際に「分割」をせざるを得ない。

サッカーにおいては攻撃と守備を分けて考えることがベターであったように(そうすることが常識であった)、全体性から局所的な視点に立つことの演繹的に専門性を所有することは市場的にも見受けられる。例えばフーコーマルクスは資本主義市場の「交通」に着目していたが、その言葉や文化、例えば共産主義の情報や知識は資本主義の市場を経由することで「交通」して享受する矛盾が挙げられるが、本書では「交通」的に専門的な分業を配することで、ミクロを突き詰めたことでマクロの全体像を捉えることがモザイク的になっていることへの危惧を唱えている。

また、全体性を分割する分業制、専門性の所有は、デュルケームの分業論を彷彿とさせる。デュルケームが唱えた「有機的連帯」は、社会において人々が分業することで個別に活動して相互に依存している構造を指す。これによって全体性、複雑性が零れ落ちることで「全体批評性」は充足されないまま乱立した有機的連帯内で循環する図式となる。

これは主観と客観におけるマクロとミクロの差異であり、認知バイアスとなることで、果たして本当に全体性を捉える客観性は担保されうるのか、という認識の話となっていく。現代的にいえば、SNSに見受けられるフィルターバブルとエコーチェンバーが分かり易いだろう。常時接続による容易なつながりは、過剰さを生み出す一方で分断と島宇宙化をインスタントに充足している。現代の気楽なつながりの過剰による一部の連帯が島宇宙化を増加させていくが、そうではない側、他者をどのように受容するのかという分断は閉塞的に明らかな一方で、境界線が見え難くなった半透明性がより強固にバイアスを掛ける要因になっている。

全体批評性がなければ、相対主義的に個別的に位置せざるを得ない。

相対主義プロタゴラスの「人間は万物の尺度である」のように、人間が尺度になることで個別化していくことを意味しているが、これは相対化の結果として反動的に反知性主義に陥る可能性を残している。 

情報量が圧倒的になった現代でいえば、私たちの処理速度を遥かに上回る供給がなされている状況に対して意図的に切断するか、遅らせるなどの速度調整を図るほかはないと考える。

futbolman.hatenablog.com

例えば批評や文学などのあらゆる表現が「時間軸」を作るものであり、リアルタイムで流れている時間を横軸と捉える単一的な概念ではなく、表現によってもたらされる「盗まれた時間」は縦の時間軸となり、進行していく横の時間軸に随時斜線を刻むことで結果的に「遅らせる」ことが可能となるだろう。そのために文学や批評があるとするならば、言葉の回復は時間の調整にも重なっていく。

この文学や批評は文脈依存の産物である。文脈を掴むためにはまた時間軸が必要となる。速度が速すぎると調整しなければ私たちの持つ時間感覚は耐えられない。それゆえに語り直しのためには「時間と場所」が用意される必要性があり、そのための言語領域=文脈を立ち上げることが重要となる。

文学などに触れることは「時間と場所」が必然的に準備され、縦軸は意識的にせよ無意識的に「時間を盗まれるため」の時間を起動させる。千葉雅也が文学の言語を「内在的言語」と評していたが、それを導入する回路=「時間と場所」が求められ、必然的に組み込まれる縦軸の痛烈さが見て取れる。ここに文学などを経由する再起動的な理由があり、文学の所以ではないだろうか。

本書は明白に人文学的な回路を持ち込むことで、サッカーのエビデンス主義、自然科学主義とは異なるアプローチの言語を組み込むことで語り直しているという点において、これ自体が本書を象徴していると考える。

当然であるが、全体性、複雑性を扱ったビッグデータのままを抽出することはできない。それを取り扱う人間には意識、無意識含めた文脈によって抽出される(されてしまうのが)言語表現であるからだ。

それはマクロとミクロの視点で言えば、ミクロに分割する暴力性の自覚からマクロに再構築するという部分や要素から全体性を再起動させる帰納法的な視点の提供である。これには瞬間的に消費されるジャーナリズム的言説とは異なるレイヤーの言語(「時間と場所」)が必要となる。

例えば90年代以降の社会学、特にゼロ年代が顕著であったが、ニッチな領域が社会の全体性を反映しているという直結的なある種のセカイ系の構図でしか切り取れなくなっているのと共通的であって、全体性やビッグデータをそのまま取り扱えない、欠落した全体批評性や時代の象徴を切り取ることの不可能性がまさに社会学の壁であるが、どのように全体性へのアプローチを仕掛けるための言語領域が必要であるか(内在的言語の重要性)を本書では全体性を捉えようと人文学的に促しながら、抽象の周辺をなぞる導入からペップ・バルサの解説という語り直しを行っていることは興味深い。

分割的理解が前提にあり、全体性、補完性からミクロに抽出する記号性は、その記号的なアプローチへの補填性による意図や多様性が、結果的に全体批評性が欠落した島宇宙化の認知バイアスを促し、相対主義を加速させていく。

その点で言えば本書にある絶対的ともいえる監督至上主義への懐疑は、個別的に検証している事例だろう。戦術的に突き詰めていく際に陥りやすい選手の記号的理解と監督のシナリオという強大な神秘化をオスカルは不安視している。記号ではない選手の自発性や知恵は、監督至上主義に回収される記号的な依存構造があり、集団制作であることが抜け落ち易くなってしまう。

例えば映画撮影も集団制作である。クレジットでは分業した固有名への帰結を促す。 『シン・ゴジラ』について岡田斗司夫が「庵野秀明はテーマとウソを吐いている」と評していたのが印象的であるが、プロアマ問わず官民一体となればゴジラを倒せなくても凍結することはできる『シン・ゴジラ』のクライマックスはそのまま集団制作である映画という表現にも通じる一方で、結果的に庵野秀明にしか撮れないフィルムになってしまっているある種の監督至上主義に陥っているという見方*2と指摘していたのは、サッカーにおける固有名としての監督至上主義と選手理解にも重なるのではないだろうか。これは全体性をミクロな固有名、記号的な帰着にしてしまうある種の暴力性が働いており、オスカルが述べた複雑的パラダイムへの転換の困難さを象徴している。

シン・ゴジラ Blu-ray2枚組

シン・ゴジラ Blu-ray2枚組

  • 出版社/メーカー: 東宝
  • 発売日: 2017/03/22
  • メディア: Blu-ray
 

 

本書で度々引用される言語領域は特徴の一つであるが、ある種の二次創作的な言及=批評と読める。ブリッジさせる効果について自覚的であり、他の言語領域を接続させて語り直すための時間軸を作るためにサッカー以外の文脈から引用させている。この引用文化は「時間と場所」に自覚的であれば必然的な準備と言えるだろう。

例えば、近年の日本のサッカー論壇における「ポジショナルプレー」を巡る言語ゲームは、サッカーだけの言葉では解決しないと考えている。後期ヴィトゲンシュタイン言語ゲームなどの言語を持ち込む必要があり、そのための共通了解や合意形成をどのように図るのか、が言語ゲームを形式化していると言える。 

言語ゲームでいうと『天気の子』では、ゼロ年代の亡霊ともいえるセカイ系の固有の再定義を各自で問い直しながら、それぞれが解釈を乱立させた再提出によってセカイ系が膨張していく事例がテン年代でも見られた共通体験があったが、この恣意性はソシュールが指摘したような言葉が世界を切り取ったものでしかなく、それ自体に実体はさして無い交換可能なものであるという理解が早いだろうか。

「水」を「お湯」と言っても「お湯」を「水」と言っても構わないように、「犬」と「Dog」が同じ対象を指すことは明白であるからこそ、実体に関わらず不自然な言語の一致があるように。 

ソシュールでいえば「シニフィアン」は記号表現であり、それ自体が意味するものを指す。「シニフィエ」は記号内容=意味されるものであり、例えば「椅子」とは座るものという意味を指すように「椅子」自体シニフィアンにおける記号表現でしかない。「椅子」がどのような形状をしているか、どこまでが「椅子」たり得るのかは言語ゲームの領域に入り、「シニフィエ」は随時拡張されていく。セカイ系のように。

そして「シニフィアン」と「シニフィエ」は密接に結びついている不可分な領域であり、差異を持つことで了解が取れる。言語には差異や対立がつきまとうのは当然であるが、「椅子」が「机」と比べられるのは積極的に意味上の対立があり、消極的に差異を引き受けることによって明らかとなる。同様に「あいうえお」ならば「あ」はなぜ「あ」なのかといえば、他の「いうえお」との差異や対立を意味するしかない。ここに「あ」がどういう意味を占めるかはソシュール的にいえば「価値」で示される。言語における対立や差異は、それゆえに導かれる内部的なシステムであり、外部的な現象(実体)に左右されないというのがソシュールの言語観であった。

本書では言語学的な踏み込みはないが、同様に哲学の言語を持ち込むことでサッカーの言葉・視点を解体しようとする(再構築)試みがある。

 

オスカルが再三記している古典的なパラダイムは二元論的(攻撃と守備を分ける)である。

そもそもパラダイムとは、トーマス・クーンが提唱した一定期間集団が共有する科学的認識を意味する。一定の科学や合理性が古びて乗り越えられえる対象となった際にパラダイム変換や科学革命と称される「主観的な変遷」であるとトーマス・クーンが述べた。つまりパラダイムにおける「科学的な客観性」はすべて主観であるとしているのが特徴となるだろう。

オスカルが指摘するサッカーにおける偶然性、不確実性の前提(カオスありき)からの全体性への認識のパラダイムシフトは監督至上主義のシナリオを疑義的に扱いながら、分業的になっている部分間の相対主義的なフィードバックから、全体性を再帰させるための切断を意図的に全体性を扱うための物語化として批評や言語感覚を持つための「時間調整と場所」を示しているのが本書である。

この文脈依存の語り直しは文脈を掘っていけばある種のブラックボックス、神秘化を促すことに通じる。相対主義ゆえに絶対性(ここでは偶然性・不確実性が挙げられている)や真実との距離が顕在化するためだ。緻密な分析による解体に伴う文脈の再発見 と文脈の差異は、本書がパラダイム(主観的)として全体性の文脈を与えている一方で、扱ってきた言語領域の接続による衒学的に振る舞うことで神秘化していることも象徴しており、実学的には自己啓発本にあるようなメタ認知と同じような話になっている罠が挙げられる。

文脈、ネットワーク=引用もそうであるが、フットボールの理論化、現象の再現性、アカデミック化のパラダイムも全体性を、要素として抽出する文脈的な語りによってある種の切断と意図(なぜ全体性をそのまま扱えないのか、なぜ複雑性のものを説明することは回りくどいのか、つまり複雑性を複雑性のまま扱うことの挑戦)を人文学的かつ批評的な態度が本書であり、これは前述したジャーナリズム的言語とは決定的に異なる。

 

しかし、本書が出版されたのは2011年。

このようなバルサの連続性やトランジションや全体性を捉えようとする複雑的なパラダイムは常識となったと言えよう。攻撃と守備を分断的に捉える論調も古びた2020年時点では、オスカルが指摘することは自明の理であり、如何にアプローチしていくべきかという実学的に自然科学的に論調が形成されているのが現場とインターネット上の戦術クラスタと周辺となるだろう。

先に挙げたポジショナルプレーは、日本の市場では2016年以降の言葉であり、フットボリスタやビクトリーでは2017年が目安の年となる。

出版文化的には、カンゼンとソル・メディアと東邦出版が代表的であるのは間違いないだろう。 

本書は2011年にカンゼン社から出版されている。

今の戦術クラスタと連帯しているソル・メディアから芽吹いたわけではない事実がある一方で、つまり本書の立ち位置としてカンゼンの影響(どのように批評していくか)を露わにしていると言える。

しかし、カンゼンはこのオスカル的な文脈を維持しなかったと考える。古典的パラダイムではない複雑的パラダイムシフトの提示をした本書の具体的な中身を「交通」しなかったカンゼンという見方が出来るだろう。それは需要見込みと読者層と市場の原理によって、自然に淘汰された形だと推察が出来る。

結果論的にいえば、それは当然のことであり、このオスカルの文脈を別の方向からアプローチすることで全体性を再起動させる試みがリアルタイムで行われているからだ。

それを別の手法として引き継いだのがソル・メディアである。

ただし、オスカル的なアプローチを人文学的というよりもエビデンス的な相対化・個別的な分析から全体性を促すといった具合であり、私はオスカル的語り直しは日本のメディアに種子としてありながらも、オスカル的をストレートに継承しなかったことによる実学的な跳ねっ返りを思わせ、それゆえにこのある種の素直な語り直しが抽象的な捻じれのように屈折した形そのままを体現しているように受け取られる可能性が見えてしまう。

本書を出版したカンゼンは、フットボールチャンネルやフットボール批評を制作している会社である。

また、その二社の間を上手く割って入った形の東邦出版はパラルナウによる「ペップ本」が有名だろうか。

ペップ・グアルディオラ キミにすべてを語ろう

ペップ・グアルディオラ キミにすべてを語ろう

 

象徴的なのは羽中田夫妻が上記の「ペップ本」を訳しているということだ。明らかにオスカルの本の延長にある仕事と取れる。

しかし、この次に出たパラルナウの本『グアルディオラ総論』はソル・メディアかつ訳者が木村浩嗣であるのも、現代におけるサッカーの戦術と出版業界の象徴的な事実として見ることが出来るだろう。この路線をカンゼンではなく、東邦出版を挿み、ソル・メディアが引き受けた事実はサッカーにおける批評への態度の差異だと考える。 

グアルディオラ総論

グアルディオラ総論

  • 作者:マルティ・ペラルナウ
  • 出版社/メーカー: ソル・メディア
  • 発売日: 2017/05/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

ソル・メディアの書籍はサッカーのピッチ外の含めた語り直しが見受けられる。

例えばレジ―と宇野維正の「ミスチル本」はそういう意味ではソル・メディア的であった。しかし社会反映論としてはお粗末でありながらも「批評」を立ち上げる意識は感じる試みであり、あの手の本の第2弾が出てこないと出版文化的には本当の意味で残念であると考えるが、明らかに「批評性という語り」としてはカンゼンがオスカル的な文脈ではない方向の批評性を意識しているとすれば、ソル・メディア的には異なったカラーを打ち出していたと言える。*3

 

日本代表とMr.Children

日本代表とMr.Children

  • 作者:宇野維正,レジー
  • 出版社/メーカー: ソル・メディア
  • 発売日: 2018/11/28
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

本書が出版した2011年前後の出版文化を中心に見ていこう。

ソル・メディアの2011年は『戦術リストランテ』が代表的であり、フットボリスタという雑誌ベースであったのは間違いない(週刊誌時代)。webサービスは2011年からであり、その点の意識としては週刊的雑誌メインに、インターネットの台頭、常時接続における時代の情報の価値を再定義するならばという点で、2011年ではSNSが当然のように普及していたのでマストな舵取りだったと言える。

 

戦術リストランテ

戦術リストランテ

  • 作者:西部 謙司
  • 出版社/メーカー: ソル・メディア
  • 発売日: 2011/09/09
  • メディア: 単行本
 

 

一方でカンゼンは、webと書籍がメインであったのが2011年時点の特徴だったと言える。2011年に出た本書の鉱脈をカンゼンは継承しなかったと前述したが、オスカルのポジショナルプレー本は2016年に東邦出版から出ており、パラルナウの「ペップ本」もそうであった事実は大きな差異と見ることが出来る。東邦出版が、この文脈の間に入っていったことで明らかに現在にも継承されていると見えるだろう。

 

グアルディオラのポジショナルプレー特別講座

グアルディオラのポジショナルプレー特別講座

 

出版文化的に戦術系はゼロ年代後半から目立つようになり、主だってここ10年くらいの文化的特徴だと言える。

2011年時点ではペップ・バルサモウリーニョ・マドリーとの対立的な煽情的なものであり、カリスマ監督から見るリーダー論や組織論、そしてバルサから覗くソシオやクラブの在り方、カンテラという観点の掘り下げが出版文化的には度々為されていた。

つまり戦術的には具体的な内容や文体、言葉がない状況という(出版文化とインターネットのブログ文化は異なるが、本稿では出版文化に重点を置いている)従来のスタイルのまま、ゼロ年代西部謙司の存在感=「噛み砕いた分かり易い」文体による戦術論、サッカーにおける観戦術How to本、選手や監督の肖像に迫りながらピッチ内外を切り取るドキュメンタリータッチの「ナンバー系」が象徴的であった。

現代にも続く『戦術リストランテ』も目の前の試合ベースのコラムを纏めて書籍化したものであり、この分析の観点の緻密さは「ボリスタ系」に表れていると言える。

また、大きな視座を与える(個人レベルでトレンドを帰納法的に立ち上げるためにはコラム形式は一つの歴史化を促す一方で、時間の流れによって文脈自体が漂白されてしまう危険性もある)ものとしてはカンゼンから出た『戦術クロニクル』が2008年であり、戦術のアーカイブ化を西部的に捉える視座の提供は、データと現象の歴史化の複雑性(意識や無意識や文脈によりビッグデータそのままを抽出することはできない)を捉えることの一端に成功したと言えるが、その後の歴史的な戦術論の試みはインターネットのデータベースと出版文化という形態の合意形成に見られる。*4

そんな2011年の時点で、カンゼンが出版した本書の意義は大きいと考える。

「ナンバー系」などと異なる語り直しによる「時間と場所」は、ベタとなっている複雑性の視点を再提供した事実として、東邦出版を経由して現在のソル・メディアにおける緻密な戦術と分析論に帰着したと言える。ある意味ではオスカルの全体性のエッセンスは「ボリスタ系」のアプローチに回収されたと言える一方で、オスカル的な語りそのままは輸入されなかったとも読める。

オスカルの語りは、サッカーの目の前の試合ベースから帰納法的にトレンドを追いかけるものではない試みである。中長期的なスパンに耐えうる言葉の回復が求められ、それは圧倒的な情報量と加速していく現代において、パラダイムの転換を促す文脈は啓蒙としては達成したと一面的には言えるが、どのようにアプローチするかの手段としての実学的には、ペップ・バルサを用いた再起動的な語り、つまりサッカー以外のこともサッカーに接続して、サッカーを総合的に考えるという文脈を経由しなければ「時間と場所」を「作ることしか」できなかったとも言える。

なぜこのような手段であるはずの文脈が、それすらも文脈依存的に転倒してしまうのかというと、手段であることが目的と同化してしまうことによる神秘化によるものだろう。そのために時間軸を遅らせることに抵抗があると拒絶されやすい。

では、語り手はどのように手段としてブリッジさせ、そして接続させてどのように「時間を盗みながら」価値の転換を試みるのか、というさらに文脈依存した転倒した手段と目的が必要であり、この装置的な側面が批評そのものではないだろうか。

それゆえにカンゼン社が「批評」について自覚的であるのは現在に続く出版文化的にも読めるが、そのアプローチは「ボリスタ系」に回収されつつあり、どのように差別化していくかは「ボリスタ系」から零れる語り直しこそが、カンゼンが批評の「時間と場所」として機能することになっていくのではないだろうか。

しかし、この言語領域を持つ書き手の有無と市場の文脈は、実学・現場が存在するサッカーにおいて、この語りがどれほどの有用性があるのかという疑問が度々生まれる。*5

この出版文化、サッカー文化的には相対主義的かつ帰納法的な批評性の種(全体性のパラダイムがベタになった現代からしても)としての意味はありながら、再起動的に全体批評性を指摘した本書は、まさにトーマス・クーンのパラダイムの示す共同的主観の形成に伴う視座の古典になっていくのではないだろうか。ペップ・バルサの全体性の影を記した本書を中心とした2011年前後をみると、歴史的なサッカー観の問い自体、つまりペップ・バルサがいかに古典的パラダイムから脱け出して観る必要性があるかどうかという検証は書かれておらず、厳然たる事実としてのペップ・バルサの威光と全体性のパラダイムの転換を要請するためのサッカーの領域外からサッカーを捉えて考える「時間と場所」として見るものであり、サッカー的なスパンに留まらないことが結果的に抽象的かつ神秘化の膨張に拍車をかけたと言える。

本書にはオスカルが示したような私たちが見る世界の在り様の転換を意識化した語り直しがあるが、一方で「ボリスタ系」のような語りに回収された客観的な事実がある。この差異は出版文化的には、サッカーを巡る言葉の強調と見ていくことが出来るだろう。この現象は言語ゲーム化と検証を重ねるように加速していき、緻密さを伴って強固になっていく。その一方で、素朴に言葉と視点の回復を信じるような意図された転換の手つきが2011年時点であった過去は残り続ける。

*1:落合陽一は宮台真司の影響を受けたと公言していることから「島宇宙化」を引用して倣っている。

*2:みんなでやれば出来る!というテーマについて、作品の構図が真逆の印象を与える見方に作品は応答していない件。

*3:社会反映論としての(再)構築の手つきでいえば、さやわか『名探偵コナンと平成』が近年では良著の一つとして数えることが出来る。

*4:ポジショナルプレーの言語ゲーム化も含める。

*5:オスカル的な書き手がそもそも居ないという側面と市場として求められていない需要の側面があり、それゆえにカンゼンではなく東邦出版が継承した「数字には見えない」潜在的な意識はパラルナウ本などを出版した意味に集約されていると考えられるだろう。

『俺ガイル』を通した内省的なあとがき

futbolman.hatenablog.com

この一か月間は、日夜文学について考えてきました。

その中で、文学とは「時間軸を作る」ことだと一時的な結論を出しました。 

むしろ、文学のみならず批評などの二次創作含めた表現全般に言えると思いますが「語り直す」ための時間軸を作る「場所」を用意するのが役割であり、そのためには相応の「時間と場所」が必要になります。

これは時間軸を単一的に考えるのとは異なり、時間軸を複数持つイメージです。現実に容赦なく流れる共有的な時間軸を横軸とするならば、縦軸を構えながら横軸に随時斜線を刻んでいく「場所」の意味が文化ではないでしょうか。 

まさに圧倒的な情報量が加速している常時接続の現代において、如何に時間を遅らせるか、または違う場所を用意するのかといった速度調整が大事になっています。

例えば宇野常寛が掲げる「遅いインターネット」の計画は、端的にいえばそのように一時的にそして場所として固定的に遅らせることを目的にしているでしょう。

私の場合は『俺ガイル』を通して、文学や時間軸に考えざるを得ない「場所」を用意したことに尽きます。

この『俺ガイル』論はテクスト論ではありません。

しかしながら、テクストから離れないように書いたつもりでもあります。

作中では夏目漱石太宰治サン=テグジュペリなどが素材的に挙げられています。それらを中心に文学を考えてきました。ただし、その思索を纏めたわけではありません。『俺ガイル』には一切出てこない志賀直哉芥川龍之介などの作品や評論も漁り、冒頭に取り上げている吉本隆明が持ち出した「昼の文学」を図った三島由紀夫も例外ではありませんでしたが、これらを扱うとテクストから離れてしまうために書かないという制限を加えました。その思考の中で「時間軸を作るための場所」としての文学と向き合い、私自身も時間軸を作っていきました。

そして出来上がった『俺ガイル』論は本一冊分に相当するものでした。

このテクストが、非常に迂遠な書き方であるのは否定のしようがありません。

なぜなら『俺ガイル』に素朴に呼応した形を立ち上げたかったために、書いた形式自体が『俺ガイル』的だと考えたからです。

このスタイルが『俺ガイル』的であったという態度こそが、私なりの答えでもありました。

論考で指摘した『俺ガイル』が文学として素朴に応答した声は、いわば文学の入り口に過ぎません。あくまでもそのための「時間と場所」を作ることであるならば、私も論考ではそれを追認するテクストで倣おうとした結果でした。

であるから、ライトノベルというサブカルチャーの文法によって導入してみせた文学的経緯を記しました。

同時にこれは「文学(笑)」や「ブンガク」だと揶揄された後期『俺ガイル』の展開について、つまり素朴な文学的態度を受け付けなかった読み手の問題であると告発したかったのは言うまでもありません。

しかし告発したとて、否定したとて、そこに意味を見出せなければ駄目でしょう。そのためにテクストから離れない範囲内で『俺ガイル』の誠意ある文学への入り口としての文脈を掬い取っていきました。

そのような形態を持つ作品に対して、素朴に追認した迂遠なテクスト(非常に『俺ガイル』的)で応答するのが、自分なりの誠実さだと感じたのです。

『俺ガイル』を通じた、その反復性でしか「サブカルチャー化した文学」という現場を論じきれないと判断しました。

結果的に一か月という期間を徹底的な自意識の捻じれと「夕の文学」としての淡いと向き合い続けてきたので、私自身にも根付いているモラトリアム的な病を射程に捉えながら同時に乗り越える感覚がありました。

「書く」ということは内なる自分と対話し、乗り越えるという体験をもたらします。

それは、ある種の青臭さを許容できた時間軸を作ったとも言えるでしょう。

つまり自然と『俺ガイル』に接近していったことを意味します。完全な同一化とは言わなくとも、その微妙なニュアンスに込められた「時間と場所」に浸っていた「揺らぎと淡い」の事実が、私としては文学的な応答だったと考えるのです。

そういう体験をしました。

非常に内面化した「時間と場所」でした。