おおたまラジオ

しまいには世の中が真っ赤になった。

戦術オタクが浦和レッズのゴール裏に行ってみた

2017年4月22日土曜日

 

私は浦和レッズコンサドーレ札幌を観るために埼玉スタジアムへ足を運んだ。

普段、観戦する際にはゴール裏では観ないけど、今回は理由あってゴール裏を選択。

浦和レッズのゴール裏である。

浦和レッズのサポーターは日本一のサポーターと呼ばれている。海外サッカー好きの私でも、それくらいの知識は当然あった。フランス誌の「世界のサポーター10選」にも掲載されたのも知っていた。

熱狂的で情熱的なサポーター。時にはそのパッションが行き過ぎることもニュースなどで見聞きした。過激的で問題行動やトラブルはサッカー界という枠のニュースを超えて、世間に知れ渡っていることも。ゴール裏はサポーターが彩っている聖地。人によっては戦場といっていいかもしれない。

率直なイメージとして、浦和のゴール裏は「恐い」であった。

先日、知り合いに「今度、埼スタのゴール裏で観戦するんだ」と話したら、変なリアクションで驚かれた。様々な人に話した。皆が同じような奇妙なリアクション。好奇と不安が入り混じったようなトーン。

浦和レッズのゴール裏に抱くイメージは、あまり私と変わらないようであった。ゴール裏は物騒であると。

 

そんな私が埼スタのゴール裏に行こうと思ったのには理由がある。ただ、その前に書かないといけないことがある。

私はサッカーの戦術が好きだ。

世界のトレンドを把握したいために、自分なりに分析してツイッターやブログに纏めている。サッカーメディアのQolyにも戦術的なコラムを寄稿したこともある。

システム論といった選手の配置や監督の修正力などのピッチ上に表れる現象が好きだ。自分でもサッカー観戦における楽しみ方がマニアックだと思う。その傾向が強くなっていく過程で、いつからか価値観が変わっていった。試合の結果に対して一喜一憂しなくなった。ワンプレーに痺れることも無くなった。選手がゴールを決めても、ゴールという価値よりもゴールまでのプロセスに目を向けるようになり、極端な話、結果よりも過程や内容に価値を置くようになった。

ゴールよりも喜びや楽しさを感じるものがあることを知ってしまった。現象についての反応や結果に対する分析が、ステレオタイプなオタク気質な自分に性に合っていたことも大きいかもしれない。

サッカーを観れば観るほど、情報として知れば知るほどにのめり込んでいった。もっと深く知りたいと。

けれど、サッカーを観始めた頃はそんなオタク気質であったわけではない。

段々とサッカーをプレーし始めた頃のような情熱とは徐々にかけ離れていった。情熱の種類というかベクトルが変わったというか。好みが変わったからか。怪我などでプレーヤーとして身を引いたことも影響しているかもしれない。

 

98年W杯のオーウェンのゴールが初めて観たゴールだったと記憶している。

その時はまだサッカーのルールも知らなかった。手を使ってはいけないスポーツくらいの理解で、オフサイドなんて意味不明。ゴールマウスにボールを入れた方が良いって具合。それでも敵陣を切り裂いたオーウェンのプレーは凄いと直感的に理解できた。

それから小学生の時にボールを蹴り始めて、2002年には毎日テレビにかじりついてW杯を観ていた頃、開幕戦でアンリが退場したことにショックし、ベルギー戦の稲本のゴールに叫び、チュニジア戦のゴールラッシュに友達の家で観戦して盛り上がったこと、トルコに敗れて観戦会が静まり返り、母親がひっそりと涙を流していたこと。それらに子どもながら抱いた感情。

そういうのが今は無いかもしれない。

W杯後にサッカーをたくさん観た。そこから海外サッカーに触れる機会が増えていった。

初めて観た海外サッカーはフェイエノールト小野伸二が私のスターだった。永遠のファンタジスタである。小学生時代、私が初めて貰った背番号は14

14という数字を縁に私は小野伸二を追いかけた。初めて買ったユニフォームも小野伸二。そこからプレミアリーグリーガ・エスパニョーラにハマっていった。

徐々にサッカーを詳しく知りたいと思うようになり、戦術を勉強し始めた。

そこからだと思う。それが今に繋がっている。今ではそのストックが掛け替えのない財産だ。

これからもサッカーを観ていく上で、サッカーを語る上で、私というパーソナルには不可欠なもの。

 

最近になって、あの頃のような気持ちを抱きたいと思うようになった。

キッカケは2つある。

中村慎太郎さんの著書『サポーターをめぐる冒険』を読んだこと。普段、海外サッカーを観ている私にとって、Jリーグは物理的に近いのに遠いものであった。馴染みが無いというか。

そして、本を読んで感銘を受けた。受けまくった。

あれだけ泣かされたのも久しぶりというくらいに。Jリーグへの目線が一転した。そんなに素敵な場所がこれほど近くにあったのかと。

人の固定観念みたいなものやフィルターを吹き飛ばすパワーのある名著である。

著者の中村慎太郎さんがJリーグ観戦初心者として、様々なサポーターと交流していく過程でサポーターの実情が丁寧な筆致で描かれており、あらゆる人間を巻き込むサッカーというスポーツの持つパワーを感じられるようになっている。ガチでオススメ。

もう一つは、近年は色んな人とサッカー談義をしたこと。

様々な人とサッカーの話をした。どの人も同じようにサッカーが好きで、とても楽しそうに誇らしげに語っていた。

とても刺激を受けた。単なる情報の交換だけではなく、彼らの語る熱量に圧倒された。好きなチームに対するエネルギーに。それにジェラシーのような憧れを感じた。

私にも好きなチームはある。だけど、一歩引いた目線で観ていることが多い。私が言葉を交わした彼らはまるで自身のことのように話し、それがとても眩しく映った。

そこから私は考え始めた。

私にとってサッカーって何なのか?問うことで芽生えてきた感情。一旦リセットしようと。

サッカーを観て純粋に興奮したい。頭の中を情熱で支配されたい。色んな感情で爆発したい。そんな欲求が芽生えてきた。

だから、私は浦和レッズのゴール裏に行こうと考えた。

私は浦和レッズのファンではないけれど、日本一のサポーターの情熱に心を動かされたかったから。

もう一度、あの頃のように小難しいことを抜きにしてサッカーで跳ねたかった。そのパワーを貰いたかった。それには後押しが必要で、環境と気持ちが一杯に充満している場所、それは直感的に浦和レッズのゴール裏だと思った。

勿論、不安な気持ちが無かったといえば嘘になる。ただ、不安よりも興奮や興味が勝ったから。

友人と3人で行った。友人2人は普段サッカーを観ない。友人たちを誘うときに、私は飾らずに偽らずに自分の気持ちを話した。心の底から楽しみたい。普段サッカーを観ない友人たちと共にサッカーに純粋に巻き込まれたいと。快く承諾してくれた友人たちには感謝しかない。面と向かって彼らには言えないから、ここに書いた。

 

 

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天気は生憎の曇り空。試合中は雨が降ったり止んだり。その中、選手達とサポーターは共に闘っていた。監督のミシャも雨に打たれながら指示を送っていた。雨上がりのピッチに柏木の左足で虹が描かれることに期待したけど、それが叶わなかったのは残念。

 

 

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スタジアムに入ると、期待感が一気に膨らんだ。

最初はビジター近くのゴール裏から入場した。反対側のゴール裏にはフラッグや横断幕が多く掲げられて、声量的に浦和のウルトラスが向こうにいることは一目で分かった。圧巻の光景。興奮した。

折角、来たのだから当初の目的通りそちらのゴール裏に移動した。

けれど、席が殆ど埋っていたのでゴール裏の二階で観戦。

ただ、二階とか関係なかった。ゴール裏の一階の中心地からチャントとともに情熱が伝播してきた。スタジアムでしか味わえない感情が身体に刺さってくる。

90分間、ゴール裏で座って試合を観る人はいなかった。全員が腰を掛けることなく立っていた。

恐いイメージがあるゴール裏だけど、全くそんなことは無かった。老若男女が応援していた。

中村慎太郎さんの著書通りの光景が広がっている。

これこそが世界に誇れるJリーグの特徴だろう。きっと、席に座っていても誰からも咎められたりしなかったと思う。決して高圧的な雰囲気ではなかった。中には過激な人もいたかもしれない。それは分からなかった。けれど、誰もが周りに流された訳でもなくて自発的に立ちながら応援していたと感じる。その熱量はスタジアムに充満していた。

いってみれば、私たちは部外者である。周りは熱心なサポーターだらけ。そんな私たちも試合の最中に彼らに負けない勢いで自然と身体が動いていた。動かされたというか流されたというよりも、後押しをして貰ったという方が正しいかもしれない。それだけの力があった。

サポーターってなんなのか?と考えることがある。

シンプルなのに難しいテーマだと思う。人がサポーターになるまでには歴史があるわけで。

好きな選手がいてサポーターになったからとか偶々観た試合をキッカケにとか色々あるだろう。人の数だけ理由があるものだから。

多分、その一つにサポーターの熱に動かされたからもあると思う。今まで、サポーターになるキッカケはピッチ上にしか落ちていないと思っていた。地元だから応援するというスタンスは海外サッカー好きの私には馴染みが無かったから。

ただ、それは違った。ピッチの外にも、サポーターになるキッカケはある。サポーターが新たなサポーターの輪を作り出すこともあるのだと考えさせられた。そういう空間を演出できるからこそ、スタジアムは非日常的で特別なのだろう。

 

試合の感想は特に書かない。というか正直書けない。

戦術オタクを自称する私だけど、ゴール裏から観る試合は鳥瞰に近くてもテレビとは全然別物で、背番号が見えないから選手の区別は付かないし、選手の配置とかも横からではないので選手間の距離や噛み合わせを把握するのは慣れていないと難しい。試合中はそれをなんとか解き解そうと固執しないで、サポーターの熱気に後押しされるように応援に集中していった。

チャントは見様見真似。日常生活ではなかなかあれだけ大声を出すことはない。ひたすら手を叩きながら、選手達を応援した。少しでも選手の後押しになればいいと純粋に思った。

正直、最初は難しかった。変な照れがあったというか。周りのパワーに圧倒されて、形から入ってみた。心の片隅にあった複雑な感情。どこか客観的になる自分がいるかもしれないというか。スタジアムに来ても尚、いつもの観戦スタイルのように一歩引いたところから観てしまうのではないかという少しばかりの不安。それは全くの杞憂だった。勿論、ゴール裏から観るのに慣れていないこともあったのだろうけど、それはあまり関係なかったような気もする。伝染していく熱気。いつしか純粋に声を出し、チャントを唄った。友達がチャントの歌詞を検索してくれて、画面を共有しながら共に唄った。

ゴールが入れば自然と両手を天に突き上げたガッツポーズが出た。失点すれば言葉にならないほど落ち込んだ。私は浦和レッズのサポーターでもないのに。

そして、迎えた勝利の瞬間は友人たちとハイタッチ。胸の高鳴りは最高潮となり、自然と笑みが零れた。

ゴール裏は感情が爆発するところだ。

情熱に支配される場所だ。

自然とあの頃の気持ちのようにサッカーを観ていた。一つのゴールに沸いて、一つずつのプレーに酔い痴れた。ロナウジーニョのようなプレーがあったわけでもないのに、ピッチにはエンターテイメントが広がっていた。

特別なプレーが無くても、一つのシーンが大切なように観客たちは反応する。

 

印象に残ったことはたくさんあった。それら全てを書き切るのは大変なので、3つに絞る。

最終的なスコアは3-2であったが、試合内容や決定機の数を考量すると浦和レッズの完勝。それでもスコア以上の差が反映されないのがサッカーの難しいところだろう。

難しい判定もあった。興梠のPKのシーンだ。遠目だからレフェリングに対してあまり疑問を持たなかった。それよりもPKを得たことに喜びを爆発させていた。

試合後にSNSやネットを見たら物議を醸していた。どうやらかなり際どい判定だったようだ。当然だけど、テレビと違ってリプレイは無い。実況や解説の微妙なリアクションも存在しない。スタジアムを包んだのは勝利に近付くPKを獲得したという結果に対する安心と確信。

何度も巻き戻せる映像ではなく、現場にて一発で判断しないといけない審判には頭が下がる。

人間だから誤審もある。ミスもサッカーの一部。その言説に納得いかない人も多いだろう。贔屓のチームが不利益を被った経験があるなら尚更。

それでも、私は当たり前のようにフェアに試合を裁いても、リスペクトがなかなか向けられる機会が少ない審判という職業の難しさを感じてならない。とても難しいレフェリングだったと思う。人によって誤審か妥当かで分かれるかもしれない。それがサポーターならば、より贔屓目になることだろう。その誤差を限りなくゼロにするには機械による正確な判定でないと無理だ。個人的にはビデオ判定の導入は積極的に行った方が良いと思うし、テニスのチャレンジ制度のようなものでも良い。将来的にそうなる可能性があっても、私は審判というプロフェッショナルへのリスペクトは持っていたい。審判を批判するなと言いたいわけではなく、ミスを責めるなということでもない。ミスをしてもいいというぬるま湯の環境では育つものも育たない。ミスから学ぶこともあるものだから。

ただ、最低限の敬意は忘れたくないだけだ。批判の中でも、愛やリスペクトは欠けてはならないと思う。

熱狂的な人からすれば、私のような者は甘いかもしれない。サポーターではないから言えることだと。それは否定できない。第三者だからこその視点というのはある。それでも、様々な目線があって多角的であるべきだと思う。

たとえ誤審で泣く日があっても、次があるさと言えるように努めたい。それでも全てを飲み込んで納得できない人がきっといるはずだ。それこそがサッカーというスポーツが如何に感情を揺さぶるものかという裏返しでもある。この文化に人々が巻き込まれるのは必然なんだ。

 

浦和レッズのサポーターは凄かった。

予想や期待を超えた力をうねりながら、環境を作り上げた。

けれど、ここでは札幌のサポーターについて書きたい。アウェーの遠征でビジターはほんの一区画。サポーターの数は段違いなのは当たり前。それでも、彼らの応援はとても力強かった。浦和のサポーターに負けていなかった。チームが劣勢でも絶え間なく声援を送っていた。サポーターなら当たり前なのかもしれない光景なのだろうけど、ピッチ上の選手たち同様に勝利を諦めることはない姿に感動した。

私と同じように友人たちも浦和のゴール裏から見た札幌サポーターは印象的だったらしく、遠い地からチームを信じて追い掛けている姿に憧れのような気持ちを抱いた。それだけチームを応援するということは美しくて素晴らしいと思う。敵同士ではあるが、浦和のサポーターと札幌のサポーターが別々に応援していても、ある種のアンサンブルが発生したように思える。それがスタジアムを彩っていた。サポーターという存在の重要性。サッカーの主役は選手でそこにボールがあれば成り立つものだと思っていたけど、誰が欠けてもこのスポーツは成立しないのだと肌で感じた。

だからこそ、無観客試合というペナルティはとても重いのだ。今までニュースで見てもピンと来なかった罰則。興業的な意味合いだけではなく、その意味をやっと理解できた気がする。

 

後半34分に小野伸二が出場した。

スタメンに名を連なっていなかった私のアイドルの登場は言葉にならなかった。スタジアムには歓迎の拍手と愛のあるブーイングが入り混じるように轟いた。異様な光景だったかもしれない。けれど、ブーイングも拍手もどちらも正しいのだろう。間違いなんて無いのだ。90分の中でもゴールに匹敵するような光景だったと思う。

浦和レッズにとって特別なように、私にとっても小野伸二は特別だ。ありったけの拍手を送った。

その時に友人から訊かれた。「全盛期の小野伸二を観てきた君からすると、ピークが過ぎた小野を観るのはなにか切なくなったりしないの?」

同じことを思うことがある。絶頂期を観てきた選手のキャリア晩年について。

私はドリブル小僧の18歳のメッシを観て度肝を抜かされた。

何人もののDFを抜いて、ゴールを決める。簡単そうにやってのけるプレーは圧倒的で異次元。まさにスペクタクル。バロンドールに相応しい世界最高のパフォーマンス。虜になるのは当たり前だった。WGから始まり、偽9番としてゴールを量産。その後は中盤のようにプレーして徐々にプレーエリアが下がってきても、それでもゴール数は相変わらず多いけど、パフォーマンスが下がれば守備免除されている面、批判の対象になっている。

特に最近はその傾向が強くなってきた。バルセロナというチーム事情というかサイクルの問題もあるだろうけど、そんな中でも理不尽の極みだったメッシならば、という期待もあるわけで。

地球人ではないと言われてきたメッシも、これからプレー面でのクオリティは落ちていくだろう。様々な相手に勝ってきたけど、年齢にはメッシも勝てない。圧倒的であったメッシが落ちていくのは切ない。そのメッシを見るのは悲しい。そう思う私も歳をとった訳だけど。

友人に訊かれてそれを思い出した。返事は濁した。その時は整理が付かなかった。だけど、今なら答えられる。

小野伸二は永遠のアイドルだ。多分、そういうのを超越しているものだと思う。いつか小野伸二もスパイクを脱ぐ時がくる。その瞬間は出来るだけ遠い未来であって欲しいと思うけど、多分、悲しいというよりも感謝の気持ちで溢れるだろう。

ユニフォームを着ていなくても、次世代に私は小野伸二の凄さを語ると思う。この気持ちはずっとあり続けると確信している。メッシと小野伸二ではスケールが違うと思う人もいるだろうけど、私の中ではどちらも最高の選手だ。

目が悪くて選手の判別が付かなかったことは前述の通り。そんな中でも、小野だけはプレーですぐ分かった。やっぱり特別なんだ。ピッチ上に映された自身の思いが溶けていくような心地だった。

 

試合後、友人たちに実際に行ってみてどうだったか?と尋ねた。

「楽しかった。また行きたい」と笑顔。その内の一人はサッカーが好きではない。どちらかというと、サッカーをあまり快く思っていなかった。それでもまた観に行きたいと言っていた。サッカーに巻き込まれた人間が一人増えた瞬間だ。

とにかくスタジアムの雰囲気に圧倒されていた。画面越しでは伝えきれない味わい。試合終了後、帰宅の混雑を避けるためにスタジアムに残ったけど、各々がスタジアムの余韻に浸っていた。精一杯応援したチームが勝利したという事実。

どれだけ届いたかは分からない。それでも内なる高揚感はなかなか収まらなかった。埼スタから離れていく時のもの寂しさは格別だった。また来よう!と踏みしめながら、埼スタを後にした。

 

楽しかった。

これからもサッカーを観ていくだろう。サッカーが無い人生は考えられないのだから。自分の好きな音楽や映画や本を晒すのは勇気がいることだと思う。自分を紹介するようなものだから。もっといえば、自分の人生のパートナーやディティールを教えるようなもの。恥ずかしいし、相手に受け容れて欲しいし、拒否されるのは恐いものだ。

そういった感情が入り混じっている。私も好きな本を教えるのは妙な恥ずかしさがあるから苦手だ。そんな私が唯一、ヒトカケラの勇気も持たずに好きだと言えるのはサッカーである。

私にとってサッカーって何だろう?

多分、その答えが、この記事を書こうと思った原動力なのだろう。

ここまで赤裸々に書いてきた。でも、不思議と照れは無い。ログとして残る気恥ずかしさよりも、残さないといけないと思ったから。いつか、この記事を読み返すことがあるだろう。その時に、私は何を思うか。それはお楽しみの一つということで。青臭いと一蹴するよりも誇らしいと思って欲しいところだけど。

これからもサッカーを語っていく。ツイッターやブログという場に限らず、自由にオープンに語っていく。

その上で4月22日を忘れないでいたい。友人と観た景色。燃えるような真っ赤なゴール裏。多くの人間が一体となって作り上げる情熱の画。スタジアムでの高揚感。充実感と心地よい疲労感。帰宅した後も尾を引く興奮とその余韻。

他の人からみたら長いシーズンのリーグ戦の1試合だけど、私にとっては一生のものとなっていく。あの90分が深く染み込んでいくだろう。

ありがとう。浦和レッズコンサドーレ札幌

もっとサッカーが好きになりました。