「テレビの嘘とくだらなさ」と不条理は等号なのか
テレビの構造の主要素として「嘘とくだらなさ」があると思っている。
嘘という言葉が強いと思うならば、「虚構」と言い換えても差し支えないだろう。「虚構」だからこそが描けるものがある。
テレビのキラキラとした演出は嘘であるから日常的な空間ではないが、リアリティの延長にある空間に違わない。
桂文珍は「常識・非常識・超常識」と分類した。お笑いというのは「非常識な空間」であると評し、お笑いにおける常識は世間の非常識であると。
クレーマー天国、人権、倫理のエッジに「コンプラ」として乗せることで、バラエティの元気は奪われ、テレビそのものの体力は以前に比べると無くなっている。
「テレビは面白くなくなった」という意見も目立つ。特にフジテレビの『いいともグランドフィナーレ』は「テレビの終わりの始まり」として最後の祭りを放送したようにも映った。
ただ、テレビは今も面白いと思う。確かにつまらない番組は増えた。
一人のテレビ好きとしての肌感覚としてもあるし、現場(藤井健太郎の著作『悪意とこだわりの演出術』参照)からそのような声も出ている。
ハライチの岩井勇気は「お笑い風」というキャッチ―な毒ガスでバラエティに一石を投じた。
「俺らが思う100点の笑いってあるじゃないですか。でも、ゴールデンって、30点くらいの笑いがちょうどいいんですよ。その30点を100点だと思ってる芸人が売れるんです」
オードリーの若林正恭は『ダ・ヴィンチ』で連載していたコラム内で「冷笑主義への警句と自戒」を書いた。
恐らく「お笑い風」の番組が「お笑い」としてのスパイスになっているだけで成立しているのは一視聴者的にも感じるし、現場のプロたちが無自覚で居られるはずがない。
それが「退屈」なテレビが増えた一つの要因でもあるだろう。
しかし、やはり面白い番組はある。
ただ、昔にテレビにぞっこんだった人たちがテレビから離れて、時折チャンネルを回した結果「退屈」な番組にエンカウントする機会が増えているだけである。それくらいその手の「退屈」な番組は増えているが、そもそもテレビは「くだらない」ものであるし、テレビが死んだとは到底思えない。
ネットで話題になることなんてテレビの話題ばかりである。
ネットがテレビを食ったというよりも、テレビの情報を受け手の多重構造としてネットの敷地面積の割合が増えただけでしかない。
話を戻そう。
世間の常識がお笑いの常識を侵食しているのは事実である。こんな時代だからこそ、空気感だからこそ非常識な場があってもいいのではと思ってしまうが。
精神分析学者のフロイトのイドと自我と超自我のように、超自我とイドの関係を調整する自我、暴走するイドといった対応関係が人間の潜在性としてあるのだから、それをぶつけるはみ出す場所があってもいいのではないか。あくまでも個人の見解なので勘弁を。
もし、硬くて高い壁と、そこに叩きつけられている卵があったなら、私は常に卵の側に立つ。
そう、いかに壁が正しく卵が間違っていたとしても、私は卵の側に立ちます。何が正しくて何が間違っているのか、それは他の誰かが決めなければならないことかもしれないし、恐らくは時間とか歴史といったものが決めるものでしょう。しかし、いかなる理由であれ、壁の側に立つような作家の作品にどのような価値があるのでしょうか。(中略)
私が皆さんにお伝えしたいことは一つだけです。我々は国や人種や宗教を超えて、同じ人間なのだということ、システムという名の硬い壁に立ち向かう壊れやすい卵だということです。見たところ、壁と戦っても勝ち目はありません。壁はあまりに高く、あまりに暗くて-あまりに冷たいのです。少しでも勝機があるとしたら、それは自分と他人の魂が究極的に唯一無二でかけがえのないものであると信じること、そして、魂を一つにしたときに得られる温もりだけです。
考えてみてください。我々のうちにははっきりとした、生きている魂があります。システムは魂を持っていません。システムに我々を搾取させてはいけません。システムに生命を任せてはいけません。システムが我々を作ったのではありません。我々がシステムを作ったのです。
この演説自体は、一つのことを示唆している限定的なものではない。
以下は敢えて当て嵌めるならば、という心意気だけである。
テレビというシステム(人間と技術のネットワーク化)、組織だからこそ光を当てられる側面もあると思う。
卵との二項対立的な語りをすることが本論ではない。
卵側に立つ人もいるし、壁側に立つ人もいるという話である。
村上春樹の発言と同じ意図を持つ人もいれば、壁側に立つしかない人もいる。
例えば、カルチャーの消費行動における社会的自己実現として中立的なインターネットを介した横のつながりを可視化できるコミュニケーション的個人主義の時代に移行した中で、ネットワーク化されたシステムの在り方が問われているのは当然であるが、それはまた別の話である。
虚構の重要性は村上春樹の言説をそのまま使用したい。
さて、システムとしてのテレビ側の理屈がハマらなくなっているのは確かなことだろう。
テレビ離れが定着しているのは事実で、youtubeで好きなコンテンツを好きな時間に好きなだけ消化できるのは強い。壁が他の壁に阻まれようとしているとも取れる。
嘘にも暗黙の了解がある。
テレビの作りのスパイスは人間関係によるチームワーク以上のものはないだろう。安心感と信頼感が現場を作る。
その一つとしてテレビのお約束である「ドッキリ」も難しくなっている。
ドッキリ番組の功罪というのが可視化しやすい時代になっている。
ドッキリの根幹は不条理だろう。
果たして不条理は嘘に該当するのかどうかという点は再考の余地があるかもしれない。テレビの嘘というのは、視聴者に対して加害趣味があるわけではないのは前提として、ドッキリ番組は基本的に嘘が全面的に加害的に塗りたくられているものである。
視聴者はどう転んでも被害者になり得ない。
テレビ側の行為としてドッキリを仕掛けられる演者=強い言葉を使うと被害者になるが、視聴者の被害者への感情移入(共感羞恥もこれ)が働く。
そうすると、ドッキリという不条理が発生することで不快感が生まれてしまう。テレビ側としては加害的な対象は演者だけのつもりが、被害感情の共感がネットワークを介したコミュニケーションで膨大になっていく。
この新たなシステムに対して(その割にはツイッターで実況を呼び込む構造の番組も珍しくなくなった…なんで画面下に映し出されるツイートのつまらなさは一定なのだろう)、あらぬ方向に実弾が飛んでしまっている可能性がある。
勿論、テレビ側は知っている。
卵レベルで可視化できるものを壁レベルが見落とすはずがないから。
では、何故ドッキリは行われるのか?という話になる。
それは加害行為を最小(演者単体)に留めて公約数的な演出を取るためだろう。
不条理という非日常性をテレビという大きなメディアが持ち込むことでしか成立しないくだらなさであるからだろう。
しかし、この手の公約数的手法が現代的なシステムにマッチしているのかは難しい。
不条理というのは嘘になるのかどうか。
虚構にて非常識な空間を作り上げるのがテレビの強みであった。
ただ、現実はしばしば虚構を押し潰すほどの不条理が起きる。
一瞬で昨日と今日が断絶的になることもある。まるで「世界が終った」かのようになることもある。
虚構としての力が揺らぐことがありながらも、虚構が演出するリアリティの連続が「日常」になる。どんなに耐えられないことがあろうと容赦なく「終わらない」普遍性がある。
虚構の時代は終わったと言われて久しい。文学の力は失墜し、テレビといったメディアも死んだと言われている。
しかし『終わりなき日常を生きろ』*1というメッセージ性は墜ちない。
そこに虚構としての壁である「テレビ」の力を感じる私は、これからもテレビに期待したい。
時代が移りゆけば整合性は求められるだろう。
テレビの嘘とギャップが生じているのではないのか。その点について作る側の論理を訊いてみたいところである。
1989年のテレビっ子 -たけし、さんま、タモリ、加トケン、紳助、とんねるず、ウンナン、ダウンタウン、その他多くの芸人とテレビマン、そして11歳の僕の青春記
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