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しまいには世の中が真っ赤になった。

『機動戦士ガンダムUC episode 4    重力の井戸の底で』感想 バナージ・リンクスを考える

 

 『ガンダムUC』で一番好きなエピソードが本作である。とことん愛を語りたい。

 

機動戦士ガンダム』で描かれていた一つのファクターとして『親子』がある。

ガンダムというロボットに主人公である少年が搭乗することで獲得される男性性と社会的自己実現、自己承認欲求はアイデンティティとして剥き出しに描かれることも、今日までのロボットアニメとしては全く珍しいものでなくなった。個人的には『エヴァ』が思い入れが強い。

Ep4で描かれた『親と子』は家族ごっこの延長である。

キャプテンとバナージの会話には、「子を喪った親、親を喪った子」といった心の隙間を埋め合うように他者との寄り添いを求める関係性が見て取れる。

砂漠という剥き出しの大地を4日間を共にしたことで生まれた感情の過程は、視聴者に想像として委ねられているが、「父性」無くして補完できない。

灼熱で渇いた砂漠を歩くという行為は、死生観や人生観をグロテスクにする。サン=テグジュペリ『人間の土地』を読むと砂漠のシーンは強烈に映る。

 

人間の土地 (新潮文庫)

人間の土地 (新潮文庫)

 

砂漠か、と綸太郎は思った。砂漠へ出よ、それがクイーンが残した道標なのだ。そして、それ以上でも以下でもない。後は自分で考えることだ。

法月綸太郎『ふたたび赤い悪夢』

 

キャプテンはバナージにスープを渡してから、残りで自分の分を作るという仕草だけでも、渇いた心(怨念、使命感、哀愁)を潤す様にスープが喉を湿らした。

人を思いやるのにNTである必要はない。

バナージはキャプテンの話を聴いた時に涙を流す。

「わかってますよ。男が人前で泣くもんじゃないっていうんでしょう」

「いや。人を想って流す涙は別だ。何があっても泣かないなんて奴を、俺は信用しない」

 

バナージの言う男が泣くのはみっともないという価値観は、「男らしく」ないからを出発点としている。男性性の否定であると。

しかし、キャプテンは誰かを想うことで流す涙を肯定する。

「男らしさ」とは何なのだろうか。

ガンダムに乗ることで、少年は男性性が獲得される。エヴァにも『第拾九話 男の戦い』や『新劇場版エヴァ破』でシンジの覚醒として男性性を表現していたが。

ガンダムに乗ることは戦場に身を投じることになる。

渦中に飲み込まれていくことが、『巻き込まれ型』主人公の特徴であり、各々が「戦う意味」を探せるか=ロボットに乗る動機が作中の大事な要素となっているが、この時点でのバナージの不安定さは、戦うことに意味を見出せていないことに起因している。

ガンダムパイロットとしての器、ラプラスの鍵であることからの存在の価値が戦場に適合しただけしかない。ちなみに『ガンダム00』のグラハム・エーカーは、第1期最終回に刹那に「なぜ戦う?」と問われた際に、「軍人に戦いの意味を問うとはナンセンスだ」と一蹴している。

バナージとユニコーンが各陣営を揺れるのは、バナージ自身の帰属するべき場所が不確定であるからだろう。

そんな人間が戦場のルールに従うのは正しいことだろうか? 戦場という環境への適応 兵士としての従順さは戦い抜く上で欠かせないものであるが、それを否定する意思の力さえも否定するものではないと思う。

「悲しいね」

本作を象徴する名台詞である。

バナージは結果的に撃てなかった。

軟弱だと蔑むのは簡単だ。戦士として戦場のルールを否定したのだから、不適格極まりない態度であろう。

しかし、これほどまでに揺るがない意志の力が描かれている。あのシーンで撃ってしまったらバナージは「彼らしさ」を喪ってしまう。バナージだからこそ撃たなかったと思う。NTの描写で心を通わせる遣り取りは必要であるが、NTだからこそ思い遣れたというわけではないだろう。

撃つ強さより、撃てない弱さ。

だからこそ人間としての可能性があるのだと思う。それがどうしようもないくらいに切なく「悲しく」描かれている。

 

 

本作で特に大事なシーンを挙げるとなると、キャプテンとバナージの会話、バナージの撃てません、そしてオードリーとマスターの会話だろう。

マスターとオードリー、キャプテンとバナージの会話は違えどテーマは同じことが語られている。

プロットとしての空間は同じ地球の荒野であるが、厳密に空間的に一致しているわけでもないし、時間軸も多少の差異はあるにしてもプロット上でテーマとしての地脈がある。

「善意が出発点」としてあったのにボタンの掛け違いから、人と人は分かり合えなくなり、戦火に身を投じることになったという歴史観である。

それを聴いた感想としては「難しいですね…」になりそうだが「悲しいですね」となる。

それがフリとなって「悲しいね」に集約されている。

富野由悠季は人間同士の戦う歴史、軍事的ポリティカルフィクションとしての仮想スペースオペラ宇宙世紀を作ることで、現実のミラーとして耐えられるだけのフレームの大きいクロニクル的世界観を創造した。

現実の歴史、宇宙世紀の歴史からみても人間は悲しい。

悲しいからこそ克服したいという気持ちが生まれる。悲しいままではあまりにも辛すぎる。

バナージはガンダム(可能性の獣)に乗ることで進むために可能性に賭けた。

そこに介入する重要なキャラのリディが「可能性に殺されるぞ」と警告するが、バナージは可能性の一歩を踏んだ。

リディの本作の役回りは「血の呪縛」に苦悩する青年像である。

リディとバナージとオードリーはそれぞれが呪縛と宿命と向き合う姿が描かれた。その結果、諦観と可能性と覚悟の対比関係が浮き彫りになっている。

 

 

ロボットアニメにおける男根主義とナルシズムの相関性は、メタファーとしても珍しいものではない。

社会的背景を前提として、男性がナルシズムを確保することを内面のロマンで自己完結することで維持しようする態様がある。そのために、しばしば男性主体を無条件で肯定してくれる女性を登場させる作品がある。その女性には女性らしさといった性差よりも、他者性が薄い他者としての承認装置として働く。

一般的なハードボイルドは自己完結するタフさがあるが、維持されていた内のロマンそのものを他者からの承認によって補われる場合もある。

それらを踏まえると、バナージを承認するための女性は登場していない。

「母性」よりも「父性」のエキスが多いくらいだ。

しかし、バナージはNT的価値観だけではなく、人間そのものの可能性に賭し、内面のロマンを自己完結していこうとする姿勢があった。

戦士ではない人間としてのバナージのアイデンティティが確立した転換点ではなかろうか。

フランスの哲学者ヘーゲルは、「人間」とは自己意識を持ち、自己意識を持つ「他者」との闘争から、自由や社会への参入をしていく存在と定義した。

バナージから見えるものは人間の可能性であり、成長、進化の過程である。