おおたまラジオ

しまいには世の中が真っ赤になった。

バーチャルYouTuber視聴童貞の考察

友人が酒の席で「最近バーチャルYoutuberにハマっている」と言ったのが昨年末。

彼とはそれ以来会っていないが、理由を問うことを忘れた。その時は酒に夢中だったから。

しかし、それが後々考えてみると魚の小骨のように喉に刺さっていた。

バーチャルYouTuberとは何なのか?

去年の暮れにはそもそも殆ど認知していなかったし、今もネットニュースとしてちらほらとコンテンツとして見掛けるくらい。

要するに今もよく分かっていない。

彼と次に会う時までに、自分なりにバーチャルYouTuber像を固めておきたい一心でこの記事は書かれている。見切り発車だ。

バーチャルYouTuber像を考えるに至って、実際に動画を観るかどうかの選択を迫られた。決断は容易だった。

観ない。

観ることでイメージというのは空想上の域を軽々と脱し、具体的な共有化が出来るだろう。

しかし、それが誤った見方、つまりミスリード的な先入観によって自身が当初から抱いていたイメージの補強を促す可能性もある。イメージが強固になればステレオタイプとなる。未知の分野に触れる際には、フラットなままバイアスに気を付けるべきである。

ただし、その中立性は幻想かもしれない。

ならば幻想のまま浸れるように具体的なイメージを取り込まないで空想の域で遊ぼうという選択をした。

くどくど書いた。言い訳である。人は弱いから。

 

nlab.itmedia.co.jp

たば:キャラクター性を乗せられるというのがボカロ黎明期と似ていると思っていまして。

いい曲が書けるんだけど発信力に欠ける、みたいな人たちが、『初音ミク』っていうキャラクターを一枚乗せることで曲に発信力を得ることができたと思うんですよ。

だからこそいろんなジャンルの鋭利かつくすぶっていたオタクたちが入ってきたんですよ。いまカラオケにボカロ曲はすごい数の曲が登録されているんですけど、ラップや洋楽ポップにジャズもあって何でもあり。

ボーカロイドって70年代以後の音楽ジャンルをほぼ網羅したという特殊なコンテンツなんですよ。なので老若男女全てのファンを得られた。バーチャルYouTuberも同様に進んでいくと考えております。

キャラクター性を乗せて発信力を強めるっていう共通点。そこに加えてバーチャルYouTuberは自分の好きなキャラクターを作ってビルドできるので、趣味人が多いし、趣味を乗せやすいんですよね。

バーチャルYouTuberだからって見た動画で動物や食虫植物や車両技術に詳しくなってしまうこともある。設定をつけられるのが、バーチャルYouTuberのボカロ以上の強みですよね。

トークしているだけでもいいし、ゲーム実況してもいい。ボカロは歌というくくりがあったので。コンテンツというよりツールとしての側面が強い。

 

この言説を丸々飲み込めば、バーチャルYouTuberというのはコンテンツではなくツールとしての側面が強調されていることが分かる。

ツールとしての自由度が高い。

仮想現実としてのリアル/ネットの二元論から、リアルの延長上にあるネットという拡張現実的現代において、共通のアバター(記号化)からn次創作するのは確かにボカロ文化に通じるフォーマットである。

記号化に際してキャラのコンテクストといった余剰部分を削ぎ落としたキャラ消費は、例えばエヴァの世界観(≒大きな物語)を咀嚼するよりも、エヴァ公式の確信犯的セルフパロディ化、オタクたちによる二次創作化などのムーブメントのように明らかだ。

これらと多少違うのは、アバターで遊ばせる擬似環境作りと密接したキャラ消費だけではなく、バーチャルYouTuberというのはどうやら各オタクの武器(ツール化)がそのままコンテンツとして吸収されていき、アバターの属性に付与されていく拡張性があるようだ。

それはキャラの暴走、或いは破綻したオーバーな部分もバーチャルYouTuberのネット人格として記号化に収斂する。

このアバター自体の懐の深さは、人間のYouTuberと異なる可能性を示しているだろう。

人間だからこそ、コンプラ的にも現実的にも難しい企画がある。プロではない擬似タレント≒セミプロとしての彼らは、タレントとしての像では全く違うが、敢えてニュアンス的に例えるならとんねるずのような部室芸あるいはお約束から外れる豪快な素人に毛が生えたような距離感(とんねるずはお約束を分かった上でのスター性がある)に近いかもしれない。

丁度いい素人っぽさがあるYouTuberが、どれだけ一個人で頑張っても単体としてのコンテンツの限界はある。

そこでの全く違うキャラ路線には、ブランド化したYouTuberほど踏み切り難いものだろう。

例えると、HIKAKINがキャラ路線を変更したとする。子どもたちを笑顔にして食う飯は美味いか?路線から、青木ヶ原の樹海動画を上げたりする過激派に移ることは難しいだろう。

現時点での成功を投げ出す意味もないし、動画による主義主張をすることで要らん蠅が付く可能性もあるから無駄なリスクである。それでも何らかのイデオロギーに感化されてというのは完全に排除できないが、その辺の危うさは彼自身のセルフプロデュースや事務所のマネジメント方針、戦略でチェック体制は敷かれていると想像できる。

それに対してバーチャルだからこそ自由度が高く、ウソにウソを重ねやすいのは大きなメリットだろう。

オタクからも、統一された記号を使うことで自己創作意欲、既存の自己発信力に関係なく、アバター固有の知名度に乗っかれるから敷居が低いだろう。

発信しているのは正確には「自分」でないが、「自分の作品」を記号としてプロデュースできる手法は、ボカロ文化と同じように消費者/発信者の境界線が不確定で、いつでも参入退出ができる市場の自由性が確保されていることを示している。

こうやって考えてみると、バーチャルYouTuberというアイデア自体に革新性は無い。あくまでもゼロ年代からの再構築である。

ただ、最も大事な部分はゼロ年代当時、消費者だった側のオタクが成熟し、発信側として回れる十分な年齢に達しているという点だろう。昨今のコンテンツのリメイクのように、子ども向けよりもおっさんオタクがターゲットになっている。

なぜ子どもよりおっさんを狙ったビジネスを展開しているかというと、おっさんはお金を直接落とせるから。これはこのツールだけに留まる話ではないと思う。

バーチャルYouTuberというコンテンツ自体にどれだけのお金が回っているかは想像が尽かないが、ツールとしての力は世代間格差を上手く縫うように拡張的に企画されて、運用されている。

バーチャルYouTuber恐ろしい子

(実際に観たら補論を書くかも)