おおたまラジオ

可哀相じゃない!

天才への追憶 『少女キネマ』を添えて

 

 

一肇『少女キネマ』を読んだ。

作中にあった文章に目を奪われた。

「あいつは……天才すぎます」/「天才、ですか」/「それは便利で、とても安易な言葉だと私は思います」「……安易?」「天才は努力などしないと思いますか。天才にもの創りの苦しみがないと思うのですか」/「天才という言葉は、天才と呼ばれる人々に対する最大の侮辱なのです」

 

「/彼の中にだけ存在する幻想の魔物だと思い込んでいたのです。しかし、魔物は実在した。しかも彼は魔物が棲む淵までたどり着き、その深淵に向けてカメラを構えていました。誰も理解してくれなかったでしょう。そこまでたどり着く者が稀なのですから、誰も存在を信じてくれないものを信じ続けることがどれほど孤独で辛い作業か。僕はわかったつもりでわかっていなかった。否、わかったような顔をして、友達面していたのです。/」

 

「才能」について語られている作品は数多浮かぶが、米澤穂信の『古典部シリーズ』への思い入れが強い。あの作品について語り合ったから、今、ブログを書いている。

確かに「天才」の一言で済ますのは思考停止なのだろう。無理解なのだろう。

決して分からない向こう岸のような距離があるにしても、たった一言で済まされたら堪ったものではないと思うのは分かる。

細やかな虚栄心を本物として自己充足させるため、ハリボテではない自己顕示欲、「器」に相応しい承認行動のために「才能」だけの消費では決して敵わない地平があると思う。その先を覗きみるには「努力」しかない。

 『少女キネマ』は「天才」を否定する作品である。

そして、怠けた凡人を糾弾する。

技術や理論を頭の中で蓄積し、知性/理性で防衛に走るのではなく、身体性の自由を叫ぶ作品だ。

「天才」と賞賛し、崇め、線を引く凡人たちへの警句である。「天才」であろうがなかろうが、孤独を癒す寄る辺は誰しもが欲する。

人間とは「人と人の間を生きる」から人間だと言っていたのは立川談志だった。

天才などこの世にいない。無知な群衆が理解できぬものをそう呼べば便利だからそう呼ぶのだ。思い悩まぬ人間がいるはずがない。むしろ天才と呼ばれる人間ほどその苦悩は深い。理解されぬ世界をただひとり見つめ、報われることなく、暗い情念をもってただひたすら忠実に自分にだけ見えた景色を追う。その旅に終わりはあるのか。自分は今どこにいるのか。皆はどこに行ったのか。どうして自分はこのような辛い道をひとり歩いているのか。 一肇『少女キネマ』

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天に与えられた才とは、願いなのだろうか。それとも呪いなのだろうか。

凡人では辿り着けない深淵の入り口に触れられる機会は、凡人が託すから願いとなる。しかし、同時に呪いにもなるのではないだろうか。

彼らの苦悩は計り知れない。けれども、凡人の葛藤も彼らには分からないだろう。

「あの時はもてあそばれたが今のオレはそうはさせん。いや、もてあそばれたいのかもしれない。誰にも負けたくないと思う一方で自分などが遠く及ばない力にあこがれるのは、そいつが歩いていく先を見たいからだ。自分をはるかに越えていくその先を」『ヒカルの碁』19巻 門脇龍彦

 

独りは寂しいものだろう。

誰もが気楽に繋がることができる世の中で抱く一人の寂しさとは違うと思う。

私が所属していたサッカーチームで一番上手かった彼は、高校でサッカーを辞めた。

彼は賢かった。何でも出来た。

彼にとってサッカーよりも好きなものが見付かったのかもしれないし、サッカーが以前よりも好きでなくなったのかもしれない。

理由は訊いていない。

スポーツを変えても、彼の才能は輝いていたというのは風の噂で聞いた。

雑誌に掲載されたというのも聞いた。

彼に会うことはないだろう。

例え会っても「なんでサッカーを辞めたのか」なんて訊けるわけない。

そんなもんだ。

昔、BUMP OF CHICKENの『才悩人応援歌』が内輪で流行った。あの曲に惹かれた彼ら彼女らはどうしているのだろうか。

私はあんまり進歩していない。

こんなもんだ。

 

 

どこまでも行って孤高であれ。

才を摩耗して道を拓け。

願わくば道すがらひとりでなく誰かと共にあらんことを。

 

「ボクのことを王のように崇めてばかりで、要求のひとつも出来ないこの集団の習性を嘆くべきだよ」『GIANT KILLING』30巻 ジーノ

 

「凡庸な人間というのは才能ある者に対して、尊敬と共に畏れの感情も抱くものさ。意見をしてくれる存在は有難い。ボクを独りにしないためにも……」『GIANT KILLING』31巻 ジーノ