フトボル男

Time waits for no one ← ( ゚Д゚) ハァ?

江戸時代の離婚

離婚とは、結婚生活という規制の弛緩を意味するもの

エミール・デュルケーム『自殺論』

 

高校生時代の旧友が、事ある毎に「離婚してー」と言っていたのが高校2年の秋。

勿論、未婚であった。

この『論理のアクロバット』に魅せられたことから、私は都筑道夫を読み始めた。

 

  

家族は恋愛に近いところがあります。情念的で幻想的な関係を作り反社会的な存在になります/同時に、家族は社会関係の雛型でもある/そしてまた最終的には、「血」によって、つまり精子卵子の身も蓋もない物質的な結びつきによって保たれているものでもあるわけです。

東浩紀『セカイからもっと近くに現実から切り離された文学の諸問題』

江戸時代の離婚背景には夫による追い出し離婚が多かった。

勿論、妻側からの離婚請求もあったが、全体的に見れば夫の追い出しによるものが多数であった。

その際に必要なものであったのが三行半である。

夫から渡すことが要件となり、離縁状なしの再婚は原則として処罰されることになっていた。三行半を書くのは夫の義務そのものであり、三行半なくして離婚も再婚もできなかった。夫から妻へ三行半を突き付けるだけではなく、妻から夫へ三行半を差し出すというケースもあったようだ。

江戸時代の離婚の形式は村役人の積極的介入が付き物であった内済離縁が一般的となっていた。

夫に愛想を尽かした妻が駆け込み寺に向かう。その際には草履を投げたりしていた。

寺役人は女性の身元調べを行う。

そして、第一に寺役人は復縁するように諭す。

なぜならば、縁切寺では結婚の継続が幸せという価値観であったからである。

それでも妻の意思は固く、離縁が決定的だった際に夫側が拒否する場合もあった。その時には、お声掛り離縁といって寺社奉行による呼び出しで離婚を成立させた。その過程で、夫を牢屋に入れてでも強制的に離婚させたこともあったようだ。 

正式に離縁となったならば、妻に落ち度がない限り持参財産は返還しなければならなかった。

つまり、持参金が返せなければ離婚できないのである。この事から持参金には一方的な夫による離婚を防止する効果があったことが窺える。

現代では、離婚時の財産分与として世帯の財産を特有財産と共有財産に分けることが慣例となっている。

特有財産とは、婚姻前から持っていた財産や婚姻中に贈与や相続で得た財産、そして婚姻してから購入した個人の持ち物などが挙げられる。これらは分与の対象外となる。

また、共有財産とは特有財産以外のもの全般を指し、分与の対象である。

分与は分与であり、慰謝料は慰謝料であるので、両者は別物とされている。

江戸時代の妻の持参金は、現代に当て嵌めるならば特有財産に相当する。

そして、江戸時代と違って現代の離婚の形は4種類に分けることができる。

夫婦の話し合いのみによって決まる協議離婚。

話し合いで離婚について纏まらない場合、家裁や調停委員が間に入って離婚に向けて話し合う調停離婚。

調停でも纏まらず離婚が成立しなかった場合、家裁が離婚をした方がいいと判断することも。そのような場合には家裁が離婚の審判をする審判離婚。

最後に裁判離婚である。

現代的離婚理由として挙げるなら、不貞、モラハラ、性格の不一致、DV、子どもに関する見解の相違、介護問題などである。

一方で、昔の離縁状には特定の離縁原因を記すことは無かったとされる。理由を明確にしないことで、双方のダメージを最低限に抑える意図や評判に傷を付けないためであったようである。

以上の背景もあって、当時は離婚や再婚のハードルが低かったので、江戸時代の離婚率は現代よりも高かったということが分かっている。

私は、離婚理由を曖昧にすることで双方をケアしようとする配慮に感心した。週間文春やワイドショーも見習って欲しい。

現代は隣人関係というよりも、さらにクローズドな付き合いでも、人の口に戸は立てられぬということもあり、風聞は尽きないものである。

江戸時代は今よりもオープンな状態で、名声に傷は付き易い環境だったと推察されるが、現代よりも離婚率は高かったとしても再婚という次のステップを見据えたケアのプロセスは人情そのものと言えるだろう。

縁切り寺による離縁は、江戸時代流調停離婚のようなものであるが、いつの時代も夫婦間の問題というのは第三者介錯が必要なものだと考えさせられた。