徹夜本
10代の私は伊坂幸太郎が好きだった。
撃ち抜かれてしまった。
陽気な伊坂幸太郎が世界を回していると思っていた。
今、彼の著作をいくつか読み返している。
そして、徹夜本を思い返した。
数多の読書体験の中でも徹夜本という機会は多くない。
読書する頻度が減ったからわけでもなく、寧ろ成年以降、10代の頃よりも読書量は増えた。
ただ、記憶が確かなら10代で読んだもの以来、徹夜本が本当に無い。
読書自体がつまらなくなったわけでもない。いや、読書は質と量が伴ってきた時にこそ真価の1ページに触れられるものである。
読んでいる本が退屈というわけでもない。いや、中高生の時なら興味すら抱くなった本を守備範囲にできたのは年の功である。
徹夜という行為自体が無理になってきたわけでもない。はい。海外サッカーを観るのキツくなってきた。
しかし、徹夜本というものは朝が早かろうが翌日の予定がタイトであろうが関係ない。
「早く寝ないと」と思って灯を消して枕に頭を埋めても、先の展開が気になってそれどころじゃない状態まで持って行ってしまう熱量こそが徹夜本のエッセンスだ。
気付けば外が白んで、鳥が鳴いている。朝焼けが寝不足の眼に刺さる。
罪悪のやっちまった感と征服のやってやった感の同居。
良いものを読んだ時の快感と達成感と満足感。
脳内麻薬だと思う。
この年齢になると、あの燃えるような体験が減ってしまったことに対する郷愁がある。
当面の目標は、徹夜本に出逢うことにした。
そもそも徹夜本は、能動的に迎えに行ってどうにかなるものなのかどうかは別れ道のような気もするが、読書という行為自体がどうしようもないくらいに身体性の無い没入感への能動/受動関係だから仕方ない。
徹夜本と出会えることは人生で有数の幸福の一つだと思う。
バカバカしいくらい没頭して項を捲る手が止まらない感覚。
集中力ではない。
吸引力だ。
あの時、確実に読んでいる者の身体性と精神性は文庫本に吸い込まれて溶けきってしまっている。
どうしようもないのだから仕方ない。
あれから、あの本たちを読み返していない。定期的に読んでいるのは西澤保彦だけだ。当時の自分のセンスとの乖離が恐いから触っていない。
あの時に楽しめていた自分を否定してしまうかもしれないから。
歳を取ったなと思う。
昔、楽しめていた作品を振り返ると、当時は気付かなかったであろう粗雑で歪な要素に目がいく。
ただ、当時の私がそれほど能天気に作品に入れ込めるほどの素直さがあったかは甚だ疑問であるから、あるいは無自覚ではなく、肌感覚的にある程度の雑さを許容していたのかもしれない。
そうなると、それを許せなくなった私は成長したといえるのだろうか。
粗探しに躍起にならずとも、弱い所が分かって許せなくなってしまうのが成長なのだろうか。
どんな作品でも全てを承認して肯定する必要性もないし、必要以上に攻撃的にならなくてもいい。
好きな作品でも悪い所は当然ある。それを許容して盲信してこそファンだと言うなら、私は決してファンにはなれないのだろう。
恐いのはファンからの投石ではない。
夢中になっていた10代の自分を否定してしまうことだ。
勿論、あまりに「思い出の自分」を美化するのも「思い出の自分」を優しく撫でるのも気持ち悪いが、それら客観視している自分を演出して隔絶するのも気味が悪い。
作品に傾倒して飲み込まれた結果が徹夜本である。
今年の目標はほどほどに飲み込まれてみようと思う。
伊坂幸太郎は『オーデュボンの祈り』で以下のように書いた。
「一回しか生きられないんだから、全部を受け入れるしかねえんだ」
また、このようにも。
(私にとってまるで)二階から落ちてきた伊坂幸太郎をもう一度巡るところから始めた。
ちなみに、10代で出会った徹夜本は下記に。
- 作者: 横溝正史
- 出版社/メーカー: 角川書店(角川グループパブリッシング)
- 発売日: 1971/04/26
- メディア: 文庫
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