オカヤイヅミ『ものするひと 1』感想 普通コンプレックスと同調圧力なんて吹き飛べ
「読んで欲しい」と言われ、友人から貸して貰った。
良く出来ている作品だ。
友人は「雰囲気が好み」だと言っていた。その言語化が困難だったから、参考程度に私の意見を求めた事情なので、マジにはマジが礼儀だろう。
勿論、友人が言語化に手こずったその感想と私が書き連ねた感想が100%マッチしていることは無いだろう(具体的な確認と検証はまだ)。
思いの外、盛り上がってしまったのでここに書くことにした。
まだ1巻なのでストーリーの展開はまだよく分からないが、第1話から提示したぼんやりとした輪郭がありながらも透明性のある感じは「雰囲気の良さ」を醸成している。
結論、面白い。買います。
1巻のラストを読んだ時に完全にヤラレタ!と思ってしまった。
本稿は、第1話から第6話までの各話構成に触れ、末尾に総括を記す。
第1話 言葉と窓
主人公は警備会社で働き、夜勤明けから始まる。
通勤・通学の人の流れとは逆行に帰路につく主人公をみると、「普通」とは違う孤独(羽生善治が棋士生活を開始した時に「自分は普通とは違う世界にいるんだな」と寂しく思ったという話がある)の中で、贅沢とは言えないアパートの簡素な部屋で一人暮らしで言語という思考に戯れる。
その孤独を埋めるためのアイテムとして「たほいや」が登場する。
言葉遊びというか言語感覚だと、筒井康隆御大、今だと西尾維新、私は柄刀一の「言語と密室のコンポジション」を浮かべたが、あれはあくまでもガジェットとしての話で、本作では言葉=思考を日常的に掘り下げて掬っていくものだ。
言葉の表現力や概念としての自由さと自在性が肝ではないだろうか。
意味そのものではなく(そもそも「たほいや」自体に意味は無い)、思考したという結果と共有が大事である。
だから、主人公は広辞苑に無い言葉を題材にした。その奇妙な言語感覚を当たり前のように共有できる仲間たちと。
主人公にとって言葉を考えるのは、独りでの思考ゲームであるが、誰かと喋る=「たほいや」することで自分の思考が世界という「外」へ接続され共有されていく。
その象徴が、「郊外の夜に光る謎の言葉」を書きたいロマンである。それはまさに内面的な神秘であり、日常(昼)と非日常(夜)でいえば字義通り(夜)であるが、その世界だからこその実在性があると言えるだろう。
そして、第1話のそのオチが「鳥獣戯画カラオケ」ときたら、心を持って行かれることは必然的で。意味なんてないではなく、それみたか!という作者のドヤ顔が見えるような気持ち良さ。
まんま鳥獣戯画を表現している。鵺までとは言えないが、カオスでありアンバランスであり、整合性なんてなくてもその形であることこそが意味に目的がある=意匠として機能していることが全てである。
ここを読んだ時に引っくり返ってしまった。話の作り方が上手いなって。
主人公のロマンである「郊外の夜に光る謎の言葉」ってのは「外」にあるもので、それは(夜)の世界でそのままの形としてデザインされていて完結しているが、(夜)特有の少しの寂しさもある。
生活と、書くこと。世界と、言葉で遊ぶこと。絡みあって、隙間があって、移り変わっていく。ひそやかに楽しくて、ひりひりと幸福で、ずっと読んでいたい。 柴崎友春による紹介文
でも、誰かが見つけてくれる(主人公がそうだったように)、誰かが読んでくれる。
この部分は、つまりこの作品自体を表しているのだろう。
第2話 自由な仕事
レッテルではない。肩書だ。
肩書って何だろうか?
どこから小説家になるのだろうか?
社会的に自分的にも「どこ」からなんだろうか。
大家さんが主人公を物書きだと認識している点は、彼女がもとより文学好きだから偶然知ったのか、或いは主人公が気になって調べたのかは判然としないが、大家さんからすれば主人公は小説家という認識。
そこに実感はあるのかどうかという話。
そして主人公は、大家さん=自分の生活の側にいる人=承認されて顔の見える読者(本来読者の顔は見えないのが当たり前)であるから、ここでも実感というか実在性の有無が関わってくる。
主人公は自分が曝け出して書いている内容を(私は創作をコンプレックスへの爆発のためにパンツを脱げるかどうかだと思っているけども、本作では)内臓を見られた気分としているところに、持論のパンツどうこうよりも超ディープに身体と精神を開示している。
恐らく、主人公と大家さんの会話ってのは大家さんからの一方的な質問責めだけで、主人公からのコミュニケーションは無いように思える。訊かれたから答える程度の遣り取り。質問をするには興味がなければ成立しない。大家さんにとって主人公は物珍しい対象であり、それは小説家であるからだろう。
主人公の自分語りは作品を通してだからこそ、顔の見える読者に対する羞恥心というか居心地の悪さは付き纏う。例えば、物書きがネットに書いたものをあげるのと、そのリアルの人間関係における顔見知りに見せる勇気って違うはずだ。
この第2話のポイントは「好きなことをやるのは不安なんだよ!」という事実。
女子大生から「普通に就活しなかったんですか?」と訊かれ、「普通」って何よと疑問が湧く。主人公たちからすれば僕たちは「普通」ですよと。
「普通」に不安ですよと。遣り甲斐優先の自己責任なんだろうけど、僕たちも関係無しで「普通」に恐いですよと。
主人公たちが、別に被害者面を振りまきながらというわけではなく、好きなことをやっているから幸せなんだけど、世知辛いと零す部分は、「好きなことをやっているんだから文句言うな」、「夢のために仕方ないじゃん」という無責任かつ強弁に対して、でも実際問題現実として生きていくためには夢だけでは生きられない。だって先立つものがないからと。
でも「好きなことやっているからいいじゃん」と誰かは言うかもしれない。そのために搾取されても、被害者面するなよと。
彼らにとって、目的としてあったわけではなくて、手段として「好きなこと」があったに過ぎない。流れ着いた結果、辿っていく途中でツールとなっていくのが「好きなこと」だっただけだ。
残念ながらそこへの理解や共感は彼岸にあって、「普通」によって線引きされて世知辛いと愚痴を零すのって寧ろ「普通」だと思えてならない。利口に自己責任という正論を振りかざすことの善悪なんてしょうもない話ではなく、それでも「普通」への同調圧力に対して「普通」に不安だという話。
ここで主人公たちは被害妄想を垂れ流し、所謂世の中に責任転嫁して浅ましさと慰め合いを露出することはしていない。
自由を闊歩する息苦しさをあてもなく零しているだけだ。
ただ、僕たちにとっては「普通」であるけど余所からみたら「普通」ではないからといっても、好きなことを「普通」にやっているからといっても、色々あるんだよってこと。
女子大生の彼女にとってキラキラした非日常はアイドルとしてのステージの上だけだ。それ以外は没個性として最初は書かれている。
しかし、非日常では「0から1」にして輝いている。主人公にとって「0から1」にする生産性は日常的であるから、(なぜそれを捨てられるの?)と訊きたくて胸の中がモヤモヤしている。
その非日常を「普通」=日常にしなくていいの?と。
彼女にぶつけたいけど、主人公は4000文字にしたためて。
思いを伝える/伝えないは彼方のような距離があるにしても、それをモヤモヤしたままではなく考えて形にした行為は「0から1」に収斂する。
一方で彼女は、「普通にしないんですか?」と訊いたものの空気を察して止めた。
ここの対比が素晴らしい。
彼女にとっての非日常であり、表現(0から1)はダンスであるし、主人公にとっては日常的であり、表現方法は文章を書くこと。
彼女は質問に対して察した気になっていても、実際は明確に「0から1」にしていない。それに対して主人公は相手にぶつけていないけど、「0から1」へと完結させた。
こんな風に「普通」の外と内、でも「みんな普通だよ。僕たちも普通だよ」って提示しつつも、そこへの無理解などによる距離を書いちゃっている辺り、滅茶苦茶上手い。
余談として。学祭に集まったクリエイターたちがWebを拠点にしているのに対して、主人公は「もの」=本があることを羨まれるシーン。
本など情報としての価値を突き詰めていけば、デジタル化が合理化であり最適化であるだろう。しかし「もの」だからこそ示せる価値つまり実在性によって救われるものがあることを示している。
ここで、夢やWeb媒体の形の無さ=不安に対して、「もの」の実物感=安心が書かれている。
第3話 パーティの点
パーティの話。
つまり非日常で、「生活の側」ではない。主人公はフワフワしていてキョロキョロと。全体的に独白も他人事のように語られていて、客観的でありながらも地に足が着いていない印象。
意図的なのかどうかは分からないけど、人物たちは足先まで描かれていない。
唯一、足先から頭といった全体まで書かれているキャラはスピーチをした同期の彼のみ。偶々なのかどうか。ただ結果的に、立場だけではなく地に足が着いているかどうかの対比もになっている。
主人公は(ドラマぽい)と独白があるように、フォーマルな装いもあり、虚構めいている実感の無さ=あの世みたいだと評した。これは「夢までの距離」であり、ドラマといった虚構の世界のような浮遊感でもある。
パーティ会場にいる「大人ぽい大人たち」含めて、主人公が意識できない存在ばかりが埋め尽くしている世界のように描かれている。
そして、同期の受賞者の「点」についてのスピーチ。ありていに言えば外からの評価=承認の話なんだけど。
賞というのは書いて行くという道。線の上の明るい「点」です。
点数ではなくドットでピリオドで読点で中黒の。
点は時として文章の意味を大きく変えます。
外からの評価という点をいただくと思いがけない道標となり得るのです。
点は打たれるのか。打たれたいのか。
前者は夢の実現と獲得。後者は夢の終わりと諦め。
その後の(「ご歓談」にも区切りがあるのか)という独白も、まさにそれで、非日常の終わり=醒める夢であるから、区切りつまりピリオドが打たれるのか打たされるのか、これは点のスピーチに繋がる。
主人公の「30歳アルバイト一応小説家」という立場を読者により客観的に補強的に提示させるような構成。
第4話 花と普通
文壇バーの話。パーティの夢みたいな時間と景色が流れていく中で、入店できる人、その評価をする人/される人、その集いで主人公はその場にいる自覚がない(2話の肩書の部分が掛かってくる)。
ママに「人に執着・依存していないけど、人懐こい」と評される(主人公という受動的であるにしても、大家さん、「たほいや」、歓談のようにあちらからワラワラと)こと、人間性≠作家性≠作品という前提においても、主人公は内臓まで曝け出して書いている(純文学とは私小説だという定義があったりする)から。
で、文壇バーでたほいやに興じる皆と他の客が盛り上がる喧騒について、静と動の熱中がある。
一座は静かに思考と言語に戯れる光景は、文壇バーでも珍しいとママの台詞。
そこで絡んでくる謎の男は、文壇バーのイメージを具現化したような人間。
その男は旧来的として書かれている(巻末のオカヤイヅミと滝口悠生の対談において80年代までのカルチャーとして触れている)。
対してたほいやをしている主人公たちは近代的であると。
旧来は言葉で殴り合え!遊びじゃないんだ!派閥で、主人公たちはたほいやに興じる仲良しこよしの共同体としての対比。
そこで主人公が言った「誰かがいる世界で書いている」というのは、孤独的であっても実際は実在性含めてそうではないと(誰かがいる=読んでいる見ているってのは、この場の共同体やたほいやが象徴として)。
で、普通って?
これが観念的なテーマである。
普通コンプレックス、普通以外の締め出し、普通への同調圧力。
彼女(女子大生)はカラオケに曲がある。主人公はパーティから文壇バーに流れて作家ぽい。
でも、お互いに普通だよ?
変わっていないよ?
だって、これが生きてきた日々=日常の一部であるから。
非日常と日常のグラデーションでしかなくて、普通のことでしかないから。
「0から1」への出力としての実感があるかどうかでしかない。
そこで彼女とその周囲は、変わったことへの興味はあるし、普通を感じている。
しかし、当事者として変なことは勘弁。
だって普通じゃないじゃん。
彼女は普通の人間という視点から、主人公を見ていく。
普通というフィルターを通して、普通へのコンプレックスを抱きながら内と外を眺める。
第5話 ビーチパラソルの音
映画と音楽についての主人公の思考から始まる。
見ている風景と書いたものに対して同じ音楽が奏でられた時の現実感・自在感は、自由で肌感覚としての近さがあるように世界が一致することだろう。ここの画一化されていくイメージが「作品(映像的な文章と音楽)」と大きな「世界」が静的に回転するような感覚。
本来、小説はビジュアル性を作り出す装置としての画が無いが、『ものするひと』はいうまでもなく漫画であるから、「小説家の主人公が思考する小説的イメージ=心象風景」をビジュアル化できる。そこに音楽というBGM(作中ではシンディ・ローパー)の入り込む隙間という空間の作り方は、小説という表現方法では「そのための説明描写を生活に溶け込ませる」ものであるが、漫画ならば画一化されたイメージをそのままダイレクトに出力できる違いがあるだろう。この「作品」と「世界」が合致していく、ズレの妙ではなく隙間までの作り込みは表現と技法の差異になる。
身体性のビジュアルとしての文章や画としての体感、また音楽という聴覚的な体験を組み込み、それぞれの複雑なイメージを添えることで「目でコマからコマまでを泳ぎながら」痛烈に感じることこその喜びであり、映画とは異なって聴覚的なイメージが元々無い小説や漫画がどのように身体性としてのダイナミックさを演出できるか。
その代表的なものが、電車のシーンと作中作「マトリョーシカ」のインスピレーション、没頭として書かれていると思う。
繰り広げられているのは、ぶっちゃけ妄想の域だ。
そこからの同一化が淡々と描かれている。
飛躍的な思考と戯れながらも、現実に引き戻された際には電車に乗っている「みんな」と一緒だから安心する主人公。
ここでも立ちはだかる普通コンプレックス!
異性との交友って寂しさを埋めるためのものなのか?
性ってそんなもんなのか?
主人公は一人であるけど、孤独を受け容れている。この作品は全体を通じて孤独を肯定的に描いている。
第3話、第4話の外からの評価=承認=点を打たれるのか、打たれたいのか問題。
最終的には小説家としての自立であり、肩書めいたものへの欲求。そのための賞レースへの高揚感が布石になっている。
女子大生の不倫中の彼女は、不倫なんて端からすれば非日常であるが、当事者にとっては日常でしかない(地続きでの性的な話について彼女側からのオルタナティブなものとして)。
つまり(昼)の世界で、大学の男友達は(夜)だと言い切る。
(昼)=健全であり、(夜)=不自然という印象を与える存在として機能している。確かにご立派な一般論として。
ここでも「普通」が観念として提示されている。普通の尺度ってなんなのさ!
「普通」への圧力があって、彼女は「変わっている」と言われる。
(昼)からすれば(夜)の一部として。
そして主人公は、彼女に変わっている人間として認識されている。彼女以上の存在と言わんばかりに。
しかし、ここでの彼女とその周囲との遣り取りで、十分に彼女も変わっているじゃんと提示する内容。
両者ともに「普通」ではないよと示している。
ただ、彼女にとっては自覚的に「普通」であって、ここの彼女が抱く自己像と主人公への「普通ではない」イメージ、また主人公の自覚、そして読者が抱くキャラ像の各々のズレが客観的に提出されているからこそ、それぞれ面白い群像劇めいている。
主人公の書きかけの「マトリョーシカ」のアイデアメモをパラソル状にした彼女。
真冬の河原で誰かのバカンスは行われたのだろうか
主人公の興味を繋ぐ対象=「パラソル」を作った彼女との出会いは近い。
第6話 スキップの仕方 総括
普通ではない主人公と彼女との邂逅とそれから。
普通であることで安心できる/したい気持ちと普通の「外」への興味。
待ち会=共同体(文壇バーの件)で、「マトリョーシカ」への言及が行われる。
分裂やペルソナを素材に誰しもが普通化=日常へと適応するもので、「異物」である自分を最初に提示しつつも、最終的には「普通」になるという話である。
そして最終的には日常的でありふれた世界との同一化が行われ、二人の人間が同じ顔で同じ目線で邂逅する。
これまでの作品内での普通コンプレックスや同調圧力、日常性と非日常性、主人公と彼女との邂逅までを「マトリョーシカ」が作中作として寓話的に描かれている。
そして彼女との対面からカタストロフィへ。
朝方、彼女との遣り取り。匂いの描写、匂いが気になる距離と興味。五感として。実感はなくても確かにそこにある事実として。
ここまで比喩として描いていた(昼)と(夜)であるが、(夜)が終わり(昼)になっていく時間の流れに二人を描く意味に強烈さを感じざるを得ない。
世界がまだ眠っている中で、主人公と彼女は街にある看板の言葉を拾いながら帰路に着く=外(世界)にある言葉としての実在感を確かめながら。
この対比が、1話の「郊外の夜に光る謎の言葉」になるだろうか。
あの時点では一人だったが、今は彼女と共有している。
誰かがいる世界で書くために/書かれた言葉を拾いながら。
世界は変わり、自分も変わっていく。
自分は変わって、世界も変わっていく。
当たり前のように日常として。
変わりゆく日常を静かに動かして、でも大きく表現している作品である。
二人による朝のシーンは、作品の完成度のみならず、これまで丁寧に書いてきたものの結晶体だ。
その鮮やかさは目と脳に刺さる。
明らかに本作は、サザエさん方式と対極にある。
セカイが学校内だった過去、ダラダラと学校の教室で、部室で、学校と駅と自宅の間でのコミュニケーションの消費以上の生産性は無いが、それ以上の憧憬と郷愁に焦がれる、変わらない日常=終わらない日常ではなく、1話の頭とラストで超変化させている。
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でも、劇的にではなく、静かに大きく。
「日常系」と「お仕事系」の中庸を取っているような自在性。
賞レースの獲得による肩書としての自立が目的であるにしても、それが「小説家」としての最終的なゴールでもない。それは手段でしかなく、主人公の彼が第1巻で秘めているロマンは「郊外の夜に光る謎の言葉」を書くための点とそれを結ぶまでの線だ。
普通コンプレックス、孤独、無理解への距離を書きながら、どのように彼女とその他の共同体とその承認(外部との評価)を埋めていくか。
とんでもない作品になるかもしれない。
そう期待したくなってしまった。