おおたまラジオ

しまいには世の中が真っ赤になった。

2018年上半期マイベスト本

futbolman.hatenablog.com

冬版を含めた総括記事。

危うく忘れるところだった。飽き性ってのは恐い恐い。

春(4月~6月)は以下に記す。

 

 

桜庭一樹砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない

宇野常寛が論じた「サヴァイブ系」の系譜に入る作品で、作中での「実弾主義」は生存競争における武器を持って戦うためのコミットメントを端的に表現している。

引きこもり貴族な兄=ロマン、シティな転校生=現実から離れたファンタジー、ローカルな主人公=徹底的な現実主義者の三点のバランスを描きながら、不安定な心の拠り所として「家族愛」や「親愛」をコミットの目的と対象として。

歪な依存状態=共依存により、安心と甘えが孤独と自立から距離を取り、自立して戦わないと生き残れない/中二病的武器だけでは生き残れない主人公=リアリストから、転校生=テロリストの依存状態へと展開していく。

互いに甘えることで飢餓感を和らげ、離れさせないようにしているものはまるで「砂糖」的で、強くなれない少女たちの傷の舐め合いは「迎合」そのものだ。

しかし、『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』し、戦うことができない。

砂糖菓子の弾丸=ファンタジーでは生きられないことを残酷的に知っていく少女たちの思春期を経て、大人へとなっていく通過儀礼だ。

その中で、愛とは「痛み」であることをグロテスクに表現し、ダメージそのものが愛の証明になる悲しい物語だ。

「愛」や「生」の実感を痛みでしか与えられない親子像に欠けていたのは母性であり、このアンビバレントなコミットメントを歪なまま享受できてしまう家族という形態と、実際に手段としての武器を持っていない「実弾主義」の少女が戦えないが、戦うしかない非現実的かつ圧倒的現実から目が離せなかった。

ネットの海で本作の感想を漁っている最中に、素晴らしいブログと出会えたことも込みで素晴らしい読書体験になった。

logical cypher scape

→ここ3年で最も感銘を受けたブログだと思う。

 

大江健三郎『叫び声』 打海文三『愛と悔恨のカーニバル』

叫び声 (講談社文芸文庫)

叫び声 (講談社文芸文庫)

 
愛と悔恨のカーニバル (徳間文庫)

愛と悔恨のカーニバル (徳間文庫)

 

 

この2作品は、伊坂幸太郎に触れてから、途端に伊坂への興味が増したので過去のインタビュー記事や雑誌を発掘した際に、伊坂幸太郎自身が好きな本として挙げていた内の二冊である。

端的に言ってしまうと、生活に支障をきたすレベルの作品だった。

精神衛生上、兎に角「悪い」本だった。

つまり素晴らしいという意なんだが、これが凄くて(言語化無理)読んだ日はご飯が食べられなくなってしまった。

感傷に浸るなんて甘っちょろいもんじゃなくて、精神的に惑わされて奪われてしまった。

食欲すらも強奪するほどの作品としての強さと脆弱さ。

嫌なのに恐ろしいのに貪る様に読んでしまった。

胸に開けられた穴ぼこに、その何もない空洞に対して顔の見えない/知らない人間の手で掻き混ぜられたような生理的なレベルで恐怖だった。

多分、一生忘れない。

呪いたくなるほどの傑作であると同時に、読み返すことができない作品群になってしまった。

 

伊藤計劃『ハーモニー』

ハーモニー〔新版〕 (ハヤカワ文庫JA)

ハーモニー〔新版〕 (ハヤカワ文庫JA)

 

 

2018年の収穫は、敬遠していた伊藤計劃をきちんと読み終わったという事実。

読まず嫌いは損。

虐殺器官』は野心の塊のような作品だった。ポスト9.11作品として射程を大きく捉えたビジュアル的な勢いがあったと思う。

思い出したのは、小川哲『ゲームの王国』の下巻が指摘されている「ゲーム」理論の部分と『虐殺器官』の「虐殺文法」の曖昧さは問題点としてのニュアンスは同じだろう。

そして、両作ともに勢いのある野心も。

知り合いが、伊藤計劃に本気で憧れて、敵意を剥き出して、嫉妬していた理由をようやく分かった気がする。

 一方で、『ハーモニー』は小説という表現媒体を『虐殺器官』以上に意識し、「意識」レベルまで描くために技巧を凝らせている。

私は小説的には『ハーモニー』の方が完成度が高いと思っている。

虐殺器官』後の世界観として社会状況により人的リソースの価値が高まり、健康こそが幸福のベンチマークとした超医療福祉国家ディストピア的に描きながら、最終的には<その先>までを小説的に実験的に「人類補完計画」として表現してしまったことに感動してしまった。

今、人々は「過剰なまで」に繋がれる世界にいる。

インターネットを通して誰もが誰かと繋がっている。『エヴァ』みたいなトラウマの開陳や自分語りなんて大して珍しいことではなくなった。

誰も見ていないかもしれないし、誰もが見ているかもしれないような世界との距離をサイバースペースが作り出したことで、人類補完計画は既に実行されているようなものだと宇野常寛は論じたが、『ハーモニー』が最終的に到達した表現は、テクストレベルでの「人類補完補完」であるから、今、SNSを通じた意識の表示(「RT」や「いいね」だけではないが)としての記号性が、同質性を示しちゃっている居心地の悪さ。