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しまいには世の中が真っ赤になった。

ニュータウンの歴史から多摩ニュータウンをみる

 

甦れニュータウン―交流による再生を求めて

甦れニュータウン―交流による再生を求めて

 

 

地区計画とは、生活に身近な地区の課題や特徴を踏まえ、住民と市が連携しながら、地区の目指すべき将来像を設定し、その実現に向けて「まちづくり」を進め、自分たちのまちの環境を守り育てていこうとする制度である。

その一環としてニュータウンがある。

日本にはニュータウンが2000ヵ所以上存在している。ニュータウンの住居は戸建てと集合住宅に分かれ、多くの場合鉄道駅周辺に集合住宅があり、周辺には戸建て住宅が立地する配置となっている。

そのようなニュータウンの歴史と日本最大規模でもある多摩ニュータウンを例に課題とその再生への道程を記していく。

日本が手本としたのはイギリスのニュータウンであるが、日本式ニュータウンとは実態が異なる。

歴史を紐解くと、イギリスにおけるニュータウンを中心とした都市政策産業革命にまで遡ることになる。産業革命の結果、地方の農山村から工業都市への労働人口流入移動が激しくなり、その労働者の賃金は低い。工場周辺の住宅街の大気は汚染され、衛生状態は悪く、スラム化が進んだ。

こういった背景から田園都市政策が実施されるようになった。ロンドンから50km離れた農村地帯に2400ヘクタールの土地を確保し、その中心部に400ヘクタールの工場と住宅地と公共施設からなる市街地を作ることを目的とした、住居と職場が一体化した自立都市がニュータウンの元祖である。

土地そのものは公有で、開発による地価上昇に伴う利益は住民に還元される方式であり、住居地周辺は自然に囲まれ、住民と自然環境が一体化していた。

そして、1903年に第一田園都市株式会社が設立。

ロンドンの北東にあるレッチワースで田園都市の建設を開始。田園都市の土地買収や都市施設の建設費用は社債で賄い、住民や進出企業は所有者である第一田園都市株式会社に地代や賃借料を支払う。これが第一田園都市の運営費に充てられた。イギリスの田園都市政策とは公共的なものであるが、実態は民間企業の事業であった。

その後、第2次世界大戦による空襲により、深刻な住宅不足が発生。そうしてイギリス政府がニュータウン法を制定。ロンドン周辺を中心に全国各地でニュータウンの建設を始めることになり、戦災からの復興から新たな経済成長を目指すことになった。ニュータウンで産業誘致をすることで地域経済の振興とした中規模の都市づくりを画策。

70年代に入ると、イギリス経済は停滞。人口も横ばい状態になり、徐々にロンドンをはじめとする大都市で人口が減少。

一方で農村やニュータウンでは増加傾向に。イギリスの人口の適正配置の観点からもニュータウンの建設は中止になり、1976年にニュータウン建設は終了となった。

 

そして日本はというと、イギリスのニュータウンを参考にしつつ、独自の方向性を歩んでいった。

日本のニュータウン建設の要因は深刻な住宅不足である。

戦争による住宅不足と高度経済成長による大都市への急激な人口流入から生じた住宅不足への対応からである。日本は職場と住居が一体化した自立都市ではなくて、大都市への通勤を前提としたベッドタウンを目指すことになったが、その背景としては住宅難の時代にあって、一戸でも多くの低所得者向けの住宅供給が第一にあった。

また、新住宅市街地開発法により住民生活に必要な施設以外のものの設置は認められていなかったので、ニュータウン区域内には準工業地域や大学の設置は不可能であり、ニュータウン開発は必然的にベッドタウンになったことが大きい。

初期に着工されたニュータウンは、住宅不足を主因にして比較的立地が良い事もあって人気が高く、高い競争率で入居が進んだ。

経済面はオイルショックにより高度経済成長は終了。

安定成長期に入った。ニュータウンをはじめとする公共の団地や民間の住宅建設が進み、住宅は供給が需要を大きく上回ることになる。ニュータウンでも戸建てや住宅分譲を除いては入居者が集まらない事態が発生。自然環境は良くても都心から離れたニュータウンは住居を求める人のスタイルから離れることになりつつあったが、多摩ニュータウンでは個性的なタウンハウスやコーポラティブハウスが供給されるなどして、住居の選択は量から質へと移行した。

そしてバブル崩壊後、需要が落ち込み住居が売れ残った。

地価の低下で住居を求める人々は都心から離れたニュータウンではなく、都心により近い既成市街地に住居を求めることになった。

ニュータウンにその時代に入居した住民の多くがそのまま住み続けることを選択し、その結果、同世代が同時に入居したこともあって、人と団地とインフラが高齢化する事態を迎えることになったが、その具体例として日本のニュータウン黎明期に計画された日本最大規模の多摩ニュータウンを挙げよう。

多摩ニュータウンは昭和41年から建設開始。46年から入居開始。

丘陵を削って造成した街、歩道と車道を分離する方針で、歩行者の安全と車のスムーズな流れを確保がされている。道路は谷地や丘陵を削って作られている箇所が多く、坂や階段やスロープが至る所にあるのが特徴で、これが住民の悩みになった。

なぜなら、住宅不足状況にあった段階で入居が始まった多摩では、住民の高齢化が進んでいる。自身の子どもが成長し、就職・結婚となると住居から出ていき、年老いた親のみがニュータウンに残される。

また、高齢化が進むと街は活気が無くなる。高齢者ばかりだと米穀店や精肉店の売り上げが落ち、近隣センターの商店は閉店となる。

近隣センターには日々の買い物施設や生活サービス施設が設置され、買い物と同時に住区コミュニティの場である。

ニュータウン建設当時、商店が近隣に無かったため、主婦たちはそこで買い物や近隣センターの広場や集会所でコミュニケーションを図っていた。

しかし、少子高齢化の波や住民数の減少、女性の社会進出、マイカーの普及により近隣センター外へ買い物の場が変化したこともあって、近隣センターは衰退。多摩の近隣センターの衰退は平成時代半ばに起こり、住民とインフラの高齢化と近隣センターの活気の無さからニュータウンのオールドタウン化が進行。地域の購買力が低下すると、近隣センター含む身近の店舗や介護をはじめとする生活サービスの提供機能が減少する可能性もあるが、それらに多大な影響を与えたのは、所得水準の向上やマンションの普及、大型スーパーの誕生、マイカーの普及、ライフスタイルの変化、女性の社会進出、そして少子高齢化核家族化であると推定されている。

オールドタウン化は深刻となり、鉄筋コンクリートづくりの建物は老朽化した。

4、5階建ての建物にはエレベーターがなく、同世代の人々が同時に集中してニュータウンに入居したこともあって、同世代の人々は同時に高齢化し、階段の上り下りが苦痛に。

多摩ニュータウンなどは居住地としての人気が高く、入居者がそのまま住み着いて離れない傾向が強いので、より住民の高齢化が深刻化して、バリアフリーの問題がダイレクトに発生。また、孤立死や災害時の安全性といった社会問題に繋がることも懸念されていた。

こういったこともあり、ニュータウンの再生が必要視された。

多摩ニュータウンでは、まちが持続化する仕組みを持つために、若い世帯を惹きつけライフステージを合わせる循環構造をまちが備えることをテーマとした。

多様な拠点の強化連携型といったコンパクトシティを目指し、生活拠点を多極化することへ。

また、防災力や環境、高水準の都市基盤をはじめ、地域で働く場と機会を提供したり、地域コミュニティの活性化を図ることが大事となった。

さらに、暮らしのサポートとして、小売店や飲食店、金融機関、医療機関、生活支援等のサービスの充実も同時に進行し、ニュータウン内外の大学や企業、NPOと連携して、新たな雇用創出や活躍の場を作ることも必要とされている。

そして、来たる東京オリンピックでは、訪れる観光客にまち再生の最先端モデルとして、多摩ニュータウンを効果的にシティセールすることも視野に入れている。

取組み方針としては、第一にまちの玄関となる駅前の顔づくりと駅周辺の拠点の向上。第二に都市基盤の維持・改善・更新と環境に優しい交通ネットワークの充実が挙げられている。

また、ハード面でいえば、大規模住宅団地の再生や良好な戸建て住宅地を持続する仕組みの導入や安全・安心のまちづくりが目標とされている。

ソフト面では、コミュニティ活動や生活を豊かにする取り組みで循環型サービスを展開することも第一としている。

再生への道しるべとして既に成されている案件として、廃校跡地の有効活用がある。

初期入居の段階では同時期に同世代の人々が入居してきたために、必要に迫られて計画以上に小・中学校を開校せざるを得なかった事情があり、ニュータウンが完成して落ち着くと学校が余る事態に。

一般的に小・中学校が廃校になると、建物の一部は他の用途に利用されるものの大部分は放置されることがある。そのまま荒れ放題になり、そのうち建物の老朽化を理由に取り壊され、新たな施設が建てられるという循環である。

その廃校になった学校を一部の改修によって他目的(図書館の書庫や文化財の保管庫やNPO施設など)に再利用するために、住民に開放されている。

グラウンドやテニスコートや体育館も休日に開放され、市民が許可を取って野球やサッカーに使用することで人間関係の構築や活動に影響を与えている。

また、住民交流やコミュニティの活性化の一環として、少子高齢化の波の中で衰退しつつあるコミュニティの再生を目指して、エコマネー(地域通貨)を利用したものもある。

エコマネーとはエコロジー(環境)とエコノミー(経済)とコミュニティ(地域)を掛け合わせた合成語で、一定地域の人々の間における各種サービスの提供に対する謝礼に使われる換金性のない通貨のこと。サービスに対する感謝の意を表することにより一定の人々相互の交流を強くしていこうとするものとして使用されている。

ハード面での再生では、住民主導で老朽化した住宅を更新するということもある。

入居者の高齢化により、階段の上り下りに支障が生じ、住民の間から新しい建て替えの要望が出た経緯もあり、住民によって建て替え検討準備委員会が組成。

しかし、建蔽率や当時の法規制を超える容積率の問題が浮上し、多摩市は慎重な姿勢を取っていたが、住民や議会の熱心な働きかけが実り、東京都は多摩ニュータウンにおける集合住宅の建て替え指針を示したこともあった。

今後の老朽化に伴う建て替えの場合、特に分譲マンションでは権利者分を上回る余剰住宅は公的機関が買い上げる。若者を優先的に入居させることで、若年層の入居促進。

平成26年には、日本最大のマンション建て替えプロジェクトでもある諏訪2丁目が、まち開きを迎えた。子育て世代が転入して子ども数が大きく伸び、少子高齢化の是正や消費行動の喚起に繋がる状況が生まれているとのこと。

また、地域コミュニティの代表格である近隣センターの再生である。

空き店舗が目立ち衰退している近隣センターに高齢者対応サービスを提供する店舗が誕生し、近隣センターの活性化に一役を買っている。取り扱っている主要なサービスはヘルパー訪問サービスや送迎、買い物代行、宅配などが挙がる。

ソフト面でいうと、高齢化社会に対して介護予防リーダーの育成やモデル事業を実施する地区を設定して、高齢者の孤立を防止。高齢者の交流を深める動きも進んでおり、多摩市永山いきがいデイサービスセンターなどが例である。多摩市から委託されたNPOが運営しているセンターである。廃校になった中学校の一部を使用し、センターの活動内容は、雑談、体操、散歩等々。家庭に引きこもりがちな高齢者がこのような場で交流を深めている。

しかし、ニュータウンは新しくできた地域集団である。

ニュータウン自体は、古くからの集落や産業が母体となった地域とは違い、新しく人工的に作られた街。地域住民共通のシンボルなどがないために、愛着に乏しいのが現状であるが、地域コミュニティと住民の一体化したまちづくりが求められており、サークル活動などの地域活性化の重要性が高まっている。

これからのニュータウンは、高齢化に伴う社会問題以外にも環境問題にも当然目を向けていく必要があり、上手く擦り合わせた人工都市としての再生への道を辿っている最中である。

 

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ニュータウンは今

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