おおたまラジオ

可哀相じゃない!

志村貴子『青い花』 壊れてしまいそうな閉じた世界

 

アニメ『青い花』を観た。

百合とか分からん身分であるにしても、志村貴子の作品で繰り広げられる世界は徹底的にマイノリティであることを自覚し、普通ではないことを痛感していく彼ら彼女らの物語だ。

世界はマイノリティの彼女らに優しくないし、寄り掛かってくれるわけでもない。

寄り辺となるほどまでに、風当たりを塞ぐ衝立のように強くできていない。

脆いのは世界ではなく、人間そのものであるとしても。

理解を示すのは世間ではなく、気心知れた友人のみ。

しかし、それだけで救われる心もある。

静かな作品だった。

あまりに静かで、美しく、息を止めて見入ってしまった。

まるで息をしてしまうと、繊細なガラス細工のような何かが壊れてしまうのではないかと思うくらい静謐な空気が流れている。

期間限定のリミット感覚がある思春期真っ盛りの少女たちが精一杯背伸びをしているのに対して、伸びきった背つまり明確な大人が描かれていないので他者性を感じられないから恐ろしく純粋な構成=掬われた世界観として、演劇的な芝居がかったお伽話のような夢物語、花物語として閉じた世界=秘密の花園を覗き見る気恥ずかしさと罪悪感が生じる。

普通とは違う。

マイノリティであることに負い目を感じている。

本来ならばマジョリティに乗っかった人間がツッコミ、NOを突き付ける態度を描かれるであろう物語ではなく、ありのままを受容的態度として描くことで綺麗で恥ずかしいクリアな嘘=一過性の物語として描いたと思う。

そして、この世界そのものが肯定してくれるものではなく、実は一部だけで、当然描かれている世界も一部として閉じたものだけ。

物語、世界の展開というのは感じられないが、閉じた世界の孤独や対話の静けさが沁みていく。

 

志村貴子の漫画は決して国民的作品にはならないかもしれない。

なぜなら志村貴子が描くのはマイノリティの世界だから。

性愛に奔放で振り幅がある漫画の描き方をしていて、これは万人に持て囃されるものではないから。

しかし、これからもカルト的人気は誇っていくだろうし、私も彼女が紡ぐ世界を愛していく。

漫画好きの友人と話したことがあった。

漫画を読む際に「なぜ漫画であるのか?」という評価軸、映像や小説ではなく漫画でしか表現できない技法や演出をどれだけ築かれて掬えるか。

私自身は決して漫画の読書量は多くない。

非常に偏った主観的経験値であるが、志村貴子の漫画はもはや<志村貴子>というジャンル化しているのではないだろうか。

『わがままちえちゃん』を読んだ時、そう確信してしまった。

真偽つまり虚実が入り乱れて惑う感覚なんて私が愛したかつてのテレビの距離感に近似しているものであるし、それは20世紀的映像表現の虚構性でもある。

なぜ『わがままちえちゃん』ではこのような複雑な構成・入れ子構造をデザインしたのかという知的好奇心やコマからコマとその余白を目で泳ぐことで得られる想像力を素晴らしく駆り立てるものでもあるし、漫画ならではの表現力に感覚は刺激されまくった。

わがままであることが彼女の贖罪であり、断罪でもある。

そこまでして彼女が赦されたいのは不浄なる心そのもので、肉体的な犠牲や痛みも伴う結果で、不器用な後悔と愛の物語で。

青い花』は、志村貴子の空気や空間をアニメに落とし込んだ演出があったと思う。

空気を吸うことすらも忘れてしまうようなくらいに綺麗で。

今にも壊れしまいそうな、そして彼女たちの外れてしまいそうな機微が保たれている決して優しくないけれども、静かに在り続けるものとして。

この作品を観た日、朝5時まで眠れなかった。

夜明けは早く、朝日が刺し込む部屋で胸のざわめきを紛らわす為に思考に没頭することを止めようとするように。

胸が張り裂けた。

まさにそれ。