おおたまラジオ

しまいには世の中が真っ赤になった。

摂取したもの2018年9月 村上春樹

9月は「村上春樹を読む」再デビューの記念となった。

10代の時に父親の本棚から『羊をめぐる冒険』を借りて読んで(サッパリ分からん)オシマイになっていたから、それ以来の挑戦だったわけだ。

イメージが変わった。

最近の発見としてハルキストって揶揄されているが、彼らは実は凄いのではという仮説。

春樹は難しい。特にデビュー作の『風の歌を聴け』は。

春樹の作品自体がジャンクでカジュアルな流行作家的であるが、意図的に切断された情報=死の匂いが使われていて作中のキャラはデタッチメントなのに読者は作品にコミットメントしないと構造が読み解けないみたいな。おまえら洋楽聴きながらくつろいでビール飲んでんじゃねーよと。無機質に女と寝てんなよと。

テーマや構造のみならず、小説の枠組みの中でそれぞれの文章が、比喩が、呼応しているような文章の連動性がある。

佐渡島康平は「無駄な文章がない」と記していたが、まさにデザインされ尽くした古文の授業を思い出した。

風の歌を聴け』は結構面倒で、小説を読んで久しぶりに(あれ、これ分からん)となったから、初手から春樹コンプレックスを拗らせてしまい、前途多難の様相を呈した…。

文体とか目線は確かにクールで、雰囲気だけ読んでビール飲みながら音楽掛けながら消費できる小説自体がファッションアイテムになっている思う。

マスメディアの影響でハルキストが各地に生息していて、まるで国民的なマジョリティのような受け取り方をして錯覚していたが、それでもハルキスト(恐らく一部of一部)の捉え方が変わった。

なんか春樹ってやけに毛嫌いされている。

ハイセンスやらセクシュアリティのイメージも相まって。

市場と受け手のこの辺のギャップってハルキストの乱痴気とノーベル文学賞候補と発売前の重版出来によるマスメディアと受け手の共犯関係的狂騒が要因として発生するアレルギーなのだろう。

そんでデビュー作の『風の歌を聴け』と2作目の『1973年のピンボール』を読む限り、少なくともハイセンスとかそんなことは無い。

抽象的でも観念的でもない。でも、構造としての「遊び」は難しい。

 

風の歌を聴け (講談社文庫)

風の歌を聴け (講談社文庫)

 

 

その『風の歌を聴け』は女性に去られた男の話。

完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。

デタッチメント=クールな姿勢になることで主体性が失われ、ディスコミュニケーションに至っていくまでが描かれ、「自分/他者」を一定の目線で追い掛けながらビールと本とレコードといったものを消費する日常。

これらの消費行動が自己表現になり、過去=記憶との対面によって現実感が浮かび上がり(自己の浮遊感と存在感)、意思と記憶のズレがそのまま通り過ぎていく日常と風景=風の流れ=受動的消費として表現されている。

両作とも意図的に切断された情報=死の匂いとパッチワーク的構造から、敢えて語らずに浮かび上がらせる形式になっている。ただ『1973年のピンボール』以降は物語性が増幅されているから親切設計。

小説として、流れている横の時間軸と縦に視点としてのキャラを配置してシャッフルすることで断片的であるが、全体を整理するとスッキリしていて作中では間接的な態度=デタッチメントでありながらも、村上春樹自身はどうしても物語への直接的な態度=コミットメントへを取らないといけない部分、人物を動かさないでどう物語を動かすかハッキリしていて、その因果や調整が作中のバランスとして揺れる様がある。

そういうのを含めてクールとかスタイリッシュとか評している巷の人たちってどれくらい読めているの?って純粋に気になる。

告白すると難しかった。正確に読めた気がしない。

だからハルキストの生態系が色眼鏡抜きで興味が出てきた。やっと。

1973年のピンボール (講談社文庫)

1973年のピンボール (講談社文庫)

 

 

1973年のピンボール』は循環としての「入口/出口」の話だ。双子やコネクトのための配電盤やリプレイ性が日常に非日常性を組み込み、現実とメタ現実のポストモダン的でもありながら、井戸=ユングが明らかにモチーフとして表れている。

この辺は『シャーロック・ホームズ』的になる『羊をめぐる冒険』へ継承されて「いるかホテル」が登場する。

死の匂いや情念はこれまであったが、今作では「死者」との交流も直接的で、目的や意味となる探し物=ピンボールが無意味的に映りつつも、葬式という行為による内面のロマンの切断と転換が劇的となっているのが特徴的といえるか。

 

ダンス・ダンス・ダンス(上) (講談社文庫)

ダンス・ダンス・ダンス(上) (講談社文庫)

 

 

ダンス・ダンス・ダンス』は一般的には喪失感と孤独からの再生を描いていると言われているが、時折挿まれる資本主義への警句と抵抗と諦念が本質なのでは。

まさしく資本主義で記号論的に消費していく日常を絶望的に捉えながらも、それでも踊るしかないよねという肯定と諦念だ。

春樹初期作品に通じる受動的な「消費」のテーマは「生/死」や「肯定/否定」と「入口/出口」と「現実/異界」と「男の欲求を満たす女」といったピースを機能的に描いているが、『ダンス・ダンス・ダンス』が一番クリアに書かれている。この辺の「消費」への違和感、春樹の場合は60年代で打ち砕けたわけでその60年代の亡霊を引き摺りながらも「何をしても仕方ないのだからデタッチメントで維持」として70年代を生き、そんで『ダンス・ダンス・ダンス』では80年代で無事に完成されている経費で何でも落ちる資本主義=かつて打ち倒そうとしたシステム自体で消費するしかない、私たちはダンスするしかないんだという作品。

だから亡霊としてのアップデートの過程において、70年代の亡霊が80年代に適合できない=トレンディじゃないシステムや人間像の「壁(=システム)」とぶつかる話。

遠ざけていたものが目の前に立ちあがっているその眼差しは、かつての亡霊との対面であり、「死者」として組み込まれている。

ただ、春樹は厭世観というよりも消費文化としての資本主義を揶揄しているが、2018年現在グローバル資本主義世界においてそんなこと言ってられないわけだ。そういう意味では時代性に耐えられるほどのものではないし、トレンディではない。傾向ではなく普遍性への提言や敗北宣言して皮肉るのもただただ消費されていくだけに繋がるので、この小説自体に救いは無い。

果たして『ダンス・ダンス・ダンス』って物語的にはハッピーエンド的なのか…?

ちなみに春樹はそれを自覚的に書いていると思うので興味深い。

おおたまラジオ番外編 村上春樹と村上龍/西加奈子と朝井リョウの時代性の違い - フトボル男

 

大塚英志『教養としてのまんが・アニメ』

東野圭吾『むかし僕が死んだ家』

村上春樹ダンス・ダンス・ダンス 下』

田口幹人『まちの本屋』

NR出版会『書店員の仕事』

村上春樹ダンス・ダンス・ダンス 上』

大塚英志物語消滅論 キャラクター化する「私」、イデオロギー化する「物語」』

大塚英志『「おたく」の精神史 一九八〇年代論』

松本大介『本屋という「物語」を終わらせるわけにはいかない』

フレドリック・ブラウン『現金を捜せ!』

京極夏彦鉄鼠の檻 一 二 三 四』

黒瀬陽平『情報社会の情念』

森見登美彦『太陽と乙女』

山本博文『流れをつかむ日本の歴史』

村上春樹羊をめぐる冒険 下』

村上春樹羊をめぐる冒険 上』

鹿島田真希『冥土めぐり』

沼田真佑『影裏』

島田荘司『アトポス』

内田樹『寝ながら学べる構造主義

村上春樹1973年のピンボール

内田樹内田樹の大市民講座』

村上龍『海の向こうで戦争が始まる』

山下澄人『しんせかい』

内田樹 白井聡『日本戦後史論』

伊集院静『不運と思うな。』

西加奈子サラバ!下』

西加奈子サラバ!中』

西加奈子サラバ!上』

森見登美彦『美女と竹林』

森博嗣スカイ・イクリプス

森博嗣クレイドゥ・ザ・スカイ』

河合隼雄『日本文化のゆくえ』

村上春樹風の歌を聴け

内田樹 平川克美 名越康文『僕たちの居場所論』

森博嗣『フラッタ・リンツ・ライフ』

森博嗣『素直に生きる100の講義』

森博嗣『「思考」を育てる100の講義』

西加奈子『i』

宇野常寛『日本文化の論点』

大江健三郎『死者の奢り・飼育』

森博嗣ダウン・ツ・ヘヴン

東浩紀『弱いつながり』

押井守『やっぱり友達はいらない。』

森博嗣『孤独の価値』

森博嗣ナ・バ・テア

鈴木敏夫『風に吹かれて』