おおたまラジオ

しまいには世の中が真っ赤になった。

宇野常寛編『PLANETS10』を読解して『PLANETS11』を予想する

本稿は『PLANETS10』の一部の文脈のみを恣意的に取扱い、それを読解していくことで次号の『PLANETS11』への足掛かりといった予想を膨らませる記事である。

手掛かりは『PLANETS10』で提示されている。

PLANETS vol.10

PLANETS vol.10

 

 

最初に結論を述べておく。

私の予想としては、都市論からみえる「風景」の再発見と再考になるのではないかと考えている。

「PLANETS10が100倍おもしろくなる全ページ解説集」の文中で宇野常寛によって予告されているのは「都市論」であったが。

イケハヤランドの記事を書いているあたりでたぶん次は「都市」特集になるのだろうな、と思いました。要するにこの本はチームラボが体現する問題設定(の具体化としての「戦争」)にはじまって、それを身体と地理(押井守→『走るひと』)で回収する本です。たぶん、次の号はこの「身体と都市」とくに後者が主役になる。そう予感しています。

ゼロ年代の想像力』の著者でもある宇野常寛は、「PLANETS10が100倍おもしろくなる全ページ解説集」(以下「解説集」)において、『2010年代の想像力』の構想もあったと記していた。それは「3.11後」と「SNS」をモチーフとして、サブカルチャーの想像力と密接に語る『ゼロ年代の想像力』の延長にある清算的なアイデアだったらしいが、かつての(ゼロ年代宇野常寛ならば『2010年代の想像力』を記述する評論家だったと思うし、かつての読者ならばそれを期待していたであろう。

ゼロ年代の想像力 (ハヤカワ文庫 JA ウ 3-1)

ゼロ年代の想像力 (ハヤカワ文庫 JA ウ 3-1)

 

 

しかし「2010年代」よりも、その先を見据えた射程のあるトピックとしての具現化が『PLANETS10』という形になったのだと読後に素直に思った。

次号の『PLANETS11』は2019年夏刊行予定とのこと。

まさに平成が終わり、「2010年代」が終わりを迎えつつあるこの時だからこそ、『ゼロ年代の想像力』の延長であったかもしれない『2010年代の想像力』ではなく(『PLANETS10』ではモチーフを完全に乗り換えて上書きしているために、宇野常寛自身の興味は「そこ」にはないと考える)、それ以上に射程のある、これからの現実を生きていく私たちの身体観と風景観(「身体と都市」)のアップデートを「表現」ではなく、「実現」として規定するメディアの振る舞いを図るのではないかと予想している。

そしてなによりも『PLANETS10』で示されているようなアプローチ(後述)は、『PLANETS11』への橋渡し的な文脈として存在している事柄について、より身体論的に、地理的に文化と接続させて「再発見と再定義」を語るのではないだろうか、と。

押井守の項から具体的に表層化した「風景と映像」から、身体的転回として、身体論が都市空間に接続されていく『PLANETS10』という雑誌の構成のように(押井守→『走るひと』→イケハヤランド)。

 イケハヤランド記事までの流れが丁寧にあったからこそ、都市論をマクロ的に捉える「風景」の再考へと繋がると考えている。

 

まずは上記の『PLANETS10』の文脈を整理しながら、話を進めていく。

「『パトレイバー2』再考 すべてのテロリストは演出家である」の項で触れているように、宇野常寛は、押井守へのインタビュー内で「現実が虚構をつくるのではなくて、虚構が現実をつくるということが常態化し始めた時代」だと述べている。

メディアの役割やその生産性が、現実を新たな側面として虚構を通過した上で構築していく事実に触れた。その地続きとして、インターネットによって齎されたSNSはリアルの延長として、かつてどこか仮想空間的だったインターネットが、SNSの展開によってどこかしら虚構的だったものが、リアルでネタでメタなコミュニケーション消費の空間としてつながっていることをユーザーたちは否応が無く自覚していった。

押井守は、現実と虚構では現実(日常)が勝ってしまうことを挙げている。

虚構が一次的に規定していても、侵食していても、二次的には、最終的には日常に喰って取られるけれども、虚構を通すことでの切断性=非日常こそが、常時接続が可能となったネットワーク社会における可能性の一つとして見出されているが、それも今や困難な程のリアルな接続社会となっていると示唆した。

 

宇野 『首都決戦』を観た時の印象としては、やっぱりいま僕らが生きている東京の風景と接続され過ぎていると思ったんですよね。

押井 というか、どう撮っても日常が勝つに決まってんだろ(笑)やっぱり実写の世界というのは、クソリアリズムの世界なんですよ。対象と乖離させた緊張感を持たせようとすることが、とことん難しい。

ここで宇野常寛が述べた「東京」は、『日本文化の論点』でも記されていたように「世界有数の「地理」というものの意味が死んだ街」と鉄道依存によって分断されていると形容されていたものと繋がる。

 

日本文化の論点 (ちくま新書)

日本文化の論点 (ちくま新書)

 

 「距離」ではなく「時間」で換算されてしまう東京の地理感覚をインターネットのブラウジングに例えた宇野常寛(この論考にも押井守が登場しているのは偶然ではない)であるが、インターネットの想像力と距離感によって、地理は文化を規定しないとも記している。

この問題提起は『PLANETS10』に通じるものであり、かつて存在していた場所としてのインディーズ感が、インターネットに吸収されていくことでネット発信による文化の生成が、地理的なものから喪失してしまったからである。

 

もはや街並みや、コミュニティの多様性といった「都市」の機能はほとんど文化の生成と存続に寄与しない。関係するのは建築の機能、特に規模=サイズだけになりつつあると言えます。

 

今の東京とは別の「裏東京」を――鉄道網の支える<昼の世界>の東京とは別の、自動車道路網の支える<夜の世界>の東京を考えることはできないか――。情報化の進行で、鉄道依存の強化で失われて久しい東京という街の地理感覚がこれまでとは異なるかたちで回帰してきているのではないか――。

この問いの設定が、『日本文化の論点』で挙げられている自動車ではなく、『PLANETS10』では身体的な散歩やランニング・カルチャーによる自発性へ向いていったのが面白いと思う。

当然、SNSの功罪はあるにしても、<夜の世界>を自分の足で、みんなとコミットしていく運動=祝祭的な非日常性が、今後の宇野常寛がイベントやオフ会のみならず仕掛けていくテーマになるのだろう。この次なる仕掛けに対して向き合うのが『PLANETS11』の一つの柱になるのではないか。

押井 船をチャーターして隅田川のクルージングをしたことが、一番大きかったですね。あれでほぼあの作品(『パト2』)のカラーが決まった。水面から見える東京というのは、僕も初めてだったし、全然違う世界が見えたのでシビれましたね。

「解説集」で述べられているように、イケハヤランドの記事よりも先にあった井本光俊の発案による「川から街を見てみよう」という企画は、この押井守のコメントと自然と合致していくものであり、少し違う角度からの街の見え方を提示している。

川下りをしながら「街」を見上げると、地上の街を歩く時とは全く違う街の顔が見えてくるという街の見え方をどのようにアレンジを加えて実現するか、という別の側面にスポットを当てた捉え方の企画であったらしいが、『PLANETS11』でのリベンジ予定が書かれているように「都市論」における「都市」の見え方が一つのテーマになるはずだ。

押井守宇野常寛は『パト2』は「風景映画である」と語り合う。

この「街」の捉え方、つまり東京そのものをマクロでもありミクロでもある風景として描くことで、「街」の実存性を投げかける仕組みになっている。

 

宇野 作品そのものが東京の都市論として作られていますよね。

 

押井 実際にロケハンしてわかったんだけれど、品川から木更津までは船に乗って10分か15分で済んだんです。そういう「距離」の世界を僕たちは生きておらず、「時間」の観念のなかでしか生きていない。けれども、その時間の観念を拒絶した途端に、空間が復活する。それは身体的にしか獲得できなくて。

 

そして『イノセンス』以降の、風景の押井守から身体論の押井守へ至るまでのパーソナルなクロニクル的解体を経て、表現行為としての日常における身体論が浮かび上がる構成である。

また、SNSなどの常時接続によって、日常性を切断する表現(言葉や映像)が、日常的にそれぞれが自己充足的に満ち足りすぎてしまっている世の中において、言葉(表現)の優位性をどこまで確保できるか。

宇野常寛は、この時代性について、言葉の優位性が暴力的に機能(報復的)していると述べた。

一方で、押井守は日本人の言語感覚の無自覚なままの無原則な妙を語りつつ、『パト2』がどこまでも東京の風景映画たる所以として。

何かを守ろうっていう文化的な発想からは何も出てこなくて、やろうとしていること自体が反文化的なわけです。これってつまり、テロそのものじゃん。日常たりえない部分で、何かをやる、日常そのものを壊すところで、何かを成立させようとするわけで、それが文化なり歴史であるはずがない。むしろ反歴史主義でしょ?

結果的に東京の文化的な空っぽさが、東京の風景であるとした上で、文化的に切断されている東京の今/リアルが、反文化的な都市として日常化されてしまっていることを冷静に分析した。

この東京という都市空間の空っぽさが、ネガティブ・フィードバックしかないニヒリズム的消費ではなく、ポジティブに変換できる可能性があるのでないか。

具体的には後述するが、風景論には新海誠の『君の名は。』の示した想像力が一つのオプションとして機能するのではないかと予想している。

畠山宗明の論によれば、新海作品のキャラクターたちの身体性の躍動感や瑞々しさは、空っぽの場所があるから成立しているという。

風景が運動として飛び立つための「空っぽ」の場所がある。新海作品の身体的な充実は、逆説的にもそうした風景の空虚さによって影ながら支えられているのである。

空っぽであるからこそ、新しい水を注ぐ作業が求められる。

そのための能動性や企画性は、予め充実していて満ち足りていたら逆説的にはコンセプトとしてそぐわないことになることだろう。

その運動=ある種の祝祭が、宇野常寛がこれから仕掛けていく「コト」になるのではないかと考えている。

 

宇野常寛が「解説集」に記しているように『PLANETS9』のコンセプトの一つに、「他人の物語」であるスポーツ観戦に対して、「自分の物語」としてどのような形でシフトさせていくか、があった。 

PLANETS vol.9 東京2020 オルタナティブ・オリンピック・プロジェクト
 

 

ゲーミフィケーションのような表現のモチーフではなく、身体の実践として「自分の物語化」に組み込むことの重要性に繋がっていくとして、押井守の風景から身体論への転回とシンクロする図式が『PLANETS10』でも置かれている。

押井 身体っていうのは実現するものであって、表現するもんじゃないってね。

それが、次項から特集記事として編まれている『走るひと』とのコラボレーションであった。

宇野 走るようになってからわかったんですけど、走っている間ってスマホも見ないし、走ることと考えること以外が削ぎ落されて、世界との向き合い方がシンプルになりますよね。世界に対するアンテナをあえて絞ることで、見え方が変わるっていう快感が、僕はすごく好きです。

上田 (略)走ることによって、街を捉えることの解像度がコントロールされるような感覚ってありますよね。

宇野 (略)走ることによって、自分のペースで世界と接することができる。

 

(略)

 

宇野 歩くと街に包まれちゃうけれど、走ると街の流れを感じられる。やはり、散歩というのはひとつの街への没入なんですよね。深く「潜る」イメージ。でも、走ると街同士のつながりが見えます。

 

(略)

 

上田 街を立体的に捉えられるような感覚がありますよね。

宇野 究極的にいうと、風景の一部になるんだと思います。ランナーは、街の景色の一部としての、いわゆるモブキャラですよね。

上田 それは、街を走ることが当たり前になったからこそモブ化した、ということも言えますよね。

 

 (略)

上田 走る場所を変えれば、発信する内容も簡単に変えられますからね。

宇野 シチュエーションが変われば見せ方も変えられるし、毎日同じコースを走ったとしても、定点観測的な価値を帯びるじゃないですか。どちらも、自分の物語として非常に今の時代と相性がいい。

 

街の文脈としての連なりとゆるやかな人間のつながりが、可能性として開かれている。

このコラボ特集では、ランニングカルチャーの変化(体育や修行のような苦行な自己鍛錬化から、カジュアルなライフスタイルスポーツへ)の推移を踏まえた上で、自己満足の世界から、ソーシャルな発信との連帯によって誰もが一人一人の体験や習慣を共有化することで他者性を獲得していく時代背景を、ランニングカルチャーとして語っている。

その際に他者性を追求した結果、当然生じるランニングカルチャーのコミュニティ化があり、それは走ること以外の目的としての、私たちの生活全般に関わる「衣食住」のライフスタイルへの接合のツールとしても機能的に働いているとのこと。 

ゆるやかなコミュニティのつながりの関係性は、同じ習慣を持つ=ランニングだけでヒモ付けされた仲間意識によって、普段の生活している世界の中で触れ合う関係以外とは少し違うであろう住民とのコミュニケーションにもなっていく。

そこで獲得した価値は、発信する情報の中身よりも、発信という行為による体験の価値への移行していった。

情報の価値自体が相対的に低下している現代だからこそ、例えば承認欲求合戦として揶揄されがちなインスタ映えであるが、インスタグラムにログとして残すために「その場」に赴き、「その場」に居た証明としての体験を発信をすることで自己充足的に完結できる手軽さは見逃せない側面であると考えるし、その発信された情報を基に体験が共有されて連鎖していく構図もある。

それが結果的に、クラスタ化の可視化や連帯的なコミュニティ化への促進になる。

コラボ記事ではランニングカルチャーの定着として、カジュアルなイベントしての立ち上げを図ろうとしている。

例えばフェスとの融合である。

音楽における情報メディアがいくらでもコピー可能で、いつで好きな音楽を見聞きできる時代だからこそ、相対的に「現場」への価値が高まっているのは明らかだ。その「現場」に行くことでの音楽的体験と「その場」に居るからこその付加価値を融合させた祝祭がフェス文化だと言える。

そこにランニングイベントを合わせれば、祝祭の「二重性」になり、カジュアルに非日常的な時間を過ごすことができる。

その体験や習慣に基づくゆるやかなつながりは、自然的に生まれるだろうし、常時接続が当たり前の今だからこそオンライン以外での緩やかな時間や関係は、全く異なる他者性が齎す自発的な介入による、世界の広がりを獲得することだろう。

「解説集」で宇野常寛が挙げている上田宇野対談のポイントは、「走る」ことの価値をランナーの内面ではなく、世界との関わり方に置いたこととしている。走るという能動性によって主体的に世界に関わる、働きかけることで生じる快楽であると。

 

走ることで世界を捉える速度を調整し、街を走ることによって、街から街へ(エリアからエリアへ)を移動することでつながりを感覚的に理解し、街の文脈を感じる。

つまり、「走る」ことは世界を見る目を自分の身体で調節しながら移動する行為なのです。

また、宇野は対談で印象的だった話としてランナーの匿名性を挙げている。

走ることで「ランナー」という匿名性を獲得し、風景の一部として溶け込ませることの意味を説いた。

「走る」という独特の速度が、人を風景に近付ける。

 

「走れる街」というのは、単に集積率を上げる古い意味での「効率化」ではなく、より長期的で付加価値の高い現代的な新しい「生産性」を重視した街のことを指すわけです。

そして、更に「走って楽しい街」というのは多様性のある街です。(略)いまのイオンワールドと化した地方都市の郊外を走るのはあまりおもしろくない。やはりどんどん景色が変わる自然か歴史、どちらかの豊かな街を走るのが理想です。

「走れる街」への提言として遡上に挙がったのは「渋谷」。

かつて文化の発信力を有していた渋谷が、今や何らかの祝祭だけのグロテスクに形骸化した渋谷について、宇野常寛は以下のように述べた。

 

宇野 ストリートカルチャーの最盛期の渋谷は「日常」であり「非日常」だった。日常的な溜まり場の中に、非日常のようなワクワクが混じっていたはず。

渋谷を走れる街にしようっていうのは、日常と非日常が交差する場所としての渋谷を取り戻すことでもあるのかな、なんて僕は思うんです。

この一連の「渋谷記事」では、渋谷の意外な発見として早朝の渋谷は走り易いというこ事実が幾人かで共有されている構成であり、徹夜=非日常ではなく、早起き=非日常として演出する一つの手段として、みんなで渋谷スクラウンブル交差点を目指して早朝ランニングという発案がなされた。

そのなかで、グループとしての仲間意識や様々な人々が交差するスクランブル交差点で、それぞれのストーリーがシンクロニシティ的に交差する一体感は空間と行動が一致する面白そうな試みである。

早朝の時間帯であるからこそ、これから一日が始まる予感を抱きながら通勤・通学する人達に間に紛れ込むランナーという仮面を付けた集団が、渋谷を彩る様にライブ感として演出する。

勿論、ランニングステーションの不足やスポーツ産業と都市デザインの問題などもあるが。

 

つまり「渋谷」を文化的な街として、どのように立ち上がらせるかが一つの問題設定になっている。

ハロウィンやサッカー日本代表戦やカウントダウンなどのイベント=単なる祝祭的な空間のみならず、渋谷の文化的発信としてどう注力ができるかどうか。

ここでの問いへの答えは、ランニングカルチャーとの融合による発信性だった。

渋谷で思い出したのは『ブルーピリオド』1巻の主人公が、渋谷の街を青く塗った表現である。

普段混雑していて雑多な渋谷の夜の匂いが、朝焼けの非日常な瞬間においては主人公の心象風景的なリアルとして立ち上がる快感=世界の見え方が変化した瞬間は、渋谷の持つポテンシャルを描いたシーンだったと考える。

 

ブルーピリオド(1) (アフタヌーンKC)

ブルーピリオド(1) (アフタヌーンKC)

 

 

日常であり、非日常の都市空間として、どこまで甦られるのか。

土着性と「衣食住」のライフスタイルが、「その土地ならでは」な文化的思想とヒモ付けされることで、地理と文化のストーリー性が見えてくることだろう。

それはつまり、「そこに居る理由」にもなりえるし、手軽にアクセスできる(インターネットのブラウンジング的)今だからこそ、なぜをそれを食べるのか/着るのか/住むのかといった衣食住レベルとの文化的背景のリンクが、私たちの空間と生活を豊かにする共生関係になる。

果たして『PLANETS11』が、「都市空間」のみにコミットした作りになるのかどうかは分からない。

私は、都市の「風景」をどれだけ炙り出すかが鍵になると踏んでいる。 

一般的にはアニメーションとのコラボレーションで話題になる「聖地巡礼」というコンテンツ・ツーリズムがある。制作側が行うロケハン自体は現実の場所を指定するから、起点は紛れもない現実であるが、アニメーションという虚構によってその無意味だった地理が浮かび上がり、改めて虚構を通したことで地理的な価値が規定されていくのが「聖地巡礼」であるが、そのようなコンテンツ・ツーリズムや一般的な観光を仕掛けるのはPLANETSとしてはエッジが無さすぎる。

現実の実現的な文化と地理の再起動を図ろうとしている(ように受け取れたのが)『PLANETS10』であるから、必然的に実践的に『PLANETS11』へ継承されていくモチーフでもあるだろう。

『PLANETS10』では、これまで記したようにランニングカルチャーを起点に、文化と地理をリンクさせようとする試みがなされていた。

また、宇野常寛のプロジェクトの一つにある「#観光しない京都」や都市の再開発の象徴としての文化的な場や発信的な空間=ヒカリエやCAMPFIRE以外にも、年始に公開されたPLANETS BASE構想といったように、場所を生み出して、どのように「遊ぶ」かがテーマなのは明白だろう。

 

「PLANETS BASE」(仮)と名付けているのですが、東京にコミュニティースペース兼本屋さんをオープンできたらと思っています。年末の大忘年会@ヒカリエで、箕輪さん、佐渡島さんと話していたあの施設です。

言論界に限らず、これまでこの国の社会では陰険な「飲み会文化」がはびこってきました。

自分たちの支持者を集め、敵対する、やっかんでいる同業者の悪口を吹き込んで洗脳する。その場にいない人間を欠席裁判にすることで、内側にいる人間の結束を固める。そんなコミュニティなんて、いくらつくっても意味はありません。

PLANETS CLUB の発足の背景には、こういう陰湿な「飲み会」コミュニティへの反発が大きく存在します。

否定ではなく、肯定を語る場所。誰かの足を引っ張るのではなく、自分が動くための場所。適度にクローズで、適度にオープンであり、そしていつでも好きなときに加入してそして辞められる場所。それでいて能動的にコミットすればいつでも主役になれる場所が、いま求められているのだと思います。

そしてこうした新しいコミュニティの受け皿としての実空間をもつことが、今の僕の目標のひとつです。

 

ch.nicovideo.jp

インターネットによって常時接続可能な私たちの生活とは、また違う空間としてのオフラインでゆるやかなつながり(最終的にはSNSに収斂していくだろうが)を、フェスや握手会現場に行くことの価値=自分だけの体験に落とし込むことで、情報よりも体験の価値が相対的に高まっている今だからこそ、そのために地理(場所)としてどのように立ち上がらせるか。文化的発信とSNSと地理をどのように密接にリンクさせていくか。

一人の小さな体験物語ではなく、ある程度の共有性をもてる共同体や集団という、一人だけではなしえないような他者性のある物語への拡張を、現実の場としてどれだけ持てるか。

そのキーになると思われるのが、『PLANETS10』に掲載されているように児玉健や金山淳吾へのインタビューで明白な「遊び」を地理的に根付かせるかどうかの問いの設定になるだろう。

今後のPLANETSが仕掛けていく企画は「遊び」の空間として十分に機能していくはずであるし、その青写真がメディアレベルとして『PLANETS11』にも載るのではないだろうか。

実存主義的な考えに沿えば、人生の意味を見出すには自分を状況の中にコミット=投企していかないといけないが、地理と文化と自己との実存をゆるやかに連帯させて、重ねていくような機能を宇野常寛というプレイヤーが「遊び」をもって仕掛けていくことを願っているが。

 

話を進めよう。

ゼロ年代の想像力』では、ポスト・エヴァのムーヴ(バトル・ロワイヤル的状況)への処方箋として、セカイ系の風景ではないクドカンの郊外都市的想像力の共同体に一つの可能性(『終わりなき日常』ではなく『終わりのある(ゆえに可能性に溢れた)日常』)を求めた宇野常寛であったが、郊外におけるファスト風土化、コモディティ化が進み、その地理的なカラーや世界を捉えるための文脈が埋没している現代において、文化の文脈の取っ掛りが存在する自然や歴史への回帰は、当然の眼差しになるのではないだろうか。

況してや、地理が文化を規定しにくい状況であるからこそ、既に土着性として存在し続けている歴史や自然は、根源として大きな可能性を示しているのではないだろうか。

セカイ系の風景の距離に対して、中間共同体(ランニングコミュニティなどもそうか)の相対的な価値が高まるのは自然なことだろう。

奇しくも、いや必然的に『ゼロ年代の想像力』で捉えた「風景」が、射程としてこれからも存在している。その共同体の一つの担い手として、宇野常寛というプレイヤーがどう振る舞うかは重要だ。

「解説集」で告知されているように、自然との関わり方として安宅和人が主催している「『風の谷』を創る」プロジェクトの全貌は、高齢者と地方を切り捨てないための再生としてのオフグリッドのプロジェクトは、『PLANETS11』の一つの柱になるのだろう。

それは、ここまで記してきた東京、渋谷から離れた、地方への目線として必然的に読者を誘導させる仕組みになるはずだ。

柄谷行人日本近代文学の起源』で言及されている風景の発見について、ありふれた無意味な風景を、近現代以降の開発でもある言文一致のリアリズム的に写生することで、「内面」=「私」という主体が見出されて、その景色に意味性が組み込まれていくことが挙げられるだろう。

日本近代文学の起源 原本 (講談社文芸文庫)

日本近代文学の起源 原本 (講談社文芸文庫)

 

風景といえば、イケハヤランドの記事が掴んだテーマの一つでもある。

この記事がなければ、次号は予告通り「都市論」(だけ)にコミットしていくと考えていたが、イケハヤランドのルポタージュがあったからこそ「風景論」へシフトしていくと予想した。

「探訪ルポ:風雲! イケハヤランド」で、宇野常寛は一面の棚田を観て、「この国の人々はピラミッドも、アヤソフィアも築き上げることはなかったが、棚田を遺したのだ。それは人為と自然との調和であり、そしてそれ以上に究極的にはあらゆる人為もまた自然の一部に過ぎないことを思い出させてくれるのに十分な美しさだった。」と記しているように、自然と歴史の文脈によるスペクタクル性と否応なく自然の一部として組み込まれてしまう圧倒的な規模への没入感は、まさに風景の発見の醍醐味ではないだろうか。

また、イケハヤの「自分で作らなけりゃ楽しくないじゃないですか」という台詞は、宇野常寛自身、またPLANETSというメディアの原動力そのものだろう。

これから、メディアとして仕掛けていくであろう「祭り」も、究極的には自分で「楽しい」ことをやりたいという根源的な欲求があり、「楽しい」ことを自分で企画して生産する過程で、フィードバック性が担保されていれば必然的に次なる「祭り」への橋渡しになる。

これは『PLANETS10』から『PLANETS11』へのメタメッセージそのものだ。

イケハヤランド記事は、地方の「村システム」と産業構造の利害関係の有無(ここでは既に機能不全になっている)を結果的に限界を超えてしまったからこそ、「移住者」としてのイケハヤのリアルが綴られている。そこには人材不足やインフラや権利等が絡む。排他的な村社会そのものが機能していないことで、移住者としての基盤が築かれやすい上に、限界を超えてしまった、ゼロからのやり直しの土地であるからこそ、もう一度「開かれた」可能性が自然との調和と同時に潜んでいる。

この「移住者」は「解説集」にある文言を引用したものである。

 

人は旅してその街を通り過ぎるだけでは、非日常としてその街を通過するだけでは、実は何も学びません。いや、学ぶものもあるのでしょうが、そこに住み、日常を過ごしてはじめて見えてくるものがあります。そして移住者の日常は、もともと住んでいた人との視点とは明らかに異なっている、いや異なってしまう。

 

私が、ここで『宇宙よりも遠い場所』というアニメを思い出した。あのアニメは、南極への「移住者」への目線を期間限定の日常として描いた。

宇宙よりも遠い場所』は〝南極セラピー〟という精神上の名目のもと手段としてのフィジカルが機能し、学校=世界の外へ展開されていく南極=非日常が日常化することで、「ここ」の否定から始まった「ここではない何処か」への逃避や選択は、最終的には行き着いた「そこ」も「ここ」になるという、日常はどこでもどこまでも日常であること、学校の中で完結していたならば友達ではなかった彼女たちが学校=世界の外で友達になっていくまでが描かれた。

ゴールへ向かう日常から出発し、ゴールという非日常性を獲得した後に、その非日常すらも日常化していく。『よりもい』では学校という世界=日常を飛び出して、非日常的な振り幅のある南極=ゴール=新世界へフィジカルを引っ張って描いた。

旅をして、移住することで、世界(風景)の見え方は変わる。

 

animeanime.jp

自然の魅力だけではなく、異なる文化的背景や思想がその土地に持ち運ばれることで、そして根差すことで交差する目線やズレ(良い意味での違和感)によって、日常/非日常のような切断と横断がレイヤードされていく。

この風景の捉え方、自身の身体的な置き方はノスタルジーや過剰に美化されたナルシズムを愛撫するだけのものではない。「世界」という複雑なレイヤーの中での移動している主体(私)の発見と再定義に他ならないのだから。

この記事は、イケハヤランドに対するアンチによる熱心な告発記事へのカウンターとして、宇野常寛の唯物的なカメラ=目線から覗くイケハヤランドのルポタージュとして「楽しく」読めるのが特徴であるが、イケハヤが語るその土地に住む人の郷土愛や土着性の観点は、「都市論」に間違いなく組み込まれるべき題材になる。

 

「自分が住んでいる土地を好きだと言えることって、実は大事だと思います」

宇野常寛は「一度「終わった」場所であるからこその可能性を彼(イケハヤ)は見出している」と述べた。

『PLANETS10』で存在感を出した「東京」あるいは「渋谷」が、いかに「地理的に文化的に死んだ街」からの再生として、「文化の遊び場」として演出して取り戻していくかに対する問題設定の共有になっている。

旅の終わりを宇野常寛は感傷的に締めくくっているように、「ここ」からの再生と回復からは逃れられない。

こことは違って、東京にはこれまで築きあげられてきたものが(まだ)倒れずに残っている。グロテスクに肥大し、根本から腐敗し、緩慢に壊死しながらもまだ確実に存在している。あの街、ゼロからはじめられる場所からは、程遠いのだ。それでもこのときの僕は東京に戻らなければならなかった。

 

柄谷行人が記したような風景の発見、例えばロマンチシズムな内省的なパフォーマンス以外にも、風景にはかつて存在していた実体との距離や、今なおグロテスクに存在している実体との距離や質感を如実に浮かび上がらせる、世界と身体との調和がある。

腐敗してゼロ地点へ下っている失われた風景へのエモーションは、自然への喚起である。

そこで私が思い付いたのは、2016年に公開された新海誠の『君の名は。』で描かれた「風景」がキーになるのではないかと思っている。

 

 

あの映画で示された風景は、ゼロ年代セカイ系の風景への回帰とも受け取れるものであったのは一つの事実であり、「きみ」と「ぼく」の矮小化された物語をセカイに接続するという、自分(ぼく)と他者(きみ)の距離の物語化だったといえよう。

そもそもセカイ系とは

物語の主人公(ぼく)と、彼が思いを寄せるヒロイン(きみ)の二者関係を中心とした小さな日常性(きみとぼく)の問題と、「世界の危機」「この具体的(社会的)な文脈(中間項)を挟むことなく素朴に直結している作品群」 限界小説研究会 

と一般的には定義されている。

君の名は。』の想像力、特に宇野常寛はポスト震災としては「向き合い切れていない」ある種の弱さを『シン・ゴジラ』と比較して指摘していたので、『君の名は。』が『PLANETS11』(「2010年代の想像力」の延長) のモチーフとしてどれだけ耐えられるかは定かではないにしても、風景と(それを発見する)主体のとの距離感を「再発見」するというデザイン性は、「都市論」に合致していくだろう。

都市空間への没入と風景の一部になるためのコミットとしての演出、客体の「風景」と主体でもある「自分」が溶けあいながら共に「風景化」していくのは『PLANETS10』の「走るひと」コラボ記事で特集されているように、「渋谷」を走れる街にするための青写真や、またランナーという匿名性によるモブキャラ化と風景の一致性に通じるものである。

「都市論」から「風景論」へ。

人工と自然の二項対立的な語りというよりも、一元論的な「都市」に収束していくような気がするが、『PLANETS10』で示された「渋谷」への発案と運動や、その文脈のみならず、恐らく『2010年代の想像力』の構想段階にあったであろう「ポスト震災」としての「失われた風景」や「一度終わってしまった都市」の回復への物語やイケハヤランドのように正確に「語られてこなかった風景」について、いかに記述して取り戻すための旅になるのではないか。

つまり、『PLANETS11』が、宇野常寛たちが仕掛ける「祭り」の宣言として機能すると思われる。

それは『PLANETS10』が「遅いインターネット計画」を明確に打ち出したメディアとしての姿と重なるはずだ。

君の名は。』が回帰したセカイ系の風景と、作中で描かれた喪失してしまった風景に至るまでの時間による忘却性とその暴力性は、私たちの自覚を突き付けるほどではなかった(ポスト震災として)と宇野常寛はかつて語った。

それでも私は『君の名は。』の、新海誠の描く風景こそに「風景論」としてのフックがあり、東京という地理と文化の回路が焼け切ってしまっている街の風景に、宇野常寛は空間に「遊び」として投射するのではないかと予想、いや期待している。

風景によって掻き立てられるエモーションと、その内面に介入する風景という存在感は力強く静的でもある。

風景に私たちは何かしらの思いを抱く。

それぞれの異なった時間や速度で過ぎ去っても、ノスタルジーで想起したり、思わず足を止めてしまったりする。スマホという身体の延長にあるような小型の「世界」を握り締めるのが日常となった今、外部=風景=都市に改めて価値を問い直すための「遊び」があってもいいだろう。

小さな端末で自己完結できる時代だからこそ、私たちは世界に広がる風景を捉える目線とその心が、柄谷行人が記したように風景によって投射された内面性が立ち上がるために、自然と世界における自己が内省的にならざるを得ないのだから、外部への「出力」を図るための体験や習慣があってもいいはずだ。

 

 

(新海アニメのキャラたち)彼らはみずからの存在論を、背景世界との関わりにおいてしめすのだ。そのようにして主体と縫いあわされている世界を、一つの軌跡が横切っていくとき、それはやはりたんなる移動ではない。世界のレイヤーを貫いて走るその軌跡は、世界と主体の来たるべき関係性を先どっているように見えるし、世界の再構造化がありうべき可能性そのもののように感じられるだろう。 中田健太郎

 

中田健太郎の論説には、新海アニメの複雑なレイヤード性による画面の構築によって、新海が描くキャラたち自身が、自分の置かれた環境や場にそれぞれの違和感を抱き、それを体現するように背景美術のレイヤー構造にキャラを縫いつける努力をし、画面のレイアウトの処理でキャラの居場所を穿つことで、世界と自分たちとの関係を確認作業していると記されている。

これは、アニメーションという二次元の虚構の複雑にレイヤードされたリアリズムの話であるにしても、幾重もののレイヤーの中の横断性=移動性とその実存性による主体の確認は、私たちのリアルにも置き換えられることだろう。

『PLANETS10』で提言されている「走る」という文化・移動行為自体が、捉えるための自己における世界の再構築であり再確認の作業になり、私たちがレイヤーを移動したという事実になるのだから。

また、河野聡子が論じた文章の一部を引用する。

彼(新海誠)のアニメーションは前述のとおり、自然や事物を美しく精緻に描きだすが、なによりも重要なのは、これらの描写が物語の語り手の「感情」や「気分」の総体となっていることだ。背景描写は物語の登場人物の行為や設定を説明するためだけにあるのではない。むしろ物語のときどきにおいて、その中枢で語る者の感情や気分を「風景」として立ち上がらせることが重要なのだ。

そもそも「風景」とは何か。わたしたちが生きる世界の景観は、自然(みずからもその一部ではあるとはいえ)人間の作為の結果が結合してできたものだ。日常的な生活では、わたしたちはたいてい周囲の環境に鈍感であり、景観に注意をはらうこともほとんどない。しかしなにかのはずみで、それらの景観と、そのときの気分や感情が相互的に作用するときがある。

 

周知のように「時間・空間・距離の断絶」は、新海誠のモチーフになることが多い。この切断性は悲しくもアイロニーに映らざるを得ない。

ときには断片的でもある風景は、河野聡子が論じたように私たちのなんとなくで曖昧な「気分」に働きかける。自然に全く興味が無い時もあれば、どうしようもないくらいに没入してしまう時もある。普段なら足を止めない場所や踏み入れない場所に、なんとなくな気分で立ち止まったり、いつもと違う道を歩いたりすることで静かな世界の広がりへ触れることができる。

これは、自意識の問題そのものだといってもいい。

私たちは何かしらの「気分」で変化を加えられる。

『PLANETS10』で掲げられている「渋谷を目指して早朝ランニング」企画は、まさに典型で、普段からカジュアルにランニングする層のみならず、日常的なランニングに対して「気分」が遠い人も非日常的な「気分」へと小さな接続ができそうなように。

しかし当たり前だが、風景と相互作用に働く「気分」次第で何もかも上手くいくものではない。

君の名は。』では、失われた風景を回復するために叙述的なトリック(時空を超えるための時間軸の任意的なズレ)を用いて、時の不可逆性に抗うことで、二者の恋愛関係のみならず、風景の回復というハッピーエンドな上書きをした。

君の名は。』は忘却されたモノ・コト(不在/喪失)に対して、精一杯手を伸ばして、自らが納得できるための意味を発見しようとする姿勢が描かれていた。

そこで現実を生きる私たちは、運命に絡んだ人間の意思決定力の肯定という力強さを『君の名は。』を通じて体感するが、実際には現実の、失われた風景をそれだけでは取り戻せない。

時間や意思といった切断された「距離」を、彼らのように私たちは後戻りできないのだから。

かといって、悲観してネタにメタに佇んでいるわけにもいかない。

失われたものは失われたまま保存されてしまうのだから、人為的に自然的に調和しながら介入しなければならない。自然や人工物のハーモニーは確かに美しいけれども、忘れてならないのは内在的にグロテスクであり、獰猛的であるという事実だとしてもだ。

私たちは、どこまでもその一部であり、その集合の一部として、今とこれからを生きていくには『君の名は。』のような虚構ならではのアプローチは出来ないが、『君の名は。』のように幸福的に上書きしていく使命がある。

それが、『PLANETS10』から『PLANETS11』へのアプローチとして、都市(風景)の捉え方のアップデートを図るためのメディアの機能に私は期待してしまう。

風景は人間にエモーションに提起させ、主体的に没入させるが、自然に働きかけることはできない。その瞬間においては内面の領域に留まるだけだからだ。自己の内面が風景に齎された感傷によって暴露的になったとしても、厳密にはつながっていると錯覚するだけである。そのつながりは、記憶の中の風景としばしば一致するため、あたかも失われた風景が回復してそのまま記憶=内面的に保存されるように思えてしまう。

ノスタルジーや忘却性による美化が、まさにそれだ。

その風景の保存を、どのように実存性までに結び付けられるか。

物語として、文脈として、地理的に、文化的に「死んだ街」や「喪失した風景」をいかに更新できるかの問いに繋がっていく。

畠山宗明が新海誠のアニメについて論じた一説を引用すると。

 

それはフラット化された「どこでも良い」風景である(否定としての「同じもの」)。しかしそれは運動する質を通じて選ばれた風景に改めて身体性や固有性を回復する(肯定としての「同じもの」)。新海作品の風景を見たときに私たちが襲われるのは、風景の任意性と固有性を同時に表現する、すなわち「どこでも良いが、そこでなければならない」という感覚なのだ。

今や「どこでも良い」気分は往々にある。

モノが氾濫した結果、コトに人々の関心は向いている。

だからこそ「そこでなければならない」という物語性に人々は魅了されていく。

モノはあっても、物語がない。あるいは逆説的には物語が過剰にあり過ぎる世の中だからこそ、物語としての風景を大事しようとするのだろう。

一人の固有の体験や価値観の規定を、どれだけコト消費と密接に絡みあいながら、腐っていく「都市」空間を埋め合わせて上書き保存ができるのか。

その保存が、結果的に「そこでなければならない」物語性へと昇華されていく。

失われた風景としての「ポスト震災」と「東京」。

また、語られていない風景としての「イケハヤランド」といったように、『PLANETS11』では、私たちが取り戻すべき「都市論」からの「風景論」が描かれていくのではないだろうか。