おおたまラジオ

しまいには世の中が真っ赤になった。

辻村深月『スロウハイツの神様』感想 僕らはこの現実と「世界」とどう向き合っていくのか

 

 

政夫:今日、取り上げるのは告知をしていなかったですが、辻村深月の『スロウハイツの神様』という小説を。

 

ろこ:上下巻。

 

政夫:読書会をやるという。なんでこれを選択したのかから入りましょうか。あらすじは一切触れず、ネタバレオールOKで。

 

ろこ:ストロングスタイル。

 

政夫:(笑)もう『スロウハイツ』読んでいる奴だけ掛かってこいという感じのスタンスなんで。なんで読書会にこれを選択したのかというと、おおたまラジオ第5回の『ボヘミアン・ラプソディ』で、僕が『SSSS.GRIDMAN』と一緒に名前を出したのがこの『スロウハイツ』だったわけで。

そこで、終わったかと思いきやろこさんが読み始めたから、この第7回に流れた感じですけど。ろこさんはなんで読もうと思ったんですか?

 

ろこ:ラジオの影響は多大にあると思うし、俺の性格的にも置いてけぼりにしたくないなと思っていたし、絶対政夫君とラジオをやっていなかったら出会わなかっただろうなという小説。

 

政夫:でも辻村深月は知っていましたよね?

 

ろこ:知ってる。知ってる。本屋大賞を獲った『かがみの孤城』の装丁なんかはインパクトあるからね。名前だけは知っていました。

 

政夫:なるほど。じゃあ、僕たちにしかできない『スロウハイツ』の読書会を始めましょうか。

 

ろこ:(笑)

 

政夫:まず、率直な感想をお願いします。

 

ろこ:チラッと感想をメールで送ったと思うけど…上巻下巻に分けた方がいい?

 

政夫:全体でいいです。上巻、下巻はこの後個別に各論的に触れていくので。

 

ろこ:凄い優しい作品というか。

 

政夫:優しくて温かいってメールに書いていましたね。

 

ろこ:怒涛だったから。

 

政夫:最終章ですよね。分かります。

 

ろこ:そこまで暖めているというか、その未来に行くまでを読ませているというか、気持ちのいい作品だったよね。好きな人は一気読みしちゃうと思う。

 

政夫:好きになりましたか?

 

ろこ:んー、そこまではいっていないと思う。でも、いいなーくらい(笑)伊坂幸太郎感を感じて。続編にも含みを持たせているじゃんか。『かがみの孤城』とか読んでみてもいいかなって興味が湧いたくらい。

 

政夫:辻村深月への興味が湧くくらいであったということですね。僕は読んだの3回目なんですよね。一回目は二十歳そこそこで。二回目は去年の夏に読んで。今回、ろこさんが『スロウハイツ』を読んだというのに合わせておおたまラジオ第7回は『スロウハイツ』にしますかってなったから読んで。

 

ろこ:政夫君の読むキッカケは何だったの?

 

政夫:辻村深月メフィスト賞からデビューしたミステリ作家なんですよね。僕は専門っていったらアレですけど、一番詳しいのはミステリなんで、そこからですね。それこそ10代半ばや二十歳そこそこの時って、ある種、辻村深月のような物語作家を受容する程の物語に対して向き合い切れていない脆弱さがあったというか、ミステリという評価軸に乗っけることでしかミステリを物語消費できなかったというのがあって。今は幾分かミステリという呪縛から逃れて、もっと広い意味で物語に触れている感じであるから、今の方が楽しめているわけですけど、本格ミステリ原理主義者みたいな感じだったんですよね。その点でみると、辻村深月は微妙なんですよ。

『スロウハイツ』は最後伏線がババッと畳まれていく怒涛の流れがある最終章にカタルシスが生まれる構成ですけど、正直そこだけ。ミステリとして見たときにミステリの細工はほぼない。単純に伏線の回収の仕方が凄くて、ドラマとして完成されているから人々は感動するのであって、ミステリ作家辻村深月として読むならば、ミステリじゃないから、んーってなっちゃうみたいな。

評価軸って一面的でしかない。もっと多面的であるはずなのに物語は、読み手の感情や評価軸によっては物語が矮小化してしまう。二十代前半の時は『スロウハイツ』をあまり読み込めていなかった…だから今回ですよね、ここまでガチで読んだのは。3回とも同じところで泣いています。コーキの天使ちゃんの手紙、幼い頃の環が書いていたというシーンと、最終章の「二十代の千代田公輝は死にたかった」はもうダメでしょ(笑)

 

ろこ:せやな。初見だから、天使ちゃんの正体が環だというのはうっすら分かったんだよね。政夫君の言い方からすると、二回目や三回目でも…。

 

政夫:天使ちゃんの実存性が既に証明されている状態、ネタが割れているのに関わらずそれでも通過するものがあったのかということですよね。それは、それが今回のテーマでもある「物語とは何なの?」に、最終的な結論というか僕たちが到達しないといけないのは「物語とは何なのか?」という問にいかないといけない。そのために僕はレジュメを10枚作ってきたんですから(笑)

 

ろこ:辞退してもいいですか(笑)

みんながクリエイターじゃんか。その中で、俺は想像できていないというか。クリエイティブな人たちの内面が主張されているのかなと思っていたんだけど、アレ?違うなという感じで。物語の意味としてね。

 

政夫:大丈夫です。そこもレジュメ10枚分の中に入っています。ろこさんの疑問を解消するものは既に入っています。

 

ろこ:もう次行こう(笑)

 

総論「スロウハイツ」と「家族」と「愛」

政夫:総論に入りますか。

端的にどういう作品だったのかというと、「愛は執着だよね」という正義のセリフがそのものじゃないかと。環が元カレと別れた時に正義が「相手に執着されないお前も悪いんだよ。相手に執着してみろよ」や執着とは愛であることを口走るんですけど、この作品の落とし方も結局どんな物語も愛だよね!みたいなことをエピローグで述べられていますけど、基本的には物語を愛する人たちとその関係性で生じる愛情の話ですよ。

 

ろこ:エピローグはそれぞれの今後を描いているじゃないですか。コーキは早々と出ちゃうわけじゃないですか。執着を捨てたところはグッと来るというか。

 

政夫:執着を捨てたというよりも、一度離れることで執着がより生じたと考えていますけど、だからアメリカの環のところにコーキが行って終わるじゃないですか。

 

ろこ:コーキ的には救いの場所だったわけだよね、スロウハイツが。その救いの場所が「愛」、まさに執着として表現している。

 

政夫:同時に「物語」への執着も描いているんですよね。好きって恥ずかしいということが語られている。大事過ぎて。軽くないんですよ。それと呼応している箇所があって。

口に出せないくらい好き、とか。簡単に名前が出せないくらい大事、とか。そういったことが人間にはある。

という文章がそのまま象徴していて、彼らにとって「物語」というのはそういうもの。大事過ぎて。環でいえばチヨダ・ブランドがそれ。幼いころの環にとっては作家チヨダ・コーキがそれだったんですけど、実際に会ってスロウハイツで過ごして本名の千代田公輝も環の執着に自然と入っていくんですよ。作家チヨダ・コーキから人間性そのものとしての千代田公輝へ。作家としてコーキを愛するに加えて、それよりも本質的な公輝という実存性そのものを愛するという。コーキと環の微妙に噛み合わないロマンスですよね。

 

ろこ:そうだよね。だから環的には秘めたものを隠しているシーンがあるじゃん。

 

政夫:みんなには環はコーキが好きなことがバレている。あるいは昔自分がクリエイティブなものを書いていた時にそれがバカにされて、また隠れてチヨダ・ブランドを読んでいる時もあったように、自分が大切にしているものを穢されたくないという自意識、当然として守るもののために闘っている。自分の信じているものに対して何か害があれば本気で怒る。女の子が飛び降りして、バッグから一冊の小説が見付かったと報道がされて、急いで環がスロウハイツに帰って、「コウちゃん大丈夫?」みたいなシーンがあったと思うんですけど。

 

ろこ:後半だよね。

 

政夫:個別のシーンに入るの早いな(笑)

もっと大まかな話をしたくて。スロウハイツというのが既にヒエラルキーなんですよね。3階に環が住んでいて、2階が黒木さんとコーキ、1階はスーと正義と狩野。まんまですよね。1階の人たちは売れていない。2階、3階は成功者で、スロウハイツ自体がヒエラルキーを示していて、スロウハイツの中身自体は内輪であるんだけど、実際は才能の弱肉強食的でもあるんですよね。売れているクリエイターと売れていないクリエイター。勝ちと負けの尺度って売れているかどうかなんですけど、もはやレベルが違いすぎると妬むものでもないというのが真実じゃないですか。

 

ろこ:んー。俺はちょっと掴み辛い。クリエイターの世界がね。

 

政夫:1階の面々はコウちゃん凄いって言いながら、自分たちは売れていないという不安を抱えている。リスペクトと不安が同居している。でも商売の敵だ!みたいな感じではない。自分たちと環たちとではステージが違いすぎるというのもあるんですけど、でもエンヤは違った。だからエンヤはあそこに留まるということは、彼は2階でしたけど、2階の中では彼だけが売れていないんですよね。

 

ろこ:エンヤ君が出ていくシーンは良かったよね。

 

政夫:あれヒエラルキーまんまですよ。3階にいる環に向かって庭から叫ぶエンヤ。もう高さというか、地点と距離ですよね。エンヤと環の現在地と才能を差を示しちゃっている。

 

ろこ:俺はいいなと思っていたんだけど。

 

政夫:残酷すぎませんか。

 

ろこ:残酷だけど、凡人と天才の対比だよね。偶々出会ってしまった天才君を見詰める凡人と、天才の苦悩というのは分かり易いというか、俺は好きなんだよね。凡人には分からない領域の話が出てくるじゃんか、天才を語る上で。

エンヤが出ていくシーンは、もう凡人の視点だから自己投影しやすいんだよね。凄すぎる人らの感情じゃない。作中でスティグマという単語が出てくるんだけど、そのスティグマを説明する感情があって、また巡る感情は俺にはまだ無いなって思ったりしたんだけど。なんか揺さぶられるというか。

 

政夫:ここのスロウハイツの面々ってリアル家族と距離を置いているというのが象徴的で統一されていて。皆、親元から出ていて結構帰り難い状態。環は母親が死んでいるし、死の間際に立ち会っていないというのが環の過去として色濃く。コーキは事件があって勘当されてしまっている。狩野は夢を追うために家を飛び出しちゃっている。正義とすみれはよく分からないけど、正義は会社員をやりながら映画監督の道を模索しつつ自立していますけど、問題はすみれなんですけど、本当…まあ(笑)

 

ろこ:すみれちゃんなー。

 

政夫:リアル家族と距離を取っている強調されながら、「スロウハイツ」というのは擬似家族なんです。作中ではトキワ荘が出ていましたが、クリエイターの集団でギルド的なイメージですけど、スロウハイツは夢追い人のコミューンでしかない。モラトリアム的なんですよね。クリエイター論みたいなのはあまりなくて。あくまでもスロウハイツに住んでいるクリエイターの卵たちのドラマでしかない。

そこの疑似家族のドラマがあって、「家族」とは何なのか?というのは重要な話だと思うんです。『スロウハイツの神様』を語る上で。スロウハイツという疑似家族がありながら、結局リアル家族の元に帰っていくんですよ。スロウハイツという疑似家族を「外」から眺める視点として黒木さんと加賀美さんがいて、その共同体から出ていく人としてエンヤがいて、また一度出たけど戻ってくる、つまり変化があるんですよ。その「中」に居たままじゃ変われなかった人なんだけど、一度「外」に出たことで変化したのがスー。あるいは家族の元に戻れる人、つまりエンヤやコーキだったり。

「家族」というのはイコール帰れる場所なんですよ。

 

ろこ:全然認識違っていた。なるほど。

 

政夫:帰れる場所=「家族」って何なのかというと、古い価値観でいえば母性ですよね。父は外で仕事をして、母はイエを守るんですよ。今は共働きだから崩壊していますけど。

環の母性というのがスロウハイツのリーダーシップに直結しているんですよね。これが皮肉なんですよね。

なぜかというと、母的なものを拒絶した過去があるのが環だから。でも、環のリアル家族を壊したのは環の母なんですよ。環の過去として。リアル家族が壊れた環は、「スロウハイツ」という疑似家族を作るんですよ。そこでハッキリされているのが環の母性というのが因果というか象徴的であって。

ろこさんが読んだのは文庫版ですよね。僕はノベルスで読んでいて、ノベルスは2007年に刊行されていて。2007年って我らのケータイ小説全盛期ですよ。

 

ろこ:我らって。

 

政夫:ケータイ小説ってほぼほぼテーマは「家族」と「純愛」なんですよね。『スロウハイツ』がケータイ小説的だと言いたいわけじゃないです。

 

ろこ:『恋空』か。

 

政夫:話脱線しますけど、ケータイ小説を読んでいたのはギャルが多かったと位置づけられていて、そのギャルは浜崎あゆみを聴いていて、あゆに共感しながら病んでいる自分を語るスタイルだったわけですね。それがケータイ小説という赤裸々な媒体が、彼女たちに滅茶苦茶刺さる。なんで刺さるかというと、ギャルは一見攻撃的で素行不良的なレッテルを貼られやすい彼女たちが実は純愛を求めていたという、欲望の可視化なんですよね、ケータイ小説は。

なんでケータイ小説が売れたかというとツタヤが火付け役だったらしく。ツタヤって郊外にあるんですよ(笑)車で行くような場所にあって、ケータイ小説がブームになったのは都市空間だけじゃなくて、都市に隣接している郊外に住んでいるギャルも読んでいて、場所によっては結構ローカルだったりしたんですよね。というマメ知識なんですけど、だから何が言いたいかというと、2007年はケータイ小説が流行っていたと。そこで、壮絶なドラマが描かれている一方で「純愛」や「家族」が求められていたと。

『スロウハイツ』も観方によっては「純愛」と「家族」ですよ。「家族」の話はさっきしたように、スロウハイツ自体は疑似家族で、それを通してリアル家族とどう向き合っていくかが描かれるポイントになるわけですよね。

 

ろこ:疑似家族というと、このラジオでやったように『万引き家族』があるわけじゃないですか。あの擬似家族というのは、みんなが共有している家族観というのを否定ではなく違う観方を示す…

 

政夫:ろこさんの疑似家族、つまり『万引き家族』の話をすると、2010年代の疑似家族の話をしないといけなくなるんですよ。『スロウハイツ』は2007年だから、だいぶ疑似家族の捉え方が変わっているんですよ。『スロウハイツ』の終わり方をみてみても、疑似家族は疑似家族でしかないとちょっとした線が結局引かれているんですよ。

 

ろこ:だから、そこに居る必要がないと思って出ていく人もいるものね。

 

政夫:結局『スロウハイツ』は疑似家族の中から「外」に出ていく人の話なので。読んでいて思ったんですけど、『スロウハイツ』って一切「外」が描かれていないんですよ。「スロウハイツ」の「中」しか描かれていないんです。具体的な出版社やライバルって全然いないんですよね。

 

ろこ:ホンマや。

 

政夫:クリエイター個人が自立するまでを箱庭的に描いているから、だから実態は家族小説でしかない。ありがちな物語のジャンル分けをするならば、これは「日常系」なんですよ。スロウハイツという擬似家族の箱庭の話でしかないから。

 

ろこ:ホンマやね。

 

政夫:確かにゼロ年代後半は「日常系」が来ていた。「日常系」の話をすると、ろこさんが拒否反応を示すかなって。

 

ろこ:(笑)

 『スロウハイツの神様』は「お仕事系」ではなく「日常系」だ

政夫:要するに「日常系」って何なのかというと、箱庭における生活世界を描いているか否かという、生活している日常描写ですよね。この『スロウハイツ』は売れているクリエイターと売れていないクリエイターの日常なんですよ。

で、メインは売れていない人たち、狩野たちですよ。いや、分かるんですよ。環とコーキだけでよくない?みたいな意見(笑)

 

ろこ:あー。はい。

 

政夫:でも、それをやるのは難しくて。売れていない彼らがいるから、相対的に彼ら(コーキたち)は売れているように見えるんですよ。売れているクリエイターを描くのが難しいのは後々話したいと思いますけど、スロウハイツの変わらない日常性というのは、つまり売れていない狩野たちのポジションも変わらないという意味なんですよね。それが、最終的にはスロウハイツの「外」に出ていくじゃないですか。

「外」に出るということは、「終わらない日常」がゆるやかに変化=自立するまでを示しているから、疑似家族からリアル家族の元に帰るというのが「日常系」たる所以といいますか。

 

ろこ:分かった。あー。

 

政夫:難しいのはクリエイターの共同生活を描いているだけで、クリエイターのお仕事そのものは全然描いていない。

「お仕事系」とは違うんですよ。これは2010年代のイメージなんですけどね。

 

ろこ:「お仕事系」(笑)

 

政夫:「お仕事系」は仕事の内容と自己実現がそのままドラマになるものですね。漫画でいえば『重版出来』や小説だと『書店ガール』や『水族館ガール』(アニメだと『SHIROBAKO』)とかですね。興味深い仕事の内容を描写しながら、その仕事をしているキャラクターの自己実現がそのままドラマになっているイメージです。

 

ろこ:分かる。分かる。

 

政夫:労働による自己実現が「お仕事系」なんですよね。で、スロウハイツの面々はこれが断絶しているんですよ。売れていないから。環とコーキは別ですけど。労働による自己実現ではなく、承認による自己実現というのがあって、それがスロウハイツという疑似家族そのものです。

だから『スロウハイツ』という作品はスロウハイツの「中」しか描けない。「外」を描いてしまうと、労働による自己実現が無い狩野たちが宙吊りになってしまうんですよ。だから箱庭に閉じ込めないといけないんですよ、物語として。売れていないから、労働による自己実現が果たせないんですよ、狩野たちは。

あくまでも売れているクリエイターと売れていないクリエイターの共同生活という「日常系」にしないといけないし、クリエイターの仕事内容を「お仕事系」のように物語にし難いのは彼らが目指すクリエイティブな仕事がバラバラだから。映画監督を志している正義の映画的技法をやっても、あるいは狩野の児童漫画の技法なんかもやっても、バラつくじゃないですか。あくまでも彼らの仕事内容にはコミットしないで、彼らの日常を描く。

 

ろこ:「日常系」を描くというか、環とコーキの執着の話なのかなと思ったんだけど、物語として接続はどうなのかな…作者が描きたかったのはどっちなのかなって。

 

政夫:ゴールはスロウハイツを出ることですから。

 

ろこ:あー、そっか。

 

政夫:トキワ荘ではないんですよ。そこでクリエイター集団やるものではないから。あくまでも疑似家族から帰る話なので。最終的には「外」に出ないといけないんです。

だから徹底としてスロウハイツの「中」しか描いていないんです。勿論、「外」を描くには労働による自己実現というのが無いと…

 

ろこ:なるほど。分かった。

 

政夫:つまり「お仕事系」にはならないんです絶対に。クリエイターの内実が空っぽなのはそのため。「お仕事系」ではないんです。あくまでも売れているクリエイターと売れていないクリエイターの共同生活の日常ドラマ、青春群像劇でしかない。それ以上先のことは描けないんです。

 

ろこ:それは『スロウハイツ』だけなの?

 

政夫:そうではないです(この時、竹宮ゆゆこのことが頭に浮かんでしましたが)。「日常系」とは何なのかみたい話をしちゃうと…

 

ろこ:辻村さんの作家性的にはどうなの?『スロウハイツ』の位置付けは。

 

政夫:やっぱり辻村深月のファンになる入口になりやすい本ですよ。大体評判いいですし。

 

ろこ:もしかしたら、次の作品は「外」に出ているのかなって思ったりしたけど。

 

政夫:南極に行っていたりしているかもしれませんしね(笑)

 

ろこ:(笑)

 

政夫:あくまでもゼロ年代的な空気が読めるというだけで、厳密な歴史の話をしたいわけじゃなくて。

 

ろこ:なるほど。確かに「外」に出ていないな。日常的だな、確かに。去年、観た映画で『きみの鳥はうたえる』があって。

 

政夫:ゴリ押し映画ね。

 

ろこ:感想を送ったと思うけど、終始テーマとしては男女3人の関係性をハッキリさせない、ずっと何もない日女を描いていて、リミットがないのよ、彼らには。大学4年間みたいなモラトリアム期間とかじゃなくて、それぞれ仕事をしていてリミットを感じさせない描き方をしているけど、でも、3人ともリミットはあると薄々気づいているというのが俺は凄く良かったと思うんだよね。

 

政夫:話を戻しますが、環が出世したのは自分の過去を切り売りしたのがキッカケじゃないですか。不幸を見世物にしたという。母の死をビジネスにしたと。あくまでもキッカケなんで、果たしてステージに立てるかどうかが命題で、ここでは才能と努力と運と書かれていますけど、結局夢追い人にとって肩書って大事なんですよね。それが取っ掛りになるから。肩書イコール才能やステータスであったり、線引きされる世界なんですよ。つまり何が線引きされるかというと、自分というのは「何者」なのかということですよね。「何者」になれるのかという。これ、もう朝井リョウの『何者』ですよ(笑)

 

ろこ:(笑)

 

政夫:あれは2012年の作品なんですけど、『何者』もクリエイティブな話ですよ。劇団のね。

 

ろこ:あー、ホンマや。

 

政夫:でも売れないじゃないかよ。そんなの!って何者にもなれないじゃんかよ!って冷めた目でバカにしている主人公がめちゃめちゃ血を吐く作品じゃないですか。2010年代は「クール気取ってんじゃねーよ」ですよ。

僕がおおたまラジオ番外編で、軽くその話をしていますけど、取っ掛りとして何か必要なんですよ。要するにモノ作りって心身を削る作業。コーキはガリガリだし、環は倒れるし、自分たちの身を削る分、物語に血と肉を与えていくんですよ。

 

ろこ:クリエイターの良さだよね。

 

政夫:宿命ですよね。上巻の冒頭にコーキのインタビューがあるんですけど、「登場人部たちの人生に落とし前をつけたい」と言っているんですよ。これは辻村深月自身の決意と読めなくもない。

 

ろこ:二重構造出た。

 

政夫:だって、辻村深月ってスターシステムを採用しているんですよね。ある作品で出たキャラクターを別の作品でも出しているんですよ。だから辻村深月の物語世界においては、「命の文脈」が繋がっているんです。横断しているんです。

 

ろこ:面白い。

 

政夫:例えば、千代田公輝というキャラクターは『スロウハイツの神様』という作品にしか出てこないとしたら、物語が終わったら公輝も終わっちゃうじゃないですか。読者とキャラクターのリンクが途切れちゃうんですよ。

でも、スターシステムを使うことで、別の辻村作品に登場するかもしれない。それを接続させることで、キャラクターの命が文脈になっている。だから『スロウハイツ』でスターシステムが採用されているキャラクターは誰か知っていますか?

 

ろこ:え。え。分からん。

 

政夫:加賀美さんです。なんで加賀美さんなのかは後ほど。

 

ろこ:引っ張るの(笑)

 

政夫:引っ張りますよ(笑)だってまだレジュメ1枚ですよ!

 

ろこ:マジか(笑)

 

政夫:(笑)ノベルスが出たのは2007年なんですけど、ウェブ媒体がビックリするくらい出てこないですよね。インターネットが出てこないんですよ。

 

ろこ:ホンマやね。

 

政夫:紙と映像メディアだけなんですよ。インターネットと距離がある。ネットの存在感が無いんですよ。この作品って。

あくまでもアマチュアとプロの境は既存のメディアにおける肩書。だから彼らそこに執着するんですよ。今だったら、SNSに漫画を上げて何万いいね!されたら出版されますもの。今の方がある意味なり易い環境はある。道が増えていると言っていいと思いますけど、

この2007年時ではまだそうでもなく、ケータイ小説が全盛で、「小説家になろう」は2004年で。ちなみに「なろう」は2011年や2012年で火が着いたと言われていますけど、ニコ動は2006年末に出来たんですよ。インターネットのクリエイティブな代表格として、やっぱり初音ミクがあるんですけど、『スロウハイツ』は殆どインターネットを導入されていないから、今だったら全然違うんだろうなって思いながら読んでいましたけど。

それは何故なのかというと、なんでインターネットと距離があるのかというと、冒頭の園宮の集団自殺の事件ですね。所謂ネットの闇と言われそうなやつ。チヨダ・コーキの小説が関係して集団自殺(ネットの匂いは)しかないんです。リアルだとネットを介した集団自殺って2004年らしいです。ウィキペディア曰く。

で、冒頭のシーンを読んでいただければ分かるんですけど、園宮はカメラを設置しただけなんですよね。

これ今なら余裕でニコ生かYoutubeですよ。それで殺し合いをさせたというのが冒頭の事件じゃないですか。これは、宇野常寛的なんですよね。引きこもっているだけでは殺されるというのが『ゼロ年代の想像力』で記したサヴァイヴ系でしたが、その象徴が『バトル・ロワイアル』や『DEATH NOTE』だったりしていたんですけど、園宮が選択した集団自殺って、どうせ殺されるなら殺すという歪んだ倫理的な選択が、虚構と現実、日常の中の非日常を通して、本来サヴァイヴ系というのは闘わないと死んじゃうから引きこもっているだけではダメだと。戦わないといけない。どうやって戦っていくかは、その想像力が担保されているのがサブカルチャーだと『ゼロ年代の想像力』は一つのモチーフとして描いているんですけど、どうやってリアルと戦っていく部分が、物語が処方箋的になっているのを示しているのだけど、園宮が選択したのはそれと真逆で、どうせ死ぬなら殺し合おうぜという極限の中での歪んだサヴァイヴなんですよね。

生きるためにサヴァイヴしようぜ!じゃなくて、生きるための生存本能とサヴァイヴ系の暴力の捻じれ具合が合致しちゃったというのが冒頭から象徴的で。

もちろん『ゼロ年代の想像力』が出たのは2008年で、『スロウハイツ』が出たのが先なんですけど、サヴァイヴ系の文脈で冒頭を恣意的に取り上げるならば、園宮がやった集団自殺というのはインターネットの闇だけじゃなくて、この先どうせ死ぬんだしみんなで殺し合って死のうぜ!みたいなある種のカーニバル的な意味合いがあって、非日常ですよね、それに関係があったのがコーキの小説であって、つまり虚構の責任と倫理が問われているわけですけど。それに苛まれたのが、作家チヨダ・コーキであり、『スロウハイツ』は丁寧に描きつつ、最終章が特にね。

 

狩野壮太からみえるクリエイター論

ろこ:そうだったね。

キャラの話をしたいんだけど、狩野の作風の話。彼は闇を描きたくないという、全体的に思ってたいのは「光と闇」の対比なのかなって。狩野の作風が、そういう風になった根拠があるわけじゃないですか。イジメられていたからこそ書くというかね。その闇が無かったから、闇が必要だとは思わなかったというかね。なんて言えばいいかな…助けて(笑)

 

政夫:レジュメ10枚用意した中に狩野が入っていないんですよ(笑)

 

ろこ:マジか。彼がずっと環に言われていたじゃん。闇を描けと。彼はブレずに出版社に原稿を出していたけど、全然ダメで。その作品を環が読んだら、この作品は良いと言ったシーンが、俺のメモにあるんだけど(笑)

 

政夫:闇の水を啜る意味ですよね。

 

ろこ:倫理とは異なるか。

 

政夫:クリエイターの態度なんで。この作品自体は、物語の倫理自体を説いていないというのは大事なパートであるんですけど、ろこさんが言っているのは狩野の態度からみえるクリエイターの態度。

 

ろこ:うん。環は過去を売って実績を作って肩書を得たわけやんか。

 

政夫:それが環の物語の強度になっていますからね。

 

ろこ:狩野はそれを拒否しているから。

 

政夫:ここが簡単にいえば、プロとしての矜持で、環はプロで、狩野はアマチュア

でも、それを選択した狩野もスティグマになるよねという話ですよ。言葉は呪いになるという。自縄自縛になってしまう。プライドのために言葉が安売りされてしまうように、環の元カレだったり、エンヤもスロウハイツから飛び出した事実は結果的にはスティグマになるんですよ。

スティグマを押されたという言い方は被害者的なニュアンスが生じますが、それがあるからこそ覚悟が持てるという態度もありますよね。環はそれですよ。ある意味、物語にする、内省的態度になるというのはそのまま表れている。環と狩野の違いとして。

結局、作家としての自意識の檻を壊せているかどうかなんですよ。壊せていないから、環とスーと正義は売れていない。狩野は闇があるのに描けない。正義は感情なんか入れたら恥ずかしいじゃんって。スーは営業とか恥ずかしくない?絵だけ描いていたいよ。みたいな自意識の檻を壊せていない。

主張がない正義だったり、自立出来ないスーだったり、闇が描けない狩野というのは自意識の「外」に出られない象徴で、だからステージにも上がれない卵なんですよ。それは一面性しか描けない作家性の欠如といってもいいくらい。

敢えて言うなら、欠けているから物語になる。だって人は欠落しているものがあるから、成長できるわけじゃないですか。欠落したものを穴埋めしていく必要があるわけですよ。人が不完全であるからこそ、どう補っていこうという話になっていくから。色んな欠落の仕方があって、それが総体的な豊かさになって、スロウハイツの面々のバラエティにも繋がっている。

本当にストロングな部分だけ抜け出せば、環とコーキだけで成立しそうなんですよ(笑)でも、そうじゃないと。相対的に下の人たち(狩野ら)がいるから物語が動くんですよ。言い方悪いですけど。

 

ろこ:この描き方は政夫君的には独自性を感じるの?俺は政夫君の解説を聞いて、そういう描き方もあるのかなって。

 

政夫:天才を天才のまま描くのって滅茶苦茶難しいんですよ。書けないんです、普通は。だから相対的に落ちるポジションの人を置くんです。その人たちを流動的に動かすことで、物語を動かすんです。『スロウハイツ』もそれ。

 

ろこ:天才と凡人の話なんだけど、領域というか「世界」の話で、音楽の世界とかだったら才能が一般ピーポーには可視化できない天才の物語もあるじゃんか。

チャゼルの『セッション』とかね。行き過ぎている天才じゃん。

 

政夫:『セッション』は天才じゃないですよ。

 

ろこ:凄い才能というか。多分、メールで送ったと思うけど、環とコーキがどれくらい凄いか掴めなかったんだよね。どれくらいのヒエラルキーが分からなかった。

 

政夫:宿命というか存在感の出し方って本当に難しくて。あくまでも事実の列挙でしかない。こういう作品を作ったんだ!凄い!しかない。『スロウハイツ』もよく分からないです。コーキの小説がどれだけ凄いかは分からないんです。だから上手くいっている奴らといってない奴らで線を引いて、前者の成功度合いを後者のポジションから相対的に見るというのがさっきから話している内容(笑)

 

ろこ:スイマセン(笑)

 

政夫:前者単体の上手くいっている奴らの凄さというのは、事実の列挙で留めておく。ただ一応擁護しておきたいのは、辻村深月はチヨダ・コーキのデビュー作(『V.T.R.』)を書いています。

 

ろこ:マジで。え、違う作品として。マジか。政夫君は読んだの?

 

政夫:読んでいないです(笑)

結局、その辺の話は「お仕事系」になっちゃうんですよね。いかにクリエイターとしての存在感を出していくかどうか、は。僕が友人に勧められた漫画で『映像研には手を出すな!』があるんですけど、オタク・クリエイター万歳漫画というか、なんでクリエイターが創るのか?という問いに対して「自分たちの最強の世界を作るため」だとストレートに表現されているんですけど、自分の「最強の世界」とは何なのかを漫画で表現しているから凄い。説得力がめちゃめちゃあるんですよ。

アニメーションを作る高校生の女の子3人組なんですけど、彼女たちが作るアニメーションはスキルは追い付いていないですけど、妄想のレベルでは完成されていて、その妄想って作者の妄想でもあるんですけど、それをそのまま漫画に落とし込んで、彼女たちの妄想というか想像が「最強の世界」であると。

どうやってクリエイターの存在感を出すかというと、その作品自体を提示しないといけないんですよ、実物として。『映像研』は真摯にやっているという話なんですけど。

クリエイターの内実がよく分かり難いというのは相対的なポジションの話になり易くて、そもそも「スロウハイツ」自体がヒエラルキー的でもあるから、自然に導入されているわけです。というのでどうですか(笑)

 

ろこ:めちゃめちゃ分かりました。

 

政夫:全然大丈夫ですよ。まだまだレジュメあるんで(笑)飛ばすとか考えながら、ここどうしても話しておきたいんですよね。

環の元カレのセリフがあるんですよ。P19のセリフ引用をしますと。

これ最高じゃないですか(笑)なんかクリエイターの性分を代弁しているつもりのナルシストなんですけど、実績もないし。でも、売れていないクリエイターだからこそ、安定志向への憧れと皮肉がある。俺たちは「そいつら」と違うということが凄い出ているじゃないですか、今の。

それに対して、環があの人は「才能ないよ」と言っていて、売れないクリエイターと安定志向って二項対立になっていて、売れないクリエイターは安定志向の人たちを見下しながら、自分たちは違うんだぜクリエイティブなんだぜって。実績が無いままプライドだけが形成されていく。「普通」とは違う事をコンプレックスに感じていないんです。「普通」とは違う事に優越感を持っている。地元に帰って、そこそこの企業で、そこそこの生活をするという安定をバカにしているんですよ。自分はそれ以下の生活なのに、俺はクリエイティブだからって(笑)

 

ろこ:それは若気の至りというか。クリエイターを志す者にとってはどうなんでしょうね。

 

政夫:自意識レベルだけはクリエイターですよ。だけど、必要かもしれない。ある種の覚悟として。

 

ろこ:自信というか。

 

政夫:そこに被害者意識が滲み出て来たらクソだけど、あくまでも選んだのは自分なんだから持っていたいし、変な、根拠のない自信を持っていないとやってられないというのは多くの作家も言っていますよ。

 

ろこ:思うわ。

 

政夫:自己肯定感は必要ですよ。

 

ろこ:ただ、物語の話としてどう乗っけるかだよね。

 

政夫:この元カレは手は動いていないけど、口は動く典型的な自意識レベルのクリエイターとしてしか出ていないから。スロウハイツの面々は疑似家族で仲良しごっこをやっているけど、手は動いている。中身はよく分からないけど。別にそこはメインじゃない。「お仕事系」じゃないから。「日常系」だから。

 

ろこ:え、政夫君が喋りたいことってのは、過去にそういったことがあったということですか?

 

政夫:違う、違う。

 

ろこ:(笑)

 

政夫:クリエイターが「普通」とは違うという部分に対して、「普通」へのコンプレックスを抱いているパターンもあるよねって。そこは薄いんですよね。この作品。みんな、そこ超えちゃっているから。売れていなくても。

舞台が椎名町なんですけど。聞いたことないですよね?池袋の隣の駅なんですけど。狩野が、

都会の人々の間にはコミュニケーションがないとよく聞くが、この辺りはそうでもないな、と生活していて実感する。

という記述があるんですけど、椎名町の地理感覚がそのまま出ているんですよね。池袋という埼玉県民にとっては大事な都市への入り口で、池袋は埼玉の一部だと言っている人もいますから、池袋に隣接している商店街が椎名町なんですよ。なんというか、池袋が表なら、椎名町は裏的な感覚なんですよね。

 

ろこ:それ、政夫君だけじゃないの?言われているの(笑)

 

政夫:下町感覚があるんですよ。商店街で。「イエ」と「社会」の二項対立的なデザインだけではなく、中間の共同体として商店街というコミュニティがあったんですけど、「スロウハイツ」も中間的なポジションとして分かるように書いてある。

疑似家族として。中間共同体なんですよ。椎名町の地理感覚もそんな感じなんですよ。都市なんだけど、ちょっと地方的な感覚もある。池袋の隣にあるんだけど、だいぶ違うんですよ。だから、椎名町という設定が、とてもスロウハイツに合っているんですよね。

 

ろこ:そこ、ズレていたら嫌だよね。

 

政夫:ポジションが合っているというか。スロウハイツの生活感と椎名町の地理感覚が合っている。これ説明するのは埼玉県民の役目かなって(笑)

 

ろこ:勝手に引き受けたのね(笑)

 

政夫:さっきから疑似家族連呼していますけど、「家族」とは何なのか?と話した時に帰れる場所って言ったじゃないですか。

で、スロウハイツに住むにあたって、環がコーキに尋ねたんですよね。

「家族って、どの程度なら家族?」って。家族のモノじゃないと食べられないとコーキが言っていたんですよ。これを聞くということは、これから私たち疑似家族宣言ですよね。そのために、コーキの性質を理解していく必要がある。だから家族ってどの程度なら家族なの?って聞くんですけど、そもそも環の家族は壊れているんですよ。それをどう赦していくかという話になっていくわけじゃないですか、もちろん。闇を覗ける作家としての環の、一番対照的にいるのがエンヤです。

もう、本人曰く「アキバ系」って単語が出てきた時点でゼロ年代だなって思ったんですけど(笑)アキバ系なんて今は言わないですからね。死語ですよ。でも、アキバ系=オタクになっていた時代はありましたよ。『電車男』が2004年なので。

才能の差という意味でも、エンヤと環はコントラストになっているんですけど、エンヤという下にいる人間が相対的に環という上を見上げるために、エンヤがいるといっても過言ではない。天才を天才として描く難しさですよね。でも、エンヤが環に嫉妬するのは大事な素材で。

 

ろこ:上巻のクライマックスというか、上巻の中ではそこは印象的なんだよね。

 

政夫:エンヤはネアカらしいんですけど、ネアカ、ネクラも死語ですけど、エンヤは健全なんですよ。環は健全じゃないんです。

 

ろこ:人として?

 

政夫:作家として。だから母への憎悪を見世物に出来るんですよ。それゆえ売れたということなんですけど。

 

ろこ:人と作家の対比というか、スーが怒るシーンがあるやん。二人の間で友情があるやん。それとはまた違うということ?

 

政夫:性質的には真逆ですよね。エンヤは売れていないけど、家族はいる。環は独身の30歳。アメリカにいる。スロウハイツを飛び出し後も「強い女」で居続けている環なんですけど、一方でエンヤは環に無いものを得ている。もちろん、エンヤに無いものを環は得ているんですけど。そこが微妙にすれ違っているというか。一応真逆のニュアンスかなって。

これで、エンヤが売れていたら、拒否反応を示したかもしれないけど、環との対比をみると、才能の差として描かないといけないから。でも、売れていなくても家族いて幸せだよね、がエンヤのポジションかなって。でも夢を諦めていないけどね、ですが。

 

ろこ:本物の家族のことを考えさせられるな。

 擬似家族としてのスロウハイツとリアル家族

政夫:言ったじゃないですか。「家族」と「純愛」のケータイ小説の話。なんのために話したと思っているんですか(笑)

 

ろこ:改めてですよ(笑)

 

政夫:こんなに口酸っぱく疑似家族言っているのにやっと伝わったんですか。悲しいです、僕は。

 

ろこ:(笑)分かっていたけど、関係性の話で家族は大事じゃないですか。

 

政夫:大事。家族と愛は大事。

家族の話をすると、環の母は欲望の象徴として描かれているんですよ。家族のアイコンは母です。そのアイコンでもある母自身が、その居場所を壊しちゃったのが環の暗い過去になってしまったわけですけど、その母を乗り越えるために「スロウハイツ」という別の居場所を作ったわけですよ。

だから、スロウハイツという疑似家族においては母性のユートピアとして環がいて、環のリアル家族においては母性のディストピアとして環の母がいるという風に描かれている。

最初に、環の母性的に纏まっているのが皮肉でもあるんだけど、と言いましたが、ちょっと違うんですよねニュアンスは。だから「赦すかどうか」ですよね。

 

ろこ:難しいな。

 

政夫:環自身は、スーと正義が別れた際に、あの集まりは家族でもなんでもないと言ってしまっているんですよ。ここで、疑似家族みたいなものは家族になり得ないと結論を出している。疑似家族的な中間共同体の限界を出しちゃっているんですよ。

スロウハイツは友達以上家族未満なんですよね。

 

ろこ:環のスタンスとして、疑似家族というスロウハイツを作る上で求めたけど、環的にはスロウハイツに執着していたかどうか、は重要じゃない。

 

政夫:していましたよ。

 

ろこ:していて、入り口のところで、出来るかな、もう一回やるかと、執着していたよしやろう!というのはニュアンスが違うと思うんだけど。

 

政夫:リアル家族を失った代替ですよ。環の家族ごっこみたいなものかもしれません。むしろ友愛ですけどね。家族愛ではないです。

家族とどう向き合うかで、環と桃花が追いやられたわけですよね。母の事件で。下巻で

「田舎って、とても狭いんです。信じられないような誤解をされたり、もう過ぎてしまったと思ったことを、いつまでもみんな覚えていて、それが消えることがなかったり。福島も多分、私たちの住んでたところと同じだったと思う」

と。

簡単に言えば村八分ですよ。このスロウハイツで具体的に地名が出ているのは、福島と新潟と椎名町なんですけど。村八分的に居場所を失った子どもたちが親を赦すのかどうか。家族とどう折り合いをつけていくのかという。

本作は赦す必要はないと言っています。母親や父親を赦す必要はないと。家族というのは帰る場所であるんだけど、新しく作れる場所でもあることを示しているんですよ。スロウハイツという疑似家族だったり、環の父親が新しい家族を作っていたり、エンヤがスロウハイツを出た後に家族を持ったりとかは、そういうことじゃないですか。親子だからといって倫理的に赦す必要はないと言っているんですよ。もちろん血縁関係などで色々と繋がっているわけですけど、親子関係というのは、だからといってそれを許容する必要もない。そこではない回路が持てるかどうか。親を赦さない選択に対して。

環はスロウハイツに居たから、スロウハイツという居場所を作ったから、父親の件と向き合い切れたし、環の創作意欲自体が「怒り」が占めているのもあるから。

「怒り」だけじゃなくて、ユーモアや愛があるのが、スーに見せた短編映画でもあるわけですよ。あの映画の記述が示しているのは、人々は他人の成功よりも失敗を望んでいるけども、他人を優しく受け入れる場所もあるよねと。それが家族ですよ。というので、「家族」というテーマに踏み込んでいる。

 

ろこ:だいぶね。

 

政夫:僕は『よりもい』を思い出したんですけど(笑)友達だからといって倫理的に赦す必要はないんだぞ!って。友達以上にハードルは高いですけどね、親は。ナイーブな問題で、どう折り合いをつけていくかは大事。

 

ろこ:難しいな…せやなしか言えないけど(笑)

 

政夫:(笑)

 

ろこ:折り合いをつけるジャッジって年代によって、人によって違うだろうけど、大人になった方がシンドイはずやろな。

 

政夫:そうですね。重力がありますよね。柵というか。経験したものだったり、背負っているものだったり、今の状況だったり。

況してや道徳的に生きろや倫理的に考えないといけない状況で、果たしてそれを選択できるかどうか。一方が自分の欲望であるんだけど、そのリスクもあって、素直にそれを取りたいんだけど、取った後、取ることによって、じゃあこっちにしようと妥協する。僕は朝井リョウの『桐島、部活やめるってよ』が、「諦めることが大人になること」をちょっと言っちゃっているじゃないですか。高校の進路選択が閉じていく年頃で、その可能性を断ってしまう、諦めて手を引くことが大人になることだと、神木君を通して東出君に伝わるわけですよね。自分は「何者」でもなかったと。「何者」にもなれないんだなって。スクールカースト上位の人間が、スクールカースト最底辺の神木君の態度から教えられるんですよね。そこの態度に清々しさが滲み出ていて、それでも僕たちは生きていかないといけないんだよねって。

 

ろこ:生きるという根本的な問題にぶつかる…

 

政夫:大人になるという選択肢が「一種の諦め」があるのはどうなのかなって。もちろん、諦めないといけないこともあるんだけど、イコール成熟している、大人になっているという短絡的な結論にはいきたくないなって。でも『桐島』はそれをちょっと見せちゃっている。

 

ろこ:でも東出君には救いがあったんじゃないかな。

 

政夫:結局、諦めない方が格好良いんですよ。

 

ろこ:それはズルいわ。

 

政夫:必死の方が格好良いんですよ。冷めている方がダサいんですよ。だから冷笑主義をどうにかしないといけないのは若林正恭も言っていますが、クールに気取っている事なんて誰でも出来ますからね。それがクソダサいということを気付かせないといけない。

 

ろこ:今の時代そうですか。

 

政夫:クール気取っていますよ。クールであることが知的であると思っているでしょ。

 

ろこ:例えば、下さい(笑)確かにね。

 

政夫:まだ全然レジュメ終わっていないですけど。

 

ろこ:でも内容的には…

 

政夫:まだメインのテーマをやっていないから!

 

ろこ:(笑)

長野正義は「鋏」を取り出した男

政夫:チヨダ・コーキはなぜか抜けてしまうという話をしましょうか。

狩野と正義が飲み会で意気投合した時にチヨダ・コーキを読んでいたかどうかもあって、コーキの原体験で盛り上がって、それが過ぎ去った少年時代(ティーン専用のよう)であるかのように、チヨダ・コーキは過去形で語られちゃうんだよねって。なんで忘れていくんだろうね。あんなにハマったのに。忘れてしまう、忘れられてしまうチヨダ・コーキの性質として語れているわけですね。コーキは卒業されてしまう存在なんですよね。そこに悪意はないんですよ。無自覚に距離が生じてしまう。正義は「恩を忘れる」と表現していましたけど、今を生きている作家なのに過去形で語られてしまい、コーキの作品が「今を切り取る作家」って作中で形容されているんですけど、「今」以降は過ぎてしまうんですよ。通過しちゃう存在。普遍的かどうかではなくて、「今」から離れてしまうんですよ。当たり前ですけど時間は。「今」と言った瞬間に既に過去になっているわけじゃないですか。

 

ろこ:これ寿命の話か。

 

政夫:そうですね。大人になることが、チヨダ・コーキの卒業になってしまうんですよ。でも、そうじゃないよねというのが環たちが示していますよね、この作品で。

 

ろこ:リアリティの獲得という話かな。

 

政夫:うーん、コーキが「書けてしまうんです。これ、僕のコンプレックスかもしれません」というセリフがあるんですけど、体験していなくてもロジックとして感情的に処理できてしまう。書けてしまう。理知的にエモーションを作れてしまう。

というのは他人を見て記憶しているコーキだからという描写があるんですけど、それは環とパーティーで会ったシーンで「お久しぶりです」と言って環を怒らせたじゃないですか。あれは、世界一素敵な挨拶だと思うんですけど。挨拶はいいなって思うわけじゃないですか。

 

ろこ:あれは、伏線が回収された後でみると、ね。

 

政夫:細かい話ですけど、ここで(コーキのコンプレックス)対照的になっているのが正義で、感情を入れられない作家って。

 

ろこ:でも正義がフォーカスされたシーンもあるよね。

 

政夫:第8章ですね。先に正義をやりますか?ろこさんは、正義はどうですか?

 

ろこ:彼は凄いこの物語の中で進んじゃう人だよね。一つの別れを経験して昇華して、一番進んだ子じゃないかな。

 

政夫:頭で計算し過ぎていて主張がない。メッセージがないって言われていましたよね。正義の主張は単なるエンタメでよくない?「楽しかった」だけじゃダメなの?って。これは狩野もそうで、都合よく誰も傷付かない優しい世界だけを描くことはダメなのかどうかってのとセットで、正義と狩野の短所ってほぼ一緒で「善意によるデザインされたものに世界はあるのか」という。

 

ろこ:難しいね。

 

政夫:世界って理性や優しさだけじゃないですよね。当たり前だけど。正義が描こうとしているのはそれだから、薄っぺらいんですよ。そう言われちゃう。

僕は単純に観てて「あー、楽しかった」だけで終われる作品があってもいいと思うんです。全部ソレだったらクソですけど。物語というか、メッセージ性があるから高尚で、ないからダメという話ではなくて、色んな種類ないとダメでしょって。

 

ろこ:それはそうやな。

 

政夫:どれも画一的になったらつまらないので。ただ正義や狩野が描く世界は、空っぽの世界なんですよ。多分。誰も傷付かなくて、単純に笑えて、優しい世界って、そうじゃないじゃんって僕らは知っているから。ある種の理想郷を描こうとしているだけであって。

 

ろこ:俺と受け取った感じは違うかな。さっきの狩野の作風の話で受け取ったけど、正義はちょっと違くて、正義はエンタメしていこうぜ!っていうのもあるんだけど、虚構をもうちょっと信じているというか。

 

政夫:あ、メインテーマですね。

 

ろこ:虚構の世界で頑張ろうという人なのかなって思っちゃったんだよね。だから狩野と正義はちょっと違うかなって。

 

政夫:そこは、まとめの話ですよね。物語という虚構の話は。

 

ろこ:(笑)だから、正義はスーと別れた後に成長するじゃん。自分をそのまま作品に投影して。だから正義は良かったなって。スロウハイツにいて、環たちと出会って、影響ではないけど、作品を上手く燃料として使えたというか、世の中に上手く出せたよね。

 

政夫:『第8章 長野正義は鋏を取り出す』という章題なんですけど、「鋏」はスーに髪を切って貰うものですよね。「鋏を取り出す」ってどういうことかというと、「鋏」って蝶番なんですよ。二つを結ぶメタファーです。正義とスーを結ぶメタファーであり、感情と理性だったり、男と女だったり、夢と現実だったり。

「鋏」という蝶番が二項対立を成立させるためのものなんですよ。だから「鋏」を取り出すということは、それを壊すということで、だから正義は前に進むんです。この作品、二項対立が結構あって。虚構と現実だったり。これ超デカいテーマなんで(笑)

 

ろこ:それ先にやろうよ(笑)

 

政夫:もちろん、環とスーは、強者/弱者だったり、依存される側と依存する側に分けられたりするんですけど、このスーと正義の破局ってどう思いました?

 

ろこ:(笑)スーみたいな子はおるおるって読んでいたのよ。

 

政夫:ヤバいですね(笑)面倒臭いやつばっかじゃないですか、ろこさんの周り。

 

ろこ:おるやん、こういう子(笑)それこそ「日常系」ではないけど、全部気分に乗っちゃうというか。

 

政夫:「鋏」のメタファーの話をしましたが、正義は「鋏」を取り出さなかったら前に進めなかったでしょうし、スロウハイツから一回出ないと変化できなかったのはスーでもあるんですよ。結局、この二人がこのまま居たら変われなかったということですよね。「鋏」は取り出せなかったですよ、二人のままだったら。やっぱり生きていくには成熟しなければならないということですよね。

 

ろこ:ただスーの場合はそこまでいっていると思う?どう思う?

 

政夫:甘さはありそうですけど。

 

ろこ:全然そうじゃない。なんか微妙な感じがね。なおさら正義の方が良い男感になっていきそうな感じがね。

拝島問題 若いから物語を愛せるのか

政夫:拝島というキャラクターが出ているわけですけど。

 

ろこ:環の彼氏ね。

 

政夫:こいつがトンデモないことを言うんですよ。

 

ろこ:なんか言っていたっけ。

 

政夫:

「だけど、僕は映画やドラマに感情移入する程に、残念ながらもう若くない」

…え、若いからなの?青臭いからなの?虚構に耽溺することは未熟だからなのか?ということなんですよ。つまりイノセントに、子どものようじゃないと物語を楽しめないのか。大人は楽しめないのか。生きていくには成熟しないといけないんだけど、成熟しちゃうと物語を受容するにはイノセントじゃなければならないと。拝島さんは、もう自分イノセントじゃないんで。は?

 

ろこ:難しい(笑)

 

政夫:拝島論を取るんだったら、物語に触れるというのはイノセントじゃないとダメなんですよ。つまり成熟しないままが理想的な態度で、でも物語というのは成熟を促すんですよ。

ニーチェが「超人」にならないとダメだと言っていましたが、「超人」に近いのは幼子だと言っていたんですよ。夢中になって遊び続けることがイノセントであって「超人」の態度であると言っていたわけですよ。ということは、成熟しながらイノセントであることは可能なんですよ。

もちろん、ニーチェのいう「超人」理論は現実無理だよねという話なんですけど、大人でも自分の面白いことだったり、興味あることには全力で向っていけるじゃないですか。赤ん坊のように、イノセントに。その代表格がオタクですよね。

 

ろこ:イノセントが難しいな。一般的にイノセントを知っている奴って、執着気味ではある。

 

政夫:他の人にとっては何の為にもならないけど、自分の為にはなることを、快楽の為に前に進める。一般的には理解されないものでも、その人にとっては意味のあることに夢中になれる。その受容する態度というのは、別に咎められる必要はないじゃないですか。

 

ろこ:怒っていますね(笑)

 

政夫:別に年齢のせいで…拝島さんは「僕は映画やドラマに感情移入する程、残念ながらもう若くない」と言っているんですけど、感情移入するか・しないかでしか評価できないお前は愚かだと僕は思うんですよ。

 

ろこ:(笑)

 

政夫:そこしか評価軸、持ってないのクソでしょ。

 

ろこ:確かに。

 

政夫:こんな奴と環が付き合っているのがオカシイんですよ。別に僕は環ファンでもないですけど。元々、違うんですよ。こんなの環が聞いたらブチギレでしょ。フルボッコでしょ(笑)僕はチヨダ・コーキの小説を読んでも全然来ないんだ。もう若くないし。とか言ったらボコボコでしょ(笑)

 

ろこ:(笑)だから若干怒らせているじゃんか。そういうシーンもあったやん。上手くいかないよね、そりゃあ。

 

政夫:どう思います?若いから物語に耽溺できるのか?と。

 

ろこ:想像するに、そういうの要らんのよ。リアルの方に全てを持っていっているのよ。

 

政夫:分かりますよ。細田守も言っていましたからね。映画は豊かな人は観なくてもいいみたいなニュアンスのことを。

 

ろこ:そうそう。要はリア充というか(笑)リアルの方が、楽しい・楽しくないだけじゃないけど、俺も政夫君の方に偏っていますよ。

 

政夫:(笑)

チヨダ・コーキと千代田公輝から覗く「世界」への態度

ろこ:コーキの話をしましょうよ。

 

政夫:コーキはいつか抜けられる存在であると言ったじゃないですか。卒業されてしまうと。引用すると、

それは、青春のある一部分だけに響く物語で、皆、自分その時代に終わるとそこから卒業する。現代の諸問題、今を切り取る作家と呼ばれても、彼のそれは、所詮は人と触れ合った経験のない、完全な一個人の頭の中の産物であり、それ以上でもそれ以下でもない。経験を獲得し、小説や漫画よりも現実が楽しくて、そこらに惹きつけられていく人間を、これでは到底、引き止めることなどできない。

という、さっき、ろこさんが話していたリア充なんですけど、拝島問題です。

 

ろこ:まさにそうですね。

 

政夫:まさに。それでも忘れない人はいるよね、というのが環なんですよね。コーキが書く理由として、引用すると、

「愛だの、死への衝動だの、生への象徴だの書いてみても、結局は届かないのか。……戦争やテロや、日常のどうしようもない悪意を止める術に、所詮小説ではなれないのかということの方も考えた。そして、絶望しました。」

「絶望してから十年、それでも僕は、まだこれを書いている。あの当時、僕のものを読むのが楽しみでそれを読んで日常を生きていけると言ってくれた子たちがいました。僕は、だったらせめて、その子たちからは逃げないでいたい。たとえば誰かが自殺して、その子の部屋にチヨダ・ブランドがあったとする。だとしたら、僕はその事実を受け止めなければならない。僕の書いたものでは、その子をこの世界に留めるには足りなかったんだという、そのことを認めて責任を負わなければならない。その覚悟だけはいつだってしながら、小説を書いてきたんです」

というのがコーキの書く理由と言っているんですけど、これとほぼ近い事を環も言っているんですよ。

 

ろこ:ん?いつ?

 

政夫:環は加賀美さんに言っています。引用すると、9.11の話をしていて。まさにサヴァイヴですけど。遠い世界の無関係さを嘆きながら、自分たちの日常とどれだけ距離があるか、9.11のような悲劇に対してどれだけ自覚的にいられるかどうかという話をした時に。

「あの頃の私たちは、事件とは全く遠い世界にいる、単なる日本の高校生だった。あの惨劇のニュースを見て、恐怖して、戦慄して、私たちは平和ボケした国の子どもなりに、衝撃を受けたはずだわ。私もそうだった。まるで映画の中のようだ、と現実感のない頭で考えながら、だけど崩れるビルから落ちていく人影に気付いて、初めて正気に返った。ここで今、命がなくなってんだって。塵でもビルの破片でもなく、人間の体が落ちていく。今この瞬間に、人が死んでいるんだって、その惨状に息が詰まって、だけど自分がそれに泣くのは行き過ぎた行為だということも理解していた。そこにある世界に、私は圧倒的に無関係だった」

小説の持つ力は無力であり、それでも環はなぜ書かないといけないのかというと。

「あなたにとっては、些細なことに映るでしょう。くだらないと、そう思うかもしれない。だけど、私の友達はみんな必死だわ。自分にとって何が武器になるのか。それを考えて、小説を書いて、漫画を描いて、必死に世界に関わろうとしている。これが自分の武器だと考え抜き、これで訴え掛けることができないんだったら、本当に自分の人生はどうしたらいいんだって、一生懸命なのよ。世界に自分の名前を残したい。それを一度夢見てしまった以上は、と今日も机に齧りついている」

っていう風に言っていて。要するに「たかが小説」なんですよね。日常のささやかな一つのシーンにしかならないんですけど、コーキが言っていたのは、でも物語があるからこの世界に留める理由にもなると。物語の豊かさが世界の豊かさにもなるんですよ。

狩野やコーキが見た空の話があるじゃないですか。悲惨な過去や事件があって、現実はとても不条理なんだけど、物語がある、世界というのは豊かであると。その象徴が、この空だったり家族だったり。もちろん、現実は物語が無くても豊かであるけれど、物語があるから豊かでもあるというのが必死に説いているわけですけど。

好きな物語に触れて、例えば毎週月曜に出る『ジャンプ』が楽しみで、でも他の6日間は地獄で、月曜に『ジャンプ』があるから生きていける人もいるかもしれない。だから物語がこの世界と結ぶアイテムになっているんですよ。誰かにとっては。この世界に居る理由にもなっているはず。つまり、この世界を肯定できる理由にもなっているわけですよね。

コーキは、倫理的な責任や覚悟を持ちながら書いているという宣言であり、環は書くことが世界と繋がることであると。それが、そこに世界とどう向き合うかという話で、クールじゃダメなんですよ。コミットしないとダメなんですよ。「内側」にいないとダメで、「外」に居ちゃダメなんですよね。「外」にいたらコミットできないから。でも「外」にいたほうが楽なんですよ。冷笑主義的に石を投げている方が楽なんですよ。

もっと世界との関わり方というのは、もっと豊かであるし、その豊かさの指標となっているのが物語でもあるんだよというのが…それを僕たちが描いていくんだよというのが、環やコーキの宣言になっている。

まあ、9.11が、ニュースを情報として消費していくだけで、コミットしないといけないと言っていても、圧倒的に無関係なんですよね。圧倒的に遠い国の出来事にしか映らない。酷い言い方ですけどね。他人事なんですよ。それを自意識に自分の罪悪感として、私は生き残ってしまった。なんであの人たちだったんだろう。なんで私じゃなかったんだろうという風に凄い受け止め方をしてしまった女の子を描いたのが西加奈子の『i』という作品なんですけど。

これは本当に『スロウハイツ』と全然話は違うんですけど、まさに今読むべき作品なので。単純に「9.11」と「サヴァイヴ」ということで浮かんだというか、どう遠い世界の無関係な出来事に対してコミットしなければならない雰囲気に、自分たちのささやかな日常と悲劇的な距離に対して、相対的に自覚的にいられるかどうか、と意識が変わると思うんですよね。それをストレートに受け止めすぎて破綻寸前になった女の子を描いたのが、西加奈子の『i』で、ある種コミットしなければならない僕の言い文や現代の空気を過剰に意図的に詰め込んだパンク寸前の女の子を描いたのが『i』なので、本当に西加奈子は凄いなって。…『スロウハイツ』に関係ない話ですけど。

加賀美さんと鼓動チカラの話をしないといけないなって思っているんですけど…(この時点で2時間半近く)

 

ろこ:せやな。それはやらないといけないんだけど。

さっきの、現実で大きな事件が起きて、現実の自覚というか何も出来ない自分がいて。日本だと震災があったやないか。その時に、悲観的になる雰囲気もあったやん、世の中的に。一個覚えいてるのが、ミスチルのカバー曲の中島みゆきの「糸」がめっちゃ売れたというニュースを見たのよ。俺、中島みゆきの歌全然知らなくて。そんで歌詞を読んだのよね。関係性を手繰り寄せたいのを歌っているような気がして良かったんだよね。でも、中島みゆきは世代でもないから知らなかったんだよね。

 

政夫:「絆」って言葉が大々的になっていましたけど、「絆」は糸偏ですからね。

 

ろこ:あー。解釈も色々とあると思うけど、運命じゃなくても縁とかあるやん。政夫君と出会えたのもそういうことなんかなって。まさに歌詞的な話になっていくのよね。

 

政夫:じゃあ歌ってくださいよ(笑)

 

ろこ:(笑)でも、そういうことを言っているような気がするのよ。ミスチルのカバー曲も聴いたんですよ。勝手に桜井さんが「糸」を拾ってフォーカスされたんじゃないかと悩んでいたらしいのね。でも、昔の曲でも俺みたいに入り込めるスペースを、俺が埋めたったぜ!みたいなサッカー的感覚というか。そういうことをインタビューで言っているのよ。

ということで『日本代表とMr.Children』を読みましょう。

 

政夫:え(笑)繋がったの?糸切れたでしょ(笑)

 

ろこ:(笑)

 

政夫:ちょっと尺が長すぎるので、加賀美さんの話はブログに書きます。*1

もう最終章の話をしましょう。

「二十代の千代田公輝は死にたかった」という、コーキがスランプに入っていますよね。自分が書いた物語の責任として、自分の「世界」が自分の知らないところまで波及してしまったという事実が、園宮の集団自殺がそれなんですけど。書くことこそが「世界」と関わることであり、それがコーキの「世界」でもあったわけですけど、書けなくなると「世界」と断絶するわけですよ。だから廃人同様になっちゃうのは仕方なくて。「世界」で生きていないんだから。書くことが「世界」で生きることの証だったんだから。コーキが物語を書くという行為自体が「世界」だったのだから、その「世界」というものを圧倒的に覆い尽くしてしまった事件、現実によって虚構が追いやられてしまったという意味なんですよ。

そこで天使ちゃんですよ。3回とも泣いてしまいましたよ(笑)コーキを「世界」に結びつける存在が天使ちゃんなんですよ。コーキは天使ちゃんに救われた存在でもあるし、同時に天使ちゃんという環もコーキの物語に救われた存在じゃないですか。お互いに救いあっているわけですよ。

 

ろこ:はいはい。

 

政夫:環によって救われたコーキというのはどうやって「世界」と向き合うかというと、コミットしなければならないから、どうやってコミットするかは「書く」ということですよ。世界の「外」にいてはコミットできないから。世界の「内」にいなければならない。省いた加賀美というキャラクターは一貫して「外」なんですよね。スロウハイツの中にいても「外」なんですよ。

細かい話をめっちゃしたいんだけどなー(笑)

環と桃花が駅で会うシーンがあるじゃないですか。週一で会う。チヨダ・コーキは彼女たちの世界にコミットできるけど、千代田公輝はコミットできないんです。だからストーカー的に眺める事しかできない。

あの時の千代田公輝は、作家としてのチヨダ・コーキではなくて、人間としての千代田公輝なんですよ。だから作家というのは如何に虚構と現実が曖昧になっているような実存性が体現されているような記述なんですけど。それを駅のホームの小屋、待合室的なもので週一度に環と桃花が、チヨダ・コーキの小説を貸し借りするわけじゃないですか。

線路というのが、「世界」から延びている線が、線路なんですよね。延びきった線の交差する点が駅なんですよ。お互いの結節点になっているのが駅であって、その駅の「外」には出られないという描写があるじゃないですか。お金がないから。そこは、駅は自分たちの「世界」の中なんだけど、駅の外は自分たちの「世界」の外にあるから、互いの「世界」から延びた線=線路が、重なり合う場所で繋がり合う場所が駅なんですよね。二人は「外」に出られないとして描かれているわけですよ。

 

ろこ:なるほど。

 

政夫:入場券を買って、桃花と会ったらそのまま自分の最寄駅に帰るという。二人を物理的に結ぶのは線路や電車なんですけど、心理的に結び付けているのはチヨダ・コーキであって、その交差する場所ですよね、そこに駅があって、それを眺めているのが作家ではない等身大の人間としての千代田公輝なんですよ。

だから色んな二人の世界、虚構めいているイメージや記号だったりするのものが、結びついていてお互いに「外」には出られない。

で、厳密には違いますが、駅の待合室といえば、新海誠の『秒速5センチメートル』でしょう。岩井俊二の『打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?』でしょう。

 

ろこ:あー。

 

政夫:どちらも「外」に出られない男女二人が会う場所が駅なんですよね。そのまま逃避行できないんです。彼らは未熟だから、どっかに行けないんです。自分たちの「世界」のギリギリの範囲内、お互いに重なり合う場所として駅だったり。

 

ろこ:すげー。ちょっと鳥肌立った…

 

政夫:(笑)で、名前を呼ばれることは大事だなって。『ゆるキャン△』第3話もそうだった。

 

ろこ:(笑)ここで『ゆるキャン△』?

 

政夫:絶望していた公輝は環たちに救われたんですよ。

名前は記号ですけど、それ以上の価値や想いが付与されているんですよ。それはキャラクターや作品にもいえることで、イメージなんだけど、名前も記号でしかないんだけど、それ以上のものがあるわけじゃないですか。

だから名前とか作品とかキャラクターは感情や距離を飛び越えてしまうんですよ。これ、新海誠君の名は。』です(笑)一部分恣意的に取り扱えば、ですけど。

名前を呼ぶということはそういうことですよ。飛び越えるんです。だから駅のホームで、公輝は隠れながら環たちが「コウちゃん」と呼ぶたびにドキドキしながら聞いているんですよ。その度に、彼女たちが楽しそうに言っている「コウちゃん」は自分のことなんだなって、廃人同様だった公輝が救われるわけじゃないですか。承認されていくんですよ。顔の見える読者によって。それは天使ちゃんでもあったわけですけど。もう、美しいでしょ(笑)

 

ろこ:綺麗だな。なるほどね。さっきの電車のメタファーは凄いな。

 

政夫:コーキが、チヨダ・コーキはいつか抜けることについて作中で回答しているんですよね。

チヨダ・コーキはいつか、抜ける。

それは、青春のある一部分にだけ響く物語で、皆、自分の時代が終わるとそこから卒業する。年を取るとともに経験を獲得し、小説や漫画よりも現実が楽しくなり、そこらに惹きつけられていく人間を、これでは引き止めることがきっとできない。

その通りだ。この世の中には、楽しいことがたくさんある。人を好きになって、人から好かれて、対等に関係を結んで、友情とか、恋とか、愛とか名前をつけて、そこからたくさんの経験を学ぶ。獲得する。

というのがあるんですけど、名前を付けるんですよ。僕らは色んな感情に、関係性に。名前をつけることは大事で、名前を呼ぶことも。

この部分って、もう『スロウハイツ』全体を示していると思うんですよね。恋とか愛とか友情とか、家族や疑似家族だったり。

 

ろこ:ホンマやね。

 

政夫:コーキのコンプレックスは、それを獲得できなかったこと。経験してこなかったこと。でも、経験していなくても脳内で処理して書けてしまうことなんですけど、だからこそ一時的な噓くささというのが、「今を切り取る作家」でもあるコーキは、だから抜けられてしまう、卒業されてしまう。

チヨダ・コーキは「点」なんですよね。それでも環は通り過ぎていないんですよ。忘れないで、抱えているんですよ。

本来「点」であるチヨダ・コーキを「線」として持っているんですよ、環は。もう愛しいですよね。

 

ろこ:凄いね。

 

政夫:だからこの作品はコーキの名前を呼び続けるんですよ。

だから、最後も名前を呼ぶ必要があるんですよ。「コウちゃん!」って。それは物語として落とし前をつけるために。

僕を「コウちゃん」と呼ぶ。話をする時、嬉しそうに笑って、僕の書くものが、彼女を笑わせる。自分がチヨダ・コーキであること、千代田公輝であることをあんなに誇らしく感じたことはなかった。呼ばれる「コウちゃん」が自分を指すのだと、それを思うだけで、生きていけると思った。

名前を呼ぶのは大事ですよ、本当に。

この前、アツシさんと通話した時に話しましたけど、「承認欲求」という言葉が嫌ですよね。気持ちの悪い言葉なんですよ。ジブリ鈴木敏夫も言っていましたけど、ある程度の承認は必要なんですよ。落合陽一はある程度の壁を超えたら承認は気にならなくて好きなことに没頭できると言っていましたが、でも大半の人間は承認が必要なんです。コーキが廃人同様になった時でも、環が名前を呼んでくれたから、承認してくれたから動けるんですよ。

名前を呼ぶことも、愛が執着であることも、そういった感情や承認の仕方にそれぞれ名前を付けることに僕らは執着するわけじゃないですか。

それが記号なんだけど、僕らの希望でもあり、願いでもあり、祈りでもある。

 

ろこ:(笑)

 

政夫:ポエムですよ、ポエム(笑)

コーキと環だけみて、こういう擦れ違いをしていたんだなって最終章で分かる仕組みですけど、要するに視点が変わるだけで物語になるということですよね。

それはつまり、それぞれの人生が物語になり、交差することでドラマチックになるわけですよ。今まで述べてきた二項対立もそうですし、駅も鋏もそうであったように、結節点によって交差する瞬間にドラマは美しくなるんですよ。

絶望を抱えたコーキが、自分の物語で幸せそうな環たちと触れ合うことで幸福へと転化できるんです。肯定できるんです。自分の世界を。それを肯定するには人と人の関係性が全てなんですよ。

さっき「糸」の話をしていましたけど。確かに足の引っ張り合いや妬み嫉みといったルサンチマンは渦巻いているし、他人の成功よりも失敗がみたいというどちらかといえば性悪説かもしれないけど、この作品は圧倒的に性善説ですよね。それだけ世界は豊かであると言っていますよね。

 

ろこ:せやね。最初、世代のことを言っていたけど、普遍的かなって思ってきたかな。いつの世代もそうなのかなって。

人々はなぜ物語を求めるのか 現実における虚構とは

政夫:ここで拝島説を取るならば、物語は子ども騙しなのかという話になるんですよ。もう、若くないからって。コーキも環も言っていますけど、現実の経験が物語を超えた時、物語は無力なんですよ。引き止められないんです。

所詮、他人の物語なんだから。自分がそれを追体験しているに過ぎないんですよね。

だから、チヨダ・コーキは忘れられてしまう。距離を置かれてしまう。

でも、環のように忘れない人いるよねと。「今を切り取る作家」と呼ばれているチヨダ・コーキは「点」のような作家ですけど、「線」のように持ち続ける人もいるんですよ。そこ価値は有り続けるんです。救われる人もいるんです。

僕は『スロウハイツ』の読書会のキッカケとなった、おおたまラジオ第5回の『ボヘミアン・ラプソディ』の時に、『SSSS.GRIDMAN』の話をして、虚構という物語に救済されたアカネちゃんの話をしたわけじゃないですか。虚構を一旦通過することで、自分が「何者」かになったかのようなシュミレートを体験することができる。そこでの行いでしっぺ返しを食らいながら救済されるという。物語に救われた人なんですよ、アカネちゃんは。

なんで、アカネちゃんが現実が嫌過ぎて物語を望んだかは描かれていませんけど、最終的には(笑)ただ物語によって救われた人というモデルケースでもあるんですよ、アカネちゃんは*2

 

ろこ:いやー、凄いな。

 

政夫:まだ終わっていないですよ(笑)

 

ろこ:え(笑)

 

政夫:なぜ物語に触れるのか?という話をしていないじゃないですか。

現実が物語を超えてしまった時、物語は、虚構は無力なんです。

でも何故触れるのか?

それは逃避ではないのか?

未熟だからではないのか?って。

それに対して『スロウハイツ』は、あくまでもクリエイターの生き様やプライドしか示していないんですよ。だから踏み込みが弱い部分もある。今のような問いに対しては。現実が辛すぎて、物語にコミットしてそれが財産になりましたというのが環であったりするわけじゃないですか。で、今は私、書いていますという環のプライドの形成だったり、クリエイターとしてのルーツだったり、原体験があるし、その反面、環らが何かを「生み出すまで」のドラマは無いんですよ、この作品は。「お仕事系」ではないから。売れているクリエイターと売れていないクリエイターの共同生活を描いているだけだから。

だから、物語に救われた人たちがそのまま物語を肯定して信じているから、疑念(拝島問題)が入り難いんです。

引用した9.11の部分は一般論で、確かに圧倒的な現実に対して物語は無力であるんだけど、それでも僕たちは責任と覚悟をもって描いていくよね!しか言っていない。実際の、物語自体の価値には踏み込み切れていないんですよ。

もちろん、環とコーキが交差するシーンがありましたよね。そこに物語自体の価値はあるんですよ。この『スロウハイツ』という作品は。

 

ろこ:作品としての物語と、政夫君の言っている物語の捉えているものとは違うということ?

 

政夫:僕が言ったのは『スロウハイツ』という作品の物語の価値自体がソレ(環やコーキ達)で、交差する瞬間にドラマチックになるという話をしましたけど、それでも圧倒的な現実に対してはどうなのって。上手くできたお話に過ぎないんじゃないかと。

環は物語に救われたから、ブレずに信じたまま物語を書いているんですよ。『スロウハイツ』はノイズが入り難いんです。クリエイターの生き様を描いているだけで、物語の価値自体は描き切っていない。踏み込めていないんです、そこに。

どうやって、つまりクリエイターの信念以外に、どのように虚構(物語)と現実を持ち出すときに、相対的に現実を下げて物語を上げるとかじゃなくて、現実という圧倒的にマジでガチなものに対して、どう物語が意味するのか、というのは『スロウハイツ』の中では読者としては、コーキと環の生き様から読み取るものでしかない。

明確なロジックではなく、あくまでもコーキと環のドラマに物語としての価値があると。辻村深月の愛ですよね。物語そのものに込めた想いです。

ろこさんが最初に述べた、優しくて暖かい作品だというのは、辻村深月自身が込めたものですよ。それは物語自体の価値ですよ。

 

ろこ:なるほどね。

 

政夫:だからキャラクターを通して、感情移入させて物語の情動や情念を描いている。そのフィルターを通して物語の価値というのを体験させているんです。9.11や3.11において物語なんて意味ねーじゃん!に対して、ロジックで対抗していないんです。エモーションで対抗しているんです。だから圧倒的にテロや戦争に対して、圧倒的に無力であるんですよ。それ自体の問いにはロジックとして答えていなくて、(相対的に)エモーションに替えている。それは何なのか?というと、環やコーキの生き様がそのまま物語になっていて、さっき引用しましたが、それでも覚悟をもって書いているとかどう世界と関わっていくかという宣言はロジックではないですよね。彼女たちのプライドでしかない。

それで、テロとかがどうなるかといったら、ならないですよね。それでも私たちは信じているんだ。だから戦っているんだ!だけなんですよ。

 

ろこ:分かる、分かる。ロジックで戦おうとしたら、「死」とか扱うことになるから。

 

政夫:でも現実の「死」と比べたら…。じゃあなぜ物語に触れるのか、なんですよ。それに対して『スロウハイツ』は答えきれていないんですよ。

 

ろこ:どうしたらいいのよ。

 

政夫:それは言っているように、物語があるから豊かでもあるんですよ。それでも、じゃあ、このまま曖昧なのか思いきやですよ(笑)

相沢沙呼の『小説の神様』という本がありまして。これ、2016年に出た本で、SNSではバズった作品で。これは「お仕事系」ですよね。ちゃんと作品を「生むまで」を描いています。クリエイターの生みの苦しみを描いています。

ろこさんが、『スロウハイツ』はクリエイターの存在感が薄いというのを克服しています。

これから話すのは、『スロウハイツ』が下で、『小説の神様』が上でという優劣とか単純な話ではなくて、補助線として出したいだけで。

『スロウハイツ』は生活描写の連続ですよね。上巻なんて特に。これまで物語とどう向き合ってきたかという過去と今を描いていて、エピローグはちょっと先を描いていますけど。基本的には過去と今です。狩野や正義やスーやエンヤはどうなったのかというと、結果論的に描いているだけ。読者サービス的に描いているだけで、最終的には過去と今にフォーカスを絞れば、環とコーキに収束しちゃうんです。物語として。エピローグで結果論的に正義たちが描かれているのは、作品を生んだという事実の列挙しかない。正義がどう作品と格闘していたかは描かれていない。でも成功しましたと。「鋏」のメタファーの話もしましたが。

でも、『小説の神様』はそこに凄い向き合っていて、「生むまで」を描いている。いや「生むまで」しか描いていない。

 

ろこ:なるほど(笑)

 

政夫:『小説の神様』が言っているのは、虚構である物語が、作りものであっても、偽物であっても、そこに込められた想いや願いというのは本物だよねと。偽物だから、作りものだからこそ込められるものってあるじゃないですか。

だから届くんですよ。超えてしまうんですよ。

『スロウハイツ』は物語を作るクリエイターとは?という問いに答えていますけど、『小説の神様』は、物語を書く意味とは?とか、現実に対して物語を肯定する意味をちゃんと描いている。アプローチとして踏み込んでいる。

凄い青臭いです。ベタに青臭いから、ダメだとかじゃなくて、凄い青臭い事を青臭いまま書いているから届くんですよ。

 

ろこ:なーるほど。

 

政夫;とても自覚的ではないと書けないテーマなんですよね。『小説の神様』のネタバレをするかどうか悩むんですけど、『小説の神様』なりに答えが書いてあります。

 

ろこ:俺は気になるけど。

 

政夫:ニュアンスとして伝えるなら、現実と戦うためです。

 

ろこ:はいはい。

 

政夫:現実と向き合うために物語が必要なんです。(ネタバレ)言っていいですか(笑)

明日泣かないために読む。と。

小説の帯とかで号泣必至とか、あなたは必ず涙するとかあるじゃないですか。なんで読むんだ。泣くために読むのかという疑問があるわけですよね。

でも、その物語に触れて、今日涙することで明日泣かないための強さを得るんですよ。物語を通過することの意味ですよね。確かに物語に描かれているもの、設定やキャラクターは嘘かもしれないけど、流した涙は本物なんですよね。そこに込められた想いは本物なんですよ。いくら虚構だろうが。

それを通して、今日や明日を、現実と向き合っていかないといけないんですよ。

という『小説の神様』なりの回答されているんですけど、拝島問題でいえば青臭すぎて受け付けないよと言う人もいるかもしれないけど、そういうのを超えてしまうんですよね。

もう、その問い自体がイノセントなんですよね。それに対してイノセントに答えるしかないんですよね。ベタに。青臭く。だからこそ本物なんですよ。

 

ろこ:なんか聞いたら、『スロウハイツ』にも若干ないすか?その描写。

 

政夫:ありますよ。ありますけど、ロジックで踏み切っていない。あくまでも環やコーキを通したエモーションで訴え掛けるもので、もちろん、エモーションで訴え掛けるというのが物語の素晴らしさであるんですけど。

僕は『スロウハイツ』は、ロジックがよくてエモーションがダメとかそういう話じゃなくて、踏込みがちょっと甘いかなと思って、補助線として『小説の神様』を引いただけなんですよね。

 

ろこ:受け取り方がね。なるほど。

 

政夫:というのが僕のまとめだったんですけど、ろこさんのまとめが聞きたいんでお願いします。

 

ろこ:近いですよ。最初、クリエイターの物語で主張してくるのかなって思ったら、徐々に環とコーキの、まさにエモーションな部分が成立していくのかなってあったんだけど、同居人たちと一緒に、一人で超えていくような感じではないと思ったんだよね。

 

政夫:連帯ですね。

 

ろこ:仲間とか、一緒に住んでいた青春じゃないけど、過去があるということでみんな前に進んでいくんだよね。そういうのを抱えながら、過去や葛藤がありながらも、今日や今を変えないといけないから生き様として凄い日々強くいきたいと思ったし、その強度に俺も動かされたし。コーキと環の温度を感じれて読んで良かったと思うよ。

 

政夫:あー良かった。良かった。

 

ろこ:(笑)

 

政夫:コーキが環の作品を褒めたシーンがあるじゃないですか。

環の作品はどんな時も食べているのがいいと。要するに生活描写があるのが良いと言っているんですけど、ものを食べるということは、この世界で生きていくということなんですよ。食べないと生きていけないから。

 

ろこ:どんな時でもお腹は空く。

 

政夫:これは『スロウハイツ』そのものですよ。

絶望していても、何かを食べるということは生きていくということなんですよ。

生きていけば、誰かが名前を呼んでくれるし、物語があるし、毎週月曜日には『ジャンプ』発売しているし、それで生きていける人もいるんですよ。

でも一人では生きていけないから、共同体は持った方が良いよねということで「スロウハイツ」がそれだったり、家族がそれだったり。

 

ろこ:人生ですな。オススメです。

 

※この記事は2月に配信した音声の一部を文字起こししたものです。

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*1:加賀美さんは、スロウハイツという疑似家族を家族ごっこの欺瞞であると糾弾しましたが、彼女自身が用意された「アイドル」であり、つまり虚構という作りモノの中に作り者がいるという記号における入れ子構造的でもある。加賀美と鼓動チカラは、存在性自体がフェイクであり、その実存性がフェイクであるから「物語」という虚構の中に本物/偽物という図式を組み込むためのパーツとなっている。この「偽物」がいるから、天使ちゃん=環の真相が際立つ構成でもあるが、加賀美というキャラクターは結局よく分からないまま作中からフェードアウトする。それはまるで虚構そのものであり、その記号性はネガティブな意味で虚構的に扱われているが、環とコーキは虚構という嘘や記号によって救済されたというポジティブな意味が付与された二項対立がここにある。この作品だけでみると、加賀美には救いがない。だから彼女は辻村深月スターシステム=「命の文脈」に採用されることによって落とし前をつけられている。また余談であるが、環を襲った「鏡」のイジメは、鏡という実像と虚像を用いるアイテムであり、これは虚像が実像を覆い尽くすという、つまりイメージに人が喰われることを意味する。であるから、虚構が現実を侵食する、と良い意味でも悪い意味でも虚構が効果として作用した結果が描かれている。前者がコーキや環であり、後者は園宮の集団自殺である。

*2:「アカネちゃん」というイメージを自分の理想郷に置いても現実と向き合うことになる。戻らないといけないわけで、どのように向き合うべきなのか。その際に「グリッドマン」といったヒーローや友達の存在が現実へ後押ししてくれる助走となる。