おおたまラジオ

しまいには世の中が真っ赤になった。

摂取したもの2019年2月 『スロウハイツの神様』 『インド倶楽部の謎』

作劇上で、天才と呼ばれているキャラが作った作品を作中で示しても、その天才を取り巻く作中の彼らがスゲー言っているだけだったり、分かり易い大衆の驚嘆だったり、ヒットした客観的な数字や事実の列挙でしかないのはあるあるであるが、じゃあどのように説得力をもって表現するのか?となると、天才が作品と向き合うまでの狂気が一つの正解なんだと思う。

そういう意味では、野崎まどの『[映]アムリタ』は一つのモデルケースになるのだろう。または、米澤穂信の『愚者のエンドロール』からの『クドリャフカの順番』における「凡人の屈折」や「より優秀な人に絡め取られる縮図」による行動=作中の探偵/犯人の動機として示すことも、作中の作品の説得力を読者には提示しないで(読者にはどれだけ読み込んでも『夕べには骸に』がどれだけの作品かは分かり得ない)、それによって動かされてしまった人たちの熱量を描くのも一つか。
そういう意味では『スロウハイツの神様』は天才の狂気を扱い切れていない。むしろ純粋な才能の善意という一面性だけのみを取り上げていると思う。才能における悪意やネガティブな意味が付与されがちな環にしても、母と過去を切り売りする〝闇の水を啜った〟けども(対照的に狩野が存在するが)、あくまでもビジネスライクな態度に過ぎない。その〝闇を覗ける覚悟〟こそがプロとアマの境目であるかのように。

思い出したのは、ある程度の才能が向上していくうちに一つの到達点でもある狂気に近接していく『セッション』は「才能という態度」を示していて、『スロウハイツ』では「自己と向き合うまで」の自分探し系であるから〝「才能という態度」後〟は事実の列挙=結果しかないのも仕方ないなと納得したり。

改めて記述すると、2月のおおたまラジオでは『スロウハイツの神様』をガッツリ触れたわけであるが、『スロウハイツの神様』で「家族」をテーマの一つとしてガッツリ触れた後に、朝井リョウ『星やどりの声』を読んだらガツンと殴られた感覚があった。

どちらも家族小説的な読み方をすれば(私は『スロウハイツ』を友愛的なコミュニティであるが、疑似家族モノとして読み解いた)、父的なものを退けているという共通事項から、どのように家族、疑似家族の差異はあれど母性的観点でアプローチしたのかについて面白かった。
『スロウハイツ』は家族は壊れても、距離を取っても新しく作れるよねという意味での疑似家族という代替機能があったのだけど(そこで機能したのが皮肉であるが、環の母性のユートピア)、『星やどり』(2011年に刊行されたのも相まって!)はありきたりな「家族の再生」に陥らず、そこから距離を一度取ってしまうことで新たな家族への足掛かりにしてしまっているというのが凄い。家族的な絆や共同体の在り方として、意図的に父的なものを退けた後に善意的に語られがちな再生物語を完全に否定したまでも言わないけども、代替的に置き換えてしまう、家族という絆を拡張していくという試みでは成功している一つの作品ではないだろうかと。
朝井リョウの『星やどりの声』のタイトルの意味は、「星やどり」の意味が明らかにされた後の家族の形=その内輪の声が一つ、また「星やどり」を覗く父の声が一つ、そして琴美のお腹にいる子=星宿りの声が一つと三重化されているので恐ろしい。

誤解しないで欲しいのは、どちらも表象的にリンクしているとかいう話ではないこと。家族的に父が不在のまま、どのように形態を据えていくのかという機能性の話がしたいだけであること。それ以上の意味も、それ以下もないと付け加えておく。

あと、『スロウハイツの神様』読書会の記事を読んでくださった方々は『ブリグズビー・ベア』という映画を観ましょう!拝島問題やチヨダ・コーキと環の物語への態度という文脈でガンガン掘れます。傑作。

futbolman.hatenablog.com

 

 

 

有栖川有栖の『インド倶楽部の謎』は久しぶりの国名シリーズ!

 

インド倶楽部の謎 (講談社ノベルス)

インド倶楽部の謎 (講談社ノベルス)

 

 

前前前世』を歌った云々の描写といい、確信的に前世というロマンチシズムを事件の全体像が掴み切れない、まるでインド情緒的な曼荼羅のような怪しげさに繋げているのだけど(あとがきにはインド哲学は放棄したと書いてあった笑)、常識で図りきれないwhyとロマンの接続、偶発性というロマンを完全に計算し、パッケージ化されたプロットに仕込む逆説的な奇妙さが生じているのが興味深い。
明らかにwhyの常識外れっぷりに閉口する人もいるだろう。プロット上で、単なる幻想趣味の域を出ないサイドストーリーと思いきや、メインストリームに接続されていくところが、この強烈なwhyを生み出したという点ではやはり見物だと思うけど、ミステリ小説における偶然性への反発を、つまり「偶然的に」処理してしまうことへのアレルギーがあるミステリファンや読者に対して、意図的に計算されたプロットに偶然性を落とし込む稚気に洒落こみたいと思う。
ただ、偶然性の重なりが前景化し難いのは、whyの奇天烈さに霞んでしまうからだと思う。しかし、偶然が絡んでいるからこそ行動に至るまでの綱渡りな犯人像や犯人たる所以の情報強度の作り方が繋がっている。火村が最初に零した「狭くて広い」事件性は、広すぎるが故に偶然性をパッケージ化してしまう歪な構図そのものであり、本来、作者によって必然的に導かれた作中の偶然性という余白が敬遠されるのは、上手い作者ならばその余白さえも作中で論理的に合理的に結びつける処理が出来るはずであるから、「偶然」という処理=現象に対して、そのままを描くことは都合が良すぎるのではないかという指摘が生まれやすい。

言うまでもないが、有栖川有栖は上手い作家である。

その作家が、偶然性を意図的に組み込むことで、事件像が捉え難かったものが解体されていくライヴ感を活かすために「偶然という余白」で処理することによって、他の必然的要素が検討された後に残った可能性、つまり偶然性が、必然的に導かれるという歪さが生じる。 そこで妙なオカシさがこの作品に付与されると思う。

有栖川有栖ほどの作家ならば、その偶然性も必然的に、合理的に描き切ることが出来たと思うが、敢えて余白という処理を施すことで、偶然性という合理性と計算性を演出してみせたと言い換えることも出来るだろう。

 

酒井寛太郎『ジャナ研の憂鬱な事件簿2』

酒井田寛太郎『ジャナ研の憂鬱な事件簿』を米澤穂信『古典部シリーズ』のパクリだという人へ - フトボル男

有栖川有栖『インド倶楽部の謎』

円堂都司昭『ディズニーの隣の風景 オンステージ化する日本』

荻上チキ『社会的な身体 振る舞い・運動・お笑い・ゲーム』

岸政彦 北田暁大 筒井淳也 稲葉振一郎社会学はどこから来てどこへ行くのか』

西島大介 さやわか『西島大介のひらめき☆マンガ学校 マンガ家にはなれない。かけがえのない誰かだけが、君をマンガ家にする。』

古市憲寿『絶望の国の幸福な若者たち』

東浩紀編『ゲンロン8 特集 ゲームの時代』

朝井リョウ『星やどりの声』

伊藤剛テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ』

円堂都司昭『「謎」の解像度 ウェブ時代の本格ミステリ

相沢呼沙『小説の神様 あなたを読む物語 下』

見城徹『読書という荒野』

相沢沙呼小説の神様 あなたを読む物語 上』

西加奈子『まにまに』

濱野智史アーキテクチャの生態系』

小谷敏 土井隆義 芳賀学 浅野智彦編『文化<若者の現在>』

佐々木俊尚ブログ論壇の誕生』

さやわか『文学としてのドラゴンクエスト 日本とドラクエの30年史』

相沢沙呼小説の神様

辻村深月スロウハイツの神様 下』

辻村深月スロウハイツの神様 上』

宮台真司『日本の難点』

毛利嘉孝『ストリートの思想 転換期としての1990年代』

桝野俊明『悩まない禅の作法』