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しまいには世の中が真っ赤になった。

西加奈子『漁港の肉子ちゃん』感想 悲観主義があるからこそ肉子ちゃんは絶対的な物語として存在する

 

漁港の肉子ちゃん (幻冬舎文庫)

漁港の肉子ちゃん (幻冬舎文庫)

 

解説にあるように「自意識の対立」構造を如何に折り合いを付けていくのか、という西加奈子らしいタッチを、タイトルにある肉子ちゃんではなく、その「娘」としてのキクリン目線で描いており、思春期特有の未熟さそのままを炙り出している。

キクリンは肉子ちゃんに比べると、よく出来た子であることに違いないが、それでもやはり依然として「子」であることは身体的・心理的な未熟さがストレートに表現されている。

それらの身体性から滲み出る自意識を飲み込んで、乗り越えた上で身体的な成熟が結末で示されるのはまさに王道パターンといえるだろう。

本作は2011年の作品で、舞台のモデルは石巻(偶然一致したらしい)。

作品自体に震災の空気は感じられない程に楽観的であるにしても、否応が無く突き付けられた現実に対して、虚構に過ぎない作品が関わっていけるのかという作者としての問を西加奈子自身もあとがきでも記しているが、肉子ちゃんという存在感が「イマ・ココの瞬間の幸福」を体現しているので、どうしようもないほどに楽天的になる。

作品とリンクする時代性を鑑みても、底を抜けた肉子ちゃんの存在感が、震災への救済になると誇張するものでは決してない(そうなることは有り得ないというニュアンスはあとがきに記されている)し、では、この状況に対してどれだけ関わるのか/関われるのかと小説という表現行為のある種の限界も突き付けられたに違いないだろう。

しかし、確実に肉子ちゃんという存在性による「幸福感」はある。彼女の生き様は「イマ・ココ」だけを切り取ることでの幸福観を如実に浮かび上がらせている。

先行きも見えない当時の社会像において、「今が幸せならば幸せな気分に浸れる」切り取る瞬間と、その隙間を生活している感覚と「イマ・ココ」の実存性を考える上で、私は補助線として古市憲寿『絶望の国の幸福な若者たち』を思い出した。

 

絶望の国の幸福な若者たち

絶望の国の幸福な若者たち

 

 

本作の連載中に震災があり、作中でも突然死や亡霊という形で日常に潜む死の情念をキクリンという子ども目線で切り取っている一方で、題名にある肉子ちゃんは「死からの反動的」に近いくらいに底を抜けた明るさで抜けちゃったまま描かれている。

それはまさに「生への全力肯定」という「イマ・ココ」の証明としてあるように、反対に日常で生きるということは、当たり前だが死(突然死や震災)も含まれているというのを子どもの眼差しから、楽天的に突き抜けている肉子ちゃんを相対的に置くことで、結果として、絶対的に肉子ちゃんという物語になっているのが素晴らしいところである。

だから、この作品のタイトルに「肉子ちゃん」があるのは必然だろう。

「イマ・ココ」で死ぬかもしれないし(日常での突然死=震災のように)、それでも、そこで生きていくしかないのだから、留まるための証としての絶対的な絆を、血の繋がっていない擬似親子の肉子ちゃんたちが、本当の親では与えられなかった「イマ・ココ」の「生」の肯定を全力で押すことの力強さは、一つの固定観念を乗り越えてしまった意味を与える。

こういう作品を描く西加奈子から、私は力が貰える。

あとがきで、震災のような出来事に対して、小説が持つポテンシャルについて西加奈子はおにぎり一個にも敵わないと記し、辛うじてあるであろう作家としての願いであり自負すらも打ち砕けたとあったが、相対的に、そして絶対的に「肉子ちゃん」の物語が存在する豊かさこそ、ある種の仄暗い悲観主義との対立と、それらの包括があって成立する共生関係だといえるのではないだろうか。