安里アサト『86―エイティシックス―』感想 壁の外で生きるということ
戦線から遠のくと楽観主義が現実にとって代わる。そして最高意思決定の段階では現実なるものはしばしば存在しない。戦争に負けている時は特にそうだ。『機動警察パトレイバー2 The Movie』後藤喜一
2010年代後半において、もはや「新世界系」のように「壁の外に出る」や新たな場所を目指すこと自体はテーマとして古いのだと実感した。*1
本作の『86』は最初から倫理観度外視で「壁の外」に放り投げられてしまった人々の生きた証と、それらを傍観するしかない「壁の中」の楽観主義的平和と無力さというジレンマを描いているのだが、「壁の外」という剥き出しの場所で放り出された人々はどうやって生きていくのかという問いに真正面から取り組んでいる。
既に「壁の外」なのだから平穏ではない。
守ってくれるものは何もない。
秩序もない。倫理もない。
乱世そのものだ。
そこで倒れていく人はいるし、尊厳も奪われてしまうこともある。
剥き出しの大地において倫理など介さず余地もなく、状況は刻々と変化している中で、どのように「壁の外」で、彼らは尊厳を見出していくのかという話である。
あざといほどの差別のモチーフを扱うことで、ここまでストレートに問題設定として描いちゃった作品であるから印象深い。
勿論、モチーフとなった被差別者の歴史はつまり尊厳の剥奪と直結し、人間が、社会が、秩序を構築し、箱庭の中で、それ以外の人間を困窮させてきたものであるからだ。
『86』では、仮初の秩序は犠牲の上で成り立っていることを前景化させた上で、彼らと彼女の立ち位置の非対称さを残酷までに炙り出しつつも、「壁の外」の絶望と、その状況下だからこそ見出される唯一の希望が、差別被害者の尊厳と証明に直結していく展開と、「壁の中」の平和という絶望との物理的・心理的距離を真正面に剥き出しにしてしまっている。
「壁の外」で生きることの目的は、国民国家という概念を超越して、個人の尊厳と生きた証を獲得することとなる。ぶっちゃけ国が亡ぼうが、個人の死でさえも、非倫理的状況下において救済となる指針のように見出されるものが、個人が生ききった証明があれば、その目的のために生きるという生存戦略を描いているので、やはりテーマとして「外」に出ることはもう違うと思わざるを得ない。
もはや「外」で如何に証を獲得していくのかというフェーズにある。*2
既に1巻単体でモチーフが完結していたと思っていたので、次巻以降どのように変化させていくのか楽しみで堪らない。
従来の戦争モデルと同様に戦線が、都市から離れていて殺戮が行われている一方、戦線から距離があれば平和が成り立つという、そのための礎を尊厳を略奪され侵害された差別被害者が担わなければならないルールの不条理さの中で倒れていく。
戦線維持が疲弊して、打ち砕けていく運命が定まっているのに関わらず、国によって捨てられた彼らが死ぬまでに、死ぬために戦う理由探しが、そのまま救済と鎮魂になっているという、一面的な希望としての「生きるための戦い」ではないのを一周して逆算的に描いているが、結果としての彼女と彼の物語をどのように展開していくのか。
戦場で戦う彼らを遠い平和な地から支援することしかできない彼女のジレンマと、命燃やして散っていく彼らの生きた証や誇らしく死んでいく存在性について、彼女の役割はあくまでも観察者の視点に過ぎないものであるが、この物語を眺める無力な読者と自然的に重なる。
では観察者は、遠い世界での出来事にどうコミットするのか。
それは彼らを忘れないでいること、見守ることも一つの救済になることであり、記憶することはつまり名を刻む。それは紛れもない証の一つになることを示した強烈な作品である。*3
「壁の外」では生きた証を立てることこそが絶対の誇りであったのが、「壁の中」に一旦取り込まれてしまうと外で築き上げた証の価値が薄らぎ、誇りを誇りのまま維持するのが難しくなる状況と、戦う動機を見失う内面性がリンクしているのが良いなー
— おおたまラジオ (@ooootma) 2019年3月15日