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しまいには世の中が真っ赤になった。

村田沙耶香『消滅世界』感想 新世界に飲まれた僕たちの普通という暴力性

 

消滅世界 (河出文庫)

消滅世界 (河出文庫)

 

私たちが信じている価値観を基準に、作中の価値観から逆説的に差し引いたものが「普通とは」という問いに繋がっていくならば、これはどうしようもないほど『コンビニ人間』前夜として描かれたものとして納得のいく道筋になっていると考えられる。

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「新世界」の系譜になる小説の一つであるが、家族や性愛の従来の価値観が引っくり返っている。

性愛における動物化した人間=ヒトの価値観として代表的なのは、貴志祐介新世界より』で表現されたボノボ的性愛のモデルケースを突き抜けてしまった性の価値観と人との関わり合いが一つにあるだろう。

新世界より(上) (講談社文庫)

新世界より(上) (講談社文庫)

 

 

本作では途中から「人間」ではなく、「ヒト」表記にしてしまっているから動物的なモチーフとして確信的に扱っている。

既存の価値基準というこれまでの生きていた世界が崩壊し、「新世界」の常識や正常性に飲み込まれていく内に「ヒト」は順応し、洗練化していくことで、本来ならば人間が抱えている本能による「傷や痛み」が失われていく形は、まさに「楽園」であるとされている。その新世界=楽園における、従来の価値観の正常/異常が完全に浄化されていくまでを「世界を呑んだ新世界」と表現されており、新世界に行っても、新しい世界に喰われるぞという小説である。

「新世界」に行っても、別の世界に飲み込まれてしまうというのは、一つの場所から別の環境に移動しても、その環境に人間は規定されてしまうことと意味は同じだ。だから「新世界」に行く意味と、「新世界」で生きていく意味は丸っきり別物である。*1

そして『消滅世界』は後者に該当する。

楽園の「神とアダムとイヴとサタン」の比喩は聖書からそのまま直接的で、サタンの呪いを母性として引き受けた主人公が「新世界」に順化してしまうという意味で、従来の家族形態から距離を取っても、徹頭徹尾「アダムとイヴ」の実存性を突き付けられる実験小説になっていると言えるだろう。

「ヒト」という動物的本能を計算して合理化していく様子はグラデーション的であり、極端な世界が示されていても、その変貌ぶりは実に多彩でじっくりと語られている。このシビアに従来の「世界」が飲み込まれていく過程を、徐々に日常が侵食されていくドキュメンタリー風とも取れる。

この手の、極端であるにしてもディストピアの実験小説として完全に機能している作品であるが、現実の既存の価値基準から距離を取っている、これらの作品に対して、作品語りで私たちの現実を尺度に引き算して語るやり口は限界なのではないかという一つの価値基準の頭打ちを示してしまっていると思う。何かしらの現実を生きる私たちに還元されるであろう小説的体験を、現実の価値観を食べ尽くしてしまった「新世界」の系譜として機能している作品を、既存の意地悪くいえばオールドタイプの私たちが消化し切れるのかという問題が残る。

例えば、『コンビニ人間』は「コンビニ人間」から「普通とは何か?」を浮き上がらせる形式で、異常であること自体が正常化してしまった「コンビニ人間」の「普通」さえも、「普通」という価値観に個人的にも順化してしまうことで、一つの日常=物語に収斂する違和感をどのように読者は捉えきるのかという実験だったのに対して、『消滅世界』は「普通の世界」が「新世界」に喰われたその後において、「新世界」で生きることにおいて異常な倫理が正常化して「普通」になってしまったという、モラルのグラデーションを描きながら極端な「新世界」を配置することで「普通とは何か?」を問題設定するようにメタにもう一度再帰させる仕組みになっている。

なので前者では「コンビニ人間」から「普通」を浮かび上がらせ、後者においては「普通」から始まるであろう価値観が引っくり返った「新世界」から、もう一度逆算させるように「普通」を眺めさせるような構造になっていると考えられる。

両者ともにテーマ設定自体は似ているようで、実際の小説から受け取る違和感や、それらを入口からの出力の掛け方がまるで違うのは明白である。

「普通・常識」が引っくり返って「新世界」に飲み込まれても、それもまた「普通化」すれば「ヒト」は適応してしまうディストピアとして『消滅世界』は描かれているが、東浩紀は「人間は環境に規定されています」と記している。変わるには環境を変える必要があるとも。

 

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本作は希望という名の絶望的な非倫理的な新常識が、「普通化」することで「ヒト」はいずれ順化してしまう習性を説いている。それによって共通幻想としての安心が得られるという意味で、その「新世界」で生きていくための証やモラルや安心はその環境に左右されるという好例になるだろう。

つまり、『消滅世界』は安心やモラルは常に新たな世界に喰われてしまうことで新しい安心を〝獲得させるため〟の本能としての物語を露悪的に描いたとも言える。

一方で『コンビニ人間』は「コンビニ人間」という主人公を、嫌悪感を抱いた故に叩いても罪悪感を覚えさせない程の彼女の異常性について、「普通」という暴力に読者も乗っかってしまう機能性を示した。それは平然と通過してしまう同調圧力という一般的価値観を、「コンビニ人間」という逆側の視点の物語から突き付けたことを意味する。

無自覚な暴力性を孕む「普通」という概念への危機感や嫌悪感は、マイノリティへの無理解であると同時に、多様性の理念に対して、当事者性を持ちえないが故に根本的に暴力として機能してしまうマジョリティの視線という感覚も含めると、常に攻撃性と隣り合わせであるのだ。

社会学はどこから来てどこへ行くのか

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*1:約束のネバーランド』が前者であれば、石黒正数『天国大魔境』が後者になる。