おおたまラジオ

しまいには世の中が真っ赤になった。

加藤千恵『ラジオラジオラジオ!』感想 肥大化した虚構としての東京と痛々しい自意識を巡る

 

ラジオラジオラジオ! (河出文庫)

ラジオラジオラジオ! (河出文庫)

 

地元のラジオ局で番組をもつ、高校3年生の華菜と智香。智香の声が好きでラジオに誘った華菜は、東京に行く日をひたすら夢見て、退屈な学校生活をやり過ごしている。リスナーを増やしたいとがんばる華菜だったが、ある日、収録中に突然、智香から番組を休みたいと告げられて…未来への夢がすれ違い始めた二人の友情を描く、せつなさ120%の青春小説。

 青春小説である。

半ば加藤千恵の自伝的小説として読めなくもなく、学生時代の実体験から着想があるようだが、あとがきで加藤千恵は自伝的側面を否定している。

この物語は決してラジオを職業とする「お仕事系」ではない。

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ラヂオの時間 スタンダード・エディション [DVD]

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 インターネットやラジオという媒体を通して、自己実現を図ろうと目論むロマンチシズムと圧倒的な現実の対立による軋みを味わう若者を描いている。

本編でテキスト化されているラジオの内容は、実に等身大の高校生であり、退屈極まりないのが印象だ。

加藤千恵は、そのラジオの退屈さに起因するものとして「何者かになろうとしている」若者のもがきを丁寧に描いているからこそ、本編のラジオはクソつまらないといけない。必然的退屈さが宿っている。

もちろん、それは何かを語っているだけで何者かになっているような自意識であり、本編で記されているように主人公の華菜の文化性は、テレビやオトナの友だちからの受け売りであることが分かる。つまり恰も何者かになったと錯覚させるメディアの力であり、何者かになる途中としての自意識のコントロールの難しさと痛々しい相克は青春模様ではないだろうか。

舞台は2001年の9.11直後の世界。

インターネットはホームページ時代であり、SNSや配信サービスはない。現代に比べてまだ配信することに対して敷居が幾ばくか高い。

そのため、地元のラジオ局から女子高生が放送しているという特権性がある種の自意識をコーティングする側面もあり、自分は他人よりもセンスが良いと思われたいという承認を求めている様は、主にSNSで可視化されているイマとなんら違いはない。

華菜たちが行っているラジオにメールは来なければ、華菜のホームページに具体的なリアクションが来るわけでもない。華菜は掲示板(恐らく2ちゃんねる)に自演をした過去があり(速攻で看破されているのも「らしさ」である)、メールもサクラをしようかと思っている。これは世間の反応に飢えていることを意味し、ラジオが始まる前は可能性が無限大だったにも関わらず、現実が降りてきたらラジオとして広がらない、頭打ちの後退戦をしているための反動だろう(まるでどこかのポッドキャストみたいダナー)。

 9.11後の最初のラジオで、台本にはテロの話をしようかしまいか悩んだかのように二十横線を引いた記述がある。

だけど、映像がドラマや映画みたいにしか思えず、話がつながっていかなかった。

少しは冷静になったはずの今でも同じことだ。何度となく見た、ビルに飛行機が突っ込んでいく映像の意味、いまだに理解できていない。この世界で起きていることの一パーセントも、わたしは拾えていないのかもしれない。

 あの映像がハリウッド映画みたいと意見は多く、宇野常寛は当時『パト2』を彷彿とさせ、虚構が現実に追い付かれたと語り、富野由悠季たちは思想がサブカルチャーに侵食された結果、行為自体もサブカルチャー的になったと述べたことがある。

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戦争と平和 (アニメージュ叢書)

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 虚構が現実を作る。メディアによって規定されてしまう。

昨今の聖地巡礼といったコンテンツ・ツーリズムは虚構によって現実の価値が上書きされたことを意味するし、ある種のインフラの結果として現実の風景が漂白化していく過程で、風景に対する歴史や文脈への形成に虚構が寄与することで風景への現実的価値観が拡大していっているのではないか。

詳しくは後述するが、本作の華菜が抱く東京ロマンと押井守の劇場版『機動警察パトレイバー』シリーズで語られた東京の風景に厳密なロマンチシズムの一致はないが、共通して虚構のビジュアルイメージを通して東京が更新されていっていると考えられる。

華菜は東京コンプレックスと同時に東京に夢を抱いている。

東京に行けば、自分も輝けると期待している。片田舎の自分に住む自分のセンスはまだ東京レベルではないが、地元への絶望と虚無は徹底しており、何者かになるために東京に行きたい、誰か連れ出してといったイマ・ココではない何処かへ行けば充足するかのような東京的シンデレラ・コンプレックスを抱いている。

わたしは東京で恋をしたい。どうせならドラマみたいなやつ。大学で知り合った年上の人と。バンドをやっているとか、映画を撮っているとか、特別な才能を持っている人がいい。テレビ局のスタッフだったらなおいいし、芸能人だったら最高だ。

そのための足掛かりになるのが、地元のラジオとインターネットだと信じている。

2001年なのでテレホーダイ時代であり、ある意味ネットサーフィンなるものが正しく機能していた時代の高揚感をPCを前にした華菜を通して体験できる。夜にカップヌードルのシーフード味を食べながら、現代に比べて過剰に繋がれていない時代だからこそ世界と繋がる瞬間の興奮と目の前にいない誰かに向けて言葉を発信する快楽。

自分が輝くためのステージに立ちたい。

そんな自己実現と承認への欲求。

華菜は、地元を偽物ではないけれどホテル感覚だと評する。つまり仮住まいであると。閉じられており、社会への実感が隔絶されている居心地だと華菜は考えている。

「なんかさ、わたしたちって水槽の中にいる気がしない?」

(略)

 自分たちは水槽の中にいて、あらゆることは水槽の外で起きている、という感覚。外のことは目にしているし時に心配もするけど、どうしても実際の温度とかそういったものは感じられず、かなり大きな事件でも、自分とは関係ないという気がしてしまう。(略)

 実感が伴わない以上、たとえラジオで話しても、ありふれた嘘っぽい意見しか言えなさそうで危惧している。だから実感のあることだけをラジオでは伝えたい。

 社会への実感、現実に対する希薄な感覚への象徴のようでもあるが、ラジオへの誠実さが窺える。

しかし、このつながれていない感覚は水槽という比喩のように箱庭的であり、自分の居る場所に対して懐疑的になっている。なので、イマ・コレカラと繋がっていないであろう勉強には身が入らないし、テストの結果も芳しくない。自己実現の中に勉強のファクターが薄いと考えているので、免許が無いと生活に不便である地方にいる華菜は東京に行く予定であるから、免許の必要性も無いとしているのも印象的だ。

東京でビッグになってやる!と言っていることは同じで、東京ロマンを求める夢追い人の様である。

一方で憧れの東京はインターネットのように繋がっている本物の場所であると述べており、自分と世界を繋ぐための具体的な場所としてインターネット=東京が描かれ、イマや部分的にしか繋がれないことへの軋みがある。

華菜が世界と繋がれていない感覚は、冒頭の9.11や上記の実感に通じ、自分事のように収めきれないスケール感への距離を突き付けられている。

対称的なのは、西加奈子の『i』という本がある。

これは、リアルタイムであらゆる事象や事件を自分事として物語化することで、自分ではない誰かへの想像力が結果的に自分に立ち返っていってしまった功罪と、それでもこんな世界を生きていくしかない自分への物語として問いを投げかけているが、物語化できない程の距離と、それを行えてしまう感受性の豊饒さと残酷さの人間心理への挑戦だと考えられるし、本作の華菜のように実感できない人間がいる一方で、『i』が自戒と癒しになる人間もいるだろうと想像ができることが、虚構といった物語構造のフレームに落とし込むことで、ピントを合わせて降り立つことができる地点ではないだろうか。

i(アイ)

i(アイ)

 

 

わたしのホームページで一番充実しているコンテンツは、テレビ感想だ。ドラマ、バラエティ、ドキュメンタリー、クイズ、歌番組、の五つに分けて時々感想文をアップしている。(略)

 今日わたしのホームページを覗いた八人のうちに、テレビ局の制作スタッフは含まれているだろうか。書き込みはなかったが、もしかすると今日から読みはじめてくれている可能性はゼロじゃない。そのうちにメールを送ってくれるかもしれない。

 わたしはその瞬間を待っている。想像しただけで、口元がゆるみ、鼓動が速くなる。瞬間は未来へとつながっている。実際にわたしがテレビ局でプロデューサーとなって、作りたい番組を提案し、芸能人たちと関わっている、光り輝く未来。

 リスナーの中にも、そんなチャンスをくれる人がいればいいと願っている。わたしを見つけ出してくれて、明るい場所まで連れていってくれる人。ゼロじゃない可能性を信じて、わたしは毎週しゃべりつづけているのかもしれない。

 特別になりたい。みんなと同じことを考えて、みんなと同じような場所に行くのではなく、みんなが知らない音楽を聴いて、みんなが知らない本を読んで、みんなが知らない人と出会って、みんなとは違う形の感性を持ちたい。

 見事なまでにイタイ自意識が語られているが、水槽から脱け出して「特別」という実感を持ちたい子であり、要は「外」に出たい話である。この「外」は水槽の向こう側であり、華菜にとっては東京のことを示しているが、実際は自意識という檻から「外」に出るかという物語になる。

制服やパーソナリティといった記号を脚色し、特別になることで自分が何者かになったと承認されたい気分が生々しく記されており、他方で自分自身への手応えの無い虚無感と「何者コンプレックス」による反動であることが窺える。

何者 (新潮文庫)

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ドラマをただ受け取って見ている側から、テキストにしていくことで、反対に、自分が手渡す側になる気がする。

 誰も指摘していないことに着目するような、わたしだけの視線を持ちたい。テレビ局のスタッフに、鋭い感性を持っていると思ってもらえるくらいの。

 自他共に非常に耳が痛い話。

こうして作品にぶら下がって書評モドキを書く行為自体が、書評といった表現はあくまでも二次創作の領域をはみ出さない、他人の褌で相撲を取るかのような行為に接近せざるを得ないという意識は常に働いているつもりだが、これも所詮言い訳でしかなく、好き・嫌いといったファンカルチャーで渦巻く作品観から距離を置こうとすればするほどに、自分がそこに線を引いているという図式が、何者コンプレックス自意識を爆発させるものであるからだ。

優れた二次創作はそれだけでも作品になる。しかし、拙い自己表現は何かしらを足掛かりとしたパフォーマンスでしかなく、その線引きは優れたアウトプットかどうかになる。

華菜も同様にテレビといったメディアの力に引っ張られて、借り物としての水を水槽に注ぐことで何者かになったつもりでいる。

東京ドリームを抱くのもテレビの影響(具体的言及は無いが月9やトレンディドラマ群だろうか)であるし、この時代ではテレビなるメディアが茶の間に機能していたことも読める時代の気分がある。確実にテレビなどによって東京が本物として更新し、ココではないどこかを求める若者たちのロマンとして、ブランドの華やさのように映っていたのは東京像の一つではないだろうか。

 

作中で大事な設定として、華菜には同じ高校の友達が複数人いる。その内の一人の恋愛話の愚痴に対して、何ら興味がないものの聞く耳を持つポーズを取っている。ボッチでいるよりかは、群れた方が得策であるかのよう内的な振る舞いがある上で、恋愛への興味はなく、ラジオをどうするかを常に考えている。なぜなら恋愛は東京に繋がっていないが、ラジオは繋がっているかもしれないからだ。

また、リスナーの一人でもある年上のなつねえさんとはリアルでも会う仲であり、彼女からの影響を多分に受けていることが散見される。貴重なリアルのリスナーであるから、ラジオの感想を求めがちな華菜に対して、なつねえさんの感想は実に淡泊に映る。これも酷な話で、ラジオに中身が無いから感想を持ちようがないと思う。

ここで痛烈なのは、他人はそこまで自分に興味がないことを知らないという華菜の自意識の未熟さゆえの自意識過剰であり、狭い感性であることだ。恐らく誰よりも特別でありたいと思っているからこそ、自分の興味関心に夢中で、自分の関心事に対して他人がどう考えているのかといった相手の存在が希薄になっていることを知らない。

もちろん、このズレは後半でパンチが飛んでくるようになっているし、センスの良さを開陳したい自意識が、内に囚われて引き摺り込まれてしまうことで「外」に目が当てられていないという水槽の箱庭的比喩が効いている。

貴重なリスナーの一人であるなつねえさんは、東京から地元に帰ってきた人間であることが紹介される。

華菜には東京から出戻ってくる心情が理解できず、東京にはいくらでも充足させてくれる物質が溢れているが、地元には存在しないことが東京への憧れを加速させているようにも見える。

なつねえさんは小説家志望だったが、その夢に破れた。だから帰ってきたのである。ロマンへの挫折としてなつねんさんは映るが、しかし後に結婚をすることが明らかになり、別の道を歩んでいくことが記されている。

ちなみに、なつねえさんは書店員で、ビジネス書コーナーを受け持っている。本人は文芸書をやりたかったらしいが、叶わなかったとさらりと書かれているが、文芸書はその店舗のエースが受け持つ仕事であるので、ここでも一つの挫折がある。 

また小説書いて応募すればいいじゃないですか、とわたしは言った。すると、なつねえさんは言ったのだ。

「現実が見えてきちゃったんだよね」

意味がわからなかったわけではないけど、その答えには謎が残った。

 挫折と前身は、この物語の肝である。

なつねえさんというモデルは華菜の先を提示しているかのように、華菜の自意識に他者として入り込める隙間になつねんさんは存在するが、華菜がそれを自覚していたわけではないことも明らかになっていく。

華菜にとって、なつねえさんは熱心なリスナーだと思っていたが、毎週更新を物凄いスピードで聴いて感想を送ってくれる存在の一人ではなかった。これは、露悪的に書けばパーソナリティとしては無条件に承認してくれている相手、つまり自分を見てくれている都合のいい存在ではなかったことを意味する。

また、同時に友達をも勝手にリスナーにカウントしていたが、彼女たちはリスナーですら無かったことへの自分勝手にショックを受ける都合のいい部分が露呈していくように描かれている。そもそも視界に入っていないラジオの話よりも恋愛話をしたい友達と、その友達の恋愛話よりも文化やラジオの話がしたい華菜の感覚的なズレは残酷的であり、自分の興味関心がまるで世界と繋がっているという短絡的な思考は、まさに自分の価値観に対して相手がどう解釈しているか、受容しているかの想像の域にすら達していない徹底的な自意識における箱庭的な話だ。

現代のように常時接続ではない。部分的なインターネットのようなつながりではないリアルへの感覚は、リアルのままでつながっているのにつながれず、殆どつながれていない故のもどかしさと瞬間の煌めきについて『リズと青い鳥』が箱庭的に閉じ込めたモチーフであるが、本作ではラジオという媒体を通してリアルとして目の前にいない人間に語る物理的・心理的距離が、果てしない東京ロマンと地方に根付く現実の対立でもあり、それらを閉じ込めた自意識を巡る青春小説だと考えられる。

 

 その後、恋愛話を仕掛けていた友達が案の定失恋する。その失恋話をラジオのネタにする華菜は、彼女自身は友達へのエールのつもりであったが、失恋した友達にとってはラジオのネタに利用されたと感じ、憤慨する。

「番組自体、自分ではおもしろいとか思ってるのかもしれないけど、超つまんないよ」

吐き捨てるような言い方というのは、まさにこういうものだと思った。

短い言葉で、毎週積み重ねてきた三十分がまとめられてしまう。つまらない番組。それはすなわち、しゃべっているわたしが、つまらない話をしているということだ。

 拍手喝采の名シーンだろう。

意図的につまらないラジオを書くことでしか、この味わいは表現できない。

自分に都合のいい解釈を、他人がどう受け取るか想像していないイタイ自己完結型の末路として相応しいと思う一方で、他人事ではない冷えた感覚が走る。

ここで記されているのは、水槽の比喩(地方と自意識)として温室で生きていて、そこに対して息苦しいとは言っても、その恩恵は少なからずあることだ。自分のことしか考えなくてもいい。「外」に出たいと憧れても、「外」への実感がないまま水槽に浸ることで満たされているものもあるからだ。

なので水槽が保険になる。免罪符になる。

女子高生、パーソナリティという記号はいずれ剥奪されていく。それらが抜け落ちて、何者でもなくなる瞬間が訪れるが、仮初でも、彼女の言う東京のように本物ではなくても、アイデンティティとしての足場であった時間と記憶が確かに存在する。それらが漂白されて、忘却していく中で原風景化していくことでしか自分を問い直せないものもある。

それはまた、東京という風景も文化的に漂白していく現代というレイヤーも重なるように、無くなっていくものから新たに抽出して更新する、例えば聖地巡礼のように虚構のレイヤーが現実を上塗りすることは自意識と歴史的、文化的に折り合いを付けることだろう。

自意識過剰に向きあうまでの物語であり、際限のない「外」へと向かうためのメタ認知を獲得していくための青春の工程でもある。これらは朝井リョウ西加奈子が描いている自意識として、シニカルやセンスで外装して居座ることへの痛烈なしっぺ返しであり、その先の地平をそれでも歩まないといけない痛い処世術なのだから。

華菜が通るであろうある種のあきらめ=漂白は、裏返せば挫折からの出発であり、自己肯定としての受容になっていく。

青春としての挫折と自意識を巡る物語となる。

だからこそ、どうしようもないくらいに青春小説なのだ。

わたしはわたしの水槽の中にいる。

(略)

何か大きなニュースに触れるたびにイメージしていた水槽の中には、最初からわたししかいなかったのだ。中にあるように感じられていたものも、全部錯覚。いたのは、わたしたった一人。なつねえさん、智香でさえもいない。

 

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桐島、部活やめるってよ (集英社文庫)

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ここからは、前述のまま詳細を放置していた東京への話となる。

華菜が抱く東京ロマンは、トレンディドラマ群に代表されるような煌びやかなイメージであるが、バブルという時代性を捉えた作品に『機動警察パトレイバー the movie』がある。

機動警察パトレイバー 劇場版 [Blu-ray]

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『パト1』はバブル批評として読める作品にもなっている。

開発とインフラ整備に伴う「失われていく東京の風景」を靴底を擦り減らしながら丹念に調査をする松井たちを描きながら、風景にノスタルジーアイロニーを投影させることに成功した。

そこに東京の煌びやかなイメージは存在しない。

確実に在った風景が、徐々に、そして気付かないまま失われていっては新たな都市の風景として飲み込まれていく様子が丁寧に展開されている。

東京ロマンのイメージが都内のみならず、地方でもメディアの影響で肥大化していく喧騒の最中、その豪華絢爛なブランド性にリアルとしての風景が侵食されていくように、東京という風景にどのようにピントを合わせるかによって、生まれていく風景があることは同時に失われていく風景へのアイロニーも込められていることを痛切にメディアとして機能しているといってもいいだろう。

もちろん『ラジオラジオラジオ!』は東京ロマンが打ち砕けるような話ではない。作中で東京への憧れは度々登場するが、リアルの東京は一切描かれていない。メディア的、文化的な東京のイメージしか華菜にはなく、地方で東京へのイメージと自意識を育んでいるだけだ。これは水槽の中でリアルの実感が持てないまま、虚構としての東京が伝播していることを意味するだろう。

例えば新海誠は東京の風景を美麗に描く。

しかし、実際の東京はあんなにイイものではない。ただ、現実以上に綺麗に描くことで風景に意味を与えることも出来るのは確かな技法の一つでもある。

華菜にとって東京は本物であり、何者かの象徴である。東京に行けば何者かになれるかもしれない。イマ・ココの等身大なリアルではなく、メディア的な虚構としての東京に心惹かれている。その東京にはドラマのような風景が広がっており、『パト1』のような風景へのアイロニーは含まれていないことだろう。

虚構による東京へのイメージが幾層に塗り替えられても、自分の都合のいいピントの合わせ方がある様に、風景はいくらでも様変わりする。認識できる範囲は限られているために、そこにリアルは存在しなくてもいいことになる。

虚構としての東京を生きる意味を『パト2』では描いているが、物語終盤において柘植が東京が蜃気楼に見えると言う。幻であると。その違和感を風景映画として、また虚構に飲み込まれてしまっているがためにリアルへの手触りを確かめようと試みるテロリズム(だから最後は手と手が触れる)自体も、虚構のフレームから一時的に脱却してもなお別の虚構に取り込まれてしまう不可逆的なイメージを捉えてしまった。

この虚構の都市というフレームにピントを合わせることへの欺瞞について、風景のリアリティのみならず、そこで生きることに対するアイロニーと忘却性が付随しながらも、蜃気楼のような中を歩くしかないという現実がある。リアルが無いままの確かな手触りという一縷の可能性もまた一つのイメージであるのだから。その一つ一つのイメージの蓄積が幻のような都市を生み、リアルなるものは心象風景化していく過程に宿る感情という一つの事実にもなっていく。華菜が抱く東京への憧れはリアルのように。

華菜にとっては、ココではない何処かへのイメージの具体としての東京ではあった。イマ・ココ、そして忘れていくかもしれない様々な風景や記憶を東京ロマンではなく、原風景化させていくことで、新たな拠り所として見つめ直すことが示唆されている。

東京という風景を捉え直す。

そこまでの射程が『ラジオラジオラジオ!』にあるわけではない。

しかし、虚構のロマン化した東京と自意識との折り合いの物語である。それでも蜃気楼のように実感が持てないまま生きていく過程で、どのようにリアルの積み重ねをしていくのか。

虚構というモニターで捉えることができる現実には、直に触れない不確かさが宿っている。モニターの中のリアリティがいくらか増しても現実なるものにタッチできない。柘植が演出してみせた一瞬露わになる現実ですらも虚構になってしまうからだ。虚構というフレームを通してしか接近できなければ、そのフレームから別のレイヤーとして存在するであろう外部という現実には決して飛び込むことはできない。

そうであるから、ラジオというメディアと東京への肥大化したロマン=虚構を意識的に描くことで、「外」に出られないままその場で足掻く自意識の話になるのは必然的だろう。内的にリアルな問題として、18歳という何者でもない多感の少女を据える一方で、相対的に虚構としての東京ロマンは現実的なものから希薄になるばかりか、虚構が肥大化していくといったように。

メディアや虚構によって規定されている。

その自己実現の途中での軋みを華菜を通して描き、誰かに発見されることで可能性が開いていくことについて、インタラクティブな関係性のインターネットへの期待感も当然ある。

しかし彼女が行っていることは閉じていないけれども、拡散もしない。誰もリアクションしない。それでも、インターネットの海に発信する行為の可能性を信じている。何かしらの手触りを求めている。

ここでアプローチとしてラジオの存在がある。

メディアが、虚構があるかもしれない自己実現したいつかのわたしを形成していく青写真でもありながらも、現実の反応がメディアに乗っかることだけで恰も何者かになったかのような錯覚を醒ます。

現実の延長にあるはずなのにメディア(虚構)に飲まれていくような感覚は、現実に反比例するかのように燦然と輝く東京へのロマンが肥大化するのに通じているだろう。発信することで、何者かになる感覚。それは一時的であり、部分的でありながらも確かにメディアに規定されるもので、それもまたある種の水槽=フレームに違いない。

私は、この飽くなき承認を巡る流れをバケツに例えている。

水をバケツに注ぐことで満足するが、イマのバケツでは物足りなくなっていく。水が溢れてしまうからだ。どうすればいいのか。それには更なる大きなバケツを用意すればいい。そしてまた水を満たしていく。溢れたらもっと大きなバケツに水を注げばいいといったように、承認とステージは比例していくものだろう。

華菜は現状に不満を持っている。自己実現と承認は満たされていない。イマは東京にもいない。それでもイマはココにいる。

ラジオとは寄り添えるものである。

それは作中で海老沢が語った「受け手との距離が近い」からこそ、ラジオにしかできないこともあると信じているように。

華菜は、無自覚的に自分勝手で都合のいい他者を身近に置いていた。他者に寄り添うためには自分が距離を適切にしなければならない。それはラジオという媒体でも、リアルにおいても。ラジオを通じて、他者へのコミュニケーションを考える契機となった華菜。

ラジオはコミュニケーションを強化させる。

なぜならリスナーは選択するという主体的行為から受動的に聴く行為に没入する一方で、パーソナリティ=「わたし」は能動的に働きかける。部分的なインタラクションな関係性がありながら、生放送であれ録音配信であれ、まるで同期的したかのようなそこに居る相手に向けて仮想して語りかけるメディアだ。

「わたし」からピントが合っていなかった「他者」へ。

大きく言えば物語は「わたし」と「世界・他者」の関係性を手を変え品を変えたかのようなフレームの変奏であり、そこで発生する意思表示という祈りでもある。

フレームの「外」に対する認識不可能性は本作でいう「他者」の存在性への空虚さであり、ラジオを通じて、「他者」とそれを見つめる/働きかける「わたし」の関係性は強化される。

自意識によるイマ・ココの否定ではない。

虚構(メディア)を通して、イマ・ココの蓄積による小さく確かなリアルな手触りを求めていく。

その実感としての距離への近さこそ、ラジオならではないだろうか。