おおたまラジオ

しまいには世の中が真っ赤になった。

ヤマシタトモコ『違国日記』2巻感想 記号化された対比への祈り

 

違国日記 2 (フィールコミックスFCswing)

違国日記 2 (フィールコミックスFCswing)

 

 

futbolman.hatenablog.com

2巻は「対比」が多く用いられている。

詳しくは以下で記していくが、本稿は上記の1巻感想記事からそのまま引き受けた上で出発しているのでご注意を。

朝が両親の死から初めて「自宅」に帰り、家財を整理するシーンから始まる。

槙生は「人がいないと家って空気が動かないせいかこもるからね」と言い、あの日から誰も帰ってこなかった家の空気の停滞感を口にした。現実として眼前に誰もいなくなってしまったことで「むわっとする空気」を作り出してしまった非日常性と家という日常的な空間の空洞化の対比がある。

無造作に投げ出された風景を見て、居なくなった人々の喪失を描く。風景に感情を投射する技法はハードボイルド小説で多く見受けられるものであるが、意味が空洞化してしまった風景が目の前に無機質に広がるシーンから、朝が当事者であるが、その彼女ではなく、槙生を中心に物語は動く。

それは槙生の心理的整理という通過儀礼を示唆するような構成である。物を整理していく内に拒絶していた姉のイメージとのギャップが生じていく。思い出に固執するかのように制服を捨てず、また麻の服を買っていたりと槙生の知らなかった姉の存在を追認していく作業が淡々と繰り広げられる。

姉という立場から強権を振りかざすことを躊躇しなかった彼女に対して、槙生は踏み躙られた過去があり、それが同調圧力的「普通コンプレックス」となっている。

来るはずだった「来週」

取り込まれるはずだった小さいタオル

クリーニングで出すはずだったストライプのシャツ

水をもらえるはずだった植木たち

期限どおり返されるはずだった図書館の本

誰にも見られるわけなんかなかった使いかけのコンドームと

レンズがぼんやり汚れた たぶん家用のメガネ

世界から忽然と存在が消える

 前項までに槙生の視点から「来週が来なかった存在性の現実」と過去に取り残された風景が局所的に用いられ、上記のモノローグは白く淡々と、心の行間を埋めるかのように描かれている。

「世界から忽然と存在が消える」のシーンでは、ページに明暗のコントラストが入り、まるで存在性のONとOFFのような意味に取れる。それはイマというリアル=ONな槙生たちが、既に「来週」を迎えることなく過去として通過してしまっている=OFFな存在性が浮かび上がる風景に没入させるからであるだろう。

存在の有無が突然的に決定されてしまうことへの不条理に対して、そんな非日常性が日常性に取り込まれるまでの「そこに居た」残り香を槙生たちが掬い取る作業が物理的心理的整理となり、無機質に停滞した場の空気は。リアルな存在性によって動かされていく。

冷蔵庫の整理のシーンでは、槙生とは対照的な整理が行き届いていることが分かる。自家製ピクルスを保存している瓶を見付けては槙生の母が作っていたことを思い出し、姉も倣っていた事実のように、制服の件と一緒で思い出に執着する印象を与える。

朝は母のことを現在形で語る。それは突然の死を、喪失感を受け止めきれていない現実への希薄さを意味する一方で、槙生との対比にも繋がっていく。

槙生は過去分詞の例を出し、現在完了進行形のニュアンスを明確に伝える。

過去のわたしから 今 少し未来のわたしへ 繋がる

 続いている

それを強引に断ち切る必要はない

 現在完了進行形としてイマにも続いている朝と過去完了形で語る槙生。

朝にとっては現実というイマ・ココの整理であり、槙生にとっては過去の整理の最中であることを意味する。これは居なくなった・消えてしまった後のイマの整理をせざるを得ない状況について、朝にとってはイマであり、日常だったものである現在完了進行形で捉えることができる一方で、槙生には過去完了形で断ち切ったはずの過去が、イマとして覆うことで姉の知らない一面を知る行為となっているのが印象的だ。

また「強引に断ち切る必要はない」と言った槙生のコマでは、上段では指先を描かないカットから、下段では指先のみを描くカットへと繋げることで対照性にクローズアップしている(背景にコントラストが入っているのも同様)。つまり強引に断ち切った側としての槙生の実感であり、過去完了形の所以であることが示されているが、これは過干渉からの距離を指し、他者との距離そのものだろう。過干渉自体は姉の象徴であり、ラベリングされた側の槙生の息苦しさの一つだったと推察できるが、朝とは「家族」でもない他人同士でしかない。固有の感情は大切に配慮されるべきであり、踏み躙られるべきものではないというのは1巻のセリフの意味するところだが、それは姉への反動であり反面教師とも取れる。

もちろん、それは厳密には描かれていない。槙生の回想でしか姉は登場しないし、槙生の中での姉像は確立してしまった後のイメージのまま断絶が生じているからだ。

しかし、その事実が、朝という少女と共にいることを選択した槙生にとっては「呪い」のような存在性が槙生の背後で確実に立ち上がるものとなっているのは皮肉ではないだろうか。

ゴミ出しのシーンでは、日常的風景をかつて眺めていた人間の存在性の不在を痛感させることに成功している。風景に意味を与えるのではなく、ここでは風景を見ていた存在に意味を与えているからだ。この風景への意味の捉え方は冒頭とは違う。しかし、それでも風景や日常は広がっている。

過去完了形といっても完全に完了していなかった槙生を中心に据え、まだ夢心地のように平然と寝ている(寝るしかない)朝との現実感の濃度としての対比がある。物語として先に槙生の「呪い」に触れることで、朝がこれから抱えざるを得ない時限爆弾へのリミットが起動するようにしたことも見逃せない。朝を中心に据えてしまうと「親子」と向き合わないといけない。それはイマの槙生との関係性への名前が付けられない曖昧な関係性だからこそ担保されている手触りが、物語の展開としてより立体的に生々しくなってしまうことが避けられずに、この早いタイミングでその爆弾を押すものではないだろう。そもそも『違国日記』は、あらゆる磁場から離れたような居場所の心地よさを名前が無い関係性で記していく物語だと考えているので、現在完了進行形である朝ではなく、もう一人の主人公である過去完了形の槙生の視点から、どのように姉(共通の「他者」に対しての自己イメージとのギャップ)と向き合っていくのかという展開をしていくならば、「朝と母―槙生と姉」という「家族」における二層構造から後者のラインを動かすことで、前者のラインを保存したまま、つまり朝の非日常から日常への回復の困難さについて、槙生の視点のまま非日常的な断片を掬い上げることが出来る。この目線はイマ広がっているリアルと失われたリアルの同居を導くものだろう。

間違いなく風景が心的に意味を与えている。

 

卒業式に向かう朝。制服を誤って捨てたかもしれないとバタバタする傍らで、槙生は「家族だと思わず相手を責める言葉が口をついて出るものだったな」と独白するが、この二人の関係性は前述のように家族以外の名前であり、そもそも固有名詞を付けられないものだ。関係性として名前がない。しかし、抽象的であるかというとではない。名前の付けられない関係性として個別的で具体的であり、それ故に生じる温度がある。『違国日記』はその手触りを記述していくはずだから。

制服という記号は制服を身に纏うことでインスタントに獲得できる。それは記号性に没入させるものであり、日常への一時の回帰にもなる。

しかし、友達のえみりの親伝手から、先生やクラスメイトに朝の件が知れ渡ってしまっていた。朝の預かり知らぬところで勝手にラベリングされてしまう恐怖と不条理。可哀想な子として大衆的にパッケージ化されることは「普通」への距離そのままだろう。勝手な大人たちの都合によって日常性への回帰が切断され、もう後戻りできない朝。

みんなもうあたしのことを あたしじゃなくて

「親が死んだ子」ってしか思わない!!

ふつうで卒業式に出たかったのに!!

人には「普通」という記号が拠り所になることがある。その記号の持つ「呪い」は槙生を傷付けてきたものであり、朝はイマそれを望んでいる。自意識として、外装として記号を望むことで「普通」のパッケージ化がなされることへの朝の主体性に対して、いざ知らずにラベリングされて他者に勝手に立ち入られる権利などはなく、固有の感情は自分自身ものであるという槙生の言葉が朝の回想として復唱されるコマ割り。「普通」の記号を求めていたが、それが適わなかった際に与えられた言葉が心の支えになるようにシフトしている。

このシーンでは、いわゆる「大人」と槙生との対比になっている。先生や親といった大人だからこその言葉と槙生だからこその言葉は「違う国」だ。公的な言葉と私的な言葉の違いは、それぞれの立場を示すものであるが、他者としての朝に対して投げかけるべき言葉の責任はまたそれぞれ違うのも当然だろう。 ここで出てきた「大人」と槙生との対比によって生じる「大人」という概念はこの2巻の重要なモチーフの一つであり、それは後述する。

怒り絶望した朝が本能的に帰った家は、前まで家族で住んでいた家だった。足元を見つめるカットは、1巻の「砂漠」で「ぽつーん」と立ちすくんでいる朝のシーンを彷彿とさせる。どちらも共通しているのは足場の不確かさに起因していることだろう。

朝にとって思わず逃げ込みたい場所として、それは槙生の家ではない。帰り道が思い出せないことは、どこに行けばいいのか分からない不安定さであり、自分の帰るべき「家」=日常との切断が表れている。それは「普通」ではない。ラベリングされて他者に理不尽に踏み込まれたことを自覚的に追認する結果となった。「普通」という記号に惹かれている自分が、制服という記号を纏っていても「砂漠」に放り出されてしまうような感覚は朝の思う「普通」ではないからだ。記号が剥奪されて、新たなる記号に取り込まれる。レッテルを貼られる。その記号を認識しているリアルの複雑さは、朝が幻想を抱いている「大人らしさ」にも通じていくものだ。

その間にも、えみりからLINEのテキストメッセージが届く。その場に相手が居なくてもメッセージが届くツールは、地理的距離をゼロにしているが、心理的距離は別であることを指しているし、これは後の手紙との対比になっている。

わたしだって仕事したいよ めんどくさいな

めんっ…なにっ…なにそれ!?

お…おかあさんはそんなの絶対言わなかったっ

 不貞腐れて帰ってきた朝の態度を面倒臭いと一蹴する槙生。朝のこのセリフにあるように母的な面影について、母的な役割・立場を受け持つであろうと期待されている槙生*1への何気ない一言であるが、朝の母=槙生の姉と槙生について求められていくナイーヴな対比がここにある。

しかし、それは槙生の役割なのだろうか。気遣う責任はあるにしても。*2

ここで卒業式を抜け出してきたことと友達とケンカしていることを打ち明ける朝。「形式的」な卒業式に対して、「実質的」な友達の存在性は比較できない、と槙生は友達の重要性を説く。彼女の友達でもある醍醐と居る時の槙生と朝と一緒に居る時の槙生の態度の崩れ方は大きく異なる。この変化には朝も気付いており、槙生とは「友達」ではないからだと受け止めると同時に、「血」というつながりのある絶対的な家族でもないからこそのデリケートな安定と不確かさを内包としたイマ・ココは、この後に物語の展開として訪れるであろう個別的で具体的な関係性に対して、記号性が漂着する問題への布石になっているのかもしれない。

…他ではかえがきかない

 槙生の言葉を聞く朝の横顔のまま、槙生の顔は描かずにクローズアップしている。友達の掛け替えのなさを槙生と醍醐が一緒に居る記憶を回想しながら聞く朝。

「かえがきかない」ことにスポットを当てるための演出であり、「普通」との対比にもなるであろう「特別」な関係性を指す。家族とは違う友達の存在の固有性という回路はあるべきだろう。

 

どうすれば幸せになれるか科学的に考えてみた

どうすれば幸せになれるか科学的に考えてみた

 

 先ほど記したようにLINEと手紙が対比になっている。言葉が心の支えになるように、それはテキストでも同様だ。LINEはコミュニケーションが届く距離をゼロにし、また簡易的なログ化も果たしている。手紙は書いてから相手に届くまでに時間と距離があるが、物質的なログとして存在し続ける。どちらが優れているかという話ではない。心の深度にどれだけ関わったのか。誠実な言葉があったのか。LINEや手紙はそれを伝えるための手段でしかないのは共通している。

学生の頃に槙生は醍醐から手紙を貰った。それはとても何気ない様に装っていた。このシーンでは手紙として残っていたことに、また残されていたことに価値がある。厳密には物理的に手紙が残っていなくとも、心までに言葉が届いた事実が残っていることに意味があるだろう。

「6年間 きみがいなかったら 私は息ができなかった」

 …槙生ちゃんは どう思ったの その手紙を読んで

「生きていていいんだ」と思ったよ 大げさじゃなくね

 他者の承認による存在理由になったと槙生は言う。同様に醍醐にとっても息をする場所であったように、互いの存在性という磁場が発生することでの心地よさの肯定だろう。それは必ずしも「イエ」ではなくてもいい。頼れる/頼りたくなる居場所があるということは、自分を受容するために快く息ができるように酸素で満たしてくれるものだから。それが友達の存在性の「かけがえのなさ」となる。

かつて、えみりが朝に零していた「なんか朝といるときだけほんとのあたしっぽい」という言葉は、空気の支配によるキャラ化・分人化コミュニケーションの弊害だろう。「本当の自分」を想像して、イマの自分を否定するロジックは想像上の先にある「本当らしさ」や「もっともらしさ」を強固にする。

内田樹が「ペルソナ」について人間関係の中で、過剰に他者を傷付けない、過剰に傷つけられない防衛システムであると述べている。

 

呪いの時代

呪いの時代

 

 ペルソナは「双方向の暴力をコントロールするための装置」であるとしているが、えみりの言う「ほんとのあたしっぽさ」はペルソナなどの過剰なキャラ化とは別として存在し、それらを内包しつつもコントロールされているから滅多に露わにすることができない息苦しさを示していると考えられる。えみりの言う「朝といるときだけ」が、醍醐が槙生に手紙に認めた「息ができなかった」という言葉と同じように、空気の支配が双方向の暴力性を孕む結晶であり、そこから脱け出すための、息をするための居場所が無いと心身は疲弊していく。どちらも友達の存在にどれだけ救われているのかを意味するものであり、感謝の言葉に他ならない。

 

笠町と対面をする朝。

「大人」に映る笠町に対して、朝は無邪気に分からない事をズケズケと踏み込んでいく。朝にとって一番「大人っぽい」のが笠町だと述べられており、この話では先ほど置いていた「大人らしさ」を中心に据えている。

「大人」にも分からないものがあると不思議に思う朝。彼女にとっての「大人」というのは母が代表格であったために、ある種の幻想を「大人」に抱いている。

「大人」とは一貫性があり、理路整然とし、ロジカルだと思っている。しかし「大人」=強いわけではない。「大人」だってフツーに繊細で傷付くからだ。それは槙生の様子からも見受けられる。

笠町のいうように「大人」は「大人」をしていることもあるし、突然「大人」になるわけでもない。これは「普通」や「もっともらしさ」という記号が抜け落ち、コンプレックスを抱えたまま「大人」になった側の告白でもあると同時に「大人」幻想を更新するための「大人」の存在である。

内田樹『呪いの時代』では「大人になることはだんだん人間が複雑になる」と記されている。表情や感情も複雑になり、様々な人格が混在していくのが「大人」の実状であると。

ある意味、ロジカルだった朝の母に対して、槙生ら「大人っぽくない大人」の複雑は朝にとっての新しい刺激になっていくだろう。この「大人らしさ」や大人幻想は朝が抱えているものではない。立派に「大人やれているのか」と不安になる「大人」の側も抱いくものだ。それは彼女らが「普通」の記号に対してコンプレックスがあるからだろう。「大人」に成りそこないの記号が付与されているのではないかという不安と痛み。「大人」という責任の重さに耐えるための成熟がある程度は果たされているかどうか。この複雑さは朝の視点ではなく、槙生たちの視点でpage10にて触れられている。

かつて笠町の母が弁当日記を書いていたという話になる。

朝も槙生から言われた後に日記を書いており、その様子は自由奔放。『違国日記』は自由と局所を往来することで、多様性が担保されるべき物語であるはずだ。日記という生活の記録を残すことによって書き手と記述された人間が浮かび上がり、それぞれの「違う国」を記すことができる。それは「生」の象徴だろう。書く自由があると同様に書かない自由もある。

弁当、食事というのは自分を形成してきたものの記憶となる。『違国日記』では食事のシーンを大事にしている。それは日常の断片であり、クローズアップすべき強固な「生」の瞬間でもある。ここで生きているという証。何を食べていたかは思い出せない弁当のまるでアンチテーゼのように食事のログがあり、確かなイマ・ココの手触りの一部分として描かれていると思う。それは「砂漠」に対する「灯台」の一要素にもなるだろうし、「灯台」が照らす自分の足跡なのだから。

おれを育てる ってことと

愛情とはすごく別のところにあった気がするんだよな

彼女は自分が「完璧だ」と思うものをおれに与えていれば

おれが彼女の望む「完璧な」息子になると 多分どっかで思ってた

 育てることと愛情の乖離。

これは笠町親子の話であるが、愛せなければ育ててはいけない/愛せなくても育てられるという視点は槙生と朝の関係性に肉薄している。形式的と実質的の対比にもなっているだろうか。

親の望む子と、親の期待に応えられるかどうかの子の想いは別。子は親の願望充足ではなければ、自分の人生のリベンジを図るための存在でもない。育てる≠愛するは別としてあるからこそ、コミットができる親のエクスキューズにもなる。親から子へ、子から親へ、この符合は必ずしも一致しない。それが普通ではないか。恰も一致するかのような幻想は圧力を生み出すが、「普通」から外れた子たちを踏み躙っていいロジックにはならない。

これは槙生の姉に対する拒絶に繋がっていく。

朝の前では小説家であることを肯定していた姉の像が露わになる。「槙生ちゃん」呼びは母譲りであったことが判明したシーン。

しかし、過去に彼女は槙生が小説に傾倒することを否定していた。

「恥ずかしくないの 妄想に世界にひたってて」

「小説だか何だか知らないけどもう少し現実に向き合えば?」

 

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辻村深月スロウハイツの神様』には本ブログ・ラジオで命名した「拝島問題」がある。これは「若いから物語に傾倒ができるのか」という問題設定であり、さらに広げれば「虚構に耽溺することは未熟の象徴であり、現実と向き合いきれていない所作に他ならない」というメッセージにも通じる。

このテーマ自体は『違国日記』ではどのように折り合いを付けるのかは分からない。2巻ではこの部分しか登場していないからだ。姉へのコンプレックスを肥大化させたかのような象徴的なシーンとして描かれ、それは槙生がフィクションに傾倒することで拠り所としていたであろう足場を根底から崩す現実的な言葉でもあったはずだから。小説家になった槙生がどのような答えを持っているのかは注視していきたいが、この問題設定自体は別段と新しいものではない。

スロウハイツの神様』はなぜ物語が必要なのかを問い詰めた作品であるし、相沢呼呼の『小説の神様』や門井慶喜『小説あります』などは「なぜ小説は読まれるのか」「なぜ小説でなければならないのか」を描いている。

『小説あります』は徹頭徹尾読者目線の主人公が充てられ、『小説の神様』などは読者から派生した書き手の意識を経由して再帰的に読者目線を導く違いがある。『小説あります』は「日常の謎」の系譜ながらも、架空の作家の人生を通して、机上のままリアリティを温存しつつ繰り広げられる作家論と小説研究などからメタフィクショナルとして物語ることのフレームの意味を、架空の設定をフルに活用してみせることで(それこそが醍醐味であるため)、読者目線の主人公の知的好奇心と活発な議論によって「なぜ小説を読むのか、つまりなぜ小説であるのか」に執着するところにリーチしている貪欲な姿勢が印象的だろう。
小説の神様』などは書き手の自意識から読者を結ぶまでの「物語への希求と祈り」の物語になっているので、『小説あります』のように「なぜ小説でなければならないのか」といった(物語至上主義的ではない)形式至上主義の読者の自意識を設定したかのような違いがあるのは付け加えておく。

槙生の持つ解が明らかにされる日は来るのだろうか。

ちなみに北村薫は、なぜ小説が読まれるかについて「小説が書かれ読まれるのは、人生がただ一度であることへの抗議からだと思います」と記している。

 

小説の神様 (講談社タイガ)

小説の神様 (講談社タイガ)

 

 

 

小説あります (光文社文庫)

小説あります (光文社文庫)

 

 朝は無邪気になぜ母を嫌っているのか、槙生に訊いてしまう。

もちろん回答を拒絶されてしまうわけだが、その時の朝のモノローグを引用する。

群をはぐれた狼のような目

わたしは 彼女の群にはまだ入れてもらえないのだった

わたしの群も もはやないのに

 狼の比喩は1巻でも登場している。朝の天涯孤独の運命を退けた時の孤高な迫力を狼に例えた。

一方で朝は子犬と評されている。帯文でも、作中でも子犬のような純情さという比喩だ。

ここにも対比がある。どちらも群がいない狼と子犬の同居生活。狼は独りにも耐えられるが、子犬は群に入ることを求めている。同じ家に住んでいても、群に入れるかどうかは分からない。この不安定さが朝の現状になっている。

イノセントに振る舞うことが許容される・免罪符を持つ15歳の少女。狼がその無邪気さに振り回され、飼い慣らすとは違う方向の関係性で以て同居する設定の妙だろう。

 

page10では槙生を取り巻く友人たちとの宴席のシーンが中心。

意味するのは朝から離れることで、槙生の現状と感情を客観的に示す場所となっている。槙生と朝とでは零れない話が、責任が乗っかった言葉の重さから分かるように実感として語られている。当事者としての本音が建て前抜きで。

朝を養子として引き取る選択肢は責任の象徴となるから、槙生は現時点では考えていない様子。

…うーん なんか そこまでの責任 とゆーか

繋がりは…

…それ自体しんどい… 

 そもそも槙生にとって一定以上の「つながり」は負担でしかない。これは友達との会話でも明らかである。

「つながり」を必要以上に意味するものが「親子」=家族ではないだろうか。家族的繋がりは、姉との繋がりを過去完了形として強引に断ち切った槙生が、それを背負い込むことになるかもしれない運命の皮肉がある。

姉の子である朝を愛せないかもしれない予感は、姉を拒絶して愛せない想いとどうしても重なってしまう。槙生にとって姉の存在が、朝を通じて立ち上がってしまうからだ。姉は姉、朝は朝でもあるはずなのに。論理的ではない。感情における「つながり」の問題として槙生に付き纏っている。

この子はあの人の子なのかと思うと体がすくむ…

朝には関係ないところでの関係性による身体的な拒絶。 それは槙生も自覚しているからこそ、より「血」のつながりを強固にさせてしまっている。フェアに接しなければいけない論理と「血」に囚われて感情と身体が先行してしまう事実が並行的で、それはそれ、これはこれ、という対比構造であるにしても、姉への感情はフェアなものではないのは一貫しており、それを予め朝に宣言した槙生の最大の誠意でもあることは窺えるだろう。

槙生の影には姉へコンプレックスがあるように、朝の背後にもつながりとしての姉を見てしまう。朝とのつながりを強くすればするほどに、断ち切ったはずのつながりを再起させてしまうようなジレンマを孕んでいる。

なんかねー よく 大人になれたなあとって思わない?

だからーなんか それだけでだいぶ満点!!

 学生ノリを引き摺ったまま強い「大人」ではない彼女らが、大人幻想、大人コンプレックスという同調圧力は、そのままこれまでに上述してきた槙生の姉や「普通」の押し付けに重なる。それは記号性への希求であり、朝にも常識のように刷り込まれている。

しかし、笠町が言ったように突然「大人」になることはない。それぞれが抱える「大人らしさ」は幻想であり、いつか本当の自分が到達するかもしれない先を行く像に過ぎない。ここで彼女たちが言うように「大人」になれたと思う実感だけがリアルなのだから。大人幻想は共通的であるにしても、リアルな「大人」像はそれぞれ違う。採点基準は自分自身に委ねられている。これは「違国」的でもあるだろう。

例えば日記のようにそれぞれが書く自由がある様に書かない自由もある。言葉には責任が伴い、「大人している」時もあれば、そうではない時も許容される。それは「違国」的であるとし、自分が自分を規定するための手段であり、責任の取り方を示す。これを理解して実践することは十分に「大人」なのではないだろうか。

 結婚するまでさあ 自分が結婚に向いてないなんて思わなかったの

皆してるし 自分にもできると思い込んでいた

そしたら 違ったんだけどさ

 友人の一人である、もつが帰り道で零すシーン。

これは結婚のみならず、当たり前とされている価値基準に乗っかっている事象に対して、「普通」から抜け落ちてしまうことの日常性を意味している。皆がしているから自分もそうであろうという思い込みもまた幻想であるように、それぞれが違う痛みを抱え、それでも「大人している」までに成長した彼女たちの実感は、読者への処方箋になると思う。自分は「そうではない側」だとラベリングされても、息をする場所があるように。

本稿では、これまでに幾度となく「対比」のモチーフを抽出してきた。対比によって露わとなる多様性の温存が垣間見えたと考える。

「そうではない側」や記号から離れてしまったが、それでも特別な固有性に溢れる「もっともらしさ」は、一般的な「もっともらしさ」や「確かさ」とは違うベクトルで独立していることを示しているに違いない。それは「違国」の比喩であり、それぞれの価値観の尊重となっている。

だからこそ、この物語は紛れもなく優しいのである。

槙生の「呪い」は、朝への態度としてはフェアなものではないかもしれない。

しかし、その「呪い」を抱えている槙生だからこそのフェアな姿勢はあるだろう。*3

槙生にできる違う立場があると思うし

そしたらきっといいんだよ

愛せなくっても

 子犬のような朝は群を恋しく思っている。それを認識できない孤高の狼である槙生。必ずしも一致するわけではない。それも幻想だ。

しかし、このズレが出発点にあるからこそ公正かつ誠実に態度ができないわけではない。その立場だからこそできる思いやりは存在する。家族や友人とは違う関係性として。

古傷を子犬に噛まれても許せる日が来るのだろうかと槙生は書いた。それは一般的な「大人」という強い幻想ならばやり過ごせてしまうものかもしれない。

しかし、そこから離れているものでしか壊せないカウンターとしての「大人像」が槙生たちであり、その関係性との共生は他者を全て受け容れるということを意味するものでは決してない。朝という他者を受け容れていく過程には、必ず背後に存在する断ち切ったはずの姉とのつながりが立ち上がっていくことだろう。姉とのつながりに対して過去完了形の槙生と現在完了進行形の朝が共生していくということは、内田樹が『呪いの時代』で書いた「複雑な他者を構成する人格の一部分について自分自身の断片と同じだと認める」理解が求められていく。

群を求める朝と独りでいたい槙生。

ここまでで「群」と「姉=母」が丁寧に炙り出され、共生していくための断片的な対比的要素が散りばめられている。

私は、これから祈りに近い感覚で読んでいくことだろう。

*1:もちろん、それは大きな誤解であるが、この時点では「家族」における役割という意味において母なる存在の巨大さと、その母の妹である槙生の立場を混同してしまっている。母的な存在と槙生の存在は朝にとっては共通的ではないのだから。しかし、それを希求してしまうかのような切実さと己の意思とは関係なしに投げ出された現実の淡泊さが表現されている。

*2:後述する。補助線として内田樹『呪いの時代』があるので興味がでたら読んで!

*3:内田樹の『呪いの時代』において、内田的ノブレス・オブリージュへの言及がある。それは「万人はそれぞれ固有の仕方で「ノブレス」であるという解釈」であり、特異性・多様性・個別性を指す言葉として理解していると記されている。ここで明らかなように、社会的大人が取り持つ責任と槙生が抱える責任は必ずしも一致しなくてもいいといった固有性が担保されている可能性だ。それは責任の放置ではない。厳密に一致することはなくとも、それぞれの公正な立場と態度があり、それは個別的なものとして意味することに他ならない。