おおたまラジオ

しまいには世の中が真っ赤になった。

なぜ、おおたまラジオは挫折したのか

最後にラジオを配信してから半年が過ぎようとしています。

およそ一年弱、月一ペースで配信をしていた私たちがなぜ沈黙をせざるを得なかったのか。

これは内省的な文章でしかありません。

まず前提として、これまで依存していた配信環境のサービスが終了してしまったことが挙げられます。YOUTUBEと連携していたハングアウトを駆使して、私たちは音声をインターネットの海に投げていました。誰に届くかも知れず。僅かなメッセージを込めた手紙を瓶に詰め込んで海に放るように。

しかしこれは些細な問題点でしかありません。他のサービスを使用して代替すれば問題は解消されるわけですから。その都度、それを言い訳にすることは簡単でしょう。ただ本質的ではない。

半年間に及ぶ沈黙を要するまでには至らないでしょう。

futbolman.hatenablog.com

上記の記事は最後に放送したラジオを文字起こししたものです。これが契機となり、私たちは挫折することになりました。

この本を選択した理由は、える・ろこさんがラジオ中に話す「自分探し」的な問題点について突き詰める必要性を感じたからでした。

実存を語ること。

私のラジオの原体験は、カーラジオから流れてくるFMラジオや深夜ラジオでした。ラジオは「私とその人」を直結的に繋ぐようなミクロな距離感を生じさせる効果があると考えています。まるで「自分だけ」に話しかけているような錯覚を齎し、それは各自のラジオ体験に回収されていくことで、ラジオという比較的小さな媒体の中のまた小さくニッチな群体を形成していく。

パーソナリティの個性や実存を語ることに適したスケールのメディアではないでしょうか。サイズ感に適合し、「私」は増幅していく。それは必然的に聴いているリスナー側に短絡的に届く。安易でありながら、また世に溢れている情報の中で、そこにタッチした偶然性のようなものを意識せざるを得ない。耳を通したそのような出会いが、ラジオだと思っています。

おおたまラジオも例に漏れず、ラジオ内で蓄積されていった文脈に依拠する語りをしてきました。その過程はまさに私たちの実存の一部だったことでしょう。その時に生じた問題意識や美意識が、確実にログとなっていきました。

おおたまラジオは2年目に突入する段階でした。その前に一つの決着を見据えるために、える・ろこさんの「自分探し」問題に着手しました。

ラジオという媒体への考え方の一部は既に記しましたが、私的な距離感のみならず、公的な空間形成をしたい気持ちが同時に生じたのが大きかったでしょう。「私」を語るだけではなく、「世界」に触れる。「世界」を代弁するなんて大それたことではありません。「世界」への手触りを作り出す。その過程は「私」的であり、また公的になっていくのではないか。

しかし、「私」的なものを増幅するのがラジオであるとするならば、些か問題が生じたのは言うまでもありません。

古市憲寿の『希望難民ご一行様』を読み解いていくことで、「自分探し」的な実存にメスを入れることが目的でした。この本は、いわば成熟を促す本田由紀的=「大人」な価値観と問題意識があるからこそ、相対的に、古市憲寿の記述が担保されている若者論です。ゼロ年代においてニッチな実存を語ることこそが、社会を語るといったまさにセカイ系的な図式によって成り立つ社会学が目立ってきた印象がありますが、ピースボートのフィールドワークを経て、炙り出された若者の一部の社会性やプライベートな佇まいがありました。

この本の翌年に震災があり、『希望難民』で出てきた「ムラムラする人々」という概念をより拡張し、いわゆる巷に溢れている一般的な「若者論」への認識を更新しようと努めた『絶望の国の幸福な若者たち』が出版されました。大人たちに成熟を促されても、イマ・ココの消費で充足できてしまう若者たちの姿が記されています。

何が起きるか分からない、いや何か良くないことが起きるかもしれない不安感はある「明日」よりも、イマの幸福な状態に没入していたい「今日」というモラトリアムを温存していく態度は、成熟と相反する。つまり、従来の成熟モデルが通用しなくなってしまったことに起因するわけです。

古市が示したのは、成熟モデルへの後退でした。撤退戦です。モラトリアムな選択の延命とも取れるでしょうか。

もちろん、あきらめない人はあきらめずにやればいい、と苦笑交じりのエールが書かれています。この本は、全体的に苦笑いをしている古市とある種のあきらめに対する真剣さが見えてきます。やはり本田由紀的な意見がなければ成り立たない背景がありつつ、「今日」ではなく「明日」を見出す可能性も当然のように捨てていないが、「今日」を選択する彼らを弁護しようとする若者の代表的な姿勢が立ち現れている。

成熟か否か。今更「第3の道」なんと言われてもという気持ちはありますし、ニュー・タイプが何たるかを観念論ではなく、具象化したモデル作りに勤しむ想像力にも違和感があります。

成熟ができないなら、成熟をしなくてもいい。従来の価値基準では図りようがない若者たちの充足感が溢れているイマ・ココを捉えた基準であり、この価値が宙吊りにならないのは、やはり従来の成熟モデルが片側に乗っかっているからでしょう。

 

平成家族 理想と現実の狭間で揺れる人たち

平成家族 理想と現実の狭間で揺れる人たち

 

 『平成家族』はあくまでも一部でしかありませんが、従来のモデルがなだらかに壊れていったのが平成だったと思います。問題なのは、これが一部では普通化してしまったことです。努力をしても、報われない。夢がない。ありがちな自己責任論に回収されてしまう。このように問題意識として叫ばれる一方で、だからこそ定着してしまった現実としての普通がある。これが平成だったと記憶しています。

私は『希望難民』を通して成熟の判定、ある種の「自分探し」に決着をしたいと考えたからこそ選択しました。

しかし、結果的には「『希望難民』をよく読んだ」ことしか出来なかったことに深い憤りを感じることになりました。

なぜなら、私たちが最終的に至った結論は古市憲寿的な意見を追認するしか無かったことに尽きるからです。これは成熟モデルへの後退であり、延命化でしかありません。温存です。

本田由紀的なものに惹かれながらも、古市憲寿的なものを選び取ってしまう私たちのイマ・ココが如実に表れたことが意味するのは、ラジオという媒体における「私」のインフレを生みました。この結果によって、「自分探し」的問題を図ろうにもモラトリアム的選択をしてしまったことで破綻しています。

本来、私たちがやるべきことだったのは本田由紀的、古市憲寿的な天秤からどのように新たな成熟の可能性を見出していくかだったと思います。従来の成熟ではない成熟として、古市憲寿的なものに引き摺られながらも、その価値観から引っ張り出した方向性の話までするべきであり、それこそが「公的」な領域だったと思っていました。ただ回収したのは「私的な追認」であり、「本をよく読んだ」でしかありません。

「人生はクソゲー」や「運ゲー」と嘆いてみせても、確かに人生にはコントロール不可能な偶発性が流動的に絡んできます。それは「生きることへの呪い」としてあり、成熟困難な現状に対して「外に出ろ!」や「大人になれ」は空虚に響くことでしょう。このような精神性が罷り通ってしまった時代を生きることは、古市憲寿的に代表される楽観的な箱庭の中での「刹那的な生の味わい」を見つけいていくことに終始するイマ・ココへの充足感の肥大化となります。

報われたいけど、報われない。仕方ないけど、イマに満足しているから大丈夫といったように。

運ゲーという前提における差異は、必然的に「持つ者と持たざる者の呼応」となります。自分自身に否が応でも自覚的なっていくにつれ、「箱庭から出ろ!」という本田由紀的な意見ではなく、むしろ箱庭の中で成熟困難であることがデフォルトとなってしまったイマを祝福しながら、つまり如何に古市憲寿的な意見を引っ張りながら、どのように箱庭の中でも成熟していくかといった「貧者」の思想や哲学が要請されていると考えます。

しかしおおたまラジオは、そのような結論に至ることはできませんでした。丹念に読み込み、若者論を語ることで、つまり語り直すことが叶わないまま、若者の自意識というシステムに取り込まれしまった。

私たちもまた「外」に出ることができないのです。

 

私は『ヱヴァQ』を初めて観た時に「二次創作的だな」と思いました。

従来のロボットアニメと違い、『エヴァ』は「機体に乗り込むことを拒否する」=引きこもってしまう碇シンジを描きました。この問題は成熟への意識として表れており、傷つくなら傷つきたくない、という痛みを引き受けない代わりに成熟も拒否する=エヴァに乗り込むことで社会的承認を得るが、その機会を自ら喪失する少年の心を炙り出しました。

ディスコミュニケーションは転倒したコミュニケーション装置だと思っています。ディスコミュニケーションは必然的に、コミュニケーションを要請するからです。この碇シンジ問題は「戦えなくなってしまった主人公を巡る物語」の類型となりましたが、成熟の可能性として単に「大人になれ!」や「自然に帰れ!」ではもはや機能はしづらいのではないでしょうか。そういう意識へのカウンターとして古市憲寿が示した「イマ・ココ」という基準が聳え立つのだから。

一方で『ヱヴァQ』は引きこもっていたシンジが、社会的承認を得るために自らエヴァに乗り込むことを引き受けようとします。エヴァに乗ることで「認められる自分」を獲得するために、そこにセカイへの問題なんてありません。この時点ではセカイがどうなっているかはシンジや観客は知る手段を持っていないので当然ですが。

排斥されそうになることへの抵抗として、エヴァが社会と自分を繋ぐ装置になる。これは『エヴァ』自体が、自己を形成する要素をひっくり返したことを示します。自己言及した結果でしょう。個人の力や意思決定ではセカイをどうこうすることはできないといった不可能性を突き詰めた所作であり、別にエヴァに乗らなくてもいいならばそれでもいいのでは、と主人公である碇シンジをそのまま置き去りにする。それとは関係なくてもセカイは動いている。主人公であろうとする碇シンジが承認されるためにエヴァを引き受けようとしても、「物語の呪い」がかかり、周りから排除されてしまう。個人の、主人公への庇護ではなく、セカイを託された大人たちの覚悟と責任が描かれていました。ある意味、これまで碇シンジに投げっ放しにしていたものを大人たちが引き受けた。すると、主人公の碇シンジは宙吊りになってしまう。エヴァに乗らないで引きこもることが、碇シンジを主人公として逆説的に成立させていた。そこから転倒して、乗りたいけど乗らせてもらえない碇シンジを一周して描くことで、主人公たる資格を剥奪された形に追いやってみせた。これまで以上に関わろうとする碇シンジの意思決定=コミュニケーションが要請されており、ディスコミュニケーションだった碇シンジが、セカイ(マクロな周り)によって希求したコミュニケーションが断絶されてしまう(ミクロとしての渚カヲル)。

この手法はとても自覚的な二次創作的であったと思います。個人の意思を超越したセカイでは、手を引っ張られながらも立ち上がるしかない。歩いていくしかない。剥き出しになったセカイを自覚的に。

私たちの「成熟を巡る檻」も常に自己言及的であり、だからこのような文章を書いてしまっているわけですが。

ラジオという媒体との相乗効果もありましたが、「私的問題」が「公的」に結びついて落としどころを探れなかった。長いスパン問われている「成熟の檻」に私たちもまた囚われてしまったことの証明でしょう。

だからこそ、おおたまラジオは沈黙するしかないのです。