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しまいには世の中が真っ赤になった。

田中辰雄 浜屋敏『ネットは社会を分断しない』感想 それでも分断を引き起こしかねない内面性

 

ネットは社会を分断しない (角川新書)

ネットは社会を分断しない (角川新書)

 

本書の結論はまさしくタイトル通りとなる。

この結果は、事前の私たちが抱くような一般的なイメージや価値観や分断を促してきた言説(トランプの大統領就任以降の機運)とは相反するものだろう。

本書では一定のエビデンスとそこから導かれる事象の結果として、まさに「タイトル通り」のように「分断していない」データと結論が露わになり、一般的なイメージとは異なるこの結果には多少の驚きがある。

タイトルで予告されているように、データの取り方やその推移、そして導き出す手順などを追っていくと確かに言うほど「分断はしてない」し、「分断を加速させているわけでもない」ことが明らかになる。

サイバー・カスケード、エコーチェンバー、フィルターバブルなどを踏まえた上でのインターネットのメディアにおける「他者」との接触の機会や他メディアとの接触の差異を捉えながら、好きなものを好きなだけ選択できるインターネットでありながらも一定の「他者」と接触する程度を炙り出していることから、インターネットが言説としての必要悪を引き受けることでもないことが判明したと言える。

これは明らかに私たちの認識自体が、「タイトル通り」である結果も含めてインターネットを通じてバイアスが掛かっていたと言えよう。

結論的には過激な一部の人が、インターネットを経由してより一層過激化した「大きな声」が通りやすいことによって「分断化」しているように見え、中庸的であったり、サイレントマジョリティの声は通りにくいことが、そのようなバイアスを働かせる所以となっているとして、インターネットの意見の集合は世論の鏡合わせにはならないと警告を促して纏めている。

データとそこから導かれた検証の積み重ねによって、確かにある一定の「分断」はしていないと言えるだろう。

しかし「分断」しているように見える・見えた―ーある意味ではこのような本が出版されるに至った経緯が示すように―ーそのような錯覚を結果的に与えていたことが重要ではないだろうか。

なぜ、私たちはそんな錯覚を抱いてしまったのだろうか。

一部の人が双方向的に大きな声で意見を交わすことで、中庸的な意見は黙殺され、極端な意見がクローズアップされることで一定のバイアスが働く効果は、確かに事実としては一定以上の「分断」ではなかったかもしれないが、そのような錯覚を正すことが本書の意義であったとしても、結果的に「錯覚が働いてしまう」ことへの処方箋が本書では弱い点が指摘することができる。

本書の最後に挙げられている打開策として「サロン型SNS」の提案に留まっていることは、一定における現状の追認で終わっているのが象徴的であるように、局所的な意見が極大化して「分断」の錯覚を与えるならば、一定的にクローズドに「分断」するしか方法がないと言っているに等しい。

これは有料会員サービスやオンラインサロンなどが顕著であるが、既存のSNSなどでは収集が着かなくなってしまった今、どのように「切断」した回路を持ち込むかという居場所を巡るある種の情報戦が繰り広げられていることの追認でしか現状における「分極化した錯覚」を癒すことはできないといったように読める。
このサロン型SNSという留保が、如何にクローズドに「切断」しつつ、インターネットの圧倒的な情報量と時間の速度調整を合わせながらも、「他者」の到来を巡る偶然性の接触機会を増やしていくのか、という既存のアーキテクチャ論入り口への架け橋にはなっている。

どのように「他者」と接触させ、同期しているように見せることでアーキテクチャ内の消費行動や意味を問うことは、これまでの哲学や思想が弁証法的に外部性や公共性としての「場所」をどのように具現させるかの試みであったと思うが、ゼロ年代におけるインターネットのオルタナティブな価値への期待(Web2.0)は梅田望夫ウェブ進化論』などを代表例として語られてきたが、結論としては中川淳一郎ウェブはバカと暇人のもの』にあるような「空白」の結果を生んだ。

そうして具体化したインターネットという場所は、シリコンバレーの文法における梅田的な期待としてのアカデミックな場所ではなく、サブカルチャーを例とした瞬間的な「祭り」の極大化だったと言える。

また落合陽一は『魔法の世紀』にて都市をプラットフォームの一種として捉えているが、これも三浦展ファスト風土化」のような郊外の風景の均質化、文化的生成力・発信力の凡庸化のようにコモディティ化が容易に進み、都市部では文化的・歴史的な意味が欠落した底抜けの状態が依然として進行していることの「空白=無=場所」を引き受けることで「日本的」であると言われてきた歴史と重なる。その空白さが均質化を受け入れ、ある一定の他者を取り込むことができる様は、ある種のアーキテクチャのような生態を持つと言える。

ここで指摘したいのは、そのような「空白な設計としての場所」を「切断」することで一定的に区分けすることは確かに都市の形象と重なる。

このアーキテクチャの自閉的かつ自律的な「一定的な他者」の到来を作るサロン型SNSは、一定の効果を持つと言えよう。

しかし本書で明らかになった「分断はしていない結果」を見るだけでは認識を正すことの必要性=正論として感じる一方で、無邪気にポジティブにはなることができないある種の消極性を引き受けざるをえない「あきらめ」を見出してしまう。
これまで外部性を発見し、再定義する一連の流れにおいて、あらゆる外部は内面化してきた歴史がある。

近年の日本でいえば、浅田彰柄谷行人の仕事が代表的であろうか。

外部は存在せずに内面化してしまうという漂白性=空白さにおける「場所」が一つにあり、また、この2010年代にも見られた「壁の外側」も「壁の中」であったという壁に区切られているレベルという「場所」の二重性は、外部性の空白、ヴィトゲンシュタインであれば「沈黙せざるを得なかった」前期を彷彿とさせるが、サロン型SNSという留保も一時的な「切断」でしかなく、内面化してしまうと考えている。

クローズドな場所であっても、絶対数はオープンな場所よりも限定的であるにしても、サロン型SNSにおいて、どこまでサイレントマジョリティを拾うための中庸的層を取り込む場所を用意することが出来るだろうか。

その限定的な場所でもサイレントマジョリティ=ROM専は存在するだろう。

また結局、オープンな二極化のようなクローズアップがクローズドな場所でも再現され、再び錯覚が働く可能性もある。

結果的に内部での二極化も発生するという内面化へのリスクを孕んでいる。そのような錯覚が、そもそも掛かってしまう働きについて勘案しなければ限定的で絶対数が抑えられた状態においても、一定的な外部の内面化は避けられないと考える。

そして、ある意味でそれと対立をすることは、本当の「分断」を齎すのではないだろうか。それは本書が到達した「分断はなかった」というある種のポジティブと消極性の追認を矛盾として引き受けてひっくり返すことになる。このことに対して「ポジティブなあきらめ」でしか対抗できない私たちの内面が切ないが、それを癒すようなアーキテクチャはあるのだろうか。

そして、同時にそれはリアルな「分断」を生むのではないだろうか。期待と不安が表裏一体として露出してしまったのが本書の「タイトル通り」からの展開のように思えるが、作者はサロン型SNSを一つの目安として提示して次作に繋げようとするポジティブな意思が見えるので、どのように応答されるのか期待したい気分ではある。

例えばコミュニタスという概念がある。

これは一時的かつ非日常的な協調関係性をベースとした他者と偶然性を巡る交流としての一定の効果があるが、常時接続下の「終わりなき日常」における圧倒的な日常性のつながりは、コミュニタスのような断続性ではない過剰さゆえの日常的空間の拡張と自閉性が混在している。そのようなつながりが評価されてしまう回路が可視化されるのが当たり前となった過剰な噴出に対して、コミュニタスのような一時的かつ非日常性を打ち出すだけでは不足してしまう。非日常を飲み込んでしまう「終わりなき日常」の強固な循環ゆえに常時接続のつながりは既に組み込まれてしまっているからだ。

では、どうすればいいのか。

日常性の観点で探るほかないだろう。

結果的には「切断」の仕方やつながりの再定義に迫る「日常からの再発見」していくしかない。

しかし、これはリアルな「分断」を生むというジレンマを抱えることとなる。

本書のように「タイトル」に表れた結果とある種のあきらめの追認に対して、この断念を引き起こしかねない内面性についてどのような回答があるのだろうか。それすらも、あきらめを促す巨大な壁のようにも映ってしまうのだから。