おおたまラジオ

しまいには世の中が真っ赤になった。

本と私 いかに時間を調整していくか

本を読む際には「中」を読むのと同時に「外」を読むことが大事だと考えています。

本を読むのは大変です。

なんといっても「読む」ことが難しい。只でさえ「中」を読むのに四苦八苦するのに「外」も読まなければならない。

昨年末から「文学」について考えてきました。

futbolman.hatenablog.com

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なぜ「文学」について考えていたかというと、現在の「時間と言葉」を巡る状況に違和感があるためです。その素材として「文学」ほど適切な表現はありません。

リアルタイムで流れる時間を横の時間軸として「政治と経済」と配置します。

一方で「文学」などの表現全般は横の時間軸に対抗できる縦の時間軸という文脈依存・言葉消費の空間・時間と置くことができるでしょうか。これは流れる時間が単一的ではないイメージの表れです。しばしば時間を一本化して考えてしまいがちですが、多元宇宙的な世界観の作品が多く見られる現代において時間軸を複数構えることに違和感はないと思います。

「政治と経済」の横の時間軸が単一的ではなく、それぞれの線が走って混在していると考えてもいいでしょう。「政治と経済」の結託はもちろんのことですが、グローバル化した今において国民国家というドメスティックな境界線を乗り越えてしまうGAFA等の「経済」の文法は「政治」を差し置いている状況だと言えます。この横の時間軸の抱える時間感覚は今後加速していくだろうし、それに伴う情報量も人間が許容できる・取捨選択できる領域を完全に踏み越え、現在のように外部としての頭脳をスマホ(計算機)に委託する作業はより強大化していく流れは避けられないでしょう。

私が想像している以上に情報の荒波によって「言葉と時間」が流れていくと思います。この早すぎる時間速度に対してどのように遅らせるか、時間調整するかが重要ではないでしょうか。なぜなら、この時間感覚と言葉を巡る状況に適応するのは難しいからです。令和になる前、平成最後に朝井リョウが現在のSNSにおける言葉の状況を端的に説明していたのが印象的です。mixiからfacebookTwitterInstagram・LINEとテキスト量が日記ベースから一言化(つぶやき)となり、さらにビジュアルな写真やスタンプなどの形象化が言葉に取って代わってコミュニケーション手段として定着したと指摘しました。

常時接続が当たり前となった今、容易にコミュニケーションを取る手段は確保されています。誰しもが何時でも誰かとコミュニケーションをすることができる。既に「場所」は関係ありません。乱立したコミュニケーションのためのコミュニケーション的状況は、言葉の量を活発化させると思いきや言葉の量は減っていっている転倒が見られます。

私は言葉を素朴に信じています。でなければ、このようなブログは書いていないと言ってもいいでしょう。この横の時間軸に完全に抗うことは不可能です。しかし僅かながら抵抗することはできます。

そのための状況を成立するには言葉の回復が必要不可欠です。言葉以外の、形象化したコミュニケーションは状況を加速させる機能を持つため、言葉によって遅らせることが一つ挙げられます(ここでは「文学」や本を題材にしているので映像表現や芸術は置いときます)。

そこで「文学」について考えていきました。「文学」はその形態から、言葉消費かつ文脈依存のスタイルが具現しています。

そもそも縦の時間軸はその存在自体が文脈依存的であります。ここでは「文学」より広義の意味で、本ならば文字しか無いがゆえに言葉消費に没入させる「時間と場所」を準備しやすいことを挙げておきます。

リアルタイムな横軸に対して斜線を引くように傷を付ける。それによって横の時間軸が立ち返るわけでもなければ、止まることはありません。

しかし「止まっているように錯覚」することはできます。横の時間軸に傷をつけることで縦軸という楔によって歪みが生まれます。ある種のインタラクションが、この裂けた空間ゆえの空白にこそ時間を調整するための言葉の可能性があると考えています。その時点で、既に言葉によって時間を割られているとも言える状況が成立するのではないでしょうか。

これは、私が本を読む上で意識していることです。千葉雅也が芥川賞後に述べた「内在的言語」への意識提起と差異はありません。「文学」のみならず、いや千葉雅也の言う「内在的言語の復権」は「文学」という経由だからこそ浮き彫りになる側面がありますが、私にとっては本というメディアに接すること自体が内在性へのアプローチに変わりがないと思っています。

冒頭で、また「外」も読まないといけないと記しました。

本の「外」にはネットワークがあります。単独で成立している本は存在しません。単独的に見えるだけであり、それは解体の余地を残しているでしょう。

例えば、私はミステリをよく読んでいます。ミステリというジャンル小説は先行する作品に対してのオマージュとユーモアの意識が強いと言えます。作品を生み出すことが既に一定のジャンル内における批評性を持ち、作品として単独的に成立しているように思えます。同時に文脈依存的である「外」の空間を感じさせるのがジャンル小説ならではのネットワーク感覚でしょう。つまり「中」と「外」を読むには「書いてあること」と「書いていないこと」=「書かれなかったこと」といった余白や文脈(またその空白という文脈)を読むことで獲得できるものです。

これはミステリに限った話ではありません。自律的にパッケージ化されているからこそ流通ができるのが、本というメディアの形態です。別にフィジカルがあるかどうかの問題ではありません。「単独的に見える」ということが重要です。

しかし、これはめちゃめちゃ大変です。なぜなら書き手の思考をトレースするためには「中」に書かれた内容と「書かれなかった」意味を「外」を読まないといけません。ネットワーク、文脈を意識するにはたくさん読まないといけない。出口治明が「読書は筋トレ」だと言っていましたが、その通りでしょう。否定のしようもない事実として、文化的マッチョにならざるを得ません。

その「筋トレ」の過程で、たくさん読むことで全く読んでいないことが分かります。同時に読めていないことを知ることが出来ます。

しかし、その時点で、読めていないがゆえに未知なる「外」に触れる感覚を持つことが出来ます。その感触と「中」と「外」への輪郭を確かにすることは、少しずつネットワークを形成していく「筋トレ」と重なっていきます。

千葉雅也の『勉強の哲学』にありますが、各タイムラインが相互に織り成すように紐付けされてストックされる価値を「教養」と記したように、文脈が持つ魅力は「中と外」を往来することで派生していくことができると言えます。

 

勉強の哲学 来たるべきバカのために

勉強の哲学 来たるべきバカのために

  • 作者:千葉 雅也
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2017/04/11
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

ここでメディア論を語るわけでもないですが、小説のみならず、本がメディアとして本格的に機能し始めたのはグーテンベルク活版印刷技術以降です。本を通して見知らぬ「他者への想像力」を養っていった歴史があります。その手段としてメディア化したとも言えるでしょう。

このメディア的側面と横の時間軸はそれぞれのネットワークを持ちつつ、加速していきます。私たちはその情報量に耐えることはできません。それゆえに自閉的な取捨選択はメディアとしての「他者への想像力」を蔑ろにする可能性があります。ネットワークが「外」にありながらも「中」で閉じた本というメディアだからこそ文脈依存という時間の調整に身を没入できるのではないでしょうか。

例え本であってもあらゆる情報として流通している状態は、ある意味では横の時間軸に加担していると言えます。一定以上の文脈が担保されながら、言葉にひたすらに没入できる場所が用意されていることの切断性は横の時間軸から切り離すことも可能でしょう。パッケージ化されているために切断された情報を開封していく、拡張していくネットワーク化が、結果的に時間の速度を調整することが出来るのではないでしょうか。

これは、私が本を読むことに期待している理由です。