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山崎亮『コミュニティデザインの時代』を問う 公共性と「活動」の再編

futbolman.hatenablog.com

本稿は上の文章の延長にあるので、まずはそちらを参照していただきたい。

取り上げた山崎亮の本に対して、私はハンナ・アーレント的であると最終的には位置づけた。不透明になった公共性と「私」と「公」を結ぶ中間領域(つながり)を整備するための空間がコミュニティであると。山崎によればハード面の整備よりもソフト面の拡張が求められるのが21世紀的発展であるとして、従来の開発における価値観の更新が欠かせない。

要するに21世紀的な開発は異なった価値観のもと行われるべきで、ポスト工業社会の在り方として表れる。

しかし山崎が記したコミュニティデザイン論は、従来の価値観を素朴に再獲得するための再提出であったと言い換えることができる。これは前述とは矛盾するようで、同居する事実が読めるのが重要であり、その具現が中間項と公共性である。両者のつながりと喪失していった人々と空間のつながりという二重性は両立する。そのためにコミュニティをデザインする試みがなされていると言える。

「制作」や「労働」よりも上位にある「活動」への理念を通じて、公共性という目的とつながりの再獲得の過程のセットが意味するのは「活動」に対する従来の価値観という普遍性であり、素朴に回帰するためのデザインにも読めてしまう。

もちろん、デザインする意義としては公共性よりも人々と空間のつながりに比重が置かれている。「活動」にしても過程として表れるのがポイントである。公共性、中間項やつながりが両立するからこそ、それまでの視点を再提出するための過程をデザインする行為にはポスト工業社会における21世紀的な意味、また従来の一般論的に立ち戻るための助走が見て取れる。この二つの意味は引き裂かれないまま丸く収まっているのが強みと言えるだろう。手段としては前者のように価値観の刷新が求められ、目的にあたる後者は普遍性の獲得を謳っている。

私は強烈に意味を感じながらも一方で居心地の悪さもあった。この捻じれは「活動」の意味が従来通りである所以だろう。だからこそ、アーレント的なヒエラルキーに対する違和感があるために捻じれを見て取ってしまう。

目的性と共同性の同時獲得をしたコミュニティの例として「活動」的であるのも頷ける。そうでなければ公共性は復権しない。

しかし山崎が目指す「一般化」について、万人が、例えばサイレントマジョリティのように、公共性を獲得できるとも思えない。公共性などの「活動」的な要素が脱臭された、「公」の意味では屈折しているそれ以外の空間と人々とのつながりに素直な価値が見出されるように。これは相対的な話であるが。

やはり「活動」へのアレルギーは一定数あると考える。公共性が喪失したゆえの反応とも言えるが、「活動」以外にも活動があるといった反発もあるだろう。「制作」や「労働」の観点からも、アーレント的なヒエラルキーについての再構築が求められるのではないだろうか。

前述した手段と目的の価値観の捻じれは、素朴な普遍性を謳っているように取れてしまう居心地の悪さがある。少なくとも私が「制作」や「労働」の視点から再編すべきだと思っている。ある種の外部的表現、文脈的に原理的に独立した外部的であるからこそ担保されていた「制作」の価値を再獲得すべきだと考える一方で、公共性なるものとどのように折り合いを付けていくか、メタレベルの外部的な意味を問い直すことも求められているのではないだろうか。

 

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この本では、地縁型コミュニティとテーマ型コミュニティと大別してつながりを記している。つながりはムラ的であればしがらみに変化してしまう。そのためにつながりをつながりのまま構築することが重要であるが、そこに対する言及が弱い。

「バランスが大事」や「人それぞれ」は最終的な結論として陥りやすい。ある種の普遍的解答である。私はずっと違和感を持っていた。「何か良いことを言っている風でしかなく、誰でも言える何も言っていないに等しい欺瞞」だと捉えてきた。バランスが大事。それは前提ではないか。その実を話していくべきではないかと。バランスという抽象的・個別的に棚上げすることに不満を持っている。

ここでは「しがらみ」への処方箋として「ゆるいつながり」がテーマになると考えている。以前の記事では東浩紀の『弱いつながり』の観光客タイプを引用した。「ムラと旅」を往復する振る舞いが自明であることの自由の具現として。

つながりが強くなりすぎると息苦しくなる。しがらみとなる。しかし、つながりが無さすぎると生きづらくなる。ある程度の「ゆるさ」のイメージが観光客と置くことが出来るだろう。つながりをしがらみにしない「ゆるさ」である。

「ゆるいつながり」とは何だろうかと考えると『ゆるキャン△』と『宇宙よりも遠い場所』をイメージする。

futbolman.hatenablog.com

 

宇宙よりも遠い場所 4 [Blu-ray]

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どちらもコミュニティ論というよりも「友達探し」のニュアンスが強いが、つながりの観点として読める。

前者は、キャンプという行為を通して定住(日常)と移動(非日常)の往復性から「ゆるさ」を担保している。その相対化は部活動を強いるものではなかった。個別的に、時に交差していくつながりの接触があった。

後者は友達のルールにおける同調圧力、「空気の支配」がマナーとして表れている一種の倫理的に自然的に罷り通っている息苦しさに対して、塗り替えるために別の目的による共同性でもって超越してしまえるゆるやかさがあった。友達とのつながりを再修復する必要性もないと言わんばかりの痛烈さがあった。倫理的にはそれを許容することが「空気が読める」とされているが、その同調圧力への反抗が別の共同性を育み、その発想自体がいかに「空気に飼いならされているか」を突き付けたと言えるだろう。

この二つの作品にある「ゆるさやか」は目的性に基づいた共同性を起点とした「空気」へのカウンターとなっている。ゆるいからこそ相対化され、個別的でありながら交差する接触もある。このつながりはしがらみになり得ない空間性があると言えるだろう。

このような「ゆるさ」を現実のコミュニティに定着させるには、テーマ型コミュニティとなる。しかし「ゆるい」ということは交差する可能性を高めながらも、時には軽減する設計が求められる。接触率が高ければつながりは強度を増すが、一方で緊張感が高まればしがらみに転化する可能性も増す。

このバランスを見越した上での空間設計は一定の制限による自由が相対化した結果のゆるさとなるか、が重要だろう。

ただし、ゆるすぎるのも難しい問題が孕んでいる。

共同性、偶然性といった空間設計をいかに調整しながらつながりをデザインしていくことは、しがらみにならない程度の切断したつながりの温存とも言える。

例えば、街中で歩いていてもすれ違った人に関心を持つことは少ないだろう。コミュニティとなると、そこに集まった人数と空間の規模によるが、接触する可能性は比例していく。限定的であればある程にクローズドになっていく。場所の開放性と偶然性が比例していくように「ゆるさ」の保険を掛けながら、ある程度の切断的な決定が求められる。

しかし転倒しやすいリスクがある。その切断性に宿る共同体のつながりの維持は「内と外」を分けることで、結果的にしがらみの内面化を促してしまうのではないか。ここでの「ゆるさ」というのは交換可能であるかどうかが重要であり、そのために相対化と交差する偶然性の担保と言い換えることができる。

空間と人々の設計は、ある一定のリテラシーの固定化が求められる。「空間のリテラシー」がない場合、その空間の抽象性が高まってしまう。それでは使用する人はより限定的になる。「ゆるさ」を担保しながらリテラシーを普遍的に構築することは難しい。そのバランスは容易にムラ的になる。しがらみから自由になったことで、つながりを喪失してしまった現代。そのつながりの場所を再設計することで、しがらみになる可能性も生じている。完全に排することは難しいだろう。空気の入れ換えをしてみても、別種の空気が醸成されると同じである。この「皮肉なつながり」を抱えてしまうのは宿命的である。

宇宙よりも遠い場所』では観光客タイプと新たな共同性を構築しながら、最終的には離れる結論に至る。それによってつながりが壊れることを意味しない。もはや地理的・環境的には依存しないつながりを獲得したためである。この精神的紐帯はしがらみにならない程にゆるやかに、つながりとして太い。

「皮肉なつながり」は空間的に規定されてしまうからこそ生まれてしまう。空間と人々との掛け合わせから、ある程度の切断的であることで共同性が培養された後に、いかに「つながりにおける内と外」を分けないまま空間を飛び越えるか。そのダイナミズムこそが、コミュニティが「デザインされた後」のテーマになるのではないか。

これは、正しくはコミュニティデザインの領域ではないだろうが、自走したコミュニティが陥る内面性に触れないのは不自然であると考えたので、補論として書いた。

 

前回の記事でもポジティブなあきらめから出発している本書だと記したが、そのレイヤーから個別的に相対化したゆえに更なる肯定的ニヒリズムに回収されていることは見逃せない。その文脈を切断するには多少のクローズドさが求められる。

しかし、それはゆるさとリテラシーを維持できるのか、が同時に問われていく。つながりによる癒しを一面的に捉えるのは難しい。共同性と目的性は「活動」の過程に宿るとしても、その移ろいの中にはつながりによる呪いの側面もあり、ゆるさと空間のリテラシーを都度調整していかなければならない。それは自走してもなお個別的で相対的なモデルとしてである。そのために、この逃げられない磁場のような肯定的ニヒリズムは「一般化」への壁を高くする。

山崎はコミュニティデザインのマニュアル化は出来ないと記した。教科書を作ることは難しい。なぜなら、キャラクターとケースモデルに左右される現場的判断によるためである。そのジレンマが、逆説的に対話機会や共同性を設けていったとするならば、個別的ゆえのポジティブなあきらめは「一般化」の壁として立ちはだかる。限定的であるしかないアンビバレントな要素が、アーレントヒエラルキーの「活動」回帰を素朴にさせているように。この引き裂かれないまま肯定的ニヒリズムに帰着した意味は、さきの手段と目的の捻れにあるように従来通りにはいかない、普遍的な意味での公共性を立ち上げることに対する再編と再提出が必要となるのではないだろうか。「一般化」の壁と向き合い、個別的にやるしかない「公」として。

つまり、個別的であることの集積が雑多なモザイク的な公共性を立ち上げるための要素であるならば、「私」と「公」の私的な連続性が見て取れる。つながりによる私的領域の拡張が「公」と「活動」と不可分でありながら、従来のモデルとは幾分かの再編が必要なのではないかと考える。モザイク的な公共性に対して「一般化」することの困難さがあるなら、その価値観も更新すべきだろう。ここで述べたいのは、手段と目的の捻じれのレイヤーとポジティブなあきらめのレイヤーの相関性への違和感である。

さきに記したように公共性と「活動」の領域の刷新には、相対的なゆるさが鍵となると見えている。個別的であるしかなく、モザイク的に帰結するならば、素朴に回帰するのでは不足してしまう。これは相対主義的な領域と対面しなければならない。

本書にある捻れに違和感を持つのは、目的の普遍性がそのままに位置していることにある。

しかし、その集合的イメージもモザイク的であるなら、意図的に問い直すこともできるのではないか。そこに生じるゆるさが更なる公共性を立ち上げると考えなければならない。