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渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』4巻 漱石『こころ』から鋳型に入れたような性悪説と性善説への留保

夏目漱石の『こころ』に関する比企谷八幡の読書感想文が4巻では象徴的な意味を持っています。

彼にとって『こころ』は人間不信の物語であり、ハッピーエンドを否定していると読み解けている。ただそこには人が個人として抱かざるを得ない孤独があり、それを受け入れるしかない。その孤独の在り方を夏目漱石は「淋しさ」と記しました。もはやこの孤独、「淋しさ」や近代的自我としての個人の確立は不自然なものではなく、既にデフォルトになったと比企谷八幡は述べています。それぞれが事情として持ち合わせており、それでもなお理解されない「分かり合えなさ」を踏まえて生きるしかないとする、例えば柄谷行人漱石解釈のただただ虚無的な孤独を見つめる他ない実存性の暗部に突き当たるように。ある種の後ろめたさと虚無的な停滞性による共有できなさを起点として、「淋しさ」の共通認識(同一性)を立ち上げても絶対的・根源的なバラバラさ(差異)が孤独として居座り続けてしまうように。

 

夏目漱石『こころ』をどう読むか: 文芸の本棚

夏目漱石『こころ』をどう読むか: 文芸の本棚

  • 発売日: 2014/05/20
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

奥泉光いとうせいこう 文芸漫談

奥泉 漱石の孤独は「コミュニケーションに失敗する人間の孤独」です。

いとう 他人と仲良くなりたいけど、うまくいかない人たち。

奥泉 彼らは関係を持ちたいという強い熱意や意欲を持っています。でも失敗に終わる。

 

上に引用したように、奥泉光は『こころ』を「コミュニケーションが失敗して転倒したディスコミュニケーションによる孤独」だと述べています。その根底にあるのは「失敗に終わるコミュニケーション」です。その意味では『俺ガイル』も「コミュニケーションの失敗が転倒してしまう」物語だと言えるでしょうか。例えば3巻のすれ違いは示唆的です。由比ヶ浜結衣比企谷八幡の誤解はラブコメ的に解決したかのように読めますが、防衛的に相手の行為や態度を捻じ曲げて解釈してしまう「自由な不自由さ」やままならない「他者」との距離感が執拗に描かれていました。たとえ相手を思いやるようにして線を引いて距離を取る行為も、正しく相手を見ることなく自己正当化するのは自意識の保守化と温存に他なりません。それが意味するのは比企谷八幡にとっての認知バイアスでしかありませんでしたが、「バイアスによって行為が確定した」と説明することは完全に思考をトレースしたとは言い難いでしょう。実際「バイアスによる説明」はトートロジーでしかありません。つまり「なぜそのようになってしまったのか」といった認知バイアス的に精神分析的に比企谷八幡を解釈するよりも、「その結果、どのように失敗して転倒してしまったのか」に重点を置きたいと考えています。それは偏に『俺ガイル』が、比企谷八幡を始めとしたキャラクターたちが「コミュニケーションに失敗」し、「分かり合えなさ」に直面しては(ハッピーエンドの否定のように)反物語として立ち止まって「まちがえて」しまう転倒の産物に他ならないからです。

冒頭に比企谷八幡のテキストへの批判があるのはこれまで通りの反復と読めます。持たぬ「残念系主人公」による「残念」なテキストであり、比企谷八幡の人となりの証明となる一方でアイロニカルなコメディに映ります。『こころ』読書感想文は中学生時代に書いたと言っても、その「残念」な連続性が担保されていることを意味しています。

税の作文も同様です。累進課税制度に託けたリア充批判も反復的であり、1巻の冒頭のテキストからの展開として読めるでしょう。「持っている」者がいる。他方で「持たなさ」「持てない」故に平等であることを謳う文句に懐疑があります。自分が「持っていない」ことが証明となり、その「持たなさ」は負担として露わになる。それでこそ「持っている者」に累進的に負担を課することが再分配における平均化を求めて、平等を志すならば「持たぬ者」よりも「持つ者」に対して、機会の平等ではなく負担の差異、格差に応じた制度こそが合理的だとする格差批判となっています。「持たなさ」による格差に紐づけて「持つ者」=リア充への批判がアイロニカルに記されていた、と言えるでしょうか。

執拗なリア充への嫉妬・批判と読めますが、冒頭に立ち返ると『こころ』読書感想文であったように、満足に愛を得ても渇かない共有できない孤独を書いていました。「持つことができない」ことへの理解がありますが、一方で「持っている者」=リア充に対する無理解もあると言えます。「そちら側」ではなく、「こちら側」であることにアイデンティティを見出しては一方向的な「正しさ」を引き寄せているのが比企谷八幡です。それを認知バイアスと称しても差し支えは無いでしょう。

P21 要するに、ぼっちとは周囲の人口密度を指すのではなく、個人の精神性をいうのだろう。どれだけ近い距離に人がいても、それを同種と認めなければ渇きが潤うことはない。

「個人の精神性」や「渇き」は明らかに『こころ』から導かれています。あるいは、その影響を感じさせるモノローグと言ってもいいでしょう。「個人の精神性」というミクロから、マクロとしての共通認識の個人の確立は他者に接続されることで「渇きが潤う」。その過程で、孤独であることの「個人の精神性」は相対的に癒えます。 

「人間、興味のあるものしか視界に入れないし認識しない」という書店でのモノローグは、人は見たいものしか見ない認知バイアスに通じる文脈と読めますが、ここでは戸塚彩加材木座義輝との違いがユーモアに描かれている。「認識されたい」戸塚彩加が、戸塚の友達と一緒に居るところを見て、未知の「友達の友達」といった交友関係にショックを受けるシーンのように。恰も自分だけが友達というわけでもないのに友達の占有率を勝手に競うが如く何番目の友達であるか、とランキングをしてしまう傷つきやすい自意識は、友達の存在とは「そんなものではない」のに関わらず、「個人の精神的な話」としての収まりの悪さが描かれています。また、戸塚彩加スクールカーストから如何に自由であるかの一端を垣間見えたとも言えます。テニス部やテニススクールといった教室以外の場所がある。その数はコミュニティとしての居場所の有無に直結します。コミュニティの件は後の海老名姫菜の話に通じていきます。

「認識されなくてもいい」材木座義輝もゲーセン仲間と一緒にいるところを見かけます。 そして「認識したように思えた」雪ノ下雪乃と書店で会いますが、見事に無視されます。三者三様の一方向的な認識のズレと拒絶は、双方向性を立ち上げないまま比企谷八幡の孤独な視点を必要以上に暗くせずにユーモアかつシニカルに語っている。「個人の精神性」としての孤独の在り方が、一人であることの自己肯定に繋がり、逆説的に一人でいることを否定される謂れはないとする「こちら側」のアイデンティティを補強します。孤独との向き合い方・理解への距離感は『こころ』を引用しているように4巻の根底にあると言えるでしょう。

P30 今日も世界は俺が関わらずとも正常に回っている。(…)

かけがえのない存在なんて怖いじゃないか。それを失ってしまったら取り返しがつかないだなんて。失敗することも許されないだなんて。二度と手に入らないだなんて。

だから、俺は今、自分が築いている関係性と呼べないような関係性がわりと好きだ。何かあればたやすく切れて、誰も傷つかない。

 

戸塚彩加たちと双方的に「認識しないまま」すれ違うことで、孤独と関係性を見つめる比企谷八幡ディスコミュニケーションへの信頼が述べられています。関係性がべったりとする前に、「空気を読んだ」上でのリスクヘッジは傷つかないことを目的としています。傷つかないようにすることは関係性の話であるので自分と相手を含んだものでしょうが、たとえ個人ならば傷つき方はコントロールできます。しかし、関係性となると他者という不確定要素が混在することで物事が入り組んでしまう。 

戸塚彩加材木座義輝、雪ノ下雪乃といった彼らとニアミス的に比企谷八幡接触し、それを「認識していても」必要以上にアプローチしていないデタッチメントこそが、ディスコミュニケーションを前提とした関係性への安心感と呼べるでしょう。そんな比企谷八幡の在り方に介入してきたのが由比ヶ浜結衣でした。彼の思惑とは異なったコミュニケーションを基調とした関係性という不確定要素(偶然性)に取り込まれていることを意味しています。本当に孤独であるならば何も起きないし、接触もありません。由比ヶ浜結衣に踏み込まれることもないでしょう。

しかし、由比ヶ浜結衣は自然と踏み込んで来ます。それを受け入れるには準備がいる様は、コミュニケーション不全な比企谷八幡と言えますが、3巻の由比ヶ浜結衣との関係性をリセットしたにも関わらず、雪ノ下雪乃の「加害と被害」のロジックによって別のコンテクストが与えられたことで関係性の始め直しが行われ、妙な整合性と新たな経験への違和感でしょう。

比企谷八幡としてはリセットでゼロベースに終了。それと異なる距離感が発生している由比ヶ浜結衣は未知なるコミュニケーションの可能性とも言えます。雪ノ下雪乃に「被害者としての共通認識」で纏め上げられたことも詭弁と言えば詭弁でしょうし、それを比企谷八幡が丸く飲み込んだとも3巻時点では正確には語られていません。つまり由比ヶ浜結衣は自然に飲み下したとしても、比企谷八幡が同様であるという保証はありません。互いに3巻とは異なったコンテクストによってズレている可能性もあると言えます。それは比企谷八幡の「個人の精神性」の話であって、由比ヶ浜結衣との差異です。彼女には始め直しの意味やロジックも必要ありません。ですから、雪ノ下雪乃が与えたのは「比企谷八幡由比ヶ浜結衣」に対するものでしたが、その意味を噛み砕くと双方向的に同期させるために由比ヶ浜結衣をケアしながら比企谷八幡にロジックを与えたのが正しいと言えるでしょう。そういう動機がなければ動けず、雪ノ下雪乃という客観的視点によって与えられたために、比企谷八幡としてはズレを押し込まれた形です。新たな経験を持ち込んだ関係性の温存として。

ここでは比企谷八幡由比ヶ浜結衣に対して、3巻以前の「まちがい」をしないように努めています。勘違いや期待しないようにして、そうでなければ誤解してすれ違う反復に陥るので意識的に距離を保っています。その苦労はモノローグで語られ、比企谷八幡自身のメタ認知的に誤解に没入しないように警戒がなされています。

しかし、接触があった時点でディスコミュニケーション的関係性ではなく、コミュニケーションを前提とした「青春のエコシステム」には既に乗っかっていると言わざるを得ません。

P40 藍色と茜色とか入り混じる黄昏時。その境目を見極めるにはまだしばらく時間のかかりそうだ。

由比ヶ浜結衣とのやり取りを終えた後、帰路に着く際の風景が語られています。

ディスコミュニケーション的な関係性とは呼べない関係性について、曖昧なニュアンスを醸し出す「黄昏時」との親和性があります。「境目」が見極められないのは、心地よいディスコミュニケーション的関係性が、由比ヶ浜結衣によってコミュニケーションに転倒したことによります。「見極める」には時間が掛かること自体がモラトリアム的でしょうし、その「境目」に自分自身が没入していて「青春のエコシステム」的に内面化してしまっているとも言えるでしょうか。安心感のある曖昧な関係性、名前を付けられないものに耽溺すればするほどにエコシステムに織り込まれていってしまう。

比企谷八幡の一人称で物語が綴られている『俺ガイル』ですが、彼は時には多くを語らないし、語り得ないこともあります。第1章「こうして比企谷八幡の夏休みが過ぎてゆく。」は、特に大きなイベントがあるわけでもありません。それこそ曖昧にニアミス的に接触しただけです。その都度、関係性の再確認をしますが「黄昏時の境目」を断定する術は持ちませんでした。

この帰り道、由比ヶ浜結衣とコミュニケーションを取った後の比企谷八幡の「火照った頭」が夕涼みに当たるシーンがあります。比企谷八幡がどのような感情で由比ヶ浜結衣と接したか。意識的に距離を保っていたとしても、彼の一人称であっても必要以上に顔が見えません。「火照った」という事実は、由比ヶ浜結衣と別れた後に語られたように。

真夏の雑踏での由比ヶ浜結衣との会話。夏の暑さによるものなのか、彼女とのやり取りによるものか。このシーンも「境目が見極めにくい」曖昧なニュアンスだと言えます。

比企谷八幡は「信頼できない語り手」であるために、全てを語り得ることはできないし、時には読者に対しても沈黙している。

しかし、このシーンでは風景が内面の代わりに語るように比企谷八幡というカメラが向けられています。「境目が見極められない黄昏時」の風景と「曖昧な」内面が一致するように「境目」に語らせています。「火照った」という事実と「黄昏時」という風景と内面が語られていない事実による三竦み的な緊張関係が見て取れ、「境目」のように限定させない事実の列挙のみがあります。この緊張関係が曖昧さを担保しています。

「自己変革を拒否した変わらなさ」に拘泥している比企谷八幡ですが、ゆるやかな変化がありました。ニアミスといっても接触機会の増加があり、その対比としての孤独を見つめています。そんな体験からみても孤独であることに寄り添うような自己肯定は、これまでのボッチあるあるやアイロニカルなネタではありません。

比企谷八幡にとって例年通りの普通の夏休みとは、日常化した引きこもりです。遊びに行かず自宅で自己完結。

そんな折に平塚静から連絡が来ます。ボランティア活動という奉仕、部活動は非日常的=イベント的であり、「依頼」がなければ動かないデタッチメントの様が滲み出ています。積極的に関わらない主人公を物語に駆動させるには、「依頼」から受動的なコミットメントへとスライドさせるものであり、もはや孤独的に自己完結できないくらいには関係性に組み込まれて接触していることが分かります。「依頼」を通して、日常と非日常の揺らぎのような「残念」な部活動に「残念」なデタッチメントは崩されていく展開だと言えます。引きこもりの語り手であっても既に巻き込まれてしまっている。「関わりたくない、関われないキャラクターが関わったら」という「境目」への「移動」は、デタッチメント的固有性の揺さぶりとなります。

千葉村で葉山隼人らと合流するシーンがあります。ここでも由比ヶ浜結衣がある種の番となっています。奉仕部と葉山グループの間を取り持つように中間的な存在として位置している。 

比企谷八幡雪ノ下雪乃が別のコミュニティと接触するのは2巻以来となります。その際には、チェーンメールを巡るスクールカースト上位の葉山隼人たちの問題点の確認でしたが、後に由比ヶ浜とのすれ違い、3巻に物語の比重が置かれていったので、具体的なスクールカースト上位との接触は4巻となります。

「依頼」から非日常的なイベント。別のコミュニティ。完全にデタッチメントであることを保てない状況と言えます。そうした状況について平塚静は無視するわけでもなく、対立するわけでもなく、上手くやり過ごすことが社会に適応することであると説き、「上手くやる」ことを促します。適応できない、変わらないことに自覚がある比企谷八幡には「上手くやれな」ければ、そんな経験もありません。経験的にロジックを構築して納得する筋道を探してきたのが彼だとするならば、この非日常的な状況からデタッチメントから「移動」して「上手くやらざるを得ない」ために新たな経験によるコンテクストを立ち上げるしかありません。

P79 畢竟、人とうまくやるという行為は、自分を騙し、相手を騙し、相手も騙されることを承諾し、自分も相手に騙されることを承認する、その循環連鎖でしかないのだ。

なんてことはない。結局それは彼ら彼女らが学校で学び、実践しているものと同じ。

組織や集団に属するうえで必要な技能であり、大人と学生を分けるのはスケールの違いでしかない。

なら、結局それは虚偽と猜疑と欺瞞でしかない。

 

 

P217 リア充リア充としての行動を求められ、ぼっちはぼっちであることを義務づけられ、オタクはオタクらしく振る舞うことを強要される。カーストが高い者が下に理解を示すことは寛大さや教養の深さとして認められるが、その逆は許されない。

それが子供の王国の、腐りきったルールだ。実にくだらない。

世界は変わらないが、自分は変えられる。なんてのは、結局そのくそったれのゴミみたいな冷淡で残酷な世界に順応して適応して負けを認めて隷属する行為だ。

 

引用した二つは文脈が異なりますが、比企谷八幡の潔癖性が如実に表れているという点では共通しています。

前者と後者にも共通していますが、比企谷八幡曰く「上手くやる」ことの無難さとは偽りのコミュニケーションに隷属したものだと整理しています。その状況は「コミュニケーションを守るためのコミュニケーションの身振り」そのものであり、キャラ化やスクールカーストに倣った安全な欺瞞的距離感への奴隷だとも言えます。付き纏う偽りの安全圏が示す距離感はビジネスライク的であり、「上手くやる」ことは自分を騙して誤魔化す類いであると潔癖的拒絶をしています。

そんな比企谷八幡の潔癖的一貫性(アイデンティティ)にある、ありのままの孤独は裏返しとしての「コミュニケーションのためのコミュニケーション」の否定であり、欺瞞を日常化することへのカウンターとして機能している。

一方で葉山隼人は「上手くやる」のお手本です。比企谷八幡との明快なコントラストがあります。

しかし「上手くやる」ことが常に「上手く」いくわけでもありません。「まちがって」しまうこともあります。押し出されるように比企谷八幡的な文脈が前景化した形となり、それは「上手くやれない」ケースを「上手くやろう」として「まちがえる」ことを意味します。もちろん葉山隼人性善説的な調整力、上手さが「上手くない」ことになるときもあります。この葉山隼人性善説は、夏目漱石『こころ』との対比としてあります。『こころ』は性悪説に立脚していると江藤淳は記していますが、詳細は後述します。まずは話を進めましょう。

「上手くやる」ようにして集団に適応する。比企谷八幡雪ノ下雪乃が「上手くやる」ことを求められながら、同時に「上手くやれて」いない鶴見留美の孤立が描かれています。集団から一方的に除かれているシーンは孤独とは異なった「孤立」の状態。

友達がいて学ぶこともあれば、友達がいないからこそ学ぶこともあると比企谷八幡は孤独という選択的状態を肯定しますが、「孤立」は強制的に目立つことで浮いてしまう。「孤立」とは異なりますが、偏に孤独の両義性があります。孤独であることが悪い意味で浮いてしまう、といったネガティブとしての可視化が鶴見留美を通して描かれています。

これまでの比企谷八幡のボッチ語りは、あくまでもアイロニカルにポジティブなものでした。それは経験則から導かれた処方箋であり、同じ孤独でも強制的・差別的な鶴見留美とは違います。選択的な孤独を自己肯定に繋げているのが比企谷八幡であるならば、鶴見留美はアイロニカルに包み込むことで現状を追認している受動的な強制的選択でしかありません。この差異はとてつもなく大きい。

「空気」による圧力は集団から排除として表れ、作中ではスクールカーストが完全に可視化されていないとする小学生ですら、グループ内部で差異を作り、「鶴見留美とそれ以外」と差別的な構図を引いています。スクールカースト上位と下位とは異なった文脈の「空気」から外れている状態は、孤立した鶴見留美の現状を「異物感」として描いています。「中間」を描かない『俺ガイル』にとって、「鶴見留美とそれ以外」は「比企谷八幡葉山隼人」といったような二項対立的に図式に持ち込みやすいですが、「孤独か孤立か」の差異は差別的な異物として作用している。浮いている状態を強いられているのは集団からの悪目立ちであり、「空気」から一度外れることは集団として画一化、平均化できていないことによる弊害となります。このような「平均化」の作用は冒頭の累進課税制度に託けたリア充批判を連想させますし、「平均化という空気」の同調圧力の惨たらしさを「孤立という状態」を通して再帰的に扱っていると言えるでしょう。

果たして「空気」に飼い慣らされることが良いのでしょうか。また、孤独であることが悪いことなのでしょうか。もちろん孤独であることは悪いものではありません。

しかし「孤立」は異なります。半ば強制的に「空気」に晒され、均質化していないことで浮いてしまう排除の論理はマジョリティに都合のいいものに過ぎません。そこから外された者には弱者としてレッテルを貼られ、声を挙げる機会すら奪われますが、4巻では差別的に強いられている鶴見留美だけにスポットが当たり、逆説的に声を挙げられるように固有名を与えられています。他方でマジョリティである「それ以外の彼女たち」は「空気」と一体化しているために固有名はさほど重要なものとして扱われていません。その固有名の不要さが「空気」の持つ匿名的な平均化の力学だと言えます。

そして、そんな差別的な構図を引かれてしまっている鶴見留美を見やるのは、「空気」から外れて確かな「個人の精神性」を出発点としている比企谷八幡雪ノ下雪乃です。ある意味では「空気」へのカウンターというポジショニングは、鶴見留美的な差別的文脈とは異なった対立的な文脈としての二項対立ありき(「性善説性悪説」、「葉山隼人比企谷八幡」のように)の語りと言えるでしょう。

「空気」に寄りかかった者とは異なり、確信的な意味で反発することで「平均や普通」を揺さぶることは、そこからはみ出ているポジショニングならではの所作です。だからこそ比企谷八幡の「孤独の主張」は「空気」や画一化が進めば進むほどに反発的な物語におけるカウンター的・力学的作用は大きくなります。その特異性は認めていても、やはり前述のように二項対立という前提に支えられたエコシステム的な調停に映ってしまうのも事実です。その分裂が大きく反発して拡大化しては、比企谷八幡葉山隼人の裂け目がコントラストのように表れても、システム的には混在することで調整が図られている作用があるでしょう。そのシステム的な流れに取り込まれて飼い慣らされることが社会に適応することであり、「上手くやる」ことだとしても。その結果、「上手くやれた」としても比企谷八幡が拒絶した欺瞞とどのように異なるのでしょうか。そこに違和感を差し込んでいくのが『俺ガイル』のある種のモラトリアム的応答とも言えます。

「上手くやる」ために別のコミュニティと接触することで、案外他人に見られている比企谷八幡という構図があります。別のコミュニティである葉山隼人たちも自然に距離を分け隔てもなく接することで、対照的にその身振りや距離の詰め方を意識してしまう比企谷八幡の自意識とコミュニケーションを守るために繋げることのできない不全性があります。そして、同時に自分のことはよく見えていません。他者が自分を認識しているという事実と自分が必要以上に認識されていないとする自意識過剰さは自身の存在感や意識を抑制していても、コミュニティが混ざった一つのグループという塊なので、目の届く範囲が集合的に集中した形で限定されるために自然と意識が行き届いてしまう結果です。 

その延長にあるのは「上手くやる」ために葉山隼人は違和感に気付き、だからこそ自然と鶴見留美に話しかけます。彼女の「孤立」は目が届く範囲であり、「上手くやれていない」ならば「上手くやる」ために手を差し出す対象として気にかかる。

しかし、作中では「上手くやる」ための距離感が悪手でした。寧ろ「孤立」していることの特殊性を引き立ててしまい、単独的に自己完結しているならばまだしも特殊性を引き受けざるを得ない状況が晒され、悪目立ちが加速してしまう。葉山隼人の自然な優しさや気遣いですら同情的に映ってしまう。このような言葉と行為と態度がすれ違ってしまう伝達不可能性は、3巻の比企谷八幡由比ヶ浜結衣の件を想起させます。善意がそのまま正確に受け取られるとは限らない。意識と距離のズレは存在し、それを調整するために「上手くやる」にしても「上手くいかない」。特殊性を際立たせる「孤立」が生み出す差異は、身体的・精神的な距離を劣等感に変換させながら、他者との距離を不透明にさせてしまう。その結果、「上手くやる」にも方法が必要となります。孤独には孤独への寄り添い方があるように。

鶴見留美比企谷八幡雪ノ下雪乃に名前を訊くシーンは「みんな」とは違うことを認識したためです。「空気」から外れている者への同属的な安心感があったからでしょう。互いに距離がズレたもの同士といった相互認識は「みんな」をあちらに置いて、「こちら」で特殊性を引き受けた内輪を作る。「あちら」と「こちら」は、「みんな」と「孤独」の二項対立であり、そのまま葉山隼人比企谷八幡の距離としてコミュニティが混在するからこそ逆説的に可視化されています。 

鶴見留美の「孤立」は同調圧力による無視が原因でした。「調子に乗っているから」といった「気分」に左右される立ち位置。「みんな」が形成する「空気」には誰も逆らえず、匿名的なマジョリティという側を持つことで誰しもが無自覚な暴力性に加担してしまう。「みんな」から外れる事実は屈辱的であり、劣等感として表れます。『こころ』にもありましたが、「普通の人」がインスタント(いざと言う間際)に悪になってしまう。意識的に手軽な正義を振りかざしたつもりで、無意識的な暴力性を担ってしまう。その排除の論理が「正義と悪」を容易に反転させます。まさに「いざと言う間際に」都合のいい正義の解釈と行使には、常に「正しさ」を引きつけている安心感があります。

しかし、厳密には加害と被害は分けられない円環的で流動的なものです。二分法ではありません。それこそシステム的に取り込まれており、その立ち位置さえも「空気」のように移り変わる。だからこそ「空気」を読んで安心できるマジョリティの空間を作ることで、常に「正しい側」に付くことが処世術であるとする身振りは、都合よく流動的に態度と行為を反転させます。「空気」や同調圧力から後発的にロジックを構築し、反転した通りに倣うある種の純粋さがありますが、その「こちら側」の「正しさ」の価値は党派的なものでしかありません。前述のように「加害と被害」は円環的であり、まさにシステム的に「正しさ」は流動的であっても、常に「正しい側」に付くように反転しても付随する身振りの速さこそが倫理的とは異なった意味での「気分」であり、転々とする「空気」のように軽い都合の良いものです。その意味では「正しさの側」に身を置くことは解釈次第であり、連鎖的な「空気の入れ替わり」が党派性を持つことで窮迫的に拡大化していく。その連鎖は内部で「内々部と外部」を流動的に立ち位置を確保しながら、「空気が読める/読めない」の仕分けを縮小再生産していく運動性とも言えます。

物語は鶴見留美の問題をどうするかに焦点が絞られていきます。

自発的に「孤立」している、つまり孤独を選択しているのではなく、悪意や環境によって「孤立」させられていることが問題だとする比企谷八幡からすれば、孤独であることは否定されるものではないとする信念は彼のアイデンティティであり、選択した状況であるかが重要となります。

しかし、鶴見留美は環境によって「孤立」を強いられていることが問題となっています。彼女を取り巻く問題に対して、一見優しく振る舞うことは同情に映り、偽善的で欺瞞に思えてしまうのが比企谷八幡です。このような潔癖性とある種の卑小さの抱き合わせが働いてしまう倫理観は、吉本隆明夏目漱石の「倫理感」と称したものに接近していると言えます。

また、2巻、3巻の由比ヶ浜結衣とのすれ違いに近く、距離の不透明性と伝達不可能性を思わせます。力なき優しさは行為の曖昧さとなり、責任を取ることもありません。安全圏を確保した距離感で憐れむことで自分たちも同期的に悲しいと連帯する。当然、距離の問題があるので同期的であるかは疑問符が付きます。ここで問われているのは距離の問題であり、つまり当事者性の問題となります。もちろん当事者だけでは限度がありますが、ただ外野から「責任なき優しさ」は無責任でしかなく、欺瞞なのではないかという疑いは避けられません。この懐疑的な眼差しを介さずに「都合の良さ」だけを主張するのは、虚偽的な「青春フィルター」への嫌悪感を述べた1巻冒頭の反復的な文脈となっています。「青春」における偽善的な免罪符を撥ねつけるからこそ比企谷八幡の立ち位置が逆説的に担保され、拒絶することで「まちがっている」ことへの提起となり得る。 

ここで海老名姫菜が鶴見留美の問題に対して、趣味のコミュニティを作れば解消される提案します。つまり別のコミュニティを作ることで、現状の居場所を巡る問題から居場所の数を増やしてズラす。現状の「空気」に対抗するためには別の居場所を作ればいい。「みんな」とは違う「みんな」を求めることは出来ます。「学校と家」しかない学生時代の世界観から、他にも回路があることで「呼吸ができる場所」を確保すればいいというものでした。実際、SNSなどのインターネットもあるから「つながる」こと自体は現実的でありますし、それが実際「世界」となるかどうかはまた別の話になるですが、ここでは具体的な検討に入らず、海老名姫菜の腐女子ネタで物語上頓挫します。たとえ打ち切られていなかったとしても、鶴見留美に趣味コミュニティのススメを持ちかけることは出来ますが、物語的にはそれ以上の目に見える直接的な働きかけはできないでしょう。あくまでも鶴見留美次第です。 

 

 

例えば、石川善樹・吉田尚記『どうすれば幸せになれるか科学的に考えてみた』では、石川善樹が「欲望が変わると、コミュニティも変わる」という趣旨を語っていましたが、複数の欲望を持つことは、コミュニティの数として表れ、3つ以上だと長生きになるという話があります。

「学校と家」以外にコミュニティを持つことは不自然なことではありませんし、作中でいえば戸塚彩加にはテニススクールが、材木座義輝にはゲームセンターが該当するでしょう。ですから、鶴見留美が他で「つながる」可能性自体は否定されるものはありません。しかし、ここで物語的に重要なのは外部的な距離を持つ者がどのように働きかけるか、同情的かつ欺瞞的ではないコミットメントができるかという話になるので、その可能性は横に置かざるを得ません。

「みんな仲良くしよう」という性善説的な葉山隼人のアプローチを否定する比企谷八幡の対立構造があります。「みんな仲良く」という理想が現実を歪めてしまっていることを指摘します。実際は「みんな」とは仲良くできないし、「みんな」から外れることで劣等感を抱いてしまう。鶴見留美のように。そのコンプレックスを労わる行為は一面的には同情であり、偽善に捉えられる。「みんな」によって追いやられているのにも関わらず、「みんな」に組み込まれないために「仲良くできない自分」は惨めであると。無自覚的な「みんな」という暴力性が「みんな」という無意識的集合に見られます。性善説的である葉山隼人は 「みんな」の可能性を疑いません。「みんな仲良く」は理想でしかなく、それは「理想と現実」であって、実際に「みんな」から外れ、選択したわけでもないのに孤立を強いられてしまっている。「みんな」という実体のない気分に左右されることは、無邪気にスケープゴートを立ち上げることで「みんな」を維持しようとする共同体の一面が描かれています。「みんな」に入れていない鶴見留美の視点を用いて、孤立側から見やることで「みんな」という共同体の無邪気な楽観性を炙り出すような比企谷八幡の言及は、理想的な葉山隼人を否定することで、現実的に「こちら側」が「正しい」とする構図を引き寄せるものです。

しかし、比企谷八幡が常に「正しい」わけでもなければ、「まちがって」いない保証はありません。それは「信頼できない語り手」であると同時に「まちがい」たくないのに「まちがって」しまう。超越的な視点を持てず、やり直しがきかない一回性のルールに囚われざるを得ないためです。それでも3巻ではすれ違いから「まちがって」いても始め直すことが出来る、といった新たな経験を獲得したわけですが、その意味では『俺ガイル』は「コミュニケーションに失敗」して「まちがって」歪んでしまった後、転倒した距離感の調整と修正は出来るのかどうか、といった物語とも言えます。

話を戻しますと、比企谷八幡は「みんな」が持つ暴力性を糾弾することでポジショニングしています。葉山隼人とは対照的な位置取りをしてみせながら、「みんな」に対する性悪説的な意見が覗かせます。それは『こころ』が荀子性悪説を意識したものであるために、この対立軸は必然的なものだと言えるでしょう。

同情的な安全圏からではなく、「加害と被害」が明確に分けられない円環的に組み込まれる距離感を通じた自覚的なアプローチでしか偽善からは離れることが出来ません。それ以外は欺瞞であると撥ね付けることで、倫理的な潔癖性は固定化していても、「正しさ」自体が付随するかのように固定化するかどうかは別の話です。「青春フィルター」がそうであったように、このような潔癖的フィルターからみても「理想と現実」を参照して「理想的から逆算して現実的に正しい」と思い込んでしまう。やはり理想は理想でしかなく、圧倒的な現実に抑圧された形で擦り切れたものとなります。

 

赤めだか (扶桑社BOOKS文庫)

赤めだか (扶桑社BOOKS文庫)

 

立川談春『赤めだか』で、立川談志が「現実は正解なんだ」という言葉を遺していますが、どのように残酷的に抑圧されていても、ある種の「現実の正しさ」は常に前景化していると解釈できます。だからこそ捻じ曲げられない様に「まちがえない」ようにするわけですが、鶴見留美を通して過去に囚われ、罪悪感を抱いている葉山隼人由比ヶ浜結衣といったスクールカースト上位の後悔が暗に示されています。彼らが明快に口にしたわけではありませんが、同様に「みんな」ではなかった側の雪ノ下雪乃が敏感に嗅ぎ取っています。

P176 それゆえに、知っているのだ。罪悪感という感情を。由比ヶ浜の優しさは慈母のそれではない。醜くて辛くて逃げ出したくなるようなおぞましい人の性根の存在を自覚しているからこそ生まれている。それでもなお目を逸らさずに手を伸ばす強い優しさだ。

「みんな」という排他的な同調圧力が持つ暴力性に少なくとも自覚的であったように思えます。「上手くやる」ことが求められる中で、「上手くやれなかった」=「まちがった」ことへの罪悪感は、その意味ではスクールカースト関係なく持たざるを得ないものかもしれません。「孤立」を生み出した「みんな」側の一部が、少なからず無邪気な暴力性の過去を背負っている。

由比ヶ浜結衣が目を背けずに同情的ではなく、欺瞞的ではないとする意思を「強い優しさ」と比企谷八幡は表現します。「空気」の加害性に自覚的であるかどうか。由比ヶ浜結衣と三浦優美子たちとはまた異なるでしょう。ネガティブ・フィードバックからの意思の志向性という点において、表層的な優しさではありません。ここで問われている「強い優しさ」は、決して同情や憐れみではない。過去の負い目から逃げない所を起点とした優しさであり、表面的であるか潜在的であるかと分けることが出来るでしょう。かといって、その意思が相手に正しく受け取られるかどうかは別の話です。3巻のすれ違いは「優しさ」の文脈とは違えど、コミュニケーションに失敗してズレていってしまう伝達不可能性の距離感を戯画的に露わにしたと言えますが。

第6章で比企谷八幡は水着を一人だけ持ってきていません。ラブコメ的でありながら、ここでも孤独的であります。外れた所から一人だけの視点で語られるカメラの位置を担うことで、状況整理のために俯瞰で見るような構図となっています。「夏休みぽい」ことをしているのに一人だけ没入しきっていない。完全に「青春」を内面化しないポジショニングです。たとえ相手から誘われたら、条件反射的にテキトーに曖昧に返してしまうのは期待してしまうから。認知バイアスによって正しく歪み、勘違いしてしまうためですが、裏切られた時のリスクヘッジを図っているとも言えます。3巻のように。テキトーな曖昧さで担保する自己保身は、厳密なノリが合う/合わないといった「空気が読めていない」というスティグマから逃れるために、一応「空気を読んでいる」つもりであっても確証が得られない不安を遠ざけるものです。自分は「異物」ではないかと自己認識することで、ある一定のコミットメントから差し引いたリスクを緩和するためのテキトーな曖昧さであり、だからこそ受動態がベターになってしまう。

鶴見留美のデジカメも受動的な産物と言えます。思い出や友達との写真を撮影するメディアですが、「親―デジカメ―鶴見」「鶴見―デジカメ―友達」の二重の番となっているように、デジカメは関係性とコミットメントの象徴となっています。

しかし、鶴見留美のデジカメは撮るべきものがありません。思い出を撮るということは、関係性を表象することとなりますが、撮るべき関係性がない。二重の番として機能しているデジカメは、コミュニケーション(関係性)を表象するものでありながら、ここでは一方向的に切断されているディスコミュニケーション(孤立)が暴かれています。

デジカメを向ける先は、鶴見留美の目線そのものであり、フレームです。そのデジカメは無効化されている状況で、撮るべき対象を持たない。他方で、彼女に注がれるネガティブな目線は「みんな」によるものです。その「孤立」は「みんな」から見られることで成立してしまう。

本来、カメラは対象や関係性を写すものです。つまり、主体的に見るものであるのに、「みんな」から見られる対象として鶴見留美の「孤立」が描かれている。その印象はネガティブな意味を強調させます。デジカメはそんな手持無沙汰なコミュニケーション(関係性)の転倒の比喩にも受け取れる。二重の番がある種の呪いとして読めるように。

ここで、比企谷八幡は問います。自分を変えるか、世界を変えるか。自意識の問題とも置き換えられますが、実際は関係性や環境を変えるべきでしょう。鶴見留美の諦めは状況の「変わらなさ」に起因するものです。

例えば、私たちは「生の現実」というそのままのメタデータを完全に認識できません。バイアスが掛かり、フィルターバブルのように見たい欲求に従って見てしまう。現実という膨大なメタデータを認識することはできませんが、表象・記号的に落とし込むことで、はじめて「現実を知った」という錯覚を持つことが出来ます。つまり、「ありのままの姿」といったものは複合的な表象でしか認識することが出来ません。ペルソナやキャラはその意味では規範意識の集合であり、他者を通じた(ディスコミュニケーションも含む)関係性の表象とも言えます。その関係性というのは、「空気」やキャラに見合った行動や態度を現実的に要請されてしまうことで成立することが出来る。その意味ではキャラや「空気」に隷属する態度と重なりますが、それは自己欺瞞であると比企谷八幡は否定します。キャラであり、「空気」を読んでいるからといったエクスキューズに収斂されるノリに自分を誤魔化しているに過ぎないと。他者との関係性によって炙り出されるものであり、本質的には「自分が無い」ように見える結果は、自分が合わせたくないものさえも「空気」に要請され、集約される息苦しさと許容してしまうこと自体の嘘は「ありのまま」を偽るような錯覚の産物ですが、それすらもコミュニケーションに組み込まれています。「空気」が先にあり、「個人の精神性」は抑圧される。そういったロジックが導くのは、キャラによる誤魔化しは欺瞞でしかないとする「個人の精神性」=比企谷八幡的潔癖ですが、「空気」から外れることで孤独的ありながら「個人」を重んじる比企谷八幡のキャラクター性も二項対立的であると指摘することは可能でしょう。「公」や「空気」への倫理的な反動があって構図は成立し、欺瞞自体に対する潔癖が先行しているのが比企谷八幡のロジックです。「あちら」に偽りがあるとして、「こちら」に正しさを引き寄せる構図は一面的な見方ですが、実際は互いに正しさを手繰り寄せている反復的構造が「どちら側」からもなされているように考えられます。「空気」か「個人」かに要請されているかの差異であり、その結果「空気」を読む/読まない、コミュニケーション/ディスコミュニケーション自体も二項対立ありきで支えられているように列挙されています。ここでは二項対立の提示だけに留めておきますが、厳密には、鶴見留美の問題はデジカメのように関係性に集約されるものです。内部における政治性があり、「誰それと仲が良く、誰々と仲が悪い」といった関係性の距離の明示です。暗黙的了解が「空気」に馴染んでいるのであれば、その関係性を反転させて暴露すればいいとする比企谷八幡の提案は性悪説的な「解決ではない解消方法」です。

問題点が「空気」による関係性の温床とするならば、「ありのまま」の関係性を暴くことが目的とする提案は、「関係性の解消=問題の解消」とする。他方で葉山隼人性善説的ですから、その提案は「解決ではない」と主張することで対立軸とズレが鮮明となります。

「みんな」と共に関係性の再団結をするのが葉山隼人の意見であるならば、「みんな」との関係性自体を解体することで「みんな」という環境自体が問題だとする比企谷八幡の構図は、孤独と「みんな」への理解があるかどうかに回収されていきます。「みんな」を信じたい葉山隼人と決して「みんな」ではなくてもいいのではないかとする比企谷八幡のポジショニングは、「みんな」との距離感を暴き立てる図式となっています。半ば強制的な「孤立」は良くないとする共通の問題意識があっても、「みんな」を性善説的に見るか、性悪説的に見てしまうかに分けられている。繰り返しますが、比企谷八幡にとって「みんな」や「空気」に隷属して、キャラ化に集約することは自己欺瞞の類いと見なしています。「みんな仲良く」は孤独であることへの無理解であり、安全圏からの同情や憐れみに映る。葉山隼人の楽観性は現実を見ていないとするのが比企谷八幡ですが、この二人では見ている理想が異なるためにズレていると言えます。

比企谷八幡が提案した関係性の破壊は、彼自身も間違っていると自覚しています。

しかし関係性が問題の温床となっているならば、それ自体を解消することも悪くないとすることは、環境的な問題を自意識で解決できるものでもないことを示唆しています。それは「まちがって」いないとする消去法的にコミットメントする方法は「まちがい」の自覚がありながらも、選択できるコミットメントの限定であり、外部的な存在が内部へアプローチできるかどうかの距離感による限定でした。外部の存在が内部の集団にコミットできるかどうか。

素直な好意が余計なお世話に転換してしまうことは3巻のすれ違いにもありましたが、時と場合に左右され、状況と状態を理解せずに差し伸べる手は必然的に空回ってしまう。その意思を持つ者と受け手が性善説に置くのか、性悪説に取るのかは差異と齟齬として表れます。

P261 〝みんな〟が言うから〝みんな〟がそうするから、そうしないと〝みんな〟の中に入れてもらえないから。

でも、〝みんな〟なんて奴はいない。喋りもしなければ殴りもしない。怒りも笑いもしない。

集団の魔力が作り出した幻想だ。気づかないうちに生み出していた魔物だ。個人のちっぽけな悪意を隠すために創造された亡霊だ。仲間外れを食い殺して仲間にすら呪いを振りまく妖怪変化だ。

かつて彼も、彼女もその被害者だった。

だから俺は憎むのだ。

〝みんな〟であることを強要する世界を。

誰かの犠牲の上で成り立つ下劣な平穏を。

優しさや正義さえ塗りつぶし、悪辣なものに仕立て上げ、時を経てなお棘を残す、欺瞞でしかない空虚な概念を。

 

ここで語られているのは「みんな」や「空気」の同調圧力のグロテスクさに尽きます。「みんな」から外れる恐怖は「つながれない」ことへの不安を増長させます。その不安を安心や「平穏」に転換させるように結託するのが「みんな」という匿名的共同体です。

そこで「みんな」という「空気」を崩すことで、「平穏」の下で罷り通っていた排除の論理が反転します。犠牲の上で成り立つ「みんな」を共通的に犠牲の祭壇に上げることで、「みんな」という共同幻想が等しく浮かび上がっていくように。

恰も「みんな」に従順にならざるを得ない暴力性とその可視化を指摘することで、気分のように移り変わる「平穏なみんな」を解体しました。だから、ここでは固有名が並べられています。これまでは鶴見留美以外は名前を出す機会はなく、「みんな」と一体化しているためにその必要性もありませんでした。まるで生け贄送りのように固有名が捧げられている様は、それに応じた内々部でのヒエラルキーの再構成であり、厳密には「みんな」を崩すことで「鶴見留美とそれ以外(内部)」といった単なる二項対立ではなく、縮小的に「鶴見留美と内部から、内々部的」に破壊されていきました。鶴見留美を吊し上げていたことで成り立っていた「平穏な関係性」の前提にある「空気」を破壊することで、葉山隼人的な性善説が期待していた「鶴見留美とそれ以外」の協調精神を裏切るようにグロテスクに反転させ、前提にある「みんな」の内実を暴き立てたと言えるでしょう。その生々しさは性悪説的なひっくり返しであり、コミュニケーションの切断からディスコミュニケーション的倒錯した関係性の暴露でした。

しかし、鶴見留美がデジカメを使って窮地を救うシーンがあります。彼女が暴かれた「みんな」の正体という歪なものに手を差し出したと言えます。空虚で偽物だと知りながらも、手を伸ばす意思は本物と呼べるでしょう。

前述しましたが、デジカメは関係性の象徴です。鶴見留美にはデジカメを撮る対象や関係性は存在しませんでしたが、同様に「みんな」から外れてしまった彼女たちを守るためにデジカメは使われました。思い出を記録するものとしてではなく、外部に追いやられていた鶴見留美が回避行動としてデジカメを用いたことは、辛うじてある希薄なつながりを守ろうとする意思であり、環境的関係性への抵抗だと言えます。

P265 「――鋳型に入れたような悪人は世の中にあるはずがありませんよ。平生はみんな善人なんです。少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざと言う間際に、急に悪人に変るんだから恐ろしいのです。だから油断ができないんです」(…)

「ああ。漱石はそう書いてたけど、逆説的に言やぁ、鋳型に入れたような善人もいないし、いざという間際に、急に善人に変るようなことだってあるんだろうな。たぶん」

 

鶴見留美の行動を受けて、比企谷八幡は読書感想文にあった『こころ』の解釈を新たに展開します。葉山隼人性善説的であり、『こころ』は性悪説的でしたが、その「鋳型」的な調停をどのように図るのか。その鍵が「いざと言う間際」の鶴見留美の行動による意思と関係性の反転にあったことは明らかです。撮るべき対象が無かったデジカメは特別な思い出に使われたわけでもなく、ただフラッシュを焚いたことで彼女たちを守りながら、「みんな」という空虚さに通じる闇を記録したとも言えるでしょうが、その意思は「いざという間際」の行動として「みんな」のように画一的ではない解釈の余地があります。 

江藤淳は『こころ』について、孟子とは異なった荀子性悪説を唱えていることを指摘しています。

 

漱石論集

漱石論集

  • 作者:江藤 淳
  • メディア: ハードカバー
 

 

この小説が『荀子』的な人間観に立脚していることを、作者自身が十二分に自覚していたことを意味するのではないだろうか。

ここまでの性善説性悪説の対立軸は、葉山隼人比企谷八幡にも表れていますが、『こころ』という作品自体が江藤淳によれば「荀子的」であると言います。

比企谷八幡が引用した『こころ』の「鋳方」の件は確かに「荀子的」であり、そのように解釈を引き受けるのがベターのように思えます。

荀子の言葉そのものといってもよいほどである。「人の性は悪、其の善なるものは偽なり」。世の中には、「悪い人間」という特殊なカテゴリーが存在するわけではない。人間はみな「悪」いのだ。「平生」善人のように見えるのは、「偽」の、つまり見せかけの姿を示しているにすぎず、きっかけさえあれば誰でも「悪」の本性を露呈するのだ。

ところが『俺ガイル』では「荀子的」な展開にも留保を付けるかのように、鶴見留美の「他者からは見えにくい意思と行動」が語られています。まさしく「鋳型」を拒否するかのように。

話を戻せば、比企谷八幡曰く『こころ』は人間不信の物語でしたし、一片の救いもないハッピーエンドの否定形でした。

また、葉山隼人比企谷八幡の対立は、性善説性悪説に代表できますが、さらに言えば「理想と現実」の図式だったと整理できます。先ほど現実が理想を擦り切らした形で前景化していると記しました。このケースでは葉山隼人的ロマンが、比企谷八幡の独白による孤独への無理解といったリアリスティックに抑圧されていく描写があり、「みんな」による理想を押し下げたグロテスクな現実的なシーンという形に集約されましたが、しかし鶴見留美は完全に「荀子的」や「現実」に乗っかったわけではありませんでした。葉山隼人が抱いたような「理想」でもなく、比企谷八幡が想定していた「現実」でもなく、別の「理想と現実」を立ち上げたと言えます。その文脈には明快な「理想と現実」を宙吊りにするような態度が反映されており、『こころ』にあるような「鋳型」や「荀子的」に振り切られないようにするための「理想と現実」に対する程度問題としての提示が無意識的にあったと言えるのではないでしょうか。それこそ「みんな」のように単純ではないとする粘りのような文脈です。

このような単純に分けられない程度としての「理想と現実」をどのように解釈すればいいのか。福田恆存『私の幸福論』のあとがきを引用します。

 

理想とは、それに現実を一致させるためにあるのではなく、それを支点として現実が回転し活動するためにあるのです。また、消極的にいえば、理想とは、現実が混乱しないための枠であり、ものさしであります。

私の幸福論 (ちくま文庫)

私の幸福論 (ちくま文庫)

  • 作者:福田 恒存
  • 発売日: 1998/09/01
  • メディア: 文庫
 

 

福田恆存が記したように「理想と現実を一致させる」ものではなく、「理想」を起点として「現実」を駆動させるものだとするならば、例えば性善説性悪説も完全に分けられないとする円環的な態度は、まさに鶴見留美の行動の反映と言えるでしょう。葉山隼人も、比企谷八幡も互いに「一致しない」ことで対立し、その前提には「一致させる」ことの宿命があり、その態度は前提への懐疑がありませんでした。

鶴見留美の行動の結果は「一致させるもの」としての前提を捉え、「荀子的」でもない「孟子的」とも言えない宙吊りした別の「現実」を「回転」させたところにあります。この鶴見留美の留保的回転によって、本来ならば交わらなかったであろう葉山隼人比企谷八幡を正しく認識し、同時に比企谷八幡葉山隼人を認識しました。「あちら」としての葉山隼人性善説)と「こちら」の比企谷八幡性悪説)の交差は、どちらにも視線が双方的・同期的に向けられている。

鶴見留美の行動が『こころ』に宿る「荀子的」なものを留保したように、スクールカーストや「空気」が解体したように眼差しを配することで揺らぎを炙り出しています。「コミュニケーションに失敗」してしまう比企谷八幡を主人公に据えることは上下の境を壊した後で、通底にある「断続的なディスコミュニケーション」の観点から眺めるものです。

そんな比企谷八幡のやり方(性悪説)を認められないということで彼を認識した葉山隼人もまた優しい、理想だけではないことを匂わせています。スクールカースト上位も「キャラや空気」に飼い慣らされた画一的ではない。固有名としての個別的に具体的な存在であり、記号的ではないとする強い意思が垣間見えます。それ自体への無理解は「下から眺める他なかった」比企谷八幡も認識出来ていないことでした。従来ならば「彼岸」として追いやることで、「此岸」の「正しさ」を引き寄せる二項対立的に支えているロジックが構築されていましたが、「彼岸」が個別的に解体していく過程で具体化する。

互いの「分からなさ」、そして「分かりあえなさ」の共有は協調を働きかけても、根源的に共有できない「個人性」と言えます。同じ「みんな」、「空気」にあってもどこかしらズレていっている。例えば由比ヶ浜結衣葉山隼人のように差異として表れ、個別的に解体されていく。

 

新版 漱石論集成 (岩波現代文庫)

新版 漱石論集成 (岩波現代文庫)

  • 作者:柄谷 行人
  • 発売日: 2017/11/17
  • メディア: 文庫
 

 

『こころ』というタイトルは皮肉なものでして、これはけっして「心」の中を覗こうとしているのではないのです。いや、覗いたとしてもそこに何もないということ、われわれが何かをやってしまうのは「心」からではなくて、他者との関係によってである、ということがいわれているのです。したがって、そこにはどう考えても埋まらない空虚があります。 「漱石の多様性」

柄谷行人は意識や欲望が他者を媒介した結果から生じる「遅れ」のアプローチから「歴史」を問い直していますが、ここで重要なのは「他者との関係によって生じる空虚さ」です。例えば「先生とK」の関係性について、赤木昭夫石原千秋は「嫉妬」を指摘していますが、「自分の『嫉妬』が自分自身に理解できていないかもしれない」という「嫉妬を手掛かりにしか理解できない」とする他者との関係性にある暗い断絶は、柄谷行人が言及した「埋まらない空虚」でもありますし、葉山隼人比企谷八幡に対して過去を参照しながら認識して、なおそれを認めることはできない「埋まらなさ」に相似していると言えます。

その「空虚さ」は、他者との関係性によって再確認されることを要請するかのように突き付けます。

果たして比企谷八幡の行為は「分かって」貰えるかどうかという点に着目すれば、鶴見留美比企谷八幡を無視する「関係性の空虚な形」として決着します。鶴見留美を取り巻く関係性を解体してみせたことは、お世辞にも褒められた形ではなく、親切と暴力は両立するという「加害と被害の円環」でもありました。それが現時点で正しいかどうかは決められませんし、他者との関係性を破壊することで個人的な空白の林立が生じたと言えます。

しかし、雪ノ下雪乃はそんな比企谷八幡に対して、鶴見留美葉山隼人とは異なった視線を向けます。自身の過去が念頭にありながら「誰からも褒められなくても、一つくらい、いいことがあっても許されると思うわ」と語り、「褒められないが、報われてもいい」とする「報われなさ」というある種の空虚な共通認識を経て比企谷八幡雪ノ下雪乃の関係性は新たに展開されていきます。

そして葉山隼人比企谷八幡とは対照的な存在であり、「理想と現実」の摩擦の差異から「分かり合えない」という共有が「比企谷君とは仲よくできなかっただろうな」という「埋まらない心」に集約されています。たとえ比企谷八幡のようなやり方で「上手くやれた」としても、比企谷八幡とは「上手くやれなかった」とする「埋まりようがない空虚な距離感」は、双方向的な関係性として「正しい相互認識」から「分かり合えない」という共通認識へと踏み出していきます。

「共有できない」ということさえも共通認識として働いてしまうように、4巻では「解体と相互認識」といった再構築を経てなお「分かるが、分かり合えない」という絶対的な空虚さを見つめています。

 

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渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』3巻 すれ違い・客観性・自意識の保守性

 

 

孤高こそ最強である。

これまでのようにボッチの正当化の反復が見られます。つながりは弱さを生むものであり、即ち孤高である自分は強いとする2巻と同様の反復です。

冒頭の比企谷小町との些細なやり取りに見られますが、数多のコミュニケーションが「ポイント制」のように数値化されていれば余計な気苦労もしないで済む、とあります。勘違いやすれ違いといった誤解、遠大なコミュニケーションによる齟齬も発生することはない数値化という目安は、コミュニケーションが状態と状況によって流動的に相対化される中において「ポイント」のみが絶対的な意味を与えるものとなるでしょう。

例えば、好きなのか嫌いなのかのグラデーション的判定も、プラス・マイナスの力学に引っ張られた形で露わになる分かりやすさが利点となります。つまり、コミュニケーションの根幹にある「分かり難い」「分かり合えなさ」が難点と言えます。「ポイント」や数字ならば客観的指標という目印として機能します。しかし、現実には「ポイント」は反映されていません。そのような判定が中々下せないのがコミュニケーションに潜む面倒臭さと言えるでしょう。

P19 リセットすることで俺は心の平穏を取り戻し、由比ヶ浜は負い目から解放され元のリア充ライフへと回帰する。選択肢として間違っちゃいないはずだ。いや、むしろ正しい。

 

上記には主観的な正しさの主張がなされています。比企谷八幡なりの理屈であり、由比ヶ浜結衣へのある意味では細やかな気配りでもあると言えるでしょう。

しかし、彼女の感情は考慮されていません。むしろ主観的な正しさといった、それを包摂した形で押し出してしまったと見る「空気を読んだ」結果とも言えます。ここで語られているのは、事故といった偶然の出来事に対して「必要以上」の意味を与えるものでなければ、ボッチ確定となった因果関係に「必要以上」の責任が伴うものでもない、とするある種の清算です。

比企谷八幡は、人生はリセットできないが、人間関係はリセットできると語ります。

人生という一回性だからこそ「まちがいたくない」誠実な姿勢は、地続きとしての正しさを追求することでリスクは緩和し、相対的な評価としてフラットに均す。清算的に。比企谷八幡の主観としての意味では「正しく始められなかった」者たちの物語が3巻と言えるでしょう。「まちがえないように」「まちがいたくないから」「せめて正しくありたい」とする真摯な態度が、状況と空回ったとしてもなお、外的評価にあたる人間関係はリセットできると信じているのは一回性の磁場において「せめてものの正しさ」を問うものです。比企谷八幡はその意味では都合のいい解釈をしてしまっている。双方向性、同期性が瞬間的に立ち上がって、相手がいてコミュニケーションは成立するものなのに、相手を欠落させた上での一方向的なズレの肥大化が一人称という理屈で記されています。一面的には「主観的な正しさ」という自縄自縛により、自分という殻は温存され、強化される。「まちがえていない」はずだとする正しさのもとで自意識は肥大化する。ここには、他者=由比ヶ浜結衣が居ません。この清算には自己完結の要素が強すぎる。もちろん、その引き金は比企谷八幡の経験から導かれたものが色濃く反映されています。「優しさは嘘」だとする彼の理屈の裏返しには、コミュニケーションにおける「ポイント制」への羨望と諦念があるためです。前述のとおり実際に「ポイント」はありません。「空気」を読み、コンテクストを合わせていく作業がコミュニケーションならば、比企谷八幡の自己完結的状況は、彼なりに「空気」を読んだ結果としてもコミュニケーションの断念へと接続されてしまっている。そうすることで相互に距離を取り、自然的にリセットされていく。人間関係は調整とも言われますが、調整をゼロベースに傾けることはリセットに直結していきます。

その意味では2巻で用いられたメールという非同期的なツールにも表れていますが、由比ヶ浜結衣雪ノ下雪乃に送信したメールというエクスキューズも一方向的でした。双方向性という幻想の立ち上げは、コンテクストと感情の行き違いにより、ディスコミュニケーションへと転換されます。 

優しさは同情であり、ただの義務である。

「ポイント」のような絶対的な意味ではなく、状況と状態により相対的な意味合いを持ちます。その際には「空気とコンテクスト」を読まなければなりません。ある意味では「優しさは嘘」という一面的なズレも正しい主張となります。

主観的には由比ヶ浜結衣に義務的に「嘘」を強いてしまっている、とする比企谷八幡の理屈は、偶然の出来事に対する因果と「加害・被害」の構図に取り込んでいると考えています。このような「嘘」は、ある種の虚構的な優しさと呼べるものであり、義務や悪は正しくないとする反復的・潔癖的な撥ね付けに他なりません。それこそが主観的には正しいとしている。分かり難さの要因となる「優しさ=嘘」の構図は経験的なものです。

「空気とコンテクスト」が流動的な意味合いを孕んでいることは「ポイント」と相反するものであり、印が見えないからこそ「分からない」。まさに「優しさ=嘘」のように感情と切り離された行為が義務的に先行することもあります。それを「まちがい」だとするからこそ、コミュニケーションの取れる範囲が自己完結的に矮小化してディスコミュニケーションとなります。比企谷八幡の状況がそうでしょう。

そして「ポイント」とは異なり、「空気とコンテクスト」は神秘化することで、コミュニケーション環境における自分の許容範囲と肥大化する自意識は反比例していきます。「空気とコンテクスト」による相対的な正しさは「まちがい」の領域審査さえもコンテクスト化していきますが、ある種の「自意識の審級」というラインも流動的であるにも関わらず一方的に肥大化していくことで、他者性を欠落させたまま絶対的な意味を持っていると錯覚してしまいます。

ここでは「由比ヶ浜結衣の優しさを正しく受け取れない比企谷八幡」といったすれ違いが描かれています。彼女にとってはそう難しいものではないのに、彼には経験による「正しき」認知的歪みがコミュニケーションの切断を生みました。重要なのは「まちがいたくない」からこそ「空気を読んだ」ことです。それにも関わらず「まちがえていないはず」なのにズレてしまう状況があります。由比ヶ浜結衣からすれば当然のコミュニケーションとしての行動が、比企谷八幡の主観的には嘘や義務や同情として解釈されてしまう。主観的に一方向的に語られている状況による「分からなさ」に起因した縺れが「分かり合えなさ」へと繋がっています。ここでは由比ヶ浜結衣の不在のまま、比企谷八幡が都合のいいように「空気とコンテクスト」を読んだことになっています。結果的にはプラスにもマイナスにも主観的に取り込んでしまうからこそ、コミュニケーションには他者がいるはずなのに欠落してしまい、「空気とコンテクスト」による一方向的な解釈でもって潔癖性は強化されています。比企谷八幡の一方的なズレが漸近的に相互の距離を開いてしまうように。

 

 

ライトノベルでは、コミュ障が主人公となる「残念系ラブコメ」ジャンルもそうであり、スクールカーストを描いている。「残念系」とされる側面(残念特性)を隠さず、「見せかけの友達として馴れ合うよりも孤独で気ままな方がいい」とする指向性をもつ(あるいは、自分に群がる美しい女子が「残念」系という意味でも使用)が、「隣人部」「奉仕部」のような特殊な場を通じて、やはりハーレム状態の夢は描かれている。

(…)

コミュニケーションはこのように、相互性をもち、モニタリングによって相互認識が行われており、また相手に好意的に振る舞わない場合は、嫌っていると直接明言しなくてもそのように察するようにコミュニケーションを円滑にする構造が組織されているため、コミュニケーションのリスクを回避するための、逆にコミュニケーションの誤解がたくさん生じる。コミュニケーションを守るコミュニケーション様式がコミュニケーションを複雑にさせている要素は否めなく、それゆえコミュニケーションというものの負荷も原理的に高くなる。

樫村愛子『コミュニケーション社会における、「コミュ障」文化という居場所』

 

「残念」については、さやわかの『一〇年代文化論』を参照しながら1巻の記事で記しましたが、「コミュニケーションの誤解」に対するリスクヘッジが「コミュニケーション自体の負荷を高める」状態は、比企谷八幡の経験と理屈からみても明らかでしょう。ある種の素直な捻じれに起因しています。

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由比ヶ浜結衣とのコミュニケーションのズレには、「異性間」といった期待してしまうゆえに生じる勘違いの要素が含まれています。齟齬のニュアンスを突き付けるものとして、戸塚彩加とゲームセンターに行くシーンがあります。男同士ならば勘違いすることもない。異性であるからこそ変な期待を持ってしまう。

ゲームセンターで戸塚彩加材木座義輝と遊ぶ場面では、友達の定義について触れられている部分があります。材木座義輝の場合、ゲーセン仲間は友達なのかどうかといった具合に。それに対して、比企谷八幡は友達の定義よりも機能で語るとします。定義論で出発すると困難が付き纏うためです。友達という定義の曖昧さは「分かり難さ」そのものであり、捉え辛いものです。実際は機能よりも属性や状態に近いと考えられますが、ここでは男友達同士ならば勘違いすることもなく関係していられるけれども、由比ヶ浜結衣とはどうなのだろうかという問いへ向かう構成となっています。

比企谷八幡由比ヶ浜結衣の認識のズレ、不一致性はコミュニケーション不全によるものです。それは先に引用した樫村の論考にあるように、モニタリングによる相互認識状態が望ましいにも関わらず、他者性が抜け落ちた一方向的になってしまっていることが「コミュニケーションを守るためのコミュニケーションに対する負荷」が生じてしまい、そこからコミュニケーションを回避するという「空気とコンテクスト」に合わせなければならない素直な捻じれがあるためです。

比企谷八幡の主観のみがあり、由比ヶ浜結衣の情報(感情)は断片的に記述されています。その断片ゆえの見え難さはモニタリングの結果、「空気とコンテクスト」として曖昧に表れます。

さらに事実として事故の件があります。事故があり、入学早々ボッチとなった因果に対する「意味と責任」を必要以上に推察した結果と考えているのが比企谷八幡であり、むしろ由比ヶ浜結衣の優しさを適切ではないと判定します。ある意味ではここに漂う「空気とコンテクスト」を過大評価しているために取り違えてしまっているとも言えます。このような「受け取れなさ」は、比企谷八幡の経験則によって「まちがった」解釈が強化されています。

リセットしたつもりでもリセットが出来ていない。一回性の人生において、ゲームのように気軽にリセットボタンを押すことは出来ません。確かに一面的にはつながりの弱さもありますが、他方では人と人とのつながりは容易に切れないものもある。比企谷八幡にはリセットの経験しかなく、つながりが温存されてきた経験が無かっただけだと言えます。だからこそ幾度となく反復的に孤高であることを正当化し、「残念」な語り手としての矜持を持ちながら「生温い馴れ合いよりも孤独によるタフさ」を前景化させようと見せている。持っていなかった手札以外にも手札はあります。『俺ガイル』は、その意味では「持たぬ者」が「まちがえない」ようにするために手札を駆使しても「まちがってしまう」循環に囚われるジレンマを主観的に描いたと言えるでしょう。

このすれ違いには、由比ヶ浜結衣が切断された状態が先にあり、周り(戸塚彩加材木座義輝、雪ノ下雪乃)と関係していくことで由比ヶ浜結衣へのコンテクストを合わせに行く状況が作られていきます。ズレの原因は由比ヶ浜結衣の優しさを「同情と義務という嘘」としたことであり、由比ヶ浜結衣の真意は正確には分からないのに、経験的に対応した結果が齟齬を生じさせました。このグロテスクな非同期は、一方向的な好意をマイナスに受け取り損ねることで決定的にすれ違うといった主観の歪みがあります。

本明寛の『誤解』には「コトバのやりとりで気を付けたいところ」として以下のようにあります。

 

気持ちがコトバにあらわれている時には、主観的な説明である。事実と違った表現になりやすい

 

住む世界とコトバの世界は必ずしも一致しない。住む世界での事実がコトバの世界では美化され、省略されることが多い

 

比企谷八幡の主観的経験的な説明が、由比ヶ浜結衣の優しさが意味する事実とは異なっていたことが「誤解」を生んだと言えます。

また「住む世界での事実」は事故から派生した因果が該当します。本明寛の言説によれば「コトバの世界では美化され、省略されてしまう」ために誤解してしまう。これは由比ヶ浜結衣の優しさを比企谷八幡からの視点でいえば「必要以上」に感じ、それゆえに適切ではないから「不必要」であるとした「美化」が前提にあります。この「美化」は期待や勘違いに近いでしょう。その「必要以上」な「美化」を正しくないとした比企谷八幡のロジック(コトバの世界)は、ある意味では正しく「まちがって」いました。由比ヶ浜結衣の「住む世界での事実」から素直に引き出されている真意が「美化」ではなく、事実として、さらに「省力」されて零れ落ちています。主観的な語り口に依存した「他者性」の欠落から、「省略」された捻じれとして「誤解」が生まれています。

このすれ違い、誤解は更なるコンテクストを重ねていきます。

雪ノ下雪乃と一緒にいるところに由比ヶ浜結衣と偶然出会うシーンがそうです。

このような「偶然性」は3巻で重要な要素だと言えます。

しかし、物語に「偶然」なんてあるのでしょうか。

もちろん、作中の「偶然」は作者の手によって「必然」として描かれているわけですが、キャラクターたちはその「必然」を認知することは出来ません。ですから、戸塚彩加材木座義輝とゲームセンターに行く流れも「偶然」とするならば、「偶然性」という外的要因によることで関係性や内省が攪乱されていくための「装置=必然」と言えます。比企谷八幡には「他者の不在」が起点にあるために「偶然性」から接続されていく「必然」がある。

そこから「偶然に偶然」が重なった結果、関係性は混乱し、あらぬ誤解が生じていきます。そもそも由比ヶ浜結衣比企谷八幡のすれ違いも、事故という「偶然」が鍵になっていました。

物語レベルとしては重要な「偶然性」であるにしても、キャラクターたちは物語=人生という一回性の磁場にあって、そのパッケージ化された側から抜け出すことはできません。であるから一回性という中で「まちがえない」ように「まちがい」を極力排し、「偶然性」の中から確実なものを手にするために持っているものを温存するという自意識の保守化が働くと言えるでしょう。 

 

P94 誤解は誤解。真実ではない。ならそれを俺自身が知っていればいい。誰に何を思われても構わない。……いつも誤解を解こうとすればするほど悪い方向に進むしな。もう諦めた。

 

最小限に留めるためのダメージコントロールは「空気」を読むに通じます。樫村の論考にあったように「空気」に結果的にコミットするような働きがあると言えますし、その行為がディスコミュニケーションとして「原理的に負荷」を高めてしまう。他者との関係性において、傷つかないためにアイロニカルに経験則を持ち出し、負けないための手札を切る。

自意識過剰を抑制させて傷つかないためのラインを見極めることは、諦観と静観という「空気」を読んだ上で変に動かない方がリスクヘッジに効く判断に繋がります。

自分のことは自分の範囲内で収まるように分かっていればいい。「他者の不在と誤解」を解く努力の放棄は諦めてきた経験による「適切な判断」となり得る。

雪ノ下雪乃比企谷八幡が一緒に居るところを由比ヶ浜結衣と会ったシーンも、事故の件も、「偶然に偶然」が重なるようにすれ違いのコンテクストが二重化するようになっています。誤解を解きほぐすコミュニケーションによる双方向性が無ければ(それを断念すると「空気」を読みながらディスコミュニケーションに傾く)、それぞれの個人レベルの理解からはみ出ません。「持たない者」が領域範囲外へと手を伸ばさないように、自分の範囲内だけで充足している様は諦念による自己完結した「残念」なボッチの処世術であり、ディスコミュニケーションの前景化です。

事実と結果から滲み出る淡いや「美化と省略」されることについて、それぞれの理解で済ませようとするディスコミュニケーションの様子から、モニタリングした共通認識を作る回路が比企谷八幡にはないことが描かれています。理解や認識さえも個々人の曖昧なバラバラさに収斂することをよしとする「諦め」が経験的に先行してしまっているからです。

それは「期待」してしまうことによる「美化と省略」の歪みが起因しているならば、雪ノ下雪乃と出かけるシーンでの比企谷八幡が抱く安堵感は「由比ヶ浜結衣の優しさ」とは対照的に映ります。

比企谷八幡は、雪ノ下雪乃が「嘘を吐かない」ことを信用しています。偏に「嘘が嫌い」である潔癖性によるものであり、真実=「美化と省略」から離れているためです。期待しないし、されないことで誤解が生まれようがない状況と言えます。

つまり、何かに期待しているとすれ違う可能性がある。期待による「美化と省略」が都合の良いように捉えてしまうが、諦念によって都合の悪い方向に流れていくことでも結果的に「まちがえて」しまう。優しさが嘘や同情だと判定しながら、期待してしまうバイアスがかかることで「まちがえる」からこそ期待せずに、諦めることで都合の良い方向にいかないことで「まちがえない」ようにしても、由比ヶ浜結衣とすれ違っている状況が生まれてしまう。「必要以上」にネガティブに捉えても、真意は汲み取れない。それも真実ではなく、その理解に由比ヶ浜結衣が存在しないことに他なりません。

自分完結のための自意識でしかない状況において、如何にコミュニケーションのリスクヘッジをしてもすれ違ってしまう。自分本位の「分かり難さ」を起点に他者との共通認識を作るしかないのに、相手を見ていないのは諦めによる切断が起点にあるからと言えます。

ところで3巻には雪ノ下陽乃が登場します。

比企谷八幡と小町の兄妹の距離感に対して思うところのあった雪ノ下雪乃が描かれてきましたが、そのイメージを補強するように雪ノ下陽乃の外面のよさが徹底されています。その仮面を看破した比企谷八幡の理屈は、理想的すぎるのは嘘臭いとする、ボッチは期待しない現実主義者だから見抜けるものでした。裏返せば理想に対する諦め、断念から現実を眺めるほかないとも言えます。

偏屈を重ねることで、理屈という筋を通すことで見抜ける雪ノ下陽乃の違和感について、経験と理屈による「正しさ」があります。

しかし比企谷八幡たちが常に「正しい」わけでもありません。むしろ主観的に「正しさ」を選択したつもりがズレて「まちがう」。その齟齬さえも流動的であり、彼岸としての「正しさ」や絶対性を理想という価値でもって幻想化させてしまう。

この登場で大きな意味を持つのは、雪ノ下雪乃が姉に屈する光景が描かれているところでしょう。少なくとも絶対的と思われた雪ノ下雪乃の立ち位置が姉の存在感によって流動化・ 相対化されてしまう現実は、ある意味では「現実的=雪ノ下雪乃」のパラレルに「虚構的=雪ノ下陽乃」という理想を位置付けることで、「嘘を吐かない雪ノ下雪乃」と「嘘臭すぎる雪ノ下陽乃」の対比から「現実と理想」の存在感を際立たせました。その違和感も含めた存在感を「現実側」としての比企谷八幡の語りから引き寄せる構図と言えます。

この二項対立の意味は、もちろん「理想と現実」は違うことを現実的に突き付けることです。現実を知れば知るほどに理想の輪郭は嘘臭さを増す。雪ノ下陽乃のように。彼女を理想形とする、彼女の仮面を作ったのは現実側の「理想や欲望」に他ならないとしても。理想形でしかなく、現実感が希薄ともいえる存在として当初は描かれています。これも「理想」というイメージに過ぎず、自覚的に記号的に回収されながらも、裏側に潜んでいる雪ノ下陽乃の違和感にある「現実性」もまた現実側から引き寄せられた結果と言えるでしょう。

さて、話を戻します。

すれ違いのコンテクストが二重化してしまった雪ノ下雪乃由比ヶ浜結衣

曖昧な言葉と態度によって、意味が噛み合わないまま会話が進行してしまっているのは現実(住む世界)とコトバの世界のニュアンスの不一致による誤解そのものです。

この二重化は由比ヶ浜結衣を番いとして「由比ヶ浜結衣比企谷八幡」「由比ヶ浜結衣雪ノ下雪乃」といったように、すれ違いのコンテクストが多重化していることを意味します。

前者は由比ヶ浜結衣の優しさを「同情・義務・嘘」であるという捻れた現実主義的主張による解釈が起因しています。

後者は由比ヶ浜結衣への感謝を述べたい雪ノ下雪乃ですが、由比ヶ浜結衣雪ノ下雪乃比企谷八幡が付き合い始めたという思い違いをしていることで「好意と行為」のズレが生じています。それぞれの解釈によって、共通認識としての言葉と態度が噛み合わない誤解のコンテクストがあり、「由比ヶ浜結衣雪ノ下雪乃」の部分では比企谷八幡視点といったある種の「外的」から眺めることで客観性が示されています。

しかし「由比ヶ浜結衣比企谷八幡」のコンテクストでは、その「外」が担保されていません。語り手自身が「内面化」して没入しているので、すれ違いのコンテクストに取り込まれています。自分のことは見えているようで見えないものです。相手を見て、他者が自分を映す鏡であるような間主観性をいかに構築するかが重要ですが、後者では比企谷八幡がそのニュアンスを掴めますが、前者のコンテクストには間主観性が欠落してしまっている。比企谷八幡の主観だけでは、プラスにもマイナスにも自身の都合や解釈から逃れられない。感情と言葉と態度のコンテクストによって左右されるものですが、由比ヶ浜結衣の不在のままの主観的理解が押し出されている状況でした。

他方で、比企谷八幡は後者の「由比ヶ浜結衣雪ノ下雪乃」のすれ違いについて、由比ヶ浜結衣の勘違いには心当たりがあり、彼自身は気付いていたが、自分からそれを正すのは自意識過剰のようで抑制していたことが記されています。そこまで見越しているところが既に自意識過剰のようにも思えてしまいますが、「外」的である比企谷八幡が「間」に入らないことで捻じれたままになっているとも言えます。

そんな折に材木座義輝の乱入によって空気が弛緩する奉仕部。非日常的な存在により、日常の緊張状態にあった空気が緩和され、良くも悪くも「外の空気」が入ってきたことになります。材木座義輝がその意図があったかどうかは関係ありません。「偶然性」が重要です。彼自身が直接コミットしなくても「空気」が入れ替われば別種のコンテクストが立ち上がらざるを得ない。奉仕部内の二重化したすれ違いのコンテクストとは別に奉仕部に依頼という「外のコンテクスト」が接続されることで、パラレルに温存されながらも「空気」を再構築することができる構造となっています。

材木座義輝の依頼から始まった遊戯部との大貧民対決のように、持ち札を推察することは「空気を読む」ことに通じています。ノリを合わせることは、集団に属さず、そのような空気を敬遠している集団心理から程遠い比企谷八幡だからこそ、ある種のマンガ・アニメ的なサービスの拒絶をするシーンがあります。このコンテクストは、遊戯部と材木座義輝といった男性的な欲望とメタレベルにある読者というコンテクストとのある種の結託だと言えますが、「空気を読まない」ディスコミュニケーションで対抗することで「コミュニケーションを守る」効果が働いています。なにも「空気を読む」だけではありません。「読まない」ことさえもある種のコミュニケーションとなり得る。沈黙や拒絶が作用として。

その意味では、大貧民における手札というのはコミュニケーションの比喩だと言えます。 カードが共通認識となることで、相互の意思のズレを埋めていく心理的作業。共通のゲーム・ルールがあり、手札があり、その埋め合わせをしていくことはディスコミュニケーション的な文脈が積極的に転倒したコミュニケーションの作用そのものではないでしょうか。

ここで描かれている大貧民は、コミュニケーションを加速させるだけではなく、現代社会を反映させたかのような弱肉強食の比喩としても用いられています。革命やスペードの3は、弱者が逆転する構図そのものであり、「持たず、否定されるもの」たちの反逆の狼煙としてカタルシス的効果を発揮していますが、ここでも「理想と現実」の対比があります。この文脈はさきの雪ノ下陽乃もそうでしたが、「理想」の否定として「嘘臭く偽物」であるからこそ、現実的であろうとする現実への回帰といった引き寄せがある。「理想」を否定して、徹底的に現実的たろうとするために理論武装して「現実側」を強化している遊戯部からすれば、材木座義輝の「理想」は酷く嘘臭いものに映る。「現実」の前景化による否定は、根拠なき「理想」自体を相対化させるように材木座義輝の位置も弱者的に描かれています。

その弱者的立ち位置であるからこそ、大貧民の比喩がカタルシスとして表れます。革命とスペードの3が「希望」にもなり得る状況は、「現実」の中で否定されてしまう「理想」が唯一の「希望」になるものとして比喩的だったと言えるでしょう。

そして比企谷八幡が遊戯部に語り掛けた「理想と現実」のバランスは、否定も諦めもまだ判断を下さなくてもいい「モラトリアム=先送り」の肯定でした。価値判断の保留という現実的提案が、「理想と現実」を宙吊りにすることで緊張状態を緩和させるように。

材木座義輝と遊戯部の対立・すれ違いに対して、比企谷八幡が「間」に入ることで、つまり「外」的に機能するからこそコミュニケーションの間主観性が構築され、関係性が攪乱されるケースでした。

奉仕部内では反映されていない、出来ていないことが先にこの場面で行われたとも言えます。転じて奉仕部のコミュニケーション問題にシーンは流れます。

P239 始め方が間違って 本物と認めることはできない

始め方の問題としてのすれ違い、誤解を主張する比企谷八幡。始め方が「まちがっていた」とします。

しかし、始め方に「まちがい」なんてあるのでしょうか。この後に直接的に応答した文章ではありませんが、コンテクスト的には合致しているように読めてしまう由比ヶ浜結衣が遊戯部たちに向けた言葉があります。

 

P214「始め方が正しくなくても、中途半端でも、でも嘘でも偽物でもなくて……、好きって気持ちに間違いなんてない……と、思う、けど」

 

始め方の問題ではなく、本物と認めることができなくても、それを思いやる気持ちには「まちがい」なんてないとする彼女の言葉は、結果的に始め方を起点とするよりも以前の条件である「想い」に差し替えるものだと言えるでしょう。ここでも前提の解釈のズレがあります。

関係性をリセット、差し引きゼロにして終えることが比企谷八幡の経験則でした。ある種の純粋さがイコール潔癖として表れているわけですが、「始め方の正しさ」という前提をコンテクストがすれ違ったままどのように調整するか、という話にスライドしていきます。そこで重要なのは遊戯部と材木座義輝の件にもありましたが、「由比ヶ浜結衣比企谷八幡」の二者関係から「外的」存在が「間」に入る働きでした。 

そこで雪ノ下雪乃が「外的」として機能することで、「内」にいる「由比ヶ浜結衣比企谷八幡」の二者間を客観視する「外」的視点を提出できます。この機能性は遊戯部と材木座義輝の件のときには比企谷八幡たちが担っていたものと同質と言えます。問題となっている事物に対する「空気」の可視化によってフラットな提示ができる効果は、この場合では雪ノ下雪乃といった第三者の存在によって担保されます。 

 

私たちが好んで(?)行いがちな、どちらの根拠のほうがより経験的事実に合致しているかという確認困難なレベルの言い争いは、ややもすれば容易に水掛け論、泥試合に陥る傾向があります。

 

根拠の内容がより具体性をもっていること

再現性があること

どんな対象について、どのように観察したのか

が明示できることを備える必要性がある。

福澤一吉『わかりあう対話10のルール』

 

 

比企谷八幡の経験的事実という主観には、再現性があるかどうかは曖昧と言えます。なぜなら、現に由比ヶ浜結衣とのすれ違いは経験的事実から導かれた錯覚の類いであり、それ故に彼の固有性やアイデンティティとなっている「正しくまちがっている」ジレンマでした。

 

人は、それぞれ自分の主張に好都合な論拠を背景に経験的事実を集めてきます。

どちらのほうがより根拠が確立しているかどうかを考慮するための手続きは、第三者からみても具体性が分かるように明示されていなければならない。

 

福澤一吉が記しているように、他者の不在のまま構築された比企谷八幡の経験則は、ある意味では「空気とコンテクストを読んだ」上で自身と相手を慮るように「正しい」と思っていることが「まちがい」に転じてしまうものでした。その結果「分かり合えない」かのようにすれ違ってしまった。

そして「第三者からみても具体性が分かるようにしなければならない」という点では、「外的」に働く雪ノ下雪乃だからこそ論点を差し替えることが出来たと言えるでしょう。

雪ノ下雪乃が述べた論点は、「始め方の問題」ならばその前提条件から見つめ直すことでした。比企谷八幡由比ヶ浜結衣はそれぞれ等しく事故の「被害者」という共通点があり、因果の原因は「加害者」に向けられるべきという提示でした。だからこそ、由比ヶ浜結衣比企谷八幡は「被害」のもとでフラットに「やり直し始める」ことができる。そういう共通認識を与えることが出来るのは、『俺ガイル』がこれまで一貫して作中の「外的」な存在による捻じれたロジックが担保されてきた文脈があるためです。

経験的事実に再現性があるかどうか、具体性があるかどうか、さらにきちんと論理が確立しているかどうかを第三者による視点がなければ、それぞれの経験的事実の主張のみが先行して水掛け論になってしまうといった吉澤の言説を借りると、まさにこのシーンの三人の立ち位置が証明していると言えます。

なぜ、このように絡み合ってしまったのでしょうか。

比企谷八幡の思考を整理します。

事故は「偶然的」な産物であり、由比ヶ浜結衣であることを特定して事故に関わったものではない、とする匿名的行為に尽きるとしています。そこに特別性はなく、由比ヶ浜結衣がそのことに特別性を見出すのは「まちがっている」。そして「特別でもない普通のこと」であれば、「必要以上」に恩恵を授かっていても「正当」でなく、「本物」ではないとする「始め方の問題」に終始している、というロジックが成立しています。

そのために由比ヶ浜結衣の優しさや気配りが「必要以上」な同情のように映ってしまう。比企谷八幡の行為は「偶然的な匿名的」であったのにも関わらず、由比ヶ浜結衣の行為は「必然的に特定的」な意味を持ってしまうからです。これらの捻じれは、比企谷八幡の解釈上は特定的な義務行為に見えてしまうことも要因でしょう。

だからこそ「始め方の問題」であり、特別な意味もなく、そのように偽装するのは「本物」ではないとする潔癖的拒絶が根底にあります。

一方で由比ヶ浜結衣にとっては、匿名的とか特定的だとかよりも、もっとシンプルなことであるという齟齬が起きています。

しかし、事故=「偶然」に「必要以上」の意味を持たせたくないのは「期待して誤解して」しまうためであり、その結果としてアイロニカルな経験的事実が成立してきたとも言えます。比企谷八幡にとっては、このような経路を辿らなければロジックが構築できない。「勘違い」をしてしまうからです。敗北し続けてきた経験を蔑ろにしないためにも。この主観性のジレンマを通すと、単純な好意(由比ヶ浜結衣)と「空気を読んだ上での」複雑な独り善がりな思考(比企谷八幡)となります。

だからこそ「始め方がまちがっていた」とする経験的事実に対して、雪ノ下雪乃の「正しく始め直せばいい」という提案は関係性の上書きと言えるでしょう。すれ違いの原因は「加害・被害」にあると雪ノ下雪乃が提出することで、共通的な被害者としての「私たち」を建前的に作ることができます。その上で「始まりの問題にあったすれ違い」を終わらせることができ、それ故に等しく「被害」のもとで始め直すことができるロジックでした。

「偶然」に「必要以上」の意味がないとする比企谷八幡の主張に対して、別の角度、つまり「外的」に働く視点から異なった「偶然」の意味(被害という共通項で包括)を作ることで、「すれ違っていた=分かり合えていない」ところから如何に共通認識を立ち上げるか。その働きは二者関係から外れたところに位置する者の特権ですが、実際は被害者としての「私たち」という共通認識から、恰も「加害者」を仮想敵として纏める捻じれた意味も必要的に問わなければならなかったでしょう。

確認しておきたいのは、すれ違いにおける対話では、由比ヶ浜結衣のように厳密に言語化できない場合があります。

そして、比企谷八幡も自身のロジックをきちんと相手に分かるように伝えているとも言えません。「始め方の問題」にあるように初めから微妙にコンテクストがズレたまま、会話が進行してしまことで裂け目が拡大化します。言語化できない場合、どのように動機や意味を作り、コンテクストを同期させていくことが出来るか。このシーンでは雪ノ下雪乃から与えられた意味、つまり共通認識や主観性の問題と繋がっています。比企谷八幡自身が導いたのではなく、他者からロジックが与えられていることに意味があります。

3巻では比企谷小町戸塚彩加材木座義輝、雪ノ下雪乃といった「外的」に刺激されることで自分自身を確認していく構造でした。比企谷八幡には初めから理論武装したエクスキューズありきの意識設定ですが、自分自身では分からない「不透明さ」が異なった視点から意味が攪乱されていきます。

比企谷小町戸塚彩加から「最近変だよね?」と言われるまで自覚的ではなかった比企谷八幡のように。自分では自分のことは分かっていない。主観性のジレンマにより、自分のことは自分が一番分かっているという思い込みを信じたいことは、アイデンティティの補強によるカウンターとしてポジショニングしてきた側の理屈に直結してしまっているからです。

誤解や勘違いは期待してしまっているから生じるために「悩むくらいなら諦める」という断念は、材木座義輝のような希望や願望とは対照的な現実としての判断でしかありません。地続きとしてのリアリティがあり、「まちがい」たくないから諦める他ない。その一貫性は強化されていく志向性であり、潔癖的マチズモと露わになります。その固定化とは反対に、周りや人間関係は流動的です。リセット可能とする固定化した比企谷八幡の経験則は、一回性であるから人生自体はリセットできないが、せめて「まちがえない」ようにするために慎重を期すればするほどにすれ違ってしまうアンビバレントな落とし穴でした。

他者を見ないまま経験的かつ主観的に処理しようとする様は、ある種の傲慢とも呼べるでしょう。「まちがい」たくないとしても。それ故に持っているものはなるべく温存したい。その心情は一回性の引力により、同一性が担保されながら反復を繰り返し、保守性を主観的に経験的に強化してしまう。

これまでの自虐ネタというアイロニーは経験則から導かれています。負けを知り、勝つことはなくても、同時に負けることもない手札を切る経験が蓄積されてきた捻じれからのある種の素直さだと言えます。いつかの自分を引き合いに「ネタ」にすることで専守防衛する。

比企谷八幡由比ヶ浜結衣」のすれ違いは「まちがい」ながらも、ラブコメとしては王道のような展開を見せています。

由比ヶ浜結衣による新しい好意を受け入れることができないのは、比企谷八幡の主観的かつ経験的な遺産へのアイロニカルな信頼に他なりません。その敗北の経験は、異なる他者を受容できません。ある種のテンプレめいた経験を参照することで、温存された固定観念を再生産し、先行的にリスクマネジメントを図ることで別のコンテクストが立ちあがってしまう。

3巻の比企谷八幡由比ヶ浜結衣の一周したディスコミュニケーションによる距離と齟齬の表れは「まちがい」であるが、同時に「正しさ」も孕んでいます。なぜなら、主観的な応答を経た共同的な視点は、コミュニケーションの「移動」が形成されることで適うものです。ディスコミュニケーションによってコミュニケーションが要請される、というのはその意味です。この文脈に照らし合わせれば「まちがい」が「正しさ」を作り、また「まちがう」ことで次の段階を踏める、という循環的ながらも意味や関係性は他者に攪乱されるように「移動」していきます。

例えば、ジル・ドゥルーズの「領土」という概念には、フォン・ユクスキュルの「環世界」に少なからず依拠しています。ユクスキュルの「環世界」とは、それぞれの生き物に宿る固有の世界そのものを意味します。生物の身体それぞれに固有のスタイルがあり、異なる世界、つまり「環世界」が認識されている状態は固有性の確認と言えます。それぞれの「環世界」という異なった世界を「移動」する。この運動性の場所として「領土」がある。

つまり未知と既知を行き交う運動を経ることで「領土」を脱け出し、再定義化する多様性こそがコミュニケーションの様式に接近していると言っていいでしょう。

「環世界」的に、「領土」的に、固有と流動の「移動」を繰り返すディスコミュニケーションとコミュニケーションから見出される「分かり合えなさ」を互いに受け止めることが第一歩です。そこからつなぎとめるための受け容れを模索することでしか、完全に相互に「分かり合えない私たち」というある種の同一性の切断とそれさえもつなぐための同期的な在り方としての差異は生まれません。

同一性と差異は「分かり合えなさ」を起点としています。漸近的にズレてしまう要素を抽出していくことで、(非)同期的な差異が提出されます。

もちろん、同一性だけを掬い取ることも「大きな共通認識」として働きます。作中では「被害者」の名の下で共通的であった比企谷八幡由比ヶ浜結衣のように。差異から同一性を構築していった雪ノ下雪乃のように。

しかし根底には「大きな共通認識」でだけでは不足してしまいます。根底にある「分かり合えない」というズレが差異として乱立します。だからこそ、その差異という共通認識さえも「分かり合えなさ」に繋げることで別の共通認識を立ち上げることは可能でしょう。

差異は、一回性ゆえの現実主義的にならざるを得ないある種の保守性へのアンチテーゼとして機能しています。

比企谷八幡でいえば、他者性の欠落という「領土」から「移動」を切断した経験的な自意識の肥大化と潔癖性でした。この「環世界」は同一性を温存するものでしかなりません。そこに由比ヶ浜結衣の態度と「領土」、雪ノ下雪乃が与えたロジック(同一性と差異)によって「領土」は脱領土化するように「移動」せざるを得なかった。経験的に対応できない未知との接触として。

これらの自意識の運動は一面的には同一性を強化しながら、他方では差異を取り出すようにして他者性と接続されていきます。「分かり合えない」「すれ違ってしまう」ことを通じた上で、与えられた共通認識としての別のコンテクストに寄りかかるように。「移動」による「領土化」を経ることで、固有の保守的な自意識への批判に繋がっていきます。

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渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』2巻 非同期的な不完全的なコミュニケーションの始まり

ボッチであることを正当化する内省は、比企谷八幡自身の矜持のように描かれています。

群れることを弱い草食動物のように例え、逆説的に孤高であることを強さとする。ボッチであることを正当化する逆説的な理屈は、1巻の「青春」における「正義と悪」を連想させます。「青春」側である「あちら」を「悪」とするならば、そうではない「こちら側」は「正義」であると。自分自身のタフさを引き付けようとしています。

相対的にいえば群れることは弱く、群れない「こちら側」は強い。草食動物と肉食動物の比喩のように。温存されている二項対立的な支えが無いと、その理論自体は成り立ちません。「あちら」を揶揄しながら「こちら側」を補強するための方便です。これ自体は「あちら側」を単純化し、記号的に見ていることの所作でもあります。群れることは個性を「空気化」するので、認識しきれずに埋没してしまう。流行に乗っかれば、全員が画一化すると同じように。個性は個性的であろうとすると、個性自体が脱色してしまいます。

そういった認識、つまり記号化や画一化が働くことは、ある種の認識不足でもありますが、「あちら側」へと追いやるように単純化した記号的理解が奥行きを見せないように「こちら側」が前景化しているとも言えるでしょう。そのための比企谷八幡のモノローグでもあります。

群れている「あちら側」を草食動物とし、草を食いながら仲間も食い物にしているとする比喩は「空気」の支配が持つ力そのものを意味しています。それによって各々のポジションが左右されますし、「空気」が党派性を選別する作用を持つとも言える。「あちら側」か「こちら側」かに分け、その段階も実際はグラデーション的でしょうが、『俺ガイル』では単純化した二項対立を「建前」的に温存しているので明快な党派性を帯びています。

比企谷八幡のボッチ理論も「空気」からはみ出すことで、ある意味では二項対立的な党派性を正当化するものであります。同じようにシステム的です。「青春」というエコシステムへのカウンターとして位置しようとも、自分自身も取り込まれているために「カウンターとして」ポジショニングができるだけで、システム自体に支えられていることは見逃せません。「内から外」に出ようとする力さえもシステム的な循環にあると言えます。対抗言論として「外」にいようとしているけども、「内」なるシステムに支えられている位置付けは避けられません。

果たして「外」なんてあるのでしょうか。

「外」は、「外」に見えるものは「内」に織り込まれているものに過ぎないのではないでしょうか。その余剰として「外」であると錯覚してしまう。このどこにも行けない箱庭的感覚は「学校と家」の往復で事が済む学生時代、モラトリアムそのものに思えてなりません。

比企谷八幡が掲げる半ばネタ化したボッチ理論というカウンターでさえも、個々人が本来的にバラバラであることを見ないで、集団における「空気」や「青春」という共同幻想によって一時的に再構成されているものに過ぎません。一つに「青春」と言っても色々あるでしょう。全てはバラバラな個人的な体験に収斂し、千差万別の記憶や語りがあります。たとえ全員である作業をやったとしても、全員が同じ記憶や認識を有しているかは別の問題でしょう。それらは共通的体験を包摂しているような個別的なものでしかありません。

しかし「青春」の御旗のもとで、それは美しくかつグロテスクに昇華されることもあります。それを「青春フィルター」と1巻の際に触れましたが、包括的な共同幻想を立ち上げるような錯覚があることが重要です。ここで述べた共同幻想は「こちら側」から見れば「あちら側を含めてそのように見える」といった記号的なものでしかない。実際「どちらにとって」も都合のいいものです。『俺ガイル』は「あちら側」の「青春フィルター」とすることで、正当化しようとする嘘を暴くことが目的でした。

比企谷八幡は主人公という特異な権利を持つ語り手です。

しかし、「こちら側」として「あちら側」を見やるという暴力性には無自覚的でもあります。自分自身がボッチであることは悪くないことであり、それ自体を否定されたくないものなのに、平気で「あちら側」を引き合いとする理論の正当化は、やはり「青春」やシステム的な支えありきと言えます。「あちら側」を悪であり、弱いとするしか、「こちら側」に正しさや強さを引きつけられない弱さや暴力性がシステム的に成立していることに過ぎません。

具体的に内容を見ていきましょう。

2巻の冒頭、職場見学希望調査票を受けた職員室での平塚静のやり取りは1巻冒頭の作文と同じ構図となっています。

この反復性は『俺ガイル』自体の構造を反映したとも言える一方で、容易に人は変わらないことを意味しています。比企谷八幡は「変わらない」ことに執着しているのだから当然とも言えるでしょう。

1巻の「まちがっている」ラブコメは、奉仕部的には自己変革を促すほどのものではなく、自分と他者の関係性がラブコメ的には「まちがっている」というメタ視点的な語りでありました。

ここで確認しておきたいのは、語り手やキャラたちは物語であることを自覚できませんし、況してやパッケージ化されたタイトルを知ることはできません。「まちがった」こと自体が、そのように「正しく」展開され、タイトルを回収するような一文(1巻の最後)を書いても、比企谷八幡の意識には当然タイトル回収は存在していません。あの最後の一文「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。」を書くことで整理されるのは、比企谷八幡が抱く「まちがった青春ラブコメ」を物語レベルとして読んで、タイトルとの符号から「正しく」統合するのは作者と読者の目線でしかなく、そのこと自体はキャラ達には認識することは不可能です。1巻ラストの比企谷八幡の「まちがっているラブコメ」認識は彼自身に収斂しているだけに過ぎません。

しかし、それを物語として読むことで「まちがっている」こと自体が、恰も比企谷八幡と共有される体験が読者に付与されます。タイトルと物語内容が厳密に一致した感覚が、比企谷八幡の語り(テクスト)から読者に投げかけられ、キャラと読者の目が合うような着地をしています。ですから、この時点での比企谷八幡の執着や物語構造の反復性は、読者を通じてメタレベルでも混在していると言えるでしょう。

1巻を踏まえた、作中で「まちがっている」こと自体が反復していても、自分と他者の関係性が「まちがっているラブコメ的」であり、それで何か大きな変化を得たというよりも、受動的に巻き込まれてしまったことで「まちがっているラブコメ」が始動したと読める方が強い。比企谷八幡はただ奉仕部に入れられただけに過ぎず、この冒頭の反復によって、自己変革をするには自覚して否認する、といった意識化しないと意味がないことが分かります。

比企谷八幡が述べたことを引用すると「奉仕部は隔離病棟のようなもの」で、弱者たちによるぬるい欺瞞的なコミュニティと大差ないとしています。そういった理解から受動性は変わりません。そして「変わらないこと」が強さであるとする信条も揺らぎません。

いや、むしろ、一層反発的になるのは避けられない。その引き裂けるような力を内包した留まること自体は、二項対立的として「変わらなさ」といったような「こちら側」から「あちら側」を見やることによって均衡を保っている。

前述のように冒頭の書類の不備で平塚静に怒られる1巻との反復もありますが、やはり『俺ガイル』の魅力は一定の反復性に宿っていると考えます。比企谷八幡の思考への没入感もその一つでもあり、なかなか一定の同一性や反復性から抜け出せない。「自分」や「成長」への葛藤としての強化された保守性です。この「自分」を正当化すること自体への「祝いと呪い」が本質ではないでしょうか。これは物語が進行していけば、自然とぶつかる壁となっていきますので話を進めます。

非モテ比企谷八幡が、メールに纏わる過去を明らかにするシーンがあります。外的評価としての非モテであること自体へのコンプレックスよりも、最終的な内的評価に重きが置かれていることが重要でしょう。

相手の同情心や気遣いを無垢な優しさと取り違え、勘違いをしてしまっていたことに気付けなかったことこそが痛みだったとしています。それが誤りだと気付くまで「優しさと情け」は表裏一体の関係を結んでいた。全ては受け取る側の解釈次第であり、バイアスみたいに都合の良いように受け取ってしまう。もちろん余計に悪く受け取ることもありますが、それらは「経験と空気」によって個別的に選別されていきます。ですから「こちらとあちら」は厳密には一致し難い。相互の主観性の問題のように「こちら側」の善意が「あちら側」に正しく届くかは別の話であり、「こちら」と「あちら」の距離として表れます。 

簡単に誤解するし、してしまうことの距離は、欲望を込めて捻じ曲げようとしてしまうことに尽きます。解釈は深読みを誘い、その結果、自己責任論的に回収される。比企谷八幡の場合は敗北の経験値として蓄積されてきました。

このようにコミュニケーションは不一致を容易に引き起こす。その転倒としてディスコミュニケーションが要請されて「引きこもり性」は強化される。不一致によって個々人のバラバラの距離や差異が暴かれ、それを埋めるがために幻想としての解釈の都合の良さを引き付けようとしてしまう。

メールにしても、送った相手、届いた相手、時間帯や文面によって勘違いを引き起こす。非同期性の強いツールです。現実の身体的距離を用いず、短絡的にデバイス同士の距離を繋げるメールという機能は対面ではない分、ある意味近いにも関わらず遠い距離感を作ることもあります。この齟齬は「いつでもどこでもつながっている」という近さを引き付けながらも、身体的接触の機会や距離を使わないことによって、コミュニケーションのズレや解釈は文面でしか判断ができない情報の限定性があります。そのクローズドな情報でさえも正しく届けることは難しく、受け取れないことは往々にあるでしょう。

解釈の不一致、ズレはオンラインで現実の距離がショートカット化されていようとも、むしろ裏返しとしての現実の距離を反映させてしまう。「いつでもどこでも」つながっている距離感は、ある種の「届かなさ」さえも担保している。このコミュニケーションの遠近感はオンライン化によって加速しています。

例えば、ケータイを持っていることが当たり前の現代では、別れても「いつでもつながっていられる」遠近感は、昔のような別れとは決定的に異なります。サカナクションの山口一郎は、ケータイがあるから別れの曲が書けなくなったと言っていましたが、このような裏返しとしての現実の距離を用いることになるオンラインの遠近感も精神的に生じていきます。

たとえケータイのメモリに残っていても、実質的な別れと変わらないこともあるでしょう。「いつでもつながっていられるから」といって別れていないとは限りません。いつでもつながっているけども、「いつでも、だれでも」が選べるからこそ、「敢えて」その人を選ぶ理由が無くなってしまうように。時間の流れによって別れに近い距離感はあり、それはオンラインによって短絡化したような距離ではありません。同じカテゴリーだった者が、そこから外れることで容易に別の距離を生む。それは現実の距離そのものに他なりません。

P50 それこそ、電話やらメールやらでしか繋がらない、あるいは繋がれなくなる。それを人は友情と呼ぶのだろうか。きっと呼ぶのだろう。だから、みんな携帯電話にすべてを託し、友達の数と電話帳の登録数をイコールで換算する。

 

比企谷八幡は、このようなケータイの特性を不完全なコミュニケーションツールだと語りました。

双方向的に見えても、発信や取捨選択は送り手/受け手によって、その都度切断されている。「選択して発信する」その瞬間は単に非同期性の高い一方向的です。リアクションがあればいいですが「送ったが、返ってこない」や「来たけど、返さない」のように受け手のオン・オフによって、双方向性は一時的に成り立つ共同幻想があります。まさに「その瞬間」つながっていると思えることが重要であり、双方向性が担保されていると見える錯覚がオンラインによって新たに作られる距離と言えます。

ここでは時間や距離が個々人でバラバラであり、不完全性、つまり非同期性を短絡的に結びつけることの疑いをケータイから導入することで、本来的な個人の差異、バラつきを提示しています。裏返しとして現実の距離を映したコミュニケーションのズレは、比企谷八幡の断片的な過去を語ることで説得力を増します。「引きこもり性」のように自衛のためのボッチ化を加速させた経緯として。

さて、メールの文脈を引き受けつつ、葉山隼人の依頼が持ち運ばれてきます。クラス内で出回っているチェーンメールによって、友達の悪口を拡散されていることについて丸く収めたい、と葉山隼人は依頼を持ち掛けてきました。

チェーンメールは顔の見えない悪意の発露です。匿名性による不気味さを引き立て、根も葉もない噂を短絡的に拡散させるツールと言えるでしょう。

前述のメールの文脈をマイナスに反復させたのがチェーンメールの件と言えます。不完全な双方向性による共同幻想を瞬間的に立ち上げるメールの機能というよりも、一方向的に不特定多数に連鎖的に届くことで拡散することが目的です。

ケータイによって、メールはどこでもいつでもつながれるようになりました。既に記しましたが、発信時は一方向的であり、相手の応答があって初めて双方向性を伴います。恰もメールを送る段階で双方向的に錯覚できるくらいには物理的距離を無効化しますが、実際は現実的な距離を映し出しては「送れる」「届く」からといって精神的な距離自体が短縮化するわけではない。

しかしオンラインの距離自体は、まさに「つなげてしまえる」ので、その距離的な手続きを簡略化ができます。発信者と受け手のコミュニケーションのズレを距離的に「つなげてしまえるよう」に思えるのが、メールの一方向性・双方向性でありますが、チェーンメールはそれを一方的な拡散に扱うことで、匿名的な悪意の種子を連鎖的につなげることができる。必ずしも悪意が無いこともあります。好奇心で広めてしまうことで、チェーンメール自体に宿る悪意に加担してしまう暴力性があります。

小寺信良『子供がケータイを持ってはいけないか?』には、チェーンメールが「悪」とされている理由の一つに情報伝達の拡大率と考えられているとあります。

 

子供がケータイを持ってはいけないか?

子供がケータイを持ってはいけないか?

 

 

真偽不明の内容を拡散するチェーンメールには、情報伝達のルートが1世代前しか遡れない上に、メールという機能上の特性としてプライベートなものであり、それ以前に届いたメールの内容を確認する術がない通信的な壁が要因となっています。途中でメールの内容が改竄されていても、情報ルートが1世代前しか特定できない限定性がありながらも、開かれたように無差別に拡散するために判別が出来ない。このような拡大率が、まさに悪い意味で担保されてしまう。

P92 「チェーンメール……。あれは人の尊厳を踏みにじる最低の行為よ。自分の名前も顔も出さず、ただ傷つけるためだけに誹謗中傷の限りを尽くす。悪意を拡散するのが悪意とは限らないのがまた性質の悪いのよ。好奇心や時には善意で、悪意を周囲に拡大し続ける……。」

 

チェーンメールが発生した原因として、職場見学のグループ分けが挙がります。グループから漏れたくない、ハブられたくないといった「内輪揉め」ですが、顔色を窺うことの恐れは「集団や空気」から外れたくない一心に尽きるでしょう。

ある意味では些細なことですが、由比ヶ浜結衣が最初に気付いたのがポイントと言えるでしょう。そのようなことを「内輪」で見てきたキャラとして、グループにおける「キャラ」とポジショニングの功罪の一つがありますが、比企谷八幡雪ノ下雪乃と異なって集団に属しているからこそ分かると言えます。

誰がチェーンメールを送ったのか。

犯人探しの鉄則として「動機から考える」があります。誰がメリットを得るのか。そういった手続きを経て、グループ内に犯人がいるという推測が立ちました。

ここでは、ハブられないようにするために他人を特定的に巻き込み、悪意を拡散させながらも対象を分散させている内容でした。そこで悪意を向けられた彼らは公然と被害者面をすることができる上で、ある種の免罪符が得られることがポイントでしょう。

なぜなら、加害的な悪意自体は匿名的でありながら、被害という面では公然的であるからです。分散化した悪意のベクトルを向けながらも、同情という免罪符を得ることで等しく被害を軽減しようとして、一方向的に集中的ではなく、自然に誰かを除くために匿名的な悪意から被害者という立場を推挙させられることまでも演出できる。疑心暗鬼を含めたある種のフェアな悪意と言えるかもしれません。

比企谷八幡が述べたように対象を絞って拡散させたほうが「除く」ためには効果的でしょう。悪意を振り撒きながらも、自分自身も「加害と被害」に組み込むこと自体は「木を隠すなら森の中」的策略を連想させます。

しかし、それよりも公平的に被害者を立て、悪意を向けた敵を匿名的に立ち上げることで、等しく敵にすることで「敵の敵は味方」といった「友と敵」のような党派的に持ち込むストレートさがあるように思えます。公平的に被害者を立てたのは、自分自身は「選ばれる側」であって「選ぶ側」ではないとする、ある種の権利の行使であり、チェーンメールによって一方向的に「選別されること」をしていた。

誰が犯人であるかを特定するために、葉山隼人たちのグループを観察する比企谷八幡のシーンがあります。

「内」におらず、遠くから見ていることで分かる。

スクールカースト上位でも内部で相対的であり、葉山隼人がトップとして位置しているという事実。比企谷八幡の「葉山隼人が監督であり、観客」という見立ては正しいでしょう。葉山隼人という中心を、不在の中心である語り手=比企谷八幡が眺める構図により「外的」が担保されます。内部にいないから機能する外部的な存在は、恰も客観性という幻想を作り、言葉自体に真実味を宿らせます。

もちろん、自分自身もエコシステム的かつ箱庭の中でありますが、「内と内内」といったようなグラデーションが存在していても、より単純化された二項対立的なスクールカーストを引き立てることになります。

ここでの相対的な発見として、葉山隼人のグループは「葉山の友達」か「友達の友達」で構成されていることが分かります。同じグループ内でもバラつきがある。

不在の中心的な比企谷八幡が、葉山隼人という中心を消すことで、グループ内のバランスを一端解消させました。「選ぶ」「選ばれる」対象は、葉山隼人を中心に設計されていました。中心に「選ばれる」ための匿名的な悪意が宙吊りになることで「加害と被害」の彼らは等しく「選ばれる」ことが無くなり、それぞれを「選ぶしかない」。この非同期性に似た切断はメールそのものでしょう。葉山隼人にとっては距離が近くとも知らないことがある。また、彼らは「選ぶ側」ではなく、メールのように双方向的になるように「選ばれる」ことを待つしかない。

スクールカースト上位でも「空気」があり、相対化されていて「選べる」はずなのに「選べない」という序列的な構成が見えます。これは葉山隼人の存在、つまり中心の強さを感じさせ、そこに宿ってしまう無自覚な暴力性の問題を突き付けました。

整理しましょう。

比企谷八幡の解決策は揉める集団から葉山隼人を取り除くことで、つまり「選ぶ側」を消去することで「選ばれる側」をフェアにさせました。

一方で、葉山自身の存在感による問題点を突き付けています。悪意が葉山隼人に向けられていないにも関わらず、葉山隼人がある意味では誘発させた間接性のために引き受けざるを得ない状況へと移した結果と言えます。中心という無自覚な暴力性への責任と言い換えることも可能でしょう。

「持つ者」への妬みとして雪ノ下雪乃には、彼女に直接的に悪意が向いていましたが、「選ぶ側」としての葉山隼人に直接的には向かず、周辺に悪意を向けさせてしまった無自覚な間接的な働きがあったと言えます。

このような中心から離れることへの恐れは「みんな」や「青春」の磁場の強さを一層引き立てます。

『俺ガイル』2巻は2011年の作品でありますので、ケータイはメールでやり取りするのがメインとなっています。だからこそ、チェーンメールという匿名的悪意の拡散が題材に置かれ、「みんな」や「空気」、そして裏返しとしてのオン・オフの「距離」を明示化しました。

 

ケータイ社会論 (有斐閣選書)

ケータイ社会論 (有斐閣選書)

  • 発売日: 2012/03/24
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

メールは後で、あるいは選択的に見たり、返信したりすることができるなど非同期性が高い。一方で、着信音やボタン音を消してしまえば完全に無音になるため、声を発する通話が問題となるような公共空間においてもリアルタイムな、すなわち同期性の高いコミュニケーションも可能となる。

岡田朋之・松田美佐『ケータイ社会論』

 

ケータイメールの非同期性の高さと同期性の高さといった矛盾を両立させたコミュニケーションが、既存の人間関係の強化を目的とした「コミュニケーションのためのコミュニケーション」を成立させました。日常的なやり取りの連続性は、そこから外れたくないといった不安を「学校の外」でも煽る形として表れ、学校という舞台で「親密さ」として暴かれていきます。

 

 

第一は親密さの確保である。会話と同じような直接性に満ちたやりとりの親しさをいつでも維持しておきたい。その意味では、ケータイメールは「直接接続」のケータイ通話の延長上にある。他者との共同性の希求であるとも論じられよう。

第二は距離の確保であり、相手にあまり拘らないでよい間接性を可能にする。ここにおいて、通話との差異が「文字の文化」の特質をともなって現れる。すなわち「声」の共鳴の共同性を切断したところで成立する「文字」による読み書きの個体性である。

親密さと距離、直接性と間接性、共同性と個体性という、相反する欲求と異なる志向の均衡のうえにケータイメールのコミュニケーション空間が成立している。

佐藤健二『ケータイ化する日本語』

 

葉山隼人に対して間接的に問いを突き付けたチェーンメールは、メールの直接的な接続による親密さの希求が、間接的な中心への距離の発露として暴かれたグループ内の「友達の友達」の間接性と両立してしまう意味を投げかけました。これらの文脈はメールが持つ「空間」の引き写しのようでもあります。

依頼については葉山隼人を取り除くことで丸く収めるような形に持ち運びましたが、葉山という中心の功罪が一つ挙がりました。犯人を名指しする解決ではなくとも、結果的に犯人像は絞り込められた。

ここで明らかなのは、スクールカースト上位にポジショニングしている彼らも苦悩していることです。スクールカーストが低い比企谷八幡の「青春における生きづらさ」だけではなく、上位にいる彼らさえも「青春」や「みんな」に囚われている。

その事実が比企谷八幡の視点で語られたことが重要でしょう。この結果は二項対立の温存をある意味では強化させ、上位(葉山隼人)と下位(比企谷八幡)の目線を交らわせました。

ここで、不思議な存在として戸塚彩加が挙がります。

戸塚彩加スクールカーストからの自由さは作中でも随一と言えるでしょう。不在の中心である比企谷八幡の視点から、戸塚彩加の属している位置が正確には見えません。テニス部といった位置は1巻時点で読者と共有されていますが、クラス内における立ち位置は見え難い。クラスの女子から人気があることは、由比ヶ浜結衣が発言していたようにある程度目立つ存在として認知されている一方で、比企谷八幡に話しかけることは当然として、スクールカースト上位とも自然に交流がある。クラス内で可愛がられていることもあり、比企谷八幡と異なって相対的に目立つ存在であるにも関わらず、戸塚彩加比企谷八幡が目立っていると1巻で述べていました。

不在の中心として物語の主人公であり、語り手であるから読者的には自然なことでありますが、物語のキャラ、特に戸塚彩加のようなフラットさ、スクールカーストが決して下位ではなく厳密には不透明で、可視化し難い自由さを獲得しているキャラがそのように述べることは、逆説的には彼であるから可能とも言えます。可視化できないから自由な立ち位置を獲得しているというよりも、自由であるために捉え辛いのでしょう。そのフラットに眺めることが出来るような転倒した位置や中性的な容姿を含めた価値判断の「中立」や「留保」が、戸塚彩加というキャラクター性ではないでしょうか。

チェーンメールの件を終えた後、川崎家の問題に話が運びます。

高校2年になってから帰宅時間が遅く、素行不良化の懸念していることを受けて、川崎沙希のバイト先を調べる流れでメイドカフェに行く場面があります。

戸塚彩加の中性的な容姿を女性的に扱うライトノベル的展開があります。そして「男の娘」的消費に加えた「メイド」といった記号性へのアイロニーが見られます。ここで、戸塚彩加はそのような扱いについて怒りますが、「男同士の冗談」だと男性性を押し出すと気分を良くしたりと、中性的な存在はそれ自体がコンプレックスとなり得ることが描かれています。

一見よくある「男の娘+メイド」展開といった消費に読めますが、それらは彼を見ている側の都合のいい眼差しの暴力性であり、記号の押し付けに対する反発がアイロニーとなっています。

戸塚彩加は、中性的といったある種の中立よりも自分が思い描いている男性性に重きを置きたいが、実際はそのように見られないことによる不都合さがあります。中性的と呼ばれる男性の場合は、女性性に引っ張られることで成り立つものであります。それとは反対の男性性への憧れから「男らしさ」を素直に受け取る戸塚彩加の姿には、ある種の留保がある中性的なキャラに対する記号的理解へのカウンターが見て取れます。

川崎沙希のようなツンデレ少女が、実はメイドカフェで働いているかもしれないという記号も同様です。そのテンプレ的展開や理解といったバイアスが、正しく人を見ることが出来ない難しさを突き付けていると言えるでしょう。

川崎沙希の件は家族問題です。

当事者以外は何が出来るのかということ。他人の家について口を出せるのかということ。

家族外ではなく、家族内ならば話は成立する。

ある意味では「外」の限界性が描かれています。川崎家の輪郭を捉えながら、比企谷八幡と小町も同様に「家族」の要素が組み込まれています。家族は自分に一番近い他人と言えますが、家族ならではの距離感があり、それでもコミュニケーションの齟齬が生じることは当然ある。

川崎沙希の問題に入る前から、勉強と進路選択の重要性について記されていました。高校2年という位置付けを重層的に2巻で描き、葉山隼人たち、奉仕部、比企谷小町、川崎沙希といったように反復というよりも多様に展開されていました。

この2巻ではリア充側の「空気」の読み合いを推測的に描きながら、その中に入れないスクールカースト最底辺の比企谷八幡の視点が「外」であり、ある種の客観性が担保される。それによって作中の「解」になり易い結果がありました。

しかし同時に、川崎家の問題は「外」から出来ることの臨界点も提示したと言えます。

重層的かつ多様に描かれたのが2巻だと書きましたが、反復性は1巻同様にあります。職場見学希望調査票から始まり、2巻の終わり方に表れるような織り込まれた反復性から見える「まちがい」は、前進の困難さを提出した停滞と後退です。「変わらないこと」は「成長の奴隷」を退けることの美徳であり、裏返しにある潔癖さの発露です。

職場見学のグループ分けからチェーンメールが生まれました。

川崎沙希は高校2年から学費を貯める必要性があってバイトを始めました。

何かしらのキッカケがあって、行動や環境が変化する文脈が一連の展開に描かれていた。

しかし、比企谷八幡は徹底して受動的なコミットメントでした。

そこにはケータイのメールの機能を不完全だと述べたように、コミュニケーションの非同期的な不完全性が見えてきます。

由比ヶ浜結衣に「優しくされている」のも、事故がキッカケだと思っている。

事故の負い目に対して由比ヶ浜結衣の行動が変化しているだけであり、その結果、比企谷八幡の環境が変わっただけに過ぎないと。必要以上に「優しくされている」と思ってしまうコミュニケーションのズレは受け手の解釈次第です。

安直なラブコメに落とさない/落とせないのは「まちがい」たくなくとも「まちがって」しまうためです。

由比ヶ浜結衣の優しさを欺瞞や偽善といった解釈の受け取り方をすることで生じるズレ。比企谷八幡の主観によるズレであり、この物語の魅力である語り手の捻じれがそのまま素直に「まちがって」変換した結果と言えます。

彼のコンプレックスと経験則が、その「優しさ」を確信してしまうバイアスとなるのが「まちがう」根拠であり、しかし決定的に「まちがう」からこそ遠大なコミュニケーションにおけるディスコミュニケーションとしての『俺ガイル』が成立するための「必要悪」に映ってしまう。

ズレに気付かないのは由比ヶ浜結衣の優しさの本質が、比企谷八幡の主観と経験の範囲外であるからです。

つまり、解釈と経験が一致しないからこそ縺れが生じる。

 P258 真実は残酷だというなら、きっと嘘は優しいのだろう。

だから、優しさは嘘だ。

 

同様に「青春も嘘である」としたのが1巻でした。

「優しさ」は距離感が掴めない。「内」なのかどうかも判然としない。「外」から見ていることである種の客観性がありながらも、それは主観性の範囲内であったことが露呈するかのように。最後方に位置して自分が見ている距離感が、いつも優しくされることで距離感、遠近感を狂わす。

その結果、勘違いをして、ズレてしまう。

「青春」や「優しさ」は取り違えてしまうものであり、取り替えること自体は「変化」となる。アンチテーゼとしての「変わらないこと」が正当化できるための根拠であり、それを受け入れることは矛盾を生みます。

連続的に負けてきたからこそ諦め、希望を持つことをやめたのが比企谷八幡です。

その強固な守りこそが自分の同一性を保つ唯一の方法であると。

勘違いをしないように自衛することは、過去の経験によるものです。敗北に関しては百戦錬磨。深読みして、曖昧なニュアンスを嗅ぎ取って、自分にとって都合の良いように解釈することでしっぺ返しを食らってきた経験からの価値判断です。「まちがえない」ために慎重に留保を重ねていくリスクヘッジです。

嘘が嫌い。優しさは嘘であり、建前でしかない。

「空気」から外れることで、むしろ過敏に読み取ってしまうことで、諦めて自己防衛という穏やかなニヒリズムの裏返しとしての潔癖的マチズモが露わとなります。嘘や優しさを撥ね付けるための「正しさ」という強さを証明することが自分の「変わらなさ」なのでしょう。

『俺ガイル』の前進していると思いきや後退してしまうことが持つ作用は、可能世界を彷彿とさせます。「事故がなければ、ボッチではなかったかも」しれないが、それでもボッチだったかもしれない。可能性の度合いの話で、結果的にどちらに転ぶかは分かりません。可能世界的に分岐するかもしれなかったある種のゲーム性を排しようとしているのが『俺ガイル』の一回性の縮図たる所以です。「繰り返す」ことができないために「繰り返さないよう」にする一回性のリアリティです。

「繰り返さない」ために「まちがえない」ようにすることが「まちがい」を引き起こす。

もはや「正しさ」とは何でしょうか。

「まちがい」と対立する位置にあるものが「正しさ」のように思えますが、エコシステム的なものに取り込まれていると、「青春」の名の下で正当化すること自体が「まちがい」であり、それらを嘘や悪とする比企谷八幡のポジショニングは逆説的な正しさを帯びるといったアンチテーゼでした。

しかし、出発点の語りから、ある種の「まちがい」を重ねることで、それすらも動的に相対化されることになるために「正しさ」の価値や位置が変容して「まちがい」の範囲が肥大化してしまう。それによって二項対立自体が、区分けを移ろいながらも温存されるような相対的価値に対して「まちがえていない」つもりの「まちがった」価値判断=ズレは「正しさ」を彼岸として幻想的に浮き上がらせます。

ある意味「正しさ」を幻想的に立ち上げながら「まちがい」は物語として引き付けられていく。「まちがった」解釈を受け取ることさえも「まちがっているラブコメ」に回収されるように。「青春ラブコメ」というエコシステムによれば、物語的にはタイトル通り「まちがっている」が正しい「まちがい」をしていると言えます。

これまで見てきた重層的かつ反復的な「まちがい」があり、それを「正しさ」のもとで排除することは「まちがい」であり、「まちがい」の多様性として、それすらも「青春」的に映ってしまうアイロニーは読者だけが分かります。キャラたちは認識できません。彼らは「まちがえないように」するために「繰り返せない」一本線を歩いているのを読者が見つめることで、上記のような「まちがい」の構造を抽出することが可能と言えるでしょう。「まちがい」や記号やアイロニーは読者だけが分かる。この視点も一つの暴力性が働いていますが。

川崎沙希の嘘は人を傷つけないようにするための「建前」でした。そういう嘘もあります。でも、家族としては素直に頼って欲しい、としたのが川崎太志の「本音」でした。

由比ヶ浜結衣の優しさ=「本音」を「建前」と受け取り、それは嘘や欺瞞であると解釈するのが比企谷八幡の経験則でした。

つまり、優しさは嘘であると。

嘘、建前、本音による解釈の不一致は相手の持ち札が見えないために、推察することで生じます。「空気」や相手を見るしかない。相手から優しくされていると勘違いをすることは、都合よく受け取ってしまった過去によるもの。優しさと称して情けをかけることは嘘であり、受け手の解釈と経験に左右されることでズレは容易に引き起こされる。

事故の当事者であることが発覚したのは、非同期性の高いメールと同様にラグがありました。そして、メールのように「正しく受け取れるか」は分からない。

「嘘」と「メール」に表れるコミュニケーションのズレの反復は、主観性のもとで取り違えることで感情や意味が攪乱される。受け手が解釈を都合よく強化させます。プラスの意味でもマイナスの意味でも。「あちら」と「こちら」に分け、受け手の正しさを引き付けるバイアスがズレを作りますが、そのような「まちがい」は「まちがえたくないため」を起点としたものに他なりません。それを単に「愚か」であると断罪することは可能でしょうが、「なぜそのようなズレが起き」て「分かり合えない」のかが遥かに重要です。

ここまで執拗に抽出してきましたが、「まちがい」に「まちがい」を重ねることで、ある種の素直さを担保しています。それこそが裏返しの「正しさ」や強さへの一貫した幻想であり、「あちら側」へと嘘や悪を跳ねつけては、「正しさ」を引き付けようとする「こちら側」の論理自体が持つ「正しさ」という幻想は「まちがい」を重ねた相対的な産物と言えるでしょう。

ある種の「外」からの視点が「解」を持ち合わせていたはずなのに、「内」に入っていくことで主観的に非同期的にズレていき、関係性は攪乱されていく。

「正しく」受け取れなかった非同期性から、物語は始まりました。

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