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ぼくはいったいなにから逃げているのか?

渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』3巻 すれ違い・客観性・自意識の保守性

 

 

孤高こそ最強である。

これまでのようにボッチの正当化の反復が見られます。つながりは弱さを生むものであり、即ち孤高である自分は強いとする2巻と同様の反復です。

冒頭の比企谷小町との些細なやり取りに見られますが、数多のコミュニケーションが「ポイント制」のように数値化されていれば余計な気苦労もしないで済む、とあります。勘違いやすれ違いといった誤解、遠大なコミュニケーションによる齟齬も発生することはない数値化という目安は、コミュニケーションが状態と状況によって流動的に相対化される中において「ポイント」のみが絶対的な意味を与えるものとなるでしょう。

例えば、好きなのか嫌いなのかのグラデーション的判定も、プラス・マイナスの力学に引っ張られた形で露わになる分かりやすさが利点となります。つまり、コミュニケーションの根幹にある「分かり難い」「分かり合えなさ」が難点と言えます。「ポイント」や数字ならば客観的指標という目印として機能します。しかし、現実には「ポイント」は反映されていません。そのような判定が中々下せないのがコミュニケーションに潜む面倒臭さと言えるでしょう。

P19 リセットすることで俺は心の平穏を取り戻し、由比ヶ浜は負い目から解放され元のリア充ライフへと回帰する。選択肢として間違っちゃいないはずだ。いや、むしろ正しい。

 

上記には主観的な正しさの主張がなされています。比企谷八幡なりの理屈であり、由比ヶ浜結衣へのある意味では細やかな気配りでもあると言えるでしょう。

しかし、彼女の感情は考慮されていません。むしろ主観的な正しさといった、それを包摂した形で押し出してしまったと見る「空気を読んだ」結果とも言えます。ここで語られているのは、事故といった偶然の出来事に対して「必要以上」の意味を与えるものでなければ、ボッチ確定となった因果関係に「必要以上」の責任が伴うものでもない、とするある種の清算です。

比企谷八幡は、人生はリセットできないが、人間関係はリセットできると語ります。

人生という一回性だからこそ「まちがいたくない」誠実な姿勢は、地続きとしての正しさを追求することでリスクは緩和し、相対的な評価としてフラットに均す。清算的に。比企谷八幡の主観としての意味では「正しく始められなかった」者たちの物語が3巻と言えるでしょう。「まちがえないように」「まちがいたくないから」「せめて正しくありたい」とする真摯な態度が、状況と空回ったとしてもなお、外的評価にあたる人間関係はリセットできると信じているのは一回性の磁場において「せめてものの正しさ」を問うものです。比企谷八幡はその意味では都合のいい解釈をしてしまっている。双方向性、同期性が瞬間的に立ち上がって、相手がいてコミュニケーションは成立するものなのに、相手を欠落させた上での一方向的なズレの肥大化が一人称という理屈で記されています。一面的には「主観的な正しさ」という自縄自縛により、自分という殻は温存され、強化される。「まちがえていない」はずだとする正しさのもとで自意識は肥大化する。ここには、他者=由比ヶ浜結衣が居ません。この清算には自己完結の要素が強すぎる。もちろん、その引き金は比企谷八幡の経験から導かれたものが色濃く反映されています。「優しさは嘘」だとする彼の理屈の裏返しには、コミュニケーションにおける「ポイント制」への羨望と諦念があるためです。前述のとおり実際に「ポイント」はありません。「空気」を読み、コンテクストを合わせていく作業がコミュニケーションならば、比企谷八幡の自己完結的状況は、彼なりに「空気」を読んだ結果としてもコミュニケーションの断念へと接続されてしまっている。そうすることで相互に距離を取り、自然的にリセットされていく。人間関係は調整とも言われますが、調整をゼロベースに傾けることはリセットに直結していきます。

その意味では2巻で用いられたメールという非同期的なツールにも表れていますが、由比ヶ浜結衣雪ノ下雪乃に送信したメールというエクスキューズも一方向的でした。双方向性という幻想の立ち上げは、コンテクストと感情の行き違いにより、ディスコミュニケーションへと転換されます。 

優しさは同情であり、ただの義務である。

「ポイント」のような絶対的な意味ではなく、状況と状態により相対的な意味合いを持ちます。その際には「空気とコンテクスト」を読まなければなりません。ある意味では「優しさは嘘」という一面的なズレも正しい主張となります。

主観的には由比ヶ浜結衣に義務的に「嘘」を強いてしまっている、とする比企谷八幡の理屈は、偶然の出来事に対する因果と「加害・被害」の構図に取り込んでいると考えています。このような「嘘」は、ある種の虚構的な優しさと呼べるものであり、義務や悪は正しくないとする反復的・潔癖的な撥ね付けに他なりません。それこそが主観的には正しいとしている。分かり難さの要因となる「優しさ=嘘」の構図は経験的なものです。

「空気とコンテクスト」が流動的な意味合いを孕んでいることは「ポイント」と相反するものであり、印が見えないからこそ「分からない」。まさに「優しさ=嘘」のように感情と切り離された行為が義務的に先行することもあります。それを「まちがい」だとするからこそ、コミュニケーションの取れる範囲が自己完結的に矮小化してディスコミュニケーションとなります。比企谷八幡の状況がそうでしょう。

そして「ポイント」とは異なり、「空気とコンテクスト」は神秘化することで、コミュニケーション環境における自分の許容範囲と肥大化する自意識は反比例していきます。「空気とコンテクスト」による相対的な正しさは「まちがい」の領域審査さえもコンテクスト化していきますが、ある種の「自意識の審級」というラインも流動的であるにも関わらず一方的に肥大化していくことで、他者性を欠落させたまま絶対的な意味を持っていると錯覚してしまいます。

ここでは「由比ヶ浜結衣の優しさを正しく受け取れない比企谷八幡」といったすれ違いが描かれています。彼女にとってはそう難しいものではないのに、彼には経験による「正しき」認知的歪みがコミュニケーションの切断を生みました。重要なのは「まちがいたくない」からこそ「空気を読んだ」ことです。それにも関わらず「まちがえていないはず」なのにズレてしまう状況があります。由比ヶ浜結衣からすれば当然のコミュニケーションとしての行動が、比企谷八幡の主観的には嘘や義務や同情として解釈されてしまう。主観的に一方向的に語られている状況による「分からなさ」に起因した縺れが「分かり合えなさ」へと繋がっています。ここでは由比ヶ浜結衣の不在のまま、比企谷八幡が都合のいいように「空気とコンテクスト」を読んだことになっています。結果的にはプラスにもマイナスにも主観的に取り込んでしまうからこそ、コミュニケーションには他者がいるはずなのに欠落してしまい、「空気とコンテクスト」による一方向的な解釈でもって潔癖性は強化されています。比企谷八幡の一方的なズレが漸近的に相互の距離を開いてしまうように。

 

 

ライトノベルでは、コミュ障が主人公となる「残念系ラブコメ」ジャンルもそうであり、スクールカーストを描いている。「残念系」とされる側面(残念特性)を隠さず、「見せかけの友達として馴れ合うよりも孤独で気ままな方がいい」とする指向性をもつ(あるいは、自分に群がる美しい女子が「残念」系という意味でも使用)が、「隣人部」「奉仕部」のような特殊な場を通じて、やはりハーレム状態の夢は描かれている。

(…)

コミュニケーションはこのように、相互性をもち、モニタリングによって相互認識が行われており、また相手に好意的に振る舞わない場合は、嫌っていると直接明言しなくてもそのように察するようにコミュニケーションを円滑にする構造が組織されているため、コミュニケーションのリスクを回避するための、逆にコミュニケーションの誤解がたくさん生じる。コミュニケーションを守るコミュニケーション様式がコミュニケーションを複雑にさせている要素は否めなく、それゆえコミュニケーションというものの負荷も原理的に高くなる。

樫村愛子『コミュニケーション社会における、「コミュ障」文化という居場所』

 

「残念」については、さやわかの『一〇年代文化論』を参照しながら1巻の記事で記しましたが、「コミュニケーションの誤解」に対するリスクヘッジが「コミュニケーション自体の負荷を高める」状態は、比企谷八幡の経験と理屈からみても明らかでしょう。ある種の素直な捻じれに起因しています。

futbolman.hatenablog.com

由比ヶ浜結衣とのコミュニケーションのズレには、「異性間」といった期待してしまうゆえに生じる勘違いの要素が含まれています。齟齬のニュアンスを突き付けるものとして、戸塚彩加とゲームセンターに行くシーンがあります。男同士ならば勘違いすることもない。異性であるからこそ変な期待を持ってしまう。

ゲームセンターで戸塚彩加材木座義輝と遊ぶ場面では、友達の定義について触れられている部分があります。材木座義輝の場合、ゲーセン仲間は友達なのかどうかといった具合に。それに対して、比企谷八幡は友達の定義よりも機能で語るとします。定義論で出発すると困難が付き纏うためです。友達という定義の曖昧さは「分かり難さ」そのものであり、捉え辛いものです。実際は機能よりも属性や状態に近いと考えられますが、ここでは男友達同士ならば勘違いすることもなく関係していられるけれども、由比ヶ浜結衣とはどうなのだろうかという問いへ向かう構成となっています。

比企谷八幡由比ヶ浜結衣の認識のズレ、不一致性はコミュニケーション不全によるものです。それは先に引用した樫村の論考にあるように、モニタリングによる相互認識状態が望ましいにも関わらず、他者性が抜け落ちた一方向的になってしまっていることが「コミュニケーションを守るためのコミュニケーションに対する負荷」が生じてしまい、そこからコミュニケーションを回避するという「空気とコンテクスト」に合わせなければならない素直な捻じれがあるためです。

比企谷八幡の主観のみがあり、由比ヶ浜結衣の情報(感情)は断片的に記述されています。その断片ゆえの見え難さはモニタリングの結果、「空気とコンテクスト」として曖昧に表れます。

さらに事実として事故の件があります。事故があり、入学早々ボッチとなった因果に対する「意味と責任」を必要以上に推察した結果と考えているのが比企谷八幡であり、むしろ由比ヶ浜結衣の優しさを適切ではないと判定します。ある意味ではここに漂う「空気とコンテクスト」を過大評価しているために取り違えてしまっているとも言えます。このような「受け取れなさ」は、比企谷八幡の経験則によって「まちがった」解釈が強化されています。

リセットしたつもりでもリセットが出来ていない。一回性の人生において、ゲームのように気軽にリセットボタンを押すことは出来ません。確かに一面的にはつながりの弱さもありますが、他方では人と人とのつながりは容易に切れないものもある。比企谷八幡にはリセットの経験しかなく、つながりが温存されてきた経験が無かっただけだと言えます。だからこそ幾度となく反復的に孤高であることを正当化し、「残念」な語り手としての矜持を持ちながら「生温い馴れ合いよりも孤独によるタフさ」を前景化させようと見せている。持っていなかった手札以外にも手札はあります。『俺ガイル』は、その意味では「持たぬ者」が「まちがえない」ようにするために手札を駆使しても「まちがってしまう」循環に囚われるジレンマを主観的に描いたと言えるでしょう。

このすれ違いには、由比ヶ浜結衣が切断された状態が先にあり、周り(戸塚彩加材木座義輝、雪ノ下雪乃)と関係していくことで由比ヶ浜結衣へのコンテクストを合わせに行く状況が作られていきます。ズレの原因は由比ヶ浜結衣の優しさを「同情と義務という嘘」としたことであり、由比ヶ浜結衣の真意は正確には分からないのに、経験的に対応した結果が齟齬を生じさせました。このグロテスクな非同期は、一方向的な好意をマイナスに受け取り損ねることで決定的にすれ違うといった主観の歪みがあります。

本明寛の『誤解』には「コトバのやりとりで気を付けたいところ」として以下のようにあります。

 

気持ちがコトバにあらわれている時には、主観的な説明である。事実と違った表現になりやすい

 

住む世界とコトバの世界は必ずしも一致しない。住む世界での事実がコトバの世界では美化され、省略されることが多い

 

比企谷八幡の主観的経験的な説明が、由比ヶ浜結衣の優しさが意味する事実とは異なっていたことが「誤解」を生んだと言えます。

また「住む世界での事実」は事故から派生した因果が該当します。本明寛の言説によれば「コトバの世界では美化され、省略されてしまう」ために誤解してしまう。これは由比ヶ浜結衣の優しさを比企谷八幡からの視点でいえば「必要以上」に感じ、それゆえに適切ではないから「不必要」であるとした「美化」が前提にあります。この「美化」は期待や勘違いに近いでしょう。その「必要以上」な「美化」を正しくないとした比企谷八幡のロジック(コトバの世界)は、ある意味では正しく「まちがって」いました。由比ヶ浜結衣の「住む世界での事実」から素直に引き出されている真意が「美化」ではなく、事実として、さらに「省力」されて零れ落ちています。主観的な語り口に依存した「他者性」の欠落から、「省略」された捻じれとして「誤解」が生まれています。

このすれ違い、誤解は更なるコンテクストを重ねていきます。

雪ノ下雪乃と一緒にいるところに由比ヶ浜結衣と偶然出会うシーンがそうです。

このような「偶然性」は3巻で重要な要素だと言えます。

しかし、物語に「偶然」なんてあるのでしょうか。

もちろん、作中の「偶然」は作者の手によって「必然」として描かれているわけですが、キャラクターたちはその「必然」を認知することは出来ません。ですから、戸塚彩加材木座義輝とゲームセンターに行く流れも「偶然」とするならば、「偶然性」という外的要因によることで関係性や内省が攪乱されていくための「装置=必然」と言えます。比企谷八幡には「他者の不在」が起点にあるために「偶然性」から接続されていく「必然」がある。

そこから「偶然に偶然」が重なった結果、関係性は混乱し、あらぬ誤解が生じていきます。そもそも由比ヶ浜結衣比企谷八幡のすれ違いも、事故という「偶然」が鍵になっていました。

物語レベルとしては重要な「偶然性」であるにしても、キャラクターたちは物語=人生という一回性の磁場にあって、そのパッケージ化された側から抜け出すことはできません。であるから一回性という中で「まちがえない」ように「まちがい」を極力排し、「偶然性」の中から確実なものを手にするために持っているものを温存するという自意識の保守化が働くと言えるでしょう。 

 

P94 誤解は誤解。真実ではない。ならそれを俺自身が知っていればいい。誰に何を思われても構わない。……いつも誤解を解こうとすればするほど悪い方向に進むしな。もう諦めた。

 

最小限に留めるためのダメージコントロールは「空気」を読むに通じます。樫村の論考にあったように「空気」に結果的にコミットするような働きがあると言えますし、その行為がディスコミュニケーションとして「原理的に負荷」を高めてしまう。他者との関係性において、傷つかないためにアイロニカルに経験則を持ち出し、負けないための手札を切る。

自意識過剰を抑制させて傷つかないためのラインを見極めることは、諦観と静観という「空気」を読んだ上で変に動かない方がリスクヘッジに効く判断に繋がります。

自分のことは自分の範囲内で収まるように分かっていればいい。「他者の不在と誤解」を解く努力の放棄は諦めてきた経験による「適切な判断」となり得る。

雪ノ下雪乃比企谷八幡が一緒に居るところを由比ヶ浜結衣と会ったシーンも、事故の件も、「偶然に偶然」が重なるようにすれ違いのコンテクストが二重化するようになっています。誤解を解きほぐすコミュニケーションによる双方向性が無ければ(それを断念すると「空気」を読みながらディスコミュニケーションに傾く)、それぞれの個人レベルの理解からはみ出ません。「持たない者」が領域範囲外へと手を伸ばさないように、自分の範囲内だけで充足している様は諦念による自己完結した「残念」なボッチの処世術であり、ディスコミュニケーションの前景化です。

事実と結果から滲み出る淡いや「美化と省略」されることについて、それぞれの理解で済ませようとするディスコミュニケーションの様子から、モニタリングした共通認識を作る回路が比企谷八幡にはないことが描かれています。理解や認識さえも個々人の曖昧なバラバラさに収斂することをよしとする「諦め」が経験的に先行してしまっているからです。

それは「期待」してしまうことによる「美化と省略」の歪みが起因しているならば、雪ノ下雪乃と出かけるシーンでの比企谷八幡が抱く安堵感は「由比ヶ浜結衣の優しさ」とは対照的に映ります。

比企谷八幡は、雪ノ下雪乃が「嘘を吐かない」ことを信用しています。偏に「嘘が嫌い」である潔癖性によるものであり、真実=「美化と省略」から離れているためです。期待しないし、されないことで誤解が生まれようがない状況と言えます。

つまり、何かに期待しているとすれ違う可能性がある。期待による「美化と省略」が都合の良いように捉えてしまうが、諦念によって都合の悪い方向に流れていくことでも結果的に「まちがえて」しまう。優しさが嘘や同情だと判定しながら、期待してしまうバイアスがかかることで「まちがえる」からこそ期待せずに、諦めることで都合の良い方向にいかないことで「まちがえない」ようにしても、由比ヶ浜結衣とすれ違っている状況が生まれてしまう。「必要以上」にネガティブに捉えても、真意は汲み取れない。それも真実ではなく、その理解に由比ヶ浜結衣が存在しないことに他なりません。

自分完結のための自意識でしかない状況において、如何にコミュニケーションのリスクヘッジをしてもすれ違ってしまう。自分本位の「分かり難さ」を起点に他者との共通認識を作るしかないのに、相手を見ていないのは諦めによる切断が起点にあるからと言えます。

ところで3巻には雪ノ下陽乃が登場します。

比企谷八幡と小町の兄妹の距離感に対して思うところのあった雪ノ下雪乃が描かれてきましたが、そのイメージを補強するように雪ノ下陽乃の外面のよさが徹底されています。その仮面を看破した比企谷八幡の理屈は、理想的すぎるのは嘘臭いとする、ボッチは期待しない現実主義者だから見抜けるものでした。裏返せば理想に対する諦め、断念から現実を眺めるほかないとも言えます。

偏屈を重ねることで、理屈という筋を通すことで見抜ける雪ノ下陽乃の違和感について、経験と理屈による「正しさ」があります。

しかし比企谷八幡たちが常に「正しい」わけでもありません。むしろ主観的に「正しさ」を選択したつもりがズレて「まちがう」。その齟齬さえも流動的であり、彼岸としての「正しさ」や絶対性を理想という価値でもって幻想化させてしまう。

この登場で大きな意味を持つのは、雪ノ下雪乃が姉に屈する光景が描かれているところでしょう。少なくとも絶対的と思われた雪ノ下雪乃の立ち位置が姉の存在感によって流動化・ 相対化されてしまう現実は、ある意味では「現実的=雪ノ下雪乃」のパラレルに「虚構的=雪ノ下陽乃」という理想を位置付けることで、「嘘を吐かない雪ノ下雪乃」と「嘘臭すぎる雪ノ下陽乃」の対比から「現実と理想」の存在感を際立たせました。その違和感も含めた存在感を「現実側」としての比企谷八幡の語りから引き寄せる構図と言えます。

この二項対立の意味は、もちろん「理想と現実」は違うことを現実的に突き付けることです。現実を知れば知るほどに理想の輪郭は嘘臭さを増す。雪ノ下陽乃のように。彼女を理想形とする、彼女の仮面を作ったのは現実側の「理想や欲望」に他ならないとしても。理想形でしかなく、現実感が希薄ともいえる存在として当初は描かれています。これも「理想」というイメージに過ぎず、自覚的に記号的に回収されながらも、裏側に潜んでいる雪ノ下陽乃の違和感にある「現実性」もまた現実側から引き寄せられた結果と言えるでしょう。

さて、話を戻します。

すれ違いのコンテクストが二重化してしまった雪ノ下雪乃由比ヶ浜結衣

曖昧な言葉と態度によって、意味が噛み合わないまま会話が進行してしまっているのは現実(住む世界)とコトバの世界のニュアンスの不一致による誤解そのものです。

この二重化は由比ヶ浜結衣を番いとして「由比ヶ浜結衣比企谷八幡」「由比ヶ浜結衣雪ノ下雪乃」といったように、すれ違いのコンテクストが多重化していることを意味します。

前者は由比ヶ浜結衣の優しさを「同情・義務・嘘」であるという捻れた現実主義的主張による解釈が起因しています。

後者は由比ヶ浜結衣への感謝を述べたい雪ノ下雪乃ですが、由比ヶ浜結衣雪ノ下雪乃比企谷八幡が付き合い始めたという思い違いをしていることで「好意と行為」のズレが生じています。それぞれの解釈によって、共通認識としての言葉と態度が噛み合わない誤解のコンテクストがあり、「由比ヶ浜結衣雪ノ下雪乃」の部分では比企谷八幡視点といったある種の「外的」から眺めることで客観性が示されています。

しかし「由比ヶ浜結衣比企谷八幡」のコンテクストでは、その「外」が担保されていません。語り手自身が「内面化」して没入しているので、すれ違いのコンテクストに取り込まれています。自分のことは見えているようで見えないものです。相手を見て、他者が自分を映す鏡であるような間主観性をいかに構築するかが重要ですが、後者では比企谷八幡がそのニュアンスを掴めますが、前者のコンテクストには間主観性が欠落してしまっている。比企谷八幡の主観だけでは、プラスにもマイナスにも自身の都合や解釈から逃れられない。感情と言葉と態度のコンテクストによって左右されるものですが、由比ヶ浜結衣の不在のままの主観的理解が押し出されている状況でした。

他方で、比企谷八幡は後者の「由比ヶ浜結衣雪ノ下雪乃」のすれ違いについて、由比ヶ浜結衣の勘違いには心当たりがあり、彼自身は気付いていたが、自分からそれを正すのは自意識過剰のようで抑制していたことが記されています。そこまで見越しているところが既に自意識過剰のようにも思えてしまいますが、「外」的である比企谷八幡が「間」に入らないことで捻じれたままになっているとも言えます。

そんな折に材木座義輝の乱入によって空気が弛緩する奉仕部。非日常的な存在により、日常の緊張状態にあった空気が緩和され、良くも悪くも「外の空気」が入ってきたことになります。材木座義輝がその意図があったかどうかは関係ありません。「偶然性」が重要です。彼自身が直接コミットしなくても「空気」が入れ替われば別種のコンテクストが立ち上がらざるを得ない。奉仕部内の二重化したすれ違いのコンテクストとは別に奉仕部に依頼という「外のコンテクスト」が接続されることで、パラレルに温存されながらも「空気」を再構築することができる構造となっています。

材木座義輝の依頼から始まった遊戯部との大貧民対決のように、持ち札を推察することは「空気を読む」ことに通じています。ノリを合わせることは、集団に属さず、そのような空気を敬遠している集団心理から程遠い比企谷八幡だからこそ、ある種のマンガ・アニメ的なサービスの拒絶をするシーンがあります。このコンテクストは、遊戯部と材木座義輝といった男性的な欲望とメタレベルにある読者というコンテクストとのある種の結託だと言えますが、「空気を読まない」ディスコミュニケーションで対抗することで「コミュニケーションを守る」効果が働いています。なにも「空気を読む」だけではありません。「読まない」ことさえもある種のコミュニケーションとなり得る。沈黙や拒絶が作用として。

その意味では、大貧民における手札というのはコミュニケーションの比喩だと言えます。 カードが共通認識となることで、相互の意思のズレを埋めていく心理的作業。共通のゲーム・ルールがあり、手札があり、その埋め合わせをしていくことはディスコミュニケーション的な文脈が積極的に転倒したコミュニケーションの作用そのものではないでしょうか。

ここで描かれている大貧民は、コミュニケーションを加速させるだけではなく、現代社会を反映させたかのような弱肉強食の比喩としても用いられています。革命やスペードの3は、弱者が逆転する構図そのものであり、「持たず、否定されるもの」たちの反逆の狼煙としてカタルシス的効果を発揮していますが、ここでも「理想と現実」の対比があります。この文脈はさきの雪ノ下陽乃もそうでしたが、「理想」の否定として「嘘臭く偽物」であるからこそ、現実的であろうとする現実への回帰といった引き寄せがある。「理想」を否定して、徹底的に現実的たろうとするために理論武装して「現実側」を強化している遊戯部からすれば、材木座義輝の「理想」は酷く嘘臭いものに映る。「現実」の前景化による否定は、根拠なき「理想」自体を相対化させるように材木座義輝の位置も弱者的に描かれています。

その弱者的立ち位置であるからこそ、大貧民の比喩がカタルシスとして表れます。革命とスペードの3が「希望」にもなり得る状況は、「現実」の中で否定されてしまう「理想」が唯一の「希望」になるものとして比喩的だったと言えるでしょう。

そして比企谷八幡が遊戯部に語り掛けた「理想と現実」のバランスは、否定も諦めもまだ判断を下さなくてもいい「モラトリアム=先送り」の肯定でした。価値判断の保留という現実的提案が、「理想と現実」を宙吊りにすることで緊張状態を緩和させるように。

材木座義輝と遊戯部の対立・すれ違いに対して、比企谷八幡が「間」に入ることで、つまり「外」的に機能するからこそコミュニケーションの間主観性が構築され、関係性が攪乱されるケースでした。

奉仕部内では反映されていない、出来ていないことが先にこの場面で行われたとも言えます。転じて奉仕部のコミュニケーション問題にシーンは流れます。

P239 始め方が間違って 本物と認めることはできない

始め方の問題としてのすれ違い、誤解を主張する比企谷八幡。始め方が「まちがっていた」とします。

しかし、始め方に「まちがい」なんてあるのでしょうか。この後に直接的に応答した文章ではありませんが、コンテクスト的には合致しているように読めてしまう由比ヶ浜結衣が遊戯部たちに向けた言葉があります。

 

P214「始め方が正しくなくても、中途半端でも、でも嘘でも偽物でもなくて……、好きって気持ちに間違いなんてない……と、思う、けど」

 

始め方の問題ではなく、本物と認めることができなくても、それを思いやる気持ちには「まちがい」なんてないとする彼女の言葉は、結果的に始め方を起点とするよりも以前の条件である「想い」に差し替えるものだと言えるでしょう。ここでも前提の解釈のズレがあります。

関係性をリセット、差し引きゼロにして終えることが比企谷八幡の経験則でした。ある種の純粋さがイコール潔癖として表れているわけですが、「始め方の正しさ」という前提をコンテクストがすれ違ったままどのように調整するか、という話にスライドしていきます。そこで重要なのは遊戯部と材木座義輝の件にもありましたが、「由比ヶ浜結衣比企谷八幡」の二者関係から「外的」存在が「間」に入る働きでした。 

そこで雪ノ下雪乃が「外的」として機能することで、「内」にいる「由比ヶ浜結衣比企谷八幡」の二者間を客観視する「外」的視点を提出できます。この機能性は遊戯部と材木座義輝の件のときには比企谷八幡たちが担っていたものと同質と言えます。問題となっている事物に対する「空気」の可視化によってフラットな提示ができる効果は、この場合では雪ノ下雪乃といった第三者の存在によって担保されます。 

 

私たちが好んで(?)行いがちな、どちらの根拠のほうがより経験的事実に合致しているかという確認困難なレベルの言い争いは、ややもすれば容易に水掛け論、泥試合に陥る傾向があります。

 

根拠の内容がより具体性をもっていること

再現性があること

どんな対象について、どのように観察したのか

が明示できることを備える必要性がある。

福澤一吉『わかりあう対話10のルール』

 

 

比企谷八幡の経験的事実という主観には、再現性があるかどうかは曖昧と言えます。なぜなら、現に由比ヶ浜結衣とのすれ違いは経験的事実から導かれた錯覚の類いであり、それ故に彼の固有性やアイデンティティとなっている「正しくまちがっている」ジレンマでした。

 

人は、それぞれ自分の主張に好都合な論拠を背景に経験的事実を集めてきます。

どちらのほうがより根拠が確立しているかどうかを考慮するための手続きは、第三者からみても具体性が分かるように明示されていなければならない。

 

福澤一吉が記しているように、他者の不在のまま構築された比企谷八幡の経験則は、ある意味では「空気とコンテクストを読んだ」上で自身と相手を慮るように「正しい」と思っていることが「まちがい」に転じてしまうものでした。その結果「分かり合えない」かのようにすれ違ってしまった。

そして「第三者からみても具体性が分かるようにしなければならない」という点では、「外的」に働く雪ノ下雪乃だからこそ論点を差し替えることが出来たと言えるでしょう。

雪ノ下雪乃が述べた論点は、「始め方の問題」ならばその前提条件から見つめ直すことでした。比企谷八幡由比ヶ浜結衣はそれぞれ等しく事故の「被害者」という共通点があり、因果の原因は「加害者」に向けられるべきという提示でした。だからこそ、由比ヶ浜結衣比企谷八幡は「被害」のもとでフラットに「やり直し始める」ことができる。そういう共通認識を与えることが出来るのは、『俺ガイル』がこれまで一貫して作中の「外的」な存在による捻じれたロジックが担保されてきた文脈があるためです。

経験的事実に再現性があるかどうか、具体性があるかどうか、さらにきちんと論理が確立しているかどうかを第三者による視点がなければ、それぞれの経験的事実の主張のみが先行して水掛け論になってしまうといった吉澤の言説を借りると、まさにこのシーンの三人の立ち位置が証明していると言えます。

なぜ、このように絡み合ってしまったのでしょうか。

比企谷八幡の思考を整理します。

事故は「偶然的」な産物であり、由比ヶ浜結衣であることを特定して事故に関わったものではない、とする匿名的行為に尽きるとしています。そこに特別性はなく、由比ヶ浜結衣がそのことに特別性を見出すのは「まちがっている」。そして「特別でもない普通のこと」であれば、「必要以上」に恩恵を授かっていても「正当」でなく、「本物」ではないとする「始め方の問題」に終始している、というロジックが成立しています。

そのために由比ヶ浜結衣の優しさや気配りが「必要以上」な同情のように映ってしまう。比企谷八幡の行為は「偶然的な匿名的」であったのにも関わらず、由比ヶ浜結衣の行為は「必然的に特定的」な意味を持ってしまうからです。これらの捻じれは、比企谷八幡の解釈上は特定的な義務行為に見えてしまうことも要因でしょう。

だからこそ「始め方の問題」であり、特別な意味もなく、そのように偽装するのは「本物」ではないとする潔癖的拒絶が根底にあります。

一方で由比ヶ浜結衣にとっては、匿名的とか特定的だとかよりも、もっとシンプルなことであるという齟齬が起きています。

しかし、事故=「偶然」に「必要以上」の意味を持たせたくないのは「期待して誤解して」しまうためであり、その結果としてアイロニカルな経験的事実が成立してきたとも言えます。比企谷八幡にとっては、このような経路を辿らなければロジックが構築できない。「勘違い」をしてしまうからです。敗北し続けてきた経験を蔑ろにしないためにも。この主観性のジレンマを通すと、単純な好意(由比ヶ浜結衣)と「空気を読んだ上での」複雑な独り善がりな思考(比企谷八幡)となります。

だからこそ「始め方がまちがっていた」とする経験的事実に対して、雪ノ下雪乃の「正しく始め直せばいい」という提案は関係性の上書きと言えるでしょう。すれ違いの原因は「加害・被害」にあると雪ノ下雪乃が提出することで、共通的な被害者としての「私たち」を建前的に作ることができます。その上で「始まりの問題にあったすれ違い」を終わらせることができ、それ故に等しく「被害」のもとで始め直すことができるロジックでした。

「偶然」に「必要以上」の意味がないとする比企谷八幡の主張に対して、別の角度、つまり「外的」に働く視点から異なった「偶然」の意味(被害という共通項で包括)を作ることで、「すれ違っていた=分かり合えていない」ところから如何に共通認識を立ち上げるか。その働きは二者関係から外れたところに位置する者の特権ですが、実際は被害者としての「私たち」という共通認識から、恰も「加害者」を仮想敵として纏める捻じれた意味も必要的に問わなければならなかったでしょう。

確認しておきたいのは、すれ違いにおける対話では、由比ヶ浜結衣のように厳密に言語化できない場合があります。

そして、比企谷八幡も自身のロジックをきちんと相手に分かるように伝えているとも言えません。「始め方の問題」にあるように初めから微妙にコンテクストがズレたまま、会話が進行してしまことで裂け目が拡大化します。言語化できない場合、どのように動機や意味を作り、コンテクストを同期させていくことが出来るか。このシーンでは雪ノ下雪乃から与えられた意味、つまり共通認識や主観性の問題と繋がっています。比企谷八幡自身が導いたのではなく、他者からロジックが与えられていることに意味があります。

3巻では比企谷小町戸塚彩加材木座義輝、雪ノ下雪乃といった「外的」に刺激されることで自分自身を確認していく構造でした。比企谷八幡には初めから理論武装したエクスキューズありきの意識設定ですが、自分自身では分からない「不透明さ」が異なった視点から意味が攪乱されていきます。

比企谷小町戸塚彩加から「最近変だよね?」と言われるまで自覚的ではなかった比企谷八幡のように。自分では自分のことは分かっていない。主観性のジレンマにより、自分のことは自分が一番分かっているという思い込みを信じたいことは、アイデンティティの補強によるカウンターとしてポジショニングしてきた側の理屈に直結してしまっているからです。

誤解や勘違いは期待してしまっているから生じるために「悩むくらいなら諦める」という断念は、材木座義輝のような希望や願望とは対照的な現実としての判断でしかありません。地続きとしてのリアリティがあり、「まちがい」たくないから諦める他ない。その一貫性は強化されていく志向性であり、潔癖的マチズモと露わになります。その固定化とは反対に、周りや人間関係は流動的です。リセット可能とする固定化した比企谷八幡の経験則は、一回性であるから人生自体はリセットできないが、せめて「まちがえない」ようにするために慎重を期すればするほどにすれ違ってしまうアンビバレントな落とし穴でした。

他者を見ないまま経験的かつ主観的に処理しようとする様は、ある種の傲慢とも呼べるでしょう。「まちがい」たくないとしても。それ故に持っているものはなるべく温存したい。その心情は一回性の引力により、同一性が担保されながら反復を繰り返し、保守性を主観的に経験的に強化してしまう。

これまでの自虐ネタというアイロニーは経験則から導かれています。負けを知り、勝つことはなくても、同時に負けることもない手札を切る経験が蓄積されてきた捻じれからのある種の素直さだと言えます。いつかの自分を引き合いに「ネタ」にすることで専守防衛する。

比企谷八幡由比ヶ浜結衣」のすれ違いは「まちがい」ながらも、ラブコメとしては王道のような展開を見せています。

由比ヶ浜結衣による新しい好意を受け入れることができないのは、比企谷八幡の主観的かつ経験的な遺産へのアイロニカルな信頼に他なりません。その敗北の経験は、異なる他者を受容できません。ある種のテンプレめいた経験を参照することで、温存された固定観念を再生産し、先行的にリスクマネジメントを図ることで別のコンテクストが立ちあがってしまう。

3巻の比企谷八幡由比ヶ浜結衣の一周したディスコミュニケーションによる距離と齟齬の表れは「まちがい」であるが、同時に「正しさ」も孕んでいます。なぜなら、主観的な応答を経た共同的な視点は、コミュニケーションの「移動」が形成されることで適うものです。ディスコミュニケーションによってコミュニケーションが要請される、というのはその意味です。この文脈に照らし合わせれば「まちがい」が「正しさ」を作り、また「まちがう」ことで次の段階を踏める、という循環的ながらも意味や関係性は他者に攪乱されるように「移動」していきます。

例えば、ジル・ドゥルーズの「領土」という概念には、フォン・ユクスキュルの「環世界」に少なからず依拠しています。ユクスキュルの「環世界」とは、それぞれの生き物に宿る固有の世界そのものを意味します。生物の身体それぞれに固有のスタイルがあり、異なる世界、つまり「環世界」が認識されている状態は固有性の確認と言えます。それぞれの「環世界」という異なった世界を「移動」する。この運動性の場所として「領土」がある。

つまり未知と既知を行き交う運動を経ることで「領土」を脱け出し、再定義化する多様性こそがコミュニケーションの様式に接近していると言っていいでしょう。

「環世界」的に、「領土」的に、固有と流動の「移動」を繰り返すディスコミュニケーションとコミュニケーションから見出される「分かり合えなさ」を互いに受け止めることが第一歩です。そこからつなぎとめるための受け容れを模索することでしか、完全に相互に「分かり合えない私たち」というある種の同一性の切断とそれさえもつなぐための同期的な在り方としての差異は生まれません。

同一性と差異は「分かり合えなさ」を起点としています。漸近的にズレてしまう要素を抽出していくことで、(非)同期的な差異が提出されます。

もちろん、同一性だけを掬い取ることも「大きな共通認識」として働きます。作中では「被害者」の名の下で共通的であった比企谷八幡由比ヶ浜結衣のように。差異から同一性を構築していった雪ノ下雪乃のように。

しかし根底には「大きな共通認識」でだけでは不足してしまいます。根底にある「分かり合えない」というズレが差異として乱立します。だからこそ、その差異という共通認識さえも「分かり合えなさ」に繋げることで別の共通認識を立ち上げることは可能でしょう。

差異は、一回性ゆえの現実主義的にならざるを得ないある種の保守性へのアンチテーゼとして機能しています。

比企谷八幡でいえば、他者性の欠落という「領土」から「移動」を切断した経験的な自意識の肥大化と潔癖性でした。この「環世界」は同一性を温存するものでしかなりません。そこに由比ヶ浜結衣の態度と「領土」、雪ノ下雪乃が与えたロジック(同一性と差異)によって「領土」は脱領土化するように「移動」せざるを得なかった。経験的に対応できない未知との接触として。

これらの自意識の運動は一面的には同一性を強化しながら、他方では差異を取り出すようにして他者性と接続されていきます。「分かり合えない」「すれ違ってしまう」ことを通じた上で、与えられた共通認識としての別のコンテクストに寄りかかるように。「移動」による「領土化」を経ることで、固有の保守的な自意識への批判に繋がっていきます。

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渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』2巻 非同期的な不完全的なコミュニケーションの始まり

ボッチであることを正当化する内省は、比企谷八幡自身の矜持のように描かれています。

群れることを弱い草食動物のように例え、逆説的に孤高であることを強さとする。ボッチであることを正当化する逆説的な理屈は、1巻の「青春」における「正義と悪」を連想させます。「青春」側である「あちら」を「悪」とするならば、そうではない「こちら側」は「正義」であると。自分自身のタフさを引き付けようとしています。

相対的にいえば群れることは弱く、群れない「こちら側」は強い。草食動物と肉食動物の比喩のように。温存されている二項対立的な支えが無いと、その理論自体は成り立ちません。「あちら」を揶揄しながら「こちら側」を補強するための方便です。これ自体は「あちら側」を単純化し、記号的に見ていることの所作でもあります。群れることは個性を「空気化」するので、認識しきれずに埋没してしまう。流行に乗っかれば、全員が画一化すると同じように。個性は個性的であろうとすると、個性自体が脱色してしまいます。

そういった認識、つまり記号化や画一化が働くことは、ある種の認識不足でもありますが、「あちら側」へと追いやるように単純化した記号的理解が奥行きを見せないように「こちら側」が前景化しているとも言えるでしょう。そのための比企谷八幡のモノローグでもあります。

群れている「あちら側」を草食動物とし、草を食いながら仲間も食い物にしているとする比喩は「空気」の支配が持つ力そのものを意味しています。それによって各々のポジションが左右されますし、「空気」が党派性を選別する作用を持つとも言える。「あちら側」か「こちら側」かに分け、その段階も実際はグラデーション的でしょうが、『俺ガイル』では単純化した二項対立を「建前」的に温存しているので明快な党派性を帯びています。

比企谷八幡のボッチ理論も「空気」からはみ出すことで、ある意味では二項対立的な党派性を正当化するものであります。同じようにシステム的です。「青春」というエコシステムへのカウンターとして位置しようとも、自分自身も取り込まれているために「カウンターとして」ポジショニングができるだけで、システム自体に支えられていることは見逃せません。「内から外」に出ようとする力さえもシステム的な循環にあると言えます。対抗言論として「外」にいようとしているけども、「内」なるシステムに支えられている位置付けは避けられません。

果たして「外」なんてあるのでしょうか。

「外」は、「外」に見えるものは「内」に織り込まれているものに過ぎないのではないでしょうか。その余剰として「外」であると錯覚してしまう。このどこにも行けない箱庭的感覚は「学校と家」の往復で事が済む学生時代、モラトリアムそのものに思えてなりません。

比企谷八幡が掲げる半ばネタ化したボッチ理論というカウンターでさえも、個々人が本来的にバラバラであることを見ないで、集団における「空気」や「青春」という共同幻想によって一時的に再構成されているものに過ぎません。一つに「青春」と言っても色々あるでしょう。全てはバラバラな個人的な体験に収斂し、千差万別の記憶や語りがあります。たとえ全員である作業をやったとしても、全員が同じ記憶や認識を有しているかは別の問題でしょう。それらは共通的体験を包摂しているような個別的なものでしかありません。

しかし「青春」の御旗のもとで、それは美しくかつグロテスクに昇華されることもあります。それを「青春フィルター」と1巻の際に触れましたが、包括的な共同幻想を立ち上げるような錯覚があることが重要です。ここで述べた共同幻想は「こちら側」から見れば「あちら側を含めてそのように見える」といった記号的なものでしかない。実際「どちらにとって」も都合のいいものです。『俺ガイル』は「あちら側」の「青春フィルター」とすることで、正当化しようとする嘘を暴くことが目的でした。

比企谷八幡は主人公という特異な権利を持つ語り手です。

しかし、「こちら側」として「あちら側」を見やるという暴力性には無自覚的でもあります。自分自身がボッチであることは悪くないことであり、それ自体を否定されたくないものなのに、平気で「あちら側」を引き合いとする理論の正当化は、やはり「青春」やシステム的な支えありきと言えます。「あちら側」を悪であり、弱いとするしか、「こちら側」に正しさや強さを引きつけられない弱さや暴力性がシステム的に成立していることに過ぎません。

具体的に内容を見ていきましょう。

2巻の冒頭、職場見学希望調査票を受けた職員室での平塚静のやり取りは1巻冒頭の作文と同じ構図となっています。

この反復性は『俺ガイル』自体の構造を反映したとも言える一方で、容易に人は変わらないことを意味しています。比企谷八幡は「変わらない」ことに執着しているのだから当然とも言えるでしょう。

1巻の「まちがっている」ラブコメは、奉仕部的には自己変革を促すほどのものではなく、自分と他者の関係性がラブコメ的には「まちがっている」というメタ視点的な語りでありました。

ここで確認しておきたいのは、語り手やキャラたちは物語であることを自覚できませんし、況してやパッケージ化されたタイトルを知ることはできません。「まちがった」こと自体が、そのように「正しく」展開され、タイトルを回収するような一文(1巻の最後)を書いても、比企谷八幡の意識には当然タイトル回収は存在していません。あの最後の一文「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。」を書くことで整理されるのは、比企谷八幡が抱く「まちがった青春ラブコメ」を物語レベルとして読んで、タイトルとの符号から「正しく」統合するのは作者と読者の目線でしかなく、そのこと自体はキャラ達には認識することは不可能です。1巻ラストの比企谷八幡の「まちがっているラブコメ」認識は彼自身に収斂しているだけに過ぎません。

しかし、それを物語として読むことで「まちがっている」こと自体が、恰も比企谷八幡と共有される体験が読者に付与されます。タイトルと物語内容が厳密に一致した感覚が、比企谷八幡の語り(テクスト)から読者に投げかけられ、キャラと読者の目が合うような着地をしています。ですから、この時点での比企谷八幡の執着や物語構造の反復性は、読者を通じてメタレベルでも混在していると言えるでしょう。

1巻を踏まえた、作中で「まちがっている」こと自体が反復していても、自分と他者の関係性が「まちがっているラブコメ的」であり、それで何か大きな変化を得たというよりも、受動的に巻き込まれてしまったことで「まちがっているラブコメ」が始動したと読める方が強い。比企谷八幡はただ奉仕部に入れられただけに過ぎず、この冒頭の反復によって、自己変革をするには自覚して否認する、といった意識化しないと意味がないことが分かります。

比企谷八幡が述べたことを引用すると「奉仕部は隔離病棟のようなもの」で、弱者たちによるぬるい欺瞞的なコミュニティと大差ないとしています。そういった理解から受動性は変わりません。そして「変わらないこと」が強さであるとする信条も揺らぎません。

いや、むしろ、一層反発的になるのは避けられない。その引き裂けるような力を内包した留まること自体は、二項対立的として「変わらなさ」といったような「こちら側」から「あちら側」を見やることによって均衡を保っている。

前述のように冒頭の書類の不備で平塚静に怒られる1巻との反復もありますが、やはり『俺ガイル』の魅力は一定の反復性に宿っていると考えます。比企谷八幡の思考への没入感もその一つでもあり、なかなか一定の同一性や反復性から抜け出せない。「自分」や「成長」への葛藤としての強化された保守性です。この「自分」を正当化すること自体への「祝いと呪い」が本質ではないでしょうか。これは物語が進行していけば、自然とぶつかる壁となっていきますので話を進めます。

非モテ比企谷八幡が、メールに纏わる過去を明らかにするシーンがあります。外的評価としての非モテであること自体へのコンプレックスよりも、最終的な内的評価に重きが置かれていることが重要でしょう。

相手の同情心や気遣いを無垢な優しさと取り違え、勘違いをしてしまっていたことに気付けなかったことこそが痛みだったとしています。それが誤りだと気付くまで「優しさと情け」は表裏一体の関係を結んでいた。全ては受け取る側の解釈次第であり、バイアスみたいに都合の良いように受け取ってしまう。もちろん余計に悪く受け取ることもありますが、それらは「経験と空気」によって個別的に選別されていきます。ですから「こちらとあちら」は厳密には一致し難い。相互の主観性の問題のように「こちら側」の善意が「あちら側」に正しく届くかは別の話であり、「こちら」と「あちら」の距離として表れます。 

簡単に誤解するし、してしまうことの距離は、欲望を込めて捻じ曲げようとしてしまうことに尽きます。解釈は深読みを誘い、その結果、自己責任論的に回収される。比企谷八幡の場合は敗北の経験値として蓄積されてきました。

このようにコミュニケーションは不一致を容易に引き起こす。その転倒としてディスコミュニケーションが要請されて「引きこもり性」は強化される。不一致によって個々人のバラバラの距離や差異が暴かれ、それを埋めるがために幻想としての解釈の都合の良さを引き付けようとしてしまう。

メールにしても、送った相手、届いた相手、時間帯や文面によって勘違いを引き起こす。非同期性の強いツールです。現実の身体的距離を用いず、短絡的にデバイス同士の距離を繋げるメールという機能は対面ではない分、ある意味近いにも関わらず遠い距離感を作ることもあります。この齟齬は「いつでもどこでもつながっている」という近さを引き付けながらも、身体的接触の機会や距離を使わないことによって、コミュニケーションのズレや解釈は文面でしか判断ができない情報の限定性があります。そのクローズドな情報でさえも正しく届けることは難しく、受け取れないことは往々にあるでしょう。

解釈の不一致、ズレはオンラインで現実の距離がショートカット化されていようとも、むしろ裏返しとしての現実の距離を反映させてしまう。「いつでもどこでも」つながっている距離感は、ある種の「届かなさ」さえも担保している。このコミュニケーションの遠近感はオンライン化によって加速しています。

例えば、ケータイを持っていることが当たり前の現代では、別れても「いつでもつながっていられる」遠近感は、昔のような別れとは決定的に異なります。サカナクションの山口一郎は、ケータイがあるから別れの曲が書けなくなったと言っていましたが、このような裏返しとしての現実の距離を用いることになるオンラインの遠近感も精神的に生じていきます。

たとえケータイのメモリに残っていても、実質的な別れと変わらないこともあるでしょう。「いつでもつながっていられるから」といって別れていないとは限りません。いつでもつながっているけども、「いつでも、だれでも」が選べるからこそ、「敢えて」その人を選ぶ理由が無くなってしまうように。時間の流れによって別れに近い距離感はあり、それはオンラインによって短絡化したような距離ではありません。同じカテゴリーだった者が、そこから外れることで容易に別の距離を生む。それは現実の距離そのものに他なりません。

P50 それこそ、電話やらメールやらでしか繋がらない、あるいは繋がれなくなる。それを人は友情と呼ぶのだろうか。きっと呼ぶのだろう。だから、みんな携帯電話にすべてを託し、友達の数と電話帳の登録数をイコールで換算する。

 

比企谷八幡は、このようなケータイの特性を不完全なコミュニケーションツールだと語りました。

双方向的に見えても、発信や取捨選択は送り手/受け手によって、その都度切断されている。「選択して発信する」その瞬間は単に非同期性の高い一方向的です。リアクションがあればいいですが「送ったが、返ってこない」や「来たけど、返さない」のように受け手のオン・オフによって、双方向性は一時的に成り立つ共同幻想があります。まさに「その瞬間」つながっていると思えることが重要であり、双方向性が担保されていると見える錯覚がオンラインによって新たに作られる距離と言えます。

ここでは時間や距離が個々人でバラバラであり、不完全性、つまり非同期性を短絡的に結びつけることの疑いをケータイから導入することで、本来的な個人の差異、バラつきを提示しています。裏返しとして現実の距離を映したコミュニケーションのズレは、比企谷八幡の断片的な過去を語ることで説得力を増します。「引きこもり性」のように自衛のためのボッチ化を加速させた経緯として。

さて、メールの文脈を引き受けつつ、葉山隼人の依頼が持ち運ばれてきます。クラス内で出回っているチェーンメールによって、友達の悪口を拡散されていることについて丸く収めたい、と葉山隼人は依頼を持ち掛けてきました。

チェーンメールは顔の見えない悪意の発露です。匿名性による不気味さを引き立て、根も葉もない噂を短絡的に拡散させるツールと言えるでしょう。

前述のメールの文脈をマイナスに反復させたのがチェーンメールの件と言えます。不完全な双方向性による共同幻想を瞬間的に立ち上げるメールの機能というよりも、一方向的に不特定多数に連鎖的に届くことで拡散することが目的です。

ケータイによって、メールはどこでもいつでもつながれるようになりました。既に記しましたが、発信時は一方向的であり、相手の応答があって初めて双方向性を伴います。恰もメールを送る段階で双方向的に錯覚できるくらいには物理的距離を無効化しますが、実際は現実的な距離を映し出しては「送れる」「届く」からといって精神的な距離自体が短縮化するわけではない。

しかしオンラインの距離自体は、まさに「つなげてしまえる」ので、その距離的な手続きを簡略化ができます。発信者と受け手のコミュニケーションのズレを距離的に「つなげてしまえるよう」に思えるのが、メールの一方向性・双方向性でありますが、チェーンメールはそれを一方的な拡散に扱うことで、匿名的な悪意の種子を連鎖的につなげることができる。必ずしも悪意が無いこともあります。好奇心で広めてしまうことで、チェーンメール自体に宿る悪意に加担してしまう暴力性があります。

小寺信良『子供がケータイを持ってはいけないか?』には、チェーンメールが「悪」とされている理由の一つに情報伝達の拡大率と考えられているとあります。

 

子供がケータイを持ってはいけないか?

子供がケータイを持ってはいけないか?

 

 

真偽不明の内容を拡散するチェーンメールには、情報伝達のルートが1世代前しか遡れない上に、メールという機能上の特性としてプライベートなものであり、それ以前に届いたメールの内容を確認する術がない通信的な壁が要因となっています。途中でメールの内容が改竄されていても、情報ルートが1世代前しか特定できない限定性がありながらも、開かれたように無差別に拡散するために判別が出来ない。このような拡大率が、まさに悪い意味で担保されてしまう。

P92 「チェーンメール……。あれは人の尊厳を踏みにじる最低の行為よ。自分の名前も顔も出さず、ただ傷つけるためだけに誹謗中傷の限りを尽くす。悪意を拡散するのが悪意とは限らないのがまた性質の悪いのよ。好奇心や時には善意で、悪意を周囲に拡大し続ける……。」

 

チェーンメールが発生した原因として、職場見学のグループ分けが挙がります。グループから漏れたくない、ハブられたくないといった「内輪揉め」ですが、顔色を窺うことの恐れは「集団や空気」から外れたくない一心に尽きるでしょう。

ある意味では些細なことですが、由比ヶ浜結衣が最初に気付いたのがポイントと言えるでしょう。そのようなことを「内輪」で見てきたキャラとして、グループにおける「キャラ」とポジショニングの功罪の一つがありますが、比企谷八幡雪ノ下雪乃と異なって集団に属しているからこそ分かると言えます。

誰がチェーンメールを送ったのか。

犯人探しの鉄則として「動機から考える」があります。誰がメリットを得るのか。そういった手続きを経て、グループ内に犯人がいるという推測が立ちました。

ここでは、ハブられないようにするために他人を特定的に巻き込み、悪意を拡散させながらも対象を分散させている内容でした。そこで悪意を向けられた彼らは公然と被害者面をすることができる上で、ある種の免罪符が得られることがポイントでしょう。

なぜなら、加害的な悪意自体は匿名的でありながら、被害という面では公然的であるからです。分散化した悪意のベクトルを向けながらも、同情という免罪符を得ることで等しく被害を軽減しようとして、一方向的に集中的ではなく、自然に誰かを除くために匿名的な悪意から被害者という立場を推挙させられることまでも演出できる。疑心暗鬼を含めたある種のフェアな悪意と言えるかもしれません。

比企谷八幡が述べたように対象を絞って拡散させたほうが「除く」ためには効果的でしょう。悪意を振り撒きながらも、自分自身も「加害と被害」に組み込むこと自体は「木を隠すなら森の中」的策略を連想させます。

しかし、それよりも公平的に被害者を立て、悪意を向けた敵を匿名的に立ち上げることで、等しく敵にすることで「敵の敵は味方」といった「友と敵」のような党派的に持ち込むストレートさがあるように思えます。公平的に被害者を立てたのは、自分自身は「選ばれる側」であって「選ぶ側」ではないとする、ある種の権利の行使であり、チェーンメールによって一方向的に「選別されること」をしていた。

誰が犯人であるかを特定するために、葉山隼人たちのグループを観察する比企谷八幡のシーンがあります。

「内」におらず、遠くから見ていることで分かる。

スクールカースト上位でも内部で相対的であり、葉山隼人がトップとして位置しているという事実。比企谷八幡の「葉山隼人が監督であり、観客」という見立ては正しいでしょう。葉山隼人という中心を、不在の中心である語り手=比企谷八幡が眺める構図により「外的」が担保されます。内部にいないから機能する外部的な存在は、恰も客観性という幻想を作り、言葉自体に真実味を宿らせます。

もちろん、自分自身もエコシステム的かつ箱庭の中でありますが、「内と内内」といったようなグラデーションが存在していても、より単純化された二項対立的なスクールカーストを引き立てることになります。

ここでの相対的な発見として、葉山隼人のグループは「葉山の友達」か「友達の友達」で構成されていることが分かります。同じグループ内でもバラつきがある。

不在の中心的な比企谷八幡が、葉山隼人という中心を消すことで、グループ内のバランスを一端解消させました。「選ぶ」「選ばれる」対象は、葉山隼人を中心に設計されていました。中心に「選ばれる」ための匿名的な悪意が宙吊りになることで「加害と被害」の彼らは等しく「選ばれる」ことが無くなり、それぞれを「選ぶしかない」。この非同期性に似た切断はメールそのものでしょう。葉山隼人にとっては距離が近くとも知らないことがある。また、彼らは「選ぶ側」ではなく、メールのように双方向的になるように「選ばれる」ことを待つしかない。

スクールカースト上位でも「空気」があり、相対化されていて「選べる」はずなのに「選べない」という序列的な構成が見えます。これは葉山隼人の存在、つまり中心の強さを感じさせ、そこに宿ってしまう無自覚な暴力性の問題を突き付けました。

整理しましょう。

比企谷八幡の解決策は揉める集団から葉山隼人を取り除くことで、つまり「選ぶ側」を消去することで「選ばれる側」をフェアにさせました。

一方で、葉山自身の存在感による問題点を突き付けています。悪意が葉山隼人に向けられていないにも関わらず、葉山隼人がある意味では誘発させた間接性のために引き受けざるを得ない状況へと移した結果と言えます。中心という無自覚な暴力性への責任と言い換えることも可能でしょう。

「持つ者」への妬みとして雪ノ下雪乃には、彼女に直接的に悪意が向いていましたが、「選ぶ側」としての葉山隼人に直接的には向かず、周辺に悪意を向けさせてしまった無自覚な間接的な働きがあったと言えます。

このような中心から離れることへの恐れは「みんな」や「青春」の磁場の強さを一層引き立てます。

『俺ガイル』2巻は2011年の作品でありますので、ケータイはメールでやり取りするのがメインとなっています。だからこそ、チェーンメールという匿名的悪意の拡散が題材に置かれ、「みんな」や「空気」、そして裏返しとしてのオン・オフの「距離」を明示化しました。

 

ケータイ社会論 (有斐閣選書)

ケータイ社会論 (有斐閣選書)

  • 発売日: 2012/03/24
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

メールは後で、あるいは選択的に見たり、返信したりすることができるなど非同期性が高い。一方で、着信音やボタン音を消してしまえば完全に無音になるため、声を発する通話が問題となるような公共空間においてもリアルタイムな、すなわち同期性の高いコミュニケーションも可能となる。

岡田朋之・松田美佐『ケータイ社会論』

 

ケータイメールの非同期性の高さと同期性の高さといった矛盾を両立させたコミュニケーションが、既存の人間関係の強化を目的とした「コミュニケーションのためのコミュニケーション」を成立させました。日常的なやり取りの連続性は、そこから外れたくないといった不安を「学校の外」でも煽る形として表れ、学校という舞台で「親密さ」として暴かれていきます。

 

 

第一は親密さの確保である。会話と同じような直接性に満ちたやりとりの親しさをいつでも維持しておきたい。その意味では、ケータイメールは「直接接続」のケータイ通話の延長上にある。他者との共同性の希求であるとも論じられよう。

第二は距離の確保であり、相手にあまり拘らないでよい間接性を可能にする。ここにおいて、通話との差異が「文字の文化」の特質をともなって現れる。すなわち「声」の共鳴の共同性を切断したところで成立する「文字」による読み書きの個体性である。

親密さと距離、直接性と間接性、共同性と個体性という、相反する欲求と異なる志向の均衡のうえにケータイメールのコミュニケーション空間が成立している。

佐藤健二『ケータイ化する日本語』

 

葉山隼人に対して間接的に問いを突き付けたチェーンメールは、メールの直接的な接続による親密さの希求が、間接的な中心への距離の発露として暴かれたグループ内の「友達の友達」の間接性と両立してしまう意味を投げかけました。これらの文脈はメールが持つ「空間」の引き写しのようでもあります。

依頼については葉山隼人を取り除くことで丸く収めるような形に持ち運びましたが、葉山という中心の功罪が一つ挙がりました。犯人を名指しする解決ではなくとも、結果的に犯人像は絞り込められた。

ここで明らかなのは、スクールカースト上位にポジショニングしている彼らも苦悩していることです。スクールカーストが低い比企谷八幡の「青春における生きづらさ」だけではなく、上位にいる彼らさえも「青春」や「みんな」に囚われている。

その事実が比企谷八幡の視点で語られたことが重要でしょう。この結果は二項対立の温存をある意味では強化させ、上位(葉山隼人)と下位(比企谷八幡)の目線を交らわせました。

ここで、不思議な存在として戸塚彩加が挙がります。

戸塚彩加スクールカーストからの自由さは作中でも随一と言えるでしょう。不在の中心である比企谷八幡の視点から、戸塚彩加の属している位置が正確には見えません。テニス部といった位置は1巻時点で読者と共有されていますが、クラス内における立ち位置は見え難い。クラスの女子から人気があることは、由比ヶ浜結衣が発言していたようにある程度目立つ存在として認知されている一方で、比企谷八幡に話しかけることは当然として、スクールカースト上位とも自然に交流がある。クラス内で可愛がられていることもあり、比企谷八幡と異なって相対的に目立つ存在であるにも関わらず、戸塚彩加比企谷八幡が目立っていると1巻で述べていました。

不在の中心として物語の主人公であり、語り手であるから読者的には自然なことでありますが、物語のキャラ、特に戸塚彩加のようなフラットさ、スクールカーストが決して下位ではなく厳密には不透明で、可視化し難い自由さを獲得しているキャラがそのように述べることは、逆説的には彼であるから可能とも言えます。可視化できないから自由な立ち位置を獲得しているというよりも、自由であるために捉え辛いのでしょう。そのフラットに眺めることが出来るような転倒した位置や中性的な容姿を含めた価値判断の「中立」や「留保」が、戸塚彩加というキャラクター性ではないでしょうか。

チェーンメールの件を終えた後、川崎家の問題に話が運びます。

高校2年になってから帰宅時間が遅く、素行不良化の懸念していることを受けて、川崎沙希のバイト先を調べる流れでメイドカフェに行く場面があります。

戸塚彩加の中性的な容姿を女性的に扱うライトノベル的展開があります。そして「男の娘」的消費に加えた「メイド」といった記号性へのアイロニーが見られます。ここで、戸塚彩加はそのような扱いについて怒りますが、「男同士の冗談」だと男性性を押し出すと気分を良くしたりと、中性的な存在はそれ自体がコンプレックスとなり得ることが描かれています。

一見よくある「男の娘+メイド」展開といった消費に読めますが、それらは彼を見ている側の都合のいい眼差しの暴力性であり、記号の押し付けに対する反発がアイロニーとなっています。

戸塚彩加は、中性的といったある種の中立よりも自分が思い描いている男性性に重きを置きたいが、実際はそのように見られないことによる不都合さがあります。中性的と呼ばれる男性の場合は、女性性に引っ張られることで成り立つものであります。それとは反対の男性性への憧れから「男らしさ」を素直に受け取る戸塚彩加の姿には、ある種の留保がある中性的なキャラに対する記号的理解へのカウンターが見て取れます。

川崎沙希のようなツンデレ少女が、実はメイドカフェで働いているかもしれないという記号も同様です。そのテンプレ的展開や理解といったバイアスが、正しく人を見ることが出来ない難しさを突き付けていると言えるでしょう。

川崎沙希の件は家族問題です。

当事者以外は何が出来るのかということ。他人の家について口を出せるのかということ。

家族外ではなく、家族内ならば話は成立する。

ある意味では「外」の限界性が描かれています。川崎家の輪郭を捉えながら、比企谷八幡と小町も同様に「家族」の要素が組み込まれています。家族は自分に一番近い他人と言えますが、家族ならではの距離感があり、それでもコミュニケーションの齟齬が生じることは当然ある。

川崎沙希の問題に入る前から、勉強と進路選択の重要性について記されていました。高校2年という位置付けを重層的に2巻で描き、葉山隼人たち、奉仕部、比企谷小町、川崎沙希といったように反復というよりも多様に展開されていました。

この2巻ではリア充側の「空気」の読み合いを推測的に描きながら、その中に入れないスクールカースト最底辺の比企谷八幡の視点が「外」であり、ある種の客観性が担保される。それによって作中の「解」になり易い結果がありました。

しかし同時に、川崎家の問題は「外」から出来ることの臨界点も提示したと言えます。

重層的かつ多様に描かれたのが2巻だと書きましたが、反復性は1巻同様にあります。職場見学希望調査票から始まり、2巻の終わり方に表れるような織り込まれた反復性から見える「まちがい」は、前進の困難さを提出した停滞と後退です。「変わらないこと」は「成長の奴隷」を退けることの美徳であり、裏返しにある潔癖さの発露です。

職場見学のグループ分けからチェーンメールが生まれました。

川崎沙希は高校2年から学費を貯める必要性があってバイトを始めました。

何かしらのキッカケがあって、行動や環境が変化する文脈が一連の展開に描かれていた。

しかし、比企谷八幡は徹底して受動的なコミットメントでした。

そこにはケータイのメールの機能を不完全だと述べたように、コミュニケーションの非同期的な不完全性が見えてきます。

由比ヶ浜結衣に「優しくされている」のも、事故がキッカケだと思っている。

事故の負い目に対して由比ヶ浜結衣の行動が変化しているだけであり、その結果、比企谷八幡の環境が変わっただけに過ぎないと。必要以上に「優しくされている」と思ってしまうコミュニケーションのズレは受け手の解釈次第です。

安直なラブコメに落とさない/落とせないのは「まちがい」たくなくとも「まちがって」しまうためです。

由比ヶ浜結衣の優しさを欺瞞や偽善といった解釈の受け取り方をすることで生じるズレ。比企谷八幡の主観によるズレであり、この物語の魅力である語り手の捻じれがそのまま素直に「まちがって」変換した結果と言えます。

彼のコンプレックスと経験則が、その「優しさ」を確信してしまうバイアスとなるのが「まちがう」根拠であり、しかし決定的に「まちがう」からこそ遠大なコミュニケーションにおけるディスコミュニケーションとしての『俺ガイル』が成立するための「必要悪」に映ってしまう。

ズレに気付かないのは由比ヶ浜結衣の優しさの本質が、比企谷八幡の主観と経験の範囲外であるからです。

つまり、解釈と経験が一致しないからこそ縺れが生じる。

 P258 真実は残酷だというなら、きっと嘘は優しいのだろう。

だから、優しさは嘘だ。

 

同様に「青春も嘘である」としたのが1巻でした。

「優しさ」は距離感が掴めない。「内」なのかどうかも判然としない。「外」から見ていることである種の客観性がありながらも、それは主観性の範囲内であったことが露呈するかのように。最後方に位置して自分が見ている距離感が、いつも優しくされることで距離感、遠近感を狂わす。

その結果、勘違いをして、ズレてしまう。

「青春」や「優しさ」は取り違えてしまうものであり、取り替えること自体は「変化」となる。アンチテーゼとしての「変わらないこと」が正当化できるための根拠であり、それを受け入れることは矛盾を生みます。

連続的に負けてきたからこそ諦め、希望を持つことをやめたのが比企谷八幡です。

その強固な守りこそが自分の同一性を保つ唯一の方法であると。

勘違いをしないように自衛することは、過去の経験によるものです。敗北に関しては百戦錬磨。深読みして、曖昧なニュアンスを嗅ぎ取って、自分にとって都合の良いように解釈することでしっぺ返しを食らってきた経験からの価値判断です。「まちがえない」ために慎重に留保を重ねていくリスクヘッジです。

嘘が嫌い。優しさは嘘であり、建前でしかない。

「空気」から外れることで、むしろ過敏に読み取ってしまうことで、諦めて自己防衛という穏やかなニヒリズムの裏返しとしての潔癖的マチズモが露わとなります。嘘や優しさを撥ね付けるための「正しさ」という強さを証明することが自分の「変わらなさ」なのでしょう。

『俺ガイル』の前進していると思いきや後退してしまうことが持つ作用は、可能世界を彷彿とさせます。「事故がなければ、ボッチではなかったかも」しれないが、それでもボッチだったかもしれない。可能性の度合いの話で、結果的にどちらに転ぶかは分かりません。可能世界的に分岐するかもしれなかったある種のゲーム性を排しようとしているのが『俺ガイル』の一回性の縮図たる所以です。「繰り返す」ことができないために「繰り返さないよう」にする一回性のリアリティです。

「繰り返さない」ために「まちがえない」ようにすることが「まちがい」を引き起こす。

もはや「正しさ」とは何でしょうか。

「まちがい」と対立する位置にあるものが「正しさ」のように思えますが、エコシステム的なものに取り込まれていると、「青春」の名の下で正当化すること自体が「まちがい」であり、それらを嘘や悪とする比企谷八幡のポジショニングは逆説的な正しさを帯びるといったアンチテーゼでした。

しかし、出発点の語りから、ある種の「まちがい」を重ねることで、それすらも動的に相対化されることになるために「正しさ」の価値や位置が変容して「まちがい」の範囲が肥大化してしまう。それによって二項対立自体が、区分けを移ろいながらも温存されるような相対的価値に対して「まちがえていない」つもりの「まちがった」価値判断=ズレは「正しさ」を彼岸として幻想的に浮き上がらせます。

ある意味「正しさ」を幻想的に立ち上げながら「まちがい」は物語として引き付けられていく。「まちがった」解釈を受け取ることさえも「まちがっているラブコメ」に回収されるように。「青春ラブコメ」というエコシステムによれば、物語的にはタイトル通り「まちがっている」が正しい「まちがい」をしていると言えます。

これまで見てきた重層的かつ反復的な「まちがい」があり、それを「正しさ」のもとで排除することは「まちがい」であり、「まちがい」の多様性として、それすらも「青春」的に映ってしまうアイロニーは読者だけが分かります。キャラたちは認識できません。彼らは「まちがえないように」するために「繰り返せない」一本線を歩いているのを読者が見つめることで、上記のような「まちがい」の構造を抽出することが可能と言えるでしょう。「まちがい」や記号やアイロニーは読者だけが分かる。この視点も一つの暴力性が働いていますが。

川崎沙希の嘘は人を傷つけないようにするための「建前」でした。そういう嘘もあります。でも、家族としては素直に頼って欲しい、としたのが川崎太志の「本音」でした。

由比ヶ浜結衣の優しさ=「本音」を「建前」と受け取り、それは嘘や欺瞞であると解釈するのが比企谷八幡の経験則でした。

つまり、優しさは嘘であると。

嘘、建前、本音による解釈の不一致は相手の持ち札が見えないために、推察することで生じます。「空気」や相手を見るしかない。相手から優しくされていると勘違いをすることは、都合よく受け取ってしまった過去によるもの。優しさと称して情けをかけることは嘘であり、受け手の解釈と経験に左右されることでズレは容易に引き起こされる。

事故の当事者であることが発覚したのは、非同期性の高いメールと同様にラグがありました。そして、メールのように「正しく受け取れるか」は分からない。

「嘘」と「メール」に表れるコミュニケーションのズレの反復は、主観性のもとで取り違えることで感情や意味が攪乱される。受け手が解釈を都合よく強化させます。プラスの意味でもマイナスの意味でも。「あちら」と「こちら」に分け、受け手の正しさを引き付けるバイアスがズレを作りますが、そのような「まちがい」は「まちがえたくないため」を起点としたものに他なりません。それを単に「愚か」であると断罪することは可能でしょうが、「なぜそのようなズレが起き」て「分かり合えない」のかが遥かに重要です。

ここまで執拗に抽出してきましたが、「まちがい」に「まちがい」を重ねることで、ある種の素直さを担保しています。それこそが裏返しの「正しさ」や強さへの一貫した幻想であり、「あちら側」へと嘘や悪を跳ねつけては、「正しさ」を引き付けようとする「こちら側」の論理自体が持つ「正しさ」という幻想は「まちがい」を重ねた相対的な産物と言えるでしょう。

ある種の「外」からの視点が「解」を持ち合わせていたはずなのに、「内」に入っていくことで主観的に非同期的にズレていき、関係性は攪乱されていく。

「正しく」受け取れなかった非同期性から、物語は始まりました。

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渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』1巻 「まちがっている」ことで始まる二項対立のカウンターと反復的な温存性

 

 

青春とは嘘であり、悪である。

この一文から作品は始まります。

「青春フィルター」というバイアスは、比企谷八幡曰く全てを正当化するために「青春」が用いられ、その「まちがい」へのカウンターとして、冒頭の作文は「青春」と対立した「正義」を謳っています。

しかし、結果的に見れば自分自身も取り込まれていく様から、まさに「青春」はエコシステム的と言えるでしょう。このシステム自体は動的であり、また相対的に機能する。エコシステムを眺めている者も、いつしか自然に取り込まれ、その中で充足していくことは何ら不自然なことではありません。カウンターとして位置づけようとも、システムの保守性が温存されているからこそ、その効果は持続し、二項対立的な支えがあるからために脱構築も可能と言えます。

「青春」における「イマ・ココ」感という日常の磁場の強さ。また、この時点に留まろうとする意思や粘りによって生じる足掻き、葛藤は、ストレートに飲み下せるものから飲み下せないものまで多岐にわたります。それらのご都合主義的な価値判断は「青春」の名の下では、すべてが自己盲目的に正当化されることを「欺瞞」であると評したのが比企谷八幡でした。 

欺瞞、嘘、秘密、詐術は悪である、という潔癖的な態度が彼の真価であり、この純粋な絶対性が「青春」という動的かつ相対的なエコシステム内への懐疑となり、その価値判断は攪乱されていきます。二項対立自体もシステム的であるからです。

「青春」の名の下で正当化することは「悪」であり、その「青春フィルター」を用いていない側が「正義」である、という反証は比企谷八幡らしい皮肉でしょう。「青春」を自明とせず、その正当化をよしとするバイアスを担う「青春フィルター」への懐疑のみが「正しさ」を引き付けることが可能であり、「青春」という名の正当化が「まちがっている」と指摘すること自体が「嘘偽りない正義」とするのが彼の価値基準です。

これを「潔癖的なマチズモ」と呼んでいくことにします。

冒頭の作文の結びが「リア充爆発しろ」とあるように「リア充」というタームが機能していた時代精神と共に『俺ガイル』(2011年~2019年)はあったと言えるでしょう。「リア充と非リア」の記号的対立から、その失効までを描きました。

 

 〇

冒頭の作文を受けて物語は始まります。

平塚静比企谷八幡のやり取りの随所にはセクシュアリティ的かつエイジズム的なノリをギャグとして提出(年齢イジリ、おっさん臭い行動認定)されています。ここで難しいのは、オタクのホモソーシャル性の問題が一つにあります。オタク文化セクシュアリティの問題は、いわゆる「ポリコレ」に真っ向から相反します。

昨今、騒がせている「オタク絵」とフェミニズム的な闘争はしばしば「表現の自由」の問題範囲内で処理しようとする試みがなされています。しかし、互いの主張が「表現の自由」や「公共性」とは、に終始している印象を持ちます。本来は、記号的な存在である「キャラ」が如何に成立して、認識されているか、といった「現実と虚構」は果たして完全に分離することは可能なのか、という問題設定からではないと「対話」は困難を強いるのではないでしょうか。具体的には「キャラ」の身体を「現実」の身体と切り離して認識する、しないの話は、端的に「キャラ」を見つめる「こちら側の目」を通す必要性があります。その時点で「こちら側」=現実の身体は否が応でも肉薄し、「あちら側」へと眼差しや感情を仮託するまでに介在している地点へと無意識的に辿り着いているのですから。

ここでは、諸問題に細かく触れることはありませんが、「キャラ・記号化」の話は本作品にも重要な要素となっています。例えば、由比ヶ浜結衣を「ビッチ」と連呼するシーンや比企谷八幡の一人称が持つアイロニカルな「ボッチあるある」などといった、キャラの記号性とそこからはみ出ようとするアイロニーも含んだ読者とキャラたちが秘密裏に結ばれざるを得ないホモソーシャル性が、比企谷八幡の語りから生まれていると考えられます。

さて、平塚静への非礼と作文の反省を兼ねて、奉仕部へ強制的に入部することになります。

P23 「(中略)彼の捻くれた孤独体質の更生が私の依頼だ」

平塚静から雪ノ下雪乃への依頼という形式でもって、比企谷八幡は巻き込まれていきます。

奉仕について、作中にあるものを引用すると「持つ者が持たざる者に慈悲の心をもってこれを与える。人はそれをボランティアと呼ぶ」といったノブレス・オブリージュ的な精神が語られますが、「持たない者たち」が選択していく逆説性こそに『俺ガイル』の精神性があるとすると、この大いなるアイロニーが全体を包括していると言えるでしょう。

さらに、奉仕部の目的は平塚静曰く「自己変革を促し、悩みを解決することだ」となります。

その言い分に対して、つまり自己変革に対して反発するのが比企谷八幡です。

 

P41 「そうじゃねぇよ。……なんだ、その、変わるだの変われだの他人に俺の『自分』を語られたくないんだっつの。だいたい人に言われたくらいで変わる自分が『自分』なわけねぇだろ。そもそも自己というのはだな……」

 

安易な「成長」といった「変わる」ことへの忌避感は、これまでのボッチである「自分」を肯定しようと保ってきた同一性と「青春フィルター」へのカウンターとしての「自分」を組み込んだ防衛的な構造を形成してきた比企谷八幡の「自分」に対する「変化」への否定的なリアクションです。ここでは、自己変革はイコール「自分がない」ということになるのではないか、というアンチテーゼが掲げられます。

彼からすれば、この連続的なラインが「自分」を保つことを意味しているのですから、自然な応答でしょう。

P42 「変わるなんてのは結局、現状から逃げるために変わるんだろうが。逃げてるのはどっちだよ。本当に逃げていないなら変わらないでそこに踏ん張んだよ。どうして今の自分や過去の自分を肯定してやれないんだよ」

 

潔癖的なマチズモによって、ある種の保守性に対するカウンターとして独立的に「イマ・ココ」の証明をしてきたつもりの比企谷八幡の経験を否定しようとする奉仕部の目的とは対照的に映ります。彼なりの志向的に整理する過程でのネタ化、ユーモアによって対象を相対化させ、さらなる矮小化を経て、連続的に同一性に組み込むことで「イマ・ココ」という不変的な自己をより一層強化させていく機能があります。

ある意味では、成熟を拒否する自閉的な精神性が独立的なマッチョさに見えます。その「引きこもり性」は、物語上では必ずコミュニケーションを要請される。なぜなら、ディスコミュニケーションは転倒してコミュニケーションを要する構造になるからです。欠落を回復することは物語のスタイルとしてあります。その転倒は比企谷八幡がボッチであるから、といったものではありません。彼がこの物語の主人公であることに他ならないからです。主人公である以上は、何かしらに関わらざるを得ない。そうでなければ、何も物語として起きません。物語でなければ「引きこもり性」は温存されることでしょう。そのまま成熟を拒否し続けることも。

変わることを促される比企谷八幡の拒絶は、潔癖的にいえば、変わることは逃避であり自己否定に映ります。現状の「イマ・ココ」の集積でもって、自己肯定で踏ん張るこることで「安易な成長」への意義を唱えることこそが、彼の経験則を誰よりも肯定できる構造となっているに他なりません。

「成長」への奴隷を退け、変化をすることへの嫌悪感による一周回った自己肯定です。これは今までがボッチであり、それが当たり前だったゆえに、ボッチであることが軽んじられる風潮に異議を差し込む形となっています。丹念にボッチへの理解として独立していることを突き詰めた結果とも言えますが、寧ろ、突き詰めるしかなかったことが「潔癖」を形成していったと推察できるでしょう。

 〇

第4章「それでもクラスはうまくやっている。」からクラス内での描写に重きが置かれていきます。それまでの章では奉仕部という「外」で繰り広げられ、具体的な比企谷八幡の立ち位置は見えないようにされていました。奉仕部の中での雪ノ下雪乃平塚静からの他者評価を経由して、アイロニカルに昇華している振る舞いはあれど、それでは「中」での位置づけはどうなっているのか。そこに応答するために3章から由比ヶ浜結衣が登場し、その文脈を引き受けつつ、4章として具体的に展開されました。

スクールカースト描写として、オタクといった非リアとリア充を中心に据えています。そのどちらにも居場所がない比企谷八幡の「外的」視点というある種の不在の中心による語りがなされているのが特徴的でしょう。「リア充と非リア」の二項対立としてのカースト描写を経て、それぞれの居場所が確保されながらも、その場のノリを形成するムラ的同調圧力=建前や「空気」があります。建前的に機能しているために本音が介在するとどこか不都合が生じる。それで以て「空気」による選別を行い、「ノリやキャラ」を建前的に用いることとなる。

しかし、『俺ガイル』のスクールカースト描写は、便宜上のためと言えるでしょう。それこそ「建前」的なものであり、「本音」は脱構築するためだと考えます。「空気」や「キャラ」、記号的なものから「先」や「空白」を描くまでの方便でしょう。

『俺ガイル』では、スクールカースト上位のリア充と下位のオタクたちは意識的に描かれています。前者は葉山隼人たちを捉え、後者は有象無象の一部として登場する程度です。

それぞれのコミュニティがあり、ボッチではないことが窺えます。その場所毎のコミュニケーションがあり、ボッチである比企谷八幡の「外的」視点を通して上位と下位のコミュニティが可視化されていく。意識的に上位と下位を描くことで中間層を空洞化している構造は、やはり厳密なるスクールカーストの顕在化が目的ではないと読めます。二項対立としての「建前」くらいの「スクールカースト性」と言っていいでしょう。

そして、この作品の持つ「スクールカースト性」は、上位には上位の「空気」があることに尽きます。「空気」に従属するしかない下位に対する上位からの無自覚な振る舞いだけではなく、上位も同様に形成された「空気」に組み込まれている日常的な光景が広がっていることが比企谷八幡から見えてきます。

この物語の主人公である比企谷八幡のモノローグのウェットさには際立つものがあります。自分自身がボッチであることを他者の目を踏まえながらも、自身のプライドを考慮しつつ、自虐や他人からのイジリをネタとして回収しては昇華するある種のタフさがあります。

自らコンプレックスや黒歴史を開陳することで、経験的なエビデンス・ベースとしての語りで他者を妙に納得させ、自分自身のダメージコントロールを図ることすらもネタ化した一人称です。

また、比企谷八幡は「働いたら負け」といったインターネットに表れているような価値観を引っ提げっています。この標語もある意味では古びていますし、かつてはそれを言えるだけのリソースがあったとも考えられるでしょうか。男女共同参画社会、ワークシェアリングといったヒモ擁護の理論武装のように理論は後から付いてくるもので、正論風に装うことの安易さが透けて見えてきます。同時に理論武装自体のみっともなさを突き付け、意味を巡り、構築する社会に居るからこそ意味が付いてくる、再発見してしまう病の表れではないでしょうか。

ここでは、理論武装自体への揶揄はあまりなされていませんが、比企谷八幡の腐った目に表れている捻くれた根性の更生が挙げられています。端的に「顔が悪い」といった美的感覚ではなく、「目が腐っている」ことに代表されているある種の「残念さ」があります。

ここで一つ例を挙げます。

さやわか『一〇年代文化論』は「残念」という用語から、時代と若者文化のイデオロギー的消費を受け、批評的な切断性と横断性を統一的な感性の用語で置き換えることで以てパラダイム自体を組み替えるような試みがなされた著書です。

 

一〇年代文化論 (星海社新書)

一〇年代文化論 (星海社新書)

  • 作者:さやわか
  • 発売日: 2014/04/25
  • メディア: 新書
 

 

「残念」は辞書的なネガティブな意味合いを持ちながらも、「残念なイケメン」のように微妙なニュアンスとしてポジティブな意味も付与されていった変容があります。

比企谷八幡は「残念」です。周りが述べる意図はネガティブなものですが、当人はポジティブに聞こえなくもない「残念」な錯覚があります。それは何故なのか。この「残念」は主観的、客観的には厳密に一致しているのでしょうか。比企谷八幡はアイロニカルにネタ化することで、ネガティブをポジティブに反転させるかのように「ネタ」的に「マジメ」に清濁併せのむ「残念さ」を引き受けています。この「残念」はアイロニーのように相手を位置づけながら、自己の位置を転移させてみせることで相手との差異を示しつつ、錯覚的なものでしかない「残念さ」に回収されます。

「残念」だから友達がいない。つまりボッチであることは「残念」な状態である。

これらの「残念」はマイナスの意味が付き纏います。この「残念」を経験的に昇華させ、自己肯定とすることでプラスに転倒させるような働きが現状をアイロニカルに追認してみせることで、二重化された「残念」が増幅する結果となります。

重要なのは、その内面に「嘘」や「欺瞞」はありません。捻くれた形で正当化された潔癖性だけがあり、上の増幅したものが結びついてマッチョ的に読めてしまいます。

一方で、友達がいない「残念」な状態に対して、比企谷八幡雪ノ下雪乃は引け目を感じているわけでもありません。ある種のトラウマをネタとして昇華しては強化している自意識の構造があります。

〇 

ブコメ展開への疑いこそが「青春ラブコメはまちがっている」の基本的姿勢だとすると、放課後に「残念」な学年一美少女兼成績優秀者と二人きりでいることは、ラノベ的ラブコメでしょう。

 

P27 その名の如く、雪の下の雪。どれほど美しかろうと、手に触れることも手に入れることもできず、ただその美しさを想うことしかできない存在。

 

高嶺の花としての雪ノ下雪乃

しかし、彼女とのやり取りはありがちなラブコメ展開を容易く拒絶します。最悪な出会い、ファーストインプレッションからラブコメ展開はむしろ典型であり、常套手段でもあります。

翻ってラブコメへの期待ともいえるような「残念」ツンデレ美少女という記号的理解が進みますが、ツンデレ美少女の定型から「敢えて外す」ように展開すれば、「残念さ」相まって冒頭の作文は一周して強化されます。これらによって「青春」との距離を明示化させ、「青春フィルター」という嘘や疑義は、それを素朴に信じない側からすれば益々正当な主張となります。

 

P47 やっぱり青春は擬態で欺瞞で虚偽妄言だ。

安易なラブコメへの牽制や懐疑は、自分自身が「内」に入れないために生じる要素です。

雪ノ下雪乃との密室でのやり取りは、まさにラブコメのテンプレを外しながらも、端から見ればラブコメ的なエコシステムに乗っかっています。なぜなら「何も起きないこともある」というメタ的視点からみれば、恰も「ラブコメっぽさ」に回収されているように見えてしまう。相互のベクトルが合っていない都合も含めて。

記号的な美少女としての雪ノ下雪乃を「他者」とする作用は、友達いない同士といったカテゴリー理解、ランク分け、ラベリングといった記号化作業への懐疑が起点となります。記号から人間を描くようにするには、「いかに人間を見るか」といった余剰さ、空白が重要であり、『俺ガイル』の「スクールカースト性」は脱構築するための建前でしかないことと同様です。

友達いない同士といったカテゴライズも厳密に見れば異なります。周りから好かれなかった比企谷八幡と好かれすぎた雪ノ下雪乃。プラスとマイナスのベクトルの差異は「求む、求められるか」の噛み合わなさに起因します。

当初は「友達いない」カテゴリー同士だった比企谷八幡雪ノ下雪乃でしたが、徐々に記号的にはみ出るように差異が見えてきました。彼にはボッチであるがゆえに集団心理が分かりません。

一方で、彼女には集団に属していた経験があります。その経験則は、絶対性に対して共通の敵として排除に団結する可能性はあるが、リソースとしては排除に向かうことで向上心にあたらないとすることが語られます。友と敵に分け、党派的に自分たちの居場所を確認する作用としての排除や攻撃という力学によって、二項対立的に保たれる構造でしょう。

集団に属さないボッチと属せないボッチの差異として、前者は集団から妬まれ、除かれた雪ノ下雪乃。後者は「空気や内輪」に入れない比企谷八幡(まるで空気のように!)。

それらの力学が自分にとっても、周りにとっても、プラスにもマイナスにも作用することがあります。絶対的な意味、存在における力の作用は、それを眺める側の妬みのリソースとなり、ある種の「加害―被害」や「友と敵」のような党派的な連続性を見出してしまいます。それゆえに正しさ、優しさ、美しさが常に一定の意味と価値を示し続けているわけでもありません。その絶対性も、まさにエコシステム的な要領で動的に相対化されていきます。 

だからこそ、正しくない現状に正しさを貫くために変革を目指す雪ノ下雪乃がいます。他方で、比企谷八幡は弱さをルサンチマン的なマッチョさに同一化することで予防している節があるのは、経験的に弱さを見つめ、一周して肯定しているようなイマ・ココからの離れなさに起因しています。

「世界は正しくない」。騙して、誤魔化して、嘘や偽りがあるために不満が蔓延してしまう。正しさが正しくあれないことも含めて。そんな中で出会った雪ノ下雪乃は嘘をつかないと判断します。この潔癖的価値観は、ある意味での誠実さという名の下での似たもの同士という別のカテゴリーに組み替えます。

この過程を踏まえて「友達」という意味を相互に引き付けられるのではないか、と比企谷八幡は考えて提案しますが、彼女に断られます。

このようなアンチラブコメをしている側としての「ラブコメっぽさ」は、正常にテンプレ的なラブコメが機能しないからこその異化としての「まちがっているラブコメ」と組み換えていると言えるでしょう。

ここで繰り広げられる雪ノ下雪乃との安易な「ラブコメっぽさ」への期待を裏返すような自己言及性は、タイトルにあるように「まちがっている」ために成立していきます。

さて、話は前後します。奉仕部の精神について作中で以下のようにあります。

 

P87 「飢えた人に魚を与えるか、魚の獲り方を教えるかの違いよ。ボランティアとは本来そうした方法論を与えるもので結果のみを与えるものではないわ。自立を促す、というのが一番近いのかしら」

 

初めて依頼を持ち込んできた由比ヶ浜結衣のクッキー作り話は、如何にもギャル系の女の子が「手作り」にこだわるのは「キャラ」に合わないといった記号的な話です。彼女は周りの顔を見てばかり。「キャラ」に収まらないと「空気」に合っていないと安心できない。スクールカースト上位の由比ヶ浜結衣という女の子が抱く家庭的への憧れは、ある種の「キャラ」からの逸脱であると描かれています。

また、比企谷八幡の主夫選択も男性の役割、「キャラ」の多様性の一つであり、「キャラ」との一致性に安心するか、都合が悪いかの差異と見て取れます。

しかし、単に「空気」を読むことが是である価値判断はされていません。なぜなら由比ヶ浜結衣は「空気」を読むことが建前だと知っているからです。

 

P108 「でも、本音って感じがするの」

 

この本音は「本当の手作りクッキー」の文脈と接続されています。まさに建前は「手作り」ではありません。

ここでは、比企谷八幡非モテという卑近な例を出し、男子の単純さ、愚かさを経験的に用いて、手段と目的を転倒させる明示的な語りがなされます。このマイナス思考がアイロニカルに一周して、シニカルにリスクヘッジをすることでポジティブに転化している比企谷八幡の「残念」なモノローグは特徴的であるのは既に記しました。アイロニーとは「分かる人と分からない人」に線を引くように距離を明示化します。比企谷八幡アイロニーは「分かる」に集中しており、「分かる」ことによって自然と内輪を形成するように強く引き付けてしまいます。この錯覚めいた引きつけさえも「内」に入れないが故の「外的」な彼からすれば皮肉的でありますが。

さらに「キャラ」や属性としての中二病キャラの材木座義輝が登場します。彼は「キャラ化」していることで救われているキャラと言えます。「キャラ」や「空気」に悩むこととは正反対のキャラです。ワナビ、ボッチ、設定を作る思考という観念で現実を二次創作していて、何もない日常にストーリーを上書きしています。そこで生まれた「自分の世界」が、自作を通して他者に触れ、他者性が侵入した他人の目によって「自分の世界」が揺らぐ。相手の顔が見れることは、誰に向けて書いているのかを問いかけるものです。誰=具体的な他者が見えてくる喜びは、ある種のボッチ思考からの脱却への糸口でもあり、しかし「自分の世界」といった確かな自己=安定した「キャラ化」が前提となります。

 

P182 歪んでても幼くても間違っていても、それでも貫けるならそれはきっと正しい。誰かに否定されたくらいで変えてしまう程度なら、そんなものは夢でもなければ自分でもない。だから、材木座は変わらなくていいのだ。

 

比企谷八幡の「変わらない」ことを美徳とする素朴な態度は、不変性への信頼や潔癖に尽きます。「自分」という足場への信用として。それしか持たない者ゆえの決断としての砦は、エコシステム的な空間の中で純粋性や絶対性としてしばしば昇華されていきます。比企谷八幡雪ノ下雪乃に抱く潔白さがそうでしょう。そのような比企谷八幡の一人称には、自分という強固さによるある種のシニカルかつミニマムなマチズモ的なズレが見えてきます。

 

P228 結局のところ、この奉仕部というコミュニティは弱者を搔き集めて、その箱庭の中でゆっくりと微睡んでいるだけのものなんじゃないだろうか。ダメな奴らを集めて仮初めの心地いい空間を与えているだけなんじゃないだろうか。

それは俺が嫌悪した「青春」と何が違うのか。

 

上述のように「青春」をエコシステム的と評しましたが、内部に取り込まれる磁場の強さがここでも読めます。果たして「外」なんてあるのでしょうか。既に記しましたが、アイロニーの作用は無自覚的に「分かる人」を引き付けてしまいます。それは「内輪」と呼んで差し支えないでしょう。

また、メタ的にいえば物語はパッケージ化して提出されます。ボッチの一人称のまま何の関係性にも入らずに何も動かないことはありません。そういう意味では、物語も「語られ始めた時点」でエコシステム的な動線を引き受けてパッケージ化されている、と言えます。物語を動かすためには関係性に混ぜる必要性があり、受動的な「巻き込まれる」体験によって内部化していく。そこへの疑義は常に付き纏いますし、なおさら「内部」や「青春」を疑っているのが本作の主人公でしょう。その視点を持つことで、比企谷八幡は「主人公たり得た」とも言えるのではないでしょうか。「外」と「内」を往来しながら、混在するカウンターとして。それが、ある種の保守性に引っかかっていることがシステム的と考えています。

 

P233 誰かの顔色を窺って、ご機嫌とって、連絡を欠かさず、話を合わせて、それでようやく繋ぎとめられる友情など、そんなものは友情じゃない。その煩わしい過程を青春と呼ぶのなら俺はそんなものはいらない。

ぬるいコミュニティで楽しそうに振る舞うなど自己満足となんら変わらない。そんなものは欺瞞だ。唾棄すべき悪だ。

 

冒頭の作文の反復が読めます。こういった反復性が『俺ガイル』のある種の記号的な要素であり、その度合いがグラデーション的になっていく変容は記号を解体していくものとなりうる。

「青春」とは異なる「そうではない側」に消極的であるがコミットメントする理由が、自分としての正しさを証明している。「青春」という嘘の仮面を被らないことが純粋的な正しさではないかと。「青春」への疑いから「青春ラブコメ」への展開を拒絶されたり、怪しんだりすることで一層自身が掲げる正しさが際立ちます。自分自身が内部化することへの懸念を挿むことで、「外」に出ようとする力とイマ・ココに引っ張られ、それを担保してきた語り、スタイルとしての異化効果がカウンター的に日常化します。つまり「まちがっている」ことが日常的であるといったように。

具体的には第8章からは「青春フィルター」への嫌悪が述べられています。自分たちの輝かしい瞬間としての記録と記憶は「青春」と名前を付けられることで、正当化された実存への承認が行われます。そんな「青春」と称した「欺瞞的なぬるいコミュニティ」から切り離して、自分たちの居場所へ帰ることこそが「そうではない側」としての「自分たちの居場所」になっていくとしたら、それは同様に内部化の作用によって「ぬるいコミュニティ」へと変貌していくことを意味するでしょう。

例えば、葉山隼人のいう「みんな」とは誰でしょうか。また「みんな」に入れない者として比企谷八幡がいます。「みんな」をノリ、祭り、純粋な有象無象の無形的「空気」とするならば、比企谷八幡にとっては「みんな」が枷にも呪いにもなります。

スクールカースト上位の一般論的な「みんな」へのカウンターとして「外」的な比企谷八幡がいます。だから、二項対立が起点としてあるために成立しています。「外」にいるから、「みんな」ではないから、一人であるために「青春」への疑いが作用する。

これは、ボッチであることが悪いのか。いや、そうではないことを証明したいと考えているのが比企谷八幡です。

自分自身が「まちがっている」とは思わない。自分なりの正しさがあり、そういうこともあるだけです。否定しないし、されたくない。ボッチ経験からの昇華によって確立したスタイルは「変わらない自分」を確かとして、「青春フィルター」を経由しないことで逆説的に正義そのものに接近しているのでは、という理論でした。物語的にはこのような「まちがい」を回路として組み込むことで正しさを問う構成となっています。

そして「男女のラブコメ」を期待していると、由比ヶ浜結衣雪ノ下雪乃のラブコメが一要素として始まる気配があります。それも含めて「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。」なのでしょう。友達関係として接近していく由比ヶ浜結衣は、雪ノ下雪乃の領域に入っていきます。由比ヶ浜結衣に友達として歓迎されることで、雪ノ下雪乃の無意識的な友達探しの文脈に接続されるところを比企谷八幡視点で恰もラブコメ風に描いています。

ここで、安易に友達探しの文脈に主人子である比企谷八幡は接続されません。彼は逆説的に孤独への肯定を証明しようとしています。一人であるからこそ獲得した知恵と弱さを反転させた強さ、そして持たぬ者ならではのある種の能動性を展開していきます。

人間の人生はゲームのように例えられますが、セーブポイントもリセットボタンもありません。乱暴にいえばリセットできない人生という一回性が、人間とキャラとの違いでしょうか。例えば、キャラにはループ機会やリセットできる可能性を持つことがあります。また、二次創作的に恰も別の人生を生きているかのように描かれることもできます。

しかし、キャラは物語としてパッケージ化されて「その後やその先」を生きることができません。そのために厳密に人生と物語は一致しません。「その後やその先」の保証がない一過性としての性質は似ているにしても、キャラ自体はそれを見ている人間がいなければ成立しません。同じ一回性の中でもパッケージ化という暴力性を経ずとも、人間は自立して存在できます。けれども、キャラはパッケージ化や自分を見つめる視線といった暴力性を引き受けなければ存在できません。それを受けて、物語化されていくことでキャラは「その先」を生きるという形式でもって語られることが可能ですが、それは人間がキャラに命を吹き込む作業なくして成立はしないのです。その意味では『俺ガイル』はゲーム性を極力排除しようと努めた作品だと言えるでしょう。ゲーム性が良い・悪いといった話はここではしませんが、出来る限り一回性のもとでキャラを人間に近づけようとしています。記号的な組み合わせによる非リアリズム的な見地から、いかに「内面」を描き、生身の身体を持つ人間に近づけるか、といったリアリズムへの方法の矛盾を回路として用いる。読者がいて成立するキャラの存在できるために生じてしまう「内面」を一人称でもって現実と接続させるように。その一回性の問題が地続きに横たわっています。

さて、比企谷八幡の「肯定」は、リセットできない一過性的な日常というイマ・ココを包摂した経験的強度への転用から、自立してみせようとする藻掻きに見えます。その葛藤を経た主観的な正しさの発見は、何度も記したような潔癖に繋がり、それ以外は「悪」に映ります。 

まさしく「青春フィルター」は世界の見え方を変えます。その変化が主張されているならば、アンチテーゼとして機能するのが彼の主張でしょう。比企谷八幡も主観的に変わるかもしれません。客観的に、物語的には、何の関係性にも組み込まれていなかった彼が奉仕部というコミュニティの内部化に取り込まれた時点で見え方は変わっているわけですが、そういった「外」への力を内面に留めていなければ「まちがっているラブコメ」は描かれません。

「青春フィルター」を忌み嫌い、安易なラブコメを遠ざける「まちがったラブコメ」を起点とした物語は、客観的には、読者的には十分にラブコメの様相を呈しています。ある種の「まちがっているが、タイトル的にはまちがっていない」ラブコメであると思うくらいには微笑ましい。

比企谷八幡の作文の結びがタイトル回収の「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。」にあるように、「やはり」とある自虐的かつ主観的な一人称の文体が上滑りしないようになっています。

捻くれた自覚的なラブコメとして「まちがっている」が、『俺ガイル』という物語においては「まちがっていない」といった「まちがっている」ことが逆説的な正しさとして機能しています。この捻じれはまさに「青春」への嫌悪感を述べた冒頭の作文の反復性と通じるでしょう。「青春ラブコメ」へのカウンター、システム的な「まちがい」から出発し、包摂としての「まちがい」こそが「まちがっている青春ラブコメ」であり、つまり物語的なある種の正しさであると。反復的な二項対立といったある種の保守性のもとで「正義」を引き付けようとする都合の良ささえも含めた「まちがっているからこそ物語的な正しさ」を「まちがって」温存し、内面化しているシステム的な構造だと言えるのではないでしょうか。

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