おおたまラジオ

「焦げる焦げる」と歩きながら口の内で言った。

『俺ガイル』・小休止・メモ

先日、『俺ガイル』連載シリーズの前期(1巻~6巻分)が終了しました。

futbolman.hatenablog.com

前期と後期に分けているのは僕の都合でしかありませんが、こんなに長いのに変わらず付き合っていただいている読者のあなたの存在で僕は救われています。本当にありがとうございます。あなたがいなければ、僕は書き進めることはできません。文章って、そういうものだと思います。

正直、もっと簡易的にやろうと思ったこともあります。

けれども、ある意味で『俺ガイル』は「要約」を誤読に誘うテクストでもある。もちろん、あらゆるテクストはそうといえるでしょう。況してや誤読は読者の自由だと思いますし、「明快な誤読」すらも一概には斥けにくいのは相対主義的ですが、テクスト論的にも「正しい読み」への疑わしさは一定程度あるべきでしょう。ロラン・バルト的にいわなくとも、作者だけがテクストの可能性をすべて網羅しているとは限らないでしょうから。

もちろん、一定程度の「読みの正確さ」はあるでしょうが、単一的な「正しい読み方」は疑わしい。読者の数だけ読み方がありますし、その誤読可能性は作者の手からテクストが離れた瞬間、市場の原理を通して読者に届いた瞬間に開かれるものでしょう。そのような自由性は時間差を伴うある種のコミュニケーション(交通)と呼べるもので、だからこそ応答可能性として、テクストに込められた可能性と自由性はある種の「祈り」と呼ばれるものに近似していくと思います。作者と読者とのコミュニケーションとして。僕も、読んで書いて、それを読まれていることも含めて。

連載はここまでで半分。ようやく半分が終わり、折り返し地点です。小休止です。

少し振り返ると、やはり比企谷八幡中心的な読みは避けられないという印象です。(1)で僕は――前期というタームは主人公の比企谷八幡の一人ぼっち故に一般論的にネガティブなイメージが付き纏う「孤独」というレッテル貼りに対して、他者から注がれる眼差しを経由する悲観論から出発した作用にカウンター的に反発するようにして自意識が周回した結果としての独我論的なマチズモの表れとなっています――と纏めました。

そこから(8)の6巻までに積み上げていったものを整理すると、前期は最終的に「夜の肯定」と記しました。「夜の肯定」とは「孤独な内面の肯定」と「一人による自意識のマッチョさ」の両立を意味しています。

そして、前期は「夜の肯定」に「他者性の接続」が結びついていくことで、後期へと進んでいき、「まちがってい」きます。「他者」とのコミュニケーションのズレの多重化と自意識(「夜の肯定」)が空転していく。というのが僕の読みですが、もう少しお待ちください。

 

『俺ガイル』のファン層は偏りがあると思っています。あくまでも印象ですが。男性読者が多いイメージがあり、ジェンダー的には非対称性があるのではないでしょうか。書店員時代に『俺ガイル』を買い求めていた客層は男性ばかりだったことを記憶しています。

そういう意味では男性読者に比べると、テクストが開かれている気がしません。たとえば女性キャラクターの描かれ方(セクシャリティ)に対する、男性読者的視点ではない女性読者の意見は相対的に少ないかと。『俺ガイル』の主要読者層とファンダム受容(男性原理的)に関係があると思いますが、ここでは一つメモ書き程度で置かせていただきます。

むしろ僕が「ファン層に偏りがある」と書いたのは、僕の言い方でいえば前期と後期で異なるという意味です。前期はアニメ1期(1巻~6巻)までで、後期はアニメ2期以降(7巻~14巻)としますが、前期のテイストが好きだったという人を幾度か見かけたこともありますし、後期の尻すぼみ感に対する意見もあります。特に『俺ガイル』の終わらせ方、またある種の終わらなさに対しては避けられない問題となるでしょう。

後期のいわゆる文学性に対してノレる、ノレないことがよくも悪くも距離感とファン層の差異を作っているでしょうか。

ここでその是非について書くことはありませんが、「なぜ『俺ガイル』なのか」と思うことはあります。

僕は「なんで『俺ガイル』に執着しているのだろう」と距離感が分からなくなることがあります。だから書いているともいえるわけですが。

しかし『俺ガイル』について考えるということは、かりに前期が好きだったとしても後期について避けて通れないものでしょう。むしろ後期が念頭にあるからこそ前期といえるわけですから、その「疑わしさ」や反発含めて『俺ガイル』と読者の距離感があるとするならば「厄介」なものであることは確かで、その意味において共通的ともいえるのではないでしょうか。その一点でもって前期であろうが後期であろうがなんであろうが、僕たち読者は一緒に「厄介さ」を抱えてしまっていると思います。「厄介さ」をどのように解体するかは、それこそ誤読可能性と自由性に開かれているわけですが。

 

とある作家がライトノベルと純文学の距離が広がった、という話をしていました。

これは本当に耳が痛い話です。

かつてゼロ年代にはライトノベル文学史の距離の縮まり方、あるいは当て嵌め方の可能性があったシーン(時期)がありました。

しかし、今やその距離は縮小するどころか拡大化していき、島宇宙化していった。それが今のジャンル間の距離感であることは確かでしょう。ライトノベルライトノベルという島宇宙のなかで。島宇宙が悪いとも言い切れないのは確かです。けれど、常に外部を意識することは欠かせないと思います。

僕が書いている『俺ガイル』連載は、ゼロ年代批評の復古を目論むようなものではありません。文学史的に『俺ガイル』を位置づける、というものでもありません。そうした可能性はゼロ年代の亡霊的に映るでしょうし、それも吝かではありませんが、むしろ島宇宙化したジャンル間で「外部と内部とは何か」を問うことでの発見が一つの目的でもありますから、江藤淳の「サブカルチャー化する文学」への警鐘に対する「サブカルチャー」的応答として『俺ガイル』のいわゆる文学性――後期的問題――を引き付けて語ることができるかという問題設定があります。

しかし、そうした試みは一見すると『俺ガイル』を文学的に位置づけるものに映ってしまう危険性があります。「『俺ガイル』は文学である」と。

僕としてはその精神性を引き受けつつも、島宇宙的なジャンル間の越境的可能性ではない、『俺ガイル』から「サブカルチャー化した文学」の話をしたいと考えています。そういう論点を後期で展開できたらいいなーと。

もうしばらく連載は続きますが、あなたのおかげでここまで書けました。

ありがとうございます。

サブカルチャー化した文学から呼びかけられている――『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』(8)

これまで見てきましたが、6巻までに比企谷八幡独我論的な潔癖的倫理観は、自己肯定から自己嫌悪への反転を促しました。この転化はある意味では前期の集大成ともいえるし、後期の「まちがう」構造的反復性の起点になるのが6巻である、その目安ともいえるでしょうか。

5巻に至るように、雪ノ下雪乃比企谷八幡のズレ(隔絶)はディスコミュニケーションへと転調しました。いつもと変わらない机を置いた距離にも関わらず、確かな隔たりが生じています。奉仕部内は相対的な「他者」である由比ヶ浜結衣を「番い」としてコミュニケーションを進行させていきますが、比企谷八幡からすれば絶対的な「他者」の雪ノ下雪乃との距離は彼女自身の「沈黙」に表象されているように「交通」が整理されていないどんよりとした停滞感を生んでいます。比企谷八幡雪ノ下雪乃の距離感は3巻で示唆されたのち、4巻、5巻の「沈黙」によって決定的な非対称性を炙り出しました。

 

イメージを押しつけてはいけない。

完璧さを求めていいのは神様に対してだけだ。

理想を誰かに求めてはいけない。

それは弱さだ。憎むべき悪だ。罰せられるべき怠慢だ。自分に対する、周囲に対する甘えだ。

失望していいのは自分に対してだけであるべきだ。傷つけていいのは自分だけだ。理想に追いつけない自分だけを嫌えばいい。(P25)

 

人は見たいようにしか物事を見ることができない。認知バイアス的に、あるいは記号的に離れることができない様子は4巻、5巻の際に触れてきました。もちろん、そのような記号性から離れていくことが本来的な意味での「キャラクターを描く」ことにつながっていくでしょうし、「他者を描く」ことになっていくでしょう。記号から離れること。前期から後期に『俺ガイル』のキャラクターたちが抱える矛盾(両義性)を引き受けていく様子は「他者を描く」ことは何なのか、という距離感を明示しているといえるでしょうから。

引用したように雪ノ下雪乃の絶対化という「イメージを押しつける」身勝手さが5巻からの自己嫌悪と露わになっています。一人ぼっちであることのある種のナルシズムと自家中毒的ジレンマが反転するようにして嫌悪感となっている。雪ノ下雪乃を絶対化することでの比企谷八幡の一つの弱さからの誤解(ディスコミュニケーション)が距離感のズレを引き起こしていますが、願望は「理想と現実」を捻じ曲げて混同し、イメージを自ずと型に当て嵌める。記号的に回収するような眼差しが持つ暴力性は5巻の相模南を引き合いに出すまでもありませんし、理想化を形成する心象としての潔癖性も独我論的な一方向的という意味では同様でしょう。

6巻では、3巻のラストから4巻の千葉村帰りと「沈黙」によって線が引かれた雪ノ下雪乃比企谷八幡の非対称的な距離感を互いに線を越境できるのか。たとえ捻じれたディスコミュニケーションであっても「他者を知ることができるか」ということが問われています。

ギスギスした奉仕部からの帰宅するシーンでは、嵐が到来する外界と部室内のコミュニケーションの不全にある躓きから、空気が滞るようにして距離のバラつきにある差異が拡大化していきます。まさしくコミュニケーションの停滞感とどんよりした嵐の空気感が合わさるようにして。

比企谷八幡が空を見上げると曇天模様であるのは「風景と心理」の一致になります。嵐の中で停滞する彼の心象が風景に照射されている。「内面と風景」の一致は柄谷行人的にいえば近代文学による「発見と告白」の一つですが、『俺ガイル』では比企谷八幡の一人称という語り(目線)を用いて、風景や温度といった五感に基づく微細な変化と内面性の語りを同調させることで、語らずして語る「沈黙」と饒舌に語ってもなお語り切れないという意味での「言葉の貧しさと懐疑」的視線という「信頼できない語り手」としての一人称の「告白」の現在地――ある種の不調和が特徴的ともいえるでしょう。

嵐の中、比企谷八幡の不明瞭な視界と自転車のペダルは思うように進みません。思わずペダルと思考はするすると上滑りしていく。「上手くいかなさ」の比喩として。まるで2巻のラストを彷彿とさせながら空回るように、「他者」との根本的なズレが自意識の自閉性を強調させ、関係性と空気の停滞感と空転するペダルが「交通」の「命がけの飛躍」に基づく「賭け」の失敗を主張するように絶対的な距離を意味しています。

 

これまでに具体的に描かれてこなかったスクールカーストの空洞化であった中間層――「キョロ充」やサイレントマジョリティ――が可視化されるのも6巻の特徴になるでしょう。そういう意味では二項対立的ではない、より複雑なスクールカースト性が最も露わになるのが6巻ですし、5巻から登場した相模南の存在感、キャラクターの立て方によって、スクールカースト上位と下位を同時に意識している中間層からの評価が差し込むことに成功しています。

相模南が代表していますが、上位への感情は決して羨望だけではありません。

相模南のいう「成長」は自己実現のリターンのみを指しており、現状のポジションに満足しているわけではない姿を描いています。文化祭実行委員長に立候補するシーンでも分かり易い「肩書き」による評価点を稼ぐ目論見があるのは隠せていませんし、即物的な意味で相模南というのは大衆的な「何者でもない」代入可能なキャラクターともいえるでしょうか。「成長」して「何者」かになりたい自己実現的欲求はあるのは、具体的な評価や立ち位置を確保していないからこそ「肩書き」をインスタントに求める。そのような「ありふれた何者でもない」さまが相模南を逆説的に引き立てていると思います。

相模南のスクールカースト意識はコンプレックスと対抗心によるものです。現状のポジションに甘んじているわけでもなく、「狭い」教室的な意味でのサバイバル的感覚は宇野常寛が『ゼロ年代の想像力』で記したように、相模南はもっとも「空気」に近く、だからこそ「何者」かになって「空気」から飛び出したいサヴァイブ性(競争意識)を持ち合わせています。「教室」という空間に最も適した大衆的なキャラクターですから、やはり交換・代入可能とも言えそうです。誰もが相模南になり得る可能性を保持している。

現状の相模南のスクールカースト評価は環境(三浦優美子)に規定されたものです。環境によって外部評価は変化する。相対的なものといえるでしょう。ですから、そのような「ハマり具合」が見事に「中間的」な「何者でもない」感覚を増長させていると考えられますし、大衆的ともいえるべくして相対的な評価に落ち着く。絶対的な「主人公」や「ヒロイン」とは異なった形で――ありふれた相対的な「他者」の一人として相模南は存在しています。

そんな相模南が奉仕部に「依頼」をすることから、6巻の素直な捻じれが起きます。もちろん、この捻じれは比企谷八幡雪ノ下雪乃との距離感で、3巻のズレと4巻、5巻の「沈黙」を経た上での産物です。

奉仕部は魚の捕り方を教えるものです。魚を捕ってあげることは間違っています。平塚静のいう「自己変革の理念」とは自立を促すもので「安易」なものではありません。そもそも安易な「成長」を斥けているのは比企谷八幡も同様です。痛み(リスク)を引き受けるほか「成長」はない。その「成長観」は責任や主体性と結びついた上で、孤独な「夜」の価値観を引きずったまま個人的な経験に回収されていくのが比企谷八幡だとするなら、人々との関係性に重き(リターンのみ)を置いているのが相模南の都合のいい「成長観」です。相模南が望む成長=自己実現は「肩書き」による表層的な意味での承認欲求でしかなく、本質的な意味での「自己変革」でもありません。その意味では相模南の「肩書き」は記号的でしょう。記号から離れることが『俺ガイル』の一つの要素であるとするならば、相模南のような記号的な大衆性は逆説的には欠かせません。その記号性に意味のある成功体験=承認を紐づけるようにサポートを「依頼」したわけですが、雪ノ下雪乃は「理念」と異なった自己変革の精神性もない「依頼」を、部活動ではなく個人の裁量でもって「効率化」をエクスキューズに承諾します。そして、奉仕部としては非対称的な距離感がますます拡大化していきました。原因はコミュニケーションの失敗、「沈黙」に尽きます。雪ノ下雪乃が具体的に内面を語らないことで「分からない」。言葉と現実の不一致。また内面が「見えない」ことからディスコミュニケーションに陥っているのは、もちろん小説的にいえば比企谷八幡の一人称という語りが一面的には効いているわけですが、雪ノ下雪乃の「沈黙」にある相互の決定的なズレは3巻の「加害と被害」によって隔てられた距離感です。

そして、雪ノ下雪乃の「沈黙」を「嘘」とみなす比企谷八幡の潔癖が相互に「賭け金」を釣り上げていることに起因しているでしょう。その延長にある「交通」の上手くいかなさ――ままならなさが「他者」としての具体的な重みを形成していきますが、ここでは具体的に語らない「沈黙」の重さが実感としてあることが分かります。

 

相模南をサポートすることとなりましたが、実行委員会内で雪ノ下雪乃の絶対性が輝くほど彼女ありきのマンパワーは増長していきます。彼女と否が応でも比較されてしまう相模南はコンプレックスを刺激されてしまうし、相模南の「肩書き」だけによる成長=自己実現が名ばかりであるように空転する結果に陥ってしまう。まるで理想と現実の差異のように、相模南にとって望んだ「成長」とは異なる現実的落差があります。

雪ノ下雪乃の存在感。「優秀である」という加害性は、相対的にいえば人を比較対象として傷つける可能性があります。比較という暴力性です。ここでは相模南がそうでしょう。たとえそれが「正しく」とも、「正しさ」のあまりに雪ノ下雪乃の「生きづらさ」につながるわけで、そのこと自体には平塚静がかつて指摘していました。雪ノ下雪乃の持つ優秀さ、存在の絶対性が引き起こしてしまう無意識的な暴力性は、2巻の葉山隼人をめぐるチェーンメールの件を連想させるでしょう。もちろん、同時に雪ノ下雪乃雪ノ下陽乃とも比較に晒され、差異を常に突き付けられているのは同じです。

「成長」を望む相模南をみやる比企谷八幡の「安易な成長」を撥ねつけている視点は一貫的でしょう。「変わらない」ことによる孤独の自己肯定――「夜の肯定」といっていいでしょう――が比企谷八幡の主張ですから、相模南とは決定的に異なります。安易な変化を忌避している。相模南は比較や差異を記号的に捉えることでポジションをその都度確認するキャラクターであるとするなら、比較されない自己充足的な「一人性」というオルタナティブな視点をマッチョ的(独我論)に保持しているのが比企谷八幡といえます。そのようなオルタナティブ性、カウンター的視点が前期では顕著ですから、主人公たる所以とも言えますし、「夜」的に孤独な内面を自己肯定的に物語っています。

その意味では、比較対象として対照的なのは葉山隼人でしょう。

 

葉山はいい奴だが、その優しさゆえに誰かを、何かを選べない。彼にとってはすべてが大事なのだ。ふと、それはひどく残酷なことなのではないかと思った。(P187)

 

葉山隼人は、2巻、4巻でも明らかなように「性善説によるコミットメント」が彼の社会化=「上手くやる」を示していました。「上手くやる」コミュニケーションの調整術もありながらも、「上手くやれない」こともあったのは鶴見留美の一件で、比企谷八幡との明暗が分かれたと言えます。

ここでは「上手くやれる」ために「何かを選べない」という逆説めいた不自由さが見え隠れします。「持つ者」であるがゆえに「何も選べない」ように、コミュニケーションの上手さがデタッチメントであることを引き起こすのではないかと。存在感の絶対性としては雪ノ下雪乃と同様に葉山隼人も「持つ者」としての自分が何者かを自覚している一方で、「持たざる者」としての自分も認識しています。過去の「上手くやれなかった」経験があるためでしょう。

『俺ガイル』の「まちがい」の多重化は、端的いえばコミュニケーションの失敗、ズレによる蓄積を意味しています。「賭け」のレートがつり上がり、相対的に距離感は隔たりとして表れてしまう。もちろん、『俺ガイル』のコミュニケーションの「まちがい」――ズレは言葉と現実の非対称性・不一致性にあって、そのことを語ることさえもアイロニーという切断/起点があるために距離が発生しているのは避けられないですし、そのアイロニカルに遠い語りを引き受けているのが比企谷八幡の抱える本来的なズレと言えるでしょうか。

話を戻しますと「上手くやれそう」な葉山隼人の「まちがい」も多重化に含まれているとみていいでしょう。その意味で「リア充」も苦悩しており、孤独な内面をずるずるとしたルサンチマン的な葛藤とは異なるところに位置した、朝井リョウなどに代表されるような「リア充文学」は相対的にいえば「文学の健全化」の一つとしてみることができます。「文学の相対化」の表れともいえるでしょう。そのような「文学の健全化」は「仮構的」にいえば「夜」ではなく「昼」のような趣があり、「文学」の相対化を促しています。

比企谷八幡だけでいえば「夜」的である、と「仮構的」にいえるでしょうが、葉山隼人のコンプレックスもまた「昼」と「夜」を揺らぎ、そのような非対称的な二項対立は淡いに入り込んでしまいます。下位からルサンチマン的に見上げるのみならず、上位から零れ落ちる心情の複雑性と非対称的な二項対立が目線の運動性の一致と調和によって「リア充対非リア」の「仮構」的な構造を完全に塗り潰して相対化していきますが、その相対的な仮構性を「夕」として捉えるのは後期ですから後述することになるでしょう。

後期では、比企谷八幡が存在しない場での「語り」が増えていきますので、その語りの豊穣さと饒舌さがパースペクティヴな産物になります。比企谷八幡の視点を通じてしか描かれなかったことが、語り手の一時的な交代・変更をすることで、彼の主観には入りきらないことが描けることを意味して間主観性を獲得した語りからコミュニケーションの不一致性がみえてきます。葉山隼人とは視線が交差するように直接的な対話を繰り返すことで、記号的な「リア充と非リア」の二項対立が解体されたのちに剥き出しな様子が語られていきますが、それも「多重化」を経た相対化の一つになるでしょう。

 

さて、物語は相模南の提案と文化祭の「空気」によって実行委員会は機能不全に陥っていきました。優先順位が実行委員会よりもクラスへと転倒して委員会の欠席者ばかりが増え、末端に皺寄せが行く。

部分的に片隅に位置している比企谷八幡という語り手からみても、ある種の「中心の暴走」ともいえるのが6巻のディスコミュニケーションな要素の一つになるでしょう。あるいは「全体」の機能不全ともいえるでしょうか。「全体と部分」の部分による視点から分業制という「全体の見えなさ」が距離感のズレとしてあり、その意味では比企谷八幡の一人性(部分的)は適当ともいえるでしょうが、部分としての負荷が比例的に増加していきます。誰かが仕事をサボると、誰かに仕事がその分充てられる。責任の所在がズレていきながら、真面目な人が貧乏くじを引く。

 

「でも理想論だ。それで世界は回ってない。必ず誰かが貧乏くじを引くし、押し付けられる奴は出てくる。誰かが泥をかぶんなきゃいけない。それが現実だろ。だから、人に頼れとか協力しろとか言う気はない」(P197)

 

「貧乏くじ」を引くようにして、破綻している組織を統合しようと努める雪ノ下雪乃の能力と限界を否応なく見ることになっていきます。

一人であれば自己責任として帰着しますが、他人に頼ることはハードルが相対的にいえば高い。況してや一人で済ましてきた能力や経験、効率の側面からみても一人のメリットだけをみてきたのはある意味では比企谷八幡雪ノ下雪乃の共通性といえるでしょう。そこから「みんな」が尊いのか、という二項対立の反復や孤独の自己肯定を引き出すことは容易いですし、今まですべてに対して一人であるなら自己責任やあきらめを引き受けることでリスク管理できるのが当たり前だったことを考えれば、他人に委ねることの不確定さは不安要素となり得る。他人に頼るのであれば裁量権は必然と委ねられますし、能力・経験などのスペックの違いは、人に頼ることをある種の妥協点を探ることに近いともいえるでしょう。

比企谷八幡からすれば「変わらなさ」を信条としていますから、すべてを個人レベルの範囲内で引き受けることが日常的であった「一人ぼっちな自分」を否定される謂れはありませんし、寧ろ一人で成し得てきた、あるいはあきらめてきたもの含めて統合されたプライドを持っている一方で、何かしらのコンプレックスもある――「他者性」の欠落です。今までみてきたように捻じれている自意識の構造は、「他者性」なき比企谷八幡のアイロニカルな内面性(語り)によるものです。そのアイロニーは、言葉の裏側を読む「現実的」な比企谷八幡に代表されています。言葉と現実がズレているからこそ表面とは異なった裏側がある。それ故にコミュニケーションは文脈と「空気」に形成されていき、言葉と感情の二面性は決定不可能性を文脈的には内包し続けています。「その言葉」はどういう意味なのか。コミュニケーションでは「空気」を読んで推察していくものですが、比企谷八幡は「現実的」には懐疑的ですから非対称性にある「他者と言葉」を信じられない。その「信じられなさ」という文脈が後期では翻って「本物」に価値転倒したといっていいでしょう。

 

「青春」は誰かの犠牲の上で成り立っています。1巻や4巻の「みんな」がそうでありましたが、「青春フィルター」を通してすべてが輝かしいような空気の中に微睡んでいく。

部分的に不遇を強いられる比企谷八幡たちと空虚な「肩書き」を振りかざし、「イマ・ココ」=「青春」を楽しんでいる相模南とのコントラストは残酷的です。真面目な人がリスクを負う「空気」と犠牲によって「祭り」が成立している分業的な「部分」の嘆きが6巻ともいえますが、同時に文化祭の「熱狂と青春と欺瞞と虚構性が入り混じる」際に、カウンターとしての比企谷八幡のリアリティがこれまでの前期の「夜」の肯定の反復と準備であり、その集大成と考えられます。

 

「比企谷くん?ここでクイズです!集団をもっとも団結させる存在はなんでしょ~?」

「冷酷な指導者ですか」

(…)

「正解はね、……明確な敵の存在だよ」(P218)

 

雪ノ下陽乃のセリフは、カール・シュミットを引くまでもなく政治を運営するうえで重要なのは「敵の存在」というリアリズムを意味しています。「友と敵」に分けることで、対立構造を積極的に促す。その集合意識による分断と党派性が集団を纏め上げる。

「共通の敵」の設定は4巻の文脈を引き継いでいると考えられるでしょうか。ここでは、比企谷八幡の立ち振る舞い方が弛緩していた祭りの「空気」において「不穏な存在」として認知されることで、「空気」へのカウンターとなり得る結果となりました。

しかし、物語としては「なぜ雪ノ下陽乃が必要以上に雪ノ下雪乃を構うのか」への問いも孕んでいるほうも重要でしょう。雪ノ下陽乃の意図は比企谷八幡には読めません。読めそうで読まずに、踏み止まっているのは彼女の言葉を信じられないためです。「分からない」のは異質で距離があり、その非対称性は雪ノ下雪乃と同様に絶対的といえるでしょう。言葉の裏側が読めないのは記号的ではない「他者」の象徴です。葉山隼人や相模南の言葉の裏側が読めるのは相対的な「他者」であり、その距離感も「空気」も相対的なものによるからですが、絶対的であろうが相対的であろうが共通している「他者性」は記号的ではなく、むしろ記号から離れた「距離感にある言葉の嘘と現実」の決定不可能性にある両義性を内包していることでしょう。

雪ノ下陽乃雪ノ下雪乃へのカウンターとしての存在性は一見「過保護」のようにも思えます。彼女に自立を促して依存体質からの脱却の通過儀礼として現実的に「あきらめた先のロールモデル」が雪ノ下陽乃の指す「成熟」であることが、12巻で明らかになりますが、その際には比企谷八幡の「過保護」も問題意識として浮上していきます。

雪ノ下雪乃が関係性に没入していくことで、自立をしていく機会に頼ってもらうことの「承認と依存」を引き受けてしまう歪みが12巻以降のテーマの一つであったと言えるでしょうが、後述します。

もちろん、そこに至るまでには6巻から「まちがえた」反復の結果、辿り着いた「箱庭的関係性」への批判精神(共依存)でもあります。

 

「空気」のグロテスクさが6巻ですが、実行委員会での立場も空回り、名ばかりの「肩書き」の自己実現が宙吊りとなった相模南。クラスと委員会でも立ち位置が中途半端になっている彼女を、オルタナティブに外部から眺める比企谷八幡の視点は、のちの相模南の思考をトレースするうえで重要な立ち位置として設けられています。

 

円陣の中、相模の表情はあまり明るくない。(…)

人をランク付けするのに慣れてしまった人間はあらゆるものをランク付けするようになる。だから、相模自身が今この場での自分のランクを考えてしまっている。(…)

心的距離は実際の距離に表れるものだ。

それでいくと、今みんなの真ん中にいる海老名さんはこの文化祭で、まさしく中心だったはずだ。

海老名さんが一声かけると、皆がそれに続く。

その完成された円陣を外から見るのは案外悪いものではなかった。(P242)

 

コミュニケーションのズレと距離感を実感してきた比企谷八幡の「外」のポジション。「みんな」に入らずに「外」から見る一人性。そんなオルタナティブさは「みんな」との反復的な二項対立となっています。

距離の反映はフィジカル的であるという指摘もあるように、ある種の空虚さが結びついている「肩書き」のみでしか承認されなかった事実は、自分自身の「評価経済的価値観」=ランク付けを引きずる相模南には痛々しい現実となりました。その距離感の中途半端さが相模南の立ち位置を曖昧なものと反映させています。

自己実現のリターンばかりを重視して、リスクを見ていなかった。「ランク付け」という記号的理解による位置づけと所属意識、スクールカースト精神をそのまま引き受けている「上位」でも「下位」でもない中間的な存在が相模南でしたが、クラスも委員会のどちらの共同性から外れてしまった相模南の位置と、最初から組み込まれていないに等しい比企谷八幡の位置は自然と近くなっていくのが伏線ともいえるでしょうか。

自己犠牲と自己実現(リスクとリターン)。傷つくことでリターンを得る。それしか選択肢がないから。「持たない」から。その歪な自己表現にある関係性は、読者と数少ないキャラクターたちとの公然の秘密化を促すのは前述の通りですが(4巻もそうでした)、6巻のある種の到達は後期が抱えていく「まちがいの反復的構造」の起点となる見事な橋渡しだったと考えられるでしょう。

4、5、6巻を一つのパッケージとするならば「他者を知るとは何か」としたのは前述のとおりです。

相対的な「他者」である由比ヶ浜結衣雪ノ下雪乃を「待つ」と言いました。彼女を知るために、分かるために距離を埋めていくのを「待つ」と。

他方で「待っててもどうしようもない人は待たない」。「待たないで、こっちから行くの」と由比ヶ浜結衣が言った言葉の意味を、比企谷八幡は「まちがえたくない」からズレないように留保します。明確にコミュニケーションに失敗したくない意思が見え、ここにもコミュニケーションの権力関係と言葉と現実の非対称性から相対的な距離があります。

 

これまでいろいろ間違えてきて、でも、今度は間違えたくないのだ、たぶん、俺は。

だから、今はまだ、それに応えるべき言葉を持たない。(P255)

 

主観的にズレてしまうからこそ、由比ヶ浜結衣の意図を読まない比企谷八幡。2巻の「まちがい」=すれ違いの反復を経験的に斥けるようにして。主観的には相対的な「他者」としての「ままならなさ」があり、常にコミュニケーションに失敗する=「まちがえる」のではないか、という不安が見えます。

しかし、文化祭という非日常性にあてられて比企谷八幡は一歩を踏み込みました。まさに「命がけの飛躍」として。相対的に距離を近づける覚悟はズレが生じるかもしれない。「まちがい」(リスク)を引き受けるものです。アイロニカルにデタッチメント(距離を置く)の比企谷八幡らしからぬ行為でしょう。たとえ距離感が「分かって」コミュニケーションの「賭け」に勝ったとしても相対的には距離はある。「他者」とは異質なものだから。心的距離がフィジカルに反映されるように、リアルな距離が心的距離という表象にもなる。トートロジーですが、依然として距離感は発生します。自分とは異なる「他者」ですから「命がけの飛躍」を通じて距離感を追認していくほかない。主観的に処理していくしかありません。それこそ記号的に、部分的に判断するほかありません。「他者と記号」のパラドックスがあります。

ですから、相模南の「評価経済的価値観」もその意味では適当ともいえるでしょう。「現実」という複雑さ、メタデータの集積をそのまま見ることができませんから、その意味をどこかで記号的にクリアにカットするしかない。「現実」に対する認知不可能性とでもいえるでしょうか。これまでの論考でスケッチしてきた「他者の分からなさ」にあるように、ここでの「現実」は「他者」に置き換えることもできます。「他者」の複雑さ。記号的理解とは異なります。

3巻の「加害と被害」、4巻と6巻の「友と敵」もある種の記号化であり、その単純化を用いて「他者」を引き寄せる。

しかし、6巻までの「他者を知るとは何か」は記号化から離れることで成立するものですから、その対立軸として相模南や「友と敵」は必要な「記号」といえます。ある種の共犯関係でしょう。現実的な複雑性をそのまま見ることができないから「物語」あるいは「小説」は記述された言語表現としての格闘からある種の記号化を一度通過して、多面的に読まれていくのではないかと僕は考えます。

 

スポットライトのあたるステージは俺の居場所じゃない。

薄暗い出口から続く、人気のない道こそは俺の立つべき舞台。

比企谷八幡の一人舞台だ。(P306)

 

物語は佳境となり、仕事を放棄して行方をくらました相模南を探すことになります。

同じ「一人ぼっち」であり、自然と近しい立場となってしまった比企谷八幡であるからこそ、「肩書き」が空転して「みんな」とは異なった形として疎外された相模南をトレースできる。

スポットライトのあたらない日陰者の表舞台は、承認されたがって姿を消した相模南の捜索です。スポットライトというコントラストがあり、差異がある。オルタナティブさといっていいでしょう。前述のとおり「みんな」と「一人」の二項対立としてのオルタナティブの発露が、比企谷八幡のこれまで反復的に「夜の肯定」を描いてきた「一人性」に代表されています。

比企谷八幡は相模南の自意識や思考をなぞっていきます。一人ぼっちの経験値として。居場所を見失った者は誰かに自分の居場所を見つけて貰いたい――その自意識は「インスタントな肩書き」による自己実現が失敗したことによる空回りと自己中心的な振る舞いでしかありませんが、ひとつに「他者からの承認」を獲得することでスクールカースト性・ランク付けをベタに引き継いでいく精神性の表れでしょう。

それを何でも「成長」と結びつける短絡的な思考への嫌悪感。そして「変わらない」でいることこそが自己肯定による唯一の抵抗であるような宣言があります。

 

安易な変化を、成長だなんて言って誤魔化すなよ。

俺は、安易な変化を、妥協の末の割り切りを、成長だなんて呼びたくない。諦観の末路を「大人になる」だなんて言って誤魔化したくない。

一朝一夕たかだか数か月で人間が劇的に変わってたまるか。トランスフォーマーじゃねぇんだよ。

なりたい自分になれるなら、そもそもこんな俺になってない。

変われ、変わる、変わらなきゃ、変わった。

嘘ばかりだ。

今の自分が間違っていると、どうしてそんなに簡単に受け入れられるんだ。なんで過去の自分を否定するんだ。どうして今の自分を認めてやれないんだ。なんで未来の自分なら信じることができるんだ。

昔、最低だった自分を、今どん底の自分を認められないで、いったいいつだれを認めることができるんだ。今の自分を、今までの自分を否定してきて、これからの自分を肯定することなんかできるのか。

否定して、上書きするくらいで変われるなんて思うなよ。

肩書きに終始して、認めてもらえていると自惚れて、自らの境遇に酔って、自分は重要な人物だと叫んで、自分の規則に縛られて、誰かに教えてもらわないと自分の世界を見出せないでいる、そんな状態を成長だと叫ぶんじゃねぇ。

どうして、変わらなくていいと、そのままの自分でいていいと、そう言ってやれないんだ。(P316)

 

比企谷八幡によって反復的に語られてきた「孤独の肯定」と「変わらない自意識」のマッチョさは、この「変わらなさ」に集約されているといっていいでしょう。そのような「変わらなさ」から「一人性」を取り出しては相模南の自意識を経験的に辿っていく。

「みんな」と「一人」は「内」と「外」にも重なっています。6巻では「内輪」を眺める「外」としての比企谷八幡の「一人性」が変わらずに強調されていました。それこそがオルタナティブの価値であると言わんばかりに。

相模南を捜索する状況に対して、「内」ではなく「外」的にはたらいていた比企谷八幡であるから辿り着けますが、彼が居場所を見つけて欲しい相模南に求められているわけではありません。そもそも役割が違います。上記のように「舞台」とあるように、役割があって、それは記号的といってもいいでしょう。求められている役割と、演じるのに可能な役割は異なります。理想と現実のようにギャップが常にある。

選択肢がない、あるいは選べない比企谷八幡だからこそ「一人」として自己責任で担える範囲内での「変わらない」というマッチョさがあり、相模南との対峙はカタルシスとしての準備だったといえるでしょうか。

「変わらない」からこそ世界を相対化してみせた。

「持たない者」としてのリソースの貧しさはまさしくオルタナティブな解消法――カウンター的であり、また「夜」的――でもありながら、「まちがっている」と自覚していてもそれしか選べない自己嫌悪とナルシズム(自己肯定)があります。

比企谷八幡のアンチ・ヒーロー性は、雪ノ下陽乃が言ったように「敵の設定」であり、「友と敵」に代表されるものです。「敵」の存在によって集団を纏め上げる。分断と党派性。ヒール役を買った比企谷八幡によって世界は、「空気」は転倒しました。

「友と敵」に「加害と被害」が重なるようにして、相模南の立ち位置が「被害者」として明確になることで、比企谷八幡は「加害者」として、またスケープゴートとしてはたらきました。世界=空気に対するカウンター、「敵の設定」から、相対化するようにして。

 

たぶん葉山の言う通り、こんなやり方はまちがっているんだろう。

それでも今の俺にはこれしかできない。

けれど、俺だって、いつかは変わるのだと思う。

必ずいつか変わる。変えられてしまう。

俺自身の心はどうあれ、その見られ方、捉えられ方、評価のされ方はきっと変わる。

万物が流転し世界が変わり続けるなら、周囲が、環境が、評価軸そのものが歪み、変わり、俺の在り方は変えられてしまう。

だから。

――だから俺は変わらない。(P328)

 

「友と敵」としましたが、葉山隼人とは奇妙な符号があります。

4巻にあるように葉山隼人性善説的コミットメントを信用した形がそのまま6巻につながっていますが、4巻では「絶対的に分かり合えない」という差異から相互認識したのが二人でした。

比企谷八幡が「友と敵」を用いたのも、葉山隼人の存在があって成立したものでしょう。一見すると比企谷八幡葉山隼人は「友と敵」に収斂することができるように思えます。まさに相模南とのやり取りがそうであったように。

しかし、二人は「絶対的に分かり合えない」という相互認識から、信頼関係とも呼べない奇妙な関係性――つまり「分かり合えなさ」を起点とした差異からの「認識」はある種の「分断」を乗り越えてしまっている。それこそ「友と敵」に回収されない、記号的ではないものとしての「認識」がはたらいています。

 

 

「比企谷。誰かを助けることは、君自身が傷ついていい理由にはならないよ」

(…)

「……たとえ、君が痛みに慣れているのだとしてもだ。君が傷つくのを見て、痛ましく思う人間もいることにそろそろ気づくべきだ、君は」(P343)

 

 

平塚静比企谷八幡に言葉をかけるシーンです。「自己犠牲」もやはり自己中心的な振る舞いには違いありません。自分が痛みを引き受ける分にはいい。一人ですべてをやってきた経験としての帰着。その意味では比企谷八幡の自己責任論的正当性も、やはりどこか独我論的でしかない。「他者」がいません。そのことを常に確認してきたのが前期のアイロニーだったといえます。

誰も傷付かない優しい世界とはいっても、自分自身は傷付いてしまう。その痛みに自分自身が鈍感であったとしても、それとは別に「痛ましく思う」存在がいることは両立する。承認といっていいでしょう。それを言ってくれる「他者」がいる。そういう関係性のなかに自分は既にいる。一人の価値を謳ってきた比企谷八幡ですが、もはや一人ではないことが明らかです。

もちろん、「夜」の精神性さえも両立することは可能でしょうが、このシーンでは現実と言葉がズレるだけではなく、自己評価と他者評価も非対称的にズレていることを示しています。

5巻で平塚静が投げかけたように、比企谷八幡が潔癖的に自分自身を許せるかどうかの話にもなっていきます。「変わらない」でいることは潔癖の所作で、ある意味ではそのマッチョさが6巻のオルタナティブさ、アンチ・ヒーロー性を準備したといってもいいでしょう。

「今や世界は空気で回っている」。世界とは「空気」である――そのマクロさと相反する学校空間の「狭さ」、あるいはモラトリアム性に対して「敵の設定」によりカウンター的に問うて比企谷八幡オルタナティブな存在感の拡大化を図ったのが6巻でしたが、後期では「狭さ」にあるようにマクロな世界=空気、「友と敵」の「敵」は矮小化していきます。むしろミクロな「狭い」=「友」の関係性に没入していくといっていいでしょう。

6巻以降、つまり後期ではオルタナティブさやカウンター的価値観は関係性のエコシステム(青春的)に取り込まれて、世界=空気は後退していきます。「友と敵」によって形成された内輪。ミクロの輪郭をなぞるためにマクロは捨象されていく。前期で拡大化した世界=空気が、後期で矮小化されていく手つきは「狭さ」への応答とみるべきではないでしょうか。世界=空気はスクールカースト性をそのまま引き受けるものですから、厳密にスクールカーストを描く作品ではない『俺ガイル』では6巻はあらゆる意味で特異点でしょう。6巻時点で拡大化した世界=空気から、後期の関係性という「狭さ」への応答としての「まちがい」は、コミュニケーションの失敗の多重化にみえる「狭い」関係性のズレをみていくことがアイロニカルな「青春=モラトリアム」への距離感になっていきます。

 

雪ノ下雪乃の言う「弱さの肯定」は、比企谷八幡のナルシズムの「変わらなさ」という安心感、距離感への肯定であり、「他者を知るとは何か」の手がかりになりました。

雪ノ下雪乃の「沈黙」を「嘘」と過剰に読んだ比企谷八幡とのコミュニケーションのズレとなりました。そのすれ違いには潔癖的倫理観と孤独の肯定――「夜」の肯定ともよべるような「変わらなさ」が結びついています。比企谷八幡の「変わらなさ」はアイロニカルに増幅した「夜」の肯定ともいえるナルシズムでしたが、その不変性が関係性を構築していきました。

 

「誤解は解いたほうがいいと思うけれど」

「誤解は解けないだろ、もう解は出てるんだからそこで問題は終わっている。それ以上解きようがない」

正解でも誤解でも、ファイナルアンサーだ。

失敗は取り返せない、押された烙印は消せない。

(…)

「言い訳なんて意味ねぇよ。人間、大事なことほど勝手に判断するんだから」

「……そうね、そうかもしれない。言い訳なんて、無意味だもの」

(…)

出た答えはひっくり返らない。覆水盆に返らず。割れた卵は戻らない。王さまの馬と兵士ぜんぶでも、二度ともとには戻せない。

どんな言説をもってしても、悪印象はぬぐえない。

逆はあんなにも簡単なのに。誰かの言葉一つで人を悪く思えて、何かの行動一つでそいつを悪く思えるのに。

だから、言い訳は無意味だ。その言い訳すら悪しく思えてしまう。

「……なら、もう一度問い直すしかないわね」(P212)

 

「……でも、今はあなたを知っている」

(…)

誤解は解けない。人生はいつだって取り返しがつかない、間違えた答えはきっとそのまま。

だから、飽きもせずに問い直すんだ。

新しい、正しい答えを知るために。

俺も、雪ノ下も、お互いのことを知らなかった。

何を持って、知ると呼ぶべきか。理解していなかった。

ただお互いの在り方だけを見ていればそれでわかったのにな。大切なものは目に見えないんだ。目を逸らしてしまうから。

俺は。

俺たちは。

この半年近い期間をかけて、ようやく互いの存在を知ったのだ。

名前と断片的な印象だけが占めていた人物像を、まるでモザイク画のように一つ一つ欠片を埋めて、虚像を作り上げることができた。

きっと実像ではないだろうけど。

まぁ、今はそれでもいい。(P352)

 

「友と敵」を通じて、「他者を知るとは何か」の「問い直し」から、「友」として――友だちになることは拒絶される反復がありますが――承認していく。その見解はズレることなく、コミュニケーションの一致をみることができます。

この時点で、比企谷八幡雪ノ下雪乃は互いに認識し始めた段階です。1巻の反復からコミュニケーションが進んだ上での4巻、5巻と6巻への応答として「他者」を知っていくための距離感はまさしく「命がけの飛躍」に表れるような「賭け」に通じていました。

「問い直す」ことは関係性の編み直しを意味しています。関係性の再構築が「分かり合っていく」ための距離感の明示とするならば、3巻の由比ヶ浜結衣は「加害と被害」による「友と敵」を通じた「始め直し」でしたが、それによって雪ノ下雪乃の「沈黙」を誘発させました。4巻や6巻もそうです。「友と敵」を通じて、友=内が形成されていきました。

4巻では葉山隼人との「絶対的な分かり合えなさ」として。6巻では雪ノ下雪乃との「絶対的な距離の明示」として。それらの点でもってコミュニケーションはズレることなく、相互認識を経て「他者」を知っていくこととなる。

つまり「他者を知る」までの距離感と時間が前期だった、といえるでしょう。

「知る」とは非対称的であり、実像ではないことが示唆されています。モザイク的であり、虚像的でもある。「本物」が実像であるならば非対称性は解消されていきますが、虚像的な距離感は「虚構」であるがゆえに「他者」の複雑性であることを、それこそ多面的(モザイク)にスケッチできるリアリティがあると思います。そのようなモザイク性は比企谷八幡の一面的な語りとキャラクターたちの語らなさによるミスマッチであり、そのコミュニケーションの時間と距離のズレが記号的ではない「他者を知る」までの前期に表れていたといえるでしょう。

上記にもあるように『俺ガイル』の「まちがい」はコミュニケーションのズレによる多重化と文脈の齟齬といえると思います。その「まちがい」は「まちがい」たくないのに「まちがえて」しまう。認知バイアス的な問題と、人生の一回性が絡んだコミュニケーション(言葉と現実)のズレといえるでしょう。取り返しのつかなさはリセット不可能性として。やり直しはできませんが、「問い直す」ことはできる。6巻のように。

しばしばコミュニケーションは失敗します。「他者」を見誤ってしまう。複雑で「分からない」から。ままなりません。

しかし、その「分からなさ」を見つめることで距離感としての「他者」を知っていくことがはじめてできる。

6巻までの反復的な「夜」の肯定と「他者との出会い」は「友と敵」を経ることで関係性を構築しました。「友」という「内」を形成して。その地点に立つために必要な時間だったのが6巻までといえるでしょう。

「他者」を「知る」と「分かる」は別物であることは、7巻以降で描かれていきます。そのための前提に過ぎないのが前期です。

「他者を知る」までの素描が前期ですが、後期にあるコミュニケーションの失敗の多重化と構造的反復性の起点は6巻であることは確かでしょう。その失敗、ズレは「他者を知る」と「分かる」の距離感として明示されていきます。

ここまでが前期であり、後期への条件だった――僕は「仮構的」にそう考えます。

 

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サブカルチャー化した文学から呼びかけられている――『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』(7)

5巻では、比企谷八幡が相対的な「他者」と触れ合いながら孤独の肯定を反復的に行い、そして潔癖的倫理観が独我論とイコールである、と平塚静に指摘されることが印象的です。これまでの「潔癖」は5巻から引用してきたものでしたが、その「一人性」を正確に突き付けたのは平塚静でした。

同時に、家族の話が前景化してくるのも5巻でしょうか。家族、「家」の話は2巻の川崎沙希の件でもありましたが、「家」というプライベートな空間における一つの閉鎖性は「内部」を構成しては「外」を遮蔽します。自然と「私」と「公」の二層構造と重なっていきます。学校が夏休みであるから「家」を主題にしているとも言えますが、家族も「他者」であるけども他とは距離感が異なることは川崎姉妹や比企谷家、雪ノ下家から見えてきます。一貫しているのはたとえ家族であっても不一致的で、距離自体は「他者」そのものである点でしょう。家族同士でもすれ違いはまま起きる。「他者」としての遠近感における「分からなさ」「見えなさ」は「内」に所属していても通底していていると言えるでしょう。

さらに4、5、6巻を一つのパッケージと捉えるならば、「他者を知るとは何か」を問うているのが特徴です。4巻では前述のとおり、葉山隼人比企谷八幡の相互認識を描いていましたが、これ以降は絶対的な「他者」としての雪ノ下雪乃との距離感が明示されていくのは3巻の延長とみることができるでしょう。

 

これまで比企谷八幡が孤独を自己肯定することは反復的に語られてきました。一人であることの心地よさや、「他者」への不干渉という尊重(デタッチメント)はディスコミュニケーション的な距離感における処世術ともいえます。そのようなデタッチメントはある種の「空気を読む」に通じる態度ですし、他人との距離を測りながら自己防衛をしているとも言えます。

また、比企谷八幡の一人であることのアイロニカルな内面の語りを通して、簡易的に「みんなと一人」の二項対立が提示されていく。一人であることの主体性を比企谷八幡でもって語り、「みんな」は没個性的なように主体性がないといった記号的に描くことで、逆説的には「夜」としての内面を抱えながらも一人であるからこそ主体的に自立して、記号から離れることができるようにして特権的に語ることが可能と言えるでしょう。

記号的に捉えてしまう問題は、まさしく「認識」を問うことにつながっています。

 

俺たちはいつだって見たいと思ったものしか見ない。

解釈の仕方は人の数だけあるものだ。映画の感想でも、人の印象でも。

だから、理解しているとかわかってやれるなんていうのはおこがましい。理解した気になるのは罪であり悪だ。

それなのに、俺たちはわかったふりをして生きないといけない。

理解していると、理解してもらっていると、不明瞭なお互いの認識をもって自らという存在、あるいは相手という存在をつどつど定義し直し、喧伝して生きていかないといけない。(P85~)

 

認識する際に、記号やレッテルから離れることができません。認知バイアスの問題でありますし、解釈に幅がある宙吊り的感覚を記号として収めることで暫定的に理解の蓋をするものでしょう。理解した気になる、とはそういうものですから。そのような解釈に自由性がある場合、それぞれの解釈は差異となり、多様なものを相対的に形成していきます。一人一人のバラバラさが差異と重なっていくことでモザイク的な複雑性を立ち上げていきますが、他方で現実的な膨大な複雑性そのままを受容することはできません。個々人の認識フレームの問題によって情報レベルの解像度をある程度に落とさなければなりませんし、厳密には現実と言葉がズレるからこそ一時的に記号的に処理することで、絶対的な「分からなさ」に対して錯覚的に「分かったフリ」をする――現実の態度として受容することが認識をやり過ごすこととなっています。だからこそ「他者」を理解することは非対称的で相対的な結果であり、その「理解」は記号的であるために暴力的に映ってしまう。その加害性(痛みと躓き)を引き受けることで「他者」との「交通」ははじめて開かれるわけですが、比企谷八幡はむしろコミュニケーションにある暴力性を潔癖的倫理として読むことで踏み止まる――それさえも「空気を読む」に近い不干渉(デタッチメント)を経由することで一人性の肯定に回収されるようにして、一人でいれば「他者」を傷つけないし、自分は傷つかない、という暴力性への責任からの逃走における孤独で自閉的な論理がディスコミュニケーションを促進させます。

 

「君は存外潔癖だな」

(略)

「潔癖さや衛生面の話ではないよ。物の道理の話さ。もっとも、あくまで君を中心に置いた道理でしかないが」(P107)

 

 

前述した通り、平塚静の指摘が一つのポイントとなっています。比企谷八幡の物の道理や価値基準が潔癖的であることは欺瞞を唾棄すべきと許容できない態度として表れていることは既にみてきた通りです。青春が抱える欺瞞を「嘘であり、悪である」としたのは1巻の冒頭にあったように、自己意識として一貫していると言えるでしょう。

確かに平塚静が述べた「潔癖」とは、潔癖的であるがゆえに周回した結果のマッチョさは「他者性」を経由しないことによるある種の独我論的でもありますし、比企谷八幡「夜」としての語り(ナラティブ)との親和性から「個人の精神性」をストレートに導き出されたものです。それこそ「みんな」を対置するようにして一人であることが主体的に確立したものとして。

比企谷八幡の潔癖的倫理観について、平塚静は「許せるときがくる」と諭します。潔癖は独我論的な許容できない故の価値基準であり、だからこそ「正しく」もあり「まちがっている」わけでもありますが、そのような自意識と距離感の非対称性も含めたある種の生きづらさが「潔癖」であるがゆえに「本物」を求め、「他者」との剥き出しな応答が後期では自意識の葛藤とともに記されていくように、モラトリアム(未成熟)と結びつくようにして、「許容する日がくること」がイコール「成熟」の道標として提示されています。

しかし、重要なのは平塚静(他者)から「潔癖」を指摘されてもなお、比企谷八幡にはピンと来ていないことでしょう。当然、自分のことさえも「分からない」ことがあり、「他者」からみた自分と自分が思う自分は異なります。つまり、自分が思い描く自己像と「他者」からみた自分という像が一致せずに噛み合わないことで差異が生まれ、「交通」が開かれることで相対的な結果として主観的にモザイク的な解釈が立ち上がる。上記の記号の話と重なりますが、主観とのズレが多々起きることで5巻の記号的ではない――「他者を知るとは何か」という問題設定が掘り下げられていると言えるでしょう。

 

6巻の重要なキャラである相模南が登場するのが5巻です。

相模南はスクールカーストの「中間層」――作中では用いられていない表現ですがキョロ充とも呼べるような二軍に位置しているキャラです。『俺ガイル』では「中間層」を意図的に捨象していました。

前述のとおり、2巻では上位は下位を意識しない相互不干渉が語られ、4巻では別々のコミュニティを無化するようにして「ごちゃ混ぜ」に投げ込まれた結果の相互認識を経て、葉山隼人(最上位)と比企谷八幡(最下位)の暫定的な二項対立を提示するところから「脱構築」していくことが一つに挙げられるでしょうし、厳密には記号的にスクールカーストを描くことが目的ではないことから、サイレントマジョリティである「中間層」は表象されず、ある種の空気のように省略されていたとみるべきでしょう。膨大なサイレントマジョリティであるからこそ表象不可能とみることは可能ですが、スクールカーストの緻密さに重点を置いていないことのほうが重要ではないか。もちろん、相模南の登場は記号的な二項対立を留保するかのように描かれ、『俺ガイル』にスクールカースト性なるものがあるとするならば、彼女の存在感が際立つ5巻と6巻が顕著になるでしょうか。

スクールカースト最上位と最底辺ならば、互いに不干渉で済むことは2巻で記されていましたが(もちろん何度も言いますが『俺ガイル』にはスクールカースト性に意味はありません)、相模南のような「中間層」は「上」も「下」も意識しているのが特徴的です。「間」に挟まれているからこそ「空気」を読むようにして記号的に意味を読んでいる。自分たちが所属している立ち位置を把握し、レッテル=記号でもって、序列やステイタスを理解するのはアイロニカルに「他者を知るとは何か」を記号的に捉えることとなります。まさしくテーマとは相反するかのように「他者」を理解するまでの距離感を記号的に回収するか否かを問うているからこそ、相模南の記号的な「軽さ」は逆説的に要請されたとみるべきでしょう。

相模南が比企谷八幡に向けた目線は、スクールカーストの値踏みでありました。「評価経済」的かつ記号的判断の代表例ともいえる描写になるでしょう。相模南の価値基準は、スクールカーストが意味を持つかのようなラベリング、評価経済にあります。その意味ではスクールカースト性をそのまま引き受けているキャラともいえるでしょうか。

「他者」を安易に理解するように値踏みをする目線が持つ一定の暴力性は、比企谷八幡が感じるものだけに留まりません。そのような暴力性によって捨象されていく記号的理解が、本来的な意味での「他者を知る」とどのようにズレているのか。主観性の問題を投げかけているといえるでしょう。このような眼差しの持つ生々しさは葉山隼人や三浦優美子にはありません。「上位」はそこに気を取られません。相模南のように「中間層」であるからこそ芽生えるポジショニングへの自意識でしょう。「部分的」であるからこそ「全体」を意識してしまうように、「空気」の一部であるためにグロテスクに自分の立ち位置を常に保持している評価経済的な競争意識の産物です。ですから、「他者」を知らないものを知らないままに保留(判断停止)するのではなく、記号的に型や枠に嵌めることで「理解したフリ」をしていく。「他者を知るとは何か」から距離を置いたインスタントな理解ですが、4、5、6巻の「他者を知る」までには、まさに相模南のような記号性は必要不可欠な要素とみるべきでしょう。

 

比企谷八幡にとって由比ヶ浜結衣は相対的な距離を持つ「他者」です。絶対的な「他者」の雪ノ下雪乃との差異であり、由比ヶ浜結衣の距離感の「近さ」は比企谷八幡にコミュニケーションの緊張をもたらします。それは彼女の存在が、彼にとっては「未知」なる「他者」だから。

3巻で「始め直した」二人の距離感は、意味や行動に「物語」を読み込まないようにする比企谷八幡の自意識過剰を敢えて抑制してみせる語りを通して、由比ヶ浜結衣との非対称性として表れています。

由比ヶ浜結衣は交通事故の一件以来から意味や運命、つまり「物語」に必然的な過剰さを読み込んでいますが、他方で比企谷八幡は現実的に斥けている。過大評価であると。彼女のような過剰にではなく、3巻の延長として「仮定」がない一回性の現実の結果として必然ではない――偶然性を引き寄せた語りをすることで自意識過剰を抑え込んでいます。必要以上に意味を読まないように。もちろん、そのことさえも自意識過剰であると読むことは可能ですし、それを含めた非対称性に基づいたリアリズムが二人の差異としてみることができるでしょう。

思い返すと2巻のすれ違いのアイロニーから分かることは、リスクヘッジをするかのように現実的にズレないように警戒して距離を取っている比企谷八幡の自己防衛がアイロニカルな経験則から導かれた「持たぬ者」の理屈でした。「持たない」から「分からない」。それを保存するかのようにアイロニーとして距離を置く――ある種の「断念と起点」があります。その距離感を見てもコミュニケーション(言葉と現実)の可能性と不可能性には非対称的にズレてしまう隔たりとしての「理解」があるでしょう。その結果、コミュニケーションを通した「他者」への距離感として立ち上がり、「他者を知るとは何か」を問うものとなっていきます。改めて「他者を知る」とは、ある種の暴力性を引き受けることとなります。相手を知る、知りたい距離があって、主観的に記号的に回収することで「他者」を傷つける可能性を常に保持していると言えます。4巻で比企谷八幡葉山隼人の相互認識のように。あるいは相模南の下した記号的判断のように。

「他者」に踏み込むことで距離感を埋めることさえも暴力性の一つとして働くこともありますし、ある種のコミュニケーションの非対称的な権力関係にある加害性を引き受けるかどうかが問題となりますが、少なくとも前期の比企谷八幡はデタッチメントですから、「他者」に踏み込まない「持たぬ者」のアイロニカルな経験則が優先されています。ある意味では「空気を読む」行為と重なる不干渉(デタッチメント)で、そのこと自体が孤独の肯定(個人の精神性)と結びついていますから、「他者」が「分からない」ならばそのままを温存する。その「遠さ」は由比ヶ浜結衣の「近さ」とは対照的でしょう。そのような距離感のアンバランスさが、由比ヶ浜結衣の「近さ」も相まって緊張感を形成していると言えます。

しかし、物語は由比ヶ浜結衣という相対的な「近さ」よりも、「遠くで沈黙」している雪ノ下雪乃という「他者」にカメラ(語り)が向けられていきます。「他者を知るとは何か」は実質雪ノ下雪乃を問うもので、5巻は「沈黙」している雪ノ下雪乃という実像的な「他者」に対して、共同的に、モザイク的に虚像を立ち上げていくための相対的な物語だったと整理できるでしょうか。雪ノ下雪乃自身は一切を語らず、周囲が彼女をそれぞれ語ることで記号的ではない――多角的にモザイク的に意味を構築していくものでした。雪ノ下雪乃という絶対的な「分からなさ」にある距離感の明示であり、3巻と4巻の「沈黙」の応答としてみることができるでしょうが、すべては記号的ではない「他者を知るとは何か」までの距離を表すまでのモザイク的な意味の集積として相対化(沈黙への物語化)されています。

 

俺は自分が好きだ。

今まで自分のことを嫌いだと思ったことなんてない。

高い基本スペックも中途半端にいい顔をもペシミスティックで現実的な思考も、まったくもって嫌いじゃない。

だが、初めて自分を嫌いになりそうだ。

勝手に期待して勝手に理想を押しつけて勝手に理解した気になって、そして勝手に失望する。何度も何度も戒めたのに、それでも結局直っていない。

――雪ノ下雪乃ですら嘘をつく。

そんなことは当たり前なのに、そのことを許容できない自分が、俺は嫌いだ。(P224)

 

 

比企谷八幡の潔癖としての許容できなさが素直に語られています。何度も「まちがい」をループするかのように自家中毒による自己嫌悪の様は、雪ノ下雪乃という絶対化を象徴するようであり、その逸脱を許容できない理想(記号)の押し付けにもなっています。

比企谷八幡は「嘘」を嫌がるからこそ、そのカウンターとして「正しさ」を独我論的に保持している理屈が「青春」や「リア充」へのアンチテーゼとして働いているわけですが、「嘘」を許容できない潔癖かつ潔白さが唯我論的な倫理で、自意識の捻じれとみることができるでしょう。

「嘘を吐かない」雪ノ下雪乃を絶対化=理想化することで、比企谷八幡の潔癖ゆえの語りをある種のロマンチシズムとして担保するかのような一方向的な押し付けがあり、その現実とのズレ(差異)から自意識の歪みが引き起こされています。比企谷八幡が持ちえないものを持っている強者としての雪ノ下雪乃との対比がありながら、潔癖としての共通性を取り出している一面的な語りに「他者はいるのか」という問いは成り立つと思いますが、この独白では彼が勝手に「理解したフリ」をして、期待をして、自戒をしていたのに、超越的な存在として雪ノ下雪乃を据えた自分自身の都合が潔癖的に捻じ曲げた形の自己嫌悪として描写されています。

夏休み明け、二人がすれ違うシーンでは立ち止まる雪ノ下雪乃と歩き出す比企谷八幡の非対称的な距離感のズレが肥大化していくさまがフィジカルとして記されています。「他者」との距離を拡大化するところは、自意識の歪みと重なっては「交通」の不全となり得る。雪ノ下雪乃のモザイクを立ち上げたように、相対主義的であるからこそ個人のイメージは非対称的に林立して、その反動として絶対的な意味を求めてしまう。「本物」の準備とみることができるでしょうか。

5巻の「相対化」は顕著だと思いますが、4巻以降、比企谷八幡の独白の「質量」が目につきます。構成上、前期から後期への橋渡しの準備になるものでしょうが、許容できない比企谷八幡が抱いた自己嫌悪は独我論的な潔癖的思考性であり、比企谷八幡が「本物」を掲げながら「自分自身と他者」を許せるかどうかの話になっていくことは、まさしく平塚静が語ったように、相対的に成熟的な「許容」と未成熟としてのモラトリアム性が構造的に重なっていきます。

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