おおたまラジオ

しまいには世の中が真っ赤になった。

俺ガイル研究会『レプリカ vol.2』に寄稿しております

2023年12月31日のコミックマーケット103「日曜日 東地区 “ネ” ブロック 48b」に出店予定の俺ガイル研究会『レプリカ vol.2』に参加しております。

 

続報や告知に関しては俺ガイル研究会のアカウントをフォローしていただけると幸いです。

https://twitter.com/kangairureplica

まだ公式では告知されていませんが、私が寄稿した「橋と交通と他者と」が収録されている既刊本『レプリカ vol.1』も頒布予定となっております。まだ手に取っていない方は是非ともご検討をお願いします。

 

ほかの寄稿者の原稿については俺ガイル研究会のアカウントから今後情報が開示されますが、現時点では私の原稿について少し告知したいと思います。

 

前号の「橋と交通と他者と」では、いわゆる日本の文芸評論的な手つきで『俺ガイル』を読み解く試みをしました。それこそが日本における「批評」という制度=伝統だと思っていたからです。そのフレームを『俺ガイル』に敷衍したものですが、前半部の柄谷行人論ともいえる部分があまり伝わらず、後半の『俺ガイル』読解に読者の感想が集まった記憶があります。

もちろん、私の力不足ではあります。

三題噺のような要領でどのように転がっていくのか、といった「物語」のように読ませるための手続きとして柄谷行人論を召喚したわけですが、あのようにダラダラ書くほかない私の書き方そのものが、極端にいえば読者を信じていないからだったと思います。だから、言葉が錯綜しては冗長になってしまう。その意味では「他者」を論じているわりには「橋と交通と他者と」は「他者」がいない文章になっていて、自己完結してしまっていることを後悔しておりました。

 

ですから反省を踏まえて、今回寄稿した文章は明確に「他者」に開かれたものになっていると思います。文末には書かなくてもいいはずの想定読者への言葉を投げかけております。

しかし、それがどう受け取られるかは別問題ではありますが。

まだ公式でアナウンスされていませんが、私の原稿は「『俺ガイル』は文学」という言葉について考えたものとなっております。

『俺ガイル』は文学なのか。どのような語り口で文学といえるのだろうか。

つまり、文学とはなにか。なぜ、人々は「『俺ガイル』は文学」というのだろうか。SNSをはじめとするインターネット上ではときおりみかけるミームでありますが、「『俺ガイル』は文学」がアイロニカルなミームなのでしょうか。私の文章では「『俺ガイル』は文学」という言葉そのものがベタとメタ、それらの反転が常に入り混じった決定不可能な言葉であり、少なくとも「『俺ガイル』は文学」というオタクの切実さに反するようにして、そう言ってしまうことの「軽さ」でしか言葉にできない、しかしそんな「軽やかさ」に対して私の応答はひどく「重たい」ものとなっているでしょう。

なので、その意味ではアイロニーであり、徒労感があります。読者に向けて開かれているはずなのに、どこか「『俺ガイル』は文学」といってしまえる「軽さと重さ」のようなニュアンスを閉じてしまうような、またアイロニーを切断してもなおアイロニーに引きずり込まれてしまうような問題があり、それが文学という問題まで敷衍できたと思います。

言葉の背後に佇みながら、言葉に裏切られることを書いては痛感し、私と言葉を巡るアイロニーがこの文章にはあるとは思っていて、「『俺ガイル』は文学」とするならば、どのようにして語り口を持てるのか、ということを考えつつ、私にとって『俺ガイル』について考えることは言葉とは、他者とは、文学とは、を考えることと同義ではありますが、そう言ってしまう「軽やかな」読者層を想定しながらも、どこか共有できないような、おそらく届かないだろうなという予感もしており、そのこと自体がアイロニーとして文章が走っているものとなっています。

 

さきに同人からの感想にもありましたが、不思議な読後感としての「トートロジー」的な印象があるものとなっているでしょう。アイロニーや文学の機微を考えている人にはおそらくこの文章からなにを得るのかという疑問があります。この文章から何かを得ることができるとしたら「軽やかな」にミームを使う読者かもしれないですが、やはりどこか彼らには届かなさそう(想定読者ではあるにしても)という意味での二重のアイロニーが全体体な徒労感にはなっており、しかし、そのアイロニカルに引き裂かれてしまう徒労感こそが文学という問題にして、アイロニーとして表象されうるものであると読めるような送り返し・彷徨があるものとなっております。

ですから、「『俺ガイル』は文学」というミームは最終的にはやはり文学の問題になり、そういうところまで読者を引き連れていければ、それすらも文学のアイロニーかもしれませんが、その現前化はもはやベタとメタが入り混じった決定不可能な言葉に引き裂かれて「言えなさ」として改めて現前化してしまう、そういう試みをやったつもりです。

 

私が『俺ガイル』について書くのはこの文章が最後になるでしょう。

『俺ガイル』を通じて、言葉や他者、文学について考えてきました。その一通りの成果として、今回寄稿予定の「『俺ガイル』は文学というけれど」と「橋と交通と他者と」で、『俺ガイル』について書きたかったフレームは提出できたと思います。

その姿を見届けていただけたら幸いです。

文学フリマ東京36に行きますよ

昨年末のコミックマーケットC101でめでたく完売した俺ガイル研究会『レプリカvol.1』でありますが、5月21日の文学フリマでも出店予定となっております。

現在は『レプリカvol.1』自体はメロンブックスさんの通販でも購入することはできるのですが、内容的には文フリ向けの同人誌(評論)になっているので、ついに俺ガイル研究会が文フリデビューすることになります。

 

https://www.melonbooks.co.jp/detail/detail.php?product_id=1819284

 

日時は5月21日12時~

場所は東京流通センター第二展示場 Fホールの【か-69】となっております。

詳しくは文フリの公式サイトをご確認ください。

bunfree.net

 

孔田多紀さんの殊能将之評論の同人誌を買ったことで、僕は同人誌を自分でも作りたいなと思っていました。

立ち読み会会報誌 第一号(初版) - 立ち読み会 - BOOTH

 

それから幾年が経ちましたが(時の流れとは、ああ残酷!)、俺ガイル研究会の皆様にお声をかけていただいて『レプリカvol.1』に文章を寄稿させていただきました。

本当は『レプリカvol.1』に収録されているそれぞれの文章について、具体的に踏み込んだ僕なりの感想・解説ブログを書きたいなという気持ちはあったのですが、昨年の時点で、冬コミの次は文フリの話がありましたので、そのあとでも遅くないだろうと。

 

僕が書いた文章は「橋と交通と他者と」といった批評文です。

試し読みは上記から。

前半はひたすらに柄谷行人の話が続き、後半で柄谷行人批判から出た要素を踏まえて『俺ガイル』の交通空間(時間、空間、言葉)を炙り出す文章になっております。

 

僕は以前にこんな文章を書いたことがある。

futbolman.hatenablog.com

 

僕にとって「批評」とは僕には書けないもの、という認識で。

僕の批評観は日本文学における文芸批評そのもの。それは批評の枠組みでいえば古典的で狭義的かもしれないけども、そのようなよくも悪くも「文学的」な文章に触れてきた。

そのうえで僕には書けないと思っていたが、「橋と交通と他者と」ははじめて「批評」を意識して書いた文章になっている。

その意味では『俺ガイル』の「考察」を望んでいる方からすると、柄谷行人江藤淳といった固有名のみならず、ノイズに響く要素が多分に含まれているでしょう。

僕は、批評とは「藝」になっているかどうかだと思う。勝手に柄谷行人江藤淳を引き付けて『俺ガイル』について書いた文章というよりも、柄谷行人江藤淳や『俺ガイル』について考えることは僕のなかでは等価であり、その思考の粘り気みたいなのが「藝」になっているかどうか。

ただ、幾分かは批評として成功したのではないかと思っている。

シャフトの同人誌を刊行されており、今度の文フリにも出店予定のあにもにさん(『もにも~ど』のブースはか-69!俺ガイル研究会のすぐ近く!)が以前に拙論を取り上げてくださった。

批評として書くこと。その意味が読者に伝わること。

書き手冥利に尽きる。

もちろん、いろいろな読者がいて。その多様な「読み」がたとえば『レプリカvol.1』のように現前化しているともいえて。

僕が書いた文章は同人からすれば「マイナー」なわけで。つまり『俺ガイル』のファンのニーズからすれば「少ないパイ」でしかないわけですが、それでも、あにもにさんをはじめとするいろいろな方までに「マイナー」な文章がきちんと届いたことが同人誌の可能性ではないだろうか。

 

5月21日は休みがとれたので、僕は文フリに行こうと思っています。

昨年末の冬コミは仕事の関係で行けませんでしたが、今回こそは。

その際にはどうぞよろしくお願いします。

 

ちなみに、いずれ出る俺ガイル研究会『レプリカvol.2』に寄稿する予定の文章の初稿はすでに出来上がっていて。

本当は「橋と交通と他者と」で持ち上がったテーマの「沈黙」について、その連続性について『俺ガイル結』を絡めて論じる予定でしたが、それはいったんパスすることになりました。いつか書くかもしれないし、もう書かないかもしれない。

順調にいけば『レプリカvol.2』には「『俺ガイル』は文学」という言葉について考えた『俺ガイル』論、小説論を寄稿する予定です。

なぜ、『俺ガイル』ファンは「『俺ガイル』は文学」というのだろうか。

実際にアンケートをとって計量的に調査するものではなく、そもそも「文学」ってなに?やら「『俺ガイル』は文学」の「文学」ってなにを意味しているのか?やら、「『俺ガイル』は「文学」」といえるならばどのような意味としていえるのだろうか、などなど。

もちろん、「『俺ガイル』は文学」という人にとっては「『俺ガイル』は文学」であることは自明なのかもしれないけど、そうではない人にどのように届けるのか。

その理論立てを、批評として書いた文章になる予定です。

いくらか早い次回予告となりましたが(まだ同人にも見せていない…)、まずは文フリと『レプリカvol.1』をよろしくお願いします。

文フリ当日、無事であればお会いしましょう。

言葉は言葉でしかなく

2023年4月8日 土曜日。

天気 曇り。

 

「言葉に引き裂かれて」、通称コトヒキ会で鑑賞した『グリッドマン ユニバース』について才華さんが素敵な文章を書いた。

www.zaikakotoo.com

 

さらに、補足として才華さんがツイートした内容が僕には刺さった。この日記は個人的な応答になるかもしれないし、ならないかもしれない。日記とはそういうものであるから。

 

ここで述べられている「言葉が引き裂かれる」は、コトヒキ会を意識したうえで言及されていると思う。はたして自意識過剰だろうか。

 

「言葉が引き裂かれる」とは、改めて何なのだろうか。

ひとまず言葉は他者であるともいえよう。言葉は決して自分のものではない。言葉そのものは自分の主体とは距離のある外部的なものでありながら、どこか主体として回収するような(してしまうような…)内部的なものに錯覚してしまうズレがあるものだ。

だから、「言葉が引き裂かれる」対象は僕たちの主体の関係といえる。主体と言葉は常にズレている。「現実と言葉」も常にズレている。こういってもいいだろう。

言葉はフィクションである、と。

しかし、主体という生身の感覚もある意味ではフィクションではないか。その現実感覚の希薄性について、才華さんなりの「実感」で「物語っている」文章ともいえる。そのためだからか、フィクション全般における危険性を示唆している。言葉への警鐘と反省を、才華さんなりの手つきでさらに反省をしている。

 

言葉は記号であり、それ故に肉体化させては社会性を持たせること。

僕が読んできた従来の文芸批評は、そういった文学観がある程度は流通していたと思う。素朴だろうか。素朴といっていいだろう。その「ねじれ」が「文学」における語り口を担保する「曖昧さ」ともいえて。 

僕がよくも悪くも影響を受けた江藤淳。「フォニー」、「サブカルチャー」を批判した江藤淳にとって、「文学」とはアイデンティティの確かな手触りの痕跡であったともいえる。言葉が空虚であるからこそ、地に根差した何かしらの手応えを求めるように。言葉が言葉でしかなく、いや、言葉が言葉である限りにおいて。「文学」が言葉で描かれる以上は、その虚構性、仮構性への倫理(フィクションであることの態度)を文芸批評という観点から照応していた。

しかし、そのようなアイデンティティによって付与される手触りそのものが、はたしてリアルなのだろうか? 

それすらもいわばフィクションではないか。虚構ではないか、という自意識の反省の身振りを繰り返すことはできよう。

江藤淳による「文学」の「サブカルチャー」批判も、そんなアイデンティティの確かな手応えが断片化しては「全体性」への意識が切れたことによる苛立ちともいえる。もちろん、その「感覚」さえもフィクションではないか、とみることはできて。

ただ、それらを「フィクションだから」と切り捨てるわけでもなくて。

フィクションを信じることで、その圧倒的ともいえる、いやむしろか細いような主観性、構築された思考のリアルさは紛れもなく「その人」にとってはリアルであることが重要だろう。だから「リアルさ」を「フィクションだから」と斥けたとしても、そのような言葉は「リアルさ」を抱いている人にはどれだけ響くのだろうか。

たとえばフェイクニュース陰謀論国民国家、物語、言葉がそうであるように。虚像さえもリアルに映ってしまうような手触り。はたして倒錯していると簡単にいえるだろうか。手触りの確かさを真に識別することはできるのだろうか。いわば、その「確かさ」という尺度さえも相対的ではないだろうか。

フィクションを信じること。それが「錯覚」であったとしても、僕たちは信じる。信じられる。信じてしまう。

「錯覚」はさやわかの『文学の読み方』を念頭に置いている。「文学」とは言語ゲーム的であり、「文学」における定義論の徒労感を覚えながらも、そんな曖昧な言葉の数々に振り回されてはかろうじて名づけていく永続的な営みこそが「文学」であるともいえそれ故に「文学」の単独性の抽出は曖昧さを内包しているともいえて、倒錯した感触を信じてしまうこと、「錯覚」してしまうのが重要なのだろう。そこで立ち現れるのが言葉の印象であり、「錯覚」をもたらす「リアルさ」なのだから。いかに言葉はがらんどうでありながら、言葉と言葉の差異によっていくつもの像を内包しているともいえて。

だから、「虚構」であるがゆえに「真実」を語ることができるという素朴な文学観があるのだろう。倒錯した「錯覚」を深く共有することで、「文学」は、言葉は「リアルさ」を抱けるようになっていく、と信じるように。この「物語」もフィクションだろうか。「錯覚」というアイロニーを引き受けることで、身振りは両義的になっていく。「曖昧さ」に慄くように、ひどく惹かれるように。倒錯した「素朴さ」についても反省せざるを得ない様に、しかし倒錯した語り口の複雑性、重層性によってしかひらかれない言葉の回路、「物語」があるともいえて。

そんな意味でも、言葉はフィクションなのだろう。常に僕たちを引き裂くようにして言葉は運動する。言葉の運動それ自体もまた遅れているわけだが、僕たちとの関係にある言葉の引き裂きの痕跡も事後的に確認していくことで、言葉への反省とままならない「リアルさ」を両義的に手に入れる。

この「曖昧さ」は何なのだろうか。言い切れなさを常に遅れて確認する身振りとその乖離。

言葉は言葉でしかないが、言葉は単一的ではない。たとえば古井由吉江藤淳が描いてきたように、言葉は言葉をとおして死者をふくめた他者とのつながりを目に見えない流れに支えられては、僕たちは言葉に触れる。言葉は自分のものではないから。言葉は他者であるから。言葉が言葉である限りにおいて、僕たちには所有できない他者や過去にある手応え、重みが言葉にはたしかにあって、その手触りこそが「錯覚」として「リアルさ」につながっていく。

保坂和志『猫がこなくなった』にある「『事の次第』を読んでる」には、「言葉とは何かを言うためにあるのではなく何も言えないためにある。」という文章がある。言葉について考えることは、沈黙について考えることと同じだろう。言葉と沈黙は切り離せない。言葉の根っこには沈黙があって、それらは静かに連関している。「現実と言葉」のズレのように言葉は常に遅れるが、吉本隆明がいうように表出しているともいえて。沈黙のなかから言葉がせり出してくるような感覚。言葉を宇宙から掴んでは掴みそこねる絶え間ないズレの運動。僕たちは内部から湧き出たような言葉として「錯覚」しては、しかし扱えない他者の感覚にもほぼ同時に襲われることで、言葉のもつフィクション性と「リアルさ」を獲得するのだろう。

川村湊『言霊と他界』もそうであるように、言葉の次元で考えるほかない僕たちと言葉への距離は、おのずと「何も言えない」無限的な宇宙ともいえる沈黙との近さを意味する。暗闇を細く照らすような言葉に触れた動きは、それこそ沈黙の饒舌さとでもいうべき無限に圧倒されていく。沈黙がもつ言葉で確定できない「リアルさ」が沈黙の手触りになり、また言葉へのアイロニーを増大させていく。絶対的な言えなさとして。しかし、それもまた両義的なものだろう。言葉が他者であるがゆえに「錯覚」的に受け取るようにして、その意味においてただならぬ「リアルさ」を感じ取るように。

言葉が他者であるなら、沈黙もまた他者だろう。無限的なままならなさに起因するように。

ただ、沈黙の方が僕たちに寄り添っているようにも思える。常に沈黙のうごめきは近い。その分、言葉はちょっと遅れてしまう。言葉と沈黙の時空間における遠近感もまた言葉を発するたびに確かにあって、言葉が言葉でしかないことを確認してはある種の徒労感を覚える。アイロニーとして沈黙で深くつながる心地よさを夢見る。

しかし同時に言葉で深くつながることも夢見る。そんなことは可能だろうか?

言葉と沈黙という他者、両義性に揺さぶられながらも、また言葉でしかないことの「リアルさ」もやはりあって。いくら言葉はフィクションだとはいっても、才華さんが記した「言葉でしか伝えられないのなら、言葉を尽くすことに躊躇いはないです。」ように、沈黙がいくらか利口にみえて心地よくとも、言葉が言葉である限りでは、僕たちは「言葉に引き裂かれながら」も言葉に触れていくしかないのだろう。

そして、言葉を読んで、書いていく。そうやって僕たちは今日もまた言葉を引き裂きながらも、その痕跡でもってかろうじて話していく。

この日記がそうでしかないように。