おおたまラジオ

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サブカルチャー化した文学から呼びかけられている――『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』(6)

4巻冒頭では、夏目漱石の描いた「淋しさ」を「個人化」と読み解き、敷衍するようにしてぼっちの肯定をします。ぼっちを肯定すること自体は、これまで見てきた通りに反復的と言っていいでしょう。孤独は「個人の精神性」を表し、文学的に内面としての「淋しさ」は当然のものとなったとするように「個人化」=ぼっちの主張を繰り返す。もはや「個人の精神性」がデフォルトとなり、人はそれぞれの内に「淋しさ」を抱えています。それぞれの個人的な問題として。

「個人化」を経た人と人との「分かり合えなさ」はコミュニケーションを通して、相互に隔てる虚無的かつ絶対的な距離を「命がけの飛躍」という「賭け」がその都度行われていきます。非対称的なアンバランスな歪さを内包しながら、「賭け」の度に虚無的な距離が明示されていく。3巻で描かれたように、比企谷八幡雪ノ下雪乃由比ヶ浜結衣といった相互の差異は「分からない」という距離であり、「他者」との「分かり合えない」距離はすれ違い、コミュニケーション(言葉と現実)のズレとして物語化されていました。

第1章は、比企谷八幡の夏休みが語られています。一人で過ごす価値を描きながらも、他方で戸塚彩加材木座義輝、雪ノ下雪乃とのニアミスが生じる。具体的な「他者」との接触はなくとも、顔見知りを見かける「狭さ」と近さがまさしく「他者」とのズレを示していく中で、個人としての自分の「淋しさ」を見つめ直す構成となっているでしょう。「淋しさ」や個人という単位を日常として捉えながら、一人としての「変わらなさ」の反復となっています。

 

かけがえのない存在なんて怖いじゃないか。それを失ってしまったら取り返しがつかないだなんて。失敗することも許されないだなんて。二度と手に入らないだなんて。

だから、俺は今、自分が築いている関係性とも呼べないような関係性がわりと好きだ。何かあればたやすく切れて、誰も傷つかない。(P30)

 

「他者」との距離感への恐れともいえるでしょう。人生というリセット不可能な一回性のうえで「まちがいたくない」ことが関係性の微温的な温存・停滞を許容する。同時にこの独白の関係性としては後期の「本物」を巡る文脈だとも考えられます。「かけがえのない」ものが欲しくなったという転換ですが、ここでは自己と「他者」を傷つけることに対する責任を負いたくない逃避、つまり自己防衛に見えてきます。自分一人であれば「個人の精神性」の範囲内で自己責任として処理できますが、「他者」というのはある種の躓きであり、ノイズを齎す存在です。個人化した自分は「内」に、そして「他者」は「外」に位置しています。自閉的な「内」を攪乱するのが「外」であり、そのような「他者」というノイズが自己に向くことでベクトルを「外」側に転換させる存在として。もちろん、「他者」との距離には一定以上の隔たりがあります。それこそ虚無的かつ絶対的な距離感を前提に「交通」は伝達可能性と不可能性をアンビバレントなズレとして内包しています。言葉や想いが正確に届くかは「分からない」。「分かり合えない」という虚無が個人の「淋しさ」を包むことはあるにしても、依然として「交通」の困難な飛躍は不変的であり、だからこそ「賭け」そのものを断念して「内」に留まるのでしょう。比企谷八幡がそうであるように。

しかし、ここでは「他者」として「外」に位置しているのが由比ヶ浜結衣でした。彼女とのニアミスではない接触が「外」としての具体的な距離感を明示させます。その距離感というのは3巻以降の「始め直し」たものであり、経験にない比企谷八幡からすれば「分からない」もの。未知なる「始め直し」であるからこそ、判断を保留するようにコミュニケーションは途切れながら進行します。曖昧さを担保しながら。

ここで印象的なのは風景に語らせる内面の「告白」でしょう。内面を風景に照射させることで「沈黙」でもって応答するように、風景と内面の「告白」を一致させる「文学」的試みが一つにあることは見逃せません。

 

藍色と茜色とか入り混じる黄昏時。その境目を見極めるにはまだしばらくの時間がかかりそうだ。(P40)

 

ある種の「先送り」――モラトリアム性の告白になります。

由比ヶ浜結衣との距離感が分からず、留保するほかないような判然としない様子が「黄昏時」に照射されています。距離感が未知なる不透明性であるからこそ、内面描写でもって具体的に語るよりも風景とその「沈黙」の一致が曖昧さを担保しているでしょう。語らざるとも「沈黙」で応じるような告白です。カメラ(語り)を内面という「内」に向けるのではなく、「他者」や風景といった「外」に向けることで生じるある種の自分語りという仮構性による「言葉にならない沈黙」が読み解けてきます。ここにも「分からなさ」という距離、「賭け」の前提が見え隠れしています。

 

スクールカーストの交わらなさは1巻や2巻で既に記されていました。「上位」と「下位」に分かれ、それぞれのカテゴリーで充足している。「中間層」を敢えて捨象していることは前述しましたが、サイレントマジョリティであることも関係しているでしょう。「中間層」と数の論理は6巻が顕著でしょうか。

スクールカースト階級闘争ではなく、それぞれの階級という箱庭における「不干渉」が定説とするような交わらなさが二項対立を成立させているとも言えます。たとえ争いが起きたとしても同じ階級・区分けの中であり、「上位」と「下位」の直接的なものではありません。そのような区分けが無化されるのが4巻だとも言えるでしょうか。「上位」も「下位」もない階級の混合。区分けの解消。そのような二項対立自体を無化するのが後期であり、4巻からの文脈でもありますが、具体的には比企谷八幡葉山隼人の距離感に表れていきます。区分け=記号から離れるようにして距離を置くことは「上」も「下」も、性善説性悪説も解体して生々しい「他者」の具体性を伴っていきます。

 

「これもいい機会だろう。君たちは別のコミュニティとうまくやる術を身につけたほうがいい」

(略)

「比企谷、違うよ。仲良くする必要はない。私はうまくやれと言っているんだ。敵対するわけでも無視するわけでもなく、さらっとビジネスライクに無難にやり過ごす術を身につけたまえ。それが社会に適応するということさ」(P77)

 

平塚静がいう「上手くやる」とは「社会化」を意味しています。階級や箱庭に安住するのではなく、混合したコミュニティという剥き出しな場所に身を置くことで社会化という自己変革を促している。

そもそもスクールカーストにおける区分けも同調性と社会性による賜物とも言えるでしょう。「他者」との触れ合いは「空気」に晒されることも含みます。「空気」を読むように社会化していくことは同調するように要請される側面は否定できませんし、「他者」とコミュニケーションをして「上手くやる」ことは剥き出しなフィジカルに仮面(ペルソナ)を着けることと同義でしょう。潔癖的な比企谷八幡からすれば、その「偽物性」は誤魔化しの産物となり得ます。コミュニケーションという建前(嘘)に映らざるを得ない。

また、平塚静のいう社会化が意味するのは個人が個人でいることの困難さを示しているでしょう。比企谷八幡夏目漱石を借りて「個人の精神性」を読み、個人主義的な意味で孤独という自由の謳歌していました。その自由が「他者」によって脅かされたのが4巻の千葉村のシーンとなります。この何気ない事実は既に比企谷八幡が一人ではないことを如実に示しているでしょうし、つながりによって「個人の精神性」とは異なる社会化を促されていると見るべきでしょう。

これまで見てきたように、孤独の肯定と「他者」と触れる距離感への恐れは両立していますし、反復的に語られてきました。理解と無理解の非対称性――「分かり合えなさ」はコミュニケーションに常に纏わりつき、その事実が「他者」との距離や自意識の肥大化をアンバランス的に働きかけているのですが、このような歪さが逆説的に「交通」の絶対的な隔たりを意味しては「命がけの飛躍」を要請せざるを得ないのでしょう。

 

畢竟、人とうまくやるという行為は、自分を騙し、相手を騙し、相手も騙されることを承諾し、自分も相手に騙されることを承認する、その循環連鎖でしかないのだ。

なんてことはない。結局それは彼ら彼女らが学校で学び、実践しているものと同じ。

組織や集団に属するうえで必要な技能であり、大人と学生を分けるのはスケールの違いでしかない。

なら、結局それは虚偽と猜疑と欺瞞でしかない。(P79)

 

コミュニケーションに宿る欺瞞を潔癖的に拒絶している比企谷八幡の「変わらなさ」は相変わらずだと言えます。

平塚静のいう「上手くやる」ためのコミュニケーションという社会化は、適応に託けた自分と相手を偽るような誤魔化しでしかないとする態度は一貫していますし、欺瞞的に映る「青春」という「嘘」とコミュニケーションの虚構性が重なっています。それらは「本物」ではありません。「正しく」もない。比企谷八幡の語りでは、潔癖的倫理観において許容できない線引きがはっきりと明示され、「空気」を読んで「みんな」に迎合する同調性や社会化の「嘘」をカウンター的に個人の観点から語っています。コミュニティに適応することを半ば要請されている一方で、コミュニケーションの欺瞞にある許容できない側面から冷静にならざるを得ない自己と「他者」との距離感の絶対的な開きがあり、「個人の精神性」と潔癖的倫理観から「みんな」という共同幻想を見ていくのが4巻だと言えるでしょう。

 

鶴見留美の「孤立」から集団の「空気」と「孤独」との差異を描きました。鶴見留美の「独り」は望んだものではありません。「空気」によって排除された強制的な結果です。自分の意志とは異なる主体性が疎外された産物として、孤独であることが「みんな」から浮いてしまう、といったネガティブとしてのぼっちの可視化が鶴見留美を通して描かれている。これまでの比企谷八幡によるぼっちの価値や語りは、あくまでもアイロニカルであっても主体的でポジティブなものでした。だからこそ一貫して孤独の肯定が語られてきた。その孤独は「まちがい」ではない、とするようなある種のマチズモさえ感じられる純粋さが見えるものでした。

しかし、同じ「一人ぼっち同士」でも彼と彼女は違う。孤独を潔癖的に自己肯定につなげるのが前期の比企谷八幡であるならば、鶴見留美は「みんな」に対して冷めたフリをすることで排除された結果としての惨めな自分を守ろうとしているに過ぎません。グループから外れることの異質さは、距離感の非対称性が詳らかに暴露されて自身のコンプレックスを刺激します。遠さと不可視な壁を肌身で感じては「みんな」から異質な劣等的な自分を追認せざるを得ない。アイロニーでもって処理できる比企谷八幡と鶴見留美の差異とも言えるでしょうが、孤独と孤立とでは主体的に選んだかどうかの精神性に多くの違いがあるでしょう。

鶴見留美の孤立を通して語られているのは、「みんな」や「空気」といったサイレントマジョリティによる暴力性です。「友と敵」のように対立的に異物を排除することで、内輪でつながりを確認しながら同調性を維持し、一方向的に共同性を確保していく。「友と敵」に分けるような排他的な行為によって孤立を生み出し、その異質さでもって集団を纏める「内」の力学が安全圏にいる「みんな」というグロテスクさにあります。異物さと「みんな」の対立は6巻の「敵の設定」に通じていると言えるでしょうか。4巻の鶴見留美と「みんな」にある「友と敵」の命題を比企谷八幡に同化するようにして敷衍したのが6巻のカタルシスとも言えるでしょうから。

千葉村でカレーを作るシーンがありますが、ごちゃ混ぜのメタファーのように思えます。平塚静のいう「上手くやる」ことは別のコミュニティとごちゃ混ぜになっても適応することを意味しますが、葉山隼人リア充の「上手くやる」コミュニケーションの作法は「青春」やリア充を糾弾した比企谷八幡からすれば矛盾に満ちた欺瞞として映ってしまう。「仮構的」な「昼」と「夜」の区分けが明確にありながらも、スクールカーストの区分けは無化するようにカレーのごちゃ混ぜみたいに投げ込まれた状況が4巻ですが、いくら葉山隼人が優秀で、リア充が「上手くやる」ことに長けていてもコミュニケーションは文脈的・状況的なものであり、一面的ではありません。鶴見留美の孤立に対しては「上手くやれていない」ことが描かれます。

葉山隼人という中心による無自覚な暴力性は2巻のチェーンメールの際に記しましたが、葉山隼人の存在感が鶴見留美の孤立をコントラストとして引き立ててしまう。それは周囲から異質的に浮くことを実感させるもので、彼女のコンプレックス(「内」に入れないことを逆説的に際立たせる)を肥大化させる。「上手くやる」とは非対称な距離感をコミュニケーションの「賭け」を通じてなるべく埋めて近づいていくものだと理解されますが、距離を一方的に詰めすぎるのも「上手くない」ことを示しています。その意味では非対称性のなかでインタラクティブな関係性をどのように構築していくか、がコミュニケーションの「賭け」を成功させるためのベースとも言えるでしょうが、葉山隼人の「上手くやる」ための親切心=社会化は状況・文脈によっては逆効果を生むことが鶴見留美を通して描かれています。そのような一面性ではない状況が「上手くやる」ことの困難さであり、「リア充と非リア」、「昼と夜」の二項対立を無化させていくようなごちゃ混ぜの意味が社会化を要請していくことは「先送り」ではない成熟を巡る問題設定でしょうが、この4巻では二項対立自体を吟味するところに重心が置かれていることはさきに述べておきます。

鶴見留美を排除する「空気」や「みんな」は都合のいい反転可能・交換可能な虚構的なものでしかありません。その意味では実体のない「偽物」であり、都合のいいインスタントな正義感を数の理屈でもって構築しては圧倒する暴力性を常に孕んでいます。「空気」による支配と暴力性は「内」を構成しますが、そのためには生贄が前提にある。「友と敵」のように排他性と同調性に基づいたコミュニケーションで構築された「狭い」空間・関係性であることが共同性を維持することに必要です。「内」を保持する力学は仮構的かつ恣意的な党派性というロジックの欺瞞を示し、孤独な比企谷八幡からみれば「上手くやる」コミュニケーションの「空気を読む」嘘臭さに重なるものです。そのような「都合のいい」コミュニケーションの結果として鶴見留美の孤立があり、内輪で「上手くやる」ことの行為の表れとも取れるでしょう。

この4巻で問われていることの一つに、当事者ではない外部の存在が内部の集団にコミットできるかどうかがあります。鶴見留美を集団に溶け込ませるための「上手くやる」サポートが更に状況を悪化させていくのは、葉山隼人の存在感がアイロニカルに証明しました。距離を詰めることだけが「正しい」とは限らない。「上手くやる」コミュニケーションは一方的・一面性ではなく、常に個別的な文脈に左右され、孤立であることの状況と状態を理解せずに優しく手を差し伸べても空回ってしまうことを示したと言えるでしょう。

かといって、鶴見留美の現状に同情しては「無力な自分」を慰撫するエクスキューズもコミットメントしないロジックを補強するだけの欺瞞でしかありません。可哀想であると同情してあげるだけの優しさは自分自身の気遣いと「無力さ」を正当化するための方便になりかねない。

当事者とそれを眺める外部――「他者」は距離感に表れているように非対称的で、絶対的に埋まらない「分からなさ」があります。同情と共感はその距離感を容易く埋めると錯覚/実感させるものですが、行為の具体性を欠いたものであれば癒えない状況や文脈が個別的にある。鶴見留美への距離感は無力さを誘発させやすいものであり、安易にコミットメントができない典型であると言えます。

さて、どのように働きかければいいか。

鶴見留美の孤立は環境によって規定された恣意的な産物です。環境とは「みんな」や「空気」を指しますが、明らかに「個人の精神性」とは異なる「淋しさ」が露出した形であり、ポジティブな孤独とネガティブな孤立との差異を描いていたことは前述の通りです。環境に適応することはある意味では諦めることで、「上手くやる」とは誤魔化して進める欺瞞であると潔癖的に許容できるかどうかですが、比企谷八幡はそのような「空気」を醸成する土壌を許すことは出来ません。

彼の狙いは環境の破壊でした。「みんな」の解体であり、人間関係のリスクを内包する関係性・共同性を解体することでそもそも無化させてしまう。「みんな」を等しく犠牲というスケープゴートの状況に追いやることで、温存されていた生ぬるい「空気」を反転させるようにして突き付けてしまうことで共同性の欺瞞を暴きました。

その過程で「共通の敵」の存在でもって「みんな」の団結・共同性の拡大を図ることを願っていたのは性善説的な葉山隼人でした。これもある意味では6巻の文脈につながると言えるでしょう。他方で「みんな」を解体させてグロテスクに現実を前景化させるようにして「イマ・ココ」的にフォーカスする手法を採用したのは性悪説的な比企谷八幡。二人の非対称性が鮮やかで、明確な「分かり合えなさ」としての絶対性=他者があるとも言えます。

 

〝みんな〟が言うから〝みんな〟がそうするから、そうしないと〝みんな〟の中に入れてもらえないから。

でも〝みんな〟なんて奴はいない。喋りもしなければ殴りもしない。怒りも笑いもしない。

集団の魔力が作り出した幻想だ。気づかないうちに生み出していた魔物だ。個人のちっぽけな悪意を隠すために創造された亡霊だ。仲間外れを食い殺して仲間にすら呪いを振りまく妖怪変化だ。

(略)

だから俺は憎むのだ。

〝みんな〟であることを強要する世界を。

誰かの犠牲の上で成り立つ下劣な平穏を。

優しさや正義で塗りつぶし、悪辣なものに仕立て上げ、時を経てなお棘を残す、欺瞞でしかない概念を。(P261~)

 

「みんな」という共同幻想の虚構性を告発しています。「みんな」に所属することで安住する空虚な集合意識でしかないことを、単独的であるから「みんな」とは離れた位置でもって糾弾しているカウンター的な比企谷八幡のグロテスクな指摘でしょう。

「みんな」から外れる恐怖は、つながれないことへの不安です。「淋しさ」から離れるようにして「みんな」とのつながりを求める。「個人の精神性」とは対照的とも言えるでしょう。だからこそ比企谷八幡がカウンターとして、その差異を敏感に嗅ぎ取れるわけです。「みんな」などないのに恰も「みんな」であることを強要されてしまう同調性とその共同性の気味悪さはマジョリティの一方的な理屈(メカニズム)であり、一つの暴力性として働きます。鶴見留美の状況のように。そのような集合的な加害性は何らかの犠牲の上で構築されるのが「みんな」でありますし、自分はマジョリティであるから「マトモ」として「空気」を読み、「みんな」に半ば加担していく。マジョリティの理屈を形成するのは「空気」「みんな」に帰属して安心したい精神性であり、空虚なつながりの概念だと比企谷八幡は告発しますが、その「空気」を壊す手段と結果が「先送りの病」として鶴見留美たちの不確定な末路を描いたのは印象的でしょうか。解決ではなく、解消という意味で「先送り=モラトリアム」的でありますが、事実上の撤退戦でしかありませんでした。持続的に関わることのできない外部の人間が一過性的に内部にコミットメントするしかないという限定的な「狭さ」における「その場しのぎ」が、比企谷八幡のアンチ・ヒーロー的選択によって確立していく過程でおざなりになっていたものを掬い取るのは後期のひっくり返しの構造に組み込まれています。それは「先送りの病」の比企谷八幡の主観ではなく、「先送り」にされることで派生した物語における間主観性と整理できるでしょう。「先送り」された一時的な解消でしかない問題の清算が相対化の結果、ズラされたことによる負債として追いかけるように比企谷八幡の「責任」=倫理に重なっていくように。

 

性善説的な葉山隼人性悪説的な比企谷八幡の非対称性は、まさしく漱石を借りて「鋳型」=記号的なものと言えるでしょうが、鶴見留美の行動はその二項対立を無化させるような記号的なものではありませんでした。彼女の「みんな」が「偽物」だと知りながらも手を差し伸べた尊さ自体は「本物」と呼べるかもしれない行動でありますが、その真意を確認する術は持ちません。「先送り」にした結果、「みんな」は林立しながらも鶴見留美とのディスコミュニケーションは進行していますから、外部から記号的に理解することは出来ない。そのことが記号から離れるようにして反転可能性を含めた「鋳型への留保」とも言えます。相対的に現実と言葉は常にズレるために鋳型に収めることは正確には出来ませんし、また、他者の「分からなさ」としての距離が顕在化するように、鶴見留美の「沈黙」が重く響くような結末は微温的でしょう。

それは鶴見留美のみならず、葉山隼人も同様です。「まちがえた」ことで、本来ならば交わらなかったであろう葉山隼人比企谷八幡を正しく認識し、同時に比企谷八幡葉山隼人を認識したのは、前期でみせたキャラを後期では両義的に捉え返す構成が取られているので重要な「まちがい」であったと言えますが、一面的=記号的ではないキャラを一面的に扱わない『俺ガイル』の両義性を問うものでありますし、「昼と夜の淡いと揺らぎ」の調和=「夕性」を仮構的に図るものではないでしょうか。その文脈が4巻から生じたとみていいでしょう。

葉山隼人比企谷八幡の相互認識はスクールカーストの垣根を事実上無化するようにして、「上」も「下」もないニュートラルな目線を注ぐ形を作りました。記号的ではない、一人の人間としての認識は複雑性をそのまま受容するための前段階だったと言えます。比企谷八幡葉山隼人とは4巻で互いを正しく認識し始めた。スクールカーストの最上位と最底辺の単なる邂逅に留まりません。単なる記号的なイメージといった前提から、「他者」を「知って理解」することの距離として具体的な絶対的あるいは相対的な手触りとなるのは後期にかけての文学性になるでしょうが、イメージというのは自分の都合に過ぎず、どうしても安易に認知バイアス的にイメージを押し付けてしまう。固定的に記号的な理解をしたつもりになります。現実の複雑さそのままを受け止めることは出来ませんから、簡易的に記号に落とし込むことで情報レベルを敢えて落とす。三次元の膨大なメタデータを二次元に表象することで「現実感」を錯覚するのと同じ要領でしょう。その手法や目線はいくらか共同的あるいは間主観的であったとしても、真に絶対的・相対的な「他者」への接近と理解は可能になるか。記号的かつ不確定な情報の可能性の中で、どれだけ具体的な「他者」と距離感を双方的に見つめることができるか。その距離感について「本物」という鍵用語が『俺ガイル』では重要だと理解していますが、4巻では葉山隼人のセリフを受けて「あの言葉に嘘など何一つない」と「直感」した比企谷八幡の構図では、嘘がないコミュニケーションの一致=対称性が偽りなく正しい認識を導き出し、現実と言葉が奇跡的にズレることもなく、それでも二人の距離は「他者」として絶対的に「分かり合えない」ことを雄弁に語っています。コミュニケーション=交通が「上手くいった」としても、距離は絶対的・相対的に発生しては隔絶を如実に示しているところが「分かり合えなさ」という認識を形成するといっていいでしょう。

葉山隼人との距離がそうであるように、一方で雪ノ下雪乃とのディスコミュニケーション、非対称性は「交通」の「上手くいかなさ」から距離の不透明性であり、「他者」の存在感につながっていきます。だからこそコミュニケーションは「賭け」になり得るわけですが、それ故に「まちがえてしまう」。不透明な距離感がそのまま「分からなさ」に通じていて、雪ノ下雪乃の「沈黙」は比企谷八幡の饒舌さと非対称的に映らざるを得ないでしょう。生々しい「他者」としての重さを伴って。

 

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サブカルチャー化した文学から呼びかけられている――『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』(5)

高校2年生の一年間を丸々と描いたのが『俺ガイル』になりますが、もちろん高校生活は語られないだけでそれ以降の3年生、あるいはそれ以前の時間(1年生)があるにも関わらず、なぜ2年生という一年に物語を集約したのかはメタ的に読むならば、1年生時の比企谷八幡の事故の件と関係性の影響を作中で断片的に用いるためが一つにあるでしょう。事故の影響もあって「入学ぼっち」が確定した比企谷八幡の孤独がデフォルト化したことは語られない1年生時となりますが、それに伴って作中の開始時点での2年生時では孤独の耐性によるモノローグの豊穣性があるでしょうし、進路選択の岐路やイベントの数も来年の大学受験を見据えながらも、ある程度「青春」としてコミットできるモラトリアム的空間が常に担保されているのが2年生という時間になるでしょうか。

モラトリアムは、時間や空間を含むある種の「狭さ」が付き纏う概念だと僕は考えています。『俺ガイル』でいえば、「日常系」という「狭さ」――学校空間としての「狭さ」は時空間が複合的に絡むことで成立していると言えるでしょう。その「狭さ」は必然的にモラトリアムが抱える留保できる範囲内と重なるでしょうし、しかし同時に「終わらなさ」という意味でのモラトリアムの「閉塞感」も含有されているのが「狭さ」を平板に捉えることのできない要因――立体的な意味ともなっていくことが考えられます。

モラトリアムにおける「終わらなさ」は未成熟の問題と重なりますから、モラトリアムを甘受する/できる年齢が一般的にはティーンエイジャーであり(ライトノベルの主要読者層を意識して)、学生時代と言われる所以の一つですが、それには「狭い」箱庭的感覚を設えることが必要不可欠となります。まさしく学校空間は未成熟かつモラトリアムな時空間を温存することに適した箱庭的な「狭い」場所ですし、それを自然と許容しているともいえるでしょう。箱庭で育まれた自意識や体験は恰も「青春」の一ページを彩り、記憶や感情をときには美化して昇華する一方で仄暗い「夜」の価値観を肥大化させる。「昼」のような快楽的な記憶も、「夜」の孤独な内面としての記憶や自意識も等しく「青春」として刻まれ、アイデンティティを形成していきます。そのような「昼」と「夜」の差異に優劣はありませんし、「昼」と「夜」の二項対立を部分的に「脱構築」することが『俺ガイル』という作品の一つの魅力であると僕は考えていますが、ストレートに物語に目を向ければ比企谷八幡を通して「夜」を肯定するべくカウンターとして位置するようにして、「青春」の抱える欺瞞を告発するのが一つの目的として語られているのはこれまで見てきた通りです。

1巻から度々指摘されている「青春」に内包されている「虚構性」を指摘する行為は、ある意味ではモラトリアムであるからこそ価値を相対化したい欲求の表れとも言えるでしょうか。価値の留保をするのがモラトリアムという温存を要請することができる未成熟な箱庭であるならば、「青春」も同様に未成熟そのものであり、その青臭さが脱臭される前に美化されるであろう欺瞞に対する「正しさ」の表明を「夜」の視点から引き寄せているのが前期であると整理できます。その意味では「狭さ」の有効性があると言えるでしょうか。ある一定の自閉性があるからこそ、担保されているモラトリアム性が価値を留保し続ける場として機能しているとも言えます。

しかし、その「狭さ」に位置している――時空間を内面化しているからこそモラトリアムが内包する欺瞞をも「青春」同様に許容できないのが比企谷八幡です。潔癖的な「正しさ」の自意識に囚われるようにして、後期につれて関係性の「停滞や温存」を欺瞞として捉える。欺瞞や矛盾を許容できないのは潔癖的でありながら、カウンターとして「正しさ」を引き寄せたい純粋さの表れでもありますし、それ故に「先送りの病」=モラトリアムへの抵抗だと考えられるでしょうか。「先送りの病」は成熟を巡る問題です。モラトリアムの箱庭で安住すること、未成熟であることは不可分でありますが、そこから如何にして成熟を果たしていくべきかという問題の関係性を説くことが一つ挙げられるでしょう。

モラトリアムは閉鎖的な箱庭です。その心地よさから微睡みたくなってしまう甘美な時空間です。そのような価値観に対して抵抗するのはモラトリアムを最終的には許容しないための「成熟を巡る責任」があるからでしょう。「成熟」の困難さは戦後の精神性と深く結びついていますし、「先送り」とはまさしく「モラトリアムの延長・終わらなさ」という意味での素直に成熟できない問題となります。言ってしまえば戦後、昭和に示された成熟モデルが恰も普遍的のように定型化される一方で、平成という時間はその昭和なるものが機能不全と化したことを確認していくための喪失の期間だった――そのように整理できるでしょう。

僕はモラトリアムを「狭さ」として表現しましたが、一定の空白や部分的な時空間をモラトリアムとするならば、「成熟できなさ」という問題をまさに「先送り」してきたのが平成というモラトリアムであり、その負債に対する未成熟な「清算」がループ(決断の延長としての先送り=モラトリアムの精神性)するかのように比例的に現実として負荷となっていったことの確認作業であったのではないでしょうか。モラトリアムの温存は「成熟できなさ」の態度表明であり、しかしそれでも未成熟のまま微温的に彷徨うしかないモデルの不透明性を突き付けるものではないか。すると、モラトリアムの温存とは「成熟の困難さ」に託けた欺瞞であるとするように『俺ガイル』の自意識のループ構造=モラトリアム性に重ねて読むことはできるでしょうし、モラトリアムにおける自縄自縛な「狭い」自意識において「成熟の可能性/不可能性」を見つめていくことも可能でしょう。

ここで、本論考の重要な概念として「先送りの病」を説明したいと思います。

具体的には後期の問題に触れる際に頻出するものとなるでしょうが、モラトリアムにおける「その場しのぎの相対的な留保」を意味します。問題の解決ではなく、解消をする「狭い」「先送り」がまさしく該当するでしょう。もちろん「その場しのぎ」であってもやらないよりかは幾分かマシという事例や「その場しのぎ」であっても救われるものはあるという前提に立つとしても、その問題は恰も物語上では「その場」のように一過性的なものに映りますが、相対化するようにしてズラしていても根本的には解決されないものもあります。

「先送りの病」は、その意味では「成熟できなさ」や「モラトリアムにおける決断のリソースの貧しさ」を示すと言えるでしょう。

そもそも奉仕部は「依頼」という形式による能動的なデタッチメントから、「その場しのぎ」に通じる瞬間的な立ち振る舞いとしてコミットしていく問題のズラし=「解消」が、物語における一定のカタルシスを生んだように見えるのが前期の特徴であり、比企谷八幡の斜め下の「解消」方法がアンチ・ヒーロー的な造形を生み出したと言えるでしょう。

しかし、後期ではアンチ・ヒーロー性は空転していきます。「解消」という名の相対化によって「先送り」にしてきた結果、「清算」という形で負債、停滞感を如実に形成していくのが特徴となります。それは根本の問題を「解決」するのではなく「解消」という目的性のズラしによって、棚上げするようにして「先送り」にしてきたモラトリアム的な空白を示していると言えるでしょう。もちろん、根本の解決ではないのですから問題は依然として残滓として存在し続ける。モラトリアムにおける「その場しのぎ」でしかないために、その後の「清算」は物語の都合上、一旦は不可視になっているように錯覚された形でそのまま「先送り」にされていきますが、あくまでも形をズラしたまま根本は変わらないかのように。ある種の「負債」として残り続けるのが後期では描かれていきます。

奉仕部は「依頼」を受けて「イマ・ココ」にコミットすることだけでいい、という受動的な論理によって根本の「先送り」した結果――もちろんコミュニケーションに失敗しているからこそ「先送り」が生じていくわけですが――後期では反復(ループ的に負荷)するように「まちがった」ままでは破綻=欺瞞が暴かれ、潔癖的に自己矛盾が生じるような構成となっています。問題は一過性ではなければ、モラトリアムも価値の一定の留保でしかない。「先送り」にした後も、その先も連綿と問題はズラしたまま存在していたことを知る比企谷八幡たちは「先送りにした自分たちの都合」というモラトリアム性を自覚していくことになります。その意味では物語の都合上で錯覚的にズラされた「清算」を払うのが前期から後期への橋渡しであると考えられるでしょう。リソースや選択肢が無いという状況から、それでも「その場」として選択するしかなかった比企谷八幡たちの決断が「先送り」ではない「その場しのぎ」にはならないようにするための「責任」がモラトリアムにおける「成熟」を巡る問題――「その場しのぎ」ではないモラトリアムとは異なる時空間からの応答としての選択=決断が立つことになりますが、後ほど追ってみていきましょう。

ここまでの話を整理すれば、「先送り」は半ば隠蔽されるように物語上の「解消」というカタルシスを生み出す一方で、根本の「解決」には至ってない温存的な態度でありました。モラトリアムのように。未成熟であること、モラトリアムにおける「責任」を強く自覚していく物語になっていきます。モラトリアムな一過性の問題として恰も処理されたかのような錯覚を効果的に用いたのが前期であるならば、後期では一過性ではないようにして「清算」という形式でもって反復的(ループ=モラトリアム性)に抜け出せない「まちがい」の構造の温存と展開を描くことで、「終わらなさ」や「成熟」に対する「責任」をモラトリアム上で「清算」してみせようとした、と言えるでしょうか。

先回りする形になってしましますが、14巻に通じる話として、疑い続けていかなくてはなりません。「その場しのぎ」的に、イマ・ココのみに焦点を当ててコンテクストを切断することはできないように。コンテクストを適宜参照して、連続的に問いを立てて「責任」を自覚していくことが弁証法的に「先送りの病」への処方箋になり得る。「先送りの病」はデタッチメントな「その場しのぎ」であるから機能してしまうものです。「責任」を引き受けないからこそ、つまり留保できる余白があるためにモラトリアムの「狭さ」は開かれているとも言えるでしょうし、だからこそ「成熟できない」ことへのエクスキューズとして働く。一方で、ある種の後ろめたさや負荷としても表れてしまう。一つに「成熟できなさ」にあるモラトリアム性の肥大化と呼べるでしょうし、成熟モデルの不透明性にある「不自由な自由」と言えるような逆説的な閉塞感――「狭さ」が「先送り」を半ば必然的に要請しているでしょう。このようなモラトリアム性は「成熟」や「責任」の問題と不可分であり、それを引き受けることができないからこそ「先送り」にして相対的にズラす。そのような錯覚めいた相対化が反動として絶対(「本物」)への飽くなき欲望として立ち上がることも見逃せませんが、「先送りの病」は比企谷八幡の「解消」にみられる物語上の相対的な留保(モラトリアム)=欺瞞であり、潔癖的に拒絶しているにも関わらず「青春」をまるで担保するモラトリアムの自己欺瞞と重なっていくことは必然だったのでしょう。

後期では比企谷八幡の選択によって、その反映として他のキャラクターの立ち回り方や振る舞いに表れた箱庭的関係性の温存・停滞感・依存が表出したとも考えられますが、それはズラしてきた「その場しのぎ」の集積の形(モザイク)です。歪さを甘受するかのようにして「先送りの病」によって、物語として錯覚的に半ば隠蔽されていたものが露見するのが後期だと言っていいかもしれません。そのような「先送り」にしてきた破綻的な「清算」に対して、「潔癖」である比企谷八幡が見届けなければならなくなる。自己矛盾を抱えるようにして、モラトリアムにおけるグロテスクな結果として受け取るほかありません。

「先送り」にした空白や相対化について、いかに「主体的」に「責任」を引き受けていくのか/引き受けられるのかという問題の所在から、モラトリアムと「成熟できない」精神性が結びつていきます。そのような「狭い」空白が一年に集約されている物語ではないでしょうか。ですから、『俺ガイル』で描かれた「先送りの病」に対する一つの決断=責任は、「狭さ」から生じた倫理的な応答と言えるかもしれません。

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サブカルチャー化した文学から呼びかけられている――『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』(4)

依然として、3巻でも「変わらなさ」の象徴のように孤独を自己肯定する反復があります。一人ぼっちに対するイメージの打破、それ故の「他者」との衝突。過去の自分を引き合いにアイロニカルに「ネタ」にすることで自己防衛する比企谷八幡と、「他者」としての由比ヶ浜結衣とのすれ違いはラブコメとしては「まちがい」つつ、一周して王道のような展開だと言えるでしょう。言葉と現実がズレてしまうから「他者」までに伝わらないし、正確に届かない。

例えば、比企谷小町とのやり取りでも、コミュニケーションの不完全性について「ポイント制」のように客観的に数値化されていれば、不透明なコミュニケーションはズレることもないとするシーンがありますが、淡い願望が見えてくるようでしょう。結局は、主観でしかないからこそコミュニケーションは不完全であり、非対称的にズレてしまう。

由比ヶ浜結衣による新しい好意を受け入れることができないのは、比企谷八幡の徹底した主観的かつ経験的な「敗北」へのアイロニカルな信頼によるものです。敗北の経験は全く異なる「他者」を受容できません。経験の外に位置している「他者」との距離感が絶対的に明示されてしまうから。その意味では、由比ヶ浜結衣の優しさは距離を必要以上に近づけるものです。比企谷八幡からすれば事故の件について偶然的行為を「必然」として読み解くように、あるいは過剰に受け取っているように映る。比企谷八幡の言うように偶然に意味は無いけども、由比ヶ浜結衣が意味を読むかどうかの過剰さは自由ではあるように非対称性が担保されていると言えるでしょうか。

 

けど、それは優しさであり同情であり、ただの義務だ。(P29)

 

経験的なバイアスの問題として処理できるように思えますが、由比ヶ浜結衣の優しさを同情として捉えてしまうのは異性という「他者」の「分からなさ」に起因しています。2巻の延長にある応答のように経験として期待してしまうからこそ、あきらめた方がいい。敗北の経験がそう警告しているから。それ故に「他者」とのコミュニケーションに失敗し、ディスコミュニケーションに転倒してしまう。距離感を図りかねては非対称性が絶対的に肥大化していく。「分かり合えなさ」として。

由比ヶ浜結衣の優しさを「嘘」として「正しくない」とするロジックは、比企谷八幡の経験の外側にある「未知」=「他者」なものであると同時に潔癖的倫理観によるものであり、1巻から二項対立についてカウンター的に位置している彼からすれば「青春」における欺瞞と重なってしまうためでしょう。

不一致的に距離がズレてしまう「他者」とどう向き合うか。

由比ヶ浜結衣の「他者性」は近視眼的な比企谷八幡にはないものです。だからこそ「他者」を切断して、アイロニカルな経験的に応答してしまう自閉性が際立つ。

そこで、平塚静の介入は「他者」に手を伸ばさざるを得ないように促すものでした。ディスコミュニケーションな自己完結ではなく、「他者」との距離感を回復させるためのコミュニケーションの契機として物語的に自閉性から「移動」させる目的もあったでしょうが、「期待してしまうからこそあきらめる」異性という「他者」ではなく、まずは友達という関係性の曖昧さを担保し続けている「他者」(戸塚彩加材木座義輝)に目を向けるような構成となっています。同性相手ならば勘違いすることもないために、ある意味安全にコミュニケーションができる。それすらもある種のアイロニーではありますが、それでも自分には他人からどのように見られているかという「分からなさ」としての「他者性」と、自己の再発見は不一致的な距離感は友達であっても常に隠れている。主観的には見えてなくても、友達という曖昧な関係性が冗長なコミュニケーションと距離感を誘発させるようにして。重要なのは、主観的な問題だと言えます。由比ヶ浜結衣とのすれ違いもそうであるように、主観は主観でしかない。トートロジーですが、主観であるからこそ「他者」や「現実」をそのまま受け取れないし、歪曲化してしまう。そして、自己防衛するかのように自己正当化する過程で経験的に「他者」を取り除いてしまう。コミュニケーションが不完全であるからこそ、不一致による「素直な暴走」が経験的に自己正当化するロジックをアイロニカルに補強する/してしまう。だから、二人の言葉は主観的に距離を開いたまま宙吊り的に空回ってしまい、落ち着くところは主観的でしかなくなります。そこに間主観性はありません。言葉が「現実」に対して宙吊りとなり、決定的に不足してしまうからこそ「他者」に届かないし、受け取れない。「他者」との距離感を図りかねてコミュニケーションは失敗する。二人のすれ違いは主観的な問題であると同時に言葉に対する欠乏感でもあり、その文脈は後期の「言葉の貧しさ」における不信感という意味での「文学性」に素直に転換されていくと言えるでしょうか。

 

由比ヶ浜結衣が、比企谷八幡雪ノ下雪乃の仲を勘違いするシーンがあるように「すれ違いから勘違い」へと問題がズレていきます。

 

誤解は誤解。真実ではない。ならそれを俺自身が知っていればいい。誰に何を思われても構わない。……いつも誤解を解こうとすればするほど悪い方向に進むしな。もう諦めた。(P94)

 

誤解を招いたり、誤解を解いたり、主観的な真実はそれぞれの胸中にあるためにそれ自体を正すかどうかは別の話であり、正確に他者に伝える/伝わるかどうかもまた別の話となります。ある意味ではポスト・トゥルース的な文脈での相対主義のような話にも思えますし、ニヒリズムの台頭を見ることは出来ます。その誤解を訂正するのも自意識過剰であるから憚られ、正す/正さない自由もある。比企谷八幡にとっては、自分が把握していれば十分とする独我論的なものに過ぎません。「他者」の不在と言っていいでしょう。自分しかいないことは孤独であることから展開した諦念と重なりますが、その結果、目の前にいる「他者」を切断しているだけとも言えます。シニシズムであり、主観的自己完結でしかない。

3巻の比企谷八幡由比ヶ浜結衣のすれ違いは、ディスコミュニケーションによる距離と齟齬の表れが「まちがい」でありながらも、同時に「正しさ」も孕んでいます。なぜなら、主観的な応答を経ることでしか共同的な視点(間主観性)やコミュニケーション=「交通」の「賭け」という「飛躍」、「移動」を形作ることは不可能でしょう。逆説的にいえば、ディスコミュニケーションによってコミュニケーションが要請されるというのはその意味であり、「まちがい」が「正しさ」を作り、また「まちがう」ことで次の段階を踏める、といったある種のループ構造に似た循環的ながらも意味や言葉は「交通」を経ることでズレることで「移動」していく。そのことが意味する猶予性はモラトリアムそのものでしょうか。停滞感のある「進まなさ」=成熟ができなさといったミクロな集積としてのドラマ性がモラトリアムな「日常系」の文脈に正しく回収されています。 

『俺ガイル』で重要な要素の一つとしては、雪ノ下雪乃は嘘を吐かないことでしょう。「嘘」を嫌う比企谷八幡は絶対的な潔癖として「嘘」から遠い雪ノ下雪乃を信頼できるし、一方的に憧れてしまう。同じ「一人ぼっち」という共通項がありつつも「期待」から程遠い距離感でもってコミュニケーションすることができるから、勘違いすることもなければ2巻のような轍を踏まなくてもいい。「期待」からある種のあきらめ前提の気楽さという意味での「信頼」となっています。アイロニカルな自己防衛も不要であるし、その点で「嘘」がないために非対称的に「言葉と現実」がズレることがないという意味で信頼できる。

しかし、それでも雪ノ下雪乃が衝動買いしたエプロンの理由に比企谷八幡は気付くことはできない非対称性は付き纏っているし、「分からない」からこそ「他者」として位置していることに、比企谷八幡は「嘘を吐かない雪ノ下雪乃」という潔癖という信頼の意味以外においては主観的に切断していると整理できるでしょうか。主観的に潔癖的な理想を見出しているとも言えますが、1巻で「青春」にある「嘘」を欺瞞として重ねたように、「青春」へのカウンターとして位置しているのが『俺ガイル』における比企谷八幡であり、前期の特徴でもあります。「嘘」に対して、絶対的な「正しさ」を独我論的・潔癖的に求めているからこそ「理想」や「本物」の後期的文脈が浮かび上がってきますが、「他者」とつながりを持っていくことで独我論的な潔癖的価値観は絶対化すればするほどに卑小的な意味で自己欺瞞的に空転してしまう。それが前期の孤独の肯定から「他者」の発見、そして「後期」への橋渡しとも言えますが、のちほど記していくことになるでしょう。

 

「理想は理想だ。現実じゃない。だからどこか嘘臭い」(P150)

 

「本物」への潔癖的思考は、現実主義者が価値転倒してロマン主義者になっていることを相対的に語ります。引用したようにもちろん「理想と現実」は異なります。現実を知れば知るほどに「理想」の輪郭は嘘臭さを増していくように、そして「現実」に塗れた結果、嘘臭さを脱臭することも難しくなってしまいます。

その意味では「現実と理想」の権化といえる雪ノ下陽乃が登場するのは3巻からです。理想形でしかない、現実感が希薄ともいえる存在として当初は描かれているのが特徴でしょう。しかし「理想」というイメージに過ぎません。自覚的に「理想」という記号的に回収されながらも、裏側に潜んでいる雪ノ下陽乃の「現実性」もまた魅力を買っているわけで、単なる理想的な記号で終わらない両義性は後に記されていきますが、具体的に「本物」という問いが立つのは後期からであり、この段階から「現実と理想」な記号=イメージの体現者を登場させ、逆説的にその「嘘臭さ」の一端を晒してみせたことは「本物らしさ」への種蒔きでしょう。もちろん、雪ノ下陽乃は「本物」ではない「強化外骨格」を身に纏い、理想化のための記号・方便です。「嘘」を嫌う潔癖であるからこそ、その「現実と理想」の捻じれを比企谷八幡は見抜いたわけですが、だからこそ転倒して「本物」をアイロニカルに求めてしまうのでしょう。絶対的で、どこか遠い、経験にない「他者」や価値を願うようにして。

『俺ガイル』の主要なテーマの一つに「本物と偽物」「真実と嘘」があると思います。どちらも「青春」というモラトリアムを蝶番にしている意味では重なりますが、形式として二項対立的に対置させてみせることで価値を転倒させていく試みがあるでしょう。

1巻から「嘘」に対する欺瞞を指摘するカウンターとしての潔癖性が二項対立的に露わになっていましたが、3巻では雪ノ下陽乃材木座義輝の「偽物」としての意思が「真実味」を帯びる逆説が展開されているとも言えます。

遊戯部とのやり取りでは材木座義輝の「偽物」、ジャンク性による表面的態度が問われます。それは「偽物」であり、「正しくない」とするように。サブカルチャー的であると。このサブカルチャーの意味は、江藤淳が警鐘を鳴らしたサブカルチャー化=虚構と同じニュアンスとも言えるでしょうか。サブカルチャーは「偽物」だとする江藤淳は、サブカルチャー化に対する無批判的かつ批評性のないサブカルチャー性を否定しました。トータルカルチャーとしての「文学」とサブカルチャー化する「文学」を緊張的に選別することが江藤淳の価値基準であったわけですが、サブカルチャーという虚構=ジャンク性は戦後の日本におけるアメリカという「他者」由来であったことが、江藤淳の批評という防衛戦線にあったことは重要です。後ほどに江藤淳サブカルチャーについては論じるので、ここでは深く立ち入りません。

しかし、『俺ガイル』のみならず江藤淳サブカルチャー観にも「本物と偽物」があったことはさきに提示させていただきます。

遊戯部の言い分に比企谷八幡は違和感を抱いたように、「文学」としての江藤淳に応答してみせるのがこの論考の一つの趣旨でありますからさきに提示したわけですが、「偽物」に対する「好きという気持ちは本当であり、本物」だとする由比ヶ浜結衣はある種のジャンク性をズラしたとも言えるでしょう。その偽物性に宿る意思を肯定してみせる。

しかし意思では不足してしまうから知識や技術を磨き、理論武装化することは「強化外骨格」に通じるかもしれません。それ故に「理想」ではなく「現実」が見えてしまう。「現実」に対するエクスキューズを求めてしまう。それすらも理論武装化し、ただただ「理想」を語る材木座義輝が薄っぺらく見えるのと同時に失った輝きを持っていることに羨ましさをも覚えてしまう。

 

素直に羨ましいと思った。

疑いもせず、悲観論から入らず、好きだからの一言だけで自らの行く末を決めてしまえる愚直さが。愚かしいにもほどがあり、眩しいほどにまっすぐすぎる。

好きだって、そう素直に言える強さがあまりにも眩しい。冗談交じりでも強がりでもなく心の底から言える無垢さは俺がしまいこんでしまったものだから。

その感触は現実であり、理想を目指すためのエネルギーになる。真っすぐであるがゆえに歩むべき道は示される。(P217)

 

 

いかに「純粋」であることが難しいか、ということでしょう。

「現実」によって擦り切れてしまうからこそ「純粋」を保持できない。それは「本物」と言い換えてもいいはずです。だからこそ潔癖的価値観にハマるようにして「本物」は絶対的であり、幻想でもあり、価値基準に必然的に要請されてしまうジレンマがあります。

「理想と現実」の生き方の問題として、理想や期待は「現実」ではなく「嘘」であるというのが比企谷八幡の経験でした。なぜなら「嘘=偽物」であり、その欺瞞が溢れるゆえに「本物」は絶対化します。「純粋」であり、潔癖的であるために。

経験的に言えば「偽物」で終わるはずだった由比ヶ浜結衣との関係性は、リセットしてゼロベースにするものでありました。リセットして終わるのが比企谷八幡のこれまでの経験に基づく「現実」だったからです。由比ヶ浜結衣を助けたのは「偶然」であり、それ以上の意味はないとするのが比企谷八幡の主張です。彼からすれば特定的ではない「偶然」の産物であるからこそ、由比ヶ浜結衣の行為・優しさは特定的で必要以上なものに映ってしまっている。この前提ですれ違っていることが明確ですが、しかし比企谷八幡にとっては由比ヶ浜結衣の行為は「過剰」であり、それ故に「現実」を歪めてしまっているように見えています。それは「嘘」であり、必要なものではないとするしか期待してズレることを止める術を持たないからでしょう。そのこと自体が自意識過剰でありますが、だからこそ自己防衛しているとも言えます。二人が主観的にすれ違っているのは、現実と言葉と気持ちがズレたままコミュニケーションが非対称的に進行してしまうためで、ここに間主観的な目線は存在しません。「他者」を気にかけているように見えて、「他者」が切断されている自己本位的な語りが終始している印象です。そこで、雪ノ下雪乃の提案は間主観的なものであったと整理できるでしょうか。二人の差異・ズレについて「被害者」同士という共通項、同一性でもってすれ違いの前提を編み直し、始め直すというロジックを雪ノ下雪乃が二人に与えました。「加害者」に負い目を向けることで、二項対立的に「被害者」同士の連帯を促す。

リセットしてきたために、始め直すという経験が比企谷八幡にはありません。そのような発想がそもそもない。ですから「他者」によって、自分で選ばずに動機やロジックを与えて貰ったことが「まちがい」だとも言えます。徹底的に「他者」とのデタッチメントであり、それゆえに別種の距離感が明示されました。

 

俺たちと彼女とを明確に分けるもの、その事実に、あるいは真実に気づくのはもう少し先のことだ。(P244)

 

由比ヶ浜結衣と始め直すという結果は、経験を超越した「現実」であり、嘘偽りないものでしょう。前提が噛み合わなくとも、差異はあるにしても「意思」が「本物」であるとするのは「本物と偽物」を重ねることができます。材木座義輝の慟哭のように。あるいはジャンクでしかないことを自覚せざるを得ないサブカルチャー特有の捻じれのように、「本物と偽物」は簡単に処理できるものではありませんが、「本物と偽物」を留保するようにして、経験では片づけることのできない「他者」との関係性の第一歩が由比ヶ浜結衣になっていくとするならば、他方で雪ノ下雪乃との距離の顕在化が起きるラストは象徴的でしょう。この非対称性はまさしく「他者」による「分からなさ」です。由比ヶ浜結衣との不一致が恰も解消されたかのように、「加害と被害」の二項対立によって纏め上げることで、別の距離感・不一致が生じる「分かり合えなさ」は「他者」として浮かび上がるものでしょう。一つのコミュニケーションがうまくいったと思えば、一方でズレてしまうように。由比ヶ浜結衣とは異なる「他者」として当然雪ノ下雪乃もそうですが、新たな隔たりが距離感を形作り、「他者」とのコミュニケーションがディスコミュニケーションに容易に転換されてしまうのは「分かり合えなさ」という不一致的な差異によるものでしょう。言葉を用いるコミュニケーションに対して現実が常にズレてしまうように。差異という隔たりがディスコミュニケーションの壁として機能するかのように。

「嘘」を言わない雪ノ下雪乃ですらも言ってないことはある。「沈黙」を「嘘」としたのが「まちがい」だとも言えますが、この潔癖的な「理想」の押し付けは5巻、6巻で明らかになります。

捻じれた関係性の始め方から、前提の情報が食い違っていてもやり直しが利くことを由比ヶ浜結衣とのやり取りで描いたのが3巻だったとするならば、比企谷八幡の主観を通した前期から後期にかけての文脈は「まちがった」まま始まったものを「正しくリスタート」することで新しく「まちがう」物語と言えるでしょうか。「まちがい」のループ構造=モラトリアム性から、選べない/選ばれない比企谷八幡が選ぶまでの物語だとすることはできるでしょうが、選べないからこそ孤独で、内輪から外れることで「空気」に抗い、二項対立的にカウンターになり得る。

しかし、その孤独なカウンターが「他者性」によって攪乱され、機能不全になる距離感が見て取れてしまいます。そのような「他者」との関係性――「分からなさ」(コミュニケーション/ディスコミュニケーション)の第一歩が3巻でした。

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