おおたまラジオ

しまいには世の中が真っ赤になった。

近況報告*僕は書けなかった

書かなかった。書けなかった。

この違いは大きいわけですが、僕はどちらかに割り切れないまま往来するようにして悶々としていた。

スランプなんて格好いいものじゃない。野村克也に言わせれば未熟者にスランプは無いらしい。じゃあ、スランプは縁遠いものになっちゃう。悲しいね。

今の気分を述べるなら後者になる。これは日による、としか言いようがない産物で。

今、書き始めた僕の実感としては「これまでは書けなかった」とする他ないのだが、寝て起きたら「いいや、書かなかったんだ。これは沈黙するほかなかった意思表示である」と宣う可能性は否定できない。

だから、今の気分を大事にしながら書くとすると「ようやく書けた」になってしまう。驚きだ。薄い膜を纏わせて、隔たりながら書く。そんな距離感を大事にしようとしながら、とりあえず今のままを書いたら、こんなになるのだから。

初めてブログを開設したのが高校生の時だった。クラスメイトから誘われたのがキッカケ。SNSなんて無い時代。ブログブーム全盛期。Mixiをやっているのが社交的には当たり前の日々。

最初のブログは、映画を観て、レビューを書くだけ。今とさして変わらない。何かについて書くことが好きだった。好きなもの、アツいものを取り上げていた。人の悪口は書かないようにしている。生産性が無いから、なんて良い風なわけでもない。だって、悪口は言うものだ。書いて痕跡が残ったらタチが悪いじゃない。

当時はガラケーとパソコンで、今はもう無いとある映画レビュー投稿サイトと自分のブログを書いていた。それこそツタヤから借りてきた映画を観ては、翌日の授業中にレビューを書くことくらいには夢中だった。インターネットで知らない人と本格的に交流を始めたのもそのくらい。

それから幾らかのブログを立ち上げては、移っての繰り返し。あまり腰を据えっぱなしよりも、色々と場所を変え、その時に文体や扱うジャンルも変えていた。「変身」しているつもりだった。マジメにインターネットの匿名性への安心感である。平野啓一郎の「分人化」は、ようは「キャラ」の話に過ぎないけど、「キャラ」を文体やジャンルで変えることが出来るんだといった開放感ったらありゃしない。現実の僕の身体はどうしようもなく揺らがない。変わらない。みすぼらしい身体が一夜にして劇的に変わるわけでもない。徐々に爪や髭や髪の毛は伸び、加齢と共に肉は落ちず、だらしない猫背が治るわけでもない。理不尽としか言いようがない。この「変わらなさ」は僕にとっては「良い方向に変わらない」ことへの憤りでしかなく、それに対して具体的に「変わらない」ことを担保してしまっている僕自身の「変わらなさ」に尽きてしまうのだからタチが悪い。

だから、ブログを転々して、幾らかの「キャラ」をバラバラにすることは僕にとっての変身願望そのものなのだろう。開放的な振る舞いが出来る。そのフリができる場所がある。それだけ充足していたと思う。

けれども、変わらないものは基本的にある。それをアイデンティティと呼びたくはないが、僕は怒りっぽい。宮崎駿くらい。しかし彼のような器量があれば生産性があるのだけど、それも違う。仕方ない。僕は宮崎駿ではないし。

余談だけど、僕が高校生時代のブログで力を入れていた映画記事がジブリだった。高校生という若さを特権化して書いた記事はそこそこな反響があった。「若さの割には」書けている評価だったのだろう。基本的には「若いこと」は特権化できるが、舐められているのだなとも思った。

話を戻す。宮崎駿は、僕にとって初めて「作家」というものを意識させてくれた存在だ。それは特別な意味を容易に持つけど、むしろ神秘性を解体させたい欲求はある。個人的な話として。

そう、すべては個人的な話だ。

とにかく「怒り」がある。

なぜ、僕がこんなことを書かないといけないのか。

なぜ、こんなことを書いているのか。

なぜ、面倒くさいのか。

これらは僕が僕自身を過大評価しているわけではない。「なぜ僕如きが」という気持ちでやっている他ならない。必要以上な卑下でも、況してや謙遜でもない。

根源的な「怒り」があるだけだ。卑屈さは後からいくらでも付いてくる。理屈と一緒。そんなもんでしかない。その「怒り」は、僕が必要だと思うことや読みたいことが無い時に生じる。じゃあ、自分で書けばいい!と思うのは相当億劫だ。面倒くさいし。正直、書かないで済むならそれでいい。誰かやってくれ、と。

こういう書き方をすると誤解を生むかもしれない。そうそう、都合が良いわけないのも分かっている。ただ、僕が読みたいと思っていることを僕自身が書くのは相当面倒くさい。端的に、イメージに身体や能力が追い付いていない。この作業は、僕が僕自身をハックせざるを得ない状況でしかないが、これが意味するのはインターネット上の変身願望よりも自身の身体感覚の限界や生身を突き付けられる嫌なものだ。

いや、待てよ。「キャラへの変身」もそうそう変わらないんじゃないかと思うかもしれない。これはエクスキューズがある。ある種の突き詰めよりも、変わり映えの速さによる薄っぺらさが「キャラ化の功罪」の一つとなるからだ。嫌となったら離れればいいし。

で、ポッドキャスト「おおたまラジオ」や直近の更新記事で壁に躓いた痛みは、インスタントな「変身」ではどうこういかなかった。面倒くささが刺さったままで、書かなかったし、書けなかった。

futbolman.hatenablog.com

その結果「怒り」が空転したような着地をしてしまい、ウエルベックとか読んで穏やかになっていた。そう「穏やか」になってしまっていた。

ブログを書き始めた頃から「怒り」しかなかった僕が「穏やか」になったら書けない。そりゃあ、そうだ。それに対する焦りも別に無かった。焦りがないという焦りもなく。ただただ「穏やかだなー」って。

断言しよう。ウエルベックには鎮痛剤の効用がある。

そんなある日、とある人と長話をしていた。そこでふと零れた違和感が、僕の「穏やかさ」に波風を立ててしまったのだから始末が悪い。それは「怒り」しか知らなかった僕が、自分と他者への目線を攻撃的に支配してみせようする「怒り」ではない別のアプローチだった。「怒り」のベクトルは返ってくるのも含めて一方向的でしかない。どのようにベクトルを操作し、異なった向け方ができるか。この問いに対して「怒り」ではない「穏やかさ」を伴いながら、書けそうだと思ってしまった。この「穏やかさ」は別に人に優しいわけじゃない。人には厳しく、自分には甘く。殊更優しくなろうとも思っていない。「穏やかさ」は「怒り」とは異なる出力で書けなかったものが、書けそうだなという淡い期待。自信があるわけじゃない。やったことないし。よく知らんけども、書けなかった自分が、「怒り」しかなかった自分が書けそうだと思ったのだから、それでいいじゃんって話。

ここで、僕が見つけた「テーマ」を書くことはない。

今後、書いていくものに表れるだろうから。そこまで読み込む奴はいない。残念、知っている。僕がこの書き方を扱えるか。そんな実験なのだから別にいい。

ただ、これから僕のテクストを読む人は「この人はもう怒っていないらしい」と分かってくれればいい。個人的な話だから。もちろん「これで穏やかなのか」と思ってくれても構わない。僕は「穏やか」だから。「怒らない」から。人に優しくありたい。

素直に今の気分で書きたいことを書いてしまった。翌日には後悔して消したくなるかもしれない。激情的に。

このブログを消そうかと思ったことがあった。別の場所で「変身」しようかとも。それは結局、ぶつかった「怒り」の縮小再生産でしかないことも分かっていた。だからインスタントに出来なかった。マジメすぎた。この開放感とは正反対の重さ。本末転倒じゃないか。そんなものを望んだわけでもないことに気付いていからは「変身」自体を見つめるしかなかった。そんな「変身」をしていていい時は過ぎ去ってしまっていたのだから。

そんな折、僕は加藤典洋の著作を色々と読んだ。こういう読み方は大いに嫌いなんだけど、僕は励まされた。そう。これは、今の僕にとって大事な本ではないか、と。僕だからこのような読み方が出来ているのではないか、と。本当に自己啓発的な読み方で、気持ち悪くて堪らないけども、救われた。

だから、大袈裟なことを書こう。

今、僕が書けているのは、あの日長話に付き合ってくれた彼と加藤典洋のお陰だ。そして、ウエルベックも少し。

そんな「近況報告」である。

山崎亮『コミュニティデザインの時代』を問う 公共性と「活動」の再編

futbolman.hatenablog.com

本稿は上の文章の延長にあるので、まずはそちらを参照していただきたい。

取り上げた山崎亮の本に対して、私はハンナ・アーレント的であると最終的には位置づけた。不透明になった公共性と「私」と「公」を結ぶ中間領域(つながり)を整備するための空間がコミュニティであると。山崎によればハード面の整備よりもソフト面の拡張が求められるのが21世紀的発展であるとして、従来の開発における価値観の更新が欠かせない。

要するに21世紀的な開発は異なった価値観のもと行われるべきで、ポスト工業社会の在り方として表れる。

しかし山崎が記したコミュニティデザイン論は、従来の価値観を素朴に再獲得するための再提出であったと言い換えることができる。これは前述とは矛盾するようで、同居する事実が読めるのが重要であり、その具現が中間項と公共性である。両者のつながりと喪失していった人々と空間のつながりという二重性は両立する。そのためにコミュニティをデザインする試みがなされていると言える。

「制作」や「労働」よりも上位にある「活動」への理念を通じて、公共性という目的とつながりの再獲得の過程のセットが意味するのは「活動」に対する従来の価値観という普遍性であり、素朴に回帰するためのデザインにも読めてしまう。

もちろん、デザインする意義としては公共性よりも人々と空間のつながりに比重が置かれている。「活動」にしても過程として表れるのがポイントである。公共性、中間項やつながりが両立するからこそ、それまでの視点を再提出するための過程をデザインする行為にはポスト工業社会における21世紀的な意味、また従来の一般論的に立ち戻るための助走が見て取れる。この二つの意味は引き裂かれないまま丸く収まっているのが強みと言えるだろう。手段としては前者のように価値観の刷新が求められ、目的にあたる後者は普遍性の獲得を謳っている。

私は強烈に意味を感じながらも一方で居心地の悪さもあった。この捻じれは「活動」の意味が従来通りである所以だろう。だからこそ、アーレント的なヒエラルキーに対する違和感があるために捻じれを見て取ってしまう。

目的性と共同性の同時獲得をしたコミュニティの例として「活動」的であるのも頷ける。そうでなければ公共性は復権しない。

しかし山崎が目指す「一般化」について、万人が、例えばサイレントマジョリティのように、公共性を獲得できるとも思えない。公共性などの「活動」的な要素が脱臭された、「公」の意味では屈折しているそれ以外の空間と人々とのつながりに素直な価値が見出されるように。これは相対的な話であるが。

やはり「活動」へのアレルギーは一定数あると考える。公共性が喪失したゆえの反応とも言えるが、「活動」以外にも活動があるといった反発もあるだろう。「制作」や「労働」の観点からも、アーレント的なヒエラルキーについての再構築が求められるのではないだろうか。

前述した手段と目的の価値観の捻じれは、素朴な普遍性を謳っているように取れてしまう居心地の悪さがある。少なくとも私が「制作」や「労働」の視点から再編すべきだと思っている。ある種の外部的表現、文脈的に原理的に独立した外部的であるからこそ担保されていた「制作」の価値を再獲得すべきだと考える一方で、公共性なるものとどのように折り合いを付けていくか、メタレベルの外部的な意味を問い直すことも求められているのではないだろうか。

 

 *

この本では、地縁型コミュニティとテーマ型コミュニティと大別してつながりを記している。つながりはムラ的であればしがらみに変化してしまう。そのためにつながりをつながりのまま構築することが重要であるが、そこに対する言及が弱い。

「バランスが大事」や「人それぞれ」は最終的な結論として陥りやすい。ある種の普遍的解答である。私はずっと違和感を持っていた。「何か良いことを言っている風でしかなく、誰でも言える何も言っていないに等しい欺瞞」だと捉えてきた。バランスが大事。それは前提ではないか。その実を話していくべきではないかと。バランスという抽象的・個別的に棚上げすることに不満を持っている。

ここでは「しがらみ」への処方箋として「ゆるいつながり」がテーマになると考えている。以前の記事では東浩紀の『弱いつながり』の観光客タイプを引用した。「ムラと旅」を往復する振る舞いが自明であることの自由の具現として。

つながりが強くなりすぎると息苦しくなる。しがらみとなる。しかし、つながりが無さすぎると生きづらくなる。ある程度の「ゆるさ」のイメージが観光客と置くことが出来るだろう。つながりをしがらみにしない「ゆるさ」である。

「ゆるいつながり」とは何だろうかと考えると『ゆるキャン△』と『宇宙よりも遠い場所』をイメージする。

futbolman.hatenablog.com

 

宇宙よりも遠い場所 4 [Blu-ray]

宇宙よりも遠い場所 4 [Blu-ray]

 

どちらもコミュニティ論というよりも「友達探し」のニュアンスが強いが、つながりの観点として読める。

前者は、キャンプという行為を通して定住(日常)と移動(非日常)の往復性から「ゆるさ」を担保している。その相対化は部活動を強いるものではなかった。個別的に、時に交差していくつながりの接触があった。

後者は友達のルールにおける同調圧力、「空気の支配」がマナーとして表れている一種の倫理的に自然的に罷り通っている息苦しさに対して、塗り替えるために別の目的による共同性でもって超越してしまえるゆるやかさがあった。友達とのつながりを再修復する必要性もないと言わんばかりの痛烈さがあった。倫理的にはそれを許容することが「空気が読める」とされているが、その同調圧力への反抗が別の共同性を育み、その発想自体がいかに「空気に飼いならされているか」を突き付けたと言えるだろう。

この二つの作品にある「ゆるさやか」は目的性に基づいた共同性を起点とした「空気」へのカウンターとなっている。ゆるいからこそ相対化され、個別的でありながら交差する接触もある。このつながりはしがらみになり得ない空間性があると言えるだろう。

このような「ゆるさ」を現実のコミュニティに定着させるには、テーマ型コミュニティとなる。しかし「ゆるい」ということは交差する可能性を高めながらも、時には軽減する設計が求められる。接触率が高ければつながりは強度を増すが、一方で緊張感が高まればしがらみに転化する可能性も増す。

このバランスを見越した上での空間設計は一定の制限による自由が相対化した結果のゆるさとなるか、が重要だろう。

ただし、ゆるすぎるのも難しい問題が孕んでいる。

共同性、偶然性といった空間設計をいかに調整しながらつながりをデザインしていくことは、しがらみにならない程度の切断したつながりの温存とも言える。

例えば、街中で歩いていてもすれ違った人に関心を持つことは少ないだろう。コミュニティとなると、そこに集まった人数と空間の規模によるが、接触する可能性は比例していく。限定的であればある程にクローズドになっていく。場所の開放性と偶然性が比例していくように「ゆるさ」の保険を掛けながら、ある程度の切断的な決定が求められる。

しかし転倒しやすいリスクがある。その切断性に宿る共同体のつながりの維持は「内と外」を分けることで、結果的にしがらみの内面化を促してしまうのではないか。ここでの「ゆるさ」というのは交換可能であるかどうかが重要であり、そのために相対化と交差する偶然性の担保と言い換えることができる。

空間と人々の設計は、ある一定のリテラシーの固定化が求められる。「空間のリテラシー」がない場合、その空間の抽象性が高まってしまう。それでは使用する人はより限定的になる。「ゆるさ」を担保しながらリテラシーを普遍的に構築することは難しい。そのバランスは容易にムラ的になる。しがらみから自由になったことで、つながりを喪失してしまった現代。そのつながりの場所を再設計することで、しがらみになる可能性も生じている。完全に排することは難しいだろう。空気の入れ換えをしてみても、別種の空気が醸成されると同じである。この「皮肉なつながり」を抱えてしまうのは宿命的である。

宇宙よりも遠い場所』では観光客タイプと新たな共同性を構築しながら、最終的には離れる結論に至る。それによってつながりが壊れることを意味しない。もはや地理的・環境的には依存しないつながりを獲得したためである。この精神的紐帯はしがらみにならない程にゆるやかに、つながりとして太い。

「皮肉なつながり」は空間的に規定されてしまうからこそ生まれてしまう。空間と人々との掛け合わせから、ある程度の切断的であることで共同性が培養された後に、いかに「つながりにおける内と外」を分けないまま空間を飛び越えるか。そのダイナミズムこそが、コミュニティが「デザインされた後」のテーマになるのではないか。

これは、正しくはコミュニティデザインの領域ではないだろうが、自走したコミュニティが陥る内面性に触れないのは不自然であると考えたので、補論として書いた。

 

前回の記事でもポジティブなあきらめから出発している本書だと記したが、そのレイヤーから個別的に相対化したゆえに更なる肯定的ニヒリズムに回収されていることは見逃せない。その文脈を切断するには多少のクローズドさが求められる。

しかし、それはゆるさとリテラシーを維持できるのか、が同時に問われていく。つながりによる癒しを一面的に捉えるのは難しい。共同性と目的性は「活動」の過程に宿るとしても、その移ろいの中にはつながりによる呪いの側面もあり、ゆるさと空間のリテラシーを都度調整していかなければならない。それは自走してもなお個別的で相対的なモデルとしてである。そのために、この逃げられない磁場のような肯定的ニヒリズムは「一般化」への壁を高くする。

山崎はコミュニティデザインのマニュアル化は出来ないと記した。教科書を作ることは難しい。なぜなら、キャラクターとケースモデルに左右される現場的判断によるためである。そのジレンマが、逆説的に対話機会や共同性を設けていったとするならば、個別的ゆえのポジティブなあきらめは「一般化」の壁として立ちはだかる。限定的であるしかないアンビバレントな要素が、アーレントヒエラルキーの「活動」回帰を素朴にさせているように。この引き裂かれないまま肯定的ニヒリズムに帰着した意味は、さきの手段と目的の捻れにあるように従来通りにはいかない、普遍的な意味での公共性を立ち上げることに対する再編と再提出が必要となるのではないだろうか。「一般化」の壁と向き合い、個別的にやるしかない「公」として。

つまり、個別的であることの集積が雑多なモザイク的な公共性を立ち上げるための要素であるならば、「私」と「公」の私的な連続性が見て取れる。つながりによる私的領域の拡張が「公」と「活動」と不可分でありながら、従来のモデルとは幾分かの再編が必要なのではないかと考える。モザイク的な公共性に対して「一般化」することの困難さがあるなら、その価値観も更新すべきだろう。ここで述べたいのは、手段と目的の捻じれのレイヤーとポジティブなあきらめのレイヤーの相関性への違和感である。

さきに記したように公共性と「活動」の領域の刷新には、相対的なゆるさが鍵となると見えている。個別的であるしかなく、モザイク的に帰結するならば、素朴に回帰するのでは不足してしまう。これは相対主義的な領域と対面しなければならない。

本書にある捻れに違和感を持つのは、目的の普遍性がそのままに位置していることにある。

しかし、その集合的イメージもモザイク的であるなら、意図的に問い直すこともできるのではないか。そこに生じるゆるさが更なる公共性を立ち上げると考えなければならない。

山崎亮『コミュニティデザインの時代』感想 つながり、中間項、「活動」を求めて

 

 

コミュニティデザインとは何だろうか。

最初にコミュニティデザインについて単語毎に分けて見ていく。

コミュニティの語源はラテン語の「コミュニース」。この言葉には「コム」と「ミュニース」というふたつの語からなる。コムは「一緒に」、ミュニースは「任務」という意味なので、コミュニースは「一緒に任務を遂行すること」というほどの意味になる。

1917年に出版されたマッキーヴァー『コミュニティ』により「人と人とのつながりの重要性」が強調されたと山崎亮は記している。それ以前のコミュニティへの捉え方は比較的ネガティブな側面が目立ち、言葉の意味も「人と場所」は共通的であっても時代によって変化する。マッキーヴァーは「つながり」のポジティブさを打ち出したと言えるのは確かなようである。

また、デザインについて山崎亮は「社会的な課題を解決するために振りかざす美的な力」としている。デザインという言葉は、単に記号的な美しさを脱して過大の本質をつかんで解決しようとする社会的行為だと捉えているのが特徴的であり、わざわざソーシャルデザインとしなければ社会性が付与されなくなった、社会性が脱臭されたデザインの現状が見える。

端的に本書は「つながり」や「豊かさ」のモデルの視点を再導入・再発見していくプロセスをコミュニティから説いていると言える。

順を追って見ていこう。

 

 

第1章 なぜいま「コミュニティ」なのか

つながりが分断された現代社会の状況は、つながりの希薄さから「無縁社会」と定着して久しい。孤立死が驚きもなくなってしまった個人と地域社会との距離感は、インターネット空間では見えにくいリアルな場所・問題として可視化されている。本書ではインターネット、特にSNS社会については言及されていない(2012年の震災後に出版された)。徹底的にリアルな場所でのコミュニティを強調していると言えるだろう。

日本ではインフラといったハード面の整備は進行しており、その作業は行政任せとなっている。そのため個人領域の「家」と公的空間を取り結ぶ地域などの中間項が欠落しており、「家」と「公」で充足できる環境が、結果的に住民参加の必要性の意識を低下させている。

かつて住民参加は意識高いものでもなく、当たり前の活動であった。歴史的に見て参加に対する意識が異なるのは間違いない。江戸時代の「道普請」のような地域コミュニティのつながりの可視化は、近代化に伴い、専門と分業によって明確な仕事化していく。それによって当たり前だった住民参加はスペシャルな行為と変容し、そのつながりによって担保されていた公共性や地域性といった中間項は喪失していった。つながりが保てなくなったことで、ネガティブな意味を見出すのは、さきに引用したマッキーヴァーの素朴なポジティブな印象が着いて回るからだろう。本書もマッキーヴァーのポジティブさを継承している。

しかし、つながりによるメリットとデメリットは存在する。つながりが「しがらみ」となるムラ社会化が代表例である。相互監視、同調圧力といった「空気の支配」はつながりのネガティブな側面となる。

明治以降の工業化によるムラからの自由の獲得は、同時に分業制への加担を増長させた。専門と分業の所有による「全体の不透明性」と地域性の視点の欠落は、「家」と「公」の単なる往復のみの過剰なつながりを排した=ムラ的なものとの解放という個人主義を加速させたと言える。

人口が減っていくのは避けられない社会問題となっている。未婚率の増加、出生率の低下、高齢化社会の到来と複合的な要素が絡み合う人口減少は都市と地方が抱える長期的な問題である。本書ではある種のポジティブなあきらめから現状を認識している。定住人口よりも活動人口、市民活動の活性化によってコミュニティを形成してみせることで、まちのマネジメントを住民参加という主体性の回復でもってつながりが途切れてしまう現状を打開したいと読める。ムラから離れて個人主義的に開拓しても、つながりが無さすぎるとツライことがコミュニティへの期待の表れだと言える。一方でつながりすぎると大変であるのも事実だ。「適度に少しはつながっていたい」という欲求は無縁社会への抵抗である。本書は決して素朴に近代以前に戻れなどとは主張していない。近代化を経た現代においてその主張は現実感が無さすぎる。もはや時計の針は戻すことは適わない。今のハードや空間に馴れ親しんだ私たちがすべきことは、個人主義が定着した日常からコミュニティを再編する=デザインしていくことで切断された中間項のつながりを再定義していくこととなる。

まちの屋外空間は祭り以外では寂しい光景が広がっているのがもはやデフォルトである。山崎亮はエアコンによってまちの光景が変わったと指摘。全ての活動を室内に追いやり、屋外での活動は特殊なことになったと推察した。そしてエアコンの廃熱によってヒートアイランド現象を起こし、屋外よりも室内を優先させる動きは加速する。

本書ではコミュニティを大きく二つに分けている。

一つは地縁型コミュニティである。その場所に住むことで生まれる縁のコミュニティであり、自治会などが当て嵌まる。戦後、これらの弱体化した公共空間はデザインの問題ではないとし、建築家がより良い空間を作れないわけではないと指摘している。空間設計の問題よりも、前提としてある公共空間を使うコミュニティ自体の弱体化が空間の価値を損ねた。つまり、公共空間を使用するコミュニティの台頭が求められている。これは広場のデザインの問題ではない。広場をどのようにマネジメントしていくかという二つ目のテーマ型コミュニティの意味が大きくなる。テーマ型コミュニティは、テーマに沿って活動するコミュニティであり、サークルやNPOが当て嵌まる。それらのコミュニティが公共空間をマネジメントすれば解消するに思われるが、活動許可の申請や活動自体の発表の場の有無、それに伴うモチベーションの維持、コミュニティ拡大のための募集の広がりの難しさなどが現実問題ある。

しかし、コミュニティの活動を通じて空間に価値が生まれる。斬新なアーキテクチャの問題ではない。

空き家や空き地などそのままではエリアの価値に付与しないエリアを再利用したマネジメントを通すことで、地域とコミュニティの形態がどのように組み合わせられるかといった試みが新しい空間を作る。その空間とコミュニティの合わせ技による住民参加の主体性の変容が、人口減少していく状況で、より弱体化していくであろう地縁型コミュニティに向き合う上で新たなコミュニティデザインとして担う価値は大きい。人口減少に伴うこれからのマネジメントを思案すべきだろう。定住人口減少に対してコミュニティの観点から活動人口を増やし、人口減少に歯止めを掛けられないが、それでもつながれる環境作りをするある種のポジティブなあきらめが読める。

単に「昔は良かった」と言ったところで人口比率のデータを見れば、ここ200年が特異なケースであったことが分かる。特殊な人口の規模に慣れていたと自覚することは、なにもそれ以前への揺り戻しを期待するものではない。人口問題は長期的な問題であり、目下すぐに歯止めが掛けられる話でもない。この問題について「人口増加」の観点からではなく、事実として進行している観点からのアプローチの模索、つまり無縁社会と人口減少に伴うつながりの確保を要するためのコミュニティデザインの意味がある。

人口が増えなければ利益が出ない。定住人口が益々減少し、定着したインフラやサービスはその上で成り立っているのが常であった。都市と地域の格差は拡大化していく。地域経済が成長しなければ「豊か」になれないという「呪い」は肥大化していると言えるだろう。その従来の発想から転換する必要がある。今後減少していく地域の適正人口規模から、どのように暮らしを再構築していくかを考えることが別の方向性の「豊かさ」となる。「過疎」を嘆くよりも、適切に疎らな「適疎」を前提としたまちづくりと人口問題の現状を捉えるべきだと山崎は述べる。現実的な回答ではないだろうか。長期スパンの問題に対して、ポジティブなあきらめの実践的思考が、減少していく人口とそのまま放置されるかもしれない空間の掛け合わせとしてコミュニティデザインの需要は高まっていくだろう。

人が多くてもつながれない。そのつながりが弱い。今後何もしなければ益々弱体化していくことは明白だ。人口減少により従来の都市型モデルが通じなくなった際に「適疎」からマネジメントをして空間を再設計することは避けられない。

そもそも人口減少は2008年を境として見ることが出来る。学校の統廃合、商店街の空洞化、シャッター商店街、後継者の不在、限界集落、地方から都市への人の流出と人口自然減少が相乗した結果、まちと人を巡る空間の度合いは変化していった。この光景は珍しいものではない。素朴に人口が増え続けることをビジョンとした未来モデルとは異なるモデル=「適疎」から探すほかない。特に地方は都市に比べて進行している速度が違う。現状の追認から都市モデルではない視点の導入しなくては地方には困難が付き纏う。税収が減り、財源の確保は従来通りにいかなくなる。ジリ貧は目に見えている。そこから都市モデルを夢見て目を逸らすのも現実的ではないだろう。行政任せが立ち行かなるのも時間の問題であり、そのための当事者意識、主体性の回復が求められる。

今後のビジョンとして、建築業界であれば公共事業の減少が例に挙げられている。ハード面の整備に大きく加担できる時代ではない。もはや「物質的な豊かさ」はハード的には獲得していると言えるからだ。それよりも「人・空間の豊かさ」といったソフト面がメインになっていくとしている。20世紀的な豊かさではない、時代の変化に合わせた豊かさの再発見。それは人口減少を伴いながら、どのように豊かにつながれるかといったコミュニティデザインのビジョンと合致していく。

個人と国家の間のつながりの纏まりを作ることが必要である。本稿では中間項と既に記しているが、これはセカイ系の定着した定義から引用させて貰った。

具体的な中間項がつながりの纏まりだと言えよう。地縁型コミュニティではなく、テーマ型コミュニティのような定住者のみならず偶然的な他者を組み込むことができれば、その往来は活発化=活動人口に繋がる。

本来、まちの主体性は住民にある。そのためのルール作り、まちづくりであったが、主体性の変容により主従関係が逆転したと言える。住民が空間を規定するものであったのが、空間が住民を規定するようになった。空間へのはたらきといった意識が住民から欠落したためである。これは主体性の埋没であり、専門と分業化に伴う行政任せが大きなウェイトを占めるのも当然だった。まちづくりへの参加、執り行いに行政が住民の間に割って入るのがデフォルトになると、この動きは加速していった。そのために住民同士のつながりも不透明になる。行政を経由した専門的な中間項が住民と空間の間にあり、具体的な中間項は住民の主体性でもって獲得しなければ、住民とまちを結ぶ公共性の意識は立ち上がり難い。パブリック(公)とプライベート(私)があるように、プライベートが集まって少しずつ開くことでパブリック化していくと山崎は言う。プライベート、私的領域は自閉的かつ自律的である。単にプライベート単体であれば接続しにくいが故に、いかに公的にしていくかというそのための空間、コミュニティは主体的ではなければならない。行政に肩代わりして貰うだけでは獲得できない。住民参加という意識と「公」との連帯を行政依存と主従関係の構造から転換させていく必要がある。

同調圧力ムラ社会からの反発が、ある種のつながりの切断を招いた。同時にそれは解放であり、しがらみと言える相互監視状態が解かれた心地よさもあっただろう。ムラから脱したことで、自分の意志決定の基盤や承認は容易に獲得できなくなる近代的自我の葛藤は「文学」が担ってきたが、つながりの希薄さから一定的なつながりを求めるゆるやかさの意識が芽生えている。

東浩紀の『弱いつながり』では「観光客タイプ」を提示している。

 

弱いつながり 検索ワードを探す旅 (幻冬舎文庫)

弱いつながり 検索ワードを探す旅 (幻冬舎文庫)

  • 作者:東 浩紀
  • 出版社/メーカー: 幻冬舎
  • 発売日: 2016/08/05
  • メディア: 文庫
 

 

村人タイプと旅人タイプと分けた上で、観光客ならではのある種の無責任さとゆるやかな自由な立ち振る舞いが、固定的に定住するムラと流動的な移動をひっきりなしにする旅の中間を掬うモデルが観光客タイプである。

私的領域の「私」は自閉的であり、つながらない。つながりにくい。それゆえに「公」とは隔絶がある状態では公共性は不透明である。その際に「私」と「公」をゆるやかに往復するある種の無邪気さが観光客タイプにある。これは偶然性や他者を巡るもので、テーマ型コミュニティへの参加とアーキテクチャは観光客タイプが理想像ではないだろうか。

公共性の復活は素朴な回帰ではない。近代以前に戻るのではなく、定着した「私」の個人主義からどのようにコミュニティと公共性を再編して接続していくか、という中間項的デザインの話だろう。

 

第2章 つながりのデザイン

ハードとソフトの両輪でものを作らないといけない。

デザイナーはソフトの観点から、人々と空間を取り結ぶための作り込みが必要となる。これはハードからの転換である。

コミュニティをデザインする過程でコミュニティが生まれるという構造が、生産過程に生産性が宿る種子と似ているだろうか。人と空間のバランスは、具体的過ぎると人々が介在しなくとも自律できてしまう。これでは人々よりも空間がメインとなる。

また、抽象的過ぎると「空間のリテラシー」が求められる。この文脈を読まなければ使いこなせないという意味では主従関係は変わらない。人と空間が相互に規定し、支え合うような相互作用のハードとソフトの掛け合わせがデザインのスケッチとなる。

コミュニティデザインではワークショップを行う。意見交流の場として話し合いからソフト面の充実と可能性を探る。既にこの試みの内面にコミュニティの種が蒔かれている。つまり、デザインの過程に組み込むことで波及する可能性があるということだ。

本書ではSNSなどのオンラインではなく、リアルな場のみを対象にしているが、口コミなどの噂や意見は「動員のゲーム」の文法に乗るものだ。SNSであれば口コミは数値化できるが、口コミや意見はそのリアルな場においての熱量へと転換されていく。このリアルな場所自体が、中間項が切断されている状況において揺り動かす熱量となる。

ソーシャルキャピタルといった人々とのつながりが充実していく様子は、谷川ニコ私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』が象徴的である。

 

 

学校で孤立していた非モテの主人公の自意識の空回りをパロディ的に描いていたマンガであったが、途中から状況が一変。認知されることで周りの目線が好奇心へと変化し、主人公を取り巻く環境がご都合的というよりも偶然的に有機的に絡んでいくことで友達に囲まれる状況となった。ここで重要なのは、孤立していてもそれなりに充実していたように見えた主人公のライフスタイルが、多くの友達とつながることで異なった充実感を獲得したことだろう。つながりによる充実性は転倒した形が素直に露出したのが『わたモテ』であると読める。

話を戻すと、求められているのは優れたデザインではない。ソーシャルキャピタルのように「豊かさ」の指標が変化していれば相応にデザインの方向性も変わる。物質的な充足よりも、心の満足感や承認、つまり「心のセーフティネット」をいかに機能させていくかというつながりの強調が「豊かさ」となる。

本書で挙げられているつながりは再定義するものではない。つながりが必要になっている現代において、いかにつながりの場を持つことができるか。そして公共化できる主体性の回復が「豊かさ」に直結しているようだ。

それは経済的豊かさだけではない「豊かさ」の目安となる。人口減少に触れた第1章と重なるが、ポジティブなあきらめが見える。

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古市憲寿的なイマ・ココの充足による納得があれば、先細りしていく未来と付き合っていけるといったようなポジティブなあきらめは「豊かさ」の視点の変化に通じる。納得による再定義は充足感を獲得していくためである。この価値観の起点にあるのは20世紀的な発展からの脱け出しであり、21世紀の「豊かさ」は細くなっていくビジョンをいかに工夫して納得していくかという話にも思える。この皮肉なポジティブさは古市的なものを彷彿とさせるが、一方で現状認識の態度とも言える。むしろ後退していく日常や経済とは異なった角度から光を当ててみせることで「豊かさ」を再発見する試みだろう。

ワークショップの企画は、参加すること自体が既にハードルが高い。この意味において意識高い系とサイレントマジョリティの存在が浮き彫りになる。前者ならどこまで声を拾うべきか。後者にはどのようにして伝えるべきかといった双方向的なコミュニケーションよりも、一方向的でしかないある種のあきらめに重なるが、第1章で人口減少とコミュニティの話を据えている構成によって「ポジティブな断念」の導入に成功している。

民主主義的な場としてのワークショップの機能=アーキテクチャは、それ自体に参加しない後者を排しないための配慮が求められる。いかに活動を伝えていくかという内容と範囲の問題として。

これはコミュニティの「外」に通じる。「公」にしても内面化せずに「外」に一定以上開かれている通気性の良さがデザインのバランスとなる。ある種の透明性がコミュニティとしての「公的さ」と「私」からの連続性であり、「内と外」の開放感は地域の外部からも流入できる空白の可能性を担保するものである。その過程に偶然的な他者を混在できるか。そのようなアーキテクチャとコミュニティでなければ、つながりが一転してしがらみになることも容易だろう。

意識的に主体的に参加することで空間が充足される。主従関係は再び逆転する。そこで生じる人々のつながりの「豊かさ」が連鎖的に生み出していくことの有用性はリアルな場ならではの充実感だろう。

「顔の見える」度合いが「空気」を作り、圧力が強すぎるとしがらみになる。これは「適疎」でも例外ではない。むしろ幾らか少数的になるからこそ集団性は密度を増す可能性も孕んでいる。本書では、一定以上のつながりがしがらみに転化するリスクについて詳細に触れてはいない。その「空気」までもデザインするのはデザイナーの領域ではないためだろう。コミュニティの「空気」をデザインするのはコミュニティの問題である。

さて、プロセスを共有することでコミュニティの内面を確保する。そのシェアがコミュニティを培養していく。人と空間の設計が明るみになることは、目的と手段が純化していくことのある種の暴露であり、その内面性に意味がある。共有していくことでアーキテクチャの立体感や公共性への接続は「私」から「公」への橋渡しとなっていく。この過程で中間項が立体化していると言える。ハードの整備ではない、「つくることを前提としないコミュニティづくり」は本書の主張である。この開発の再定義は「無から有」ではない。「有から異なる意」を作る再発見というデザインと言えるだろうか。「まち×人」の関係性の相互規定とハードからソフトへの変化を主体的に取り組むことがコミュニティデザインの意義となる。

山崎は「コミュニティデザイナー」という肩書きへのジレンマを記している。人々がより主体的に取り組むことができれば、この肩書きや役割は不要となる。つながりや空間の設計ができない無縁な現代だからこそ、それを充足するための支援として食べていけるのが皮肉と言える。

つまり、山崎としては将来的には自分の仕事を奪うために仕事をしていると言え、それを望みながら自覚している。コミュニティデザイナーの存在自体が、いかに人々がつながれなくなったのかを反映しているだろう。それは時代を象徴しており、人々が受動的であればある程に需要は高まっていく。

もちろん行政任せだったものが、いきなり主体的になることは容易ではない。コミュニティデザインは視点の導入を促すものであり、そのための実践モデルも抽象的である。簡単にマニュアル化できるものではない。各地で具体的な事例はあっても、それを一纏めに集合的に一般化することも難しい。個別的なケーススタディであることの難点が挙げられ、デザイナーを介在して主体性を回復していくための試みが続いている。

どのようにデザインしていくべきか。

空間と人々をはたらきかけるにはどうすればいいのか。

住民参加が当たり前だった近代以前ではない。既に充実したハード面は整備されており、その専門性は高まっている。分業と専門の壁に取り込まれるジレンマがある。ぼんやりとした参加意識があっても、具体的には介在するための存在、ここではコミュニティデザイナーの有無に直結する。これもまた専門性の壁と言えるだろう。

 

第3章 人が変わる、地域が変わる

まちづくり、コミュニティづくりへの主体的な捉え方が消極的であったのが、能動的になる経緯がある。

例えばモラルといえば外側から規定、抑制があって定着したものだと思われているが、そもそもは内側からの内発性が根拠であることがモラルの在り方だとされている。

まちづくりに対する消極的な眼差しについてはいかに主体性を回復するという点が求められるが、外部からの働きかけや視点を取り込むことでフレキシブルに公共性が立ち上がる契機となる。そのための意識改革と共同性の連帯・相互承認は、金銭的な「儲け」以外の「儲け」つまり「豊かさ」の再発見に通じ、仕事以外のはたらきかけとしてのモチベーションの回路はレクリエーション的であると山崎は記す。このレクリエーション的というのは「労働と余暇」の二分法ではなく、「私」と「公」の生き方の模索であり、徹底的に「労働」でななければ「余暇」でもない中間的な意味合いが込められている。

このクリエイティブな活動はレクリエーション的なまちづくりの提示であり、その一環としてつながりを再起動させる試みが両立している。

しかし、万人が主体的に活動できるわけではない。「声なき意見」も珍しくないだろう。サイレントマジョリティはその代表例である。

山崎は主体的ではないサイレントマジョリティが参加すればこそ「一般化」する試みだとしている。まだ「一般化」していない現状を留めつつも、「普通」の活動となれば第2章で記したようにコミュニティデザイナーという特異な肩書きも不要となる。また「一般化」すれば「内と外」の対立構造も崩れ、「私」と「公」の中間項をブリッジすることが当たり前となる。このデザインされた光景はつながりを編み直す空間と言えるだろう。

サイレントマジョリティの例を挙げたように、デザインするにも合意形成は欠かせない。その土地、環境、生活や文化といった基盤・文脈に則った意見が必要となる。そのため複数項目に分けて耳を傾けることで、多角的な視点の空間や人々に対する間主観的な意見を醸成することができる。その複合的な意見をベースにデザインしなければビジョンを共有することはできない。

まちづくり、コミュニティづくりの前提の要素として対話機会、意見交換の場をデザインすることであり、合意形成からプロジェクトの発案、実施に至るプロセスを丸裸にすることが透明性を保つことができる。その風通しのよさが「一般化」に繋がる道ではないだろうか。

本章で例に挙げられている集落の件であるが、マネジメントは集落の行く末のみならず、空き家や空き地といったエリアの価値付けが鍵となる。

本書は震災後の2012年に出版されているので「つながり」と「空間」の強調がなされていると言える。被災地も同様に、震災後の「空間と人々」をどのように掛け合わせるか、掛け合わせられるかといった可能性を探るのが山崎の仕事である。

震災後という時間を生きなければならない私たちの現状は、常時接続によって過剰なつながりを獲得できた一方で埋めきれない孤独を抱えている。「つながり」の強調によって一定以上の共同性を得ながらも、どこか空虚で充足されない気分を持つ。それはどこか私的領域の延長でしかないつながりの過剰性の裏返しとしてある社会的承認への飢餓感かもしれない。

「顔が見える・見えない」に関わらず、現代的なつながりのニーズに応えているのがコミュニティデザイナーである。「私」と「公」の中間項を取り持つための中間的な存在が担うマネジメントとも言えるだろうか。

 

第4章 コミュニティデザインの方法

コミュニティデザインのマニュアル化は難しい。個別的事例にその都度バランスを探っていく必要があるからだ。

また、当事者のキャラクターとの兼ね合いもあり、仮にマニュアル化してみたところでキャラクターとメソッドが一致するとも限らない。

デザインする方法にもキャラクターが合う・合わないがある。人それぞれのやり方があり、住民側もケーススタディであるので、一般化よりも個別的対応がベターである。

本章では、山崎が「コミュニティデザインの教科書」の困難さを踏まえた上で大別して記そうとしている。

コミュニティデザインの手続きは4つに分けることができる。

第1段階はヒアリングとインタビューである。

自治会などの地縁型コミュニティやNPOやサークルなどのテーマ型コミュニティと形式に拘らず、多様な意見を聞き入れることが重要としている。

「どんな活動をしているのか」、「活動で困っていることは何か」、「ほかに興味深い活動をしている人がいれば紹介してくれるか」と人脈を数珠繋ぎ方式で獲得しながら、目の前にいる相手の声を拾う。

山崎は最終的には「友達になること」を目指す。単に意見を言う、聞くではなく、「何者であるのか」を知って貰うことが最初の段階で重要な要素となる。

第2段階はワークショップとなる。

住民たちが専門家に依存して「お客さん化」しないようにすることが重要な配慮となる。開催するプロセスにおいて受動的な「お客さん化」ではなく、主体性の獲得がこの段階での大きなテーマである。参加者自身が発案し、できる範囲内でプロジェクトを立ち上げる能動性がビジョンとなっていく。

もちろん、このプロジェクトも第1段階のヒアリングを踏まえた上でプログラムを構成するべきもの。

如何に主体体に発案して貰うか。そのために用いる形式は多種多様である。ブレーンストーミングKJ法、ワールドカフェ、マインドマップ、シナリオプランニング、バックキャスティング、プロトタイピングなど話し合いの方法も多岐に渡る。その中でキャラクターと一致しそうなものを選択し、ルールを決める。

その話し合いの中で生まれたアイデアについて参加者自身が「自分のアイデアである」と自負できるまでに環境と熱量、ビジョンを共有できれば一つの大きな主体性として育まれていく。

第3段階はチームビルディングである。

ここでは、ワークショップで構成されたプロジェクトの役割分担が主となる。メンバー間のバランスは年齢や性別毎に調整していく。チーム毎にキャラ付けをし、メンバー間で誰がリーダー的であるか、サブリーダーは誰なのか、と共通了解をキャラクター化していく作業となる。

主体体に行うといっても、人間には相性がある。また新たなに生まれたつながりによる「空気」も一定以上存在することだろう。その中で山崎は詳細を記していないが、キャラクター化による適応が社会性となるだろう。

「社会」とは人間がコミュニケーションを交わす場所の集合体だと考える。その積み重ねが公共性を立ち上げていく。

そして、ある程度の「空気」との折り合いはしがらみにならない程度のつながりの保持となるだろうか。この時にキャラクター化、平野啓一郎が提唱した「分人化」が手段となる。その「分人化」、「キャラ化」の適応した結果ゆえのもどかしさ=つながりのネガティブな側面に触れていないのは本書の特徴だろう。ある種の「ポジティブなあきらめ」から出発していると記したが、その延長線にある負の側面も飲み込もうとする一面的なポジティブさは違和感を抱かせる。

そして、第4段階は活動支援である。

具体的な活動のサポートや行政などの経済的支援を受けるための体制づくりにも加わる。必要に応じて専門家を呼び、「お客さん化」しない自走しているチームのバランスを見る。

また、各チームがスキルを学ぶためのレクチャー機会を設ける。

そして、チームが行えることが具体化していけばサポート機会を減らしていく。チームが、自分たち自身で自律的に取り組むのが目標であり、その時点でコミュニティは形成されていると言っていい。デザイナーはそこまでの滑走路を作るのが仕事である。

もちろん、コミュニティにも停滞期や過渡期は訪れる。コミュニティデザイナーはそれに介在しない。そうすることで自然とした力学が発生する。誰かが率先してはたらきかける。その際に尽力した「顔」がリーダー的であり、停滞期を乗り越えたコミュニティの共同性は強固になり、「キャラ」も明確となる。決して固定的ではない。その活動自体が「キャラ的実存と空間」に支えられている。プロジェクトの目的性に集約されながらも、共同性が担保されていく。

こうした経緯を踏まえることでコミュニティは自走することができる。つまりコミュニティ自体に主体性が宿るまでの期間には、ある程度の「移ろい」は自然なことであり、キャラとつながりにあるシビアな側面=社会性と「空気」の適応は避けられない。

ここまでキャラの重要性について触れてきた。

山崎はキャラによるモードの区別を記している。「プライベートモード」と「ソーシャルモード」とし、「素」と「仕事人」として分けられる。このモードの分け方=分人化が、既に中間領域の喪失を象徴している。「家」と「社会」、「内と外」の二分法そのままと言えるが、まちづくりはプライベートモードからソーシャルモードに空間的に引っ張られていく「私」の延長にある協調的施策である。空間を介して人と人がコミュニケーションをする場の意味を再発見していくことで、「公」に昇華しようとする「つながりの試み」と言えるだろう。

その過程でキャラ、実存の衝突は避けられない。その都度の調整が求められる。個人レベルで、社会的レベルで。個別的な問題をチーム間で共有することでつながりは強くなっていく。

プロジェクトのためにコミュニティが自走できるまでの滑走路を作ることがコミュニティデザイナーの仕事だと述べたが、それを培養していくサイクルはプライベートモードとソーシャルモードの往復運動によるキャラ的実存とつながりの移ろいがベースとなる。

かつて立川談志が「人間とは人と人との間を生きるから人間である」と言ったことを記憶しているが、デザイナーがデザインすべき「間」は「空間」であり、中間的な存在であるデザイナー自身の立ち位置そのものと言える。

コミュニティ内のつながりに対して、コミュニティ外のつながり=ヨソモノならではの視点や意見がある。内部に対して外部的であるからこそ、客観性を提示できる。これは「内と外」で対立するものではない。従来のムラ的なものを融かす立ち位置と言えるだろうか。一定的に内部化する可能性がある外部が、外部として存在することで視点を与えられる。その客観性の担保がコミュニティデザイナーであり、コミュニティの主体性を培養していくことにつながっていく。

 まとめ

ここまで本書を読んできて思ったことがある。

ハンナ・アーレントの『人間の条件』にある「活動」の概念と照らし合わせながら読むと興味深い。

アーレントによれば「活動」は「制作」や「労働」よりも上位にあり、「活動」を通して公的領域に接続できるとする。つまり「活動」が最も「公的」であるとして、人間の行動の上位に置く所以であるが、これはなにも特別なことではなく、一般論的でしかない。

公共の空間で他者と触れることで「活動」することが充実感を与える。

これは本書の、山崎の立場そのままに重なる。

コミュニティデザインが位置する活動も「活動」に則っている。「活動」に接する機会や領域を拡張する=デザインすることが意義であり、素朴に「活動」の文脈に乗っていると言えるだろう。失われていった公共性とつながりを充足する「人×空間」のつながりをデザインすることが、コミュニティデザイナーである。それが「活動」であることは疑いの余地もない。「活動」を通じて人は他者と触れることができ、中間項を取り戻すことができる。

つまり、コミュニティデザイン自体が素直な「活動」であると言える。

しかし重要なのは、「公共性の立ち上げ」を目的に設定しながらも「活動」を経た公共性の正しさとして硬直化するよりも、主体的に自走できるためのつながりの過程(「活動」も過程である)に重点を置かれているように読める。間違いなく二つの観点は両立するものであり、どちらが先行するような話ではない。目的性があり、共同性があるという話に集約すれば、この「活動」の過程にこそつながりと「公」を繋げるための空間がある。その視点の導入は「活動」が先行しているものではない。目的性と共同性が両立したのちに、結果的に過程として「活動」となるものだ。欠落していった他者と空間を結びつけるためのはたらきかけるリアルな場の提案が「コミュニティデザインの時代」を意味しているならば、「活動」の意義を疑う余地はないだろう。

その意味では、素朴にハンナ・アーレント的な立場を取っているのが本書である。

公共性や「活動」といった従来のモデルをそのまま扱うには、20世紀的モデルが通じない現代からすれば多少の更新が求められる。ここでは目的となる「活動」や公共性への新鮮さは見当たらない。更新されるべきものはそれではないように。そこに至る道のりを整備して光の当て方を変える「再発見の跳躍」が必要な更新がある。

本書ではつながりと中間項の再獲得、21世紀的な「豊かさ」の角度の再提出がなされた。ある種の「ポジティブなあきらめ」が出発点にある移行せざるを得ない時代の流れにおいて、「活動」や公共性のモデルは普遍的であるとする素直なビジョンが見えてくるようだ。その再帰性が宿っている。

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