おおたまラジオ

しまいには世の中が真っ赤になった。

批評と私

僕に「批評」は書けない。だから、僕は「批評」に憧れている。

これまで書いてきた記事は少なくとも「批評」と呼べるものでもない。カテゴリは分からない。なんと呼ぶかは自由ですが、「批評」だと思ったことは一度もありません。

「批評」とは何か。

端的に記すことは非常に困難ですが、敢えて言うならば「景色を変える」ものでしょうか。景色を変え、価値を、世界を転倒させるもの。

そんな力学に憧れてしまう。僕には程遠い力の作用。自分が無力でしかないことを実感しているからこそ、なおさら「批評」に惹かれてしまうのだろう。少なくとも僕は「景色を変えられた」側の人間であるから、どうしようもない程の身体的な意見として書いている。

最近の記事の書き方は自分なりに「書く」ことが纏まってきた気がしています。ようやく書き方が分かってきたかもしれない。

否定の論理を裏返したい。

そんな欲望に憑りつかれている。それこそが生産的であると疑わないかのように。そもそも生産性自体を否定したい欲望はあるにしても、それでも僕はテキストを書いてしまっている。矛盾を抱えて――。もっと「くだらなくて」いい。生産的であることが世の価値だと思わなくてもいい。そんな世界は豊かであるかもしれないが、同時に窮屈でしかない。そう考えている僕ですら、何かしらに影響を受け、そして「価値転倒させるための価値」を創出することを願ってしまっている。「批評」がまさにそうだ。

生産性なんてクソ!と思っていても、こうして何かを書いている。「批評」を書きたいと思っている。生産性そのものに否定の論理を加えて突っついてるのはどうしようもない無力な僕だ。それすらもある種の生産性に包摂されていると知りながらも、書かないことから離れることはできない。それを否定することはできない。だからこそ、迂回してでも裏返したいのかもしれない。生産性と自己否定を。

話を戻す。書き方が分かってきたと記しましたが、具体的には「~ではない」を覆すことに重心を傾けています。「~ではない」言葉を作っていきたい。あまり読まれていないけど、僕にとっては『SSSS.GRIDMAN』の記事がそうでした。

futbolman.hatenablog.com

「AはBではない」という否定に対して、「AはBであるからこそCでもある」と価値を転倒させてブリッジさせる。そういう意識で書いた記事は「批評」と呼べるかは分からないが、僕なりの「批評精神」であることには違いなかったのです。それこそが価値転倒であると信じている。

僕には位置づけたい欲望がある。現代は位置づけが不足していると思う。あらゆる情報が氾濫している中で、マッピングの作業が追い付いてない。「語り」はなされていますが、幾らかは切断的であると思っています。どのように位置づけることができるか、という作業は横断的なものです。何かを紐づけることは客体化を促し、位置づけるまでの道を整理します。

物事や対象がどのような位置づけで語られていくのか。人間の営みにおいて「物語化」されていくのか。そのためには位置づけなければ、前に進めません。そういう意味では素朴に進歩的であるし、生産性を疑っていないことになる。でなければ、自分のテキストすらも肯定できないわけですが――本来的に生産性を否定するなら自分のテキストも否定するべきですが、そんなツライことはできないのが自己矛盾の弱さでしょう――「~ではない」という否定を転倒させるだけではなく、安易に肯定に囚われることも避けたいと思っているからこそ、どこか違うところに耐え得るだけの具体的な足場を求めている。そのような粘りを位置づけるのが「批評」であると思っている。

もちろん、位置づけることは暴力であるし、恣意的でもある。なにかを「物語る」行為自体がそのような力学から離れることはできない。「A」という態度や意見を表明することは、「~ではない」という「B」=否定を裏側に引き寄せることもある。そのような否定を吟味することで「AとB」の価値を疑い、語ることの豊かさを再発見していくことが今の僕の書き方になっています。つまり「否定を否定する」と纏めることはできるでしょうが、「C」までに価値転倒させれば粘りのある具体的な足場を構築できるのではないか。単なる否定の裏返しではない別の運動性を捉えることができるのではないか。そして「景色を変える」。それが「批評」なのではないか。僕はそう考えています。

位置づけるためには、何かしらを表明する必要があります。ある種の自分語りは避けられません。例えば柄谷行人のテキストがそのように。

僕は以前にテキストの最終目標は「非人称的」であると書きました。僕は、僕というフィルターを壊したい。自己を介さずに思弁的に観念的に働きたい。遠くに行きたい。生産性を否定したいのも一つの表れでしょうか。そのような欲求があります。

futbolman.hatenablog.com

しかし、書く行為は身体的でしかありません。「ここ」から離れることはできません。必ず自分というフィルターがかかります。僕は「ここ」にいることを実感するしかない。

文体を「ですます調」に変更したのは形式的文体であることの有効性を活かすことで、少しでもある種の無機質な遊離性が「非人称」につながるのではないかと考えていたからですが、他にも影響を受けた作家の文体であるとか、「である調」よりもハッタリが利かない逃げ場の無さとか、圧力をかけないスタイルが「ですます調」という形式的なニュートラルさや目線の低さがあるからとか、色々理由はあるにしても突き詰めていくと僕は、僕であることを晒すのが恐いのだと思いました。形式に依存していたのです。インターネットで公開されているからプライバシーがどうとかではなくて。僕は「他人」を信じていないからこそ、ある種の自分語りを忌避していたのでしょう。もちろん、自分語りは自己というフィルターを活用しなければ発生しないオリジナルティですから、自分を消したい・離れたいと思っている僕には距離があるとしても、です。その意味では「他人」を消し、自分を消したいと思っている僕は徹底的に自己完結的でした。

でも、『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』を観ると「他者って大事」ってなるんですよね。他人を信じること。他者といること。それは僕が恐かったものの一つです。自分語りができない要因でしょう。

僕が今書いている『俺ガイル』の連載記事では、江藤淳の批評に対してのある種の応答を目指しているので、もちろん江藤淳の批評が接続していた「他者」も考えているところなんですが、そんな中で『シン・エヴァ』を観たらつながってしまったんですよね。江藤淳の「他者」は厳密には文脈が異なりますし、柄谷行人の「他者」とも違う。「他者」といっても、自分から「他者」を眺める水平的・垂直的な距離感が異なるわけだったり、また「他者」からの眼差しを経て自分を再発見すると機能性が違いますから一口に「他者」とは言えるものではなくても、「手と手が触れ合う温度感」のあるような意味で「他者は大事」ってなるんですよ。その近さというか。開ける感じというか。『エヴァ』のような私小説という自分語りであるからこそ、その応答に開放感があったんですよね。自分だけではなく、他者もいる。あのような「語り」だからこそ機能する、してしまう。自分しかいなかったら、あのような語りにはならないんですよ。『エヴァ』という物語における自家中毒的ではない閉塞感からの脱出=他者性の接続は形式的な隘路を突き破った。大袈裟ではなく蒙が啓かれました。まさしく「景色が変わった」。

そういうものに僕は憧れてしまう。そんな自分語りでした。

サブカルチャー化した文学から呼びかけられている――『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』(3)

2巻では川崎沙希の登場もあり、ヒロイン候補の拡張が行われていきます。作中のハーレム展開=マルチヒロインとするならば、1巻から登場している戸塚彩加が本編中でもネタ的にジェンダーに配慮した「ヒロイン化」の描写があり、平塚静も同様にエイジズムに対するアイロニカルなネタとして描かれていくといった多様な意味での拡張化の一方で、前期から後期にかけて奉仕部内を主題としたミクロな「狭い」関係性の密度が増していくのが特徴的でしょうか。

シリーズを重ねていく毎に、比企谷八幡の周りにはキャラが続々と増えていきます。それが意味するのは彼がもはや「一人ぼっち」ではないことを如実に示すものですが(その展開としてミニマムな後期があります)、イコール奉仕部が拡大するわけではありません。あくまでも奉仕部のメインは比企谷八幡たちの3人です。

「依頼」という受動的形式を持ち込むために彼らに関わるキャラが増えていくことを示していますが、「部活を一緒にやる」という奉仕部内のプレイヤーを作る目的ではない。もちろん「みんな」で依頼を遂行していくことはあるにしても、「常にみんな一緒」でといった同調性・接続性から、メインプレイヤーの固定的な部活への加入を図る物語とは違い、あくまでも奉仕部のミニマムな関係性に焦点を絞るようにして絶対化しながら、相対的に周りのキャラとの流動的な関係を描く群像劇的要素も後期にあるにしても「依頼」を通した3人の関係性の移ろいといった「まちがえ=脱臼としてのミクロな蓄積」を語り得るためには、部室内(奉仕部)を固定的にすることで、ヒロイン候補の拡張化に対してある種の「狭さ」からの応答、最終的なマルチヒロインへの決着があるとも言えます。

僕は「狭さ」が『俺ガイル』の鍵概念だと考えています。この論考では、既に記したように江藤淳の「サブカルチャー」に対する応答を目的の一つとしていますが、例えば上記のような奉仕部内という関係性の「狭さ」、学園青春モノという「日常系」の「狭さ」、またスクールカーストの融解した際の「狭さ」、比企谷八幡の精神性が持つ孤独による「狭さ」、不一致性を誘発する遠近感による「狭さ」、モラトリアム・「夕の文学」といった部分性の「狭さ」、現実に対して非対称的に言葉が不足してしまう「狭さ」と対抗言論としての文学性、といったように「狭さ」が、自然と空間的・時間的な意味を持つことで、どのような効果・ニュアンスがあるのか。その「狭さ」を確認して論じていくこととなるでしょう。

 

2巻冒頭、書類の不備で職員室にて平塚静に怒られる1巻との反復があります。比企谷八幡の「変わらなさ」。安易な成長や変化への拒絶としての応答と見るべきでしょう。1巻の出会いや経験を通しても、すぐに反映されて変化はしないと主張するようにして。

やはり『俺ガイル』の魅力は一定の反復性に宿っていると考えられるでしょうか。孤独な内面としての比企谷八幡の語りへの没入感もその一つでしょうが、一定の反復性から抜け出せないジレンマ、あるいはモラトリアム的な判断停止・判断保留による時間的・空間的な「狭さ」に起因する衝突・葛藤とも整理できます。

もちろん『俺ガイル』という作品自体が前期と後期では相対的であり、入れ子構造的であるからこそ、「脱臼の蓄積」といった奉仕部内のミクロ/ミニマムな関係性を通した一定性・反復性から抜け出せない(「まちがえたくない」けども「まちがえてしまう」ことによるコミュニケーション/ディスコミュニケーションとして)モラトリアム的な「狭さ」に未成熟的に閉じ込められている印象を与えます。行き場のない閉塞感がある。

また、「狭さ」には「言葉の貧しさ」による認識の差異といった非対称性による距離感の不透明性に起因してしまう「分かり合えなさ」に表れる関係性・空間性も加わっていきます。例えば、由比ヶ浜結衣の好意や照れには、比企谷八幡は気づくことが出来ません。由比ヶ浜結衣の言葉と態度の差異を「現実そのまま」に受け取ることができないように。「言葉の世界」と「現実の世界」は相違的であり、認知バイアス的にも複雑かつ膨大なメタデータが絡んでくる情報量の飽和が過剰性を孕み、情報レベルの認識の非対称性を引き起こします。物語るという行為においてある種の恣意性・簡略化がなければ「現実」を「言葉」で語ることはできない。そのジレンマに囚われながらも「言葉」で貧しくとも過剰に物語るのが「文学」となるでしょうが、重要なのは、比企谷八幡の視点でしか物事は語られないということでしょう。由比ヶ浜結衣の具体的な気持ちは、彼女から詳細には語られない。あくまでも比企谷八幡目線による語りであり、その意味では由比ヶ浜結衣の「沈黙」に映る。そのこと自体が非対称的でありますし、コミュニケーションの齟齬が生じても、主人公の卑屈さと孤独が「夜」としてアイロニカルに強調される「分かり合えない」という距離の「ままならなさ」につながります。

2巻は作中のキャラたちが高校2年生であることを意識せざるを得ない要素(進路選択・コミュニティ)を盛り込んだ構成となっています。比企谷八幡の冒頭のテキスト然り、進路選択における決断の狭間といったモラトリアムの転換・分岐点として。

また、友達というつながりの煩わしさは、スクールカーストから外れた孤独である比企谷八幡からみた一面的な視点ですが、共通言語をもってコミュニケーションのためのコミュニケーションによる同調性の維持を内輪(つながり)とする志向性は、友達を巡る人間関係の難しさや軋みを表すように描かれています。

2巻にある葉山隼人たちのグループのトラブルを処理することで、「リア充も面倒臭い」とするのは「夜」という観点よりも「健康的」な「昼」の力学が作用しているとも言えそうですが、比企谷八幡たち奉仕部も、後期にいずれ通る道として、既に形成されているコミュニティを先駆的に扱ったとも取れるでしょう。

そして、リア充ですらコミュニケーションの非同期性に困っていることを端的に示したのが2巻の一つの意義だと言えます。つながりたいのに、つながれないといった切断、非対称性、刹那的な非連続性から「本物」を巡る後期的文脈が浮上するとみるならば、葉山隼人比企谷八幡は「昼」も「夜」も融和した共振的な表象とみるべきでしょう。

2011年の作品ですから、携帯電話はメールでやり取りするのがメインとなっています。

比企谷八幡は、携帯電話を介したオンラインのつながりは過剰接続とみています。距離感を恰も直結させるかのような気楽さから、データによるやり取りの蓄積は友達との親密さの表れになるかどうか。それに対して否定の意思をみせ、携帯電話はいつでもつながれるからといっても「不完全」なコミュニケーションツールだと指摘します。過剰接続による同調性は、まさしくときには過剰となり、あるいは過少ともなる。取捨選択の決断を所持者に委ねられ、ボタンのオン/オフのようにインスタントにつながりは切断されますし、非同期的になる意味は対面とは異なる曖昧さを担保し続けていると言えるでしょう。携帯電話を介して現実的な身体的な距離をスルーできるようにしてつながることができても、インタラクティブに見える発信と受信は一方向的でしかなく、双方向性・同期生はつながった瞬間に立ち上がる錯覚めいたものです。そのようなインタラクティブ性が重要だとすると、非同期的な距離感はデバイス同士を短絡的につなげることで地理的距離を無視することはできても、結果的には関係性としての現実の距離を反映する身体の延長・拡張的なものには違いありません。

メールによるやり取りは、テキストと感情がしばしば一致しない。このような不一致性は、言葉ではそもそも伝わらないし、伝えきれない、受け取れない性格を示し、携帯電話のみならずコミュニケーション自体が「不完全」なものとしてあるだけで、2巻では携帯電話がコミュニケーションの負荷的原理を仮託された表象となっているに過ぎません。コミュニケーションの難しさはある種の「賭け」=「命がけの飛躍」です。相手に伝わるかどうかは分からない。「賭け」は「他者」との距離感の反映とも言えますが、携帯電話はその距離感を短絡的に錯覚的にみせることができる。携帯電話を介することで、つながりをつなぎとめる接続的同調性が、コミュニケーションのためのコミュニケーションを呼び込み、ある意味では友達の存在を記録するものですが、本当につながっているのかは疑問となり得る。本来的には非同期的であるのに、同期しているように思える過剰な読み込み、あるいは錯覚がオンラインとして短絡的に形成されることで距離感を喪失させる。

携帯電話をモチーフにコミュニケーションの不完全性の表象が描かれるように、葉山隼人の依頼はチェーンメールという匿名的悪意の拡散についての相談でした。

『俺ガイル』にある「みんな」という匿名的な描写は、6巻の敵の設定=「まちがい」以降、7巻における比企谷八幡への風当たりのシーン、生徒会選挙の際に比企谷八幡がでっちあげるSNSのアカウント(8巻)、相模南以外のスクールカーストの中間層を描かないことで「みんな」という有象無象を匿名的かつ無邪気な好奇心の悍ましさの反映として10巻などで用いられていますが、まさしく「みんな」はサイレントマジョリティ的であり、その「見えなさ」は奉仕部のミニマムな前景化から自然と背景として要請されていくものでしょう。

チェーンメールに話を戻しますが、悪意のある匿名的行為は発信者の顔の見えなさと悪意を向けられている対象の明確さという非対称的な権力関係があります。それでも葉山隼人は物事を丸く収束させたいとする穏当な相談を持ち掛けます。「みんな」と仲良く調和することを目的として。

他方で、雪ノ下雪乃は経験則から犯人の追及を絶対視するように解釈の齟齬があります。「空気」を読む立場と読まない立場の差異とも言えるでしょう。

チェーンメールのキッカケは、職場見学のグループ分けによるものとして推察されますが、コミュニティ、スクールカースト内のグループ争いは学校内ではなく、携帯電話を駆使して学校外の空間でもコミュニケーションを図りながら相互に牽制しようとする過剰性によって生じた弊害でもあると整理できます。あまりにも切実で「些細」なことです。

葉山隼人比企谷八幡からすれば「些細」な問題ですが、2人は立ち位置が異なっていても共通的な見解として一致しているのが皮肉なところでしょう。2人は見えている景色が違います。比企谷八幡は孤独的な「下位」によるコミュニティへの無理解。葉山隼人はそのままグループに居られる「上位」としての無自覚的な暴力性。2人は「上位・下位」の違いはありますが、人間関係を巡るポジション争いに「巻き込まれない」という一致性から、相互の差異の隔たりをみることができるでしょう。立ち位置によって、どのようにも受け取れてしまう。当事者にとっては「些細」ではなく重要なことでしょう。世間体や同調性、所属しているコミュニティでのポジションが変化することからの不安は、「下」の比企谷八幡と「上」の葉山隼人には「些細」かつ無関係であること自体がアイロニーとも言えるでしょう。

視点をどこに置いているかどうかの差異であり、葉山隼人が抱えている苦悩は2巻時点ではコミュニケーションとコミュニティの充実といった接続過剰な「昼」の産物のように描かれていますが、「夜」とも関係ないとは言い切れません。孤独な「夜」であろうとも他者と接続した際に軋轢に苛まれるのは同様です。

スクールカースト上位に君臨してしまう存在感を持つ葉山隼人には「分からない」。それは無自覚的な非対称性であり、暴力性です。「持つ者」の存在感(リーダー性・カリスマ性)が加害的になり得ることは雪ノ下雪乃が向けられてきた悪意と重なりますが、葉山隼人には向けられていないのが2人の差異でしょう。葉山隼人がいることで成立してしまうコミュニティの「空気」や人間関係は、葉山隼人が圧倒的であればある程に「明暗」を分けてしまう。人間関係が多いからこそ巻き込まれるリスクとしての友達描写ともいえるでしょうし、上位カーストでさえも「些細」なことに囚われていることを示している。

比企谷八幡が看破したように、葉山隼人のグループは葉山隼人が中心です。葉山隼人が「監督で、観客」であり、グループの蝶番として構成されている。そのことについて中心にいる葉山隼人は無自覚的ですが、「内」に構成されていない比企谷八幡は自然と「外」からみて非対称的かつ距離感のある孤独な語り手の立ち位置を担保しています。「外」による語りは、孤独であることが功を奏すような一人の肯定につながっていると言えるでしょう。1巻のテニス勝負のように。

 

「だから葉山は気づていないだけだ。傍から見てるとあいつら三人きりのときは全然仲良くない。分かりやすく言えばだな、あいつらに取っちゃ葉山は『友達』で、それ以外の奴は『友達の友達』なんだよ」(P114)

 

中心ゆえに引き起こした無自覚な暴力性と非対称性は、葉山隼人が「持つ者」としての存在によるものです。そのことで維持されるコミュニケーションとコミュニティの接続性・同調性に対して、「外」からみている比企谷八幡の語りを通すことで「リア充」と孤独との立ち位置を明示していますが、この距離感は後に実質的には無化されていくこととなります。

雪ノ下雪乃が目論んだ犯人を具体体に名指しする解決ではなくとも、結果的に犯人像は絞り込められました。ここで明らかなのは、スクールカースト上位に位置している「リア充」たちも苦悩しているという事実でしょう。下位に位置している「外」として比企谷八幡の生きづらさだけを取り扱うのではなく――題材としては平凡になるだろう――上位として羨むようなリア充さえも「青春」や「友情」に過剰に同調的に囚われている。そのような「青春」を彩るような過剰性こそ、比企谷八幡が「虚偽」として断罪したわけですが、しかし過剰であるがゆえに充実する実感もあることもまた事実でしょう。

比企谷八幡が提示した解決策は、葉山隼人をグループから外す中心の抹消でした。「中心の不在」によってグループを再構成させる。中心の無自覚な存在感が誘発させてしまった悪意を宙吊りにしてみせることで、「中心と周縁」の非対称性と差異の告発はアイロニーとなる。

そして、アイロニーを通じた別の距離の一致――比企谷八幡葉山隼人が明示された後にグループを再構成するのは自然な流れでしょう。「中心の不在」は比企谷八幡にも重なります。その立ち位置は、孤独的でありながら中心から脱臼するようにして、しかし語り手として中心を占めている。その逆説は「夜」として、また「一人」でいながらも「内」を読者と共感をもって形成する小説の「共同体」として機能している。正確には「中心の不在という中心性」といった逆説的なものですが、葉山隼人比企谷八幡の避けられない二項対立の無化による共通性・奇妙な一致性がパースペクティブに予見されているとも言えるでしょうか。「脱構築」的に二項対立のその先、その淡い(「狭さ」)から見えてくるものがあるとして。

前述の朝井リョウの「文学の健全化」たる所以も、リア充側の葛藤から普遍的な苦しみを――「夜」を「昼」のように転換させるようにして――抽出したことでしょう。その足掻きは「持つ者」として一面的には理解されているリア充が、結果的には「持たざる者」であったことを自覚していく内省やイニシエーションに尽きます。

やはり相対的な産物に過ぎない。リア充が存在するのは同時に非リアがいるためであり、誰もが同時的にリア充であったとしても、それでも段階的に相対的な差異は存在するでしょう。

この2巻ではリア充側のコミュニティにおける読み合いを推測的に描きながら、その中に入れない「外」に位置している比企谷八幡の視点だけが、ある種の客観性が担保されるかのような主観的な提案が物語の解になり易い結果を生みました。一人でいることの価値を示すかのようにして。

言葉と現実は常にズレています。非対称性、不一致性を纏ってしまう。その意味では『俺ガイル』は「他者論」と言えるでしょうか。思う通りにはいかない、ままならなさを担保し続ける「他者」とどのように向き合っていくか。

しばしば語り手と語られている内容の情報レベルがズレることで、秘密あるいはメタメッセージがパフォーマティブに内包されることに気付けないために比企谷八幡は「信頼できない語り手」として機能しますし、その「信頼できなさ」は未成熟に直結しているとも言えるでしょう。例えば、戸塚彩加とのやり取りを「叙述トリック」的としたのもそうですが、情報の非対称性による受け取れなさと纏めることが出来るでしょう。情報量が過剰で、あるいは過少で、そのままのメタメッセージを受け取ることはできないから、ある程度は恣意的に解釈するようにして察するほかない。

しかし、現実と言葉も非対称的ですから、態度と言葉と想いがそのまま一致して受け取れるかどうかも別問題となる。川崎沙希の件のように。川崎家の問題は金銭的なものでした。「学校と家」といったように世界はその2つに表象できる学生時代の身分から、学校領域内の問題で済むものではありません。後期につれて奉仕部に持ち掛けられる依頼は学校外から「家」に波及していくことになります。

他人の家の事情にどれだけ踏み込むことができるのか。川崎家パターンと雪ノ下家パターンが『俺ガイル』の代表的な「家問題」でしょうか。もちろん後者が前景化していくことになりますが、他人の家の事情にどれだけコミットでき、その「責任」を果たすことが可能なのか、といったように結果論的にいえば前者が相対的に位置していると考えられることもないでしょう。ここでは川崎家の問題を通して、家族という「一番近い他人」ですらコミュニケーションがズレてしまう現実、また他人が「家」に介入することの意味や責任を問う前哨戦のようにも考えられるでしょうか。

 

由比ヶ浜結衣とのすれ違いは「主観は主観でしかない」とするトートロジーに尽きます。安直な「青春ラブコメ」に落ち着かせないのは「まちがって」しまうからでしょう。

由比ヶ浜結衣の優しさを気遣いとして、主観的に、潔癖的に欺瞞や偽善といったように解釈して受け取ってしまう。捻じ曲げてしまう。これは比企谷八幡の主観によるズレであり、この物語の魅力である語り手の捻じれがそのまま素直に変換した結果です。彼のコンプレックスと経験則、未成熟な「信頼できない語り」が、由比ヶ浜結衣の優しさを歪曲してしまう。それ故に「まちがう」からこそ迂遠かつ非対称的なコミュニケーションとディスコミュニケーションの往還としての『俺ガイル』が成立する。

 

真実は残酷だというなら、きっと嘘は優しいのだろう。

だから、優しさは嘘だ。(P258)

 

いつだって期待して、いつも勘違いして、いつからか希望を持つのはやめた。

だから、いつまでも、優しい女の子は嫌いだ。(P260)

 

「外」に位置している比企谷八幡の距離を見失わせる、由比ヶ浜結衣の優しさは「内」の力学だと言えます。孤独な遠い距離にいる比企谷八幡を「内」に引き寄せようと距離を埋めるのは優しさであり、気遣いだと解釈します。そして、それはアイロニカルな経験則で言えば「嘘」であると。比企谷八幡なりのロジックです。だからこそ「分かってしまう」。経験的に他者を取り払ってしまう。

しかし、由比ヶ浜結衣の真意は分かりません。あくまでも比企谷八幡の主観的な語りによるアイロニーの前景化です。そこに由比ヶ浜結衣は居ません。その意味では彼女の「沈黙と不在」という非対称性のまますれ違ってしまっていることもアイロニカルに切断、脱臼している=「まちがっている」と言えるでしょう。コミュニケーションの「不完全性」による不一致な素直さが、比企谷八幡の経験を補強するようにしてしまうが故に二人の言葉は主観的に距離を宙吊りにして空回ってしまう。

ズレに気付かないのは、由比ヶ浜結衣の優しさの本質が比企谷八幡の主観の範囲外であり、経験にないからです。つまり、解釈と経験が一致しないからこそ非対称的に縺れが生じてしまう。比企谷八幡独我論的な「正しさ」が、過剰に、アイロニカルに自己防衛したところで齟齬は主観的なロジックでしかありません。その「正しき」歪みが「他者」を決めつけてしまう。孤独であるからこその「他者」なき人間理解でしかないことを示しています。

そのまますんなりと前進できない。まるで「変化」を退けるようにして。これまでの反復を浚うように「元来た道へ引き返す。」――アイロニカルな後退でしょう。

相互の距離の差異は、コミュニケーションの「不完全性」による転倒です。主観的には比企谷八幡なりの「正しさ」であり、それが一般的に「正しい」とすることができるかは別の話ですが、思い通りにいかないグロテスクな現実=「他者」としての不一致性に関しては、由比ヶ浜結衣比企谷八幡も共通的です。その解釈に差異と距離がある「ままならなさ」は、「他者」とのコミュニケーションにおける「賭け」の表裏でしょう。「賭け」を通した「交通」は不完全かつ非同期的な「他者」への距離・つながりが立ち上がります。短絡的につながりを持てるように錯覚できる携帯電話よりも生々しい現実的な隔たりがあるからこそ決定的にズレてしまう。「他者」や「現実」を錯覚してしまうからこそ生まれる孤独な理解による隔たりです。

 

 

futbolman.hatenablog.com

futbolman.hatenablog.com

 

サブカルチャー化した文学から呼びかけられている――『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』(2)

青春とは嘘であり、悪である。

 

1巻の冒頭にある比企谷八幡の自覚的なアイロニーは「青春」が醸し出してしまう欺瞞に込められています。「青春フィルター」を介することで、自己陶酔と自己欺瞞を正当化するリア充たちは「嘘であり、悪」であるから「正しく」ないとする。「リア充と非リア」の二項対立的な提示から翻って「青春」を謳歌していない者こそが「正しい」とする論理ですが、このアイロニカルな主張は卑屈な精神性が一人ぼっちゆえに他者との接触を介さないことから決して外に漏れ出ることはないようなものでした。語り手のなかで自己完結している論理とでも言えるでしょうか。そういった精神性がいかに共感、攪乱されていくかを追いかけていくのが比企谷八幡の語りで構成されている『俺ガイル』です。

冒頭の作文は最終巻との対比となっています。その「否定」から「否定を重ねて価値転倒する」までの迂遠な旅路が『俺ガイル』という物語だと整理できるでしょうか。

比企谷八幡の孤独体質の改善が平塚静からの「依頼」であり、受動的に奉仕部に投げ込まれます。

繰り広げられる雪ノ下雪乃とのやり取りは、安易な「部活とラブコメ」への期待を裏返すようなアイロニーと自己言及性であり、まさしくタイトルにあるように「まちがっている」ために成立していきます。美少女との出会いから、テンプレ的な「青春ラブコメ」展開になるかと思いきや「まちがっている」からこそ問屋は卸さない。

しかし、この時点で「青春」に規定され、構成されているとも言えるでしょう。「青春」への期待が自己言及的に空振りし、それ自体も「まちがって」いて「嘘」であるとしても、さきの二項対立を支える構成自体が「青春」というシステムの文脈に依存していることには違いありません。

自己変革を要請する奉仕部に強制的に投げ込まれた主人公ですが、変わることを促されることに対する比企谷八幡の拒絶は、潔癖的にいえば変わることは「逃避」であり「自己否定」であるとします。イマ・ココから過去を切断するかのような自己陶酔めいた自己肯定は「正しくない」とする理由は、まさしく「青春」へのカウンター的に、比企谷八幡にとっては一人ぼっちであるからこそ「個人主義」的に確立した自分のアイデンティティの固有性を疑うことにつながります。短絡的に、あるいは懐古的に過去を切断してイマ・ココを蔑ろにして美化するような「変化」は撥ねつけた「青春フィルター」の欺瞞と重なります。能動的ではなく、他人が要因となる「変化」への抵抗は、主体性の流されやすさとして表れるとして。その受動性は「空気」や「ノリ」、「キャラ」といった同調性、同調圧力的な振る舞いを想起させ、忌避する「青春」という「嘘」に半ば加担するような態度だと理解していると言えます。むしろ現状から粘るようにして踏ん張ることによって、安易な「成長」への意義を唱えることで「変わらなさ」という固有性を確かめていくことが「個人性」の強調となっています。

 

なぜ人はノスタルジーに惹かれるのだろうか。「昔は良かった」とか「古き良き時代」とか「昭和のかほり」とか、とかく過ぎた日ほど肯定的に捉える。

過去を、昔を懐かしみ愛おしく想う。あるいは変わってしまったこと、変えられてしまったことを嘆き悔やむ。

なら、本来的に変化というのは、悲しむべきことなんじゃないだろうか。

成長も進化も変遷も、本当に喜ばしくて正しくて素晴らしいものなのだろうか。

自分が変わらずにいても、世界は、周囲は変わっていく。それに取り残されたくないから必死であとをついていっているだけなんじゃないだろうか。

変わらなければ悲しみは生まれない。たとえ何も生まれなかったとしてもマイナス要素がでないというのは大きなメリットだと思うのだ。収支表を照らし合わせて赤字になってないならそれは経営方針としてはけして間違いではない。

だから俺は変わらないでいることを否定しない。過去の俺も、今の俺も否定する気はさらさらない。

変わるなんてのは結局、現状から逃げるためなんだ。逃げることを逃げないなら変わらないでそこで踏ん張るべきだ。(5巻P134)

 

「変化」自体に疑義を差し込み、「変わらなさ」を固有的な安住とする自己肯定は自己完結的です。 今までが一人ぼっちであり、その「個人主義」が当たり前だったゆえに「孤独」を軽んじる風潮にカウンター的に作用する立ち位置を取っていると言えます。

もちろん、孤高であることを突き詰めた結果とも言えますが、寧ろ突き詰めるしかなかったことが「潔癖的倫理観」を形成していったと推察できますし、その結晶としての比企谷八幡の「個人」的であることのポジティブな心理とネガティブな思考の「語り」が魅力的に記述されています。

そして、その心象的なリアリズムにおける価値転倒が後期の「本物」問題につながっていくのは言うまでもありません。

比企谷八幡雪ノ下雪乃は、「孤独」という共通性がある同じようなベクトルなのに噛み合うことはありません。「持つ者」としての雪ノ下雪乃と「持たぬ者」としての比企谷八幡の図式は、嘘を吐かない潔癖性によって立ち上がり、孤独な者同士がプラス・マイナスのベクトルの出発点の差異・ズレはあったとしても、「孤独と正しさ」という同一性によるフィードバックを経て、個人的な差異を見つけた2人が「交通」=コミュニケーションにある非対称的な「賭け」、つまり「命がけの飛躍」を通じた「選べるようになる」までの不一致的な迂遠さが作品自体の軌道として描くことができるでしょう。

のちにバトル・ロワイアル形式を導入する契機となったのが由比ヶ浜結衣の存在となります。彼女は奉仕部内における「蝶番」として機能していたと言えます。その機能性が潤滑油となっていたと整理することはできるでしょうが、この時点ではスクールカーストの上位に属し、「空気」を読むことで周囲に流されやすい受動的なキャラとして成立しています。「本音」を隠しては「建前」で合わせていく。「空気」に同調して、迎合する様子は「建前」や「キャラ」もある種の「嘘」に映ります。その意味ではコミュニケーション能力の高さとは、その「建前」や「キャラ」を維持する同調性と恒常性の努力にあって、「空気」との緊張関係に他なりません。

他人や「空気」に流されやすい由比ヶ浜結衣には「自分がない」という意味では、「個人主義」的な固有性が揺らいでいて、比企谷八幡雪ノ下雪乃とは異なる存在として登場しました。

 

きっと彼女はコミュニケーション能力が高いのだろう。クラスでも派手なグループに属すほどなのだから単純な容姿の他に協調性も必要とされる。ただ、それは裏を返せば人に迎合することがうまい、つまり、孤独というリスクを背負ってまで自己を貫く勇気に欠けるということでもある。(P106)

 

当たり前のように「空気」を読み、その可視化された中に紛れている「本音と建前」をケース・バイ・ケースに使い分け、的確に、そして当意即妙的に「空気」に対して協調して立ち位置を合わせていくことがコミュニケーションとしての処世術となります。その結果が、スクールカーストにおける「空気」を読んで、合わせていくことで帰属意識と安心を獲得でき、また立ち位置によってはグループ内の潤滑油と緩衝材として機能していきます。

『俺ガイル』では、スクールカースト上位のリア充と下位のオタクたちは意識的に描かれています。前者は葉山隼人たちを捉え、後者は有象無象の一部として時折登場する程度といってもいいでしょう(遊戯部が代表的です)。

上位・下位問わずそれぞれのコミュニティがあり、不干渉によって徹底的に交わらないことが比企谷八幡の視点から見えてきます。どちらにも属していない一人ぼっちであるために「語り手」としての中立性が担保されていると言えるでしょうか。どちらでもない、一人ぼっちであるからこそ距離が等しく生じている。それぞれの島宇宙的なコミュニケーションがあり、孤独な比企谷八幡の視点を通して上位カーストと下位カーストのコミュニティが可視化していきます。そこに直接的な衝突は存在せず、それぞれのコミュニティの中で自己完結して充足している姿が描かれている。そのために中間層(キョロ充)は可視化されることが殆どありません。5巻から6巻にかけて登場する相模南くらいでしょうか。

上位グループ(リア充)と下位グループ(オタク)を描くことで、意図的に中間層(キョロ充)を空洞化している物語構造は、『俺ガイル』という作品が厳密にはスクールカーストの可視化が目的ではないと読めるでしょう。冒頭の作文にあるような「リア充と非リア」や「正義と悪」や「本音と建て前」などといった二項対立的な提示が『俺ガイル』の特徴として挙げられますし、その二項対立を支えている思考・記述の「脱構築」による無化が目的にあるように考えられます。ですから、スクールカーストで言えば二項対立からある意味抜け落ち易い中間層は空洞化=匿名化されることとなります。匿名的な中間層を描かず、正確には描けないからこそ中間層とも呼べるわけですが、「リア充と非リア」の構図の輪郭を強調させる目的があったと言えます。

今となっては「リア充と非リア」という言葉ではなく、「陽キャ」と「陰キャ」に置き換わっています。言わんとすることは「ネアカ」と「ネクラ」とさして差はありません。この大局的な二極化では、「陽キャ」と「陰キャ」のボーダーラインの判定が「白か黒か」に過ぎず、濃淡や中間的な灰色が不可視となります。キョロ充は揶揄的な意味を持っていましたが、これは今では「陰キャ」の文脈にそのまま回収されてしまうでしょう。中間層の可視化を許容しない「白か黒」で塗り潰す判定性は、むしろ中間層、キョロ充を意図的に描かなかった『俺ガイル』が示した予見性のように読めなくもないでしょうが、それよりも単純化した二項対立を提出するための方便・手段だったのが適切ではないでしょうか。単純化した図式を提示し、それを崩す。そうなると、中間層を含めた厳密なスクールカーストを語る必要性が無かったとも言えます。

もちろん、『俺ガイル』が完全にスクールカーストを排除するようにして描いていないわけではありません。そのこと自体に目的を置いていないというだけです。

この作品の持つ「スクールカースト性」は、上位には上位の「空気」や「苦労」があることに尽きるでしょう。上位が作り出す「空気=ノリ」に従属するしかない下位に対する「上からの無自覚な振る舞い」ではなく、上位も「空気」に組み込まれている当然の光景が広がっています。その「空気」から外れている比企谷八幡を語り手に据えることで、客観的に上位グループを炙り出すことに成功しています。

リア充も大変」であることは由比ヶ浜結衣を通して描かれています。まさしく「健全的」な「昼」のように。上位カーストであってもグループ内にグラデーションのように序列は存在しています。友達という存在感が「空気」を醸成しては、無自覚な同調圧力に転換されるシーンも三浦優美子の無邪気な振る舞いを通して描かれています。

「空気」に対して隷属するのは、「みんな」と同じではないと「不安」になるためです。「浮いて」しまうから。そのために「キャラ」を構築し、その手段が「建前」であり、「空気」を読むことは立ち位置を容易に確保するためです。これらの「嘘」で成立しているコミュニケーションは「青春」模様と重なり、比企谷八幡からすれば自己陶酔と自己欺瞞の表象に過ぎません。ですから、反発するようにしてカウンター的に、孤独な「夜」的価値観を通した「正しさ」の確認が、倫理的に「嘘」を許容できない潔癖性として露わになっていると言えるでしょう。

のちに比企谷八幡が属する奉仕部と、葉山隼人らの共同体が抱える問題の「空気」は一見不一致的に映りますが、二項対立の無化から相互に対称的に輪郭を与えていくのが、いわゆる「夜」と「昼」の「健全な文学化」への橋渡しとなっていきます。

正確にはスクールカーストを描くことが目的ではなく、比喩的にいえば、比企谷八幡側の「下から上への目線」と葉山隼人側からの「上から下への目線」といった、結果的に二極的に描くことで、相互の不一致的な関係性や(非)対称性から二項対立を突き動かすことに重点を置かれていました。

1巻で三者三様の出会い方をした奉仕部の彼らは、前期で重要な「交通事故の被害者と犬の飼い主とリムジンに乗用していた加害者」の関係性だったことはこの時点では知りません。

2巻では由比ヶ浜結衣との付き合いにおける構われる理由を探し出して、過剰に「まちがいながら」も「正しく」歪んでしまう比企谷八幡が描かれます。勘違いをして、負け続けてきた経験とプライドの高さから、一時的に由比ヶ浜結衣の優しさを取り違える「まちがい」をしてしまう。「正しい」と認知バイアスに陥りながら、「まちがわない」ようにした結果として「交通」の非対称的な不確定な足場を強調してみせます。このような言葉と態度が厳密に一致できない、非対称的なバランスの上で成立せざるを得ないコミュニケーションの「相対的な不安定さ」から「言葉の貧しさ」=文学化に直面していくことになりますが、その息吹は具体的なコミュニケーションの失敗による「すれ違い」からでしょう。互いにコミュニケーションとディスコミュニケーションの円環にある彼らが、部活動をしていく内に内輪が形成されていきます。その結果として、自立できなくってしまう彼らへの皮肉が後期の問題として浮上していきますが、それは後述していくことになるでしょう。

交通事故の件は『俺ガイル』で重要な意味を反復的に持つことになっていきますが、この時点で既に象徴的なように、比企谷八幡由比ヶ浜結衣とのやり取りが絶妙に噛み合わないような情報レベルの非対称性があります。由比ヶ浜結衣が犬の飼い主であることは当事者の語り手には把握できていなくても、読者だけは二人の「不一致的なコミュニケーション」を眺めることができ、またそれを記述しているが正確に分かっていない語り手と読者との非対称性も見えてきます。

しかし、情報レベルの非対称性だけではありません。

比企谷八幡の卑屈さ、あるいは個人性にある「一人ぼっち」としての個人的な思考の語り(記述)にネタ化も含めた「共感・同期性」が読者との間に生まれます。読者に感情移入を誘発させるようにして。この共感性は、その意味では「友と敵」に分けるような機能を持ちます。明快な敵の存在によって集団が一致団結するという意味では6巻が顕著となりますが、敵を設定した上での党派性に依存した語りは「青春」や「リア充」を糾弾する冒頭のテキストから露わとなっていると言えるでしょう。まさしくテキストをなぞるようにして、非リアの観点から「友と敵」のように二項対立的な党派性を抱かせることで、自然とカウンター的に作用できる立ち位置を確保できることから、「夜」としての共感性を発生させているとも言えます。

 

ただ俺は証明したいだけなのだ。ぼっちは可哀想な奴なんかじゃないと、ぼっちだから人に劣っているわけではないと。

そんなのは俺の独りよがりだとわかっている。(略)

けれど、俺は今の自分を過去の自分を否定しない。一人で過ごした時間を罪だと、一人でいることを悪だと、決して言わない。(P258)

 

一人ぼっちであることから、単なるルサンチマン的図式に持ち込むのではなく、一人でいるからこその自己肯定とする態度には「変化」への拒絶の根源があります。

一人の時間を「罪」だとしてネガティブに扱うのではなく、一人で過ごしてきたからこそ自己と向き合ってきた内省的な矜持やコミットメント(能動性)があり、そのこと自体が軽んじられる風潮や「青春」から恰も零れ落ちるかのような「語り」に対して抵抗していると言えます。

テニス勝負の件でも、比企谷八幡が放った魔球はまさしく孤独であることが強みとなった証明でもあり、一人で過ごしたゆえの可能性を開かせていました。一人でいたからこそ知っている。だからこそ風向きの変化を実感していた。些細な変化でありながら、自然をそのまま甘受する時間の豊穣さは孤独であるからこそ敏感になり得る価値を示したと言えるでしょう。一人でいることは恥ずかしいことでも可哀想なことでもないとするような証明は、一般的な価値転倒を促し、比企谷八幡を通して「一人」でいることをただ肯定する。すると、反動的に「青春」や「リア充」へのカウンターとなるような、懐疑的な価値転倒を起こした当事者である比企谷八幡を媒介とする「共感性」は個々人をつなげる「個人性」の連帯的輪郭を強調させ、読者を没入させていきます。

テニス勝負にも表れていますが、「対青春」「対リア充」という党派性・共感性に支えられた二項対立的表象は、まさに「孤独」であることから「青春」の意味内容を脱臼させることが目的ともいえるでしょう。「夜」からのカウンターとして。それも一面的なものでしかないとするのが『俺ガイル』の作品性ですが。

「青春」を謳歌する者が主役であるならば、主役ではない者の「青春」とはどのようなものか。

というのが『俺ガイル』である、と端的に言えるかもしれませんが、スポットライトを浴びない「夜」(非リア/文学的内面性)に焦点を絞ることは、結果的には作品としてスポットライトを浴びる=主人公・語り手という逆説的表象があり、「夜」の前景化こそが「共感性」と結託することで「内面を語りうる」という素朴な逆転現象、あるいは矛盾があると言えます。その逆説的状態は、後期の内面=文学性と「仮構」した部分性に深く結びついていますが、ここでは比企谷八幡が自覚している部分と自覚しきれない部分に触れざるを得ません。

 

結局のところ、この奉仕部というコミュニティは弱者を搔き集めて、その箱庭の中でゆっくりと微睡んでいるだけのものなんじゃないだろうか。ダメな奴らを集めて仮初めの心地いい空間を与えているだけなんじゃないだろうか。

それは俺が嫌悪した「青春」と何が違うのか。(P228)

 

 

誰かの顔色を窺って、ご機嫌をとって、連絡を欠かさず、話を合わせて、それでようやく繋ぎとめられる友情など、そんなものは友情じゃない。その煩わしい過程を青春と呼ぶのなら俺はそんなものはいらない。

ゆるいコミュニティで楽しそうに振る舞うなど自己満足となんら変わらない。そんなものは欺瞞だ。唾棄すべき悪だ。(P233)

 

現状の自分自身が置かれている「仮構」された箱庭への疑問が投げかけられています。ここで半ば自己嫌悪が露わになっている潔癖的倫理は、「青春」という免罪符を抱えている欺瞞とさして箱庭的には変わらないことに対する危機感や不安を過剰に察知していますが、それらが「嘘」で「正しくない」とするのは物語的には「正しい」と言えるでしょう。

自己満足であり、欺瞞である「仮構」された箱庭に警鐘を鳴らしていたはずの自分自身が既に取り込まれていること自体の欺瞞にも語り手である比企谷八幡は認識しています。その意味ではメタ認知的でありますが、比企谷八幡が認識する以前から読者との非対称性はやはり存在していて、既に箱庭における「青春ラブコメ」的ではありました。語り手の比企谷八幡にとっては「青春ラブコメ」の文脈から梯子を外されている(「まちがっている」)ために正確に認識し切れていませんが、例えば雪ノ下雪乃由比ヶ浜結衣の仲を「友達」として承認するシーンは、女の子同士のラブコメ展開に対して比企谷八幡は「外」から眺めていることしかできません。語り手の男性をそっちのけで、ラブコメの輪に入れないといった「青春ラブコメはまちがっている」というタイトルの意味通りの展開が繰り広げられますが、メタ的にみれば語り手自体が「ラブコメを外す」文脈に構成されているからこそ、それすらも既に「まちがってい」ながらも「青春ラブコメ」的であったと言える。

このような読者と比企谷八幡との「共感性」から距離を置いた、語り手としての認識の不一致性には、「青春」というスケールの理解が絡んでいきます。「青春」を撥ねつけても、それすらも既に「青春」的に映ってしまうジレンマとして、あるいは「まちがっている」とするにしても忌避している「青春」の中に構成されていないといけません。「対青春」「対リア充」から出発しているカウンター的二項対立は「友と敵」のような党派性の精神性を持ちながらも、そのことを語ること自体が「青春」という文脈に依存している/しなければならない衝突があります。そのジレンマは「青春」というスケール/フレームのなかで構成されるものでしかなく、「青春のエコシステム」といった一元論に回収/還元されてしまうと言えるでしょう。だからこそ「共感性」を生み出すことができます。

1巻の第8章からは「青春フィルター」への嫌悪が語られています。「青春フィルター」を通した美化は欺瞞であり、自己陶酔的であるとする一方で、一人の時間は楽しいという実感が単なるルサンチマン的な構図に引き摺られないまま二項対立的に成立していますが、ナルシズムの問題が浮上してきます。

「青春フィルター」との党派的精神性を抱えているだけで、孤独の証明ということすらもある種の美化であり、リアリズムだとしても、どちらにも無自覚的な自己満足かつ自己陶酔があるのは変わらないのではないでしょうか。この矛盾、ジレンマは自意識過剰の産物でありながらも、自己を正当化する理論が対立軸に引っ張られる形で成立しているために無自覚的なナルシズムという共通性を覆い隠すようなものです。端的にいって欺瞞でしょう。「嘘」は「正しくない」とする潔癖的倫理観の発露は「正しくあろう」とする自分という価値基準の前面化、その語りでしたが、正当化するための党派的なロジックに潜む自己欺瞞にはバイアス的に「正しく」応答できない矛盾があると言えます。

本来的には、語りという手段が目的性に固定されて価値転倒してしまったとも整理することはできるでしょう。結果として、潔癖的に「正しくあろう」とする自意識の肥大化がそのまま視界を狭くしたことになります。

もちろん、比企谷八幡自身がナルシズムへの疑いは持っていることは見逃せません。ルサンチマンとして、「夜」の青春としての肯定を正当化する背景には、そういった「青春」もあってもいいのではないか、とする「青春」における語り残しといったある種の暴力性の告発であり、薔薇色ではなくとも灰色としての「青春」もあっていいとする語りです。モノクロームに苦悩していることさえも「青春フィルター」を通して美化されるかもしれなくとも、「青春」というスケールには自己陶酔(ナルシズム)と懐疑的な目線を投げかけるべく欺瞞への不安が付き纏う。その疑いから、自己意識的に離れることができないのが比企谷八幡の倫理的潔癖性という語りです。

1巻最後にはタイトル回収――やはり俺の青春ラブコメはまちがっている――が記されています。ある意味では、語り手自身がメタ視点を獲得したかのような錯覚を抱かせるでしょう。

比企谷八幡自身が置かれている境遇、環境(箱庭)への懐疑的視線を投げかけながらも、「青春」から逸脱していること自体が持つであろう「まちがっている」感覚は、タイトル的な意味では「まちがっている」ことこそが「正しい」と言わざるを得ません。

重要であるのは「青春ラブコメ」が「まちがっている」ことです。「青春」が「まちがっている」わけではありません。

まさしく「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている」にあるように「やはり」に込められているのはアイロニカルな「持たぬ者」としての自覚的な感慨になるでしょうが、「まちがっている」は「青春ラブコメ」の脱臼に相当します。

もちろん、その逸脱さえも「青春ラブコメ」的となり得る。「青春ラブコメ」の典型から外れるような「まちがっている」部分さえも全体として動的に引き込まれていくように。さきの「青春のエコシステム」の動的な一元論的再帰性をイメージしてもらえれば分かり易いでしょうが、比企谷八幡がタイトル回収をしてメタ視点を獲得したかのようにタイトル的に自覚したように見えても(もちろん錯覚ですが)、その振る舞いが「青春ラブコメ」を脱臼したとて無自覚的にも「青春」的に映ってしまいます。

比企谷八幡の「青春」理解は一面的なものに過ぎません。対象は「リア充」とひどく限定的なものです。自分自身はもちろん、想定している範囲が狭い。この狭さはリア充のハードルの高さを意味しているかもしれませんが、重要なのは「青春」はリア充の特権であるかのような一面的理解は「昼」の産物であり、「夜」的に内面を引き受けている語り手が逆照射して「昼」を引き立てているような錯覚を抱かせることです。

二項対立的な語りから、彼岸が相対化していくことで「夜」としてのある種の卑小性が肥大化していくのはルサンチマン的でもありますが、「青春」が「まちがっている」わけではないとしたのは、このような一面的理解を破壊するためであり、「夜」も「青春」に内包される事実を見過ごしているからでしょう。

「夜」であるからこそ逆説的に語り手として焦点が絞られている矛盾はさきに記した通りですが、比企谷八幡が置かれている「青春ラブコメ」が脱臼して「まちがっている」ように自覚しても、その理解はやはり一面的であり、「夜」も「青春」となる。そのこと自体が持つ「共感性」には自覚していません。一人ぼっちゆえの一面的な理解と言わざるを得ないでしょう。そういう意味では「青春」というのを最も絶対化、美化しているのは比企谷八幡という語り手かもしれない、と言えるでしょうし、「まちがっている」ことも含めた半ば自覚的な認識が物語化に内包されたまま「青春」という語り(ナラティブ)に見事に回収されているからこそ、比企谷八幡を通した非対称性にある距離感を生み出す「青春」へのアイロニーを受け取れる構造となっているのは見過ごせません。

 

futbolman.hatenablog.com

futbolman.hatenablog.com