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『夜、僕らは輪になって歩く』感想 アイデンティティの獲得と喪失

やるせない読後感。胸のざわめきが止まらなかった。暗澹たる気持ちが瞬間的に覆い尽くすような読書体験。心を奪われてしまった。

青年「たち」が傷付くロード・ノヴェル。本格ミステリよりも、広義のミステリに属するだろうか。あくまでもミステリ的要素は物語の牽引力の一部であり、主題には置かれていない。

本記事は文学的なテーマを掘り下げながら、ミステリとしての要素も掬い上げる意図で書かれています。

 

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内容紹介:伝説の小劇団の公演旅行は、小さな噓をきっかけに思わぬ悲劇を生む――。内戦終結後、出所した劇作家を迎えて十数年ぶりに再結成された小劇団は、山あいの町をまわる公演旅行に出発する。しかし、役者たちの胸にくすぶる失われた家族、叶わぬ夢、愛しい人をめぐる痛みの記憶は、小さな噓をきっかけにして、波紋が広がるように彼らの人生を狂わせ、次第に追いつめていく――。ペルー系の俊英が放つ話題作。

 主人公ネルソンを描いた三人称視点の物語と考えていると足元を掬われる。

小説としての構成は、ネルソンの軌跡を追う謎の人物が語り手となり、ネルソンに纏わる友人や知人たちにインタビューをして聴き手に徹することで、ネルソンを記したものである。

『語り手=聴き手=「僕」』の構成で、ネルソンの過去のエピソードと「僕」が聴き手となるインタビュー・パートが混在しているが、文章が澱みなく整理が行き届いているので、見事なまでにパラレルに描かれている(正確には「僕」によって記されている)。スマートな訳文なので全く読書の邪魔にならず、スルリと入ってくるような文章を構築した訳者の技術が光っている証だ。

しかし、当然のように浮かぶ疑問がある。

この「僕」は何者なのか?何故そのようなことをやっているのか?

これがミステリとして魅力的な謎のように物語に落とし込まれている。しかし、本書の本質性は前述のようにそこに据えられていない。

 

honyakumystery.jp

川出正樹氏の書評

(中略)些細な嘘が誘因となって思いもよらぬ展開をみせるストーリーが推進力となり、冒頭から臭わされる悲劇的な結末に対する興味と、語り手を務める「僕」が誰なのかという謎が牽引力となり、読み終わるのが惜しいと思いつつ、一気にページを繰ってしまった。「劇の世界に入り込み、自分の人生から逃れる」ことを求めた者たちの織り成す、愛と死と謎が絡み合った物語を、ぜひ味わってみて欲しい。

 

川出氏の表現を借りれば

>「劇の世界に入り込む」

ための「演技」が本書では重要性を帯びている。ネルソンは未来を夢見る役者の一人として、優しい嘘を吐く。それがキッカケとなって、物語が持つ不穏な空気感は加速していく。

ネルソンをはじめとする彼らは生きる「現実」と優しい嘘によって築かれた「虚構の空間」を同時に行き交うことになる。現実の延長上にあるはずの「虚構」が生活を侵食していく。そこでのバランス感覚に悩まされるのがネルソンという青年である。

 

この世は舞台、人はみな役者だ

シェイクスピア『お気に召すまま』より

 かのシェイクスピアの言葉であるが、ネルソンも「僕」もある役を演じている。

ネルソンは自覚的に、「僕」は無自覚的に。この齟齬が物語としての切なさを増すエッセンスとなっている。それについては後述。

 

本書はアイデンティティの獲得と喪失』の物語である。

ラストでネルソンは言う。「誰が奪ってきたのか、誰が奪われてきたのか、ここではっきりさせておこうじゃないか」

奪われたのは時間や機会であり、それは未来そのものを指す。

人は少年から青年へと成長していく。可能性として拓かれた道が徐々に削り取られて行くように、年齢を重ねるほどに幼さ、あどけなさ、全能感からくる根拠のない自信・勘違いといった若さの象徴が、経験を積む過程で狡猾さへと形を変えていく。時に壁にぶつかる。

そして、現状の己では越えられない壁と向かい合う時が訪れる。誰かしらは諦め、期待を託すようになる。そのような青春における区切りを端的に表現したものとして、米澤穂信の『クドリャフカの順番』がある。

「自分に自信があるときは、期待なんて言葉を出しちゃいけない。期待っていうのは、諦めから出る言葉なんだよ」

 可能性が閉じていく過程で、アイデンティティと将来の自分を結ぶ線が断絶される時の絶望に身を打ちひしがれることは避けられない。将来のビジョンを描き、「自分らしさ」の模索に対する答えを期待していたものが、いつしか諦めに変貌していく虚脱感。いつまでも諦めと後悔は付いて回る。そういった妥協や挫折を繰り返し、「自己」を見つめていくものである。

結局僕らはさ 何者になるのかな

迷い犬みたいでいた 階段の途中で

(略)

大根役者でいいとして 台本通り踊れなくて

ただまっすぐ段を登っていけ わかっちゃいたって待ちぼうけ

みっともないと笑ってくれ 僕に名前をつけてくれ

 中田ヤスタカ(feat.米津玄師)NANIMONO

 

 作中で「僕」の聞き込みによって他人の評価から蓄積されていくネルソン像。

三者としての視点を持ち合わせながら、「僕」は伝聞情報を基にネルソンという個を確立していく。聴き手に徹した「僕」という視点を介在して、膨大なインタビューから得た各自のネルソン像を集合させて結び、最終的にはインタラクティブに纏め上げるビジョンであったのだろう。

しかし、本当に――

ネルソンとは何者なのだろうか?

「現実」と「虚構」を行き交うように演じることで、役者ネルソン自身の主体性が奪われていく。

そこで登場した「僕」という存在。

語り手=聴き手がネルソンを知って記すことで、確かなネルソンという存在の客観性は培われたように思えるが、アイデンティティとしての主体性を奪ってしまう。

「僕」が記したネルソンの物語は確かにネルソンの話であるが、そこに主体としてのネルソンは存在しない。ネルソンは居ないのである。

それらは全て友人や知人、つまり他者からの評価であり、それ以上の域を出ないものである。その情報に挿入される必然性があるネルソン自身の自己評価の欠落は見逃せず、ネルソンを形作るものが他者の憶測・推定によって決定される。外部によってネルソンという個が偶像化されていく気味の悪さ。居心地の悪さを覚えてしまうのは不自然だろうか。

自分がネルソンの立場だと仮定して想像して欲しい。他人の想像力によって描かれた自己像。これが底知れぬ善意で作られていることにどうしても悲劇性を感じてしまう。

果たして、そこにネルソンは居るのだろうか?

作中でとある人物がネルソンを以下のように評する。

「ネルソンは複雑すぎた」

捉え所のある/複雑ではない人間なんているのだろうか。人は容易に理解するために安易にレッテルを貼る。自分の管理できる棚にパッケージ化しないと不安が増すからだ。分からないことが恐いために、自分が分かる範囲で安心したいからだ。

それでも、他人を理解したい欲求を常に持ちつつ、永遠に他人の全てを理解できないという諦観はセットで付き纏う。だからこそ、人は知りたいと願うものであるが。

 

 

サカナクションの『アイデンティティ』の歌詞の一部はこのように綴られている。

好きな服はなんですか?

好きな本は? 好きな食べ物は何?

そう そんな物差しを持ち合わせてる

僕は凡人だ

映し鏡 ショーウインドー

隣の人と自分を見比べる

そう それが真っ当と思い込んで生きてた

どうして 今になって 今になって

そう僕は考えたんだろう?

どうして まだ見えない

自分らしさってやつに 朝は来るのか?

アイデンティティがない

生まれない らららら

アイデンティティがない

生まれない らららら

 

 アイデンティティを図る物差しとしての他人との比較がある。他人との違いこそが個性の確立だと信じてやまないように。その人を見極める様にありきたりな質問と返し。

サカナクションはその尺度を「凡人」と切り捨てる。誰もが没個性の山から抜け出したい。埋もれていたくないから。自分は自分であると。特別でありたいと。他人との比較を止めて自分だけを見て欲しいと願いながらも、自己の客観性の中に他者との対比は常に置かれている。

そんな意識に捉われず、自由に解放されたい意思と何処かで安心したいために付き纏う比較論。

それが普通である。

サカナクションは「それが真っ当と思い込んで生きてた」と歌う。

しかし、それは「凡人」だと。特別を信じながらも、まだ自分は没個性の山の上に立っていただけだと気付かされる。だからこそ「自分らしさってやつに朝は来るのか?」と投げかける。

 

 

 

タイトルの『夜、僕らは輪になって歩く』は味わい深い素敵なタイトルだ。

「輪」は円環である。作中では堂々巡りのように「輪」が出現する。

ネルソンは地元の土着性から解放されるように旅に出る。新しい人々との繋がりは「点」となる。それは絆となり「線」になっていく。新たな「輪」が生まれ、閉じられた「輪」になる。

「輪」の中心にあるものは何なのだろうか?

本書でいえばネルソンなのだが、違うかもしれないと思わせる。これが読後感のざわめきに繋がっていく。

人の一生は歩き回る影法師、哀れな役者にすぎない。 シェイクスピア

 各々がネルソンに関するエピソードを回想しながら、第三者である「僕」が纏め上げることで客観的な事実が読者に与えられる。それが疑問として常に浮かび上がらせる。

ネルソンとは?

 

トマス・ア・ケンピス「imitatio Christi」

「キリストの模倣」を意味するラテン語である。

イミテーションは、今では紛い物という悪い意味が目立つようになってしまった。本来は対象への「憧れ」の気持ちから発生し、行為に移した結果であるから、言葉の原点としてはポジティブな意味であった。倣いは習いに通じる。「まなび」は「まねび」から始まる。(朝日新聞より一部引用)

 「僕」はネルソンを知る=「学ぶ」ために、彼の人生に関わってきた人、軌跡をトレースした。倣うことで習う精神から、ネルソンの道筋を辿る「僕」は探偵役そのものといっていいだろう。謎が蠢く無秩序な世界に、探偵役が謎を解くことで秩序とカタルシスを獲得する。

本書ではネルソンが謎そのものである。

「僕」はネルソンのアイデンティティを求めながら、それを奪っていたという事実と直面する。さもネルソンの道なりを辿れば構築できるという驕りが、実像を無視した虚像を生み出すように。作中において「僕」には様々な人たちから直接的な批判が浴びせられる。プライバシーの領域を穢したために。

それだけではない。作者のダニエル・アラルコンが間接的に描いた「探偵批判」が小説的に暗い影を落とす。「僕」の行いを「探偵的」にすることで、「僕」という存在に疑問を投げかける。

ネルソンという「人間」を記録しようとしたものの、ネルソン自身の部分が欠落していたために。

語り手=聴き手=「僕」という存在の立場の危うさが、物語の不安定さに直結しているので、ラストのネルソンの台詞がどうしようもないくらいに響く。

「誰が奪ってきたのか、誰が奪われてきたのか、ここではっきりさせておこうじゃないか」

 獲得しようと目論んでいたものが、手からするりと落ちていった喪失感では決してない。

「僕」が手を伸ばして掘ってきたところには、畑違いであって元々無かったのである。そのような虚無感である。

「僕」はネルソンとの対話前に予感している。

僕はこれが一度きりのチャンスであり、自分が二度と戻ってくることはないと知っていた。

最初に読んだ際には機会の喪失からくる予感とも受け取れた。違和感が無かったからだ。

しかし、読み終えた後には、お互いに「演じてきた」役柄の齟齬が生じる崩壊の予感だと受け取れる。それ以外の意味を跳ね付けてしまう強い負の予感。

どうしようもないほど切ない本書を〝傑作〟と賞したい。

この世は一つの世界だよグラシアーノ、誰もが自分の役をこなさなきゃならない舞台なのさ。僕のは悲しい役だよ

シェイクスピアヴェニスの商人