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船と舟 

「船」と「舟」は違う。

日本語を普段使っている人、日本語を勉強中の人ならば、漢字の厳密な定義、包括的概念を知らなくてもニュアンスで使い分けが出来ている人が殆どだろう。そこには無意識的な判別があると思う。

英語における「ship」と「boat」も同じように。

ガチガチの定義を知らなくても平然と使い分けている人が大半で、恐らくタイタニック号やヴィルヘルム・グストロフ号を「boat」、「舟」とはあまり表記しないと思う。

言葉には、同じ意味なのに同じようなニュアンスを持つ言葉が有数的にある。

「街」と「町」と「まち」や英単語帳を開けば同じ意味なのにめっちゃ列挙されていることも珍しくない。

言葉の使い分けには作用と空間が関係している。

それを明らかにしていこうとなんてことは出来ません。

 

 ある日、知り合いと「船」と「舟」の違いについて話すことがあった。

怠惰な私たちは、目の前にインターネットにアクセスできる電子機器を持っているのに調べることなく「ああだこうだ」を交わしたわけだが。

使い分けのニュアンスとしては「サイズ感」が妥当で、「積荷量の比較」も含まれているという仮説を立てた。

「船」といえば渡哲也主演『マグロ』の漁船だし、「舟」といったら森鴎外高瀬舟』。『高瀬舟』は刑法学的な教科書なので読みましょう。

そういえば、『サザエさん』の磯野フネは漢字を充てるとしたら「船」と「舟」どちらなのか。個人的にはフネは人間的な器量が狭いので「舟」であって欲しいところだが。

「ああだこうだ」している間にググれば終わる話なんだけども、厳密な答えが欲しい会話と別にどうでもいい会話があるとするなら、後者にあたるわけで。

 

そこでふと思った。

 

 雲もない月明かりの夜。

 満月が湖に映し出され、湖面は穏やかに夜の孤独を包んでいる。
 湖畔荘に遊びに来た男女の二人組は、その湖にひっそりとボートを浮かべて蜜月な時間を過ごしていた。
「疲れちゃった」
 水面は揺れなかった。彼女が零した言葉は音を立てることなく湖に溶けた。何もかも受け容れてくれそうなくらいに静かに優しく沈んだ。
「そうだね。疲れたな」
 二人はひっそりと手を繋いだ。暗闇に抱かれながら最後の温もりに触れている。

 

 

みたいな場面があったとする。

文中では「ボート」を使用したが、言葉の対応関係でいえば「舟」になるだろう。でも、めちゃくちゃ重くない?積荷量的には「舟」では沈む重さでしょ?。

かといって「船」を使うのもという難しさ。

ちなみに元ネタは中原中也『湖上』。湖の畔をカップルで散歩をする予定がある人は、諳んじるようにしときましょう。モテます。

 

ポッカリ月が出ましたら、

舟を浮べて出掛けませう。

波はヒタヒタ打つでせう、

風も少しはあるでせう。

 

沖に出たらば暗いでせう、

櫂から滴垂る水の音は

昵懇しいものに聞こえませう、

――あなたの言葉の杜切れ間を。

 

月は聴き耳立てるでせう、

すこしは降りても来るでせう、

われら接唇する時に

月は頭上にあるでせう。

 

あなたはなほも、語るでせう、

よしないことや拗言や、

洩らさず私は聴くでせう、

――けれど漕ぐ手はやめないで。

 

ポッカリ月が出ましたら、

舟を浮べて出掛けませう、

波はヒタヒタ打つでせう、

風も少しはあるでせう。

 

 

 

「船」と「舟」と「boat」と「ship」がそれぞれがセットで対応しているように思うが、実際に細かいところを掘っていけば、日本語と英語の差異から包括的なニュアンスが微妙にズレているのもあるだろうと仮説を立てた。

言語の対応関係というのは大変なもので。

例えば、名作と呼ばれる海外文学には先人たちによる古典訳があって、新訳が次々と出版されている。同一の書であるが、様々な出版社からバラエティ豊かな訳文が繰り出されているので、ストーリーは同じでも文章から受けるニュアンスやイメージが異なることがある。だから読み比べは楽しい。

基本的に古典訳は文章が硬質的で、新訳は読み易さがある。リーダビリティを優先しすぎると原文から離れてしまうジレンマもある。原文と寄り添いながら読み易さを作り上げるか、原文の在り方そのままを汲むようにすると現代的にはピンとこない可能性もある(原文を読め馬鹿野郎)。

このような日本語としての硬質さは、(現代の)日常的な文章との乖離が要因だろう。

かといって、文学の文章が全て硬い云々とかではなくて、そこには書き手としてのテクニックがあるから、簡単に言語間の相違/ズレのように区別が出来ないのは大前提として、そもそもフィクションに身を没頭することは非日常性を楽しむためである。

 

北村薫「小説が書かれ読まれるのは、人生がただ一度であることへの抗議からだと思います」

 小説は世界で一番手軽な旅行という言葉もある。

非日常的表現、絵空事だからこそ表現できるリアリティもある。リアリティと日常性は違う。

d.hatena.ne.jp

いわゆる「日常の中の日常」と「非日常の中の日常」がこれに当たる。「○○の中の"日常"」である。最終的には日常なのが重要だ。「リアリティ」と聞くと、非日常の時点でリアリティが無いのではないかと思うかもしれないが、そうではない。

(中略)

リアリティが生む効果は「感情移入の強化」に尽きる。感情移入は共感と一貫性によってもたらされるものである。そのため、現実と近いリアリティを持つ「演劇」の方法論は感情移入を猛烈に促進するのだ。また、ご都合主義が無いため途中で感情移入が醒めることも防いでいる。

 

日常的に触れるかどうか。機会の創出は大事だろう。先ず打率を語るよりも、バッターボックスに立つ回数を優先すべきだろう。

偉そうなことを書いているが、翻訳センスがからっきしである。日本語ですらままならない。

原文を読めばいい話。そのために勉強すればいい話。バッターボックスに立つためにバットを振るべきなんだろう。

でも、そこまでやる人間がどれだけいるのか?

紙幅が尽きそうなので、次には統計学的に炙り出したいと思います。

 

 

ググった。

「船」と「舟」の違い | 違いがわかる事典

shipとboatの違い | 違いがわかると英語がわかる

ふと、三浦しをん舟を編む』を思い出した。映画も観た。宮崎あおいさん、ご結婚おめでとうございます。

 

舟を編む (光文社文庫)

舟を編む (光文社文庫)

 

 

ザックリ言うと辞書作りの話である。広大な言葉の海に身を投じる主人公たち。

爆破シーンがあるわけでもない。速度が50マイル以下になるとバスが爆発するようなシーンがあるわけでもない。淡々と言葉を拾い集めるシーンが続く。昔から存在している言葉と現代的な言葉(マジ卍など)を精査し、時代を結ぶのが辞書を作るということである。

地道な辞書作りのスケール感は「船」そのものである。

しかし、「舟」でいい。

このピタリ感が面白いと思った。こんなこと書いてなきゃ気付かないこともある。