おおたまラジオ

しまいには世の中が真っ赤になった。

オーストラリアの教育的価値観とスポーツの精神性からみるアイデンティティ

 

 

オーストラリアの教育活動とスポーツは日本と異なる。両国の教育政策やクラブ活動の違いは明らかであるが、精神性や効率性から違うように思える。

日本では皆が同じことを行い、足並みを揃えることを繰り返し教えられる。

そうやってTPOに合わせたモラルやマナー、そして日本人気質の代名詞である協調性が育まれるが、同時に協調性の押し付けになっているのは否めないかもしれない。

全員参加主義の協調性を強いる習慣は、異分子に敏感になってしまう反応が孕んでいる。だからこそ「横並び」や「出る杭は打たれる」という言葉があるのだろう。

本の学校教育は、集団的に仕立て上げて逸脱することを良しとせず、効率性を上げる教育方法が採られているからであるが、オーストラリアの学校教育は、教育を通して自分の意思で責任を持ちながら、独立した行動がとれる訓練を行っている。人と同じ選択をしないことに自信を持たせることを学校的に取り組んでいる。

それは、集団行動を採らずに自信を育てるのが学校の役目であるからという教育観が表れている。

オーストラリアの多文化主義には、英語を国語とする事、民主主義を尊重する事、他者が自らの言語や文化を維持する権利を尊重する事といったのが前提としてあり、多文化・多言語状況について、そのような差異に配慮した教育が必要となるので、文化・言語の多様性は、子どもたちの学校教育に格差を引き起こすものとなっている。

1999年、21世紀に向けた学校教育の新たな指針の「アデレード宣言」が発表された。その中で「自信、楽観的な考え方、高い自尊心を持ち続ける素質を持ち、家族、コミュニティの、仕事の同僚の一員として、彼(女)らの生活の潜在的な役割の基礎としての個人的な卓越性に関与する」という条文があり、楽観的な思考という概念にこそ、オーストラリアの教育観そのものであるだろう。

子どものころから先生に対して質問を積極的に行うことが求められ、先ずは自分で考えることが必要である。その考えが他の子と違っていても、不安がらないように自分自身に自信を持つような教育が施されているようで、頭ごなしに同一方向に目を向ける日本とは違うのは明らかである。 

オーストラリアの教育活動で目を惹くのがベンチマークの開発である。

ベンチマークとは「読み」、「書き」、「ニューメラシー」の分野で最低限習得されるべき目安を指し、ベンチマークをもとにテストが作成される。各州独自の統一テストの結果が集計されて、データとして毎年公表されることから、学力格差が明確となる。その点で、一般的な傾向として女子は男子よりも高く、先住民は全体の平均を下回っているとのこと。

また、公立学校、私立学校の格差よりも、都市部と僻地の学力格差がはっきりしており、ベンチマークといった基準を設けることで格差を生み出すことになってしまうが、文化や社会経済的な側面といった地域の多様性に配慮した教育活動が推奨されていることの到達点は統一的であるからこそ、プロセスは多様的であるといえる。格差是正のためによりニーズに合わせた教育が現場でより求められていくのが課題であるが、子どもの自尊心や個性を大切にするオーストラリアの教育観は素晴らしいと思う。

しかし、格差の表れだろうか。徐々に社会的な移り変わりがあるとエディー・ジョーンズが指摘している。その件に入る前にオーストラリア人とスポーツについて触れなければならない。

オーストラリアの10代のスポーツ参加が盛んで、生活の一部になっている。クラブ活動が日常化しているので、プレーするのも観戦するのも含めてスポーツは欠かせない。そもそも、組織化されたスポーツはオーストラリア植民地の人々にとって受け入れられた歴史的な土壌があるのが契機となっている。スポーツが社会的な価値を実現していく重要なもので、それを発展させていく貢献者であった。

スポーツによって人格を形成して、地域社会も作る。

その結果、男らしさを育む。この男らしさというのは、字義通りよりも「正直で忠実愛国的な性格」を指す。

オーストラリア人には、スポーツはこのような性格形成に繋がると受け入れ、世間に浸透した。

W.H.バンディーの論理に「スポーツは新鮮で純粋な空気のもとでなされ、自然と手足を動かすから、強い身体を作ったり、健康を保持するためによい」があり、健全な肉体と精神のバランスが取れる上で、競技中では選手たちは平等であるから、スポーツは民主主義を発展させて、社会的なコミュニティに繋がるきっかけとなった。 

また、バンディーによれば、「スポーツの理解なくして誰も仲間を理解できない。欲求・楽しみ・味・考え・仲間意識といったことをほとんど知らなかったり、あるいはそれに共感しない人間は、必要な人間の心を汲み取ることができない。また与えられた課題に対してその技術が有用であったとしても、みんなともっと共感してやっていた人ほどは効果を発揮しないし、地域社会への奉仕もすることができない」として、結果的にオーストラリアにおけるスポーツ貢献は、国際的名声を高め、ナショナリズムの形成の助けに繋がったとされている。

オーストラリア人とスポーツの関係性について、ドナルド・ホーンは「多くのオーストラリア人にとってはスポーツが命で、その他のことは影だ」と評し、歴史学者のゴードン・グリーンウッドは「スポーツに情熱を傾けてきたために、オーストラリアは他の国よりも階級問題の悩みを導いてしまうような政治的激しさや、宗教的に狂ってしまうような熱情を使い果たしてしまった」と記しているように、スポーツがオーストラリア人を作ったといっても過言ではないかもしれない。

これほどまでにオーストラリアの地でスポーツが流行った理由として、初期の移住者がスポーツに親しんでいる英国から来たということ、恵まれた気候、オーストラリア人の競争性と献身性、レジャーとの密接な関わりが挙げられる。

その他にも、そもそもなぜ人がスポーツをするのか?ということに理論化したものが5つある。

エネルギーや精力をスポーツで費やすための余剰エネルギー理論、仕事後にくつろいだり、充電するための休憩時間が必要というくつろぎ理論、悩みをスポーツで晴らすカタルシス理論、成就したい願いが上手くいかない場合にスポーツを通じて代替的機能が働く代償理論、仕事もレジャーも人々は同じようにやる職務普遍化理論があるが、これらを前提として、スポーツは興奮と自分自身を曝け出すもので、選手や観戦者に満足感を与えるとともに、社会的な利益も与える。

複雑な日常性と違って、勝者・敗者とはっきり分かれる競争性に自分自身を没頭させることは、自己表現であり、自己破壊の代物ともいえるだろう。

そのスポーツが持つ固有の精神性が、オーストラリア人の気質に嵌ったからこその国際的な評価に繋がったのだと思う。

しかし、シドニー五輪が終わってから、勝利へのこだわりが無くなったとエディー・ジョーンズは語る。

日本の運動会で手を繋いで仲良くゴールする競争を排除するような運動があったが、オーストラリアでも同様なことが起きているとのことで、社会の空気がスポーツに反映されていると警鐘を鳴らしている。

競争やプロセスにおける格差を良しとして楽観的で自尊心や個性を育む精神性が特徴的だったオーストラリアにおいても、競争を無くそうとする社会の流れが事実としてあることに愕然とした。

スポーツ、レクリエーションとは、人間がクリエイティブになるために必要な活動で、上記カタルシス理論や代償理論などから、スポーツを通じてストレスを軽減するので人間はまたクリエイティブになる。

クリエイティビティの違いは、先天的な個人の資質や能力だけではなく、後天的とも取れる教育システムの財産が反映され、それは自分に自信を持ち、自分の意見を持って他者に伝えることを重点的としたプログラムによるものである。それはオーストラリアの教育活動の賜物だろう。

スポーツに狂うオーストラリア人としてのアイデンティティ、国民的なスポーツの定着度と参加度、レジャーにおける楽しさ、多様的価値観などの土壌があったからこそ、オーストラリアのスポーツの国際的な名声や地位を築きあげた。

そこにはスポーツ特有の平等性、競争性があり、植民地といった歴史的経緯があったからだろう。

競争のあるスポーツが、民主主義的にも社会的にもオーストラリア人的価値観を作り上げて肯定したのではないだろうか。

その競争性を排除する社会の流れは、時代の変化と言われてしまえば納得するしかないだろうが、教育的に、スポーツ的に形成されたオーストラリア人のアイデンティティはどうなるのだろう。

競争をなくした目の前の善意や優しさを肯定することによって、将来的にオーストラリア人に何を齎すのだろうか。歴史的価値観の変化が及ぼす影響は計り知れない。

 

 

参考文献

 

G.R.パビア(1983年)『スポーツの楽しさとは何か―オーストラリア人の生き方との関係から』(大橋美勝訳)道和書院

生島淳(2015年)『ラグビー日本代表ヘッドコーチ エディー・ジョーンズとの対話 コーチングとは「信じること」』文藝春秋

佐藤真知子(1989年)『号令のない学校―オーストラリアの教育感覚』学陽書房

佐藤博志(2007年)『オーストラリア教育改革に学ぶ―学校変革プランの方法と実際』学文社

文部省(1996年)『諸外国の学校教育 アジア・オセアニア・アフリカ編』大蔵省印刷局