ゲーム実況動画視聴童貞が何故ゲーム実況が賑わっているかを考える
私はゲーム実況動画を観たことがない。
恥の多い生涯を送ってた私*1としては細やかな自慢である。
友人の一人が、休日は飲みながらゲーム実況動画を観て過ごしていると酒の席で零して衝撃を受けた。
お笑い芸人のヒロシのキャンプ動画をオススメされたこともあって、記憶の片隅に追いやられていたが、最近思い出した。
キャンプ芸人といえば、バイきんぐの西村瑞樹さんである。
ようやくバラエティでも特異な存在として認知され、出番が増えている西村さんがポップスターとしての階段を登っている。テレ朝の『陸海空 地球征服するなんて』は出色の出来である。
ちなみに、西村さん関連の零れ話が聴けるのは『オードリーのANN』。
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ゲーム実況動画自体はニコニコ動画やニコ生から展開されていったというのは記憶にある程度であるが、何故ここまで市場開拓されているのか?という疑問が生まれた。ヒロシのキャンプ動画を観ている時に。
この記事は、西村瑞樹さんの魅力をたっぷり語るのを我慢しながらゲーム実況動画視聴童貞が考えるだけのものです。真偽は置いとく。
自分なりにゲーム配信と実況性の相関性を分析した結果、6つの要素に分けられるという考えに至った。
- 1 生配信、動画編集と形態は問わず配信によって、(動画内)ライブでのプレイングと実況の並行性が可能であること。
- 2 ゲーム実況者のプレイング技術が見本となり、ゲームの攻略に繋がること。
- 3 他人のプライベートスペースへの侵入と同居。
- 4 実況者のパーソナルな部分への派生。
- 5 実況を通じたゲームの追体験からの共有体験と愛着心への展開。
- 6 権利問題がグレーだから。
1 生配信、動画編集と形態は問わず配信によって、(動画内)ライブでのプレイングと実況の並行性が可能であること。
これが例えば、ゲームではなくて漫画村から引っ張ってきたマンガ
やら映画とかでは実況や考察が邪魔になる部分(コメンタリー的な楽しみ方は楽屋話が大事)があるが、ゲームでは実況性は邪魔にならない。スポーツ観戦とかであれば、実況や解説が邪魔に思う人がいるだろうが、ゲーム実況動画で消音で消費する感覚は想像が出来難い。その点については後述。
2 ゲーム実況者のプレイング技術が見本となり、ゲームの攻略に繋がること。
今市場でゲームの攻略本というのがどれだけの割合を占めているのか分からないが、ゲーム攻略サイトという文字情報とスクショが関の山であったイメージの共有が、動画コンテンツとして発信できるので分かり易さが大きいだろう。
ストーリー性のあるゲームの場合、細かいシーンなどを探す時の手間は動画コンテンツ自体をおおよその見当をつけて漁る労力はあるか。攻略サイトであればリンクで一発で飛べる利点がある。しかし、細切れに動画を出していけばストーリー的に細分化もできる。
3 他人のプライベートスペースへの侵入と同居。
ゲーム実況者の配信環境が、どれだけの規模かは千差万別であろうが、自宅に近い空間(大物配信者なら専用オフィスとかもありそう)になると思う。それは、視聴者にとっては友達ん家で友達がゲームをしているのを隣で観ている感覚に近いのだろう。
勿論、ゲーム実況者と視聴者に友人関係のようなものは無いが、ゲームをするということは没入感に浸ることに等しいと思う。
つまりゲームをするところを垂れ流すことは相当無防備な姿を晒すことになり、己のプライベートを提供していることに通じる。
4 実況者のパーソナルな部分への派生。
ゲーム技術がどれだけ優れていようとも、実況者のべしゃりが面白くないとコンテンツとしてのスタミナは難しいと思う。
かといってトークが面白いけど、プレイングが目に余るものであれば、それもどうなのだろうか。
バランスの話だと思う。どっちも上手いに越したことは無いのだろうが、トーク部分は程よいアマチュア感が重要なのだろう。
3で言及したようにゲームをする姿は相当無防備だと思う。ニュアンス的にはパン一に近い。それでもパンツ一枚程度の仮面があるのが大事なんだろう。おおよそ素に近いが、素そのものがトークが面白い人ってそんなに居るのか?という疑問もある。
その下手さも相まって許容されるのがアマチュア感でもあるし、パンツ一枚程度のキャラ作りは最後の砦として使っている実況者もいるだろう。そのバラエティの多さが市場原理に繋がっているかもしれない。
5 実況を通じたゲームの追体験からの共有体験と愛着心への展開。
実況動画を観るということは、視聴者自身が行っていないゲームを疑似体験ができる利点がある。それでゲームのスタイルを自分の目で確認できるし、実況者への憧れから同じゲームの購入意欲が芽生えることも不思議ではない。
この要素は前述の3と4と密接な関係性がある。生配信であればその傾向は強いだろうか。
(ライブとして)同じ時間に同じコンテンツに触れることは、共有体験として蓄積されていく。そこに実況者としての人となりやテクニックが加味され、お気に入りとして信用が付与されていく。愛着と呼ぶものである。
コンテンツの実況性とは、内容よりも事実が重要視される。ニコ動やツイッターのハッシュタグ、トレンド入りなどは実況による祭りとしての展開が「大きくて見えない共同体」を作り上げた結果だろう。
可視化できる範囲での共同体は「クラスタ」としてヒモ付けされるものであるが、実況といった祭というのは盛り上がればいい。コンテンツをコミュニケーションとして消費していくのが第一で、内容自体に重点を置いていない。
そのようなコミュニケーションは、他者との共有性から愛着が生まれる。
ゲーム実況者のゲーム・トーク技術の成長を追うのも視聴者の一つの楽しみであろう。
6 権利問題がグレーだから。
大前提としてあるのはこれか。
動画配信の素材となる動画の著作権がそもそも。ゲーム実況動画だけの話ではないし、それが当たり前になっているので。
また、市場に出回っているゲームの数だけニーズがあると考えられる。世界中で誰一人興味を持たないまま消えたゲームというのはあるのだろうか。それっぽいのあったら教えてください。これを矛盾と言います。
いつか、実況動画を観ることがあったら補論として足すかも。言うのはタダだから。