冬に読んで面白かった本のまとめ 2018年1月~3月
- 宮台真司『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』
- 戸部田誠(てれびのスキマ)『1989年のテレビっ子』
- 広瀬和生『噺は生きている 名作落語進化論』
- アンディ・ウィアー『火星の人』
- 斎藤環『「文学」の精神分析』
宮台真司『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』
文化史を漁る上で現代の社会を断絶して語ることはできないのは当然である。
特に3.11以降から日本に蔓延している日常性/非日常性、今/過去の断絶性が浮き彫りになり、なんともいえぬ高揚感、浮遊感、メディアで報道されるショッキングな映像がどこか他国のような遠い地での冗談だと思ってしまうような(想定していなかった)リアリティの無い圧倒的現実に押し潰されそうになった。
ビヴァリー・ラファエルは『災害の襲うとき――カタストロフィの精神医学』において「警戒、衝撃、ハネムーン、幻滅」と分析したが、まさにあの頃はハネムーン期だった。
そして、個人的にポストモダンの思想を調べていく上で、自分の虚像であり、鏡像のような自意識レベルの問題と対面していくことが契機となった。
例えば『エヴァ』などの碇シンジやオタクへの同族意識と同族嫌悪、自己嫌悪、自己憐憫、自己陶酔、自己承認、無根拠で錯覚的な自己肯定感、ニーチェ的な転換つまりルサンチマンを通じた神への価値観的提言による自己肯定の近接と自己矛盾などが、個人レベルの性格的問題の領域に留まらず、「社会的なシステム」の形成と現代的な問題に密接な関係性から、影響を受けていることが分かり、社会学に感動した。
本書には学問の力が描かれている。
あくまでも精神分析学の領域かと思いきや、近接的な社会学に接続し、横滑りした時の感動は言葉に尽くせない。体験談でいえば、哲学―自然科学のような派生、細分化のような気持ち良さに通じた。
菊谷和宏の『「社会」の誕生 トクヴィル、デュルケーム、ベルクソンの社会思想史』も迷ったが、本書が暫定で今年一番面白かった。
やっぱり人間は「個人」対「社会」の中で生きているんですよ。
ストレスは社会が抱えてるもので、それは人間にぶつけられる。自分が抱えてるストレスを発散したい人は、一番近くにいる弱い者にぶつけがちです。会社なら、上司は部下にあたり、部下はストレスを抱える。
「個人」対「社会」の関係を克服できれば、生きやすくなるんだろうなって思います。
戸部田誠(てれびのスキマ)『1989年のテレビっ子』
1989年のテレビっ子 -たけし、さんま、タモリ、加トケン、紳助、とんねるず、ウンナン、ダウンタウン、その他多くの芸人とテレビマン、そして11歳の僕の青春記
- 作者: 戸部田誠(てれびのスキマ)
- 出版社/メーカー: 双葉社
- 発売日: 2016/02/17
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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バラエティの歴史本。
例えるなら戦国絵巻のように、バラエティの力を積み上げてきた先人たちの生き様を関係者の客観的な証言をベースに記述する構成であるから、バラエティのクロニクルとして優れている。
一方で作者のてれびのスキマの考察や主観的記述というのは少ないが、まえがきや巻末に記されているテレビへの心情、情熱こそが本書のような青春的歴史本を書かせたのだと思う。
そのトリガーであり、形式上の決着点となった『いいともグランドフィナーレ』の伝説から始まり、そこに回帰していく。
『いいとも』で素を曝け出した香取慎吾から、みんなの父性の象徴であるタモリへ問いかけたシーンはバラエティ史に刻まれる強さがあった。
また、中居正宏のスピーチも同様である。
やっぱり、バラエティって非常に残酷なものだなとも思います。
でもバラエティは、終わらない事を目指して、進むジャンルなんじゃないかなと。
覚悟を持たないと、いけないジャンルなんじゃないかなと思いながら、いいともに出させてもらったのをきっかけに、僕は、バラエティを中心に、SMAPとして、やらさせてもらおうかなと。
非常にやっぱり、バラエティの終わりは…寂しいですね。
他のジャンルは評判がよかろうが、悪かろうが、終わりがあるんですけど、バラエティって…ゴールないところで、終わらなければならないので、こんなに…残酷なことがあるのかなと、思います。
広瀬和生『噺は生きている 名作落語進化論』
広瀬和生のガチ本。
落語家によって同じ根多でも変わるのは当然であるが、歴代の名人から春風亭一之輔まで、名演が行われてきた大根多の落語家各自の改変オリジナリティの歴史的考証としてのデータベース本としては初めてではなかろうか。
噺が創作された当時の時代考証から、ストックされてきた歴史・文化を落語家たちはどのように紐解いてきたのかを探る。
描写の力点の置き方、解釈と構造への提言が、噺の中でどのように変化していったのかが表現されている。
緻密なデータベース本、広瀬和生ならではの仕事だったと思う。第2弾も期待している。
まさに「噺は生きている」。
生きるって事は、変わるって事さ。
アンディ・ウィアー『火星の人』
ハードなオタクSF
『宇宙兄弟』もこんな話を描きたいのかなって思った。
未見であるが『オデッセイ』みたいだなと思っていたらその原作。
『いきなり!黄金伝説。』の無人島生活をイメージして貰えれば分かり易い。
本書は火星でサバイバルするという話。
科学オタクのエリートな宇宙飛行士が一人で火星に残されて、救助が来るまで生き残れるのか!?みたいな。科学的知識を駆使して必要なものを生成する主人公。知識ではなく知恵が表現されている。
人間、生きていく上で大事なのは『衣食住』。火星でもそれ。
圧倒的な絶望的な状況、現実という事実に対してユーモアを忘れない彼が嫌いになるわけはない。
火星サバイバルだけではなく、地球パートのNASA関係者からメディアを通して発信される彼の状況、火星サバイバルの主人公には届かない客観的な情報を巡る社会的、国民的な感情、全世界が彼の生存に注目しているという状況を描いていること。その高まりが、国際的な繋がりを描くための助走となり射程距離となっているのは感心した。
昨今の国際社会の緊張感を意識しつつ、既得権益だけでは救えない目の前の生命にどう技術を使うか。
そのテクノロジーを使うのは人間であり、その繋がり、社会である。
単に「アメリカ万歳!」小説だったら途中で投げていたと思うけど。
斎藤環『「文学」の精神分析』
米澤穂信の項が印象的。
近景/遠景の力点を『さよなら妖精』から論じ、所謂「セカイ系」のように行き来するダイナミズムではなく、彼方としての彼岸/距離の果てしなさ、切なさを描いた。
デウス・エクス・マキナ(機械仕掛けの神)としての『古典部シリーズ』の折木奉太郎の姉様を視座に位置付け、中景的に構成することでバランスを取る。
つまり、探偵役が本来知り得ない情報は作品内でどう足掻こうとも知り得ないのだから、補完する万能感が必要になるわけ(『愚者のエンドロール』が顕著か)であるが、評論として整理されていて面白かった。
Q8:私は『クドリャフカの順番』が好きなのですが、折木の姉(=供恵)の視点で話を書く予定はないのでしょうか?
A8:もし書くのであれば、古典部シリーズとは関係のないスピンオフになるでしょうね。供恵の存在は「機械仕掛けの神(=デウス・エクス・マキナ)」*27になっています。「ご都合主義」と言い換えてもいい。つまり特別な役割を与えられているので、古典部シリーズで彼女の一人称形式で書くのは無理なんです