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米澤穂信『氷菓』感想 薔薇色と灰色の叫び

 

氷菓 (角川文庫)

氷菓 (角川文庫)

 

 

米澤穂信は「古典部シリーズ」の『氷菓』『愚者のエンドロール』『クドリャフカの順番』のテーマは「熱狂に押しつぶされた人」と述べた。

氷菓』では内情的に苛烈に描かれている。

千反田えるの叔父・関谷純の学生時代はまさに学生運動が盛り上がっていた。

関谷純は、熱狂に押し潰された人であり、時代に殺された人ともいえる。

闘いのための闘いでもなく、公権力への対抗意識/情熱/ストレスの捌け口は、一人の英雄譚として丸く収まったという話であるが、更なる学生の闘争を生み出したのだろうか。

ただ単に関谷純を生贄として差し出して、自分たちは保護下に置かれただけをよしとするならば、その安定と安全は公権力によるものではないか。

欺瞞であり矛盾ではないか。

果たして全員が「男らし」かったのか、全員が政治的だったのか。

その点について、司書の糸魚川養子を配置することで男性的社会の縮図を「外」から見させることに成功している。

あの司書が「男」だったら成立しないと思う。

なぜならば「内」に参加しているだろうから。排他的に行動しているだろうから。 

ただ、その熱狂、つまりモラトリアムな自由行動を政治的というパッケージに乗せて好き放題に「青春」と呼ぶのは烏滸がましいのではないだろうか。

関谷純の叫びそのものは文化的に時代的に理解されず、古典部への子孫に託した呪いとなった。 

フランスの哲学者ミシェル・フーコーは、一般に「外」はなく「外」はすべて「内」なるシステムの内部表現に過ぎないとした。フーコー的には資本主義を批判する共産的思想の書物を取得するにしても資本主義の市場を介すものである。

糸魚川養子は「外」ではなく、「女」であるだけで「内」の存在であった。そのため証人として機能した。

だからこそ折木奉太郎は震えた。

無理解で生きているのを怠惰であると。無感覚で青春模様にのほほんと無自覚で生きることを吐き捨てた。

システムに取り込まれ入り組んでいるからこそ、不満は噴出する。

その不満も承認欲求も闘争もシステムの「外」に向けているが、「内」にある内部表現でしかない。

そして、関谷純は追放された。

英雄的行為として美化され、分かり易く排除された象徴として。

「学校」の「外」に出た関谷純の行方は知れない。

その後の「外」を描くには「外」に出るしかない。

しかし、『氷菓』は「内=学校」を舞台にした折木奉太郎千反田えるの物語である。

推論を重ねて想像するしかない。

その結果、時代を超えて、関谷純の裡なる叫びは響いた。

強くなれ、弱いままなら悲鳴を上げられなくなる日がくる。

 

「青春」には「薔薇色」と「灰色」と対照的な表現がある。

古典部シリーズ」において「持つ者」/「持たざる者」の対比構造は、「才能」/「努力」の壁をナチュラルに描くことで表れている。

「能力のある人間の無自覚は能力の無い人間にとっては辛辣だ」 入須冬実

「誰でも自分を自覚すべきだ。でないと見ている側がバカバカしい」 入須冬実

そんな図式を、スクールカーストを介さずに「能力」「青春」の物差しとして持ち出されたのが「薔薇色」と「灰色」である。

結局できるやつは何でもできるし、できないやつは何もできないっていうだけの話だろ。 朝井リョウ桐島、部活やめるってよ』菊池宏樹

今までは単に色彩感覚とニュアンスの意味を込めたものとしてキャッチーな表現を借りたものだと思っていたが、改めて『氷菓』そのものを想起すると違う見え方ができた。

「薔薇色」は充実的に熱狂で燃えた炎の色ではないだろうか。

そして「灰色」は燃え尽きた後の残骸である。

燃え尽き症候群のような心底から完全燃焼した達成感と虚無感の同居では決してない。「灰色」が示すのは火にくべられた焼けた痛みの色である。

色彩的な比喩として面白い。

熱狂的な時代に押しつぶされた関谷純は、決して「薔薇色」ではなかっただろう。

きっと、傷跡はくすんだ色だと思う。