『コードギアス 反逆のルルーシュ』感想 捻じれた構図と因果
コードギアス 反逆のルルーシュ 5.1ch Blu-ray BOX (特装限定版)
- 出版社/メーカー: バンダイビジュアル
- 発売日: 2015/05/27
- メディア: Blu-ray
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自分を王だと思っている王は、自分を王だと思っている乞食と同じだけ気が狂っている。
『コードギアス 反逆のルルーシュ』は、母を喪った主人公ルルーシュが、仮面を着けてテロリストとして神聖ブリタニア帝国、つまり王権神授説、絶対王政な貴族社会としての「父性」に反逆していくのが主軸であるが、ギアス自体も王権神授説を補強するものである。
その力を駆使するルルーシュが「日本人」ではないからこその面白さがあったと思う。
日本人であることを自覚しながらブリタニア帝国の組織から内部改革を図るスザク。
母国に復讐するために「ゼロ」という仮面でアイデンティティを覆い、レジスタンスとして日本を土台に戦うルルーシュ。
仮にルルーシュが「日本人」であった場合、大国支配からの独立をするレジスタンス、オープンなナショナリズムという話にしかならない。
その場合、ブリタニアをアメリカにストレートに見立ててモラトリアムの葛藤を描くために学生身分であったとしても、戦後史のようなアメリカナイズ、安保闘争や沖縄の歴史観が素直に下敷きになったのかもしれない。
また、主人公格をルルーシュ単体として場合、ブリタニア内部での革命を描くとなると、清教徒革命的な構図を下敷きにしたかもしれない。
「自由」な個々人は、いまや新しい政治権力を人民の「普遍意志」に対する犯罪として糾弾する。政治権力はこの糾弾に十分に反論することができない。反対者である自由な個人は、ただ思想として「純粋な普遍意志」を主張するだけだが、政治権力は「普遍意志」を政治制度として実現するという困難な仕事を行わればならず、そこで生じるさまざまな矛盾や「悪」を引き受けざるえないからだ。/自らの「普遍性」を信じる政治執行者は、ますます「暴力」に頼り、自分たちに反対する疑いがあるというだけで人々を弾圧し、抹殺しようとすることになる。
竹田青嗣、西研『超解読!はじめてのヘーゲル「精神現象学」』
主人公格を増やし、友情で結んだ所からの捻じれや綻びはこの作品を象徴していると思う。
ブリタニア出身のルルーシュが日本で、日本出身のスザクがブリタニアで、この構図の捻じれがそのままアイデンティティの揺らぎ、ペルソナ、延いては変容していく国家観と国際社会の政治劇・軍事的展開へと繋がっていくように設計されている。
ゼロ年代らしさ溢れるセカイそのものと相対する主人公像でありながら決断主義による距離を取り、近景(主人公側)と遠景(セカイ側)が短絡的に繋がるセカイ系の強度を自覚的にそして逆説的に描き、狭いローカルな枠組みで語るしかないパラドックスについて、キャラの配置とアイデンティティで以て、辛うじて捻じ込む程度の薄ぼんやりとした中景(社会性と国家)で断片的にバランスを取ろうとしたが、破綻的であった。
我々は、愛という名のもとに、自己と世界との関係の中に必然性を導入せずにいられない。エディプス期を通過することによって、人間の欲望は必然性への希求と一体になり、愛という超合金を生んだのだ。 新宮一成『ラカンの精神分析』
マックス・ウェーバーの「支配の3類型」を考えると、ルルーシュは「カリスマ的支配」だろう。
一方のスザクは「伝統的支配」の素養から逸脱し、ブリタニアへコミットすることで「合法的支配」へ移行している点は興味深い。
「ギアス」の力自体が不文法的で、個人の意思に対して介入して自然に操作できる点でいえば、プロパガンダそのものである。よりポリティカルフィクション観を出すならば、「ギアス」を成文化したような憲法あるいは条約のパートが割かれていたと思うが、『コードギアス』はあくまでも「個人の意思の力」=「ギアス」=ルルーシュの物語であるから、支配が最終地点ではなかった。
その行動様式に他者を通した承認欲求ではなく、孤立した自己肯定感だけで前進するルルーシュの主人公像は、短絡的もとい圧縮的構造のセカイ系からの脱却、つまり経験の蓄積といった「連続性」こそが「昨日」「今日」「明日」を分け、それを求める理由を提示したことで、非現実性から現実的解釈による優位性を素描することはできたと思う。
しかし、やはり破綻的でもあった。
それでもギリギリのバランスが魅力的であり、断片性と各自の強度がエンタメとして輝いたのは間違いないと思う。
2期の『コードギアス 反逆のルルーシュR2』では、残念ながら作品として大きく崩れてしまったが、24話『ダモクレスの空』と25話『Re;』のAパートのメッセージが落とし所として挿まれているのは重要だった。
最後まで大きく響いたのは敵役の不在か。
敵を描くことの困難さであり、突き詰めて行けば正義そのものを炙り出し、誰かにとっての正義でも誰かにとっては傷を与えるものになる可能性を孕んでいる。
だからこそ、表層的な正義=ヒーロー像では描けない暴力性の暗部、その宿命を引き受けるのがアンチヒーローであり、その論理でルルーシュ自身を舞台に上げるにしても、身体的にも心理的にも離れたように思えるが、ルルーシュの決断を考慮すると着地点として当然の対価なのだろう。
皇帝という地位を獲得していた父親を殺すことでのオイディプス王的なものを挿し込むことで、王権と選民思想への反逆を皇帝の地位まで上り詰めたルルーシュが最後に身を賭して構造全体に逆襲することによって物語として完結する。
バランスは不安定であるが、それでも感情として泣くしかあるまい。