おおたまラジオ

しまいには世の中が真っ赤になった。

映画『夜は短し歩けよ乙女』感想 森見登美彦の魔性的な京都を描く難しさ

 

 

前置きとして、私は熱心な原作ファンではない。

読まず嫌いだったが、昨年に全作品を読んだくらいの年季の浅い森見登美彦ファンである。

私は、森見登美彦作品は「京都」を舞台に(現実から)飛んでファンタジーに持ち込んで、現実に持ち帰る構造だと思っている。この矢印の上下動は一度浮き上がるので、まさに夢心地のような浮遊感が生まれる。そうなると、現実的な生活感といった根底から一度引き剝がされていく。その瘡蓋のような生々しさや泥臭さが青春的に映る。

監督が心掛けるべきことは、映画の中だけにせよ、観客を説得できるだけの設定を考える。その嘘が、どうやったら作品の中で一種の現実として成立するのかを必死で考える。そのために世界全体を歪める。歪んだ世界で嘘が現実に見えるという、世界観の反転が行われるのだ。これが映画制作者の醍醐味である。

その説得、つまり世界全体の歪曲がうまくいっていれば、嘘はどんな嘘でも、ちゃんと成立するのが映画の面白さである。 押井守『ひとまず、信じない』

本作は、過剰なくらいデフォルメされたアニメ映画だった。

「アニメならでは」な表現がコテコテなアニメらしさ全開で阿呆でカオスにスクリーンを塗り潰していた。

もう歪んでいる。歪みすぎている。

原作では春夏秋冬の一年の時間軸をたった一日の出来事として圧縮した構造。

時間の圧縮を用いたことから時計、冒頭の5個のエスカルゴの皿を車輪に見立てて走り出す電車的演出で黒髪の乙女と先輩を結ぶ両輪を描くなどオーバーなアイテムの使い方。

通常では考えられないパースの置き方。

凄すぎる。

酔いどれ感想 

原作小説の語り口は、自由闊達で何処までも飛んで行けそうなくらいのエンジンが積んでいる森見登美彦のエッセンスが溢れている。発車したら止まらないエンタメ性というべきか。

ペラペラとクドクドと四畳半で貧乏学生が、うだりながら悶々として妄想しているように。

まさに、京都に住んでいるサブカルクソ学生のイメージはこれである。

しかし、その語りというか詭弁(作中に詭弁論部が出てくる)こそが真骨頂である。阿呆らしいから本質を突いてくるのが詭弁の醍醐味であり、コメディの持つドラマ性だろう。

最終的には防衛で自己弁護。理論武装をして身を固めているだけで、小さな己のプライドと自己愛を愛撫しているに過ぎない。踏み出せない理由を言い繕って殻に閉じこもっている。

それが先輩の脳内議会として表現され、先輩が寝転がっている万年床がそのメタファーになっている。

幻想は人を不幸にする。これが僕の考えるテーマである。リアルに目覚めた人間だけが、結局は幸せになれる。僕は、その幻想を人さまに売って商売している人間なので、余計そう思うのである。

押井守『ひとまず、信じない』

 

中村佑介の絵と登場人物に意図的に名前を与えないことで、安易に記号化しない試みがある。

捉え所の無さを楽しむのが吉。

記号化の際にポロポロと零れる要素から、名前を付けないことでありふれたアイコン性のフレームの大きさで遊ぶ狙いもあるだろうし、メタ的に森見作品群を横断する時の軽やかさもあると思う。

一番の機能は、明確な名前を与えないことで、観客(私やあなた)も舞台に上がれることを示唆していると思う。作中の登場人物として、私やあなたとは違うのだと線引きするのではなく、登場人物への投影というよりも登場人物との入れ替わりが可能、つまり私やあなたも参加できる道が拓けているのだと受け取れる。

作中の先輩や黒髪の乙女は「彼/彼女」だけではない。

私やあなたの可能性の一部として描かれている。だからこそ「彼ら」は名前を持たない。

作中の彼らが身体性を獲得したように、私やあなたも出来るはずである。

まさにポップでシュールだ。

そんな原作を映像化すると、シュールというよりも結構ナンセンスに寄っているオカシさが生まれる。

映像化するとこんな風に壊れていることが否応が無しに自覚される。

森見ワールドの可愛らしき滑稽さがどれだけロマン的であるか。森見登美彦作品のバカバカしさが痛快であるか。

しかも、映画自体も悪ノリに乗っかるようにオーバーにやるから気持ちいい。

アニメ的に「アニメ・アニメ」しているデフォルメで歪んだアートになっている。

映像の質感的にはレトロ。岡本太郎チックな色使い(厳密には違うと思う)。

映画を観た後に調べたら、監督の湯浅政明が『クレしん』に関わっていたらしく、これが上手くカチっと納得出来た。

まさに『クレしん』的な演出やナンセンスなギャグの上滑り感も否めないが、丁寧な天丼もある。

それを意図的に入れているから、一見下品に映るが、実際は品を損なっていないバランスがあるのが上手い。

滑稽味というのを理解していないと描けない。

ギャグの輪郭をボカしていない。

本来はツッコミが入ればボケそのものが際立つのが笑いの作法であるが、メタファーで引っ張ることでそれだけ分かり易さが作られている。

クレしん』だと思った。

あれは子どもの視点で大人をからかう話であるが、子どもをバカにしていないのがミソだろう。

サン=テグジュペリ星の王子さま』にしても子どもを笑う大人を皮肉り、大人には持ちえない(かつては皆が持っていたが忘れてしまった)子どもの視点を再導入したり、富野由悠季ガンダム』も子どもをバカにしないで滅茶苦茶難しいことをリードしながら格闘した。

演出上の妙で軽々しく上品とまでは言わないが、「アート・アート」しても気持ちいいのが発見だった。

どうも演出や画作りが前衛的すぎると、それに引っ張られ過ぎて萎えてしまう。理解が追い付かなくて疲れてしまう。オーバーにいえば意識が飛ぶ。

ただ、本作は森見登美彦作品のフリーダムでカオスな詭弁的要素を要所で拾いつつ、圧縮的なスピード感を出しているので、夢のような一日をジェットコースター的に追体験できる。

それが気持ち良くて。

話自体も分かり易いし、テーマもセリフとしてきちんと言語化されている。

正直、その辺は面白くないが。

ただただ演出の過剰さがキツくて、もう凄い。

スピーディーに消化しているが、夢みたいなことをやっている。

カオスなアイテムをエンタメとして料理しているから凄い。

 

酒を飲む理由なんて人それぞれだろう。

酒が好きだから。酒で憂さ晴らししたいから。酒を飲む場所が好きだから。人が集まるから。

本作は「御縁」がバトンリレーのように伝播していく。

縁を結ぶように、彼らは夜を歩く。

まるで「一年のような一日」、「一日が一年のような」ウソみたいな話である。

御縁は、ハシゴ酒と詭弁踊り、古本、劇の立ち回りと恋と鯉の巡り合い、風邪となって人々を結んでいく。

toyokeizai.net

キングコング西野亮廣は会員制のスナックを経営している。

今後はスナック感覚の店が人々のオアシスになると見通した判断によるものだ。

同じような酒を飲みながら夜を歩く楽しさ、人々との触れ合いを『月面歩行』を舞台に表現されている。

作中では黒髪の乙女よりも年下が描かれておらず、人生の先輩ばかりが登場する。それが説教臭くないのも特徴的だろうか。酒の席で辛気臭い説教なんて聴きたくないし、酒が入っているからこそ本音が話せるなんて間柄の気味悪さも勘弁して欲しいのが個人的な気持ちであるが。

李白冷笑主義虚無主義と黒髪の乙女の豊かさ、楽観主義の対比。セリフだけではなく音楽と画面での作り方も丁寧だった。

裡に留まってシニカル、ルサンチマン気取るのは誰でもできるものだ。

如何に身体性を持てるかどうか。

要するには万年床で悶々としていないで「外に出ようぜ!」。外出する理由なんて「酒飲むくらい」でいいからと訴えてくる。

〝若者のアルコール離れ〟は本当か?|@DIME アットダイム

余談。若者の酒離れと囁かれて久しいが、夜を歩く理由が酒しか無いのは今後の課題かもしれない。下戸にとって夜の街の喧騒は虚しく響く。

酒以外の選択が増えた時こそ、若者のコミュニケーションはより活性化するだろう。

 

森見登美彦の描く「京都」 作家と作品は別物ではない

本作の難点を挙げるならば、森見登美彦の「京都感」が薄ぼんやりであることだろう。

森見登美彦作品の特徴は「京都」の情緒、風情を過剰にすることでマジックリアリズム的に描くことで「京都感」のフレームを広くしていることだと思う。

この「京都感」を描くには、新海誠作品ほどに背景に物を言わせればいいわけではない。 

森見登美彦の京都への土着性、つまり魅せられて魔が差した感覚をどれだけ落とし込めるかどうかだと思う。

それには『夜は短し歩けよ乙女』作品単体だけではなく、森見登美彦という作家性を考える必要性がある。同時に作家に幻想を抱く危険性も孕むわけであるが。

作家性でいえば湯浅政明にも触れなければならないが、私自身は彼について語るべき言葉を持たないので割愛。

 

昨年の古野まほろ炎上事件を例に出してみよう。

経緯自体は割愛するが、『禁じられたジュリエット』という作品が新本格30周年のメモリアルイヤーに刊行された意義、著作に込められた問題意識や稚気に触れる度に「作家と作品は別物って切り離せるものなのか?」と考えてしまう。

そんな簡単な話なのだろうか?

古野まほろは、自身の著作を「自身の子ども」と表現していた。その防衛意識による表現方法が間違った方向に行ってしまったからこその炎上だった。

私自身は炎上の発端となった表現に関して擁護する立場では全くないが、それと『禁じられたジュリエット』の作品性は別物だと思う。

読者側が一方的に「別物」と切り離すのは如何なものだろうか。

炎上後、上智大学の文学サークルは読書会に発端となった著作を指定したらしい。サブテーマは「作家と読者の距離」。上智大学のユーモアと問題意識が光ったと思う。

作家と読者の距離を介するのは作品である。

 

森見登美彦の京都を描けるか」は映像化にとって最大のチャレンジだと思う。

結論は上手く行っていなかった。

あくまでも私の脳内「京都」には及ばなかった。そもそも劇中では「春のハシゴ酒パート」と「秋の文化祭パート」以外は「京都」の出番が少ないのもあったが。

「京都」の神秘性とは何なのだろうか。

森見登美彦の描く「京都」は「京都」と書くだけでイメージが膨らみ共有化されてしまっていると思う。

例えばアニメ化された『有頂天家族』は京都に住む狸の話だ(恥ずかしながら『四畳半神話体系』は未見で本来引用すべきはこちら)。

狸の視点から、「狸と天狗と人間」の三すくみの緊張した均衡状態を形作り、こんなのも居るんだと許容される「京都」の魔法性がある。

かつて古今亭志ん朝は落語の良さを問われた際に「狸や狐が出るところ」と答えた。滑稽噺の本分を端的に表現した言い回しだと思う。

また、高畑勲は『平成狸合戦ぽんぽこ』で人間によるニュータウン開発を狸目線から描き、自然賛歌とした。既得権益へのカウンターとして機能し、もう少し時代が進んでいればエコノミーとエコロジーのごちゃ混ぜな胡散臭さについてもあったかもしれない。

有頂天家族』では、天狗と狸と人間の阿呆な踊り具合を描きつつ、人間の業、家族、世代間の争い、延いては父を乗り越えることを描いている。

特に「狸と人間」の関係性として、弁天というキャラの自立性は白眉だろう。

人間でありながら天狗になろうともがくが、どこまでも人間である弁天を描くためには人間以外の媒体が必要である。そのために逆説的な視点が欠かせない。

狸の登場である。

阿呆でシニカルで天狗に憧れている狸を用いることで、狸界のみならず三すくみの状況を滑稽気味に語れる。

狸を使いながら人間と天狗を描き、コミュニティの本質を問う。

時にシャレとして、また情愛として外連味たっぷりと。

これが人間だった場合、「京都」にきちんと住む人間の生活を描かないといけない。

狸たちは人間に化けて「京都」に溶け込んでいるが、あくまでも狸の領域でしかない。狸はどこまでも狸であり、天狗は勿論のこと人間にもなり得ない。このヒエラルキーは金曜倶楽部の狸鍋として表現されている。

前提として狸の話であるから、「京都」の造形は柔らかく許容される点があったと考える。

しかし、『夜は短し歩けよ乙女』は人間の話である。

「古風」やら「和」だけではなく、人間視点の等身大な生活感が無いと森見ワールドの「京都」は表現しきれない。

「京都」が持ち得るフレームがあるからこそで、まさに自意識のユートピアであろう。

それ故に映像で表現できない程に脳内で「京都」が肥大化してしまっている。

病的で劇画的な古き良きロマンだ。

「京都」のルーツを辿ることで昇華できるかもしれない。それは悠久の時を超えるということだ。

ちはやふる』でいえば百人一首のように。

ヒカルの碁』でいえば23巻「遠い過去と遠い未来をつなげるために」のように。

その膨大な作業量は、森見登美彦のルーツのみならず、「京都」のファンタジーを情景として描かないといけない映像化の難しさは、森見ワールドたらしめる「京都」の大きすぎるイメージをリアリズム的に描くことの無意味さを痛感させる。

このジレンマは作家殺しではないだろうか。

 

「バカバカしい夢の国」的だからこそ「京都」に行きたくなる。

そうだ 京都、行こう。 糸井重里

でも本当に行ったら夢は壊れると思っている。そんなものではないと分かっているから。

だから10代で森見登美彦作品を読んだ若者には同情を禁じ得ない。

不幸でしかない。

サブカルクソバカ野郎として「京都」に行くことになるから。でもその夢は破れるから。悶々とするから。阿呆らしいから。

ただ、この年齢になるとそんなロマンを持つのもシンドイ。そんなサブカルクソバカ野郎と付き合っていられないから。

何かを語るためには、そのことを体験しなければ資格がないのかということだ。アメリカに行ったことがない人間は、アメリカについて語ることはできないのだろうか。/カンヌ映画祭での会見で米国人記者とのやりとりは今も映画記者たちの語り草だ。「アメリカに行ったこともないくせに、どうしてアメリカを批判できるのか」という、意地の悪い質問を浴びせられたが、監督自身の人格はともかく、アメリカに行かなくてもアメリカを描くことはできる。 押井守『ひとまず、信じない』デンマークの映画監督ラース・フォン・トリアーの件

 

「京都」に行かなくても「京都」を想像することはできる。

その想像力は、かつてウォルト・ディズニーの「ディズニーランドが完成することはない。世の中に想像力がある限り進化し続けるだろう」のように、森見登美彦のエッセンスで「京都」が膨張していく。まるで作中の先輩のように暴走するしかない。

しかし、そんな憧れや夢を持たせるのが森見登美彦の凄さでもあるし、同時にファンタジーだけではなくて「外に出る」ことを促している。

夜は短し歩けよ乙女』では恋の成就が目的だ。恋愛が「外に出る」ことになるとしている。恋愛とは否が応でも他者性との向き合いそのもの。

私が敬愛している作家の一人の法月綸太郎然り『エウレカセブン』などなど。

内なるセカイやロマンに留まっているだけでは埒が明かない。

宇野常寛が「サヴァイブ系」と定義した、引きこもりではサバイバルできないとの決断主義は、2001年の9.11以降の傾向として分析された。

この原作は2006年に刊行されている。

改めて、何故2017年に映像化したのかという動機は再考の余地があるだろう。

熱心なファンのニーズだけではない現場や社会の空気があるはずだ。それについて論じるのは別記事で。

本作は厳密な決断主義とは言えないかもしれないが、近接的な行動としての『ナカメ作戦』のような童貞的行動は、単なる四畳半でくどくどと引きこもっている人間では行えない。

 

ただ、そんな風にポップに陽気にではなくて、人間とは斯くも陰々滅滅としている。

陽が当たる場所があれば陰もある。

そんな二面性、つまりアンビバレントさを打ち出したのが『夜行』だった。

だから『夜行』は、作家・森見登美彦の集大成としての記念碑であり、森見登美彦を語る上では避けては通れない修羅の門となった。

『夜行』を読んだ時のメルクマール感は、まるで新海誠『君の名は』を鑑賞した時に抱いた感覚のそれだった。 

それ故に、森見登美彦にしろ新海誠にしろ次作が待ち遠しいようで恐ろしいわけであるが、それぞれの作品が両作家のマイルストーンとなったのは確かである。

作品群が地続きとなり、作家性を分析するためのアイテムとなる。

作品から作家性を解体するのは大事である。

この映画に消化不良感がある人ほど、作家・森見登美彦を問い続けていくべきだろう。

なぜ森見ワールドの「京都」は凄いのか。

なぜ森見登美彦の世界観に惹かれてしまうのか。

『夜行』以前、アンビバレントな複雑性のような捉え所の無い困難さを掴む作業をやっていくしかない。

森見ワールドが拡がる「京都」に酔い、サブカルクソバカ野郎としての己を再認識した。

これから惑う甘美な夜を歩く。

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