おおたまラジオ

読書、サッカー、など。

文章ってセンスではなくてスタイル

文章のノリが悪い。

書き続けないと錆びるってのは本当で、構成や要点の掘り出しを付け足しては削るみたいな作業が久しぶりにきつかった。

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気合を入れて書いてみたものの、題材の転がし方に対する能力不足と向き合う結果になった。

思ったより出来た安心感、思ったより出来なかった不満足さが同居している奇妙な達成感。一先ず完成させたことに意味があるというか。

しかし、もっと上手く書けたり、書き込み不足による論旨が浅かったりと反省点が目立つ。

特に『夜は短し歩けよ乙女』に関しては書きたいことの2割も出来ていない。本来なら、森見登美彦のエッセイやインタビュー、京都の歴史的価値観や背景、学生運動の掘り起し、湯浅政明作品から紐解く湯浅論も含めて初めて書きたいことが出来るわけだが。

また、テーマに対して一本調子の要素が濃いためか、視点が多角的ではないので、小論そのものに多重構造性がない。

ボリュームはありながらも、なんとなくハリボテ的でもある。

現状はこんなもんか。研鑽しなければ何も上達しない。

 

20歳くらいの時には、あのような作業をブログに書いていた。数年振りにやってみて文章のノリが悪いことに気付いた。

当時は酒を飲みながら、タバコをふかして書くのが日常的であった。

朦朧とした自己陶酔状態に近いぐらんぐらんした頭から生まれる調子の外れた表現、突拍子でありながらもエッジが効いている文が浮かんだ経験があった。

その感覚から繰り出された文章が、変に素面の時に捻り出した文章よりもピタッとハマったも。

でも、これって素面だったり、でなかったりに関わらず、知らず知らずのうちに言い訳めいたものを作り出そうとしている心理であると気付いた。

調子が出るためのおまじないだったとしても、前提の一つとして「手を抜く」ようにして「本気を出すのは恥ずかしいし、ダサい」みたいな感情が根っこにあったのではなかろうか。

単に本気を出して現実と向き合いたくないだけではないだろうか。

本気を出しても出来ない自分を知りたくないだけみたいな。

いつしか恐怖に足が竦んで、ブレーキを踏んでいる自分。保険を作って自分を慰めるように、お守り代わりに自己弁護の用意をしておく狡猾さによって磨かれるのは、不足した技術を埋めるものにはなりえない。

 

FC2ブログ時代、年下のブロガーさんと交流していた。

年齢に似合わない落ち着きのある彼は大人よりも大人らしいブロガーさんでしたが、彼から「皮肉めいた」文章が〝らしい〟と評されたことが忘れられない。

当時の私は、皮肉と嘲笑が練られたような文章を書き殴っていた。世の中と自分に向けて。今よりもハードに。

また、師匠からは「視点の一貫性」を挙げて戴いたことから、さらに調子に乗った文章を書いていた。

「自分を持っている」や「自分にはセンスがある」と勘違いするのは当然で。

必然的とも言えるが、ある日、理不尽な攻撃に晒されたが、そこから書いたもの全部が攻撃性として受け取られるのではないか?と不安が付き纏った。

 

文章のノリが悪いのは、技術的に不足しているのもあるだろう。

しかし、不特定多数に攻撃される恐れから、ギリギリのラインにビビッて踏み止まっている心理が働いているのも否めないかもしれない。

匿名的な攻撃に臆して、八方美人なブログを書く上手さもないし、何よりもそちらに寄り掛かるのは不自然だとも思っている。

不特定多数に良い顔をしたいだけではないのか?

書きたいものを書くためにブログを作ったのに、本来書きたいものを書けなくなっていたら本末転倒ではないかと。

そして、ブログを「公開」する必要性も突き付けられる。

恐いなら閉じればいい話。

記事を書き上げてはネットに落としているのは、何よりも誰かに共感してほしいからだろう。

誰にも見られたくないと思うならば、ネットに公開しないだろう。

宣伝なんかもしないはずである。ひっそりと慎ましく在りたいと思うでしょうし。

 

どれだけ言葉を尽くしても受け手に委ねられる。

建設的に話を進めても、最終的には受け手次第である。

なにか気に食わない部分が局所的にあった場合、反射的に断片的に都合の良い部分だけを切り取って独自に解釈を進めることで、元の言葉の意味が歪曲化して攻撃性を帯びる。

「批評」と「批判」の区別が付かない人はいる。

いくら書き手が真摯な姿勢で綴っても、〝批評家ぶる〟ことだけでも攻撃の対象になることはある。

とある英語の問題集の例文がすごい | blog.ironsite.net

(略)しかし批評の主たる魅力は、批評されているものよりも批評している者の方が偉く見えることである。批評することは極めて容易なので、それはしばしば他のいかなる方法によっても人の興味を引くことが出来ない凡庸な輩の避難所となる。 エドワード・デボノ

 

そして、肯定と否定が渦巻く。

気持ち良くなるために、別にイエスマンだけを囲っていたいわけではない。建設的な意見には耳を傾けたいのは誰しも同じだから。

ただ、真摯な書き手でありたいと願いながらも、読み手にも真摯であって欲しいと思うのは傲慢なのかもしれない。

些か自分の都合や価値観を押し付けていることになるのではないだろうか。意見の多様性を求めながら、多様的価値観を否定していることに繋がるのでは?とも。

意見というよりも姿勢の話ですが、姿勢があるからこそ意見が生まれるのだろう。

結果的に、読者の性質に賛同者ばかりを集うことになって、顔色を窺いながら少しばかりの承認を満たす(承認が悪いわけではない。それをただただ肯定するだけなのも否定するだけのも不自然である*1*2

攻撃に臆するだけではなく、こちらのファクターでも筆先が鈍るのは如何なものか。

 

窮屈さ、息苦しさを嘆きながらも、同調圧力を忌み嫌いながらも、それに同調した人たちとアングラ的なコミュニティに溶け込み、世の中を憂い続ける。

一丁前にルサンチマン気取りで。

自由でありたいと叫ぶものの、結局そこに縛られているみたいな。

でも、自由は限定的な中での判断の尊重のような面を指すものだと思うので、自由に憧れて自縄自縛に陥るのは不自然なことではないだろう。隣の芝生は青く見えるものだ。

窮屈そうに身をかがめても 今じゃ誰もがそうしてる

天井のないエコー・ルームに 誰かが僕を放り込む

君のスピードでもって 同じフレーズを弾いて

冷たい時間に寄りそって

関係性を否定してみても また誰かが君をつつく

そっちの方がまだ救われる 簡単なのさ 夜に飛んでいるカラスみたいに隠れてよう

いつもスープを飲んで テーブルを囲んで

黒沢健一『PALE ALE』

 

 

放浪息子 (1) (BEAM COMIX)

放浪息子 (1) (BEAM COMIX)

 

 

志村貴子の『放浪息子』において、高槻よしのが「私は好きな服を着るんだ」と誓うシーンがある。

高槻さんは女の子だが、格好いい男の子の服が着たい子。ガーリーなヒラヒラした服やスカートを拒絶する。

ボーイッシュな彼女は、男の子ようになりたいと願うものの、小学生から中学生、そして高校生へと成長するにつれて、身体は意に反して女性らしさを帯びていく。憧れていた男性らしさとはかけ離れていくように。

放浪息子』は中性的な形から生まれる無性別感とトランスジェンダーの一例を描いた作品である。

大局的にはスタイル、つまりは生き方そのものを描いた漫画だと思う。

そのスタイルとの乖離に苦悩し、現実問題として突き付けられるキャラ達。

普通とは違うことを許容されない世界からの強要が巡る。

出る杭は打たれる。

みんなちがって、みんないい。

金子みすゞの詩を教えられても、「個性」を殺すことを求められる。

スタイルを突き通すことで謂れのない誹謗中傷を受けたり、バッシングを受けた人は数多くいた。

日本でそういった騒動の渦中にいた印象的な人の一人として國母和宏氏を挙げたい。

news.yahoo.co.jp

「葬式のときに葬式の格好をしていくように、スノーボードのときにスノーボードの格好をしていっただけ」

スノーボードはライフスタイルであり、もっと言えば、生き様だ。「横乗り系」のスノーボードは、スケートボードやサーフィン同様、滑る姿勢が思想にも影響しているのだろう、カウンターカルチャーだ。反社会的な態度こそが美徳なのだ。だから、バンクーバー五輪の騒動のときも、スノーボード界の人ほど國母のスタイルや言動を支持した。

カルチャーを理解し、己を捧げて体現する姿勢は確固たるスタイルによるもの。
自分という型をカルチャーに溶かす様にすることで、生まれる信念の形がある。
ファッションや音楽などと同じように、文章もスタイルの一つだと思う。
思想や感情が文章に乗り、それはまさに、生き方そのものが表れるというのは大袈裟だろうか。
その文章のノリが悪いというのは「自分らしさ」が揺れているのと同義ではないだろうか。
とりあえず、正直な自分を茶化さないようにありのままを書いてみた。
当分は悩んでみようかと思う。

*1:ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q参照

*2:かといって魔法少女まどか☆マギカのように自意識的な承認を求めずに世界レベルを救済するスケールを言っているわけではない