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しまいには世の中が真っ赤になった。

麻耶雄嵩『友達以上探偵未満』感想 新世界へ行け少女たち

 

友達以上探偵未満

友達以上探偵未満

 

麻耶雄嵩にしては普通である。

しかし、新しい。

世界を壊し、尽く読者を素晴らしく裏切ってきた作者・麻耶雄嵩にしては本作ではオーソドックスに徹することで裏切らない裏切りの冴えを見せた。

麻耶ワールドという本格ミステリの不文律の共有にしては薄味であろうか。

女子高生同士の遣り取りやネタ振りの語り口なんてライトであるし、麻耶雄嵩が「アナザーなら死んでた」というパワーワードを使う日が来るとは。

ミステリファンには堪らないサービス精神だ。

トリック自体は大人しく、隙の小さいからこそ犯人当ての邪魔をしない程度の配置と設定が光っている。それはつまり読者への挑戦状を挿入することで犯人当てとしての性質上、フェアプレイ精神を如何なく発揮するためのフリ(伏線)とネタ(制約)である。

本格ミステリを壊して再構築する世界観を期待されている麻耶雄嵩にとってはオーソドックスのミステリであるから、とても間口が広く入門編として最適ではないだろうか。

正直、麻耶雄嵩くらいの技巧があればお手の物だろうし、寡作の作者が遂にシリーズ化と量産がセットで最適化しそうな雰囲気も匂う。人気者の銘探偵メルカトル鮎は大変だから。

シリーズ化とそのジレンマの袋小路に突っ込むことで物語をシャットダウンする外無い麻耶雄嵩が、『友達以上探偵未満』ではシリーズ化の光明が見えなくもない。個人的には彼女たちにそれほど思い入れは持てないのだけど。

普通であると冒頭で記したが、2編目「夢うつつ殺人事件」は「遠くで瑠璃鳥の啼く声が聞こえる」のニュアンスとイメージを彷彿とさせるに加えて『名探偵木更津悠也』のエッセンスもあり、往年のファンへのサービスかと勘繰りたくなる。

 

メルカトルと美袋のための殺人 (集英社文庫)

メルカトルと美袋のための殺人 (集英社文庫)

 

 

名探偵 木更津悠也 (光文社文庫)

名探偵 木更津悠也 (光文社文庫)

 

 

また明らかに本作のメインは、探偵と助手の関係性への問題提起と再構築を描いた非常に麻耶雄嵩らしい3編目「夏の合宿殺人事件」だろう。

この問題の3編目「夏の合宿殺人事件」はまさに麻耶雄嵩らしさであるし、本作の〝麻耶み〟が薄味でも確かにメルカトル鮎や木更津や香月などを描いてきた麻耶雄嵩ならではだと唸る。

人間原理という話がある。

涼宮ハルヒの憂鬱 (角川スニーカー文庫)

涼宮ハルヒの憂鬱 (角川スニーカー文庫)

 

本作では「探偵」を中心に置いた探偵原理とも言えるだろう。

「探偵」という中心の外に「犯人」が置かれているのか。或いは「犯人」が中心で「探偵」がその外であるのか。

この「犯人」は「群衆」がいつでもどこでも成り代わるものであり、物語の叙述によっては立ち代わるものだろう。例えば倒叙ミステリが代表的であり、あるいは身内関連を濃縮的に描けば法月綸太郎ロス・マクドナルドのようなドメスティックなものへと展開されていき、自然と「群衆=その他」は削り取られていく。

本作はももとあおの桃青コンビ、等身大な女子高生の行動力と行動範囲を意識して描かれている。安楽椅子探偵とまでは言わなくても立ち位置は受動的であり、世界そのものも狭い。捜査に積極的に加担する女子高生はオカシイ。

そして、作者の出身地でもある三重県というローカルの世界だ。

世界を縦断して横断するのは「名探偵」でもない一見普通の女子高生の行動範囲として不自然で、主体性に無理が生じないような整合性が取れている。 

犯人は創造的な芸術家だが、探偵は批評家にすぎぬのさ G.K.チェスタトン『ブラウン神父の童心』

犯人がいるから探偵が存在できる。

または探偵がいるから犯人がいる。

そして探偵がいるから犯人によって崩壊した世界の秩序を回復できる。

これまで探偵と犯人の共犯的関係性は数多の作品で描かれてきた。

 

DEATH NOTE デスノート(1) (ジャンプ・コミックス)

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扉は閉ざされたまま (祥伝社文庫)

扉は閉ざされたまま (祥伝社文庫)

 

 

クドリャフカの順番 (角川文庫)

クドリャフカの順番 (角川文庫)

 

  

王とサーカス

王とサーカス

 

謎に対して推理をすることで探偵役としての肩書はインスタントに手に入る。

しかし、彼女たちが目指すのは名探偵である(銘探偵ではない)。

本格ミステリの地脈を受け継ぐ愛憎入り乱れる無欠のヒロイックな古典的名探偵像であり、その存在感を受容できる世界観と空気と狂気が当たり前として存在する器=物語が不可欠だ。

そのためには異常であることが、異端であることが、非日常的であるのに関わらず日常化することで心の殴り合い=暴露合戦を担保した西尾維新物語シリーズのように、どうしてもどこかで日常と距離を取る必要性がある。

 それが本格ミステリの不文律であり、慣習法である。

撫物語 (講談社BOX)

撫物語 (講談社BOX)

 

 

余談であるが、『撫物語』は〝エヴァみたい〟な引きこもり的A.Tフィールドを要し破壊していく過程で、自分が一番可哀想で可愛そうと自虐的に被害者面して加害者面に入れ替わっていく主体性の移動や分裂を通じて、自分を知って自己を見詰め直していく〝脱エヴァ的〟自分探し物語の中で、大きく見ていけば「探偵」的と「犯人」的めいた関係性が示唆的に描かれているので是非。

※更にセットで平野啓一郎『私とは何か』を読むことで補強される。

私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

 

 

 

なぜ、このような話を持ち出しているのかというと、そもそも本格ミステリの共通言語は普通ではなく異常であるからこその特殊設定だからだ。

麻耶雄嵩はそのツイストを効かせまくった作風であるが、勿論作者自身も自覚的にエンタメとして昇華している。

www.asahi.com

「僕自身の性分なんです。やるならとことん、少々破綻(はたん)しても突っ走ろうっていうタイプなんで。それが作品のとがったところになるのかな」

「たとえば、手間のかかる密室殺人は現実的ではないともいわれる。だが、「本格ミステリーは密室があったほうが面白い。だったら徹底的に密室が成り立つような世界にしてしまえばいい」。そして、こう続けた。「普通の社会のなかに密室があるから浮くのであって、密室が浮かないような社会というか、思考性になれば作品中では浮かなくなる。まあ、それだと作品が浮いちゃうんですけどね」

「探偵」が当たり前に存在する世界観はやはり不自然だろう。

それが本格ミステリの文法であり、不文律だ。慣習法的と言っても差し支えないだろう。

「探偵」がいる異常が日常化している物語上の都合は、「探偵」というピースが予め用意されていて余すところなくハマる前提でのパズル画でもある。

麻耶雄嵩の作品群は、その文法が当たり前のように受け容れられる世界を描いてきた。

しかし本作の『友達以上探偵未満』では「名探偵になりたい」と志望する彼女たちの日常での息苦しさが表現されており、ジュブナイルとして現実と夢の距離を痛感させられる構成でもある。

「名探偵になることが夢」であると豪語する彼女たちは、次第に成長していくクラスメイト達から夢のようなことを言っている事実からドン引きされたり、否定的態度を取られる始末。

それが普通であり、等身大的なリアクションであり、距離感だろう。

探偵=異物を異物として消化することに抵抗感もなければ、夢見がちな彼女たちを押し潰していく現実とマジョリティが当たり前に存在するのは日常そのものではないだろうか。

つまり、本作は麻耶雄嵩が書いた本格ミステリ的日常系ライトノベルである。

本格ミステリの慣習ではなく、こっちの世界に寄り掛かっているけれども、それがやはり徐々に素直にズレていくのがまた作者らしいのであるが。

 解決への道しるべとして目的と手段の関係性が面白い。

「目的=動機」と「手段=ロジック」するならば、本作は犯人当てとして徹底的に目的を排除した作風であり、解答案は徹頭徹尾「目的<手段」で提示されている。

犯人としては第一に「目的>手段」であるが、そんなの知ったこと無いという態度というよりも結局当て推量での限界があるから脇に置いとこう精神がイコール純粋なフェアプレイに直結する構成となっている。

それもそのはずで「目的」を二の次に置いたことは物語上必然的であり、既成概念で固められた価値観へのカウンター含めた恋愛感情の縺れであるから困難だからだ。

「目的」から導くのは相当難易度が高い(一般的な2時間ドラマなどの文法ではなく、やはり本格ミステリ的ルール)のであれば、都合上「手段」から道を辿るしかない。それによってフェアプレイが担保される仕組みだ。

 

本作は探偵原理的と「探偵」の孤独を描いた。

名探偵を志す彼女たちが承認されていくことで孤独の渇きを潤していく。

ももとあおの関係は相互作用そのものだ。

「探偵」が観る者として、推理を通じた対話(承認と提示)を実践するためには他者のプライバシーを侵害することもやむを得ない不可抗力としての葛藤、また他者性を喪失していく探偵中心原理主義の傲慢さなどのアンビバレントな揺らぎが思春期の少女たちと合致した筆が走っている。

あおの空虚な胸はいつしかブルーオーシャンに充たされていた。豊饒な海の向こうにはやがて新世界が観測できるはず。でもそのためには、ももに失望されないように歩き続けなければならない。

あおは長い間、世界は観察する者と観察される者、つまり探偵と群衆の二つに分かれているものと思い込んでいた。それがひと月前、世界は探偵と群衆とワトソン役の三つに分類できることを知った。

そして今、世界は自分とももと群衆とワトソン役の四分割の様相を呈し始めている。だが果たして世界はそこで胎動を停止するのか。いったい世界はいくつに分割できるのだろう。まるで受精した卵子の成長を目にしているかのようだ。

正直、本作で一番印象的なのは推理や謎でもなく、引用したこのモノローグだ。

世界を分析して解体していく「探偵」が「新世界」への扉を見付けていく可能性を示唆している。

今まで「探偵」と「助手」の関係性とシリーズ化に伴い破壊されていく度に再構築されて息苦しくなっていかざるを得ない袋小路と直面するしかなかった麻耶雄嵩が、 袋小路手前よりも遥かに射程の長いものを描いたことに驚嘆した。

つまり、従来の麻耶ワールドの「入り口途中から袋小路まで」ではなく「入口手前=探偵未満」までを描くことで「入口=新世界へ」と既刊に比べて距離がある作品になっている。

「探偵=ゴール」となっている本作は、原理上犯人との利害も一致している。

 このゴールの設定が日常系を飛躍させる辺り実質『宇宙よりも遠い場所』だ(両作品が同時期であるから新世界系への空気は確かにある)。

futbolman.hatenablog.com

宇宙よりも遠い場所』は〝南極セラピー〟という精神上の名目のもと手段としてのフィジカルが機能(有効性はサン=テグジュペリ的)し、学校=世界の外へ展開されていく南極=非日常が日常化することで、「ここ」の否定から始まった「ここではない何処か」への逃避や選択は、最終的には「そこ」も「ここ」になるという、日常はどこでもどこまでも日常であること、学校の中で完結していたならば友達ではなかった彼女たちが学校=世界の外で友達になっていくまでが描かれた。

ゴールへ向かう日常から出発し、ゴールという非日常性を獲得した後に、その非日常すらも日常化していく。

『よりもい』では学校という世界=日常を飛び出して振り幅のある南極=ゴール=新世界へフィジカルを引っ張って描いた。

進撃の巨人』であるなら「壁の向こう側」とそのブレイクスルーについてになるだろうか。

本作のラストが描いた、日常から新世界への兆し=ブルーオーシャンの向こう側へ羽ばたくためには、一先ずは日常を書かないといけない。

つまり麻耶雄嵩の文法や不文律として共有されていた世界観では異常が日常化していたので、本作は従来の麻耶雄嵩のスタイルでは書けない。

そのために日常系ライトノベル的側面を加えた、本格ミステリとしての性格を帯びる必要性があった。

「名探偵=ゴール=新世界へ」ではなく「探偵未満=入口手前」なのだから、必然的に異常が日常化するのは難しい。ある程度の距離を取らないといけない。

引用したモノローグは生命や神秘の誕生、人間原理としての空気も感じられる。

しかし、それは日常から敢えて距離を取る性質=新世界への射程であり、麻耶雄嵩の文法が当たり前のように享受されている世界観への跳躍として。

ガール・ミーツ・ガールを通じて、群衆やワトソンを意識している時点で他の視点は置き去りになっていない。なぜなら第一に推理を開陳するということは(読者も含めた第三者への)対話による承認と提示であるからだ。

他者性を感知しながら切磋琢磨していく少女たちの新世界への助走から、異常が日常化する前日譚とも取れる作品である。

少女たちが入口の扉を開ける場合、それは新世界が描かれる可能性だろう。

袋小路の手前から物語を開始する作風とジレンマからも距離を取り、前振りとしての可能性を提示しただけの本作は確かに麻耶雄嵩らしくないかもしれない。

ただ、その〝前夜〟としての記録は貴重である。

ある意味「新世界後」を描いた作風、極地への到達とした『メルカトルかく語りき』とは対照的であり、長い道しるべだ。

メルカトルかく語りき (講談社文庫)

メルカトルかく語りき (講談社文庫)