おおたまラジオ

別にいいじゃない、鍵ぐらい

おおたまラジオ第1.8回 村上春樹と村上龍/西加奈子と朝井リョウの時代性の違い

村上春樹村上龍/西加奈子朝井リョウの時代性の違い

 

今回はゲリラ放送でした。

聴いて下さった方ありがとうございました。

収録は最後唐突に終わっていますが、この音源にあるようにそれぞれの個別の作品について詳しく触れるものではなく、作家と時代の根底にある共通項を取り上げる内容です。なのでディティールは大きく省略されており、一部分の本質のみ触れています。

作品毎についてはいずれ書き起こすなり、喋るなりしたいですが。

しかし、時間の都合上、明らかに説得力が欠けている部分がいくつかあります。

それは時代性の違いについて。

なぜ村上春樹村上龍が初期に描いた時代性ならば許容されていたのか。ラジオ内では60、70年代と口にしていますが、正しくは60~70年代を受けた上での70年代以降の空気です。言葉が足りていません!

また、朝井リョウ西加奈子らの作品、つまりなぜ2010年代は自意識の檻から抜け出せない若者像のコミットメントまでの足掻きを描かないといけないのか。

ここでは後者のみを取り扱います。前者は後々。

以前にブログで記したのは森博嗣の『スカイ・クロラ』を引用すると。

摂取したもの2018年8月 - フトボル男

3.11を機に考えが変化した。

あの「時代と日常の切断」あるいは「空気と共同体の分断」によって〝終わらない日常〟が〝終わりある日常〟だと突き付けられた時、退屈で変わらない日常的な厭世観とその少しの超越性を描いた『スカイ・クロラ』の噓くささが恐くなってしまった。読めなくなっていた。遠ざけた。

ゼロ年代の「空気系」「日常系」は変わらない日常=終わらない日常の増幅としてループする構造、そこにはサブカルチャーと日本のガラパゴス的展開していったインターネットの接続があり、ニコ動や2chなどのプラットフォーム(現在ならSNS)を駆使することで双方向性のあるお祭りが生まれ、誰もが「ネタ」と「メタ」を使い分けて「メタフィクション」と同時に「コミュニケーションのためのコミュニケーション」を消費していきました。

その大いなる退屈さ、成長できない変化の無さ、虚無感と哀愁は狂騒的で祝祭的だったと思います。だからこそゼロ年代を懐古する時に〝エモかった〟となるわけで。

しかし結果的に3.11による分断性によって、「終わらない日常」は「終わる日常」だったと痛感させられ、「変わらない日常」は「変わらないといけない日常」へと変換せざるを得なかった。

妙にシンクロニシティが発生した『魔法少女まどか☆マギカ』や『STEINS;GATE』や『輪るピングドラム』を観れば観るほどに時代と社会の切断は明らかで、90年代~ゼロ年代の空気そのものを徹底的に吊るし上げたのは事実としてあります。

これらの空気感を前提として踏まえた上で、西加奈子らの作品を読むと「クールに気取ってんじゃねえ!」となります。リアルタイム性を突き詰めた結果、対岸の火事でもある悲劇をニュースとしてしか消費できない私たちに向けて「今」の危機感を描いているのだから当然です。

だからこそ悲劇を隣人以上の距離として同居する強烈な感受性を痛切に描くことで、私たち読者との距離を一旦取りながらも、徐々に影を重ねざるを得ない=交差していく瞬間に徹底的に殴られる感覚。

以上の空気が前提としてありましたが、ガッツリ省略してしまいました。

申し訳ありませんでした。

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