摂取したもの2018年10月
今月は森博嗣ブームが来た。
森博嗣は私にとって10代のときに影響を与えた作家の一人であるが、森マジックは初期作品群から安定して流れているのだと再確認。
三浦しをん『風が強く吹いている』はアニメの影響から。アニメの出来栄えが良く、先の展開が気になったので原作を読んだわけだ。これで立派な原作ファンの顔が出来る(それでマウントを取るほど切羽詰まっていないから)。原作に触れて、かなり橋渡り的描写、つまりリアリティラインとして際どい部分がアニメでは相当補強されているのが素晴らしい。
流石、喜安浩平だ。原作の薄味のところをフィクションとしてきちんと立ち上がらせているし、「対立軸の延命」による物語的胡散臭さが絶妙のまま物語の牽引力=ハイジの存在感に繋がっているところも見逃せない。原作を補完しながら、キャラの造形や説得力を補強している上手い脚本。
あとは、宇野常寛編集の『PLANETS10』に尽きるだろうか。
以下は一連の感想ツイートの元ネタ。
#PLANETS10 消極性デザインまで読んだ。これまでの項の流れは一環として問いの設定、前提としてあるものを切断して再定義することが記されており、入り口としてメディアかプラットフォームか、宇野さんはメディアの人間だからメディアとしての入り口を作るために「遅いインターネット計画」を立ち上げる宣言を行い、この状況を限定的なものとした現場の作り込みは「ゲーム的」であり、システムを変えることでゲームを変え、人の動きと思考モデルも変化させていく。特集の「戦争と平和」は抽象的で大文字テーマであり、どのように議論の解像度を高めていくのか作り手として問われるわけだが、一連の思考モデルを提示することで見せ方を示す=世界の見え方を変えることはまさに批評の強みそのもので、「世界の見方を変える」ことが批評の価値であると思う。大文字テーマに対して「個人/国家」「ローカル/グローバル」や「ミクロ/マクロ」「ポリ/テック」や共同体の性質などの観点から掘り進め、人との繋がり(対話と交渉)が居心地が良ければ生きやすいのでは、と再定義された「平和的」で幸福追求の形として、その中で実現可能なアイデアを列挙していく上で冒頭にある「遅いインターネット宣言」によって一時的に切断されるものが、「戦争と平和」特集において特に『消極性デザイン』で緩いパブリックな空間としての機能性含めて「本来可能性としてあったであろうネットの価値と力」として示されているのがシニカルな繋がりとして読める。この座談会は本当に面白く、ユーモアがありながら前進的である。これは「遅いインターネット宣言」で現状のネットに絶望して切断して再定義を決意した宇野さんが抱く「本来あって欲しかった可能性」で、井上明人の寄稿文中にある『サボナ・メソッド』からみるとメディア側として仕掛ける方法として一時的に「(1)Aの主張が通る」を採用するが、最終的なデザインは『消極性デザイン』の項で全面的に表れているような「(5)ABともに満足できる解決策を見出す」感だと思う。プレイヤーとしての宇野常寛も(5)への格闘をしている。そのための決意表明であり、「戦い方の設定と方法論」が本誌なのだろう。
巻頭のチームラボの「ボーダレス」的な本誌は情報と知が飛び交っているように思える。それはまさにチームラボの『カラス』的でもあり、本誌を読み進めていく内に徐々に飛び交う影が重なっていくことで多面的になる。結果的に本誌を通じて僕たち読者は、読まなかった/体験してなかった昨日と意図的に切断され、様々な知の越境による再定義に触れることで、今日の読者自身も再定義されていく。その興奮を担保しているのはある程度の質量を保持し、様々な知と結んでテーマを共有化できる「雑誌」というメディアだからこそ。まだまだ雑誌は捨てたものではない。
戦争特集は今の「戦争」を改めて問い直そうという企画。日本人の持つ戦争観はWWⅡからアップデートされていないまま、ボーダレスなテロの時代に突入した今の切迫感に切り込んでいる。
#PLANETS10 戦争特集読んで良かった。押井守の「身体論」から「走る人」に繋げているのも素敵だが、井上明人の寄稿前後から特集の思考モデルがグラデーション的に変化しているような気がする。その前後が談話的記事で、井上記事は寄稿論考として挿入されているが、テーマに対する思考の深度が虚構シュミレートを交えたリアリズムと実践的になっていく旗印のよう。この井上記事のタイミングが絶妙に思える。そして実践的提言から「身体論」へ。だからこそ「遅いインターネット計画」の発動篇は巻末にあるわけか。読み手に対して気持ちのいい流れだ。
井上明人の寄稿文挿入は思考レベルの戦争モデルの転化を図っている。雑誌全体でも異色でありながら、思考の変化をトレースしていくための装置となっていると思う。
#PLANETS10 片淵監督と宇野さんの遣り取りで「パト2は結局戦争そのものを誰も認識することはできないのだと確認して終わった」とあり、これが戦後日本の在り方と不在感やある種の忘却性といった認識論とその表現に対して『この世界の片隅』は返歌となるように戦争の傷跡における「グロテスクな緊張関係の告発」をアニメ史の構造を用いて描いたと完結しているが、戦争特集後の「走るひと」コラボは単に押井守から「身体論」の接続をする位置付けで読んでいたら打ちのめされた。平易に書かれているけど凄い。
世界を捉えるスピードの調整とシンプルな思考への転換とその接続は、街から街へ風景から風景への没入が身体と地理を繋げて立体的にさせると。エリアの繋がりや人との繋がりはある一定の流動性があり、どのように五感による情報を浮かび上がらせてシンプルに体感するかどうか。
僕は9.11後の情勢に対して幼く何も分からなかった思い出がある。世界における自己の矮小化とそのナイーブな質感は伊藤計劃の『虐殺器官』を読んだ時に唸り、この戦争特集自体も大文字テーマをどこまで解像度を高められていくのかという挑戦だと思う。これに触れることで自分の姿勢を正す読者は多いだろうし、世界の見方を変える批評の価値をより一層信じるものだと思うが、一方でメディアでもプラットフォームでも戦えない情報の一消費者としての自己と相対した世界のスケールを考慮して見詰め直す人もいるだろう。
冒頭で記した宇野さんの言を借りた上で述べるなら、戦争あるいは世界は誰も認識できないのかもしれないし、一部のミニマムな世界が関の山かもしれない。その巨大さに相対する時に己の身体性と思考のちっぽけさを嘆いたとしても、「走るひと」で展開されている論説はシンプルな接続方法の一つとして提示されていて…宇野常寛は演出家だと思った。
#PLANETS10 押井監督と宇野さんの項で「ネットにのせると現実の速度と調整が起きてしまう」とあり、押井守が「切断と衝撃」を語る中で私たちは距離感を時間に換算して生きており、「距離の世界ではなく時間の観念のなかでしか生きていない」と述べている。
その後に続く「走るひと」コラボは、この押井論の展開をしている。それは全体的に走る行為そのものが「時間ではなく距離、空間の消費」として語られており、体育からの解放後にどのように人が走る理由を探す過程において、ライフスタイルやカルチャー、あるいはナルシズムや本能、ファッションや音楽との組み合わせが論じられている。既存のイベントや場所と合わせた複合型のランニングカルチャーとしての提言が並べてあるが、押井守は「東京は反文化的・反歴史的な発想のない不思議な街」として述べた後に「走るひと」コラボではカウンターとして空虚な都市空間に身体一つで文化的運動に繋げていくための「走り」を述べている。
この一連の流れは美しいと思うし、極めつけは「走るひと」後のイケハヤランド特集の冒頭。「まだ東京で消耗しているの?」
地理と文化の切断からどのように地理を立ち上げるか、能動的な場の設定が求められる現代において都市空間の消耗的態度へのシニカルとアイロニーが結果的に都市への没入を問いなおす契機となっている。
#PLANETS10 近藤那央のインタビューが面白い。黄金期のロボットSFの亡霊との切断を行い、展開先が『電脳コイル』的=デンスケへの愛着と実在性というのも既存のアイデンティティから解放され、そして非人間的で生体的なアプローチから「ポケモン」的な消費モデルまで宇野さんが補完している。愛玩的から風俗や生活環境の溶け込み具合のレベルをどのように調整するのかは分からないが、妖怪的アプローチ、それこそ『妖怪ウォッチ』的なリアルに介入して存在理由も明示しつつファンタジーな物質があったら確かに楽しいと思う。
往年のSF作品よりも『電脳コイル』をキーワードにしている点が現代ならでは。『電脳コイル』のデンスケというマスコット的消費として存在し、電脳空間を現実に拡張している〝リアリティと温度〟を作品の一つの要素として当たり前のように実在していた空気感を合わせているナチュラルさが、近藤那央の発明の違和感でもあり、親近感になっていくのだろう。
#PLANETS10 読み終えた…濃密な時間を過ごして僕自身も切断され、再定義を迫られた。大文字テーマを認識しきれていない読者への知の啓蒙であり、共有化。その重さを支えている本誌は「遅いインターネット計画」の宣言としても重要であるし、結果的に「遅いインターネット」的として日常的な思考や物質と切断し、「じっくり考えさせる」ことに成功していると思う。だから本誌の目論見そのものが既に思考実験のプロトタイプともいえるのではないだろうか。宇野さんの本気が見えるし、『銀の匙』11巻にあるように「本気には本気で返す」のが礼儀であるから読者が出来ることは巻頭のチームラボから提起され、雑誌の大部分に継承されている設定や一記事で完結していそうなミクロなテーマが橋渡し的になることでマクロ的に立体的に繋がる編集に対して真剣に「じっくり読んで考える」ことだと思う。
本誌を購入するキッカケは、押井守と宇野常寛の遣り取りが読みたかったからに尽きていたが、強きの価格設定に対して宇野さん直々の解説集が特典として付くこともあってなんとか背中を押されたことだった。しかしいざ読んでみると、価格は決して高いものではなかった。目当ての押井守記事以外も「じっくり読ませる」ための工夫やテーマ設定が丁寧に練られており、一つの「本」として充実の並びになっている。なんといっても「戦争と平和」特集から、『走るひと』コラボは宇野さん自身の趣味の啓蒙だと侮っていたら、テーマがヒモ付されたまま予想外の世界に運ばれたこと。そして実践的な「身体論」の拡張として「空間=都市」への提言に繋がり、シリーズインタビューなどにも結節している点。解説集にあるようにデザインの統一感、総合誌としてのカラーを丁寧に結び、読者がどう読んだらどこに運ぶかまでカラーとしてデザインされている。この充実感こそが雑誌だと思うし、PLANETS編集部に感謝を伝えたい。いい本です。
#PLANETS10 思い出したのは外山滋比古『思考の整理学』の「われわれには二つの相反する能力がそなわっている。ひとつは、与えられた情報などを改変しよう、それから脱出しようという拡散的作用であり、もうひとつは、バラバラになっているものを関係づけ、まとまりに整理しようとする収斂的作用である。」のように、本誌はこの作用が「総合誌」的に機能していると思う。テーマや読むための流れが「雑誌」というコンテクストに収斂され、読者自身への提言として拡散されている。『思考の整理学』では指導されて飛べる「グライダー人間」と自力で飛行できる「飛行機人間」の差異について記されているが、本誌の情報を十分に読んで終わりだけではなく、飲み込んだ上で解釈して、宇野さんたちの提言から更に拡散的に「飛行機」的に議論を始める、参加することが態度として求められているのではないか。だから本誌はそのためのチケットであるし、その態度は例えば国家間のグローバルな超巨大共同体に参加できてなくても『消極性デザイン』のようなミクロ的に分解し、公約数的に繋げていくことで「生きやすさ」は変わることを具体的に示している。
森博嗣『四季 春』
羽生善治『決断力』
森博嗣『森籠もりの日々』
森博嗣『魔剣飛翔』
森博嗣『正直に語る100の講義』
石持浅海『鎮憎師』
家入一真『さよならインターネット まもなく消えるその「輪郭」について』
村上春樹『職業としての小説家』
小幡和輝『学校は行かなくてもいい』
東野圭吾『学生街の殺人』
山田玲司『年上の義務』
三崎亜記『コロヨシ!!』
美濃部美津子『志ん生一家、おしまいの噺』
水道橋博士『藝人春秋』
朝井リョウ『風と共にゆとりぬ』
西加奈子『舞台』
三浦しをん『風が強く吹いている』
水無田気流『「居場所」のない男、「時間」がない女』
ばるぼら さやわか『僕たちのインターネット史』
大澤聡『1990年代論』
外山滋比古『思考の整理学』
佐々木敦『ニッポンの文学』
宇野常寛編『PLANETS10』