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生態系における人間を観察者として捉える

 

涼宮ハルヒの憂鬱 (角川スニーカー文庫)

涼宮ハルヒの憂鬱 (角川スニーカー文庫)

 

早い話、人間原理である。

生態系とは生物と無機的環境によるシステムの総体であり、地球の表層環境で成立しているものである。

生態系のシステムの中には生産者、消費者、分解者が存在して、食物連鎖ヒエラルキーを築きながらバランスを取っている。 

地球の表層環境に形成している生態系であるが、より大きな視点で観れば地球という大きなシステムの一つである。

地球は太陽風宇宙線、磁気といった宇宙との相互作用や、磁気圏、大気圏、生物圏などのサブシステムのフローが組み込まれており、その中でも生物圏を中心にして二酸化炭素と窒素の大気、水と化学成分の海洋、堆積と風化の地殻といったそれぞれのシステムがあり、それぞれが相互作用の結果、調和している。

生物圏における海洋生態系において、世界の表層海流は循環していることは明らかな事実で、表層と深層の水がサイクルしている。熱が運ばれる表層にある栄養塩を運ぶことから熱塩循環が起こり、水とは温度によって密度が変わるものであるから、水が冷やされると密度が高くなって重くなるように、再冷却と温かい水が循環によって発生する。

鴨長明の『方丈記』の一節にある「ゆく川の流れは絶えずしてしかも、もとの水にあらず」のように、世界の全ての存在が大きな時間の中で一度に流れ去ってしまうわけではない。

恒常的に川の中を流れる水のように、自然の中の個々の現象は常々変化していき、流れ続ける川の存在自体といった自然の姿は、常に不変のまま変わることなく在り続けるもので、生成変化とはまさに破壊と再生のサイクルを指し示す。

例えば、木の世代交代の更新は、落雷といった山火事によって針葉樹以外の生育に場所と時間を与える。

代表例がジャックパインの球果である。温帯落葉樹林や熱帯雨林などの森林の垂直構造は、外側に生えてながら着生植物を伴っているものが多く、森林におけるギャップの発生の際に、木が枯れて倒れると樹冠ギャップによって、倒れた際の中心部と周辺部の破壊が行われるので空間にギャップができる。近くの木々は壊れるが、新たな木々の生育へのスペースの確保の契機となる。

山火事に関しては、サハ共和国のカラマツ林やアラスカのトウヒ林など一回辺りの火事が大規模化しているデータが顕著である。

降水量が減ると乾燥し、気温が上昇することから、火事になり易い状況は出来上がっている。乾燥指数と焼失面積の相関性は殆ど同調していると言ってもいい。

自然環境における循環は、均整の取れた自然の調和がある。

バランスが崩れないからこそ成り立っている。近年の人間の環境破壊によって、生態系のバランスが崩れていると言われているが、大きなシステムの地球生態系における人間の役割は観察者そのものであるだろう。

文明化の発展によって環境にメスを入れて破壊を進行させてきた人間でもあるが、それを癒す様に再生に取り組むのも自然に寄り添う人間の存在なくして一度関節が外れたものを直せないだろう。その破壊と再生の過程と結果に向き合うのは、観察者の視点が無いと成立しない。

「自然と人」は二元論的に語られがちであるが、自然環境という大きなシステムの一部分であり、もはや地球を語る上ではどちらも欠かせないファクターであるだろう。自然が身近にあったからこそ、人間の哲学や自然科学といった学問や思想が展開されてきたと思う。

今日では哲学と科学はそれぞれが独立して切り離されているように思えるが、もとは同義の学問であったように着想点や起点は、ある現象によって引き起こされるものである。学問としての哲学性が入り組んでくることに、対象となる自然があり、そのトリガーとなる自然に身を置いているからだろう。

哲学者のガブリエル・マルセルは「内と外との区別は、自と他との区別が入り込んでくるところでのみ可能になる」という言葉を残した。

観察者としての人間が認知できる領域には限界がある。

バタフライ効果や地球の裏側で木が倒れたら、その存在について検証していくことは出来るが、直接的に人間が現象を捉えることは困難である。一個体という意味ではなく、人間が未だに捉えていない現象に関して観察することは当然出来ない。

観察の対象の区別を付けるための情報の整理が必要となる。観察の結果の情報と観察外の情報の区別の連続が知の集合体となる。それには言語化、抽象化、論理的な情報化が、人間の知識の骨となり、情報を駆使した知恵という肉になるものであるが、その総体化には自然の歴史でもあるのと同時に人類の足跡とも言えるだろう。

自然メカニズムの論理をより明確にすることで、上記のガブリエル・マルセルの言葉のように内と外の区別を付けるための領域がクリアとなる。自然が対象としてあり続けるならば、それは観察によって人間が発展していくことに繋がるだろう。

しかし、環境破壊の進行から、エネルギーだけではなく知も含む自然の恩恵を削ぐことになる。悠久の時が流れている地球の環境システムでいえば人間の発生、人間の発達による文明化による破壊と再生も、地球という天体からすれば一つのサイクルでしかないかもしれない。

世の中には直接目に見えるもの、手で触れるものがある。科学は直接的に目で見ることができない原子や分子といったもののことも考える。そこから唯物論的に、論理の手続きで公理から定理を導き出す数学的に、物事があるかないかについてのさまざまな問いからその問いへの答え方の間になる風が吹けば桶屋が儲かるといった因果関係を調べる存在論的に、そしてエビデンスから推論していく自然科学的に、観察したものについて「ある」か「ない」を検証していく。

観察者としての人間は、学問的に実際に行けない距離の天体や観測できるが直接的に手で触れないものの存在を知っていることを証明している。そのリアルを積み重ねていくことは総体的な知の集合で、哲学的な存在論へと思考が流れていく。

量子力学創始者の一人であるオーストリアの物理学者エルヴィン・シュレーディンガーは、1944年に『生命とは何か』を書いている。

生物が世界を認知・観察し、自ら秩序を形成している、という考え方が示されている。世界を認知・観察することは、周囲環境から情報を取り出すことである。人間は情報と関わる存在であり、観察者の視点によって初めて捉えられる。

つまり、生物とは世界を主観的に認知・観察している存在である。

観察して証明していくことで見えないものが分かる。「なかった」ものが「ある」ようになる。例えば、宇宙は人間が発達する前からあったが、人間が観測したことで宇宙の意味や論理が分かるようになった。

養老孟司は、目や耳などを通じて受ける感覚に対して、そこに「同じもの」を見つけ、意味に変換し、秩序を与えるのが「意識」と自著で記した。人間の意識化によって、観察対象のメカニズムの論理化、そして存在論へと繋がっていくものだろう。

宇宙以外に他にも「ある」ものは最初からある。それをまだ意識化していない、知らないから「ない」ことになっているが、把握していない「ある」ものは多いにあるはずだ。

それこそが観察者としての限界でもあり、延び代とも言えるだろう。

地球生態系の中で自然ともに生き、学び続けるのが人間としての役割ではないだろうか。

 

 

参考文献

西垣通(2009)『ネットとリアルのあいだ』筑摩書房

吉田夏彦(2017)『なぜと問うのはなぜだろう』筑摩書房