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酒井田寛太郎『ジャナ研の憂鬱な事件簿』を米澤穂信『古典部シリーズ』のパクリだという人へ

 

ジャナ研の憂鬱な事件簿 (ガガガ文庫)

ジャナ研の憂鬱な事件簿 (ガガガ文庫)

 

酒井田寛太郎『ジャナ研の憂鬱な事件簿』が米澤穂信の『古典部シリーズ』に類似しているとの情報をキャッチした我々は南米の奥地へ飛んだ。

これまで『古典部シリーズ』めいたものを求めて、幾度となく彷徨った魂は鎮まることなく学園ミステリという箱庭の地縛霊と化したままであった。

初野靖の『ハルチカシリーズ』や似鳥鶏の『市立高校シリーズ』などに代表される学園青春ミステリを漁っては明らかな差異に惑い、そしてそれぞれの作品の色を楽しんできた。

私にとって、米澤穂信の『古典部シリーズ』は思い入れの強い作品である。

同時に京アニによるアニメ『氷菓』の際に、本格原理主義者としてのイデオロギーを掲げていた私がブログを通じてとある人との一連の遣り取りをした思い出は決して忘れることができないと思う。地理的な、そして時間的な距離を容易く埋めてしまうインターネットによって齎された至福の一時であったことには違いない。

そんな強烈な思い出がある『古典部シリーズ』に似ている作品があると耳にした。似ていることから、安直にパクリとも言われているようだった。

それが今回取り上げる酒井寛太郎『ジャナ研の憂鬱な事件簿』である。

本記事は感想を述べるものではない。

あくまでも個人的に本作に関するAmazonなどのレビュー欄がとてもきな臭いものばかりであり、その怒りから主張せざるを得ないものだと思ったためである。

そして前提として、厳密に『古典部シリーズ』や『ジャナ研』の作品毎の差異を細部に検証する記事ではないことを記しておく。

『ジャナ研』は『古典部シリーズ』に似ているとあちらこちらで書かれている。

その安易な書き込みは果たして本当にそうであろうか。

まず、『ジャナ研』の導入が学園というパブリックな箱におけるジャーナリズム(≒イエロージャーナリズム)への批評性の期待が高まる作りになっている。これはペンの力やあるいは探偵的資質による推理力・洞察力によって真相を暴くことで生じる赤裸々な加害・被害関係の下でどれだけの人間がその資格を堪え得るのかは疑問であるからだ。

その疑問に対して一石を投じる試みをしたのが『ジャナ研』という印象である。

本作のプロローグに以下のような記述がある。

「さて、最後の問答だ。ジャーナリズムとは何だ?」

 唐突な謎かけだが、啓介はこの一年ですっかり慣れてしまった。この禅問答もどきは、水村の趣味みたいなものだ。

「エゴイズムです」

 このように本作の主人公・工藤啓介はジャーナリズムについて「エゴイズム」という表現をしており、ジャーナリズムへの言及性は明らかに『古典部シリーズ』よりも米澤穂信でいうならば『王とサーカス』寄りのテーマであるには違いない。

そして、第1話の「ノート消失事件」を読む限り、帯のコピーにあるように

真実なんて……綺麗なものじゃない。

真相のほろ苦さが売りの(青春は薔薇色だけではなくては灰色もある)『古典部シリーズ』的であるが、探偵役の工藤啓介のトラウマ云々が『小市民シリーズ』であり、『古典部シリーズ』では限りなく抑えられているゼロ年代の部活モノの文脈(=部室や教室でのコミュニケーションとしての消費から、そもそもその輪に入れないボッチ主人公の友達探し・欲しい系の台頭へという文脈に接続していく)としての古典部の活動自体における古典部の主義主張については『ジャナ研』の方が、つまり学校新聞として押し出しており(『氷菓』ではその活動媒体の文集「氷菓」自体の謎を暴くものであり、「氷菓」を巡る学校の闘争と挫折の歴史を示すものであった)、また真実を暴露することの意義とその結果、工藤啓介というディスコミュニケーション的な存在から覗くレンズ=本作では学校新聞というジャーナリズムの信条や主張への抵抗や自意識の葛藤が『王とサーカス』以降の『べルーフシリーズ』的という按配で、とても米澤穂信的と言える。

余談だが、『王とサーカス』が描いているのはINFOMER=半径5m以内の等身大な探偵気質としての知る快楽や伝える快楽は、「誰の喜びであり悲しみになるのか」という現在地の確認作業でもあり、それはつまり私は今どこに立っているのかという実在性に基づく知りたいという欲望の業である。

「サーカス」を作る側と「サーカス=見世物」になる側の立場の違いやそもそも突き付けるのは誰のためなのか?という根本的な問いに対して、「モラル」や「正義感」や「信条」を昨今のジャーナリズムやネット警察によるネットリンチの炎上騒動含めたアンビバレントな感情の処理を読者は大刀洗万智の目線で通過していく。

futbolman.hatenablog.com

例えば千反田えるのように「わたし気になります」キャラが、『ジャナ研』でも同じカテゴライズされそうなヒロインの白鳥真冬でもあり、彼女の「直感的」な具合はそれとも取れる。

本作の工藤啓介のディスコミュニケーションぷりは「友達探し・欲しい系」文脈というよりも、数少ない気心知れた友人たちによる承認の現状で充足している姿勢はかつて抱えた傷=贖罪的であり、同様にヒロインの白鳥真冬の境遇なんかも、例えば「VS空気」(第三者などの明確な悪意の有無は置いといて)に据えれば、自意識と青春を掛け合わせて巡る模様は『青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない』と同じような承認性であり、テン年代的なツールの登場もありながらも、どうしようもないくらいに作品の空気感自体はゼロ年代の作品に通じる学校という閉塞感がある。

futbolman.hatenablog.com

結論、『古典部シリーズ』に似ているのは確かである。

しかし、『古典部』のテーマとは明らかにズレていると考える。

ここで難しいのは『古典部』のテーマ設定を第1部(『氷菓』から『クドリャフカの順番』まで)に置くのか、それ以後(『遠まわりする雛』や『ふたりの距離の概算』以降)に据えるのかでまた話は変わるが、ここでは第1部までに継承されていたテーマ=「熱狂に押し潰された人」と「持つ者と持たざる者の距離と才能の呼応」とすると、テーマは勿論のこと、それぞれのキャラの配置関係も違う。

工藤啓介のディスコミュニケーションは要するにデタッチメントというわけでもなく(折木奉太郎が効率重視の省エネ主義=やらなくてもいいことなら、やらない。やらなければいけないことなら手短に=デタッチメントだとするならという前提のもと)、どちらかといえば過去のトラウマを引き摺りながら探偵気質を抑止している姿勢の表れだろう。

また、ヒロインの白鳥真冬の「気になります」キャラぷりは確かに千反田える的であるが、直感と直情/その差異とお淑やかさによる所作みたいなのがグラデーション的な違いくらいは当然あると考えるし、以下のように本作の最後に描かれているところから

私だって、工藤さんが思っているような、ただのお嬢様では、ないかもしれませんよ?

2巻以降の展開へ繋げているところからキャラの造形はよりクリアになっていくのだろう(本記事作成時は1巻のみ読んでいる)。

工藤啓介の屈託というのは真実を明らかにすることへの抵抗、要するになんでもかんでも傲慢に真相を暴き散らすミステリにおける探偵批判であり、その批評性は延いてはある種のアンチミステリ的なので『古典部シリーズ』で例えると『愚者のエンドロール』的であり、その彼が抱いているトラウマ云々は『小市民シリーズ』的であり、またペンの力といったジャーナリズム精神によるスタンスへの批評性は『べルーフシリーズ』的に通じるものがあるため、酒井田寛太郎は正統に米澤穂信的だと考えて差し支えないと思う。

正直、驚いた。

ここまで米澤穂信を継承して、一部のアップデートに成功している作家がいるなんて思わなかった。

一般的にいわれている米澤穂信の書く物語は暗く後味がよろしくないという評価をそのまま当て嵌めるならば、本作もそれといっていい。

古典部』もほろ苦さが際立っていた(アニメ『氷菓』の番宣CMのアオリが「青春は優しいだけじゃない。痛いだけでもない。ほろ苦い青春群像劇」)と考えるし、そのテイストだけに焦点を当てるならば『ジャナ研』も『古典部シリーズ』的なのは確かである。

確かに類似していると思う。

しかし、これをパクリだとどうとか言うつもりは一切ない。

なぜなら「古典部シリーズのパクリだ」云々というには明らかな差異があるからだ。

設定やキャラや真相のほろ苦さというテイストさえ合っていればイコールパクリという表現が適当になるとは思わない。ミステリとしての遊びや見せ方などといった演出が丸々一緒ならばまだしも、である。

確かに表層的には『古典部シリーズ』に類似する点はあるが、『ジャナ研』の本質的な狙い=工藤啓介の受動的なコミットメントな探偵気質やトラウマやジャーナリズム性は本来『古典部シリーズ』が踏み込んでも不自然ではないこと(探偵気質は『愚者のエンドロール』と「長い休日」で触れている折木奉太郎という存在への言及=能動的なデタッチメントとしてであり、ジャーナリズム性は『氷菓』のように文集「氷菓」に古典部の面々が再度作中で何かしらを素材に書くことがあればという可能性だけ)を描いているので、本質的には好奇心という無垢なもの=白鳥真冬や『古典部シリーズ』の千反田えるたちへのカウンターとして素人探偵の業を題材にしているところである。

それはつまり、『古典部シリーズ』ならば千反田えるによって折木奉太郎が動かざるをえない状況に陥り、謎が明らかにされて、その痛みを抱える構図は『古典部シリーズ』だとテイストの真相のほろ苦さで留まっているが、折木奉太郎千反田えるのアクションや動機に対する批評性は『古典部シリーズ』ではあまり無い。

勿論、そのカウンターとして折木奉太郎に対して十二分に機能したのが『愚者のエンドロール』であるが、シリーズ的にはあまり拘っていない。

ただ、『ジャナ研』は意識的に探偵気質の業へのカウンターに踏み込んでいるから、テイストとして残る真相のほろ苦さ対する踏込みが違う。

『ジャナ研』にしても『古典部シリーズ』にしてもどちらの方が重いのか、ほろ苦いのかといった話ではない。その苦さ=真相への獲得に至るまでの意識的な距離と姿勢が明らかに違うのである。

優劣の話ではなくて、差異の話として。

であるから、『ジャナ研』は『古典部シリーズ』のパクリだとは全く思わない。

明白に『古典部シリーズ』が描き切っていない点に対して、『ジャナ研』は確かに意識として描いている。

青春を巡る自意識として、だ。

 

 

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