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『IPPONグランプリ』くっきーの発見/『水曜日のダウンタウン』の「モンスターハウス」の観方が分かってきた

 ・年末だなという実感が湧くのはお笑い番組の特番を観ている時だったりする。

最近放送されたIPPONグランプリの恒例問題「写真に一言」で、野性爆弾のくっきーがハマれなかったのが意外な発見だった。

「写真」にライドする秋山などのタイプだと勝手にカテゴライズしていたけども、くっきーの語り口がちょっと勝手が違うためテンポとリズムが噛み合わなかった。最初から完全にライドするというよりも、「笑点スタイル」的な前向上による客観的な線を引いてから、「写真」にライドするために語り=一言の距離がバラつくのが難点だったと思う。

その他の問題でも「笑点スタイル」のような前向上から繰り出される大喜利がある程度一貫したからこそ、後半の連続パンチとなって効いてきたわけだけど、あの共通の語りと「写真で一言」だとそもそも『一言』じゃないツッコミを受けやすいのも。

 

 ・『水曜日のダウンタウン』の巷を震撼させている名物企画「モンスターハウス」について、観方の提示が難しいと思っていた。

スタジオ内の阿鼻叫喚も含めて、一種のホラーとして見る場合だと結果的にクロちゃんの生態を映した実験企画でしかなく、それはそれでドッキリ的な企画を公開的に承諾を受けた状態で行っているのと差はなく、「リアリティショー」としての色物感をどのように「笑い」に繋がるのかは疑問のところだった。

だから、スタジオ内の消化の仕方やワイプの表情をテレビ的に編集されたのを観る限りでは、演者さんたちも扱いに困っている印象は受けていた。

「露悪的な恋愛リアリティショー」のパロディに、クロちゃんという番組の名物芸人を加えることで、これまで散々クロちゃんへのドッキリを仕掛けてきた番組側からのささやかなギフトとして、また「恋愛リアリティショー」という箱に閉じ込めておくことでの〝オープンなプレイヤー〟としての振る舞いに期待しての企画だったにしても、この「モンスターハウス」単体の観方って最初は結構難しかったと思う。

勿論『水曜日のダウンタウン』らしい悪趣味さはある上で、単なるパロディ的なものでしかなかったものが、ここ最近の放送回を観る限りではパロディの上に構えるクロちゃんという異物=モンスターの存在の許容だけではなく、テレビのシステム的に「恋愛リアリティショー」としてのゲームを変更することが行われ、ようやく観方が提示されてきた実感が湧いた。

単純に「モンスターハウス」の人気を支えているのは、SNSによる発信とその口コミにほかならない。健全な視聴者ならば観ないであろう露悪的なプレイヤーの振る舞いが放送されているからだ(笑)

本家『テラスハウス』にしても、各プレイヤーのSNSの発信とテレビ=リアリティショーとしてのゲーム性をヒモ付けにする、ネットとテレビのメタ的構造は見逃せない。ネットの評判を見聞きして、どう行動にアレンジを加えていくか、ゲームとして演出していくかが問われるからだ。
メタ的に、今の「ゲーム展開」はもはや人間の善悪を超えた次元での、つまり人力では抗えないシステムの力関係として表現されているところに、クロちゃんが上手く舵を握っているからこそドン引きする構図になっている。

プレイヤーとしての自覚云々よりも、恋愛感情という美しくも幻想的な欲望の共有が、クロちゃん中心に回ってきて、ようやく単なる悪趣味なパロディを超えた『水曜日のダウンタウン』らしさといえるのではないだろうか。

ここまで企画が進んでしまうと、もはや「やらせ」云々はバッシングになり得ない。

なぜなら『水曜日』自体が、編集や演出の中身を時には暴露的に扱うことで「笑い」に繋げる手法を使っているからだ。ある種の大義名分やら免罪符があるからこそ、今更、プレイヤーたちの振る舞いが「やらせ」だろうが「演出」だろうが、そのレベルは超えていると思っている。

熱狂した視聴者の感情は、放送途中あるいは放送後のクロちゃんのツイッターアカウントに凸撃し、炎上を演出してはその波紋がネットニュースとして流れ、ヤフトピを飾る。そんな炎上商法的な側面が、確実にSNSとテレビのメタ構造によって支えられているからこそ、企画としての色物感を強くさせるのだと思う。

今クール放送されているアニメ『SSSS.GRIDMAN 』でいえば、第10話「崩・壊」にて新条アカネの台詞にある「怪獣は人の気持ちを読んだりしない」や「怪獣はいるだけで人の日常を奪う」のように、クロちゃんの生態にある欲望は前者的であるし(テレビのプレイヤーとしての自覚の有無を超越した上で)、確実に私たちの日常=茶の間を奪う様は後者的とも言える。

よって、新条アカネの「怪獣論」に沿えば、クロちゃんは怪獣ということで。