おおたまラジオ

しまいには世の中が真っ赤になった。

『ボヘミアン・ラプソディ』感想 現実/虚構で現実に耽溺しきったフレディと虚構に救われたオタク(『SSSS.GRIDMAN』を添えて)

政夫:スタートに語り難いと言ってしまった『ボヘミアン・ラプソディ』の話をしましょうか。(昨夜に)観て来ましたよ。ろこさんはいつ頃行ったんでしったけ。

 

ろこ:先週くらい。

 

政夫:率直な感想をまずやりましょうよ。どうでした?

 

ろこ:俺は好きよ。めちゃめちゃ上がったし。

 

政夫:あー。2回目も3回目もリピートしたくなる?

 

ろこ:うん。どうだった?

 

政夫:僕は普通でした。

 

ろこ:普通(笑)

 

政夫:はい、普通でした(笑)あの、斜に構えている俺たち自意識ボーイズのスタンスとかではなく、普通でした。普通に普通でした。

 

ろこ:最後、感動しなかったの?

 

政夫:口コミとかネットの評判とかを事前に観た感じ、ラスト21分のライブシーンは涙なしでは観られないというのを受けた上で、僕も結構年を重ねて涙脆くなってしまっているんですよ。なんでもかんでもすぐ泣いちゃう。涙の価値が安っぽくなっているんですけど、全く来なかったですね。

 

ろこ:人それぞれや。

 

政夫:泣く素振りも無かった。僕自身は涙脆いから、自分の涙というのを感情の起伏と捉えて心を揺さぶられているんだけど、泣いた=良いわけじゃないと常々思っていて。

 

ろこ:拗らせているな。

 

政夫:僕の涙は安っぽいという自覚の上で。

 

ろこ:感動の涙とは違うと?

 

政夫:そりゃあ『タイタニック』とか観たら泣くじゃんという話ですよ(笑)

大衆娯楽映画の例として『タイタニック』を出しましたが、本作もそういう風に捉えるじゃないですか。勿論、追々に「音楽映画」の話とか、なんで『ボヘミアン・ラプソディ』がこんなにも現象化してしまっているのか等の所以はちゃんと伝わりましたし、頷ける内容だったので。社会現象化したりとか。

 

ろこ:あらすじは無しで、本題に入るけど、俺はオープニングの段階で「あのクラスの映画だな」って分かってしまった。

 

政夫:分かってしまったって(笑)オープニングの段階で受け取ってしまったとか映画仙人レベルですよ、言っていること(笑)

 

ろこ:(笑)そのクラスというか、ヒットしている理由とか分かってしまったという意味ね。

 

政夫:あの拗らせている風に受け取られたら誤解なんですけど、ヒットしている理由は分かるんですよ。そういうの分かった上で(普通だったと)言っているんですよ。

 

ろこ:え。

 

政夫:え?ろこさんが、先ほどこの映画は語り難い映画なんじゃないかと言っていましたけど、評論/批評的な話の側面だと思うんですけど、確かに僕が何で普通だと思ったのかは、これはenjoyの映画であって、interestingの映画ではないからなんですよ。

僕がおおたまラジオとかブログとかで(理屈を)捏ねくり回して話していますけど、僕自身が能動的に働きかけているわけじゃないんですよ、作品に対して。

 

ろこ:ほうほう?

 

政夫:最初から、その作品に対して「行くぜ!」って常々考えているわけじゃなく、通り過ぎて行った後に残ったものを構築していく…受動的なんですよ。

 

ろこ:それは僕もそうですよ。

 

政夫:取っ掛りがあれば動くだけで、だから動かしてくれそうな作品じゃないと難しいんですよね。『ボヘミアン・ラプソディ』はそういう映画じゃない。enjoyな映画であって、interestingな映画ではないというのはそういうニュアンスなんですけど。

僕が昨夜に観ながら思っていたのは、ろこさんが「政夫くんの『ボヘミアン』感想気になるわ。楽しみにしているね」とめちゃめちゃハードル上げてくるじゃないですか。

 

ろこ:(笑)

 

政夫:悪意がないのが余計にタチが悪くて。昨日観ながら「これ、感想をろこさんに言わないといけないんだっけ」と思いつつ、そうするとただただ時が流れていき、気付けばライブ・エイドのシーンになり(笑)

 

ろこ:早いな(笑)

 

政夫:自分の中に引っ掛かるものが何もないまま通り過ぎてしまった2時間ちょいみたいな。

 

ろこ:え、(今回)そういう流れ?

 

政夫:ちゃんと本編の話をしますよ。

 

ろこ:そこは刺さらなかったと。

 

政夫:僕は先月の段階で観に行くのを楽しみにしていたのに、いざ観に行ったら、「こういう感じ」になってしまったのは結局「分からない」ということなんですよね。僕は『ボヘミアン・ラプソディ』に何を期待していたのか分からないんですよ。自問していたんですよ。昨日の夜から今日の昼くらいまで。

 

ろこ:ヤッバ…

 

政夫:(笑)確実に言えるのは口コミやSNSなどによって現象化しているのも関係があるんですよ。期待値として。

 

ろこ:絶対ある。

 

政夫:それもありながらも、ただの伝記映画じゃない。Queen、フレディ・マーキューリーの自画像的(正確にはフレディへのイメージを詰めたモザイク的)だけじゃなく、Queenの神話的要素、もはやQueen神話として、だって曲作りの葛藤とかはほぼスルーされていて、Queenの成功物語の構成じゃないですか。

勿論、間にはセクシャルマイノリティや人種的マイノリティといったマイノリティのコンプレックスをフレディ・マーキューリーを通じて、またフレディの若かりし頃(何者でもなかった彼)が「フレディ・マーキュリー」になるまでとそれ以後の話として。

 

ろこ:政夫君がよく言っている『大きな物語』がQueenで、『小さな物語』がフレディだったりするわけでしょ。

 

政夫:それを引き合いに出すと、Queen自体が神話的な話で『大きな物語』的で、本来ならバンドのボーカルであるフレディ自体は『小さな物語』に分類するはずなんですけど、彼が伝説的だからもはや『大きな物語』的に組み込まれてしまっている。それが、彼の傲慢さを生み、ソロプロジェクトのパートに流れていくんですよ。

 

ろこ:そのパート好き。

 

政夫:(フレディは)クソだなって思って観てましたよ(笑)超性格悪いなって。

 

ろこ:そういうもんやねん。バンドしている人は。

 

政夫:単純にろこさんの意見を聞かせて下さいよ。

 

ろこ:どっから喋ろうかな…俺はそんなに知らなかったよ。Queen自体を。サッカーとかで掛かる曲というイメージで。

 

政夫:スポーツを通じて触れる程度と。

 

ろこ:でも調べたところによりますと、日本でもこの映画がヒットしている理由としては既に土壌があったというか。

 

政夫:そうですよ。Queen人気に火が着くの早かったのは日本ですからね。

 

ろこ:知らなくて。今ではハマっているんだけど。

 

政夫:サントラやアルバムを借りてきている感じですか。

 

ろこ:借りてきて…

 

政夫:そういう時代じゃないですね(笑)Itunesですよね。時代が(笑)

 

ろこ:年齢がばれるよ(笑)まんまとハマっちゃっているんだよね。

で、色んな人が喋っているんだよね、この映画について。よく言われているのが「追体験」。追体験をコンテンツ化したという話で、構成的にライブ会場的な雰囲気を感じたのよ俺としては。フェスな感じ。

 

政夫:それは観終わった後に友人とも話しましたね。その感覚というのは。

 

ろこ:なかなか映画でこの感覚(フェス的)は無いなと思って、「新しいな」って。流石だなって。

 

政夫:この映画自体が、かつてあった文化的なものを映画館という非日常的な空間で、リバイバルする価値を示していますよね。古い映画とか映画そのものを単館でリバイバル上映はありますけど、つまり映画館で映画をリバイバルするのは当たり前だったのが、今回Queenという音楽体験を映画館というハコに落とし込んだことによる共有性ですよね。

かつてあった文化、Queenというものを映画というパッケージにすることでの追体験、エンタメ性、映画なんだけど音楽的だからこそのライブの感覚、フェス的であったとかは、SNSや口コミとの相関性の良さが火着け役になった感じはしますし、古い映画をリバイバルするだけじゃないんだなって映画館というハコの装置って。

結局、映画というパッケージ化をしないといけないんだけど、映画館だから、でも音楽「映画」なんだけどライブ的(「音楽」映画)なものを映画というフォーマットに落とし込めば、「映画」としてではなく、ライブ的な感覚で観れる。そういう意味では「音楽映画」の可能性を示しきった。

だからこそ、僕と友人が帰宅途中で喋った内容として、「俺は映画が観たかったのか、ライブが観たかったのか分からない」という話に繋がるんですけど(笑)

僕はライブに行く人間じゃなくて、映画を観に行く人間だから…

 

ろこ:そうだね。そこのアンテナがちょっと…

 

政夫:そこが、俺は『ボヘミアン・ラプソディ』に何を求めていたのかと自問するのは必然的で。

 

ろこ:感動できるかどうかに繋がっていきそうだよね。

俺はQueenを知らずに観に行って、その後に色んなコンテンツを漁っている時点で自分の中に無いものが、鑑賞前はハードル高そうだなって思っていたけど、今は心地よさがあるんだよね状況として。

 

政夫:結局、この映画ってノスタルジーを喚起させる装置として十分に機能している。かつて実在していたQueenをノスタルジーとして体験する、かつてQueenを聴いていた世代とこれまで聴いていなかったけど新たにQueenをこの映画と通して体験した世代としてあって、彼らというのはQueen神話(『ボヘミアン・ラプソディ』)を観て、神話性やフレディ・マーキューリーの壮大さは、もはやオペラ的でスペクタクルなのかもしれないし。

ノスタルジー以外にも目を向けるなら、マイノリティがスタンドアローンとして確立されていく、フレディを中心に切り取っていくというのは、Queenなんだけどフレディの人生そのものでもあり…みたいな。

LGBTや人種的マイノリティの話は、今の時代にも当然ある問題意識として捉えられるし、基本的なコンテンツとしての摂取の仕方はノスタルジーなんだろうなって。体験してきた世代と、これから体験する世代に分け、映画館で音楽体験として楽しめたのが『ボヘミアン・ラプソディ』の功績じゃないですか。

 

ろこ:うん、間違いない。

 

政夫:映画なんだけど、音楽的な素晴らしさ、圧倒的なQueenの存在感ですよね。Queenを知らなかった人たちが惚れ込むと。

 

ろこ:え、銀杏BOYZの話?

 

政夫:しないしない(笑)銀杏、今関係ない(笑)

 

ろこ:なんか既視感あるんだけど(笑)

 

政夫:そこに、映像表現だけじゃなくて、聴覚的情報とその芸術性や表現力や想像力といったものを掻き立てるから、単純に映像表現という文脈での映画としては語れない。音楽的体験としての文脈も語れるから、単純に言語化する上で幾つもののコンテクスト(とレイヤー)がある中で、各々が選びやすいコンテクストが身近にあるというかね。例えば、フェスとSNSの相関性とかの話にリンク性があるんでしょうけど…

 

ろこ:感情移入ではないよね。主人公に感情移入しちゃって、とかとは違うよね。

 

政夫:この映画って、フレディ・マーキューリーの自画像(イメージに基づくモザイク的)じゃないですか。フレディになる前とそれ以後が描かれていて、結局は圧倒的であるからこその孤独というか。

 

ろこ:そっちか。

これは聴いた話をそのまま使うんだけど、サンキュー・タツオさんがやっている『東京ポッド許可局』でこの映画の話をしていたんですよ。Queenってアメリカの評論家にウケが良くないけど、お客さん人気がエグイと。この映画自体もそうなっている風に捉えると、この映画も「Queen的」であるという二重構造になっていると。確かにって思ったんだよね。

要はQueenというバンドの浮き沈みと、この映画自体の浮き沈み(バイオリズム的)って「Queenしてる」感じになっちゃっているのではって。なかなかそういうコンテンツってないなと思った。

劇中でも、評論家は良くない風に描かれていたじゃん。評論家が、批評の話になるんだけど、評論家が評価できない作品を作っていたということじゃないですか。お客さんはめっちゃ良いと言っているのに、そういう批評する立場からすれば「ナニコレ?」みたいなコンテンツじゃん。

そこは、凄く納得できたんだよね。その当時は評価できなかったものが、ようやく追い付いてきたという話かな。

 

政夫:頭デッカチな評論家を揶揄する話ですか?客は感覚的に分かっているし。

 

ろこ:それと、歌自体が批評できないものなんじゃないかなって。フレディが伝えたかったことはそんなことじゃないよって。

でも、Queen自体の作曲方法も批評家が居なかったら生まれていないと思うんだよね。

 

政夫:それは当たり前ですよ。だって、コンテンツだけじゃなくて、批評があるからこそコンテンツが豊かになるし、コンテンツがあるからこそ批評も豊かになるという当たり前の共犯関係ですからね。

 

ろこ:進歩する為に批評は必要悪なんだよね。ただ、それが今あまり求められていないというのをサンキュー・タツオさんが言っていたんだよね。なんか勿体無いって思った。

 

政夫:あー、そっちの話をしたいわけですね。『ボヘミアン・ラプソディ』の話を置いといて(笑)

 

ろこ:ちょっとズレちゃったかな。

 

政夫:単純に評論が読めない人間が増えているだけだと思いますよ。

 

ろこ:読めないの一個手前。

 

政夫:文章2行以上読めない人間が増えているだけですよ(笑)

 

ろこ:そんなことない(笑)読解という意味?

 

政夫:そうですね。重い情報が嫌悪されて、軽い情報に集約されてしまっているとか。ネットニュース、ヤフーを見れば一目瞭然ですけど、中身の無いニュースが「ニュース」として羅列されているだけですよ。ネットニュースって(あのフォーマットが最適化されてしまっている事実)。圧倒的な情報社会のスピード感に負けてしまっている。重たさが弊害になってしまって、軽さ=スピードが命になってしまいすぎている。

 

ろこ:ちょっと危険なワード使ったら弾かれちゃうというのは、批評できないのでは。

 

政夫:紙媒体なら爆弾的なことを書いても後々に回収できるんですけど、ウェブ媒体だとそこだけ切り取って、後は読まない奴がいる(笑)だから、文章2行以上読めない奴が多いというのはそういうことで。

 

ろこ:その場にいるのに、簡略化しちゃうというのは…

 

政夫:簡略化しますよ。みんなメールなんてしないでしょ。LINEでしょみたいな。短いのが善なんですよ。

 

ろこ:僕らはマイノリティということ?

 

政夫:はい。僕らが長文メールをやっているのはマイノリティですよ(笑)

 

ろこ:(笑)よく二人で遣り取りしているのもそうだけど、映画観てどうこうというよりも、映画観た後どうアクション取るかで、自分のコンテクストを拡張してく方が幸せなのかなって。

 

政夫:『ボヘミアン・ラプソディ』を踏み台にして、そういう話をしたいんですね(笑)

 

ろこ:違うよ(笑)

 

政夫:確かに批評みたいな話ですけど、批評自体が力を失っているのは事実で、それは単純に自分に見える世界ですよね。

例えばアマゾンとかで、オススメ商品の情報が毎日届くじゃないですか。要するにノイズカットされたエンドレス・ミーな世界ですよね。それで、圧倒的に自分の思うように情報が入ってきてその他を遮断していれば、自然と情報は軽くなっていくんですよ。自分の好きなものしかオートマティックに入るシステムだから、スピード化されていくんですよね。瞬発的に、インスタントに思考できるのは当然で。

 

ろこ:それは想像力が無くなるよね。

 

政夫:そういうのに嫌気が差したから、宇野常寛さんは「遅いインターネット計画」を打ち出しているわけじゃないですか。今のツイッター言論、ツイッターが言論空間とはとても呼べないですが、ただの大喜利大会(若干のユーモアで世相を斬って和らげることで本質から距離を取るだけ=オードリー若林正恭のいう「ナナメ」)なので。

 

ろこ:俺は改めてそこを思ったよ。『ボヘミアン』がヒットしている裏側で(批評について)。

 

政夫:『ボヘミアン・ラプソディ』は語り難いというか、実際は語れるんだけど、あまり術を持たない人でも音楽体験を通じて感覚的に伝播していく。感動していくというのが現象化の要因じゃないですか。

ろこさんが『ボヘミアン・ラプソディ』を引き合いに出して、そのような屈託を抱え込むのは当然のアレルギーというか反発なのかもしれない。体感したものを、享受したものを次の体感に繋げていく時に違和感がある人と無い人がいて、違和感がある人は一旦立ち止まれる。確かに『ボヘミアン・ラプソディ』というのは語り難いと言いながらも30分も1時間も語れるだけの内容にはなっているんですが、える・ろこの蟻地獄にハマって批評空間の話になってしまっているのが(笑)

体感を体感として通り過ぎていくのに飽きた人、物足りなさを覚える人はいるでしょ、ろこさんみたいに。

 

ろこ:『東京ポッド許可局』の結論は、批評の反対は感動だと。

 

政夫:それを削ぎ落していく作業みたいなのはありますよね。

 

ろこ:実際俺は感動した人間だから、この曲ロックやなとか。だから「語る」のがどうなんかなって。

 

政夫:「語ろう」じゃなくて「感じろ」みたいな映画ではありますよ。超ザックリに言えば。

 

ろこ:究極的にね。

 

政夫:映画を観に行ったのに、ライブを観に行ってしまった感覚はそこで。だから俺は何を求めていたのか分からないと自問していたのがそこで。

なんで感動したのかって、どう感動の解像度を上げていく作業って、野暮なんでしょうね。感動を解体していく作業だから。批評という言語感覚というのは。

でも批評があるからこそ、(そこだけだった)感動を乗り越えて、また一つ豊かになるのが批評とか言論空間の素晴らしさだから。

よく言われているのは、批評というのは世界の観方を変える装置なんですよね。そういうのが失われてしまっているのは事実で、インターネットが速すぎるから批評の重たさが敬遠されてしまうのも一つの要因でしょうし、単純に…まあ、ハイ(笑)

 

ろこ:(笑)

 

政夫『ボヘミアン・ラプソディ』の話に戻していいですか?

 

ろこ:戻してください(笑)

 

政夫:こういう話をするつもりじゃなかったのに(笑)

フレディ・マーキューリーのカッコよさのイメージの向こう側を丁寧に描いていますよね。フレディ・マーキューリー以前の(何者にもなれていない)彼は、「フレディ・マーキューリー」になりたかったわけですけど、変身願望なんですよね。Queenというサクセスストーリー込みでの。変身なんですよ。ザンジバル出身の青年が「フレディ・マーキューリー」になる変身です。音楽による変身願望で。

 

ろこ:そこは凄い寂しいなって思っちゃったよね。

 

政夫:自分探し系の話ですよ(笑)アイデンティティとして。

「フレディ・マーキューリー」以前の何者でもない彼が、「フレディ・マーキューリー」という変身を成し遂げた後に、それでも癒えぬ孤独というものをどうにかして埋め合わせていくものはバンドという形態の疑似家族であったり、友人や恋人とか。あるいは本物の家族との、今まで目を背けてきた自分のルーツに対してコンプレックスがあったフレディ・マーキューリーが自分を見詰め直して、「自分探し」を経た上で自分を肯定していく。フレディの生きるエネルギーを追体験していく映画じゃないですか。

だから彼に感情移入、ライドして観るというよりも、フレディを通して、フレディ・マーキューリーという圧倒的な才能の持ち主でも弱くて脆くて自分探ししているんだよと。自分というものが好きじゃないんだけど、自己肯定へ繋げていく物語をQueenに乗せている。

だから、Queenの物語は、フレディ・マーキュリーの物語でもあるというのは『ボヘミアン・ラプソディ』での描き方そのもので。

 

ろこ:「ボヘミアン・ラプソディ」の歌詞を調べたのよ。誰々を殺したっていきなり。自分の過去を殺したというニュアンスなんだよね。後半にI don't want to dieってあって、これはフレディ自身じゃないですか。あの時って、死ぬことは予見されていたっけ?

 

政夫:エイズの発覚やメンバーに教えるタイミングは改変されています。史実通りではないという批判があるのはそこで。

 

ろこ:でも、構成的にライブ・エイドで「ボヘミアン・ラプソディ」を歌った意味は、俺は銀杏を思い出してしまった(笑)

 

政夫:知らねーよ(笑)

 

ろこ:あー、峯田さんも死にたくなかったんだなって(笑)すみません、自己投影しちゃって。

 

政夫:家族への負い目を抱えているフレディが、バンドという疑似家族にコミットしていくのはサクセスストーリー(Queen的)だから必然的であるんだけど、どこか片隅には「家族」があるんでしょうね。

 

ろこ:家族だと最後のシーンも良かったね。

 

政夫:ライブのシーンで父親を一切映さないのが僕は良かったなと思います。父親がテンション上がって、涙を流しているシーンとか撮らないで、撮り易い素材なんだけど、撮らないことでこっちに想像させる。

 

ろこ:センスやな。この映画、8年掛かっているんだよね。

 

政夫:色々あったらしいですね。監督交代とか。

 

ろこ:そこでドキュメンタリーじゃなくても、映像として成立させているのは凄いよね…。

 

政夫:え、『ボヘミアン』感想終わりですか(笑)話したいことまだあったんじゃないですか?

 

ろこ:あるある。

Queenとして売れてから、ソロになるところでの喧嘩別れするシーン、闇落ち的な方向に行くじゃん。そこが、孤独や葛藤があって、あれだけ才能がある人でも、かつての名前を捨てて何者かに成らないといけないというのはキツかったと思う。天才ゆえの孤独というのは分からないじゃん。そこの両立というかね、自分の才能と個人的な幸せのバランス感覚ね。改めて凄いなって思ったよ。

 

政夫:ちょっと一瞬、『ボヘミアン・ラプソディ』から関係ない話を始めるんですけど、いいですか。

 

ろこ:俺はもうしたからな(笑)

 

政夫:おあいこで(笑)昨夜にめでたく放送が終了した『SSSS.GRIDMAN』というアニメがありまして。

 

ろこ:アニメですか…?

 

政夫:はい。これ、『ボヘミアン・ラプソディ』と関係ある話ですから。

 

ろこ:聞きましょう。

 

政夫:『GRIDMAN』というアニメが終わったんですよ。僕たちの世代の小さい頃に放送されていた円谷プロの特撮モノなんですけど、それをアニメ化したものなんですよね。是非ともWOWOWオンデマンドで全12話だから観て欲しいんですけど。昨日、最終回を経て、『ボヘミアン・ラプソディ』と繋がったんですよね(笑)

 

ろこ:どこで(笑)

 

政夫:新条アカネちゃんという子がいまして。アカネちゃんが怪獣を作っているんです。で、神様なんですよ。

要は歪んだ女の子の自意識を巡る(ループ構造的)話なんですよね。どうやって、その自意識を救済するのかという話なんですよ『GRIDMAN』は。

アカネちゃんは神様であり、怪獣を作っている張本人で、自分の住みやすい世界、生きやすい世界というものを自分で作ってしまった。だから神様なんですよ。要するに理想郷への引きこもりなんですよね、アカネちゃんのやっていることは。ユートピアなんです。

アカネちゃんにとって『GRIDMAN』で描かれている世界はユートピアなんですけど、段々苦しくなっていく。その苦しみが怪獣を生んでいくことになるんだけど、なんで神様なのにストレスを感じているの?という問いがあって、自分の住みやすい(ノイズカットされたはず)世界じゃないの?って。

これって『ボヘミアン・ラプソディ』でもあったように、フレディのソロプロジェクトのシーンでのミュンヘンのメンバーを集めたけど、クソだったぜ!に繋がる。ミュンヘンのメンバーを集めたけど、あいつら全員、俺の言い成りで全然つまらないという話として、自分のやり易い環境だけだとクソ環境的になってしまうんですよね。

どうやって、そこから脱け出すかという話なんです。『GRIDMAN』も(だから「覚醒」)『ボヘミアン・ラプソディ』でも、フレディのソロから疑似家族というクイーンに戻っていく流れがあって。

 

ろこ:大筋はね。

 

政夫:『GRIDMAN』は仮想世界モノなんですよね。

で、今流行っている異世界モノがあって。異世界モノって、そのままの自分を異世界にインストールしてプレイする、「ゲーム的」な発想なんですよ。あんまり努力したくないんです。ありのままの自分を受け容れてくれる世界があり、本質的には何も変わっていないんだけど、そのままインストールしただけだから、でも現実世界ではなんてことは無かった自分が、その世界(異世界)では超優遇されている、スペック過多でみたいな夢物語のような装置なんですよね。本当にザックリした話をしましたけど、大まかな願望なんですよ。異世界の憧れは変身願望なんですよ。

アカネちゃんがやっているのも、現実が辛いから、仮想世界で自分の住みやすい世界を創り上げ、ユートピアとしてそこで神様のように振る舞うという、アカネちゃんの歪んだ自意識や変身願望をそのまま投影した結果が仮想世界そのものなんですよ。

 

ろこ:なんとか付いていっている。

 

政夫:『GRIDMAN』がやっているのは、最後は「居るべきところに居ろ」という「現実」の話をするんですよ。

でも、そこに逃げたい(耽溺したい)という世界がある。僕らでいう虚構であり、フィクションですよ。

『GRIDMAN』が提示したものは、「オタクとアニメ・特撮と現実」の関係性の表面化であり、アニメばっか観ていないで現実観ろよ!という『エヴァ』的なものからの発展形(返答)で、でもアニメばっかり観ていたくて、逃げ込みたい世界があるというのは、メタファーとしては深夜アニメの想像力そのものでもあったりするんですよ。

ここまでは大丈夫ですか?そんな難しい話をしていないから…。

 

ろこ:十分、難しいですよ(笑)

 

政夫:フレディの変身願望というのは、「音楽の娼婦」になることで、ロックとクイーンという疑似家族を得て、自分を捉え直す。現実のまま現実を肯定する力強さが『ボヘミアン・ラプソディ』の強さになるんですよ。色々あって、フレディ・マーキューリーは凄いボロボロになったけど、フィクションとかに逃げ込まないで現実を受け容れて、現実のまま自分を変えて、現実(世界)も変えたじゃないですか。

でも、みんながみんな、フレディにはなれないんですよ。当たり前だけど。

だから、弱い人間というか、アカネちゃんは僕らは何処かに逃げ込みたい世界があるんですよ。一つには深夜アニメ的なものだったりするんですけど、『GRIDMAN』は仮想世界なんですよね。

つまり、虚構に一旦仮託するんですよ。祈りであり、願いなんですよ。そこを経て、現実に戻ってこいや!帰ってこい!というメタメッセージとして、君たちは現実で生きないとダメなんだよというのを、アニメばっかり観ていないで現実観ろや!とやったのが『エヴァ』で…という理解でいいですよ今は(笑)

 

ろこ:分かり易い(笑)

 

政夫:でも、アニメとかに逃げちゃう人は多いんですよ。みんなが現実のまま現実を捉え直すことは出来ないんですよ、フレディみたいに。

ある種、虚構に仮託する、耽溺することでの祈りが、虚構を経て現実に立ち返る際の助走となって、それが救済措置として働くのが虚構の力じゃないですか。そこがフィクションの可能性だと思うんですよ。力というか想像力の豊かさというか。

だって、虚構は現実に勝てないという事実があるわけじゃないですか。いくら虚構が充実してようが、僕らの現実は変わらないんですよ。でも、虚構に仮託することで、耽溺することで、現実で傷付いた僕らは何かしらが癒えるんですよ。

『GRIDMAN』は最終的に虚構であることを真摯に描きまくった。これは虚構ですよアピールをめちゃめちゃした。そういう演出をしてしまった。それをやることで、必然的に現実への目線や輪郭が際立ってしまう。あ、これってフィクションなんだなって(メタ的に)なっちゃうんですよ。リアリティが無いとかそういう話じゃなくて、(メタ構造的に)作中の世界と僕らが生きる世界というものは、どこかしら繋がっていそうなんだけど(演出がありました)、だからこそ作中で描かれたものに僕らは共感するわけですよ。

それが偽物だろうが本物だろうが(アンチ君を巡る「本物ー偽物」論からの展開として、「本物≒現実ー偽物≒虚構」という存在性よりも主観によって決定する意思の強さ=六花とアカネの関係性が『GRIDMAN』という虚構の中の話として、有限性の生きる力が「偽物や本物」を再構築していく)、結果的に僕たちを豊かにするし、僕らが生きる現実、この世界だけじゃない、虚構なんですけど他にも世界はあるんだよと豊かさや可能性はあるんだよと提示するのが虚構の持つ力なんですよ。その一部が崩れてしまう虚構の臨界点的な描き方が、現実を突き付けてしまう『エヴァ』だったりしたんです。フィクションの一つの限界でもあったんです。

『GRIDMAN』は『エヴァ』の延長線にあるんだけど、それっぽいことをやっちゃったけど、それとは全くメッセージ性が違くて。

ある種、虚構への耽溺は逃避的であり、モラトリアム的であったりするんだけど、それは一つの弱さなんだけど、他者性、友情とかも含めた関係性で乗り越えていくドラマツルギーがあり(メタ的には作品とオタクの距離感も他者性で以て乗り越えていく)、例えば『少年ジャンプ』的だったりとか、僕らは勇気とか元気を貰うじゃないですか。

でも、それは偽物であるし、虚構でしかないよねという演出を『GRIDMAN』は確信犯的にやった。絶対的な現実という尺度を、虚構の世界に持ち込むことで新たに世界を構築させて、「覚醒」させる手法を最終回にやったわけです。

これって『エヴァ』の、お前らアニメ観ていないで現実に戻ってこい!と何が違うのかというと、作中で描かれたありふれたダラダラしたリアルな日常風景が、それが結局真摯に描けば描くほどリアルなんだけど、最終回の卓袱台返しによって「あれは偽物」なんだなって、虚構に過ぎないんだねという突き放され方が一瞬生じるんですが(偽物や虚構自体を捉える本質性よりも、主観的意思決定で「世界」は変わるため)、キャラや世界、特撮のヒーローや怪獣は虚構だからこそ描けて、好きなアニメやマンガや特撮の想像力によって僕らは救われるんだよねと『GRIDMAN』は描いた。

フィクションなんだけど、フィクションの持つ力で、現実に帰れ!と言っても、とは言っても…僕たちはこれによって救われるよねという温かさがある。

1995年『エヴァ』の「現実に帰れ」から、2018年は居るべきところに居ないとダメだけど、現実的な問題として、とはいっても逃げ込みたい時だってあるじゃんと。その時に逃げてもいいけど、どうやって現実を生きるか。その力として俺たち(虚構であり、『GRIDMAN』でいえばヒーローやキャラの存在)を思い出して頑張ってくれよ!という特撮の描き方そのものなんですけど。

 

ろこ:逃げんなよ!ということじゃないですか?

 

政夫:逃げんなよ!じゃなくて、頑張れよ!ですね。『エヴァ』は逃げんなよ!なんですけど。『GRIDMAN』は(俺たちもいるから)現実で頑張れよ!です。

 

ろこ:物語的には、その仮想世界は消えたのか?

 

政夫:消えていないです。

 

ろこ:並行ということ?

 

政夫:一つの世界としてあるんだろうなという描かれ方がされていて、現実に帰ってくる(送り出して貰う)様になっている。『GRIDMAN』はアカネちゃんが救われる話です。彼女を救ったのは虚構のヒーローなんですよ。そのアカネちゃんが最後、現実に帰るという。

虚構の想像力が、現実の女の子の夢を醒まして、ユートピアに逃げ込んだ彼女を「覚醒」させたのが『GRIDMAN』なんですけど、結局コンテンツを摂取する人って、リアルが超充実していれば摂取する理由がない。リアルの前には勝てないんですよ、フィクションは。

でも、みんながみんな、フレディ・マーキュリーのように現実のまま現実を受け容れて現実を変えられるわけじゃない。

だから虚構の世界に行ったりするんですよ。異世界転生とか願ったりするんですよ。リアルのままリアルを変えて自己肯定へ繋げていくフレディの力強さに対して、みんながみんなそうはなれないよねとありながら、じゃあどうやって僕たちはフレディのような力強さを手に入れられるかというと、フレディみたいにリアルのままは難しいけど、虚構を一度通過することで救われるアカネちゃんパターンもあるよねって。それが本来のサブカルチャーの想像力なんじゃないのって。

作品を通した魂の救済云々は辻村深月の『スロウハイツの神様』という超傑作小説があるんですけど、まんまそれなんですよね。確かにフィクションなんてくだらないけど、フィクションによって救われる魂もあるんだよコンチクショー!みたいな話なんです『スロウハイツの神様』は。

 

ろこ:俺が読んでもいけそう?

 

政夫:全然いけます。コンプレックスがあって、フィクションによって癒されてきた弱者であればあるほど、『スロウハイツの神様』は人の心を捕らえてしまうし、『GRIDMAN』がやっているのもそれ。

長々と話しましたが、『ボヘミアン・ラプソディ』は史実通りではない改変があったり、演出的な誇張があるのは映画だからあるんですけど、伝記映画だから事実なんですよね。Queenというバンドのリアルなんですよ。リアルのままリアルに立ち向かった人の強さというのは、『ボヘミアン・ラプソディ』の強さなんだろうなって。

 

ろこ:強度ね。

 

政夫:でも、みんながみんなはそうはなれないよねって。だから、フレディにライドはできない人もいるよね、という話になるわけじゃないですか。

 

ろこ:そうだね。

 

政夫:じゃあ、どうすればいいのって人は『GRIDMAN』を観るしかないんですよ(笑)でも、それによって救われるんですよ。

 

ろこ:アカネちゃんみたいに。

 

政夫:ちょっと『GRIDMAN』パートが長くなって…なんか繋がっている?というか大丈夫でしたよね…(笑)

 

ろこ:うんうん。

 

政夫:ノンフィクションの強さは虚構を経由しない強さですよね。

勿論、フレディも逃げていますよ。バンドや家族や恋人の問題から目を背けたりはしていますよ。パーティーの乱痴気で誤魔化したりしていますけど、焦燥感があったりするわけじゃないですか。だから完璧超人というのは居なくて。

フレディ・マーキューリーという圧倒的な才能でさえも、あそこまで追い込まれてしまう、追い込んでしまうというリスクは常々孕んでいるわけですけど、それがリアルとしてあったんだなってのが伝記映画の強さで。

 

ろこ:そうだね。

 

政夫:誤解しないで欲しいのは、フィクションが馬鹿らしいという話はしていないです。フィクションがあるからこそ心が豊かになるんだよという話をしているわけで。

 

ろこ:まあ、でも…。

 

政夫:ろこさんの問題は『エヴァ』を観るところからなんでしょうね(笑)

 

ろこ:何年前よ(笑)

 

政夫:テレビは95年ですね。

 

ろこ:平成が終わるのよ。

 

政夫:平成が終わるのに『エヴァ』の話をしているから、完全にオジサンですね(笑)エヴァンゲリオン・オジサンですね。

 

ろこ:アカネちゃんは(心が)もったの?

 

政夫:もたないです。壊れます。

 

ろこ:壊れそうな場合はどうしたらいいのよ。

 

政夫:壊れてしまった少女を(虚構のヒーローや友達が)救う話ですから。

 

ろこ:Queenも、辛いけど生きていこうぜを歌っているイメージだから。

 

政夫:基本的に現実は辛いんですよ(笑)

かつての文豪は小説に落とし込んでいたわけじゃないですか。近代の不幸は自我ですよ。自我の発見。文豪が小説に落とし込んでいた技法や表現が、僕らには当たり前になってしまって、古典や名作を読んだ時に普遍的なのはそういう所以ですし、かつてのインテリたちが抱え込んでいた悩みみたいなのは、僕らがツイッターの鍵垢での深夜に病みツイートをしているのと同じような自意識レベル(複数垢によるペルソナの解決と思春期みたいな「本物」の自分探し的コンプレックスとか)ですよ(笑)

自意識は面倒くさい。俺たち自意識ボーイズ(笑)

 

ろこ:おおたまラジオから、そっちに改名するか。

 

政夫:やめて下さい(笑)

 

※この記事は12月に配信したものの一部を文字起こししたものです

おおたまラジオ第5回前半戦『ボヘミアン・ラプソディ』/批評という言論/『SSSS.GRIDMAN』を交えつつ: おおたまラジオ

 

 

 

 

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