おおたまラジオ

しまいには世の中が真っ赤になった。

森田るい『我らコンタクティ』感想 ロマンと現実を巡る功罪

 

我らコンタクティ (アフタヌーンKC)

我らコンタクティ (アフタヌーンKC)

 

『我らコンタクティ』とは何なのか?

と問われれば、私は「ロマンの功罪」だと答えることだろう。

それは言い換えるならば「光の功罪」でもある。

光があれば、影もできる。光と影の表裏一体性。

印象的な着火シーンが幾つも本作にはある。

例えば、エンジンの燃焼実験シーン。梨穂子が万札に火を着けるシーン。工場内での小火シーン。ロケットの発進シーン。

どれも人の心に火が着く象徴となっている。火の煌めき(火偏!)は魅力的でありながらも、その功罪という両義性も垣間見えるようにキャラやコマ内の輝きと陰影が配置されている。

火=光のアンビバレントさでいえば、カナエはポジティブな意味で魅せられたキャラであるし、一方で梨穂子はネガティブな意味で魅せられている。

そして、ラストが象徴的であるようにカナエも常にポジティブな火=光が当たるわけでもなく、現実的な対応が迫られたように、一面性というのは刻々と変化することも描かれている。

その両義性はロマンには付き物に違いなく、ロマンの光の側面だけをみれば万事幸せなのかもしれない。本作の、法的に、あるいは慣習的に行き過ぎた結果が本作の最終話で示されている結末だと簡単に述べることはできるが、しかし、それだけでもない。

不思議な作品だと思う。

計算高いカナエが、技術者のかずきを上手く利用して一攫千金を狙うかのような導入から、ロマンに導かれて思わぬ方向に物語は展開していく。

カナエとかずきは決して選ばれた者でもなければ、〝持つ者〟でもない。うだつの上がらないクソ環境で淡々と日常を送っているとも言える。

カナエがかずきのロマンに乗っかり、打算的な態度を示していたが、内在的にロマンを獲得していく姿勢の変化がある。あくまでも他人の夢で、儲け話程度に捉えていたロマンが、自身の夢の一つになっていくことで、当初のカナエが抱いていたであろう現実的に、合理的な金銭への交換ではなく、それを超越した結果(現実としては合理的であるが、カナエにとっては不利益となる事実)を甘んじて受け容れる態度にキャラの単一的な成長ではない、変化として描かれていることが分かる。

現実として彼女たちは逮捕されて作品は終わるので、アン・ハッピーエンドのように受け取れるが、ロマンの目的は達成しているために、現実を超克してしまった彼女たちのリアルが提示されている。単純にハッピーエンドやアン・ハッピーエンドと括れない魅力があり、その綱渡り様な両面性こそが『我らコンタクティ』が根底として宿しているマンガの上手さから誘発される物語=情報の魔力ではないだろうか。

この作品は、非リアがリア充になった末を描いているとも受け取れる。

青春に年齢は関係ない。青春に早いも遅いもないのは明白だ。

リア充になるかどうかは、ありきたりな日常風景にどのようにロマンを獲得するかが問われる。ロマンがあれば日常が彩る。充実する。

そのようなロマンは内的(心理)や外的(物理)と分けられるが、本作では宇宙空間にロケットを飛ばし、映画を上映することが目的であるから明らかに物理的な欲望となる。

その実現のために奔走する彼女たちのドタバタ劇であるが、この作品世界はとても狭い。ローカルでミクロな世界観である。決して対立する大企業や国家が出てくるわけでもない。地方の、民間の、下町工場が勝手にロケットを打ち上げるという倫理や法的拘束を度外視して行き切ってしまうロマンであり(端から見ればロマンの暴走)、その功罪を丁寧に描き切ったといえるのではないだろうか。

日常においてロマンを獲得することはリア充になる秘訣であり、どのようにロマンを昇華していくことが求められていく。

同時に距離感が図られていくことだろう。宇宙=ロマンまでの距離のみならず、カナエたちを取り巻く人間関係の距離感(第1~3話)やロマンと現実の距離感(エネルギー問題、金銭問題、打ち上げ問題といった現実との対立)を極々ローカルな世界観のみで示されており、それぞれの距離感が縮小しても、ロマンの規模に比べてキャラの数は段々と仲間が加わっていく構成にしてもそれほど多くなく、狭い内輪の物語だといえる(かずきの動機が宇宙人に映画を見せたいものであるから必然的な狭さであるが)。

この作品は「ロマンの功罪」であると冒頭に記した。

誤解を生みやすい表現であるが、ロマンと現実の衝突から教訓的に描いているわけでもなければ、ロマンが現実的に回収されるカナエたちの後始末を説教臭く描いているわけでもない。況してやロマンに身を委ねたカナエたちの破滅の美学といった高尚なものでもない。

本作のロマンは、映画という娯楽を森田るいの言葉を借りれば「宇宙に逃がした」という果てしなさにある。

それをドラマとして完結させた。

PC的にアウトであるとかの現実的なツッコミもありつつも、ロマンとして、物語として読ませたことに意味があると考える。このような閉塞的な空気感がある現代において、その空気の殻を破る代表的な作品とまでは言わなくとも、また社会反映論的にその気分を大いに表現しているとも言わなくとも、何かしらの大きな空気に接続させる(ここでは横柄な接続と書く)ものでもなく、現実という尺度で作品価値を図ってしまいがちな固定観念に対して、「ロマンの功罪」という点において「宇宙に逃がした」結果が齎す意味は計り知れない。

以下から具体的に各話毎に見ていこう。

第1話 仕事をやめられるかもの巻

冒頭から会社の飲み会でセクハラ、パワハラを受けているカナエの悲惨さが印象的な始まりが描かれている。このコマ内の情報だけで牽引力がある出足になっているのではないだろうか。

P.4の場末のネオン街に「ろくでなし」と読めなくもない看板があるのがユーモアが効いており、カナエの心理状況と風景が一致している。

夜の闇と光が対照的に、流れていく車の光に思わず独白するカナエ。

きれいだな

このモノローグは、コマとコマの間に配置されており、キャラの脳内思考そのものをフキダシで表現することはあっても、コマとコマの間に置く、完全なモノローグは本作では相当珍しい。これは、コマとコマのエアポケットをそのまま使用したコマ割りであり、カナエの心のスキマという心的表現をしているためだと考えられる。

ろくでもない日常に対して足取りが重そうなカナエは当然目線が下向きであり、だからこそ、歩道橋の下を走っている車の光の線に気付くといった目線の自然な運動性がある。

その直後にかずきと再会するものの、ストーカー疑惑が持ち上がり、ダッシュで逃げるカナエ。慌てて逃げたために足を踏み外したのをカナエの右手をかずきが掴んだのがP.8

そこから歩道橋にいた二人が、P.9ではかずきの工場内と場面転換が行われている。

かずきの工場から歩道橋を見るカナエ。かずきの発言に偽りが無いことが示されているが、歩道橋と車と工場のそれぞれの光と位置関係=距離感を示すシーンとなっている。

本作はとてもローカルな話で、舞台は工場と自宅とオフィスと場末のクラブと歩道橋であり、カナエとかずきは地元に住み続けているのが分かる。小学校時代の同級生が出会う必然性を考えれば、地元という土着性は必要になるからだ。

P.12 燃焼実験のシーンでは、見事に光と影がマンガ的に表現されている。

『我らコンタクティ』は夜の風景が多く、自然と灯に対して陰影が付きやすいコントラストな状況が描かれている。それは上記のような両義性を提示しているとも受け取れる。実験後のカナエの白目がインパクトが効いており、白と黒というモノクロ表現で、どれだけ色彩的な豊かさと奥行きを生み出せるか、とそのショックを表現できるかという意味において、コントラストが明確になっている。

燃焼実験後、ロケット開発が金になりそうで会社を辞められるかもしれないという予感を抱くカナエ(P.15)。エンジンがクリアに描かれず、光として描かれているのが象徴的で、つまり目印や希望を意味する。

この時点では、かずきのロケットを打ち上げる目的は明かされておらず、カナエにとっては儲け話の一つになるかもしれないという可能性の段階でしかなく、どのようにお金を集めて会社(冒頭の飲み会シーン)を辞めるか否かという個人的な現状への対抗案に過ぎない(P.17では、帰宅早々にクラウドファンディングベンチャーキャピタルについて調べているカナエ)。

P.25ではカナエの自尊心が垣間見える。母親にかずきとのデートを疑われたカナエであるが、かずきが恋愛対象外であると撥ね付けている。この物語において恋愛のベクトルは描かれず、仲間の友愛として飾られている。

かずきは変わり者のもやしっ子 友だち一人もいなかった

私は明るく元気でクラスの女子のリーダーだった

つりあうわけがないじゃない

かつてスクールカースト上位であったカナエとボッチのかずきという対比があるが、どちらも地元暮らしで、かずきは勿論のこと、カナエの友達らしきキャラは登場しない。またリーダー的存在だったカナエが、現状のセクハラ会社に不満を溜めているのは冒頭から明らかであり、金さえあれば会社をいつでも辞めるつもりでいる。それは現状の会社に満足しておらず、お金の為に従事しているだけとも取れ、かつてのリーダー的存在から遠く離れた現状のカナエの自尊心や実存性が見えてくる。

そして、かずきを見下ししていたカナエ。もやしっ子であったかずきの面倒を見ていたリーダーという構図から、時が経ち、身長や目線が逆転(P.25)。

P.35で、かずきの口からロケットを飛ばす目的が明かされる。

映写機も一緒に飛ばす

宇宙で上映する

燃焼実験は燃料が勿体無いからしないかずきが、なぜカナエだけに見せたのか。なぜストーキングしていたのか、がこの時点で分かる流れ。

小学3年生の時に学校で観た映画がすごく良く、その翌日に公園でカナエとかずきがUFOに遭遇した思い出のロマンチシズムが動機だった。

P.38のかずきの「UFO」というコマの構図。

「UFO」のフキダシに対して、二人の距離とミドルの構図。突拍子もないファンタジーなことを言ってのけたかずきのセリフの滑稽さと、全体を捉えるようなコマによって独特のテンポが生じている。

小学3年生時代の思い出からずっとロマンを抱いていたかずきの真面目な狂信的態度と、果てしない欲望のギャップが明らかになったシーン。

ここで、森田るいのあとがきを引用すると。

私は映画が好きで、人類が滅んでも地球がなくなっても映画だけはのこってほしいという欲求から、映画を宇宙に逃がしました。

かずきの動機は映画を介した宇宙人へのメッセージとコミュニケーションであり、厳密にキャラと作者の動機は当然一致しない。森田るいが述べているように、宇宙人云々よりも映画という文化を保存するための措置として、どのように物語に落とし込むかという思考実験が、かずきのような動機が物語的な意味になったと考えられる。

ここで重要なのは、森田るい自身が宇宙人の存在を信じている・信じていないではなく、「映画を宇宙に逃がす」ためのロマン=目的を物語として成立させるためには、宇宙人へのメッセージというかずきのロマンへと変換した方が面白いということだ。

まぶしかったね

P.41~42では、工場内でのかずきの作業を眺めるカナエの顔に光が当たるシーンから、小学3年生時代の回想のUFO自体は明確に描かれなくとも、強烈な光が上部から照らされているという光の連続のシーンがある。

ロマンの神々しい光が、時間を超えて、小学3年生時代とイマをリンクさせるかのように映し出している。

第2話 八百屋お七で危機一髪!の巻

カナエは仕事を辞めずに仕事終わりそのまま真っ直ぐに工場へ。

今日 何 手伝えばい――?

カナエちゃんは来ないのがいちばん いい

この遣り取りからみても、第1話から数日は経ち、カナエは毎日のように通っているように受け取れる。

持ち上がるのはエネルギー問題。

どのようにエネルギーを獲得し、充足していくのか。ソーラーやケーブルは太陽系外へ飛ばすことを考慮すると現実的ではない。太陽系外というスケールに比例するエネルギーという現実的な問題である。なぜ太陽系外なのかは、UFOとの遭遇率を上げるためと他の人間に見付からないようにするためという極秘プロジェクトであるから。燃焼実験を見ているのも、カナエとかずきというロマンの規模に比べて少人数。理由はUFOを見たのがその二人だから。

ここで分かるのは、二人は同じ記憶と体験を共有する同士であり、仲間であること。この作品には前述のように性愛的描写はなく、あるいは単なる男女の友情物語に落ち着くものでもない。同じロマンを目指す同士としてカナエとかずきが描かれている。

P.50 夕飯を食べに工場から外に出ていくカナエとかずき。次のページでは2コマ分移動して、梨穂子のいる「みず色クラブ」に辿り着く。このローカルさと近さが印象的であるが、ここもクラブのネオンが夜景の中で寂しげにぽつんと光っている=目印になっている。

どこ行くの?

お腹すいた ごはん

こんなへんぴなとこに食べるとこなんてあんの?

地元民のカナエですら知らない辺鄙な場所に梨穂子のお店はある。

P.53 梨穂子のお店で、結果的にエネルギー問題を解決するモチーフとなるテラリウムを発見したシーン。自己充足しているシステムとして登場し、これが後の梨穂子が自己完結・自己充足していないが故にみせる嫉妬心との対比にも見える。

テッペイと不倫中の梨穂子には表の顔と裏の顔がある。

愛想よく振る舞う表の顔と、嫉妬に駆られ衝動的にお金に火を着けてしまう裏の顔。

この火は情動の表れであり、嫉妬や野心や希望として本作ではモチーフになっている。ポジティブな意味ではロケットのエンジンが代表的だろう。

P.60 カナエがかずきのお使いで外に出るシーン。吹きすさぶ風の中を歩くカナエから、コマの奥にはかずきと再会した歩道橋が見える。その直後にテッペイと梨穂子のゴシップのような不倫現場を目撃する流れであるが、この狭い生活空間から殆ど脱け出していない日常性が見て取れてる。

P.64 梨穂子が一万円札を燃やしている現場に居合わせたカナエ。猛烈に息を吹きかけて鎮火させたカナエは「いらないってことですよね これ 燃やすってことは いらないってことですよね くださいよ」と取り上げるお金への執着は相変わらずの様子。

P.66 梨穂子さんこそ大丈夫? お金だよ?

倫理的な問いかけであるのに、カナエがいうとお金への執着心という側面にしか見えなくもないのが面白い。

現実的にお金を渡せばコントロールできると思っているテッペイと、対抗したい梨穂子の女としてのモラルへの反逆の構図になっており、危ういバランスを感じさせる。

その後、カナエはテッペイからお金を貰ったら私に下さいと述べ(P.68)、代わりに梨穂子にLED焚き火をプレゼントした。このLED焚き火はテラリウムと同じく自己完結・自己充足的なアイテムとして登場している。梨穂子の為を想っての優しき行動であるのに、どうしてもメリットありきな念入りの行動に見えてしまうのがカナエ。

見下したいのよ

お金を渡すことで優位に立ちたいのよ!!

ちっちゃい男!!

しかし、カナエからプレゼントされたLED焚き火では飽き足りず(P.74では店内一人でいる梨穂子はLEDライトを捨て、万札に火を着けるコマが配置されている)、また酔っているカナエに対して火について熱っぽく語る梨穂子の執着というのが窺える。

ぜんぜん ダメだよ こんなん

ホンモノの火ってーのはねー

こーよ こー

きらめきがちがーの

放火癖とまではいかなくとも、燃える万札を片手に眺める梨穂子の異常性から、火の魅力というのがイコール光として表れている。

前述のように、この火=光の煌めきはネガティブな意味が付与されていると思われる。梨穂子の埋まらない孤独や火を思わず着けてしまう衝動や背徳感。それはまさに不倫と同じようにモラルへの対抗であり、常識的な領域で言えば梨穂子は放火未遂という罰せられてもオカシクナイ暴走をしてしまう。

テッペイの工場に灯油を持っていって火を着けようとするシーンから、テラリウム発電機(P.83)が、梨穂子がモチーフとなったことに感謝するかずきの構図まで、テラリウムの光が梨穂子とかずきの顔半分に当たり、陰影が出来ているところが、光と影の境界線的でもあり、梨穂子の光と影でもある。そのアンビバレントさは、工場に火を着ける動機となる嫉妬であり、孤独でもあった。

楽しそうにやっているカナエやかずき、あるいはテッペイに対して、梨穂子はなぜ自分だけ?という疎外感を抱き、何に対して転嫁すべきか分からない心の闇そのものとして描かれている。その衝動性が思わず火を着けてしまうという理性の暴走に繋がり、他人に転嫁することで自分への痛みを緩和させようとしている梨穂子の問題として表れている。

なんで みんな 楽しそうなの?

私だって 楽しいこと たくさんしてる はずなのに

ずるいよ

P.91も、放火未遂をした梨穂子に対してかずきがドロップキックを喰らわせた後のシーンであるが、梨穂子の顔は工場内の灯が届かない闇夜にあって光が届いていないために暗く、顔から下の身体は工場内の灯が漏れて光が当たっているということから、光と影の境界線が生まれている。

踏ん切りをつけるために、工場の敷地内で小火を起こし、発散のために炎の中にペットボトルを投げ捨てるかずき達。

P.95の梨穂子がペットボトルを捨てるシーンは、火=光に向かって投げる運動性が丁寧に描かれており、それまでの背景が真っ黒=夜だったのに対して大きなコントラストがある。

この第2話から、カナエが仲介役としての距離感を生むバランサーのような機能性が描かれている(第1話の松前社長を工場に案内した際も該当するが)。

例えば、梨穂子のお店で居合わせたテッペイとかずきの間を取り持とうとしたシーン(P.55)。

また、P.84以降のかずきと梨穂子の間に加わるようにコマに登場するカナエのように、それぞれの距離感の間を埋めるようにしてカナエが位置している。

さらにP.97もその一つであり、改心した梨穂子が「自分で解決できる気がしてきた」という台詞はテラリウムやLED焚き火と同じように自己完結を意味している。

第3話 お兄ちゃんと夜明けの巻

あーー直帰

だ~~いすき~~

カナエは仕事終わりにそのままかずきの工場へ。操業中の時間であるから暇を持て余すカナエであるが、テッペイの違う顔を見て「別人のようだな」と思う。

P.108 上っていたバイクから落ちたカナエに手を伸ばすテッペイ。バイクから落ちた音を聞いていたかずきはスルーをしていたが、テッペイは「こないだは俺が悪かったよ」と謝罪もした。

第2話とは打って変わったテッペイの両面性が描かれており、酒癖の悪さはそのまま第3話ラストにも繋がるが、梨穂子にその旨を話す(P.110)と、梨穂子目線でテッペイの両面性について的確に語っているシーンがある。

あ~~~

外ヅラがいいのよね~

そんで外ヅラの方を自分と思ってる ホントはちっちゃいヤツなのにねぇ

梨穂子の両面性が暴かれたのは第2話。

それを経て、梨穂子も自身の弱さや醜さを自覚した上での、このテッペイに関するセリフであるから説得性が高まっている。もちろん、不倫相手だった当事者性という事実もあるわけであるが、第2話を踏まえた梨穂子の経験から語られる外ヅラと内面性の埋まらないギャップは象徴的だろう。

そのままかずきとテッペイの兄弟間のコンプレックスの話を憶測で語る梨穂子。

ヤキモチかなって思うな

テッペイくんは頭カタイし プライド高いから

かずきくんみたいな振る舞いが

うらやましんじゃないかな

小道具として煙草をさり気なく取り出すシーンであるが、火を着けるのはカナエ。

テッペイの心中を推察をする梨穂子に火=光を近づけ、核心を突くべく究明しようとする態度とその目印としての煙草の光が、何気ないコミュニケーションの中でのモチーフとして表現されている(カナエが煙草を吸うのは第1話以来)。

ここで明らかになったのは兄弟間のコンプレックスであり、振る舞いにおける嫉妬や責任の問題。そのストレスから解放されているかずきと、長男として引っ張られてしまうテッペイという図式になっている。その理由を端的に「ヤキモチ」と表現した梨穂子の慧眼だろう。

その後、発電テラリウムが完成し、無事に映写機が回ることが確認が取れたカナエたち。

P.120では映画を観た梨穂子の感想が「ちゃんと映画見れたね」であることから、映画の内容どうこうではなく(映画についてはP99で興味を示している)、テラリウムの出来栄えに関する感想にすり替わっているのが興味深い。

しかし、その理由も音が出ていなかったことがカナエのセリフから分かる構成。

なんで

音 無かったの?

宇宙空間では音が伝わらないからという合理的な理由で削いでいたかずきであるが、宇宙人がどのように音を拾うか分からないのに、況してや人間の持つ常識的な理論ではない相手に対して、人間の都合で可能性を切り取るのは勿体無いのでは、と本質を突くカナエ(最終話P.254のスクリーンでは音が出ているので、この疑問は回収されている)。バカにしていたカナエがクリティカルな問いを発したことで、目から鱗が落ちたかずき。

この常識への問い掛けや疑いという面は、結果的にロマンの功罪を描いた本作の根底にある常識との対立とも受け取れる。

順調に技術システムを完成させているかずき達であったが、現実として立ちはだかる打ち上げ問題へと移行していく。この問題は最終話まで付き纏うものであり、大きな壁として存在していく。

スマホで調べるカナエたち。ここでもスマホの光が目印になっている(P.131ではカナエは食事中や入浴中にも調べ物をしている)。

ブリグズビー・ベア』でも作中で主人公が、映画を作る際にググって調べるシーンがいくつも出てくるように時代性を考えると、スマホやPCが登場するのは自然なことだろう(第1話でクラウド・ファンディングを調べているカナエの姿が描かれていたように)。

P.126 工場を離れて梨穂子の店へ向かう二人。歩道橋がコマの奥に相変わらず配置されており、背景と呼べる建造物は変化していないし、新たに登場することもないローカルさそのままが表れている。

また、暗い夜道が先行きを予感させるように灯=目印が不在のまま歩く二人。

……とはいえ

そーいや 作るのに夢中で

具体的な

打ち上げ手順とか

全然考えてなかった

 

まっしぐらだねー

2人とも

P.132 テッペイがロケットを壊そうとしているシーン。その音で深夜3時に目を覚ますカナエ。カナエの家と工場の距離感が示されている。この作品世界のローカルさが如実に表れている。

何時に何してんだよ

ホントに

こんな 田舎でよォ 

ロケットを壊そうとするテッペイに対してかずきが応戦し、かずきとテッペイの殴り合いが繰り広げられる。

ケンカもまともにできない弟なんて

最悪だよ

俺がいじめてるみたいになんだろが

なんかひとつでも

俺に勝ってくれよ

兄としての責任と威厳が捻じれてコンプレックスになっているテッペイの告白。

仕事や生活というレベルにおいても、楽天的なかずきに対してストレスを抱えており、兄弟ケンカをやるにも弱者相手ではイジメになると零す。つまり、ケンカは対等であるからこそ成立するものであると示されている。

1発の重さは負けるけど 酔ってる兄ちゃんには勝てるよ

あと

他は全部負けても

旋盤も溶接も磨きも俺のが上手い

兄弟としての比較、競争で一人の人間としての生活力では負けているが、一人の技術者としての能力で兄を上回るという自負を覗かせたかずき。その弟のプライドに気付かされたテッペイの顔に光が射す(P.144)。

かずきが技術者としては自立しており、頼られることで兄として確立していたテッペイの寂しさ(かずきに相談された時の嬉しそうなリアクションはP.147)が一つの要因として描かれているが、兄弟間の距離感が印象的である。

結果的に梨穂子の見立ては間違っておらず、テッペイの孤独や両面性が露わになったシーンであり、兄弟という立ち位置の中でどれだけバランスを見出していくのか、その距離感において一人の人間としてどのように自立していくのかが提起されている。

はじめて ケンカできて

今 ちょっと ウレシイ

このセリフは兄弟が、お互いがケンカを経て対等になった証となっている。

また、P.57でケンカをしたことがないと言っていたかずきのセリフと対応しているのは間違いないだろう。

第4話 絶対一緒にの巻

いつの間にか船の免許を取っていたカナエ。

無人島をレンタルしてロケットの打ち上げ計画を進行している様子が描かれている。

同時に付き纏っていたであろう金銭的な問題も、テッペイの尽力によって解決したことが分かり、打ち上げが成功するか否かというローカルな賭博にカナエの母と祖父が参加していることも後々判明するシーンがある(P.170)。

計画のために無人島へ毎週末渡航し、準備や資格習得や要点を抑えることを怠らない熱心なカナエだが、しっかりと儲け話への執着は第1話以降揺らいでいないのが見て取れる。

そんな儲け話

私が思いつきたかった!!

しかし、ロマンに対立する警察が登場するのが第4話。

この警察はイコール現実として描かれており、ロケット=ロマンとの二項対立的モチーフとして成立している。

警察に対して、ロケットのポイントを説明するカナエ。カナエの説明上手なシーンはこれまでも幾つかあった(P.102では営業トークをしているカナエが描かれ、その直後に梨穂子にテラリウムの説明するカナエのシーンがP.116にある)が、オタク気質な安川教授のテンションが上がっているのが印象的である。

これまでロケットの目的の説明をしてもリアクションが薄かった松前社長や警察(P.162)という現実に対して、ロマン派である安川教授だけは理解を示している。前後するが、ロケットを一目見たときの安川教授の「立派なもンですな~~」について、褒められて嬉しそうにしているカナエも描かれているように、一定のロマンの共有が果たされている。

そして、打ち上げの目的について宇宙人に映画を公開するためであることを明らかにしたかずき。それを「異星文明へメッセージ」と飲み込んだ安川教授のロマンへの一定の理解がある。

映画自体はUFOとの邂逅のツールになったものであり、言い換えるならロマンと現実を繋ぐアイテムでもあった。その、それぞれの距離感を媒介するのが映画であり、第2話以降で示されているカナエのようなバランサーの存在が、本作の根底にある距離感を生み出していると考えられる。

だが、当然ながら理解を示した安川教授によってロケットの打ち上げは危険判定を下される。これが後のロマンの暴走、つまり冒頭に記した「ロマンの功罪」へと雪崩れ込むことになるわけであるが、現実とロマンの折衷案としてロケットの目的を一般化させることを提案する安川教授。

しかし、その提案は本来ならば手段でしかない打ち上げることが目的になっており、かずき達のロマンである映画を宇宙人に見せるという目的が排除されているものであった。

ここで、現実的に打ち上げ問題の危機が描かれている。

P.170では帰宅後のカナエがソファーにダイブして不安を口にする。

現実問題として、身近に浮上したロマンの挫折と先行きの不透明さが表れており、その次のページでは朝7時にアラームが鳴り、起床するカナエが「月曜……キライ……」と一人愚痴るシーンがある様に、毎週末無人島に行くルーティンが出来ているカナエにとってはロマンが日常化した週末に対して、月曜というのはロマンが剥奪された当たり障りのない、ロマンから醒めざるを得ない日常が待っていることを意味するが、この直前に警察と安川教授から警告を受けているカナエにとっては、ロマンの危機的状況でありながらも、それでも「月曜日」という日常=仕事が平穏とやってくることに嫌悪感を抱いていることが読める。

その後、ロケットを緊急的に打ち上げようとするカナエ達であるが、尾行と無線を傍受されていたために露見し、未遂という結果で終わる(P178)。

また安川教授からかずきの技術力を見込まれてスカウトされるシーンから、妥協案を示され、承諾するかずきに対して明らかにショックを受けるカナエ。P.182からP.184は、カナエにとってはロマンが打ち砕けた瞬間であり、ロマンを共有していたかずきとの別離あるいは合理的な裏切りによって、目線が下を向いているように描かれ、虚ろとなっている。

P.186 尾行を巻いたかずきとの筆談シーン。

ここで描かれているのは、アナログとデジタルなコミュニケーションの対比である。前者は筆談やテッペイからの手紙。後者は無線や携帯電話。

アナログのコミュニケーションは対面でしか機能せず、だからこそ筆談シーンは象徴的であるが、デジタルは相手の距離感に左右されなくとも成立するという差異がある。

アナログで原始的という意味では、P.194からの海を泳いで島に向かうシーンも同様に身体性が如実に描かれており、先にリードして泳いでいくかずきと後方を泳いで溺れかけるカナエの構図から、小学生時代のヒエラルキーは完全に無化している。

カナエちゃんみたいなバカでも

一緒にやってて楽しかった

ずっと一人だったし

カナエちゃん来て いろいろ変わった

良くなった

ありがとう

初めてカナエに感謝を述べるかずきのシーン。また自己完結していたかずきが、他人との相互作用でかずきの現実が変化していったことについて語っており、カナエとの絆を感じさせる。

カナエが来てからかずきが変わったように、カナエもかずきと再会してから変化した(P241)。

『我らコンタクティ』という作品において、主人公は間違いなくカナエである。

カナエという仲介者によって、それぞれの距離感は変化したからである。梨穂子、テッペイ、ロマンと現実といったように、カナエ自身も淡々と業務をこなし、会社での飲み会ではセクハラやパワハラを受けている。かつてリーダー的存在だったカナエのポジションは大きく異なる抑圧的である現状に対して、ロケットの打ち上げについてかずきをサポートをしつつも、確実にポジションを確立していくことで日常が充実していく様子が読み取れる。ロマンという非日常性が日常に取り込んだら人生は充実する。

しかし、この作品は、その両義性を捉えているために最終話が描かれている。

絶対一緒に打ち上げよう

うん

P.203 無人島を目指すかずきとカナエ。ロマンへの覚悟と宣誓のシーンであり、共にロマンを果たすことをかずきの口から語られたことに意味があるだろう。

無人島にそびえ立つロケットが、ぼんやりと光っている=目印になっている。

最終話 あの映画やってるよの巻

この最終話は大コマの連続で、緊張感と高揚感を実に生み出すクライマックスを飾るに相応しい構成となっている。

やろっか

うん

P.208~209 扉が開いた瞬間に思わず立ち上がるカナエ。P.209は上から二人を捉える構図になっており、中段と下段のコマではかずきとカナエのそれぞれの横顔がアップで描かれている。それぞれの立ち位置と覚悟のシーンから、P.212~P.217までカウントダウンと打ち上げシーンの緊迫感を大コマで表現。

P.214~P.217 ロケットの火の光が圧倒的スケールとして描かれている。

これまでの火=光のシーンとは比較できないほどの強烈な陰影が色濃く表現されており、ロケットの打ち上げ=ロマンの昇華として展開された。

P.219ではロケットの見上げる人々がそれぞのコマで配置されている。梨穂子、テッペイ、カナエの家族、安川教授と黒スーツ、カナエとかずきと順にあり、ローカルな作品世界の全体のキャラ数がこのページ内で収まってしまうという、作品の持つロマンのスケールに反比例するかのようなミクロさが反映しているともいえる。

P.221 警察の船舶の光に照らされるカナエ。さきほどのロケットの光=ロマンの光とは打って変わって「現実の光」が登場する。

これ以降、カナエ達は容疑者になる。

その直後、一時的に取り押さえられるカナエに対して、市民の安全を脅かしたことを問い詰める警察=現実と、ロケット=ロマンの話に夢中な安川教授の対比が描かれている。

P.228 一段目のロケットの回収について知らなかったカナエが明らかになる。ロマンの代償とリスク管理をしていたかずきの技術力の高さが垣間見え、P.167では警察の警告を受けて、周りに配慮することもなく身勝手に今すぐ打ち上げに取り掛かろうとするかずきの暴走が描かれていたのに対して、このシーンではかずきのロマンに付随するエゴではない、他者への思慮という変化が窺える。

海に落として

まんいち人やモノに

被害があった方が

ダメージでかいと

考えて

押し寄せる警察=現実。モニターで見守るカナエとかずき=ロマン。

時間のカウントもあり、緊迫感とスピード感が、宇宙空間のロケットの描写も相まってダイナミックに、そして冷静に描かれている。

P.238 カナエからの現実的な提案が持ち掛けられるシーン。棲み分け、適材適所、あるいは自己犠牲とも読めるが、当初の一攫千金を狙う計算高いカナエからは想像の尽かなかったであろう金銭=現実ではなく、ロマンへの執着という結果で、カナエの現実や日常を超えていることが示されている。

かずきが第4話でカナエと会ってから変わったことに感謝したように、カナエもかずきと再会してから変化したことについて同じように感謝を述べる。その対応関係となっており、キャラの心情として暴露的にならざるを得ない主人公という特性上、況してやかつてのリーダー的存在というポジションを確立していたカナエの転落が現状のポジションであるかのような描かれ方をされているので、巧妙に、合理的に現状を変えるためには大金の獲得という現実的で即物的な欲求は極々自然なものであるために、その現実的な尺度から離れて、ロマンとして昇華したカナエの心的変化と現実との関わり方の変化という意味で一番の成長が見えると思う。

かずき

私も一緒にやってて

楽しかった

全部が変わったよ

ありがとう

最後まで一緒に

やれなくて

ゴメンね

夢の終わり、あるいは醒める瞬間として、現実に対応するカナエ。

逮捕シーンが描かれたP.242はカナエの右手が取り押さえられているのに対して、第1話の歩道橋から落ちそうになったカナエの右手を掴んだかずきの手として描かれており(P.8)、カナエの右手から始まった物語が、同様にカナエの右手で終わろうとしていることを意味する。

P.242 かずきの大声実況。遠くに行ってしまうカナエに届けるために声を張り上げるかずき。最後まで一緒に達成するためにライヴ感を演出しようとしている。

普段のかずきのフキダシは、常に小刻みに歪んでいることから、かずきの声の小ささや性格を表現したものであると考えられるが、このシーンでは対照的なフキダシが選択されていることに、日常性の中の特異点を見出せることだろう

その後、無事にスクリーンが起動。

宇宙空間に映画というメディア=メッセージが残り続ける。

そのことはロマンの昇華から、宇宙というロマンとかずき達のいる地平との距離があり、かずきとカナエの無線の遣り取りも物理的な距離が発生している。

また、UFOとの神秘体験(過去)をキッカケとなったであろう映画という媒体が(未来まで)残り続けるという時間的な距離も描かれており、ロマンをイマ・ココではなく、永遠性に閉じ込めた壮大さが象徴的となっている。

今からずっと

俺らが死んだ後もずっと!

P.254 宇宙空間では音は意味が無いとかずきが言っていたが、カナエの提案に乗っかっていたことが明らかになるように、宇宙空間で「ヒュ~イ~」と音が出ているラストの大コマ。

イマ・ココの現実から遠く離れた宇宙空間というロマンと、イマ・ココのかずきとカナエの「ヒュ~イ~」ダンスが同期的にリンクしており、それぞれの距離はあるにしても(宇宙ー地球、かずきーカナエ)、確かな現実の手触りとしてロマンとの合致と達成が描かれている。

「ヒュ~イ~」が結ぶ身体表現は、かずきとカナエは第1話のラストと最終話が象徴的であり、また第2話のラストでも梨穂子が加わったように、距離を結ぶかのような同期性があるように考えられる。

安川教授は映画を宇宙に飛ばす計画を聞いた際には「異星文明へのメッセージ」として解釈したように、言語や映像からどのような情報をピックアップするか分からない未知なる他者に対して、ヒュ~イ~ダンスという身体表現はキャッチーに映るかもしれない。であるからこそ、この「ヒュ~イ~」は最終話で明らかなように身体的・心理的な距離を媒介する表現としてあり、そのメッセージ性こそが映画的だとも言い換えることも出来るだろう。これらの距離とその同期性こそが、『我らコンタクティ』では功罪として描かれているが、両義性含めた常識への反発や問い掛け、価値判断の変化こそロマンの醍醐味ではないだろうか。

不思議でありながら、紛れもなく完成度の高い作品である。